
( 長崎駅前からバスに乗り、浦上街道を北上し、30分くらいで時津の小さな港町に。明治・大正の頃には茶店があったようだけど、今は汎世界的にスターバックスがある。こんな小さな町レベルの場所にも出店してるとは。カトリック世界で、かつて殉教した二十六聖人は有名らしく、それに因んだ浜ってことであえて出店って運びになったのだろうか。因みに、バス停スタンドの脇のベンチ、奇妙になってるけど、実際壊れていて、この写真撮った後に役人らしき連中がやってきて、運んでいった。)
差別主義・排外主義が内外を問わず大手を振って跋扈・瀰漫する昨今、ふと、一世紀前にそんな風潮にさんざ痛めつけられてきた日・露の混血児、我等が大泉黒石に想いが至る。
辻潤たちの思惑通りの太平洋戦争の敗北はいざ知らず、故郷の長崎での原爆的悲惨に、一体、駐留米軍の中で通訳として働きながら黒石は、いかなる想いを抱懐したのだろうか。幼時を共にした神主の息子や春徳寺の息子たち、口煩い親戚、あるいは桜馬場小学校や海星中学の同級たちの面影が走馬燈の如く去来しただろうか。
偶々、ネットで、黒石の自伝的研究を着実に展開しつづけている児玉司の《 大泉黒石(私)研究 大泉黒石の画帖──「俺の落書」「妖畫帖」ほか 》に遭遇。
当方も以前、黒石の画才的発露ともいうべき月刊誌《 雄弁 》大正9年(1920年)新年号・2月号掲載の《 「俺の落書 少年時代に書いた絵」と「 自賛」 》で、黒石の描いたスケッチを紹介したことがあったけど、思いの外、黒石、かなりあっちこっちに描いていたようだ。漫画風の絵柄は当時の流行りなんだろうが、《 午 》( 日吉堂本店 )なんかの綴じ込み見開きの挿絵は、その由来未詳ながらもダイナミックで面白い。当時の挿絵界の寵児・小川芋銭とは、また趣きが異にしている。
その中の《 睡れる少女の顔 》なるうたた寝する娘の横顔のスケッチあるいは線描画。
「海に面した小奇麗な茶店」、実際は駄菓子屋も兼業。
「あちこちスケッチして歩いているうち、ひどく咽喉が渇いて」
ラムネを飲みに入った。
ラムネは二銭五十厘、持ち合わせの三銭全部置いて去った。
茶代と黒石は記しているけど、チップというところか。
走るように店を出たというから、そんな所作が大人びたものに思え気恥ずかしかったのだろう。
その茶店の店先でうたた寝していた娘の寝顔に魅かれ、自身の若くして逝ってしまった未知の母親を重ね合わせるようにして髪の一本一本を白紙に写し取っていったのか、それとも少し年上の女性(にょせい)に淡い思春的憧憬を抱懐し、秘め事の如くのデッサンだったのだろうか。あるいは眠り姫のごとく。

( 時津川の河口。向こうに大浦湾が覗けている。右側先に時津港・長崎空港行のフェリー乗場がある。小さな埠頭で、それらしき大きなキャリーバッグを引っ張っていた客らしき人物一人みたきり。)
大浦湾にいどんだ時津というごく寂しい漁村での点景。
実はその娘、黒石のクラスメートの親戚で、後、親しくその店に通うようになるのだけど、元々、時津には、黒石の乳母だった女性の実家があったりして、
「 私の幼年時代の記憶の中で、一番色彩の濃いのは、この漁村である。」
とまで記している。
当時の若き黒石、気が向くとスケッチブック片手に、三里(約12キロ)も歩いて、喧しい長崎の街から、大浦湾に面した静かな寒村に赴いたという。様々な日々のストレスから解放ってところなんだろう。
スケッチブック少年というと、やがて盟友とも腐れ縁とも謂われる辻潤の一子・一(まこと)が思い出されるが、一(まこと)少年も、母親・伊藤野枝を甘粕等憲兵隊に虐殺され、片親という環境で育っていた。一(まこと)だけならともかく、若き黒石もそうだとすると、こじつける訳じゃないが、何か共通する悲哀じみたものを覚えざるをえない。
その時津、現地じゃ「とぎつ」と読むらしい。
大浦湾南端のかつての鯨の町であり、浦上街道を南下し、長崎の街へと鯨肉を運ぶ拠点であった。この黒石の頃は、長崎もまだまだ凋落の影すら見えない繁華な時節だったようで、鯨の良質・高級な部位が運ばれ消費されていたという。
そこで思い出したのが、大正九年《 中央公論 》第三十五年春季大付録号に掲載された《 長崎夜話 》の、主人公・黒助青年( 二十歳の留年中学生 )の幼少期の乳母だった女性の実家が、地名は明示してないけれど、近郷の漁村で鯨商を営っていたという設定。
「 この老婆と娘とは、浜辺の村で鯨を商っている羅馬教の信徒だ。」
勿論、黒石に近しい人脈=貧しいばかりの群像ってところで、店舗での鯨肉の小売りだったのか、それとも一台っきりの大八車か背籠で鯨肉を商う行商の類だったろうか。
お島とおふじの二人が、決まって毎月はじめに、隣町の浜から、藁包みした鯨肉を下げて、"旧主人"の黒助=盲目の祖母の元へご機嫌伺いに通っていたのが、それに対する黒助の返礼が滞りがちになるにつれて、下げて来る鯨肉がだんだんと小刻みに小さくなってくるのが、足下を見透かされ、小馬鹿にされているようで腹立たしかった。
つまり、「 生存競争に追い詰め 」られ、家財道具が一つづつ消えてゆく様を訪れる毎に二人が目の当りにし、
「 坊ちゃんのお袋さんの手垢の附いたものは、いつ見ても懐かしい」
と追従しながら、ふと開いたミシンの蓋の中が空っぽになってたりして、
「 今に坊ちゃんが学校を出て東京へ上らっしゃると、偉ろう出世して戻ってらっしゃるけ。今暫くの辛抱なもし」
と、魔の悪さを誤魔化す様に繰り出す励ましの言葉がいよいよ屈辱三昧。
あげく、すっかり“ 根絶やし”に売り払ってしまった黒助、口煩さい親戚・縁者達の目をかすめるようにして、盲目の老婆を引き連れ、昔馴染みの額縁屋・夏蔵の、鳴滝奥の竹藪の奥にひっそりと佇む元シーボルト屋敷たる今にも崩れ落ちそうな陋屋の二階三畳間へ引っ越す仕儀に。

( 日本列島中そうだろうけど、ここもすっかり整備された遊歩道的岸壁が続き、向こうに大浦湾が拡がっていている。高速バスから望む大浦湾は、高みから見下ろすパースペクティブ、中々のもので、ここだけはしっかり視ることにしている。両側には工場や商業施設が並び、小さな町にもかかわらず、この周辺じゃ基幹的なポジションにあるのかも知れない。)
そのごつごつした木綿の盲目縞(縦横糸とも藍染めした綿布)を着こんだその二人は羅馬(キリスト)教信徒で、老婆のお島は、首からECCE HOMEの刺繍のある黒羅紗の札をさげ、娘おふじは、首からアルミの馬利亜像。
長崎といえば隠れキリシタンだけど、彼女達の家の厄介者扱いされている老爺・佐太郎が、浜に教会が建てられてから浄土宗から耶蘇教あるいは羅馬教(キリスト)教に帰依したというなら、明治維新以降の新キリスト教徒だろう。
因みに、明治初頭は、まだ隠れキリシタンは弾圧されていて、欧米諸国から猛烈な批判・非難に晒され、明治六年にやっと禁制解除となった。
実際の時津には、キリスト教徒は少数らしく、明治維新以降戦後もキリスト教会はなかったようだ。比較的最近、1979年になってようやくカトリック教会が建立。現在も存在してるようだけど、大浦湾じやなく、五島灘・東シナ海に面した出津(しつ)ってところには、1882年(明治15年)にフランス人宣教師ド・ロ神父によって建てられたカトリック教会が建てられていた。遠藤周作の《 沈黙 》の舞台にもなった一帯で、海沿いの一角に《 沈黙碑 》があるという。
佐太郎老人もお島・おふじも、維新以降明治前期当たりの信者なのだろうから、こっちの方が理には適っていよう。只、この出津は、外海側で、長崎から時津の倍、二十キロ近くあって、スケッチブック片手に気軽に徒歩で行き来するってのには無理がある。
黒石がこの出津( 勿論、実際にはそれ以外の特定の場所かも知れない )を念頭において時津に組み込んだのか、単純に後に出てくる佐太郎の告別式の七彩的妖気漂う異界空間としての伴天連的牙城として欲したのか。
この佐太郎老人、若い時は唐人屋敷に丸山遊廓の遊女たちを引率する役人だったという。渡辺淳一《 長崎ロシア遊女館 》でも、幕末に停泊中のロシア艦隊に丸山遊女の便宜を求められ、盗賊方改め・中村吉兵衛が、折衝役に命じられ、丸山遊女たちを斡旋しようとしたものの、ロシア海軍(英国軍も)も先ず検黴( 梅毒検査 )の実施を迫り、しかしながら、股を拡げて検査されることが彼女達にとっては死んだほうがましなくらいの屈辱以外の何ものでもなく、皆けんもほろろ。 しかたなく、中村吉兵衛、ロシア海軍寄港地のある稲佐の地元の貧しい娘達に白羽の矢を立て、丸山で基本的所作を学ばせて、もちろん稲佐の娘達もやっぱり検黴には拒絶を示したが獲られる利益を説いて承知させたってストーリー。

( 港の芝に立てられた日本二十六聖人の案内書。秀吉の命により、京の切支丹たちが長崎・西坂の刑場まで見せしめのために歩かされたようだ。わざわざ大浦湾を通ったってのは、陸路のままじゃ途中難所でもあったのか、あるいは地元の切支丹信者たちに襲われ聖人たちを奪還される可能性を危惧したからだろうか。)
ところが唐人屋敷は明治三年に焼失。明治九年の廃刀令・秩禄処分で武士は文字通り消滅。下っ端侍はいよいよ生活も困窮を極めることとなる。浜の村に小さなカトリック教会が建つと、さっそく跪き、やがて敬虔なカトリック信徒となった。最初は、周辺の者たちに気付かれないように、隠れるように信仰していたという。
朽ち果てたシーボルト屋敷の住民・夏蔵、遊廓通いをしているらしいキリスト教徒の教師・福田、そしてその旨恐喝し卒業単位を獲ようとする落ち零れのクラスメート、福田の贔屓の遊女・絲遊等の人間模様の只中で、このカトリック信徒・佐太郎老人を端緒に、やがて佐太郎老人の葬儀が執り行われた件のカトリック教会での、詳しいカトリック的式次第や、参集した面々のおどろおどろしい怪異的変容等の異教・異界的現象が、境界世界としてゆらめく説話世界は面白く、伴天連カトリック信徒=お島・おふじの二人が、次なる物語展開の基軸でもあるような黒石の思わせぶりな予告で、いよいよ伴天連カトリック的異教世界の仄暗いエピソードの連綿なのか、それとも意表を突く黒助に疎まれた老若女二人組の、黒助を更なる途方もない波乱凋落的運命に追い落としてゆく悲惨譚がまっているのか。
( 事実的には、続篇なしで、この巻だけの完結世界 )
黒助の記憶にあった佐太郎老人は、肺病が筒袍を着ていつも気味悪い咳をする影法師のようなヨボヨボの老人だった。
天主堂の物置みたいな病室で生きを引取ったのだ。
以前、その天主堂の物置小屋みたいな薄暗い小部屋の中で、藁布団の上に毛布を敷いた上の病的に細くなった佐太郎老人を見舞ったことがあった。
その時、黒助に胡散臭そうな眼差しを向けた、巨大な蝙蝠のように黒衣を纏い梟の嘴を想わせる鼻の大男の神父が、時折、老人の顔を覗き込む姿が、あたかも老人を地獄へ誘き寄せるために神父に化けて天主堂に忍び込んできたサタンの如くで、以来、黒助はこの天主堂を忌避していた。
この境界世界的天主堂はともかく、この天主堂の薄暗い小部屋に病んだまま蟄居していた佐太郎老人の姿って、漫画家・つげ義春の父親が、精神を病み、カラダをも病んで、板前として働いていた料理屋の布団部屋に放り込まれていたのを母親に連れられて見舞に行った際の光景を彷彿とさせる。芥川がそうであった如く、彼つげ義春も後年の恐怖に怯えるようになった果てでの鬱病だったか。
同時に、つげの祖父、母親の養父の元漁師だったのが、歳を取ってから体力もなくなり、或る日とうとう窃盗に及び、数年収監され戻って来て、その祖父の下で養女として貰われてきてからというものさんざ虐待されてきた恨みを晴らそうとばかり、「役立たず」( 千葉方言で )と罵しり続けたというエピソードでの、力ない悄然とした老爺の姿が、佐太郎老人と重なったりもして、当方の胸裏には少なからずのリアリティーあるキャラクターとして佐太郎老人はうずくまっている。勿論、明治と昭和との差は随分あるものの。

( 空港フェリー船。むしろ艇と云った方が近い。長崎空港は未験で想像の他だけど、大浦湾沿いにあるようだ。)
現在の時津はすっかり整備され、小さな港であっても、一応空港までのフェリーもあり、かつてを偲ぶには些かの想像力を起動させねばならない風だけど、向うに拡がる大浦湾を望むと、ふと一陣の涼風が吹き付けてきたりする時、涼やかさの内に少年黒石やうたた寝する娘、黒助や佐太郎老人、藍染めを纏ったお島・おふじたちの姿と息吹が垣間見えたり。
何しろ、このかつての小浜は、秀吉の命により長崎・西坂の丘で処刑されるカトリック二十六聖人が大浦湾を渡って到着した場所であって、その碑も建っている。黒石の時代、明治後半に、既に二十六聖人を祀った碑が建てられていたかどうか、当方は詳らかにしないが、黒石は当然知っていたろうから、やはりこのかつての静かな寒村に、蒼茫とした大村湾を背にし、人々の苦海で白く糊塗した天主堂を幻視したのだろう。

( 日本二十六聖人の碑。嘗てのこの浜から片耳を削がれた切支丹信徒と神父たちが上陸し、乗って来たバスと真逆に、浦上街道を通って、西坂の刑場まで繋がれていった。純粋信仰と布教ならば秀吉も大目にみたろうが、既に長崎近辺じゃ神社仏閣破壊、僧侶殺害・追放、日本占領画策まで企図していたのをオランダ商人たちに吹き込まれての追放・禁教令という。狐狸庵先生の如く、切支丹=全面被害者という図式は、既に中南米でのイエズス会やキリスト教団の極悪極まりない歴史的犯罪をすら無視した上での虚妄に過ぎる。この図式って、ミレニアムの現在でも基本的に変わりない欧米先進国的覇権的連綿。尤も、その秀吉も、侵略を企んでいたのは、朝鮮半島だけじゃないようだ。権力主義者って、どいつも、こいつもって訳だ。)