カテゴリー「旅行・地域」の323件の記事

2019年11月 9日 (土)

廃都アンコル・・・路傍的残影

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 95年、97年の2回シェムリ・アフ゜(=アンコール・ワット)を訪れた。
 12世紀、アンコール王朝時代に国王ジャヤーヴァルマン7世によって創建されたという。最初は仏教寺院として、後ヒンドゥー教寺院に改修されたらしく、両方の混淆というところだろう。隣国タイやインドネシアなど東南アジア一帯にヒンドゥー教の影響・痕跡がみられるのも興味深い。

 アンコール・ワット前のチェック・ポストでチケット3日分=40ドル(95年、97年とも同額 : 現在は62ドル) 一応訪れる毎にチェック・ポストで切り取る3枚つづりの副券があるはずなのだが、副券のない日付の記されたチケットを渡された。確認とると問題ないとのことだった。当時、噂に聞いていた汚職の類なのだろう。
この頃は、まだポル・ポト勢力が残存してて、団体客にはM16かカラシニコフを肩にかけた兵士が一人護衛に就いていた。

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 95年は9月に訪れ、雨季らしく、雨が多かった。一雨降るとたちまちシェムリ・アプの町は元々土を踏み固めただけの赤土道路がまだ多くたちまち褐色の泥沼と化し、アスファルト道路も整備ができてなくてデコボコで冠水状態になってしまう。夜も総じて暗いところが多かった。
 尤も、前夜の雨で早朝のタ・プロムなんか地面やガジュマル等の樹葉も適度に湿気を帯び、団体客も来てないこともあって雰囲気は最高だった。
 周辺住民の子供達が手を変え品を変え出没し外人客とみるとくっ付いてきて、ともかく“ドル”をくすね取ろうとする。皆それなりに家業の一員ってところなんだろうけど、大人のそれと違って愛らしくて憎めない。
 97年は5月で、雨は少なかったが熱かった。それでも、昨今の日本の夏と同程度の30℃台。
 早朝訪れると、やはり観光客も微少で、ガジュマルの大木や他の高木からハラハラと緑の葉が舞落ち、地面に堆積し褐色に変色した枯葉の上に重なってゆく様や響き渡ってくる鳥のさえずりに、しみじみ静謐さを感得できたりする何ものにも代えがたいひと時であった。

 

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 個人的には、アンコールワットより、タ・プロム等の所謂アンコール・トムの方が ジャングルの中の遺跡って雰囲気がだんとつに素晴らしく気に入っている。( 当時、発見されたばかりのアンコール王朝初期の頃に建てられたバンティアイ・スレイも評判が良かったが、未踏のまま。)
 けど、最近は如何なんだろう。下手するとすっかり小奇麗に整備された"公園"の中ってものにされていかねない一抹の危惧に、ネットをチェックしてみると、さすがにタ・プロムのガジュマル=自然とアンコール文明(=人間)との溶融的産物として基本そのままの状態をキープしているようだ。

 

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2019年11月 2日 (土)

ジャイサルメールの酔華 《 旅先の一枚 》5

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  インドはラジャスターン砂漠で最も古い城の一つがあるので有名な町ジャイサルメール。
 お決まりのニューデリー→プシュカル→ジョードプル→ジャイサルメールのラジャスターン沙漠定番コース。魅惑的なプシュカルには10日くらい泊まったが、大きな砦フォートとやたら大きな角の牛たちだけしか印象的なものがなかったジョードプルにはたった半日。つまり一泊もせず、夜行列車でラジャスターン沙漠の代名詞的なジャイサルメールへ。
 ここの中心的存在がシタデルと呼ばれる黄土色の城砦。
 プシュカルよりも一回り大きなくらいのこじんまりとした町で、シタデルの中にはジャイナ教寺院や民家・ホテルなんかが立ち並んでいる正に城塞都市。そこから360度の展望が開けていて、一歩町の外に出ると、もうそこはパキスタンにまで至るラジャスターン沙漠。有名な観光地でもあるので外人客も多く、ラクダの背に乗って何日かラジャスターン沙漠を巡るアラビヤン・ナイトのツアーまで備わっていた。尤も、沙漠は何処も同じとばかり比較的近くのエリアをグルグル廻ってごまかす悪質ツアーもあるとかで、執拗な宿のスタッフからの誘いもあったものの当方は遠慮させて貰った。
 

 

 そんなシタデルの門前の一角に、“ Government authorized ”を明示した所謂《 バング・ショップ 》があった。
 Bhangとは所謂大麻・マリファナのことで、メニューにもあるようにバング・ラッシーやクッキー等を堂々と販売している。聖地たるバナラシ―にもバング・ラッシー屋はあったけど、同じヒンドゥー教の聖地・プシュカルじゃ如何だったのだろう。それほどに興味がある訳じゃないので、当方が気がつかなかっただけで、ひょっとしてあったのかも知れない。
 このジャイサルメールの店の看板は英語表記で、いかにも外人観光客を標的にしているようにも思えるが、インドって多民族国家で、特定の民族の言葉、つまり一応公的な言語ってことになっているヒンドゥ―語もすらも、押し付けに過ぎないとして、むしろ以前の宗主国・大英帝国の英語を共通言語として使う傾向があるらしく、だから必ずしも英語=外人狙いって訳でもないのだからややこしい。

 

 丁度絵に描いたような風体の白人が店の人間と何やら相談中。
 何しろ“ 政府公認 ”( 尤も単なる手書きに過ぎないけど )の金看板を掲げているので、怪しげって訳じゃない。むしろ、パキスタンはペシャワールの郊外にあるトライバル・テリトリー( 公権力の手が及ばない少数民族自治区 )にある通りに面した一見何の変哲もない小さな店の前でコソコソやっている方が遙かに怪し気で危ない。外から何の店なのか定かじゃないその地味な佇まいの店に一歩入ると奥の棚に堂々と大きな茶褐色の大麻樹脂や、“ヘロイン”の表示のあるものすら並んでいたりする。銃の町ダッラに赴く途中に寄ったに過ぎなかった当方のパッカー・グループは、“ヘロイン”の文字を見ただけで、こりゃヤバイとばかりそそくさとそこを後にしたけど、早速腰に拳銃を吊るした自治警官が目ざとくやってきて「さっさとここから出てゆけ ! 」とやんわりだが警告されてしまった。 

 

 

 ネット見ると微妙に相違があるが、バングって大麻の茎・葉から作られ、花から作られたものをガンジャ、樹脂をチャラス、中東じゃそれをハシシと呼び歴史は古いらしい。
 インドでは元々修行者=サドゥーなんかが修行的一環として使用したり、庶民もホーリーなんかの祭の時に使ったりするようだ。着色された水や粉末をかけ合ったりするホーリー祭の時に、塗料まみれになった参加者たちの動きが、どうもゾンビーの群のような覚束ない足取りに思えて、てっきりアルコールの故だと決めつけていたら、バング・ガンジャの類の故だった可能性も出てきた。
 近年、インド政府も、世界といっても基本欧米先進国の圧力に、国内のそうした伝統的な慣習に色々な制限・規制を設け始めたようなニュースを瞥見するにつけ、前回の《 童子蛋 》同様、その弊害著しいならともかく、そんな話余り聞かないし、むしろタバコの方こそよっぽど有害なのだから、誰憚ることなく堅持して然るべきだろう。

 

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2019年10月22日 (火)

幼童的崇拝 ? 童子蛋

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 なりゆきでロイターのネット記事を見ていて、ひょんな記事に出くわせてしまった。

 

 “ 童子尿煮蛋受追捧Urine hard-boiled eggs”(2012年)
 
 要するに、“ 少年(=童子)の尿で煮た玉子崇拝 ”ってことなのだけど、よく中国の駅前広場あたりでおばさんが出している《 茶蛋 》チャータンあるいは茶葉蛋とも呼ばれる茶葉や醤油等で煮込んだ玉子は、バックパッカーの間では有名で安く安定した食物として重宝されていたものだったが、この《 童子蛋 》は全く知らなかった。
 浙江省東陽市じゃ昔から春の風物詩として、少年の尿、つまり小便で鶏の卵を薬草なんかと一緒に煎じた童子蛋が重宝がられてきたという。
 このニュースだと、五歳以下の少年のものに限るとあるが、他のネット記事だと十歳くらいと記されたものが多い。少女のだと駄目なようで、陰陽学的な根拠なのか男尊女卑的な封建主義的論理なのか定かじゃないけど、多分にセクシャルなニュアンスが感じられなくもなく、稲垣足穂ならどんなタルホロジー的展開をしてみせてくれただろうか興味のあるところ。
 これを食べると、春の萌えた陽気に眠りこけたり気力が萎えたりすることもなく、夏の暑気あたりからも免れるという、韓国の犬肉料理=補身湯ポーシンタンの滋養強壮効果と似た効能が謳い文句のようだ。

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 そもそも中国じゃ古から《 童子尿 》なる漢方的項目があったようで、《 本草綱目 》には塩味があり、無毒で、寒気や発熱による頭痛に効用があり、少年の尿が最良とあるらしい。現在の日本でも飲尿療法ってのがあるようだし、中国と並ぶもう一方の旧い文明大国インドでも、童子ならぬ神の使いたる牛の尿も治療薬の一つとして重宝されてきたらしい。
韓国に至っては《 トンスル 》という糞酒、つまり人糞を原料とする薬用酒もあるという。そういえば、《 戊戌酒 》ムースルジュという犬肉を使った酒も有名だし、《 犬焼酎 》( こっちは酒じゃなくスープだったか )ってのもある。
 近代化もいよいよ佳境に入って来たらしい昨今、“ 民間療法 ”の一語で葬られてしまうのだろうけど、この浙江省東陽市じゃ、《 童子蛋 》は、誰憚ることなく市の『無形文化遺産』( 非物質文化遺産 )として認定されている。
 愛国を押し付けたいのなら、せめて昔ながらの伝統食たる犬肉料理も堂々と市や県・省あるいは国が伝統文化として宣揚すべきじゃなかったろうか。

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2019年9月21日 (土)

 軍服をまとったモダン・ガールたち 『 一剪梅 』(1931年)

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 戦前の中国女優・阮玲玉(ルアン・リンユイ)の絡みで、時々DVDやポートレイトの画像を瞥見していた《一剪梅 》( 邦題・一枝の梅 )、岩陰に並んだ金焔と林楚楚や登場人物の軍服姿等に、そもそも映画の内容も知らない故もあって、何か彼女にそぐわない妙な違和感を覚えていた。尤も、江青も《 自由神 》で王瑩等と共に軍服姿で登場してはいたが。
 今回その《一剪梅 》、ようやく中国映画ネットで“中国語字幕版”を見ることができた。
 如何にも中国風のタイトルで旧き良き時代の鴛鴦(えんおう)胡蝶派的な恋愛物と思ってたら、シェークスピアの初期の作品《 ヴェローナの二紳士 》の翻案物という。
 何しろ登場人物の名が胡倫廷=バレンタイン、白楽德=プローテュース、施洛華=シルヴィア、胡珠麗(胡倫廷の妹)=ジュリア等そのまま。

 

 

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 ( 左から白楽徳=プローテュース、胡倫廷=バレンタイン、胡の妹・珠麗=ジュリア)

 

 そもそも監督の卜萬蒼(ブ・ワンツァン)、アメリカ人撮影技師に技術を学び、ハリウッド志向が強かったようだけど、1920年代はまだまだ鴛鴦胡蝶派的な作品が全盛の時代で、《人心》(1924年)、《戦功》(1925年)等で、何年か後には中国“中國第一位電影皇后”や“悲劇聖手”(悲劇の匠)とまで賞賛される大女優にまでなった新人女優・張織雲を見出し育て上げた。殊に美人じゃないけれどおっとりとして優雅な雰囲気が人気を博したらしい。で、御多分に漏れず、監督・女優の関係がいつの間にか恋人同士になり、同居するまでなった。
 ところが、ここで思いもしない人物が登場することになる。
 後年、かの若くして自ら生命を絶った一大女優・阮玲玉の事実上の夫となった“茶葉大王”の異名を持つ資産家・唐季珊その人。
 何と絶頂の張織雲を手に入れようと華やかな社交界を利用し、所詮一監督に過ぎない卜萬蒼より大富豪の方を選ぶべくあれこれ画策し、とりわけ彼女を育てた養母にも取り入って、ものの見事に成就。豪奢な邸で共に生活することになる。
 ところが唐季珊、有名女優との浮名で十分に自身の企業価値が高まったと踏んだのか、さっさと彼女を捨ててしまった。捨てられた張織雲、その後、野放図な散財に身をやつしたりでどんどん零落していって娼婦的世過ぎまで至ったとか噂され、戦後香港の路上で野垂れ死んだとか病死したとか悲惨な末路を辿ったようだ。

 

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 その張織雲と別れた頃、入れ替わるように監督の卜萬蒼の前に、後に戦前中国の一大明星・影后とまで呼ばれるようになる新人女優・阮玲玉が現れる。
 当時、稀代の京劇役者・梅蘭芳は、阮玲玉を、1920~30年代の米国サイレント映画の最高女優といわれたメアリー・ピックフォード( サイレント映画時代の代表的女優であり、プロデューサーでもある。チャップリン、D.W.グリフィス、D.フェアバンクスと共に映画会社《 ユナイテッド・アーティスト》社を設立。)になぞらえて、中国サイレント映画の誇りとまで賞賛したという。
 卜萬蒼、“ またと得難い悲劇女優 ”とまで直感して、張織雲以上の魅力と才能を彼女に見出し、一流の女優に育ててゆくのだけど、あろうことか再び資産家・唐季珊がその手練手管の魔手を伸ばしてきた。金と名声と奸智にものをいわせ、せっかく育て上げた阮玲玉をも掻っ攫っていった。尤も、阮玲玉の場合は、監督・女優としての関係に変化はなく、デビュー作《 掛名的夫妻 》以降も、この《一剪梅 》や《 三個摩登女性 》( 「三人のモダン・ガール」)等共に映画作りを持続していった。

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 ( 一枝の梅の前でほほ笑む胡珠麗=阮玲玉 )

 

 1930年代初頭、上海映画界を席巻したのが、《 聯華影業公司 》の、それまでの旧態依然とした鴛鴦胡蝶派的な映画とは一線を画したハリウッド・ライクなニュー・ウェーブ派の、卜萬蒼,孫瑜(スン・ユィ)、費穆(フェイ・ムー)たちであった。
 そんな時代の寵児でもあった監督・卜萬蒼、当時まだ孫文=国民党の本拠地的残影濃い広州の軍警本部を舞台に、シェークスピアの《 ヴェローナの二紳士 》を基に、胡倫廷・珠麗の兄妹と、倫廷と同じ陸軍学校卒業生の親友・白楽德、赴任先の広州督辨署署長の娘・施洛華等のすったもんだの友情・愛情娯楽片。 
 《 聯華影業公司 》、広州・香港のロケまで敢行し、大勢の兵士( エキストラ ? )を駆使したりしてて、この映画に大部予算を注ぎ込んだらしい。

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( 脂粉将軍・白楽徳の鞄の底。化粧品と女達の写真がどっさり。)

 

中国ブログじや定番のように“ 情侶曲折的愛情故事 ”( 恋人同士の山あり谷ありのラブ・ストーリー)ってキャッチ・コピーがついてるけど、確かに、広州の督弁署( 督辨署 : 日本の行政システムにはない中国独特の政治単位で詳細は不明 )を舞台にした軍服姿の恋人たちの、それこそ昨今のトレンディー・ドラマと寸分も変わらずのモダーン・ラブ・ストーリー。テンポも良い。
 陸軍学校の卒業日の寮内のシーンから始まる。
 皆、将来の夢に胸を膨らませてるなか、我らが“脂粉将軍”白楽德、大きな鞄の底に隠してあった化粧品の脇の大量の女達の写真を取り出し、ためつがめつ見入っては悦に入っていた。早速、同僚たちが笑っているのを聞きつけ、彼の親友・胡倫廷がたしなめる。
 と、シーンはその胡倫廷の邸に変わり、妹の珠麗が楽曲“ 我願意 I am Willing ”を友人のピアノ伴奏で稽古。その友人が一瞬振りかえる・・・何処かで見た記憶のある特徴的な顔立ち・・・阮玲玉と幾度も共演してた黎莉莉だった。クレジットにもない、この場面だけの出演。
 サイレント映画の定番の中間字幕(面)で、その二人のところを“ 一位超越時代的摩登女性”( 時代の先端をゆくモダン・ガールたち )と記している。

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( すっかり仲の良くなった白楽徳と胡珠麗。)

 

 その珠麗を、たまたまやって来た白楽德が見染め、やがて珠麗も美男子でもない彼に行為を持つようになって許嫁の関係になる。
 胡倫廷に広東督弁署衛隊長の任務につくべく辞令が出て、広州の督弁署に単身赴く。この督弁署、軍隊が練兵しているかなり広い敷地を有した官庁で、日本の行政システムにはない政治単位のようで、適合する名称が杳として見当たらない。
 そこのトップ・施督弁が白楽德の親戚らしく紹介状を彼が紹介状を書いてくれたのだけど、忽ち施督弁の娘、凛々しく軍服を纏った洛華と相思相愛の関係に陥ってしまう。
 その内、白楽德も辞令が出て、赴任してくる。
 白楽德、子供の頃親戚同士だったので一緒に遊んだこともあったものの、すっかり成長して魅力的な女性になっていた洛華に一目惚れし、上海で待っている珠麗のことなんてもはや眼中になかった。どころか、悪心を起こし、洛華と親密な胡倫廷を疎ましく思うようになって、あろうことか冤罪的奸策を施督弁に吹聴し、追放してしまう。
 新聞に載った兄・倫廷の罷免を見て驚いた珠麗、単身で広州へ。
 洛華、珠麗に事情を聞いて、とりあえず彼女の副官として珠麗にも軍服を着させ匿う。

 

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 ( 白楽徳に陥れられ罷免・追放になった胡倫廷の新聞記事。上司であるトップの施督弁もカンカンとある。 )

 

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( 上海からわざわざ広州まで安否を確かめようとやって来た珠麗を慰める施洛華。)

 

 
 白楽德の心変わりの真偽を確かめるために、洛華は一計を案じ、白楽德と一緒に馬で遠出をする。白楽德、早速正体を現し、暴力的に彼女をものにしようとする。怪しんで跡をつけてきた同様に洛華を一方的に熱愛していた軍警督察署・署長に格闘の末阻止され逃げ出す。ところが所詮庶民に横暴な軍警のトップらしい署長、白楽德のおかぶを奪うように洛華に暴力的にアプローチ。馬で逃げ出した洛華を凄い形相で追いかける署長。あわや、と思われた次の刹那、何処から一本の投矢がうなりをあげて飛んできて署長の馬に突き刺さり馬は転倒。
 その投矢を放った人物こそ、誰あろう冤罪で追放された胡倫廷であった。
 ロビン・フッドを彷彿とさせる恐らくカラーだったら派手ないでたちであったろうモノクロだとかなりしょぼくれ感が強いのだけど、当時はハリウッドライクなロビン・フッド風ってところでむしろ颯爽としたものに観えたのだろう。

 

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( 洛華の一計にまんまと乗せられ本性を露わにした白楽徳と同様に洛華に惚れた軍警督弁の諍い。 )

 

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( 横暴な広州軍警の巡回。道路交通法違反って訳か、露天商を蹴散らしてゆく。この光景って、昆明やペシャワールでも見たことがある。)

 

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( 貧民を虐める軍警の背に突き刺さった投矢。強きを挫き弱きを助ける、御存じ一剪梅。)

 

 

 実は胡倫廷、追放されてあっちこっちと彷徨っている内、強盗団の老首領に気に入られ、どんどん頭角を現して組織を仕切るようになっていた。
 そこは生真面目な胡倫廷、皆に諮(はか)って組織の変革を図る。

 

 “ 救苦済貧 鋤強扶弱 不許調戯婦女 ”
                   ( 調戯=嘲り弄ること。)

 

 要は「強きをくじき弱きを助ける」という如何にもロビン・フッド的なモットー=綱領を掲げた義賊、その名も《 一剪梅 》。翻った旗にも梅花の紋章が刻印されていた。この作品、いたるところに梅花の紋があしらってあって、そのキィッチュなまでの拘りは面白い。
 横暴な軍警に対して匪賊( =義賊 )《 一剪梅 》が現れ、虐げられる庶民を助けつづけ、ついには関東全省軍警督察署・署長の名において、「 その生死を問わず 捕らえた者に金一千元を与える 」という触書を配布するという事態にまで発展していた。
最後は、ロビン・フッド的な勧善懲悪ものと曲折的恋愛的相関物語を結合させた娯楽片の極みで、窮地に立たされた白楽德が自らの冤罪工作を施督弁に告白し、胡倫廷も珠麗も洛華も彼を赦し、胡倫廷も元の役職も戻れ、白楽德と珠麗も元の鞘に収まり予定調和的大団円。

 

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( 梅花咲き誇る公園の岸壁に互いの想いを筆でしたため合う胡倫廷と施洛華。 )

 

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( 匪賊の老首領と並んだ匪賊から義賊へと組織を変革していった胡倫廷。背後に掲げられた大きな旗にも梅花の紋様が。)

 


 軽快なテンポで展開されるハリウッドライクな作りは余り旧さを感じさせない。
 そもそも《 一剪梅 》って胡倫廷と洛華二人が、広州の何処かの公園の咲き誇る梅花の下で岩壁に毛筆でしたためた互いの連句に因んだ二人だけが知る命名だった。
 ハリウッドライクなモダンガールの所作としては些か古風だけど、これもハリウッド映画に席巻され過ぎて危機感を共有した在来の映画会社が合同して作られた《 聯華影業公司 》ならば、“中国”風味を前面に押し出した(「復興國片」)ものってところで違和感ないのだろう。当時の邦画で、モガが茶の湯をたてるようなものに違いない。

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( 一剪梅のアジトに拉致された格好の珠麗と洛華 )

 

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( 予定調和的大団円に目出度く終わって、広州督弁署の広い敷地の中をパレードしてゆく二つのカップル。)

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2019年9月 7日 (土)

幻の楼蘭王国の秘宝 『 沙漠の古都 』国枝史郎

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 かつてバック・パッカーの間での定番だった中里介山の一大長編時代小説《 大菩薩峠 》、パキスタン・ペシャワールの《 カイバル・ホテル 》のリビング・ルームのテーブルに積んであった泊客たちが置いていった本の中にも何冊かあったのか、一冊試しに読んでみたことがあったけど、陰々鬱々なイメージとは裏腹な、何とも喋々しい登場人物たちの饒舌さかげんに閉口したことがあった。
 大正2年から《 都新聞 》( 東京新聞の前身らしい )に連載を始め、その後さまざまな新聞を経て昭和16年までの30年近く連載し続けた文字通りの長編時代小説だ。
 その大正末にいわゆる大衆小説の決定版ともいえる吉川英治の少年向け長編時代小説《 神州天馬侠 》が《 少年倶楽部 》で連載開始し、その前年にも国枝史郎の《 神州纐纈城 》( しんしゅうこうけちじょう )が《 苦楽 》( 直木三十五が発行 )に連載されたりで、長編時代小説はなやかし時節の観がある。とりわけ《 神州天馬侠 》、《 神州纐纈城 》は伝奇時代小説の精華ってとこだろうか。

 

 

 で、国枝史郎だが、大正11年に『蔦葛木曽桟』( つたかずらきそのかけはし )で一躍有名作家の仲間入りし、伝奇時代小説を中心に活躍したらしい。時代が下るにつれて、時代の鬱屈がエログロ・ナンセンスを跋扈させるようになってからは次第に下降していったのか、昭和7年に《 ダンサー 》を《 婦人公論 》に連載し、翌年春陽堂から単行本として出版すると忽ち発禁処分にふされる。“風俗壊乱”の廉ってことなのだが、愛国・国防婦人会などが台頭してきた時節に、それも婦人雑誌上で、当時の踊子=ダンサーの奔放な世界を描こうとして、例えば、ダンサーのファン(ここでは、ダンス・ゴロと呼ばれていて、昨今のアイドルたちのオタってところ)たちが彼女たちの楽屋裏にでも赴いてのアプローチを、

 

 「 誘惑? 耳たぶを唇で食える奴、腹を無闇におっつける奴・・・・・・左のズボンのポケットの中へゴム毬を入れて来て刺激するような迚(とて)もあくどい奴もあった。」

 

 なんて戦後なら何と言うこともない描写であっても、その露骨さは官憲どころか、愛国・国防婦人会の連中の神経を逆なでするに十分であったろう。
 総じて国枝は現代物は苦手なように評されているようだけど、初期の頃、つまり人気絶頂の頃、現代を舞台にした伝奇冒険小説としてこの《 沙漠の古都 》は好評を博したという。( 但し、本名じゃなく、イー・ドニ・ムニエというペン・ネームを使って )

 

 

  1922年(大正11年)に博文館が発行した大衆向け探偵小説専門誌《 新趣味 》、翌年の関東大震災後に廃刊となり、同じ探偵小説専門誌として新たに《 新青年 》を発刊し継続したという。その《 新趣味 》で大正12年3月から10月まで《 沙漠の古都 》を連載。ポーやルブラン、デュマ、O・ヘンリー等の海外の作品の翻訳が多く紹介されていた中に紛れるように、“イー・ドニ・ムニエ・著、国枝史郎・訳 ”として。彼もあれこれのペンネームを使い分けていたようで、当初はまさか国枝自身の創作だとは誰も気づかなかったらしい。

 

伝奇冒険小説の範疇に入るのだろうが、この雑誌《 新趣味 》は、探偵小説専門と銘うっていて、確かにそんな探偵物的ミステリーのプロローグではあった。
 そもそも最初の主人公らしき人物たちは欧州の探偵。
 つまり、イー・ドニ・ムニエ著とは、正にそんな前提を逆手に取った、あるいは韜晦趣味的演出ってことなのだろう。

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 最初の舞台は、スペイン・マドリード。
 ホームズばりの神出鬼没な慧眼の探偵・レザール、相棒(ワトソン的存在というのか)の“描かざる画家”ダンチョン、そしてラシーヌ探偵の三人組が、遙か東方・幻の湖と呼ばれた羅布湖(ロプノール)の汀に栄えた回鶻( ウイグル )人の都・楼蘭(ろうらん)王国の隠された財宝を求めて、延々とロシア、楼蘭、北京、上海そしてボルネオ・サンダカンまで追跡してゆくのだけど、それに美貌のトルコ娘・紅玉(エルビー)、第二章から出てくる張教仁、そして袁世凱の後身たる悪役=世界征服を企む秘密結社の首領・袁更生までが絡んでくる次第。
 【 支那青年の忘備録の抜粋 】という形で登場する、袁世凱の生命をつけ狙うその青年・張教仁が実質的主人公といっても差支えなく、三人の探偵グループの方が、むしろ狂言回し的な存在といえよう。中国の秘密結社好きで造詣も深いらしい国枝の嗜好から来ているのだろう。語り口も、プロローグのスペインより、中国( 小説内では、当時の一般的呼称・支那が使われている )国内に入ってからの方が躍如としている。
  
 
 「 此の頃北京は物騒であった。政府の高官顕職が頻々として暗殺された。そして犯人はただの一度も逮捕されたことがないのであった。
 その又殺し方が巧妙であった。巧妙というよりも奇怪であった。その一例を上げて見れば、或る白昼のことであったが、警務局の敏腕の班長が、二人の部下を従えて、繁華な灘子(だんす)街を歩いていた。街路の両側の小屋からは、幕開きの銅鑼の賑やかな音が笛や太鼓や鉦に混って騒々しい迄に聞こえて来る。真紅の衣裳に胸飾、槍を提(ひっさ)げた怪美童を一杯に描いた看板が小屋の正面に懸かっている。外題はどうやら、『 収紅孩 』らしい。飯店に出入りする男子の群、酒店から聞こえる胡弓の音、『 周の鼎、宋の硯 』と叫び乍ら、偽物を売る野店の売子、雑踏の巷を悠々と班長と部下とは歩いて行った・・・」
 

 

 ある唄声を聴こうとして、暮れなずむ上海旧市街の巷、“ 不潔な道筋 を眼を顰めさせながら ”そぞろ歩いてゆく探偵ラシイヌ。

 

 「 日没を合図に内外の市街は――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟であってその日没も近づいているので、ラシイヌは廓門の一つから城内に急いで這入って行った。城内の街の狭隘さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出し殆んど小溝を作している。下水の桶から発散する臭気や、葱や、山椒や、芥子などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙と共に人の臭覚を麻痺させる。小箱のような陋屋からは赤児の泣声や女の喚き声や竹の棒切で撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱(コーラス)を作っている。」

 

 

 同じ隠された秘宝探求の冒険活劇映画《 インディー・ジョーンズ 》のようなジェット・コースター・ムービーがそうであるように、かなり御都合主義的な展開が少なくない。
月刊雑誌の連載という性質上、テンポ良く進行せざるを得ないのだろう。
 後半から舞台はボルネオ(島)・サンダカンから河を遡った奥地のジャングルに移ってゆくが、当方的には些か中だるみの感が否めない。有尾人=ピテカントロプスなんかも登場したりするのだけど。
 確かに、大正時代当時だったら新鮮で遙か西方沙漠の秘宝を追い求めて地球半周ってのは面白かったに違いない。

 

 

 明治20年(1887年)、長野の役人の四男として生まれた国枝史郎。
 早稲田の英文科に入り、小川未明の主宰する《 青鳥会 》に参加し、そこの生田蝶介に口説かれ《 講談雑誌 》で《 蔦葛木曽桟 》を連載を開始。評判良く、翌1923年(大正12年)には《 沙漠の古都 》を《 新趣味 》に連載。
 一応《 沙漠の古都 》以外にも、《 東亜の謎 》、《 犯罪列車 》(南信日日新聞=現・長野日報に連載)なんて現代物もちゃんとあるようだ。 
 1943年、終戦前に喉頭癌のため死去。

 

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2019年8月24日 (土)

夜来香の女  大泉黒石『 淡水艶女傳 』

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 ( 口絵 )

  黒石の短編《 淡水艶女傳 (二) 》が昭和六年発行の『 グロテスク 』八月号に載っていた。当方の持っているこの号は背表紙と背の部分が破損していて古書店で補修している朽ちかけ版。他の『 グロテスク 』二冊は新年特別号で、この八月号を最初見た時、あれっ、小版になっちまったの?、と驚いてしまった。実際は版の体裁は変わってないもののページ数が半分に減って随分と小さく見えてしまったに過ぎなかった。
 奥付に普通号50銭 新年特集号1円とあるので、こっちが普段のページ数=厚さってことになるのか、と決めつけようしたら、【 編集後記 】に「八月号は諸君の頭を大いに暑中休養して貰うために、ウンと、思い切って薄っぺらなものにしました。」とあった。他の号は定かでないけど、この八月号だけなんだろうか?
 因みに、同じ編集後記に、「毎年のことですが、山の、海の遭難者の報を耳にします、いたましい限りです。グロの愛読者諸君も海に山にお出かけのことゝ思いますが、危険なところはアブナイ所と極まって居りますから・・・」とあって、戦前も変わらなかった夏の庶民的風俗。

 

 

 昭和六年といえば、前年にインドでガンジーが反英非暴力抗議運動を開始、国内じゃ共産党員全国一斉検挙、そして秋には台湾で現地民が日本統治権力に対して武装蜂起した《霧社(むしゃ)事件》の記憶もまだ生々しい時節。それでも、昭和12年の日支事変(日中戦争)勃発=皇民化政策実施はもっと先で、それなりの余裕がまだまだあったのだろう。
 そんな台湾の首府・台北から、現在では電車で40分の台湾海峡に面した淡水という港町を舞台にした短編。
 スペイン・オランダの旧植民地でもあって当時の建物も残っている長崎にも似た国際色豊かな港町・淡水。そもそも淡水とは台湾北部の富士山より高い大覇尖山に源を発する大漢渓と新店渓が合してできた河の名であって、首府・台北を貫き、河口の淡水港・台湾海峡に注ぎ出ている。当時、日本から一山当てようと多数押しかけ開いた料亭・娼館で繁盛していたという。
 
 「 港口の灯台光のもとを往来する船の灯の明滅。汽笛の響き。漕ぐ櫓の音や鴎の羽ばたきに遣る瀬無き覇旅(たび)の情を誘われる彼・・・楼上に酒をくむ洋画家見月深太郎である。楼房(へや)を籠めて妖しく烟(けぶ)り薫ずるは女の髪にさしかざしたる夜来香の花。」

 

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 夜来香の花を髪に挿した婀娜女の魅力と細やかな情愛に惹きつけられ、つい長居を決め込み、ちょっとのつもりが、気付くともう夜の十時。三時間も居座っていたことになる。明朝早く船で退たねばならず、未練を断ち切って部屋を出ようとすると、女はあれこれと思いとどまらせようとする。
 “花ならば崩れこぼれるばかりの瑤々たる嬌姿”
 とある。
 酒精にほんのりと頬を染めて、立ち上がろうとする彼の体にまとわりついて放そうとしない。
“わづかに汗ばんだ彼女の肌からいきれたつ女の匂い”
 やがてその支那料理店・青亀楼の女将・お波が現れ、娘の礼儀知らずを咎めては見せはするが、結局女将の勧めもあってそこに泊まる仕儀になってしまう。
 火山・大屯山の麓の北投温泉や五星山の麓の草山温泉の案内まで話が弾む。
 そして、場面は、翌朝・・・
 
 「 淡水長崎間航路の汽船が黒煙を海波になびかし、台湾北端石門庄の沖合を通過するころ、彼・・・見月深太郎は富貴角灯台の後にそびゆる大屯山の雄姿を眺めながら、船の甲板のベンチの上で前夜から今朝までの思い出に耽ってゐた青亀楼の女将・・・彼女は酒食の勘定を取ろうとしないので、彼は志しとして若干の礼をしたのである。」

 

 

 そもそも青亀楼とは、日本から渡って来た女将・お波が中国人貿易商と一緒になり、死に別れてこの淡水で十数年前に開いた店で、同じ中国人貿易豪商、その実は阿片の密貿易の大親分たる中国南部、厦門に本宅のある汕頭(スワトウ)の三龍漢(サンルンハン)が頻繁に利用していて、その三龍漢がその女将の妹・香代子に惚込み妾にしようと手下の太吉( 女将の弟、つまり香代子とは兄妹 )を使って執拗にくどかせる。
 ところが、香代子の方は、ともかく三龍漢を毛嫌いしてて、太吉が幾ら凄もうと取りつくしまもなく、しまいには太吉、実の姉の女将にすら怒鳴られる始末。
 その辺の事情を、洋画家は、夜来香の女に酒の肴に聞かされていた。
 おまけに、彼等密貿易商って、元々は皆まじめな貿易商だったってことまで教えられ、中国政府の舶来品、特に贅沢品の関税の大幅な引き上げ政策によってさっぱり商売あがったりで、やむなく違法な、しかし、当時の植民地香港を基点に、ややこしい政治的間隙をついて楽々と不当な利益を獲る方途へと走ってしまったという。
 

 

 実はかの青亀楼の女将はその洋画家の知人からの推薦状を貰っていて、その故の厚遇かと洋画家は推量してみたりして、早朝の船上のベンチに坐ったまま、そっと夜来香の女が彼のポケットにしのばせてきたハンカチーフを取り出してみた。
 と、ひろげたハンカチーフに紅い絹糸で結ばれた三筋の毛髪が、そして隅に彼女の名が刺繍されていた。
 なんと、彼女こそ噂の女将の妹・香代子だったのだ。

 

 当時の中国の虚々実々な情勢をネックに、南国の夜のふと漂ってくる夜来香の如くの一抹の艶話ってところ。今一だけど、黒石らしい小品。

 

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2019年8月16日 (金)

蒼空に映える白亜の渤海クルーズ『 中華・泰山号 』

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 数日前、レトロ沿岸を散策し、小さな船舶が停泊している以外釣人の影が30℃数度の烈日に照らし出されているだけの岸壁に踵を返そうとした眼の端に、ふと、ドサクサ紛れのごとく、植込みの向こうの廃止になって久しいプレハブ・カスタム玄関の両開きドアがゆっくりと開閉する光景が紛れ込んだ。
 錯覚と決め込もうとしたもののそんなはずもなく、カスタムの玄関に向かってみると、果たして、ちょっと前まで玄関ポーチの低い階段の脇にぺんぺん草が繁茂していたのが嘘みたいに綺麗に刈られていた。あれっと、反射的にポーチの上部を見上げ、以前に消し去られた国際港カスタムの文字を確かめると当然に削り取られたまま・・・
 で、列日の反映で見難くなった入口のガラスドアの奥に眼を凝らすと、やっぱり電灯が点いていて、かつてのカスタムが機能していた時代の取り残された設備だけがぼんやりと照らし出されていた。
 人気もなく設備の点検でもしているのだろうか、と裏側に廻ってみると、細長いカスタムにうがたれた曇りガラスの全部にずらり明かりが灯っていた。

 

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 表側に戻ってようやく気づいたのだが、カスタムの岸壁側の小さな勝手口前に軽自動車が二台停まっていた。数人の男女がその勝手口のドアから出入りしていて、如何にも何か胡散臭げな雰囲気。
 しばらくすると、中から白っぽい大きなものが現れた。
 車の陰になってはっきりしない。
 と、中年女性の後について、まん丸のいわゆる地元の“ゆるキャラ”の着ぐるみがヨタヨタと歩き始めた。真昼の烈日にゆるキャラのまん丸い白い巨体がおぼつかない足取りで岸壁にそってさっさと歩いてゆく女性の後を、どんどんその差が広がってゆきながらも真夏白昼のゆるキャラはヨタヨタと追いかけ続けた。
 と、その先に、一艘の白塗りの練習船が留まっていた。
 カスタム前に来る時、ぞろぞろ見学の親子連れがその小型の練習船にのりこむのを横目にしていたのだけど、もう皆船の中に入っていたようで、女性と白日を照り返して眩いゆるキャラの二人がタラップの下で二人並び、中々出てこようとしない見学客をじっと待ち続けているのを見てると、二人の熱気がこちらに伝染してきたかのように汗が吹き出てきて、あわてて日陰に退避しその場を後にした。

 

 

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 家に戻ると、いくら何でもあんなゆるキャラ出陣のためにわざわざ廃止になったはずのカスタムの全部に灯りを点すとは考えられないので、ひょっとしてとネットをみてみると、案の定、中国の船舶が寄港する予定なのが分かった。

 

 で、10日( 土曜 )に岸壁に赴くと、24,427トン、乗客約1000人の渤海郵輪有限公司のクルーズ船《 チャイニーズ・タイシャン 》中華泰山号の白亜の船体が蒼空の下純白に映えていた。
 カスタム岸壁の手前に留まっていた練習船の姿はもうなく、カスタムの白塗りの鉄柵を越えて手前にはみ出した泰山号の、しかし、10万トン級も珍しくない昨今の大型クルーズ船世界じゃ、むしろ小型の部類に入るのだろうか。
 以前寄港したフランスのポナンPONANT社のロストラルL'AUSTRL号が1万トン級なのでその倍、5万トン・クラスの飛鳥Ⅱの半分。
 尤も、乗客は時節柄なのか、数百人くらいだったようだけど、見に行ったのが昼前で、乗客の大半はもう下船しあっちこっちに出かけた後だったのだろう。カスタム事務所の玄関から、疎らに大抵二人組の黒髪をなびかせた中国人娘が連れ立って何処か散策に向かうぐらい。周辺は閑散としてて、一般道路に出る手前に警備のパトカーが一台停まってて、裏側に観光バスが一台、カスタムのすぐ背後に“Moji Custams”と記したトラックが一台停まってるだけの静かな光景があるばかり。
 結局、このクルーズ船《 中華・泰山号 》寄港のための雑草刈りだったようだ。
 白い船体にカラフルな中国風の絵が小さくあしらわれていて、唯一中国情緒を感じさせる。折からの台風の影響でか、カスタムの鉄柵から手前にはみ出た部分の岸壁側に立入禁止のグリーンの衝立をづらり立て並べていたのが、次から次へと倒れてしまい、慌てて係り員たちが駆寄って来て立て直していた。

 

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門司港を出ると、佐世保に寄り、大連港に戻っていった。
 本当は大連を発ったこの《 中華・泰山号 》、今日15日にも再び寄港する予定であったらしいのが、台風10号のせいで中止になったらしい。15日昼前現在、船舶動静情報(AIS)でチェックすると、台風をやり過ごそうとしているのか、大連港のちょっと沖で停泊したまま。

 

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2019年8月 5日 (月)

 昭和五年勢ぞろい新年特集号『 グロテスク 』と黒石《 人肉料理 》

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 ネットで執筆人のそうそうたるのを見て驚いてしまった『 グロテスク 』昭和五年(1930年)一月新年特集号。
 見開きの目次を見ると一目瞭然なんだけど、大泉黒石を筆頭に、葉山嘉樹,尾崎士郎、川路柳虹、青野季吉、稲垣足穂、辻潤、今東光、金子洋文、黒島傳治、生方敏郎・・・尤も、案の定というのか、辻潤なんて一頁半の、しかし、

 

「 泡を吹いてゐ(い)るのだ――それは泡を吹いてゐるのだ。
 雲の中で眼も鼻もない蒼白い楕円の月が凶暴な不協和音を吼へながら凝結したミルクの泡を吹いているのだ。・・・」
 
なんてのっけからダダ的吐露。
《 一九五〇年売笑婦 》の葉山嘉樹は、

 「 一九五〇年売笑婦 と云う編集者の註文であるが、その頃には×××なってるだろう。しかし売笑婦は、×××と雖も、直ちに撲滅し尽されるものでなく、一時的には、却って激増するに違いない。・・・」

 

 と、20年後の娼婦たちについて唯物史観的だけど分かり易く言及。それ故にか、途中二カ所ほどかなりの語数が伏字ならぬ空白のまま。
 稲垣足穂、エッセイ風な創作と銘うった《 少年読本 》、定番の少年愛的饒舌が破格に20ページに及んでいる。

 

 「 何故なら、私たちはKyotoのD院に所蔵されてゐる『稚児草子』というたぐいの絵巻物をいくつか知ってゐるし、又、Nerigiやお寺の庭に植えてあるKeshiについての話もきいてゐるからです。( 何、御存じない? Nerigiとは必要に応じて手のひらの上でとくように出来た山いもの粉をかためた云わば一つのLubricantです。この種のものがUenohirokojiなどで売られてゐました。KeshiとはPoppyの粉であって、それだけのものが局所麻痺の作用をするのかどうか、それこそさっきの医学生に正してみる必要がありますが、紙に包んでこれを印ろうに入れてゐた見ぬ世の人々の間には、次のような言葉さえあったそうです。“ Keshi o ipuku mairasesorae ”)・・・」

 

 

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 黒石、この号でも《 人肉料理 》と『人を喰った男の評伝』(梅原北明の巻)のコーナーで《 快漢北明論 》なる4ページの人物伝を載せている。
 以前このブログで黒石の《 草の味 》(1943年)を紹介した際、“草木の生命の根源である葉緑素(クロロフィル)が、人間と他の生き物の生命の素であった歴史を有っているのである。”から皇軍的帰結=人肉食にまで敷衍したことがあって、このタイトルと遭遇し、植物の血液・クロロフイル=人類の血液・ヘモグロビンから人肉(血)漁りへの如何なる論理的展開ありや、と勝手に好奇の念を燻らせてみたら、短編小説でもない既存の世界の人肉食的事例を何片か紹介しているだけであった。

 

 その中の一つ、中国での逸話、《 股肉の膾(なます) 》なる明末、河北省での大飢饉の頃の話を紹介してみよう。
 ある旅人が昼飯をたべようと路端の客桟( 宿 )に入ると、店先に据えてある大きなまな板の上に、一人のまだ若い女が素っ裸のまま縛りつけられてて、驚いて店主に尋ねると、貧窮した自分の亭主に金を工面するために自分の肉体を切り売りしようとしているんだとか。
 旅人、女の余りの過酷さに同情し、身銭を切って女を解放してやった。
 女は狂喜し、夫に金を渡してやれれば本望とばかり、後は旅人の奴隷にでもしてくれとひれ伏した。裸のままじゃと、旅人、足元に脱ぎ捨ててあった女の衣服を手に取り、女に着せてやろうとして、ふと、指先が誤って露わな女の乳房にちょっと触れてしまった次の刹那、女はすっくと立ちあがり、憤然とした眼差しで、
 「命の恩人のあなた様へ、召使いとして一生御奉公致す所存でありましたが、しかしながら、貴女様の妾(めかけ)の類になろうなんて気は金輪際ありません! 夫以外の誰にも触れさせるつもりもないからこそ、肉体の切り売りを願い出たのですから。やっぱり、いっそのこと、この身を、肉体を切り刻んでおくれなさい。」
 と女は自ら、大まな板の上に再び仰向けに横たわってしまった。
 思わぬ勘違いに罵られた旅人は言葉もでず、むしろそれに怒ったのは店主の方で、縁もゆかりもない旅の旦那に助けてもらいながら、何ていいがかりつけやがる。こうなっちゃ、もう誰が何てったって聞かねーぞ、と啖呵を吐き捨て、大包丁を高く振り上げ、止める旅人を蹴飛ばし、渾身の力で女の裸体に叩き下ろしたという酸鼻譚。

 【 黒石評 】実に壮烈無比凄惨無類の話だ。こういう方法で身を殺し、貞操を完うする婦人は、今日はもとより昔の支那にも滅多にあるものではない。

 

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 黒石の些かクールな評だけど、話の冒頭で、“ 今でも ”と当時昭和初期の頃の中国の文字通りの人身売買の状況にちょっと触れている。
 幼女が10米国ドル、7歳くらいの男児は20ドルあたりが相場で、他の小動物と一緒に道端に並べて売られているという。いわんや飢饉旱魃の時節においてをや。
 いづこの国でも似たり寄ったりの、とりわけ子供たちの惨状ではあるが、なかんずく中国は世界に冠たるグルメ国、その奢侈の極みなのか、あるいは遥か後期ネアンデルタール世紀の遠い記憶のグルメ故の残滓的発露なのか。 
 飢饉旱魃時は西も東もゾンビー映画さながらの百鬼(昼)夜行はもはや常識だけど、日本でも天明の大飢饉の折など、道端や河原に流れ着いた屍体から始まり墓をあばき出すに到り、あるいは、わざわざ指を串に刺して焼いて食したりなんてあったらしい。指の串焼きってまともに考えるともう単なる食材扱いから美味志向まであと一歩って趣きすら窺えて、非常事態的食人が常態化してしまうと、今度は美味の追及に流れてゆくという人間の性すら垣間見えてしまいそう。
 中国美食道的探求とは正にそれなんだろう。
 天明の飢饉の極みは、死にかけた自分の母親を担保に隣人宅の屍肉を分けて貰うという、もはや流通貨幣と化してしまった例に尽きるだろう。(《 医療としての食人 日本と中国の比較 》吉岡郁夫 )
 
 尤も、人身売買って、食肉とは別途に流行りの言葉で言えば薬膳的素材としての、つまり漢方的・習俗的(=民間療法)薬的素材としての意味もあるだろうし、魯迅の《 薬 》を待つまでもなく中韓日じゃとっくに昔からポピュラーで、昨今は“臓器移植”なんて科学的医療の体裁すらとってもっと直接的なものとして流布している。

 

 因みに、ネアンデルタール人の共喰いが始まったのは、地球の環境が、丁度現在の我々が置かれているのと相似な、むしろ将来を具現したように、温暖化が進んで沿岸地帯が海に沈んで生態系に劇的変化が生じ食料難を来たしたからってことらしい。
 ネアンデルタールの異種との交配が進み始めたのも同じ頃という。現代の我々のDNAにも彼らのDNAが混じっているってのが言わずもがななんだろう。

 

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 ( 巻頭のスイス・チューリッヒの操人形劇団の特集。「操人形」解説までふされていて、二十ページ近い写真も載せてある精力ぶり。人形の顔  がグロテスクなところでの特集なのだろう。)

 

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2019年7月20日 (土)

 映画『 血と霊 』への仮構的アプローチ 《 1923 溝口健二『 血と霊 』 》佐伯勉

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 以前、四方田犬彦が《 大泉黒石と表現主義の見果てぬ夢 ――幻の溝口健二『 血と霊 』の挫折――》(月刊新潮 2015年9月号 )で言及した、映画《 血と霊 》のフイルムが現存しない故の当時のあれこれの記事・写真から再現してみようとするパルテノン多摩でのプロジェクト、その監修を務めた溝口の研究家らしい映画評論家・佐伯勉の1991年に著した《 1923 溝口健二『 血と霊 』 》。

 

 映画関係のシリーズ“ リュミエール叢書 ”の第11巻。
 タイトルから一冊全部、映画《 血と霊 》に言及したものかと決めつけていたら、その前史としての当時の演劇・映画界の状況の概括からはじまってて、映画《 血と霊 》の再現的アプローチは実質半分にも満たなかった。
 そもそもフィルムが当時、関東大震災で焼失し、そんな遠く平成・昭和・大正という三時代も前の事柄ゆえに、当時観た人達の情報も僅少・曖昧、残存する写真・評論の類に依拠するほかないのだからそんなものなんだろう。
 ただ、前史たる当時の映画・演劇界的事情を見ていると、黒石を中心とした例えば辻潤、そのかかわりとしての舞踊家・石井漠、あるいはむしろ《 浅草オペラ 》なんかの名なんかが出てきて、興味を惹かれた。
 
 
 「 この人( 辻潤 )も浅草で活躍した一人である。むしろ高田保( 浅草・新国劇の劇作家 )をリードする立場にあり、自分で原稿を書いたり、下手な芝居に出演したり、それなりの浅草では有名な存在であった。」
   
                                                                     《 ダダイズム 》石井立夫

 

 

 元々辻潤が演劇関係に係わっていたのは知ってはいた。
 けど、てっきりちょっと舞台に出てみるだけのお遊び程度と決めつけていたら、そんな浮薄な質のもじゃなくて、けっこうそれなりに演劇に入れあげていたのには驚いてしまった。そんな辻と、黒石、盟友なのか腐縁なのか。

 

 

 「 彼(=黒石)がまだ浅草の山平社時代に、公園でバットの屑を拾い歩いたり、草担ぎをやったり、一山百文のドラマを書いて五九郎に売りつけたりしていた時代からの知己で 」 ( 曾我廼家五九郎 : 浅草演劇の雄でもあり喜劇映画の売れっ子でもあったらしい。)

 

                                                           陀々羅行脚《 絶望の書 》辻潤                             
             
 そして自らも、

 

「 昔、尾上松之助の芝居を、一日百枚書いて十円貰って、ほんとうに、みっともないほどお辞儀をしていた時分 」

 

    《 刺笑の世界から 》大泉黒石

 

 大正末に黒石が、《 中央公論 》でセンセーショナルな作家デビューする以前に、尾上松之助や喜劇の曾我廼家五九郎の脚本を書いていたとはつい最近まで知らなかった。
 映画《 血と霊 》に至るまでの、とりわけ映画《 カリガリ博士 》以降、当時の一大現象だった“ 表現主義 ”をめぐるこの国における映画・演劇界はたまた舞踊界までの様々な試行錯誤ではあるが、唐突に黒石にそのお鉢が廻って来たという訳じゃない細い糸でのつながりってものが、むしろ了解できてしまう。

 

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 大正の映画雑誌《 活動雑誌 》( 1923年九月号 ) の“ 映画物語《 血と霊 》”という6ページにわたる特集記事や当時の映画雑誌や新聞・雑誌の映画評、現存するスチール写真、あるいは関係者の記憶的断片を元にしての筆者・佐伯なりのイメージ的再現。

 

そもそも黒石はあくまで原作者で、それもこの映画のためにホフマンの《 スキュデリー嬢 》を基にした翻案物。監督の溝口健二が脚色し、《 カリガリ博士 》での意表を突いた不安神経症的な怪異な表現主義派的舞台装置を美術の亀原嘉明・久保一雄・渡辺造酒らが担当し、撮影が青島順一郎。
 制作は、1923年6月~7月。大正12年8月15日葵館で試写。9月1日関東大震災。

 

 

 写真(スチール)は全部で17枚。
 映画とタイアップした黒石の短編小説集《 血と霊 》大正12年(春秋社)の巻頭にもない、ネットでもあまり見たことのない写真が結構あって驚いた。映画関係者だけあって、あっちこっちから掻き集めてきたんだろう。
 “ 映画物語《 血と霊 》”は、映画の流れを簡単に活字化したもののようだけど、その現物が提示されているわけでもなく、佐伯の提示する断片を見るしかない。
 18片のシーンによって構成され、流れ的には黒石の小説と大差ない。
 けど、佐伯は不満をこぼす。

 

 

 「 映画物語を読む限り原作にあった鳳雲泰の内面の分裂の苦悩など何も感じられない。」

 

  「 映画《 血と霊 》の重点が鳳雲泰の内面描写には無かったと結論づけていいのかも知れない。」

 

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 その上で、当時の批評の一つ、《 キネマ旬報 》の批評に触れる。

 

 

  「 むしろ内田岐三彦が『 物語の筋は不思議な殺人事件を中心とした大変面白いもので』( 《 キネマ旬報 》1923年12月1日号『 主要映画批評 』)と書いているように、映画の物語面での面白さは、怪奇的な殺人をめぐる秘密を解き明かしてゆく謎解きの面白さにあったと言えよう。」

 

 

 という“ 怪奇探偵物 ”としての評価。
 総じて期待された“ (国産)表現主義派映画 ”という肝心の面じゃ余り芳しくなかったようだ。当時の異口同音な映画雑誌や新聞の評論やコメントが並べられている。監督・溝口の脚色の拙さと、そもそも出演俳優たちやスタッフ自身が“ 表現主義 ”をまず理解していない点がやり玉にあげられている。
 でも、外来のニュー・ウェーブなんてどの時代でも大差はない。
 その時点でどんなものを創りあげれたかってところが肝心なのだし、未消化であったとしても、種々様々な違和・錯誤があってもその有機的連関・総体のダイナミズムが、やっぱし面白いはず。
 文部省・教科書的な正誤表的価値判断は余り意味を持たない。
 尤も、原作者・黒石自身も、“失敗作”と断じ、何よりも表現主義に対する理解の無さを嘆じつつ、舞台装置にはそれなりの評価をしていたようだし、次作の、《 絨毯商人 》で挽回を期してもいたようだ。
 
 制作側のアプローチの端的な例が次の髪結の回想であろうか。

 

 

  「 昔表現派とでもいうのでしょうか。/ 故人溝口監督が《 血と霊 》という映画を作りました。監督さんの注文が『 おびえた頭 』『 恐怖の頭 』という具合には困りはてました。絵にでも描いてくれるならともかく、言葉だけの注文ですから話のほかです。結局雀の巣のような頭を作ったことを覚えております。」
      
                                               ( 結髪を担当した亀田(伊奈)もとの回想《 髪と女優 》伊奈もと )

 

 

 大泉黒石+溝口健二=映画《 血と霊 》の実像に迫れると思っていたのだけど、何たって関東大震災の直前に作られたせいで、まともに上映すら行われることもなくフィルムが失われてしまったという状況からしたら、まあ、そんなものかも知れない。
 既に大泉黒石の原作を読み、それに関する二、三の論考まで読んでいる者としては、特に目新しい何かがあった訳でもないものの、未見の幾点かの映画スチールが映画の空間的イメージの雰囲気を大体了解させてくれた。

 

 

 

                           1923 溝口健二《 血と霊 》佐伯勉 ( 筑摩書房 ) 1991年

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2019年7月 6日 (土)

時代閉塞的断章 《 白い花 》 秋山清

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 YOUTUBEで土取利行が朗読している秋山清の《 白い花 》、詩は特に好きという訳じゃないけどこの作品は結構気に入っていて、時々視聴したりする。
 土取の朗読の仕方もあるんだろうが、戦時中という前提もあって一語一語がシリアスに心底に沁み入ってくる。
 ところが、秋山の著作にその《 白い花 》を彼自身解説した《 わが解説 》(文治堂書店 )があると知り、早速Amazonで取り寄せてみた。
 奥付をみると“ 2004年発行 ”とある。
 あれ、確か秋山って昭和に亡くなっていたはず、と思ってると、果たして解題に昭和63年( 1988年 )で84歳で死去とあり、《 わが解説 》自体は昭和52年から文芸誌《 幻野 》に連載したものという。
 そもそも《 白い花 》って、同じタイトルの《 白い花 》という昭和10年~21年の主に戦時下に書き溜めた作品をまとめたタイプ印刷の小詩集で、発行所はコスモス社。
 タイプ印刷といえば、手書きのガリ版刷りよりワン・ランク上の印刷ってことだけど、どちらも簡素なことこの上ない。それ故にシンプルな妙味もある。

 “ わが解説 7 《 白い花 》前後 ”の冒頭。

 


 「 薄っぺらな詩集『 白い花 』には短い詩が三十数篇集められ、それは一九三五年( 昭和一〇)から一九四六年に至る戦争の十年間の私の詩のすべてである。未発表のものも多く、『 反対 』『 文化組織 』『 詩作 』等の他『 林業新聞 』という方角のちがったところにも掲載してもらった。何といっても寡作であった、ということを併せて、その理由は私の非力と未弱、それ故に戦争というはげしい現実が詩に耐え切れなかった、ということがもっと大きい。」

 

 

 「 ・・・戦後何かが華々しく見えた時代にも、その作品はひたすらに見すぼらしかった。しかし本当に見すぼらしかったのは、この本の中味である。戦時下の人民的抵抗の一つであったといわれることがあったとしても、質量ともに貧弱きわまることは私自身が証明する。この小っぽけな詩集の中の詩を二つか三つか、とり出して、秋山清の詩的レジスタンスは、なにと語るとすれば、そのように見えるかもしれない。が一冊の詩集としての貧しさは、到底語るに及ぶものではない。それに値する作品があるかと問わるれば一も二もない。」

 

 

 上記の“ 人民的抵抗の一つ ”とは、吉本隆明の《 抵抗詩 》の中のでの言葉であろう。

 

 “ ・・・この三篇(「 白い花 」「 国葬 」「 拍手 」)の詩にひどく感銘をうけた。当時は、わたしなどの戦争期の記憶などからすると、ちゃきちゃきの戦争謳歌の詩をかいていた詩人が、いっぱしの抵抗詩人であったかが如き言辞をロウし、・・・わたしは決定的にニヒリステイクであった。そなんとき、秋山の詩をよんだのである。
 わたしの当時の感じは、「 これならほんとうだ 」というものであった。これを抵抗詩と呼び、これを抵抗詩人と呼ぶなら、わたしも承認してもよいという感じであった。”

 

 

 

 「 支那事変のはじまるより以前に私たちは、現実について書くための表現方法を求めようとして、それで以って検閲の目をくぐろうとの思惑を併せ持とうとした・・・その全くささやかな視点をわがものにすることの実践は矢張りむずかしかった・・・
 私らの詩法「現実に語らせる」というのは、目に見たものを描写することから発し、事実( 現実 )を先ず捉え、それによって真実を表現しようとすることであった。そこには省略も拡大も必要であるが、存在の現実を描いて真実を語らせるまでの力は私にはなかった。」 

 


 「 詩集『 白い花 』のなかに「 白い花 」という短い詩がある。昭和十九年( 一九四四 )の秋、私はある若い友人がアッツ島で戦死して、近く区民葬として大勢の戦死者といっしょの葬儀があるという話を聞いた。彼の父と妻と子供たちは東京の世田ヶ谷区のどこかに住んでいた。そのことによって私はこの詩をかいた。」

 

 

  アッツの酷寒は
  私らの想像のむこうにある。
  アッツの悪天候は
  私らの想像のさらにむこうにある。
  ツンドラに
  みじかい春が来て
  草が萌え
  ヒメエゾコザクラの花がさき
  その五弁の白に見入って
  妻と子や
  故郷の思いを
  君はひそめていた。
  やがて十倍の敵に突入し
  兵として
  心のこりなく戦いつくしたと
  私はかたくそう思う。
  君の名を誰もしらない。
  私は十一日になって君のことを知った。
  君の区民葬の日であった。

 

 

 「 全軍が死んだアッツ島の戦争は想像の及び難いことであった。だが、当時日本兵がそこの山陰に休んでいる光景や白いアッツザクラなどがうつくしく新聞には出ていた。僅かな夏期に茎みじかく咲く白い花に見入っている兵の姿もあった。悪天候ということや日本では思いもつかぬ寒気、そんなことは皆新聞で知った。そこでは野草の花のヒメエゾコザクラを兵たちがアッツザクラと呼んだこともあったという。」

 

 

 「 すでに太平洋を制圧していたアメリカ軍が、十数倍の兵と武器とを投入してアッツ島に迫り、のしかかって来れば、逸早く白旗をかかげぬ限り、全滅は必死である。全軍が死んでから幾日か幾月かが過ぎてから、戦死の友人もまじった合同の区民葬ときいたのであった。私は、知るかぎりのアッツへの思いを駆使して一篇の「 白い花 」を書いた。そらの珍しく晴れた晩秋の一日が記憶に残ったのである。」

 

 

 「 この詩のなかに「 心のこりなくたたかいつくした 」という一行がある。あれはじつに不安定な、無責任な言葉であったかもしれない。たたかいつくすとはどういうことか。全軍が一人のこらず死なねばならぬということか。跡方もなく壊滅し、一人の生きた者もなく、討たれ果てたということか。多分そうであろう。だが、死にたくない思いを故郷の妻子に傾けて、おののき死んだ者の上に、たたかいつくしたという言葉が使用できるだろうか。私が説明したような意味がそこから発生して読者に伝わるであろうか。少なくとも作者はこの言葉には不満である。だから、「 たたかいつくしたと私はかたくそう思う。」となったのである。私は心やさしかりし友人が、君国のためわが命を捨てることを我と我が身に悲しんだであろうことを信じたかったが、十分にそのようにはかけなかった。たたかいつくしたという表現に、いくらか、わずかに、その無念の思いが表現できたらとあせりながら、こんな詩になってしまった。」

 

 

 「 自己の思いによって何ものも充たされることなく、死に向かうことだけしかなかった、といったことを、時と所とを隔てて思い返して見れば遺憾のみがあって、心の開かれるところはどこにも、何一つもなかったであろうことが思われ、そのような人の思いに届くことはこの詩には描かれなかった、そのことをつくづく悟らされるのである。」

 

 

 本当は、白い花、つまり秋山のいっていたヒメエゾコザクラ=アッツ桜の写真でも乗っけておこうと思ったんだけど、いざネットで探してみると、まあ、これがてんで埒もない。あるのは、濃いピンクの“アッツ桜”ばかり。
 これは秋山の零していた、" 近頃東京の花屋でも売っている花弁が一枚多い、しかしどう見ても桜には見えない "白い花の類。おまけに、かつて白だったらしいのが、昨今じゃ紅い花ばかり。おまけに、この現在流布している“アッツ桜”は、そもそもが北方・寒冷地体とは真逆の南アメリカ原産( ロードヒポキシス )という。
 で、“ ヒメエゾコザクラ ”の方はといえば、これは五弁だけど、まずアッツ桜と同様濃いピンクあるいは紫色ばかり。稀に白い花もあるようだ。花弁の形は桜より細長い。でも、このエゾコザクラ(蝦夷小桜)、オホーツク・ベーリング沿岸エリアの寒冷な草原に咲く多年草というから、こっちの方が可能性が高い。
 恐らく、【 アッツ島占領 】の記事の写真にヒメエゾコザクラ=エゾコザクラにロードヒポキシス花が似ていたからアッツ桜として売り出したのだろうが、秋山が新聞で見たらしいヒメエゾコザクラ自体がどんなものなのかはっきりしない。

 

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