舞い上がる女党首あれば、すっかり雑草繁茂した裏庭に精霊飛蝗跳ねることなし 暑熱の門司港2026
この国がトロピカル列島と化して、もう、かれこれ十年以上、否、当方の記憶じゃ二十年以上前から。昨今、列島各地で、トピカル・フルーツまで栽培できるようになった。あのバナナ、マンゴーまでが。やがてココナッツも可能になる勢い。それは、しかし、海水の温度上昇等様々な面で変化・変容を来たし、色んな災害等も派生する。
源平の頃から、幕末・明治の小笠原藩=長州藩の時代まで、最短幅800メートルの関門海峡を間に対峙してきた門司=下関であったけど、その海底深く地底遊歩道=関門トンネルも、以前は、夏も涼しいの謳い文句だったのが、昨今、海水自体の温度が上がったからか、涼しさとは無縁の、結構蒸し暑い場所になってしまった。
もともと欧米系の観光客の姿は殆どなく、あるとすれば陸路じやなく、海路、つまり外国航路専用の岸壁に接岸した客船で訪れた欧米人達ぐらいで、その殆どは、頻繁に停留しているフランス中型客船からのフランス人観光客。この幾年、さすがに、三ヶ月も持たない韓国フェリーは頓挫したままだけど、博多から流れてくるのか、空路でやって来るのか、韓国・中国系の観光客が、毎日の如く、観光エリア=レトロ地区( 第三セクター的産物 )を、孤人、カップル、少数グループ、団体が漫ろ歩きあるいは闊歩している。
春以降は韓国系の娘達が透き通るような独特の肌理細かな白肌の両の脚を惜しげもなく露出し闊歩しているのが、もう、風物詩のようにさえ馴染んでしまった。ここの門司港駅のホームに降り立った、あるいは乗車待ちの可観光客が、駅名のある電光ボードを背景に写真を撮る姿同様に。まあ、これは海外旅行者達の共通の習性ってとこだろう。
対岸の下関には戦前から韓国・釜山と行き来する関釜フェリーがあって、現在もきっちり就航している。下関には戦前から朝鮮半島からの移住者達がいっぱい住み着いていたらしく、唐戸という地名もあって、これは唐=中国というより朝鮮や南蛮等の海外からの移住者達の海に面した居住区ってことのようだ。対岸の門司港側にも、古来からの朝鮮半島由来の変容した地名地域が何箇所かあり、朝鮮併合以降に移住してきた出稼ぎ労働者達が戦前でもかなり居て、大正の米騒動の折にも、日本人より少ない賃金と低劣な条件で呻吟していた彼等が一等戦闘的だったという。五族協和のおよそ心にもない理念とやらで捏ね上げたデマゴギーを連呼・吹聴しながら、自分達ニッポン民族が頂点に君臨し、それ以外は指導されるべき隷属民族としてしか見なしてしていなかったのは、もう歴史の余りにも明々白々な現実的事実。昨今のまともじゃ成り行かなくなった米国=トランプ政権と相似。
門司港は戦前、東南アジアの娼館等に娘達を送り出す根拠地でもあったけど、戦後も、隣国・朝鮮戦争で、ゴールドラッシュで沸きたつ中、門司港から在日朝鮮人達を含んだ結構な数の労働者達が、GHQと暴力団が結託して、朝鮮・仁川の戦死者達の遺体処理作業に派遣させるべく送り出していたという。このエピソードって、確か、唐十郎監督の《 任侠外伝・玄界灘 》( ATG )にも出てきたと記憶している。但し、門司港じゃなく、対岸の下関を舞台に設定してて、脚本が大島渚組の石堂淑郎と唐十郎。主演は安藤昇、李礼仙、根津甚八。丁度五十年前の1976年制作。自身の嫁・李礼仙の出身地でもある朝鮮半島への、当時、朴正熙独裁軍事政権下での苛斂誅求的惨事にも触発され、かつ東映・深作の実録仁義なき戦いにも影響された唐十郎の、十全ではないもののそれなりにカラーを出した面白い作品だった。
関門海峡をたった五分で渡る連絡船は、近年韓国・中国の観光客で賑わうこと多くなった。元々はもっぱら地元民用で、戦前からあったフェリーで、下関駅~門司港駅の渡船としての国鉄の連絡船より早く就航していたという。国鉄の連絡船はとっくに昭和に廃止になっていたけど、こっちは私企業の船会社。近隣諸国観光客が訪れるようになる前は、通学・出勤時間帯はともかく、大抵乗客は疎ら。稀に日本人観光客が乗ってくるぐらいだった。船体も現在のと相違して古めかしい朽ち始めたような代物だった。確か、航路廃止になるような話があったような記憶もあったのが、折からの近隣諸国の観光ブームで活気を取り戻した。下関側の待合室はそれなりに整備されてるけど、門司港側のは何かぞんざい。
もうかれこれ十年になるだろうか。
集中豪雨があって、暗渠から流れ出た土砂が堆積してこんな州になってしまった。満ちると海面下に沈むけど、昨今のトロピカル気候のおかげで、海も透過度が増し小綺麗な些かの南国風味を醸し出す仕儀に。元々関門海峡自体、遙か以前は陸続きだったという話もあって、水深が浅く、頻繁に浚渫を繰り返している。赤レンガの向こうに覗けている山陰、対岸の下関・火の山で、麓から頂上までロープウェイが長年運行されてたのが、利用客の激減もあって、新たに数両連結のパルス式のロープウェイとして、来春オープンの予定で現在工事中らしい。門司港にも、戦後、元の出城・門司城址に至る短いロープウェイが運行していたけど、ブームが去ると閑古鳥って事由で廃止。対岸の壇ノ浦に対した麓近くに、幕末の欧米四カ国連合艦隊と長州との戦いで亡くなった四カ国軍の犠牲者を葬った墓石碑が静かに佇んでいる。長州=下関・壇ノ浦の背後にそびえる火の山は、自身長州側に組して小倉藩=幕府軍と戦った坂本龍馬が、姉に送った戦争俯瞰図の視座がこの火の山頂上であるようだ。
1995(平成7)年にオープンした「門司港レトロ」エリア、去年が三十周年だったらしい。2002年に、旧大阪商船ビルに漫画・イラストレーターのわたせせいぞうのギャラリーも常設され、最近リニューアル・オープン。彼ももう齢80とか。そういえば、当方が勝手に新爺とネーミングしたバックパッカー達( もう古色蒼然の感があるけど、現在でもアジア・南米・アフリカに貧乏旅行わ決め込む若者って結構居るんだろうか? )の教祖・写真家=藤原新也も80歳代。以前はちょくちょく門司港の街角で見かけたけど、最近はおよそ皆無。佐木隆三や甲斐大作達は残像がのみ徘徊するのだろうが。そんな中で、レトロ海岸エリアの少し外れた廃ビルに、もうだいぶ以前からだったらしいイラストレーター・画家の黒田征太郞が棲み着いているとか。実際は、アトリエとしてのようだけど、あっちこっちと精力的に画家描画活動に専心しているとか。齢的に他より一回り上の黒田が一番上。ともかく、この世代、パワフル。
前述した門司港の古のロープウェイの起点近くに、とっくに廃業してもはや不気味感圧倒的なラブ・ホテル址。元々山際の狭い隘路を通ってゆかねばならない場所ってのもあって、そんなに流行る環境とは思えない。この自民党半世紀支配=小泉・あべの薩長同盟支配の論理的帰結=遺産としの廃墟の前を、昼間は通学の小学生達が行き来し、夜は猪達が徘徊するという。



















