カテゴリー「旅行・地域」の327件の記事

2020年1月 7日 (火)

長崎異人少年不幸物語、あるいは明治・長崎怨恨譚 大泉黒石「代官屋敷」

16

 ( 春徳寺の背後の墓地。背後にはそもそも長崎のオリジンたる豪族・長崎小太郎の城の古址が佇んでいるという。 )

 

 この短編《 代官屋敷 》は、大正9年2年の《 中央公論 》の【 創作欄 】に掲載されたらしい。
 所謂芥川龍之介や佐藤春夫たちが黒石や村松梢風等大衆小説=【 説苑欄 】作家たちと自分たちの純文学=【 創作欄 】と同一に扱ったことでプライドを著しく傷つけられたと編集部に猛烈な抗議をした事件の因となった作品だったのだろうか。
 抒情的な黒石的少年期的憧憬ともいうべき作品で、僕は好きな作品だけど、純粋芸術と自負しているらしい芥川等からみれば許しがたいのか。あるいはもっとリアルに感情的な越境的越権としての不快感から発したものかも知れない。
 ( 翌年再び《 中央公論 》の【 創作欄 】に、由良君美に駄作と断じられた《 妾の番人 》、《 煙れる心臓 》が相次いで掲載されたようで、ひょっとしてこっちの方で芥川たちが激怒したのかも知れない。因みに由良はこの《 代官屋敷 》は傑作と評価している。恐らく生活優先でせっかくの編集者・樗陰の好意にもかかわらず書き飛ばしたに違いない。)
 純文学的エリートたちにとって、なかずく黒石の如く、長身で声も大きくついこの間まで喰わんがため牛の鮮血に塗れながらの屠殺業に従事していたそれもロシア人的異貌の持ち主であって、その上当時の文壇関係にはまだ僅少だったらしいロシア語に堪能ならば尚のこと、更に単なるベスト・セラーじゃなく一大ベスト・セラーの新進的寵児作家だった故に違和感とその嫉妬と侮蔑の反感はかなりのものであったのだろう。黒石的には、彼が長崎で生ま出てからというもの日常的について回った“あいの子”という差別的一切合切の延長線上に新たな災厄が一つ上増したに過ぎないのかも知れない。しかし、それじゃ余りに救いがなさ過ぎるが、つくづく黒石この国の閉鎖性・卑屈な権威拝跪に辟易したことだろう。

 

 

5_20200107102301

 ( 長崎駅前の路面電車駅。日曜祭日は観光客でびっしり混む。 )

 

 

2_20200107102601

 ( 混む時間を外すとけっこう空いている。)

 

 

3_20200107102701

 ( 料金は現在130円。ついこの間120円になったと思ってたら・・・けど何処まで乗っても一律料金。)

 

 

6_20200107102401

 ( かつての全国の路面電車車両が走っているらしい。)

 

 

 黒石の遠縁にあたる三輪子 ( 実際には、先で京都で結婚・駆け落ちをする幼馴染の美代子 ) の父親が蒸発し母親は東京に出稼ぎ行ってしまい黒石と盲目の祖母二人の家に預けられるところから物語は始まる。
 少年黒石九歳、三輪子七歳。
 長崎の何処を少年黒石たちの住処に舞台設定しているのか韜晦的傾向の強い黒石であってみれば曖昧模糊として不確かで、せいぜい少年黒石が毎朝渡って通学していたという石橋=阿弥陀橋が空間的ネックになるくらい。
 後で触れるが、タイトルの代官屋敷ではいよいよ曖昧朦朧としてくる。
 
 何代にも渡って権勢を欲しいままにしてきた長崎代官 ( 長崎奉行とは別組織 ) も明治維新以降すっかり凋落し、糊口をつなぐために就いた神官職、嫁も息子も青白い痩身にうらぶれていた。
 そんな荒廃した屋敷と隣合わせの黒石一家の間の石垣の真ん中に大きな一本の老楠が屋根の上まで枝を伸ばし、その葉叢の隙間から遠く長崎湾が覗けていた。
 ある日少年黒石が老楠の上に登って隣の草深い代官屋敷をしげしげと眺めていると、ふと古ぼけた井戸の囲いの上に白い紙包みが乗っかっているのが見えた。
 老楠の下で楠の実を拾っていた三輪子を呼んだ。
 

 

 「 三輪さん、ちょっとここへ登ってみないか。奇妙な物があるばい」

 

 

 二人は老楠の枝から一メートル位の石垣を乗り越えて、代官屋敷の庭に降り立った。雑草茂り蕗が一面伸び、広々とした庭の片隅の廃屋と見間違いかねない神官の小さな棲家がポツンと覗けていた。古井戸まで幾らもなかった。井桁の上に小さな捻じり紙が
乗っていた。
 

 

 「 紙の中を開けて見ようか」

 

 

 ためらう少年黒石を、後ろから三輪子が急かした。

 

 

 「 水神様、水神様。この包みの中を見せてくださいと言うて、---早く開けないと、人に見つかるがの」

 

 

 恐る恐る開けて見ると、果たして玩具の小猫のような菓子「 沖の石」と砂糖菓子の「 水仙花 」だった。

 

 

少年黒石は驚いてしまった。
あんな落魄の極みのような神官の、それも古井戸なんかに、そんな高価な菓子が供えていたからだ。
と、突然、罵声が響きわたり、神官の腕が伸びてきて少年黒石の腕を掴んだ。面食らって三輪子は逃げ去った。そのまま、ぐるりと門から少年黒石は家の玄関まで引きづられた。 
 

 

  「 異人の子 ! 貴様は町内で一番悪い子だ 」

 

 

 と罵られ、出てきた祖母に前に突き出された。

 

 

 「 おい、婆さん。俺が今朝上げたばかりの井戸のお供物を、お前の子が盗ったぞい。お前は盲目だから、自分の子が他所で、どげんな悪戯をしているか解るまいがの、此奴、とても一通りの下童じゃなか。」


 散々悪態をついて去って行った神官の後ろ姿を見送るように、祖母は拳を固めて打つまねをしながら棄き捨てた。

 

 

 「 恐ろしい人間もあるもんじゃな 」

 

  そして少年黒石に、お供え物の菓子を食べたのかどうか確認をとって、中身を見ただけの言質を得ると、紙屋町の福齋屋に同じものを買ってくるようにと十銭銀貨を渡した。
起き上がりざま、祖母は憎々しげにこう呟いて苦笑した。

 

 「 着物の着せ方が可笑しいと言うて笑うし、汚れていると言うては笑うし、馬鹿馬鹿しか。誰が井戸のお供えを拾って食べるかのし。うるさい憎まれ口を利いて回るから、先祖代々の代官屋敷も潰れるぞい、ひがみ屋奴 !」

 

 
 十町ばかりの紙屋町・福齋屋( カステラで有名な福砂屋=船大工町だろう )へ行く途中には、いつも彼が通るとかならず走り寄って来て背後から石を投げつけてくる中学生やカツアゲする小僧がトグロを巻いていて、少年黒石は一目散に駈け抜けていった。
 祖母は買ってきたその菓子を隣家に持って行き、むっつりとして戻って来た。
 その夜、祖母の針仕事を手伝っていると、今まで姿の見えなかった三輪子がのっそり現れ、耳ざとい祖母に呼ばれた。

 

 

 「 お前は女子の癖に色々な悪戯をするのし。楠の木に登れと言うたのも、学校に時計を持って行けと言うたのも、お前じゃろがのし。お前が、何でも先に立って、して見せるけ」

 

 

 そして少年黒石の頬を思いっきりつねったように、三輪子が膝の上にきちんと揃えて乗せている両の手の片方を憎らしそうにつねった。逃げるように部屋を出てゆく三輪子を可哀そうに思った少年黒石に、祖母は尚も零した。

 

 

  「 今日は、お前が意地汚い真似をしたんで、顔から火の出るような目に逢って来たぞい。高木の奴、妾(わたし)に向かって、お前は娘を売ったんじゃろと言うた。畜生、あんな人間はなかろ。これから代官屋敷へ一歩でも踏み込んで見ろ。お前は家に入れないから。よう覚えて置くんぞ 」

 

 

 「 祖母の言った事が一々胸にこたえた。口惜しそうな祖母の顔を見ていると、いつの間にか、分別を忘れて直ぐさま復讐をしようと思った。」

 

 

 台所の縁の下から取り出した空のインキ壺に灯油を入れ、石垣を乗り越えて、闇の中を手探りしながら古井戸まで忍び寄り、井戸の中へインク壺を放り込んだ。家に逃げ帰ると、灯油の混じった井戸の水を飲んだ高木の苦しむ様が脳裏を巡り出した。いたたまれなくなった途端、はたと思い出した・・・あのインキ壺には確か栓をし、興奮してそのまま投げ込んでしまったのでは。失敗の慚愧の念よりむしろ安堵の念の方が勝って漸く緊張と不安の重圧から解き放たれたと思ったら、今度は一層いまいましさが募って来た。
 戸棚から包丁を一本取り出し、再びスタスタと石垣を越えて代官屋敷に忍び入った。
そして、すくすく伸びていた一面の蕗の茎を、一本残らず、憑かれたように斬り落とした。

 

10

 ( 黒石のルーツたる宮地嶽八幡神社。石鳥居の右側に、明治の頃、黒石の家が在ったという。現在も左側に民家が奥まで連なっている。)

 

 

8

 ( 八幡神社からすぐの西側。中島川の欄干が覗けている。川を越えて真っすぐ左側に数百メートル行くと件の長崎代官屋敷跡たる桜小学校がある。)

 

 

 そもそもこの《 代官屋敷 》、名前は実在の高木姓を使っていて、江戸中期頃から代々続いた長崎代官・高木作右衛門の子孫ってことだろうけど、明治維新で廃官となり、以前ネットで瞥見した時は政治家に転身したように記されていたと記憶している。黒石の頃だと明治も後期に入った頃だとするとそのも一つ後の代。
 おまけに、彼の出世作《 俺の自叙伝 》では、

 

 

 「幼稚園で俺の組に・・・高木という長崎代官の子と俺が・・・代官の子なんてものは弱いものだ。だから親爺が代官をやめさせられて、目薬を売ったり神主なんぞになるんだと思った。」

 

 

 と、同じクラスの腕白組としてその息子が登場している。
 もし、《 代官屋敷 》の、老楠の枝の上に坐って笛を吹いている高木の青白い痩身の息子が実在する者ならば、春徳寺下の幼稚園で黒石と同じクラスだった高木の息子かあるいは彼の兄弟ってことになる。《 代官屋敷 》の描き方だと、どうもそんなつい数年前までおなじ腕白同士だった親近的ニュアンスは感じられず、精々その兄ってところだろうか。
 勿論あくまで創作もの故、現実的断片を纏っていても所詮仮構的フィクションなのだから、余りその実在的整合性を問うても筋違いってものに違いない。けど、やはりその作品の底にあるものを視ようとするならば、確認ぐらいはしておいても罰はあたるまい。

 

 

 実在の長崎代官・高木家は代々作右衛門を名乗る十三代 (途中二、三の例外はあるようだ) 続いた代官の家柄だけど、明治維新後のことはネット捜しても殆ど情報がなく、凋落し荒廃した高木家とその屋敷の真偽の程は定かではない。
 只、現在この広大な地 (勝山町) は小学校になっていて、比較的最近、統廃合の結果としての新校舎建設の工事中に、かつての代官屋敷の頃やもっと前の秀吉時代のサント・ドミンゴ教会の遺構が発見された。
 このサント・ドミンゴ教会の土地を提供したのが、秀吉時代に端を発する長崎代官の初代・村山等安で、その代官・村山を秀吉に告発し死罪に追いやってその後釜に坐ったのが二代目代官・末次平蔵、その息子の二代目平蔵 (末次家は四代平蔵を名乗る) がトードス・オス・サントス教会跡に春徳寺を現・立山から移築という。

 

 

 この勝山町の桜町小学校、というより旧勝山小学校の前身・向明学校が明治六年、長崎県下で最初の小学校ということで“ 第一小学 ”の名を冠され建てられた。同じ敷地だったら、明治六年には代官屋敷は廃され、向明学校が建てられたということになる。尤も、長崎代官所は多くの人びとが出入りするかなり広大な敷地だったようで、この工事というより実際はその前の考古学的な事前調査の際、高木代官時代の井戸も発見され何と15基も備わっていたのが分かった。( 因みに、桜町小学校として新しく立て直される以前の勝山小学校って、校舎の直線廊下が百メートルもあったという。)
 この物語の中での黒石の描いた代官屋敷って、どうにもそんな広大な敷地って風ではない。それこそ普通の武家屋敷程度の雰囲気しか醸し出していない。帳尻合わせをするなら、大方は長崎で最初の小学校敷地に取られ、残った高木家家族だけが住んでいた敷地のみ残されたのかも知れない。

 

7_20200107102501

 ( 黒石が通っていたという桜馬場小学校=現桜馬場中学正門前の前の昭和風味の店舗のショー・ウインドウ)

 


 勿論実際に元とはいえ代官屋敷のような公的で広大な施設に隣り合わせて普通の民家が垣根越しに並んでいるってのは如何にも考えずらい。地図見ると、かつては一区画丸ごと占めていたのが容易に察せられる。日本で唯一の外国交易の特殊な長崎の特殊性を考えあわせれば尚更。
 只、明治維新以降事情は一変してしまい、小学校に大半の敷地を取られ、現在も学校北側に民家が隣接して並んでいるのから鑑みると、あながち丸ごと否定はできない。当然に、原爆後、既存の様々な様式が崩れてからのことかも知ないけれど、長崎でも珍しいくらいに平地部分らしく、垣根の上にまたがった老楠の枝伝いに垣根の上に降り隣家の庭に至るって構図は妥当なのだろうが、幾ら瓦葺き民家が大半 ( 長崎が他の街と違って昔から洋館等の比較的高い建物が海沿いに林立していた事を度外視しても ) だったろう明治中・後期といえども、垣根のちょっと上位で長崎湾の水面が望めたろうか。それなりに昇ってゆかないとあり得ない眺望ではなかろうか。
 僕的には、どうも物語の雰囲気としっくりしない。
 やっぱし長崎の大半がそうなように丘陵地・斜面に面した場所、僕的には春徳寺界隈。
 春徳寺の門前にも老楠が大きく枝を張っていて、そのすぐ下は石垣の崖。真下から民家が坂状に連なっていて、確かにそこからなら、葉叢の間から、遠く長崎湾の青い水面が覗けている。( 尤も、ちょっと石垣が屹立し過ぎてそこを伝って移動って訳には大人でも不可能。黒石の提示した空間設定とは大きく齟齬をきたしてしまうけど。)
 何よりも、この辺りは、美代子 (=三輪子) の実家のある場所でもあり、少年黒石が八幡神社の家から中島川=阿弥陀橋を渡って足繁く通った美代子と彼女を中心にした地元の遊び仲間の少年たち、例えば春徳寺住職の息子なんかとの少年期的記憶・憧憬の濃い場所に違いない・・・あくまで黒石の書いたものを基準にして考えた場合。
 こう考えてみると、やっぱし、黒石の脳裏に浮かんだ空間的記憶をあれこれ繋ぎ合わせて造形した空間世界ってとこだろうか。あるいは、他所の屋敷に移った後の数十年の頽落であったろうか。

 

13

 ( 春徳寺門前。かつてトードス・オス・サントス教会廃棄の後、二代目長崎代官・末次平蔵によって立山町にあったのを移転。)

 

 

12

 ( 春徳寺門前の石垣上の石塀と老楠。楠に昇らなくても長崎湾が望める。長崎には老楠が多い。向こうに覗けている白い建物が桜馬場中学=かつての桜馬場小学校 )

 

 

 それにしても何ゆえに黒石、幼なじみですらあったはずの高木少年の代官の末裔=神官である父親を、憎々し気な悪役に仕立てて、長崎異人少年不幸物語を作ったのだろう。
 一つの修辞として、演出として、少年黒石の不幸を際立たせるために、敢えて作り出したキャラクターなのか。
 それとも、実体験的な事件に根差したものなんだろうか。
 代官屋敷のある勝山町は、八幡神社境内の生地から西に五百メートルくらいの場所で、北東の同じくらいの距離に春徳寺があるけど、そもそも勝山町に黒石が住んでいたって寡聞にして聞いたことない。
 神官といえば、生地の八幡神社にも神主が居はしたものの、彼はけっこう黒石一家と付き合いがあったようで、《 俺の自叙伝 》で、幼時、黒石と遠縁の三輪子が許嫁の関係にあったのを、祖母の姉達が邪推したのを三輪子の母親が怒って破談にし、単身大阪( 自叙伝では東京 )に発ってしまったという秘話を京都・南禅寺で黒石に告白するエピソードでこう触れている。

 

 

 「 お前の祖母様の姉様と、八幡様の松西が、露西亜のお父様の財産が欲しいから、お三輪をあんたにやるんだと言ったから、妾は、そんな浅ましい女じゃない、この話は、こちらから打ち壊すと言って、間もなく大阪へ去って、以来杳然として消息をしなかったんだそうだ。」

 

 

 八幡様=八幡神社神主だろう松西。
 そんなプライベートな事柄にすら、黒石の家族・縁者と干渉できるような関係性からして、少年黒石・祖母に疎まれる筋合いもあり得ようもない。
 もし実際に代官(末裔)=高木と齟齬・軋轢が生じたのであったとすると、彼の子が黒石と同じ幼稚園の悪戯仲間ってところにそれを解く鍵があるのかも知れない。只、残念ながらてんで情報がなく、それ以上追及のしようがない。
 一体、長崎代官 ( の末裔 ) と黒石、如何なる軋轢的事態に陥ったのだろうか。
 

 

 長崎代官といえども維新以降は士族として一括され、明治も後期になると不平士族たちも淘汰・馴致され平民として様々な職業に就いていったようだ。百姓たちが嫌がった酪農業に進んだ士族も多かったようだし、神官職に就いた士族も少なくなかったようで彼等が国家神道を担う中核ともなったらしい。
 “サムライ商法”なんて言葉もさすがに姿を消していたろうが、凋落し没落していった士族の怨嗟・怨念はまだまだ列島のあちこちに残火の如く燻り続けていたろう。“四民平等”を謳い文句にした明治維新国家と国際都市・長崎を背景にした、そんな鬱々とした没落士族の表象としての代官・高木の、もう一つの対極としての“あいの子”=少年黒石との怨恨的相克という単純な図式が、しかし、黒石が意図したものであれ、そうでなかったものであれ、中々に面白く、悲壮が少年(世界)的フィルターを経ることによって悲哀物語となっている。

 

11

 ( 春徳寺~シーボルト記念館など名所案内と地図。)

 因みに、福齋屋とは、現・福砂屋( 当時も同じ屋号 )と思われる。
 「 沖の石 」と砂糖菓子の「 水仙花 」が、当時の福砂屋の店頭に並んでいたかどうかは定かでないけれど、「 沖の石 」って現在でも列島中の和菓子屋に色んなバリエーションがあるようだ。基本、海面にヒョコッと頭を現した岩をイメージしたものらしく、宮崎が発祥らしい「破れ饅頭」のように粒餡を薄皮で包んだ饅頭。所々粒餡が薄皮を破るように出っ張らせたりして、ごつごつした岩肌を表現しているみたい。岩より石の方が語感が好いから石ってことか。当時はともかく、現在はいづれも廉価。
砂糖菓子の「 水仙花 」の方は、そもそも実在する菓子名かどうかが先ず定かじゃないのもあって不詳。けど、長崎の砂糖菓子といえば、仏前供物で一般的な「口砂香」か祝物の「金花糖」、茶道の定番菓子「 有平糖 」ってところで、はて、代官屋敷の井戸端に供えられていたのは、あるいは黒石が想定したのはいづれであったろうか。

|

2019年12月25日 (水)

1989年の中国初旅

896  

 

 1989年8月といえば、その2ヵ月前に北京で起きた《天安門事件》の余韻まだ冷めやらぬ頃で、ソ連圏崩壊の時節でもあって、些かの緊張と初めての海外個人旅行という少なからずの蠱惑的期待感をもって、空路で上海に入った。
 尤も、当時西安やなんかで日本人旅行者が相次いで殺害された事件なんかが報じられてて、すっかり夜の闇に閉ざされ虹橋空港のターミナの外にチカチカ仄暗い灯に照らし出されてびっしり群がったタクシー運転手たちの顔々が一層雲助風味をかきたて、何とも禍々しいばかり。あっちこっちに突っ立った首からIDカードをさげた民警ならぬガイドのおばさん達が、運転手が差し出した免許証か証書を見て確認し、「この運転手は大丈夫 !」とばかりに相槌をうってはじめて不案内な客が彼のタクシー( 出租車 )に乗るようになっていて、僕もさっそくそのやり方に倣って無事ホテルに辿りつけた。

 

894  

 ( 青い羊に乗った老子が現れて教えを説いたという伝説にのっとった道観 )

 

 その初回の海外旅行では日記もつけず、途中の新疆ウイグル自治区の州都・ウルムチ( 烏魯木斉 )の《 新疆崑崙賓館 》備え付けの薄い便箋に認めた日程表だけが手元に残っているだけで、一ヶ月余りの旅の詳細は殆ど忘れてしまった。
 そもそも本来の目的はチベットだった。
 が、《天安門事件》の影響なのか、チベットには入れないという旅行代理店の話で、とりあえず麓近くの四川省・成都へ飛んで少し様子を見ることにしたのだが、どうも駄目のようで、結局シルク・ロード行=新疆・敦煌ルートを巡ることに変更した。列車でウルムチへ行くつもりが、折からの雨で宝鶏baojiあたりで線路が流され鉄道は不通ってことで空路にした。宝鶏周辺は難所らしく景観もなかなかのものらしかったので残念だった。
 
 ウルムチ→トルファン→敦煌→上海

 8月下旬に上海から四川省は古の都・成都へ空路に入り、1週間近く滞在したけれど、何処を廻ったなんかてんで覚えてない。交通飯店だったかの上階に毎日のように下から中国瑶滾(ロック)曲が響いてきたのだけはよく記憶している。
 それと剥き出しの人民厠(公衆トイレ)。
 朝なんてずらり中国人たちが石段の上にズボンを下ろし横一列に並び、それぞれ思い思いの排便的所作を展開しているのを眼の当りにして、最初は思わず後ずさりしたものだったが、次第に馴れてきた。現在も中国はまだあの“人民厠”方式を堅持しているのだろうか?
 

895

 ( 諸葛亮孔明の祠。諸葛亮の諡号が武侯 )

 

 以前何処に留まったかの書付が残ってたはずが分からなく、実際に交通飯店に泊まったのかどうかも曖昧で、否、確か宿を途中で、川を挟んだ向かい側の宿に替えたような記憶もあって、最初は少し高めの錦城賓館だったのが他のパッカーたちに聞いて交通飯店に移ったのだろう。
 当時(おそらく当時以上に現在も)、《 九寨溝 》見学ツアーの看板・ポスターがやたら目に付いた。面倒そうなので僕は行かなかったけど、青羊宮や武侯祠なんかの近場の観光地には赴いた。青羊宮は老子を祀った道観(寺院)で武侯祠は諸葛亮孔明の祠。
 これもはっきりとした記憶は残ってなくて、川沿いにだったかずらり並んだ粗末な造りの土産物屋だけは覚えていて、以前何処かで書いた記憶あるけど、ある広い土間の台の上に土産品を並べた店に入ると、一人の小太りした服務員の小姐が佇み小さな声でずっと唄を口ずさんでいたのだけは覚えている。勿論軽快なポップスじゃなく、ゆったりとした歌謡の類で、日本の街角でもかつては幾らでもいたはずが、潮が引くように時代と共に居なくなってしまった。

892

( 国際ハイウェイ・バスと銘うっているところが好い。)

897

 

( ウルムチ→トルファンのバス・チケット。料金は7・3元となっている。最近だと45
元ぐらい。えらく値上がったものだ。)

 

 まだ高層ビルの類は殆どなかったけど成都は大都会(現在人口1600万人)でもあって、信号が変わると、朝の広い道路一杯に自転車の群れが怒涛の如く向かって来る様は一見の価値ありもので、あれには本当に圧倒されてしまった。八億だったか十億だったかの正に人民中国そのものの迫力だった。
 成都といえば四川料理の本場、が体調を崩していて、余り辛いものは遠慮させてもらった。街角の店々に担々麺の看板が並んでいて、見るからに辛そうな汁は別になっていて麺の上にかける方式のようだった。そのやり方は最近になってようやく日本でも定着し始めたようだが、僕はといえばもっぱら湯麺の担々麺ばかりで、未だかけ汁方式の方は喰ったことがない。陳家麻婆豆腐も、当時コックのバイトをしていた日本人留学生によると、あの辛さは“ 意地と面子 ”の産物らしい。現在の辛さ追求も一段落した感のある日本のついこの間までの激辛追及も根は同じなんだろうか。

 

891

 

( 柳園→上海の列車のチケット。当時、敦煌には鉄道駅がなかったので、100キロ以上離れた柳園にバスで向かっていたけど、2000年頃に柳園から敦煌に名前が変わり、2006年に敦煌から10キロ近くに新しい敦煌駅が出来て、再び柳園駅の名に戻った。敦煌市内にはやはりバスで入るしかないようだ。)

893

 

( 上海の老舗・上海古籍書店で何か買った時のレシート。余りに崩し過ぎた字でなんて書いてあるかさっぱり。老子の解説書か神話の連環画だったろうか。外汇とあるのは外匯で、外国為替=兌換券のことで、当時はFECと呼ばれていた外人専用の通貨。1980年から始まり、1996年に廃止。)

 

|

2019年12月19日 (木)

令和の蠢動  海底探査船" たんさ "

 

 

 
 今朝ふと思い至ってレトロ岸壁に赴いてみると、果たして、薄っすらと朝靄でもかかっているのか、プレハブ・カスタムの向こうに妙な具合に何本もの黒い煙突を聳えさせた船舶が係留しているのが覗けた。
 近寄って見るにつれて、今まで見たこともない形をした、客船とはあきらかに異なる種類の、つまり作業船の類だとわかりはじめた。
 地上七、八階建てのビルに相当する高さで、先ず前方にその黒く細身の煙突が大小合わせて八基も連なっているのが意表をついた。船首に《 たんさ 》とだけひらがなで記してあって、まさか時節柄、逆読みの“サンタ”じゃあるまいなと訝ってしまった。
 しかし、妙に広く明るい操舵室ではあるものの、ごっつい船体、様々な設備が所せましと積載してあるのをみるにつけ、如何見ても“探査”の“たんさ”なのは了解でき、丁度カスタムのバリケードの向こうの岸壁のところで、何人かが作業をしているところだった。

 

 

 岸壁と船の上、唐突に船体側面から突き出た作業用のウイングにも白いヘルメットに作業着の乗組員たちも船体と岸壁の境目の、吊り下げられたロープの降りた一点に集中していた。後でそれが離岸のための、船体と岸壁の間のクッション材たる真っ黒く大きな俵型の防舷材引き上げ作業だったのが分かったが。
 大きな船の離接岸ってけっこう作業が大変なようで遅々として時間がかかるのは知っていたので、バリケート沿いに全体を眺め、カスタム岸壁の後方端から後部を確かめてみると、思った以上に幅が広かった。その上はヘリポートになっているようだったけど、船体自体は上部にワイヤーかなんかを通すリールがいっぱい横に並んでいた。てっきり、海底ケーブルを敷設する船と決め込んでしまった。以前、そんな、やっぱりごっつい船体の作業船がつい数か月前に停泊していたからだ。そのケーブル敷設船すら、両側に船体をこえて出っ張った作業用のウイングなんてなかったはず。

 

 
 ところが、家に戻ってネットで確かめてみると、海底の地質構造を立体的に調べる三次元物理探査船という何ともいかめしい名の探査船なのがわかった。後尾からエアガンという機器を流しそれが音波を発して、それとは別に、先述した上側に設えられたリールから海に長々と流されたケーブル(ストリーマーケーブル)のセンサーで海底やもっと下の地層にまで達した音波を受振し、そのデータを採取するという。
 要は、政府肝いりの業界と合同で行う海底資源開発の一環ってところのようだ。
 北海道側は近隣国との合同・共同開発なのが、南の沖縄近辺にはいろいろと様々な地下資源が眠っているようで独占的って皮算用らしい。
 本末転倒的な限りなく無駄を輩出し廃棄物の泰山富士山の連綿をごり押しし尽しての昨今の救いようの無い現況にもかかわらず、他惑星から海底の底まで、一向に反省することもなく私利私欲のためにのみ貪りつづけようとするとっくに破綻し尽した資本主義。
 グレタちゃんが唾棄してみせる由縁。

 

 

 残念ながら、手ぶらで偶々見つけたので、写真は撮れなかったが、ネットにはビデオすらアップされている。
 因みに、この《 たんさ 》号、十月に竣工式を終えたばかりで、このプロジェクトには、日立とともに日本郵船も加わっている由。

 

全長102メートル、幅40メートル、13782トン。

 

|

2019年12月 7日 (土)

ジャララバードへの道

 数年前に賊に拉致され殺害された<ペシャワール会>の伊藤和也君もそうだが、今回殺害された中村医師もやはり、パキスタン=ペシャワールとアフガンの首都・カブールのちょうど真ん中に位置するジャララバードでのことだった。

 二、三十年前、パキスタン人もアフガン人も、アフガン入国を企むパッカーたちに、カンダハール(南部の要衝)ほどではないにしても、ジャララバードは危険だと警告する者もいた。ペシャワールからけっこう近く、アフガン人がよく、当時の反政府・反ソビエト勢力のムジャヒディーンとは別に連れてってやると軽い気持ちで誘っていたものだが、パキスタン西部のクエッタやカンダハール国境近くの町だと、「絶対危険だから止めとけ!」と厳しい表情で諫めていた。
 ソ連が去った後も、ジャララバード近辺で西側や国連の医師団がよく襲撃されニュースになっていたものだった。

 ペシャワール会=中村医師は、自民党権力とそのエピゴーネンたちになびくことも同調もすることなく、自主独立を堅持してきた。
 それゆえにパキでもアフガンでも現地の人々の信頼を勝ち得てきたのだろう。
 たまたま<ペシャワール会>がジャララバードに活動の拠点を置いていたに過ぎないようだが、前回の伊藤君の事件の後もひるむことなく活動し続けていたのだ。
 
 死を覚悟しての活動とは言え、中村医師は、彼の地で斃れたゆえに本望だっただろうか、それとも道半ばで斃れたのは無念だったろうか。

 <ペシャワール会>のメンバーの人々の健闘を祈るのみ。
  
 

|

2019年11月 9日 (土)

廃都アンコル・・・路傍的残影

Anchor-1

 

 95年、97年の2回シェムリ・アフ゜(=アンコール・ワット)を訪れた。
 12世紀、アンコール王朝時代に国王ジャヤーヴァルマン7世によって創建されたという。最初は仏教寺院として、後ヒンドゥー教寺院に改修されたらしく、両方の混淆というところだろう。隣国タイやインドネシアなど東南アジア一帯にヒンドゥー教の影響・痕跡がみられるのも興味深い。

 アンコール・ワット前のチェック・ポストでチケット3日分=40ドル(95年、97年とも同額 : 現在は62ドル) 一応訪れる毎にチェック・ポストで切り取る3枚つづりの副券があるはずなのだが、副券のない日付の記されたチケットを渡された。確認とると問題ないとのことだった。当時、噂に聞いていた汚職の類なのだろう。
この頃は、まだポル・ポト勢力が残存してて、団体客にはM16かカラシニコフを肩にかけた兵士が一人護衛に就いていた。

Anchor-2

 

Anchor-3

 

Anchor-5

 

Anchor-6

 

 95年は9月に訪れ、雨季らしく、雨が多かった。一雨降るとたちまちシェムリ・アプの町は元々土を踏み固めただけの赤土道路がまだ多くたちまち褐色の泥沼と化し、アスファルト道路も整備ができてなくてデコボコで冠水状態になってしまう。夜も総じて暗いところが多かった。
 尤も、前夜の雨で早朝のタ・プロムなんか地面やガジュマル等の樹葉も適度に湿気を帯び、団体客も来てないこともあって雰囲気は最高だった。
 周辺住民の子供達が手を変え品を変え出没し外人客とみるとくっ付いてきて、ともかく“ドル”をくすね取ろうとする。皆それなりに家業の一員ってところなんだろうけど、大人のそれと違って愛らしくて憎めない。
 97年は5月で、雨は少なかったが熱かった。それでも、昨今の日本の夏と同程度の30℃台。
 早朝訪れると、やはり観光客も微少で、ガジュマルの大木や他の高木からハラハラと緑の葉が舞落ち、地面に堆積し褐色に変色した枯葉の上に重なってゆく様や響き渡ってくる鳥のさえずりに、しみじみ静謐さを感得できたりする何ものにも代えがたいひと時であった。

 

Anchor-4

 

Anchor-11

 

Anchor-8

 

Anchor-9

 

Anchor-10

 

Anchor-7

 

 個人的には、アンコールワットより、タ・プロム等の所謂アンコール・トムの方が ジャングルの中の遺跡って雰囲気がだんとつに素晴らしく気に入っている。( 当時、発見されたばかりのアンコール王朝初期の頃に建てられたバンティアイ・スレイも評判が良かったが、未踏のまま。)
 けど、最近は如何なんだろう。下手するとすっかり小奇麗に整備された"公園"の中ってものにされていかねない一抹の危惧に、ネットをチェックしてみると、さすがにタ・プロムのガジュマル=自然とアンコール文明(=人間)との溶融的産物として基本そのままの状態をキープしているようだ。

 

Anchor-17

 

Anchor-15

 

Anchor-14

 

Anchor-16

 

Anchor-13

 

Anchor-12

 

Anchor-18

|

2019年11月 2日 (土)

ジャイサルメールの酔華 《 旅先の一枚 》5

Bhangshop-s

 

  インドはラジャスターン砂漠で最も古い城の一つがあるので有名な町ジャイサルメール。
 お決まりのニューデリー→プシュカル→ジョードプル→ジャイサルメールのラジャスターン沙漠定番コース。魅惑的なプシュカルには10日くらい泊まったが、大きな砦フォートとやたら大きな角の牛たちだけしか印象的なものがなかったジョードプルにはたった半日。つまり一泊もせず、夜行列車でラジャスターン沙漠の代名詞的なジャイサルメールへ。
 ここの中心的存在がシタデルと呼ばれる黄土色の城砦。
 プシュカルよりも一回り大きなくらいのこじんまりとした町で、シタデルの中にはジャイナ教寺院や民家・ホテルなんかが立ち並んでいる正に城塞都市。そこから360度の展望が開けていて、一歩町の外に出ると、もうそこはパキスタンにまで至るラジャスターン沙漠。有名な観光地でもあるので外人客も多く、ラクダの背に乗って何日かラジャスターン沙漠を巡るアラビヤン・ナイトのツアーまで備わっていた。尤も、沙漠は何処も同じとばかり比較的近くのエリアをグルグル廻ってごまかす悪質ツアーもあるとかで、執拗な宿のスタッフからの誘いもあったものの当方は遠慮させて貰った。
 

 

 そんなシタデルの門前の一角に、“ Government authorized ”を明示した所謂《 バング・ショップ 》があった。
 Bhangとは所謂大麻・マリファナのことで、メニューにもあるようにバング・ラッシーやクッキー等を堂々と販売している。聖地たるバナラシ―にもバング・ラッシー屋はあったけど、同じヒンドゥー教の聖地・プシュカルじゃ如何だったのだろう。それほどに興味がある訳じゃないので、当方が気がつかなかっただけで、ひょっとしてあったのかも知れない。
 このジャイサルメールの店の看板は英語表記で、いかにも外人観光客を標的にしているようにも思えるが、インドって多民族国家で、特定の民族の言葉、つまり一応公的な言語ってことになっているヒンドゥ―語もすらも、押し付けに過ぎないとして、むしろ以前の宗主国・大英帝国の英語を共通言語として使う傾向があるらしく、だから必ずしも英語=外人狙いって訳でもないのだからややこしい。

 

 丁度絵に描いたような風体の白人が店の人間と何やら相談中。
 何しろ“ 政府公認 ”( 尤も単なる手書きに過ぎないけど )の金看板を掲げているので、怪しげって訳じゃない。むしろ、パキスタンはペシャワールの郊外にあるトライバル・テリトリー( 公権力の手が及ばない少数民族自治区 )にある通りに面した一見何の変哲もない小さな店の前でコソコソやっている方が遙かに怪し気で危ない。外から何の店なのか定かじゃないその地味な佇まいの店に一歩入ると奥の棚に堂々と大きな茶褐色の大麻樹脂や、“ヘロイン”の表示のあるものすら並んでいたりする。銃の町ダッラに赴く途中に寄ったに過ぎなかった当方のパッカー・グループは、“ヘロイン”の文字を見ただけで、こりゃヤバイとばかりそそくさとそこを後にしたけど、早速腰に拳銃を吊るした自治警官が目ざとくやってきて「さっさとここから出てゆけ ! 」とやんわりだが警告されてしまった。 

 

 

 ネット見ると微妙に相違があるが、バングって大麻の茎・葉から作られ、花から作られたものをガンジャ、樹脂をチャラス、中東じゃそれをハシシと呼び歴史は古いらしい。
 インドでは元々修行者=サドゥーなんかが修行的一環として使用したり、庶民もホーリーなんかの祭の時に使ったりするようだ。着色された水や粉末をかけ合ったりするホーリー祭の時に、塗料まみれになった参加者たちの動きが、どうもゾンビーの群のような覚束ない足取りに思えて、てっきりアルコールの故だと決めつけていたら、バング・ガンジャの類の故だった可能性も出てきた。
 近年、インド政府も、世界といっても基本欧米先進国の圧力に、国内のそうした伝統的な慣習に色々な制限・規制を設け始めたようなニュースを瞥見するにつけ、前回の《 童子蛋 》同様、その弊害著しいならともかく、そんな話余り聞かないし、むしろタバコの方こそよっぽど有害なのだから、誰憚ることなく堅持して然るべきだろう。

 

|

2019年10月22日 (火)

幼童的崇拝 ? 童子蛋

2_20191022114201
 
  
 なりゆきでロイターのネット記事を見ていて、ひょんな記事に出くわせてしまった。

 

 “ 童子尿煮蛋受追捧Urine hard-boiled eggs”(2012年)
 
 要するに、“ 少年(=童子)の尿で煮た玉子崇拝 ”ってことなのだけど、よく中国の駅前広場あたりでおばさんが出している《 茶蛋 》チャータンあるいは茶葉蛋とも呼ばれる茶葉や醤油等で煮込んだ玉子は、バックパッカーの間では有名で安く安定した食物として重宝されていたものだったが、この《 童子蛋 》は全く知らなかった。
 浙江省東陽市じゃ昔から春の風物詩として、少年の尿、つまり小便で鶏の卵を薬草なんかと一緒に煎じた童子蛋が重宝がられてきたという。
 このニュースだと、五歳以下の少年のものに限るとあるが、他のネット記事だと十歳くらいと記されたものが多い。少女のだと駄目なようで、陰陽学的な根拠なのか男尊女卑的な封建主義的論理なのか定かじゃないけど、多分にセクシャルなニュアンスが感じられなくもなく、稲垣足穂ならどんなタルホロジー的展開をしてみせてくれただろうか興味のあるところ。
 これを食べると、春の萌えた陽気に眠りこけたり気力が萎えたりすることもなく、夏の暑気あたりからも免れるという、韓国の犬肉料理=補身湯ポーシンタンの滋養強壮効果と似た効能が謳い文句のようだ。

1_20191022114301

 そもそも中国じゃ古から《 童子尿 》なる漢方的項目があったようで、《 本草綱目 》には塩味があり、無毒で、寒気や発熱による頭痛に効用があり、少年の尿が最良とあるらしい。現在の日本でも飲尿療法ってのがあるようだし、中国と並ぶもう一方の旧い文明大国インドでも、童子ならぬ神の使いたる牛の尿も治療薬の一つとして重宝されてきたらしい。
韓国に至っては《 トンスル 》という糞酒、つまり人糞を原料とする薬用酒もあるという。そういえば、《 戊戌酒 》ムースルジュという犬肉を使った酒も有名だし、《 犬焼酎 》( こっちは酒じゃなくスープだったか )ってのもある。
 近代化もいよいよ佳境に入って来たらしい昨今、“ 民間療法 ”の一語で葬られてしまうのだろうけど、この浙江省東陽市じゃ、《 童子蛋 》は、誰憚ることなく市の『無形文化遺産』( 非物質文化遺産 )として認定されている。
 愛国を押し付けたいのなら、せめて昔ながらの伝統食たる犬肉料理も堂々と市や県・省あるいは国が伝統文化として宣揚すべきじゃなかったろうか。

|

2019年9月21日 (土)

 軍服をまとったモダン・ガールたち 『 一剪梅 』(1931年)

7-11

 


 戦前の中国女優・阮玲玉(ルアン・リンユイ)の絡みで、時々DVDやポートレイトの画像を瞥見していた《一剪梅 》( 邦題・一枝の梅 )、岩陰に並んだ金焔と林楚楚や登場人物の軍服姿等に、そもそも映画の内容も知らない故もあって、何か彼女にそぐわない妙な違和感を覚えていた。尤も、江青も《 自由神 》で王瑩等と共に軍服姿で登場してはいたが。
 今回その《一剪梅 》、ようやく中国映画ネットで“中国語字幕版”を見ることができた。
 如何にも中国風のタイトルで旧き良き時代の鴛鴦(えんおう)胡蝶派的な恋愛物と思ってたら、シェークスピアの初期の作品《 ヴェローナの二紳士 》の翻案物という。
 何しろ登場人物の名が胡倫廷=バレンタイン、白楽德=プローテュース、施洛華=シルヴィア、胡珠麗(胡倫廷の妹)=ジュリア等そのまま。

 

 

1_20190919095601

 ( 左から白楽徳=プローテュース、胡倫廷=バレンタイン、胡の妹・珠麗=ジュリア)

 

 そもそも監督の卜萬蒼(ブ・ワンツァン)、アメリカ人撮影技師に技術を学び、ハリウッド志向が強かったようだけど、1920年代はまだまだ鴛鴦胡蝶派的な作品が全盛の時代で、《人心》(1924年)、《戦功》(1925年)等で、何年か後には中国“中國第一位電影皇后”や“悲劇聖手”(悲劇の匠)とまで賞賛される大女優にまでなった新人女優・張織雲を見出し育て上げた。殊に美人じゃないけれどおっとりとして優雅な雰囲気が人気を博したらしい。で、御多分に漏れず、監督・女優の関係がいつの間にか恋人同士になり、同居するまでなった。
 ところが、ここで思いもしない人物が登場することになる。
 後年、かの若くして自ら生命を絶った一大女優・阮玲玉の事実上の夫となった“茶葉大王”の異名を持つ資産家・唐季珊その人。
 何と絶頂の張織雲を手に入れようと華やかな社交界を利用し、所詮一監督に過ぎない卜萬蒼より大富豪の方を選ぶべくあれこれ画策し、とりわけ彼女を育てた養母にも取り入って、ものの見事に成就。豪奢な邸で共に生活することになる。
 ところが唐季珊、有名女優との浮名で十分に自身の企業価値が高まったと踏んだのか、さっさと彼女を捨ててしまった。捨てられた張織雲、その後、野放図な散財に身をやつしたりでどんどん零落していって娼婦的世過ぎまで至ったとか噂され、戦後香港の路上で野垂れ死んだとか病死したとか悲惨な末路を辿ったようだ。

 

6_20190919183401

 

 その張織雲と別れた頃、入れ替わるように監督の卜萬蒼の前に、後に戦前中国の一大明星・影后とまで呼ばれるようになる新人女優・阮玲玉が現れる。
 当時、稀代の京劇役者・梅蘭芳は、阮玲玉を、1920~30年代の米国サイレント映画の最高女優といわれたメアリー・ピックフォード( サイレント映画時代の代表的女優であり、プロデューサーでもある。チャップリン、D.W.グリフィス、D.フェアバンクスと共に映画会社《 ユナイテッド・アーティスト》社を設立。)になぞらえて、中国サイレント映画の誇りとまで賞賛したという。
 卜萬蒼、“ またと得難い悲劇女優 ”とまで直感して、張織雲以上の魅力と才能を彼女に見出し、一流の女優に育ててゆくのだけど、あろうことか再び資産家・唐季珊がその手練手管の魔手を伸ばしてきた。金と名声と奸智にものをいわせ、せっかく育て上げた阮玲玉をも掻っ攫っていった。尤も、阮玲玉の場合は、監督・女優としての関係に変化はなく、デビュー作《 掛名的夫妻 》以降も、この《一剪梅 》や《 三個摩登女性 》( 「三人のモダン・ガール」)等共に映画作りを持続していった。

7-2

 ( 一枝の梅の前でほほ笑む胡珠麗=阮玲玉 )

 

 1930年代初頭、上海映画界を席巻したのが、《 聯華影業公司 》の、それまでの旧態依然とした鴛鴦胡蝶派的な映画とは一線を画したハリウッド・ライクなニュー・ウェーブ派の、卜萬蒼,孫瑜(スン・ユィ)、費穆(フェイ・ムー)たちであった。
 そんな時代の寵児でもあった監督・卜萬蒼、当時まだ孫文=国民党の本拠地的残影濃い広州の軍警本部を舞台に、シェークスピアの《 ヴェローナの二紳士 》を基に、胡倫廷・珠麗の兄妹と、倫廷と同じ陸軍学校卒業生の親友・白楽德、赴任先の広州督辨署署長の娘・施洛華等のすったもんだの友情・愛情娯楽片。 
 《 聯華影業公司 》、広州・香港のロケまで敢行し、大勢の兵士( エキストラ ? )を駆使したりしてて、この映画に大部予算を注ぎ込んだらしい。

7-1

( 脂粉将軍・白楽徳の鞄の底。化粧品と女達の写真がどっさり。)

 

中国ブログじや定番のように“ 情侶曲折的愛情故事 ”( 恋人同士の山あり谷ありのラブ・ストーリー)ってキャッチ・コピーがついてるけど、確かに、広州の督弁署( 督辨署 : 日本の行政システムにはない中国独特の政治単位で詳細は不明 )を舞台にした軍服姿の恋人たちの、それこそ昨今のトレンディー・ドラマと寸分も変わらずのモダーン・ラブ・ストーリー。テンポも良い。
 陸軍学校の卒業日の寮内のシーンから始まる。
 皆、将来の夢に胸を膨らませてるなか、我らが“脂粉将軍”白楽德、大きな鞄の底に隠してあった化粧品の脇の大量の女達の写真を取り出し、ためつがめつ見入っては悦に入っていた。早速、同僚たちが笑っているのを聞きつけ、彼の親友・胡倫廷がたしなめる。
 と、シーンはその胡倫廷の邸に変わり、妹の珠麗が楽曲“ 我願意 I am Willing ”を友人のピアノ伴奏で稽古。その友人が一瞬振りかえる・・・何処かで見た記憶のある特徴的な顔立ち・・・阮玲玉と幾度も共演してた黎莉莉だった。クレジットにもない、この場面だけの出演。
 サイレント映画の定番の中間字幕(面)で、その二人のところを“ 一位超越時代的摩登女性”( 時代の先端をゆくモダン・ガールたち )と記している。

7-3

( すっかり仲の良くなった白楽徳と胡珠麗。)

 

 その珠麗を、たまたまやって来た白楽德が見染め、やがて珠麗も美男子でもない彼に行為を持つようになって許嫁の関係になる。
 胡倫廷に広東督弁署衛隊長の任務につくべく辞令が出て、広州の督弁署に単身赴く。この督弁署、軍隊が練兵しているかなり広い敷地を有した官庁で、日本の行政システムにはない政治単位のようで、適合する名称が杳として見当たらない。
 そこのトップ・施督弁が白楽德の親戚らしく紹介状を彼が紹介状を書いてくれたのだけど、忽ち施督弁の娘、凛々しく軍服を纏った洛華と相思相愛の関係に陥ってしまう。
 その内、白楽德も辞令が出て、赴任してくる。
 白楽德、子供の頃親戚同士だったので一緒に遊んだこともあったものの、すっかり成長して魅力的な女性になっていた洛華に一目惚れし、上海で待っている珠麗のことなんてもはや眼中になかった。どころか、悪心を起こし、洛華と親密な胡倫廷を疎ましく思うようになって、あろうことか冤罪的奸策を施督弁に吹聴し、追放してしまう。
 新聞に載った兄・倫廷の罷免を見て驚いた珠麗、単身で広州へ。
 洛華、珠麗に事情を聞いて、とりあえず彼女の副官として珠麗にも軍服を着させ匿う。

 

7-4

 ( 白楽徳に陥れられ罷免・追放になった胡倫廷の新聞記事。上司であるトップの施督弁もカンカンとある。 )

 

7-7

( 上海からわざわざ広州まで安否を確かめようとやって来た珠麗を慰める施洛華。)

 

 
 白楽德の心変わりの真偽を確かめるために、洛華は一計を案じ、白楽德と一緒に馬で遠出をする。白楽德、早速正体を現し、暴力的に彼女をものにしようとする。怪しんで跡をつけてきた同様に洛華を一方的に熱愛していた軍警督察署・署長に格闘の末阻止され逃げ出す。ところが所詮庶民に横暴な軍警のトップらしい署長、白楽德のおかぶを奪うように洛華に暴力的にアプローチ。馬で逃げ出した洛華を凄い形相で追いかける署長。あわや、と思われた次の刹那、何処から一本の投矢がうなりをあげて飛んできて署長の馬に突き刺さり馬は転倒。
 その投矢を放った人物こそ、誰あろう冤罪で追放された胡倫廷であった。
 ロビン・フッドを彷彿とさせる恐らくカラーだったら派手ないでたちであったろうモノクロだとかなりしょぼくれ感が強いのだけど、当時はハリウッドライクなロビン・フッド風ってところでむしろ颯爽としたものに観えたのだろう。

 

7-10

( 洛華の一計にまんまと乗せられ本性を露わにした白楽徳と同様に洛華に惚れた軍警督弁の諍い。 )

 

7-8

( 横暴な広州軍警の巡回。道路交通法違反って訳か、露天商を蹴散らしてゆく。この光景って、昆明やペシャワールでも見たことがある。)

 

7-9

( 貧民を虐める軍警の背に突き刺さった投矢。強きを挫き弱きを助ける、御存じ一剪梅。)

 

 

 実は胡倫廷、追放されてあっちこっちと彷徨っている内、強盗団の老首領に気に入られ、どんどん頭角を現して組織を仕切るようになっていた。
 そこは生真面目な胡倫廷、皆に諮(はか)って組織の変革を図る。

 

 “ 救苦済貧 鋤強扶弱 不許調戯婦女 ”
                   ( 調戯=嘲り弄ること。)

 

 要は「強きをくじき弱きを助ける」という如何にもロビン・フッド的なモットー=綱領を掲げた義賊、その名も《 一剪梅 》。翻った旗にも梅花の紋章が刻印されていた。この作品、いたるところに梅花の紋があしらってあって、そのキィッチュなまでの拘りは面白い。
 横暴な軍警に対して匪賊( =義賊 )《 一剪梅 》が現れ、虐げられる庶民を助けつづけ、ついには関東全省軍警督察署・署長の名において、「 その生死を問わず 捕らえた者に金一千元を与える 」という触書を配布するという事態にまで発展していた。
最後は、ロビン・フッド的な勧善懲悪ものと曲折的恋愛的相関物語を結合させた娯楽片の極みで、窮地に立たされた白楽德が自らの冤罪工作を施督弁に告白し、胡倫廷も珠麗も洛華も彼を赦し、胡倫廷も元の役職も戻れ、白楽德と珠麗も元の鞘に収まり予定調和的大団円。

 

7-12

( 梅花咲き誇る公園の岸壁に互いの想いを筆でしたため合う胡倫廷と施洛華。 )

 

7-6

( 匪賊の老首領と並んだ匪賊から義賊へと組織を変革していった胡倫廷。背後に掲げられた大きな旗にも梅花の紋様が。)

 


 軽快なテンポで展開されるハリウッドライクな作りは余り旧さを感じさせない。
 そもそも《 一剪梅 》って胡倫廷と洛華二人が、広州の何処かの公園の咲き誇る梅花の下で岩壁に毛筆でしたためた互いの連句に因んだ二人だけが知る命名だった。
 ハリウッドライクなモダンガールの所作としては些か古風だけど、これもハリウッド映画に席巻され過ぎて危機感を共有した在来の映画会社が合同して作られた《 聯華影業公司 》ならば、“中国”風味を前面に押し出した(「復興國片」)ものってところで違和感ないのだろう。当時の邦画で、モガが茶の湯をたてるようなものに違いない。

5

( 一剪梅のアジトに拉致された格好の珠麗と洛華 )

 

7-13

( 予定調和的大団円に目出度く終わって、広州督弁署の広い敷地の中をパレードしてゆく二つのカップル。)

|

2019年9月 7日 (土)

幻の楼蘭王国の秘宝 『 沙漠の古都 』国枝史郎

2_20190828111401
          

 

 かつてバック・パッカーの間での定番だった中里介山の一大長編時代小説《 大菩薩峠 》、パキスタン・ペシャワールの《 カイバル・ホテル 》のリビング・ルームのテーブルに積んであった泊客たちが置いていった本の中にも何冊かあったのか、一冊試しに読んでみたことがあったけど、陰々鬱々なイメージとは裏腹な、何とも喋々しい登場人物たちの饒舌さかげんに閉口したことがあった。
 大正2年から《 都新聞 》( 東京新聞の前身らしい )に連載を始め、その後さまざまな新聞を経て昭和16年までの30年近く連載し続けた文字通りの長編時代小説だ。
 その大正末にいわゆる大衆小説の決定版ともいえる吉川英治の少年向け長編時代小説《 神州天馬侠 》が《 少年倶楽部 》で連載開始し、その前年にも国枝史郎の《 神州纐纈城 》( しんしゅうこうけちじょう )が《 苦楽 》( 直木三十五が発行 )に連載されたりで、長編時代小説はなやかし時節の観がある。とりわけ《 神州天馬侠 》、《 神州纐纈城 》は伝奇時代小説の精華ってとこだろうか。

 

 

 で、国枝史郎だが、大正11年に『蔦葛木曽桟』( つたかずらきそのかけはし )で一躍有名作家の仲間入りし、伝奇時代小説を中心に活躍したらしい。時代が下るにつれて、時代の鬱屈がエログロ・ナンセンスを跋扈させるようになってからは次第に下降していったのか、昭和7年に《 ダンサー 》を《 婦人公論 》に連載し、翌年春陽堂から単行本として出版すると忽ち発禁処分にふされる。“風俗壊乱”の廉ってことなのだが、愛国・国防婦人会などが台頭してきた時節に、それも婦人雑誌上で、当時の踊子=ダンサーの奔放な世界を描こうとして、例えば、ダンサーのファン(ここでは、ダンス・ゴロと呼ばれていて、昨今のアイドルたちのオタってところ)たちが彼女たちの楽屋裏にでも赴いてのアプローチを、

 

 「 誘惑? 耳たぶを唇で食える奴、腹を無闇におっつける奴・・・・・・左のズボンのポケットの中へゴム毬を入れて来て刺激するような迚(とて)もあくどい奴もあった。」

 

 なんて戦後なら何と言うこともない描写であっても、その露骨さは官憲どころか、愛国・国防婦人会の連中の神経を逆なでするに十分であったろう。
 総じて国枝は現代物は苦手なように評されているようだけど、初期の頃、つまり人気絶頂の頃、現代を舞台にした伝奇冒険小説としてこの《 沙漠の古都 》は好評を博したという。( 但し、本名じゃなく、イー・ドニ・ムニエというペン・ネームを使って )

 

 

  1922年(大正11年)に博文館が発行した大衆向け探偵小説専門誌《 新趣味 》、翌年の関東大震災後に廃刊となり、同じ探偵小説専門誌として新たに《 新青年 》を発刊し継続したという。その《 新趣味 》で大正12年3月から10月まで《 沙漠の古都 》を連載。ポーやルブラン、デュマ、O・ヘンリー等の海外の作品の翻訳が多く紹介されていた中に紛れるように、“イー・ドニ・ムニエ・著、国枝史郎・訳 ”として。彼もあれこれのペンネームを使い分けていたようで、当初はまさか国枝自身の創作だとは誰も気づかなかったらしい。

 

伝奇冒険小説の範疇に入るのだろうが、この雑誌《 新趣味 》は、探偵小説専門と銘うっていて、確かにそんな探偵物的ミステリーのプロローグではあった。
 そもそも最初の主人公らしき人物たちは欧州の探偵。
 つまり、イー・ドニ・ムニエ著とは、正にそんな前提を逆手に取った、あるいは韜晦趣味的演出ってことなのだろう。

Photo_20190828111401

 

 

 最初の舞台は、スペイン・マドリード。
 ホームズばりの神出鬼没な慧眼の探偵・レザール、相棒(ワトソン的存在というのか)の“描かざる画家”ダンチョン、そしてラシーヌ探偵の三人組が、遙か東方・幻の湖と呼ばれた羅布湖(ロプノール)の汀に栄えた回鶻( ウイグル )人の都・楼蘭(ろうらん)王国の隠された財宝を求めて、延々とロシア、楼蘭、北京、上海そしてボルネオ・サンダカンまで追跡してゆくのだけど、それに美貌のトルコ娘・紅玉(エルビー)、第二章から出てくる張教仁、そして袁世凱の後身たる悪役=世界征服を企む秘密結社の首領・袁更生までが絡んでくる次第。
 【 支那青年の忘備録の抜粋 】という形で登場する、袁世凱の生命をつけ狙うその青年・張教仁が実質的主人公といっても差支えなく、三人の探偵グループの方が、むしろ狂言回し的な存在といえよう。中国の秘密結社好きで造詣も深いらしい国枝の嗜好から来ているのだろう。語り口も、プロローグのスペインより、中国( 小説内では、当時の一般的呼称・支那が使われている )国内に入ってからの方が躍如としている。
  
 
 「 此の頃北京は物騒であった。政府の高官顕職が頻々として暗殺された。そして犯人はただの一度も逮捕されたことがないのであった。
 その又殺し方が巧妙であった。巧妙というよりも奇怪であった。その一例を上げて見れば、或る白昼のことであったが、警務局の敏腕の班長が、二人の部下を従えて、繁華な灘子(だんす)街を歩いていた。街路の両側の小屋からは、幕開きの銅鑼の賑やかな音が笛や太鼓や鉦に混って騒々しい迄に聞こえて来る。真紅の衣裳に胸飾、槍を提(ひっさ)げた怪美童を一杯に描いた看板が小屋の正面に懸かっている。外題はどうやら、『 収紅孩 』らしい。飯店に出入りする男子の群、酒店から聞こえる胡弓の音、『 周の鼎、宋の硯 』と叫び乍ら、偽物を売る野店の売子、雑踏の巷を悠々と班長と部下とは歩いて行った・・・」
 

 

 ある唄声を聴こうとして、暮れなずむ上海旧市街の巷、“ 不潔な道筋 を眼を顰めさせながら ”そぞろ歩いてゆく探偵ラシイヌ。

 

 「 日没を合図に内外の市街は――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟であってその日没も近づいているので、ラシイヌは廓門の一つから城内に急いで這入って行った。城内の街の狭隘さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出し殆んど小溝を作している。下水の桶から発散する臭気や、葱や、山椒や、芥子などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙と共に人の臭覚を麻痺させる。小箱のような陋屋からは赤児の泣声や女の喚き声や竹の棒切で撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱(コーラス)を作っている。」

 

 

 同じ隠された秘宝探求の冒険活劇映画《 インディー・ジョーンズ 》のようなジェット・コースター・ムービーがそうであるように、かなり御都合主義的な展開が少なくない。
月刊雑誌の連載という性質上、テンポ良く進行せざるを得ないのだろう。
 後半から舞台はボルネオ(島)・サンダカンから河を遡った奥地のジャングルに移ってゆくが、当方的には些か中だるみの感が否めない。有尾人=ピテカントロプスなんかも登場したりするのだけど。
 確かに、大正時代当時だったら新鮮で遙か西方沙漠の秘宝を追い求めて地球半周ってのは面白かったに違いない。

 

 

 明治20年(1887年)、長野の役人の四男として生まれた国枝史郎。
 早稲田の英文科に入り、小川未明の主宰する《 青鳥会 》に参加し、そこの生田蝶介に口説かれ《 講談雑誌 》で《 蔦葛木曽桟 》を連載を開始。評判良く、翌1923年(大正12年)には《 沙漠の古都 》を《 新趣味 》に連載。
 一応《 沙漠の古都 》以外にも、《 東亜の謎 》、《 犯罪列車 》(南信日日新聞=現・長野日報に連載)なんて現代物もちゃんとあるようだ。 
 1943年、終戦前に喉頭癌のため死去。

 

|

2019年8月24日 (土)

夜来香の女  大泉黒石『 淡水艶女傳 』

1_20190806180601  

 ( 口絵 )

  黒石の短編《 淡水艶女傳 (二) 》が昭和六年発行の『 グロテスク 』八月号に載っていた。当方の持っているこの号は背表紙と背の部分が破損していて古書店で補修している朽ちかけ版。他の『 グロテスク 』二冊は新年特別号で、この八月号を最初見た時、あれっ、小版になっちまったの?、と驚いてしまった。実際は版の体裁は変わってないもののページ数が半分に減って随分と小さく見えてしまったに過ぎなかった。
 奥付に普通号50銭 新年特集号1円とあるので、こっちが普段のページ数=厚さってことになるのか、と決めつけようしたら、【 編集後記 】に「八月号は諸君の頭を大いに暑中休養して貰うために、ウンと、思い切って薄っぺらなものにしました。」とあった。他の号は定かでないけど、この八月号だけなんだろうか?
 因みに、同じ編集後記に、「毎年のことですが、山の、海の遭難者の報を耳にします、いたましい限りです。グロの愛読者諸君も海に山にお出かけのことゝ思いますが、危険なところはアブナイ所と極まって居りますから・・・」とあって、戦前も変わらなかった夏の庶民的風俗。

 

 

 昭和六年といえば、前年にインドでガンジーが反英非暴力抗議運動を開始、国内じゃ共産党員全国一斉検挙、そして秋には台湾で現地民が日本統治権力に対して武装蜂起した《霧社(むしゃ)事件》の記憶もまだ生々しい時節。それでも、昭和12年の日支事変(日中戦争)勃発=皇民化政策実施はもっと先で、それなりの余裕がまだまだあったのだろう。
 そんな台湾の首府・台北から、現在では電車で40分の台湾海峡に面した淡水という港町を舞台にした短編。
 スペイン・オランダの旧植民地でもあって当時の建物も残っている長崎にも似た国際色豊かな港町・淡水。そもそも淡水とは台湾北部の富士山より高い大覇尖山に源を発する大漢渓と新店渓が合してできた河の名であって、首府・台北を貫き、河口の淡水港・台湾海峡に注ぎ出ている。当時、日本から一山当てようと多数押しかけ開いた料亭・娼館で繁盛していたという。
 
 「 港口の灯台光のもとを往来する船の灯の明滅。汽笛の響き。漕ぐ櫓の音や鴎の羽ばたきに遣る瀬無き覇旅(たび)の情を誘われる彼・・・楼上に酒をくむ洋画家見月深太郎である。楼房(へや)を籠めて妖しく烟(けぶ)り薫ずるは女の髪にさしかざしたる夜来香の花。」

 

2_20190806180801

 

 夜来香の花を髪に挿した婀娜女の魅力と細やかな情愛に惹きつけられ、つい長居を決め込み、ちょっとのつもりが、気付くともう夜の十時。三時間も居座っていたことになる。明朝早く船で退たねばならず、未練を断ち切って部屋を出ようとすると、女はあれこれと思いとどまらせようとする。
 “花ならば崩れこぼれるばかりの瑤々たる嬌姿”
 とある。
 酒精にほんのりと頬を染めて、立ち上がろうとする彼の体にまとわりついて放そうとしない。
“わづかに汗ばんだ彼女の肌からいきれたつ女の匂い”
 やがてその支那料理店・青亀楼の女将・お波が現れ、娘の礼儀知らずを咎めては見せはするが、結局女将の勧めもあってそこに泊まる仕儀になってしまう。
 火山・大屯山の麓の北投温泉や五星山の麓の草山温泉の案内まで話が弾む。
 そして、場面は、翌朝・・・
 
 「 淡水長崎間航路の汽船が黒煙を海波になびかし、台湾北端石門庄の沖合を通過するころ、彼・・・見月深太郎は富貴角灯台の後にそびゆる大屯山の雄姿を眺めながら、船の甲板のベンチの上で前夜から今朝までの思い出に耽ってゐた青亀楼の女将・・・彼女は酒食の勘定を取ろうとしないので、彼は志しとして若干の礼をしたのである。」

 

 

 そもそも青亀楼とは、日本から渡って来た女将・お波が中国人貿易商と一緒になり、死に別れてこの淡水で十数年前に開いた店で、同じ中国人貿易豪商、その実は阿片の密貿易の大親分たる中国南部、厦門に本宅のある汕頭(スワトウ)の三龍漢(サンルンハン)が頻繁に利用していて、その三龍漢がその女将の妹・香代子に惚込み妾にしようと手下の太吉( 女将の弟、つまり香代子とは兄妹 )を使って執拗にくどかせる。
 ところが、香代子の方は、ともかく三龍漢を毛嫌いしてて、太吉が幾ら凄もうと取りつくしまもなく、しまいには太吉、実の姉の女将にすら怒鳴られる始末。
 その辺の事情を、洋画家は、夜来香の女に酒の肴に聞かされていた。
 おまけに、彼等密貿易商って、元々は皆まじめな貿易商だったってことまで教えられ、中国政府の舶来品、特に贅沢品の関税の大幅な引き上げ政策によってさっぱり商売あがったりで、やむなく違法な、しかし、当時の植民地香港を基点に、ややこしい政治的間隙をついて楽々と不当な利益を獲る方途へと走ってしまったという。
 

 

 実はかの青亀楼の女将はその洋画家の知人からの推薦状を貰っていて、その故の厚遇かと洋画家は推量してみたりして、早朝の船上のベンチに坐ったまま、そっと夜来香の女が彼のポケットにしのばせてきたハンカチーフを取り出してみた。
 と、ひろげたハンカチーフに紅い絹糸で結ばれた三筋の毛髪が、そして隅に彼女の名が刺繍されていた。
 なんと、彼女こそ噂の女将の妹・香代子だったのだ。

 

 当時の中国の虚々実々な情勢をネックに、南国の夜のふと漂ってくる夜来香の如くの一抹の艶話ってところ。今一だけど、黒石らしい小品。

 

3_20190806180901

|

より以前の記事一覧