明治二年十一月、長州維新軍占領支配の旧小倉藩( 小笠原藩 )企救郡及び周辺地域で農民一揆が勃発、維新軍本拠地・小倉本陣目指し、途中の庄屋・役人の邸を焼き払い打ち壊しながら筵旗を立て進撃し続けた。
俗に、企救郡農民一揆という。
うち続く不作と長州藩と小倉藩( 幕府合同軍 )の戦いによる荒廃のところに、更に、進駐しいつまでも居座り続ける維新軍が既存の庄屋たちと共謀した不正が蔓延。
とうとう、原口九右衛門等を中心に、近郷近在の農民が蜂起し、殺生放棄の方針堅持で、いよいよ、長州維新軍本陣のある小倉藩および町民たちが自焼し廃墟と化した小倉城下を包囲し目前にした際、駆けつけた銃・砲を装備した長州維新軍の代表として、長州藩士・大石雄太郎、その後は撫民局( 民生取捌所 )が、「 その罪を問わず」を言質に一揆農民側の言分=訴状を山口表に届ける旨約し、取敢えずその場は一揆農民側は引下がることにした。
が、後日、原口九右衛門等代表者たちに出頭が命じられ、そのまま拘束されてしまった。

( 駅前にもかかわらず人影が殆ど見られない。)
維新揺籃の時節、原口九右衛門等の身柄もめまぐるしく変転し、企救群は日田県の管轄( 明治四年の『 廃藩置県 』以前に、既に明治二年頃から各地で同様な県に編入・再編された地域少なくない )となり、正月に身柄は日田・豆田の牢に移され、長々と幽閉され続けた。
が、その年の暮れ近く、日田・大分でも日田竹槍農民一揆が勃発、藩兵農兵たちと熾烈な戦闘を繰り広げ、商家等が軒を連ねる豆田の町も、放火・略奪の憂き目に遭い、豆田牢も襲われ火を放たれることに。その際、囚人たちも解放された。 原口九右衛門たちは一旦はそのまま脱走したものの、これでは筋が通らぬと思い直し、途中の大庄屋宅に身を寄せた。一端、香春の牢に移り、更に小倉から再び日田に戻されることとなった。
明治四年三月、一人主魁・原口九右衛門、日田の河原にて絞首刑に処される。
他の者は有期刑。
「 罪は問わず」のはずが、何とも空々しいばかりの、維新(政府)的言質ではあった。この不正・背信構造は、そのまま明治維新権力的展開( 内外 )の祖型となった、といえば言い過ぎだろうか。

( 駅前にも一軒あったが、もはやレトロなレコード屋。件の浄明寺河原に赴く格好のランドマーク。この前の通りをずっと右折してゆく。)
この時期明治初頭、全国的に一揆・暴動が繰り広げられていて、脱走奇兵隊員や尊攘派の長州脱藩浪士・大楽源太郎の影に、当時の維新政府がかなりナーヴァスになっていたという。後、大楽は、かつて奈良の鍵屋辻で大和絵師・冷泉為恭を自身がそうした如く、同志のはずの久留米藩士たちに騙され誘き出されて斬首されてしまったけれど。

( 緑の看板のある「ア・ビアント・ポム」の裏側に刑場跡が覗けてる。右側の川は中野川。かつては此の辺りは河原だったのだろうか。現在は、この中野川が庄手川に注ぎも一つ向うの本流・三隅川に合流している。駅から来ると、この小橋はもっと先ってことになる。つまり反対側からのショット。 )
前々から、一度、原口九右衛門が絞首に処された浄明寺河原の刑場をこの眼で確かめておきたいと思ってたのが、直はなく、2コースとも乗り換えの迂回路、中々に面倒で、往復だけで8時間はかかってしまう。
が、まだ暑熱季には時間のある今しかないと、ふんぎりをつけ、ようやく念願(?)の大分の内陸、日田に赴いた。
当日は、朝から薄曇り、それでも次第に陽が射してきて、ウィンド・ブレーカーを脱いでTシャツ一枚。何しろ、日田は、最高温度でも全国的に有名な盆地の街。バスから降りた途端湿気に汗が滲んでくるという。その日は、湿度は高くなく、強い風・・・ここじゃ涼風・・・もあって比較的過ごし易かった。
天気予報じゃ二日後は猛暑とあったので、あえてこの日を選んで正解だった。湿度の高い猛暑の中をほっつき歩き続けると熱中症うけあい。

( 思ったよりも小さな一角。件の磔刑の礎石は右のブロック塀の手前。正面の隣家との境の朽ちた板塀の左側に、地蔵堂への入口がある。)
JR日田駅の北側は有名な江戸時代の建物が残った観光地・豆田。
土蔵造りの商家がかなり立ち並ぶそれは確かに一見の価値ありで、東アジアの観光客が多く、半分以上は彼等で、親子連れも少なくなかった。
豆田の牢跡は、この豆田の長福寺の並びの反対側に企業の資材置場となっているらしいけど、訪れなかった。牢の方には余り興味がなかったからだ。
主眼はあくまで、浄明寺河原刑場。
浄明寺河原があるのは、逆の駅の南側。
こちら側が、日田駅の表口。
閑散とした駅前に、アニメのキャラクターと思しき像が立ってたりするが、若い韓国人カップルが写真を撮っているぐらいで、豆田とはうってかわっての観光地的には閑々散々と静まりかえっていた。
こちら側は、もっと後代の大正・昭和の佇まい。
両方とも、それなりの規模があるので見栄えも違う。門司港なんかがとっくに廃棄した本当に旧い街並み・佇まいがしっかり残っていて、勿論自民党=小泉・安倍の薩長同盟支配の賜物たる空家・廃墟も点々と時代相を刻し無惨にさらばえていた。

( 上の写真と真逆な奥側からのショット。枝葉の下にある矩形の二段石が磔刑礎石。どんな因縁の墓石なのか皆目定かじゃない。ここで刑死した人たちがそのまま埋められ供養されたものってのが常識的判断のはずだけど・・・)
日田駅前の広い道路を真っすぐ南下すると、広めの日田街道と交差する。その十字路の向かいの角に昔懐かしレコード屋があって、ランドマークにお誂え向きの白塗り二階建て『 コトブキ・レコード 』とあった。その十字路を右に曲がり、そのまま何処でもある郊外風の景観の日田街道を一キロ程歩いた先に、右にケンタッキーがあり、その反対側、『 青山 』の脇を通る道路に入る。
そこを進んだ先の川沿いの道路を右折して暫く行くと、一軒ポツンと佇む洋菓子屋『 ア・ビアント・ポム 』が見え、その店の脇の細路に入った裏側に、墓石群が林立した狭い一角が覗ける。背後に小屋風の祠がありその裏側に、件の小さな墓石群があった。
墓石群?
刑場のはずが、なぜか丈の低い刻印も長年の雨風に不明瞭な墓石が蝟集していた。日田の湿気と昨今のトロピカルな灼熱に晒され続けてきた割にゃ朽ち果てることもなく、かろうじて“ 安政 ”の文字が判読できる墓石もあった。
背後の隣家との境の朽ちた板塀と、右隣の駐車場との間の低いブロック塀に囲まれた猫の額ほどの一角。
そのブロック塀にくっ付くように大きな四角い石材を二段に積み上げた礎石のようなものの上に、塀との隙間から鬱蒼と伸びた枝葉が覆いかぶらんばかり。
これだった。
この四角い礎石の真中に、丸い穴が穿ってある。
その穴に、磔や絞首に使う支柱を差し込んで咎人を縛り付ける等して執行したのだろう。
徳川幕府以来、明治の初め頃まで、この河原の刑場で、少なくない徳川・明治権力によって疎まれた人々が、あるいは怨恨を残し、あるいは望むところと静然と屠られていった。原口九右衛門は、長州・明治政府の背信に疑義を抱きつつも、覚悟の一念の帰結として悠然と死に赴いた、正に後者。
ここ刑場じゃ、もっと以前、江戸時代・延享三年(1746年)に、馬原の庄屋・穴井六郎右衛門等三人が獄門磔に処せられ、原口九右衛門たちを一揆暴動で解放した日田竹槍農民一揆の主魁・求来里(くくり)喜平等五人も、獄門の刑に処されている。

( さすが人一人の体重を支えるだけのボリュームがありそうな礎石で、真ん中の穴に支柱の杭を差し込むらしい。久右衛門さんたちもこの礎石の段を昇ったのだろう。動乱の時節には多くの義民たちが屠られ、さぞかし無数の嗚咽と怨念と血をこの礎石は刻刻印し吸い尽くしてきたに違いない。)
遠所で刑死した者の屍体をこの地に仮埋めし、後、関係者が掘り起こして持って帰るってこともあったようで、刑場といえど、さまざまな曰く因縁の帰趨としての墓石群なんだろう。かつてはいざ知らず、狭い道路と駐車場の脇にポツンと佇んだ刑場墓地は、以前は土か砂利であったろう地面はコンクリートで薄く覆われ、鬱々というよりむしろ淡然とした趣き。

( 菓子屋の前の澱んだ中野川。大きな錦鯉が一匹悠然と泳いでいた。日田の街はともかく川や水路が縦横に走っていて、それだけでも心憩まる。)
この刑場墓地の傍に佇む簡素な祠は、馬原地蔵堂と呼ばれてるらしく、延享三年、馬原の庄屋・穴井六郎右衛門等三人が、代官・岡田庄太夫の苛政に呻吟し農民の窮状を江戸幕府に越訴(=直訴)し、帰国後、同代官に捕らえられ、この刑場で獄門の刑に処された由縁なのかどうか定かじゃない。
隣の駐車場の向こうの広い空地はマンションの基礎工事がようやく始まったばかりのようで、来年には完成しているのだろう。
浄明寺刑場跡のすぐ向う、洋菓子屋『 ア・ビアント・ポム 』と同じ並びの道路に沿った狭い川( 中野川 )のちょっと先に、もっと大きな川( 庄手川 )に注ぎ落ちる青塗りされた水門があった。『 浄明寺水門 』と記されていて、庄手川あたりから河原らしい景観になっている。もうちょっと先で、本流というべき三隈川に合流。
ともかく、日田の街は、南北とも、川や水路が縦横に走っていて、正に水郷。
地蔵堂の長椅子の端に坐し、面前の朽ちかけた板塀を眺めていると、一陣の涼やかな風が疲れた面持ちの横顔をやさしく撫でいった。

( 左の中野川から、この水門を通って、下の庄手川に流れ落ちる。コンクリの壁面に、「浄明寺水門」と記されている。)


( 浄明寺河原とは反対方向の庄手川。向こうに本流・三隅川が流れている。右の茂みは亀山公園。ここら辺は広々として爽快。)