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2025年4月の3件の記事

2025年4月29日 (火)

海峡風味 幕末的砲声の趨勢

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 相も変わらず、もう五月が面前に迫っているのに、ややこしい寒暖差につきまとわれつづけている今日この頃。
 先だって、対岸の長州馬関=下関に海底トンネルを久しぶりに歩いて渡った。 早めの連休モードなのか、両サイドから歩いて渡る内外の観光客たちの姿が途切れることもなかったが、何故か若者の姿はなく、年輩ばかり。
 エレベーターで昇ると、そこはもう歴史エピソードに溢れた壇ノ浦。
 対岸の旧小笠原藩企救郡=門司港の佇まいが遠目にもよく認められ、直近の四国連合艦隊と長州藩との砲撃戦の時も、小笠原・幕府合同軍と高杉晋作麾下の奇兵隊等の諸隊=長州勢の長倉戦争の時も、互い両サイドから、よく見晴らかせたに違いない。

 

 

 少し歩くと、所要時間五分程度の関門連絡フェリーの発着場があり、途中にも日清戦争での講和会議・調印が行なわれた〈 春帆楼 〉が黄色く佇んでいて、訪れた中国人観光客が大きな窓から、向うに流れるやがて玄界灘・東シナ海へと至る海峡を眺めながら、清帝国のあまりもの腐敗と旧弊的堕落・脆弱さ、狡猾な欧米列強とその尻馬に乗って赤い舌を出して見せる新参の大日本帝国等への鬱屈した屈辱を肴に飲むよく冷えたビールのほろ苦さは如何なものなんだろうと、束の間の歴史的感興に想いを馳せたり。

 

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 ( 末広稲荷の狭い境内の端に並べられたかつての寄進石柱群 )

 

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 ( 灯籠の残骸。正徳とある。約三百年前。十八世紀前半、享保の前。当時も賑わっていたのだろう。)


 関門連絡フェリーの発着場=唐戸桟橋のある唐戸近辺は、かつては例えば江戸時代、北前船の重要拠点として、全国の大店の支店が軒を連ね繁華を極めていた。人が集まり富も溢れるとなると自然遊廓の類も蝟集し華美を競ったりするようになって、明治維新以降北前船の衰退とともに規模も縮小していったものの太平洋戦争で空襲で焼野ヶ原になるまでその繁華は続いたらしい。
 その中心がかつての稲荷町で、現在でもその名残りに、朱い鳥居下の細路の石段わ登ってゆくと、同和時代創建の参詣の娼妓達の姿が絶えることのなかった〈 末広稲荷 〉が、その盛衰の象徴の如く、削り取れるだけすべて削り取られた正に祠一つのミニマムな態で小高い丘の頂上に鎮座している。
 幾年過前に訪れた際はもっと朽ちた感じだったのが、些か小奇麗になっていて、観光的範疇に含まれているのか整備されたのだろう。現在の祠の姿から、かつてそれなりに広かった境内の姿を想像するのは、ポツンと小高いぶん、小首を傾げるしかなかった。
 

 

 ここが遊廓の発祥の地だというエピソードもあるらしい。
 そういえば、対岸の門司港にも、バナナの叩き売りから、焼きカレー発祥のプロパガンダが喧しいけれど、平安末期の源平の戦いで敗れた平氏・安徳天皇がらみの生き残った官女達がその当事者ってことで、安徳天皇を祀り、耳なし芳一=琵琶法師伝説でも有名な〈 阿弥陀寺 〉、明治維新政府の廃仏毀釈で廃され後釜に居座った〈 赤間神宮 〉で毎年模様される花魁道中も、この安徳天皇がらみってことで、他の花魁道中とは些か高飛車に一線を画しているようだ。

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 ( 大同四年の創建という。嵯峨天皇が即位した809年。末広稲荷の縁起記 )

 

 平氏=安徳天皇の女官伝説は、しかし、対岸の、唐戸・壇ノ浦の、関門海峡を挟んだ向かいの田野浦にもあって、その名も聖山という。
 廃残の女官達が、源平の戦いのあった海峡やその周辺を一望に出来る小高い小山の頂きに、死滅していった一門の菩提を弔うために庵を結んだという。庵というからには出家し尼僧になったってことだから、遊女とは無縁。海峡を隔てて、それぞれの場所柄にあった活路を見出したのか、それぞれの女官の性情・性格にあった対照的な棲み分けを選んだのか。

 

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 ( 稲荷入口から少し下った稲荷町界隈。かつては、昔懐かし名曲喫茶も、時代的凋落で廃業。食物屋に変貌。大きな旧いスピーカーなんかをそのまま置いているのだろうか。かつ丼屋には不似合いと思うが中に入ってないので不詳。)

 

 田野浦も、北前船が停泊し、こっちはもっぱら帆船の補修等を担い、それなりに繁盛していて、当然に料理屋を兼ねた娼館も三軒あったという。こっちは船乗りたちのための娼館ってわけで、対岸のそれなりの格式のある娼妓・娼館とは相違して普通の娼妓・娼館と勝手に決め込んだりしてると、否、地元の子供たちに字を教えたり、場所柄、藩のお偉いさんたちも訪れたりし、その相手をすることもあるらしいってことで、やっぱしそこらの飯食女並みとは些か違って敷居も若干高いってエピソードもあるようだ。けど、船頭たち相手に高尚はちょっと鼻白みもので、店の高位の花魁もどきがってところだろう。何しろ、ここの遊女たちって、祠を建てたりや神社や寺に寄進したりするほどの財力もあったという。
 
 そんな彼女たちの墓石が、現在、かなり離れた、関門海峡というよりもっと先の玄界灘を見晴るかすように、小山の中腹の高野山・地蔵寺の境内にずらり並んでいる。さすがに、観光客が押しよせたりすることはないものの、時折、苦海といわれた呻吟世界にあってもそれなりに気丈に活きたらしい女たちに、線香の一本も手向ける者もあるらしい。
 

 

2025年4月12日 (土)

 TTゲストハウス 旅先の一枚( バンコク )

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 九月、タイじゃカンヤ―ヨン。
 連日、間欠的に篠つく雨季。
 時代はミレニアム一年。
 つまり2001年、バンコクも、“ 美国的テロ鳴動 ”でメディアは喧しかった。
 タイ南部のバッタ二―独立=イスラム諸派の武力闘争はこの頃には少しなりを鎮め・・・数年後には再燃したけど・・・ていて、職業訓練校生達の抗争もまだまだ後年の如く手製爆弾や拳銃をバスや有名商業ビルMBK前でぶっぱなしたりのタイのワイルン=不良青年暴力映画並みの派手派手しさには至っていなかったと記憶している。ISETAN やZENが焼かれる反軍部独裁の赤シャツ( スア・デ―ン )勢力蜂起にもまだ数年あった。

 

 

 TT2ゲストハウスの二階の窓側シングル。
 狭い通りを隔てて聳えるケーオ・チャムファー寺院の高い塀と本殿の屋根越しに射し込んでくる陽光に明るく照らし出された室内は、実に簡素そのもので、写っている調度だけ。
 大抵、チェック・インした当初は、同じ二階の窓なしシングルってのが常道で、それから上階のシングルに移るんだけど、空いてなけりゃあ、ずっとそのまま。昼なんざ、窓もないので茹だるばかり。ファンを幾ら廻したって生温い風ばかりで、日中は大抵一階のリビングルームか、外で過ごすしかない。
 この時は、運が良かったのだろうが、日記みると、数日後、四階の窓側シングルに移っている。理由はもう忘れてて、日記にもない。上階だけに景観は良かった記憶はある。
 
 
 パイプ・ベッドの脇のミニテーブルの上のカセット・テープは皆バンコクで買ったもの。宇多田ヒカル《 ディスタンス 》、新人プローイ《 リトル・ボイス 》、左に積んである一番上は恐らく男っぽい声のアウ《 ザ・ボイス 》。
 シン・ハの缶ビ―ル。ミネラルウォーター。
 ベッドの上は現地新聞。TTは、英字の《 バンコク・ポスト 》紙なので、9.11からみのニュースが大きく載っていたので、興味本位=資料として買ったのだろう。

 

 

 この時、このTTの若いスタッフ( 従業員 )に、新人の娘が加わっていた。
 十六歳のソーン。日本語が少しできて、もう古参になってしまった丸顔のドゥアンと同じイサーンのコラート出身という。もう一人の小柄な娘トォ~はカンボジアと隣接したシーサケット出身。十四歳でこのゲストハウスで働き始めたトォ~は、当初はいきなり首都・バンコクってことと、外人ばっかりの宿ってことでかなり戸惑っていた。イサーン訛も抜けない内に、英語世界に馴染まねばならず、多分に緊張していたものの、幼さとそれなりに可愛いさもあって、客の女達には好意的に接して貰っていた。
 ある朝、ドゥアンが、白いブラウスに紺の長めのフレア・スカート( タイの学生服の定番 )を着て出掛けて行くのを見かけ、英語学校にでも通っているのだろうと勝手に決めつけてしまったことがある。この頃はもう、オーナー家族は余り前面には出てこなくなり、もっぱらドゥアンが中心になっていたので、筋は通っている。

 

 

 それから既に二十五年近く過った現在、皆四十歳過ぎ。
 時折ニャッと笑ったりしていたトォ~も、子供が何人居てもおかしくはないけど、当時、小柄なイタリア系の髭男が彼女に執心していたようで、やたら馴れ馴れしく話しかけていたのを見かけたことがあった。その後の展開は知る由もないが、タイ演歌やイサーン歌謡・モーラムの定番テーマの如く、現地妻( ミヤ・ノーイ )的杞憂ってところに帰趨しなきゃいいが。

 

 

 この頃からタイ映画に変化の兆しがあって、前年のホラー映画《 ナンナ―ク 》に続いて、例えば上映時間三時間の王朝活劇《 スリヨ・タイ 》がタイ全土で流行り、国定映画なのか生徒達が学校から整列して見に来ていたりしていて、吃驚したものだった。
 映画自体も、それまでのタイ映画の水準を越えるもので、二度観してしまった。シンハ・ビールの缶にも、映画の登場人物が印刷されたものが出回っていたぐらいの人気だった。

2025年4月 1日 (火)

三月の精霊?

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 長い寒冷期がようやく終わったかと思ったら、急に春を飛ばし、初夏の趣き。
 恐らく、今年も、淫雨、だらだらと春雨がつづき、なし崩し的に梅雨に至ってしまいかねない。列島のトロピカル化がいわれはじめてからの気候の寒暑二極の大陸気候化。
 いろいろと取り込み沙汰があって、裏庭は雑草伸びっ放しからすっかり枯草常態の被膜のせいなのか、俄雨の後、裏庭の雑草取りをしていると、ふと細い水仙の茎の先の萎れた花に、一匹の精霊飛蝗(バッタ)がしがみついていた。
 季節はずれっての頻くあることだけど、随分と早い時節過ぎる。
 まだ幼い小いさな奴じゃなく、四、五センチぐらいのオスの成虫。
 恐らく、一冬、青草も多く残っていた枯草群の被膜の下で生延びたんだろう。
 その時は分からなかったが、後で、モニターで撮った写真を見てみると、片側の触角と手足が途中で欠けている。それが何を意味するのか定かじゃないけれど、孤軍奮闘的産物と当方は決めつけた。

 

A-27mar25

 

 

 でも、写真みてると、やっぱり何処か違う。
 背中の感じが何か見慣れた精霊飛蝗と異なるような気がし、ネット確かめていたら、精霊飛蝗は越冬しない、つまり行き斃れてしまうらしい。
 ってことは、別種。
 クビキリギスあるいはクビキリギリスと呼ばれるキリギリス科の種とある。
 越冬し、二年くらい生きることもあるらしい。
 口元が紅いのが特色で、そういえば庭でみた時、何か紅っぽいのが瞬間覗け違和を覚えてはいた。顎の力が強いようで、何かに噛みついた状態で引っ張ると頭部が抜けてしまうという。そういえば、カンボジアで、足の血管あたりに食いついた黒アリを手で取ろうとしたら、頭部だけが残って胴体だけが手足バタバタしていて驚いた記憶がある。
 おケラと似てジッ、ジッと泣き、夏場に自動販売機の灯に吸い寄せられとまってたりする習性があって、郊外の自販機に、他の蛾や羽虫と一緒に、大き目の緑のバッタ風を見かけたりするけど、あれが、このクビキリギスだったのだ。あの光景はゾッとしてしまうけど、自販機登場以降の夏の風物詩といえばそうなんだろう。でも、あの光景を句や歌にしようなんて気にゃ中々ならないんじゃなかろうか。

 

 

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