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2020年7月27日 (月)

シーウィー 貧窮的陥穽からの名誉回復

2020

 

 

 

 

 

数日前、ブログで一斉に、タイ・バンコクのチャオプラヤ川沿にあるタイで最も旧いシリラート病院敷地内に建てられた六つの博物館の中で〈 死体博物館 〉として有名な〈 法医学博物館 〉に半世紀以上もガラス張り筐体(ボックス)に封じ込まれ、訪れた人々に“ 稀代の猟奇殺人犯 ”や“ 小児喰い殺人鬼 ”の剥き出しの猟奇的眼差しを向けられ続けてきたシーウィーSi Queyこと黄利輝の黒々と防腐処理された遺体が、長い幽閉から解放されて荼毘に附された事を報じていた。
 既に昨年に決定されていた事柄で、今夏になってようやく実現の運びとなったらしい。
 そんな動きになっているなんてさっぱり知らなかったので、些か驚いてしまった。
 あの、赤い濁流のチャオプラヤー川の対岸に聳える前国王プミンポンが亡くなる際にも入っていた大病院・マヒドン大学付属シリラート病院の敷地内の奥深く、煌々とした照明に照らし出されいやでも黒光りしたその裸形は、戦後タイの人々を最も猟奇的に震撼させた事件の主役の生身を越えた恒久的シンボルとしてタイじゃ知らぬ者とてないいわば都市伝説的存在であったにもかかわらず。

 

 それにしても、戦慄すべき戦後タイ最大の“ 凶悪犯 ”ってレッテルは、しかし、代々一連のタイ軍部的凶行に勝るものはないのだから彼らに返上すべきなんだろうが、子供たちの臓腑を調理して"食べた"のは、もっぱら単純に孤絶的貧窮の只中に、彼の故郷・中国広州で培われた、魯迅の小説《 薬 》をあげるまでもないいわば民間療法的共同幻想的意識が相乗してしまった悲惨というべき。
 つまりすぐれて社会構造的産物に過ぎない。
 食材というより薬材として捕獲された子供たちこそいい迷惑なのだが、それから半世紀以上も過ぎた現在のタイ、否、中東や日本・米国の子供たちの置かれた位置ってそれほど隔たってはいないし、むしろ相対的に悪くなっている救いようのなさ。

 

 

 1921年中国・広州で生まれ、元々肺・気管支系の病を得ていたようで、そういえば、映画《 シーウィー 》(2004年)じゃ、その広州の郷里でか、公開処刑される死刑囚の前にずらり待ち構えたそれぞれの目的とする臓腑に狙いをつけた彼の母親や住民たちが手にした鋭利な刃物を眼にした死刑囚がゾッとのけぞるシーンがあった。
 銃声一発、切先鋭く我先駈けに死刑囚めがけて突進してゆく住民たち。自身の病んだ家族・親族のための乾坤の一閃。銃弾一発で仕留められていたら良いが・・・
 これは第二次大戦前後の光景ではあるが、日本とて、幕末・明治初頭の頃までは似たり寄ったり。幕末まで名を馳せた" 首斬り浅 "こと山田 浅右衛門の家は、浪人の身分でありながら公儀の御様御用( おためしごよう)、つまり刀剣の試し切りのための死刑囚斬首も代々司っていて、死骸から抉り出した肝臓等の臓腑を高値で売ったりしてかなりの富を得ていたという。
 因みに、9代目・山田吉亮は、明治の初め“一代毒婦”として悪名を轟かせた高橋お伝を斬首したという。尤も、実際は、毒婦なんかじゃなく、殺した男に騙されての女のプライド的報復って趣きのようで、当時のマスコミが売らんかなと勝手に毒婦と騒ぎ立て、果ては小説・芝居・歌舞伎にまでなって一世を風靡してしまった。今回指弾されたシーウィー事件のなりゆきと相似。
 

 

 戦前、侵略日本軍に抗する戦争に、駆り出されたのか自ら志願したのか定かじゃないけど、兵士として戦場に赴いたらしいけれど、そこで死んだ同僚の内臓を煎じたか喫食したという。自身の病的強迫観念からなのか、もっと普通に、屠った動物の内臓をそうするように既に亡骸になって転がっている屍体から薬材を取り出しただけなのか。
 確かに、戦場で日常的感覚が麻痺するとは、多分に御都合主義的口実のニュアンス濃い代物として頻用されてきた感があるものの、やはり当然に起こりえる状態でもあるのも確か。それが、やがて、タイに出稼ぎ労働者( イミグラント )としてやって来たのはいいが、なかなかに意に沿った様に物事が推移せず、各地を転々とする中、貧窮に喘ぎ、帰国すらままならなくなって失意の底。

 

 彼の前に、映画《 ドラゴン危機一発 》でブルース・リーが演じた頼れる我らが唐山大兄=鄭朝安(タン・チャオ・アン)が颯爽と現れてくれることはなかったようだ。

 

 貧窮的回復としての薬材確保だったのか、否、実際にシーウィーが犯したのは一件だけというものから、総てが勢力者・官憲のフレーム・アップという説までが出回っている状況を鑑みると、都合の悪いもの全部を中国からの移民、それも互助組織=幇とも没交渉の風采の上がらない出稼ぎ労働者・シーウィーになすりつけたという頻(よ)くある汎世界的パターンも疑われてくる。
 それ故の、シーウィー=黄利輝の屍体のシリラート病院・博物館での陳列に"否"を言い指弾し、名誉回復・まともな葬儀の実行を求める一万人以上の署名を集めての今回の一連のなりゆきって次第。
 

 

 1959年9月16日、タイで唯一死刑場施設のあるノンタブリーのバーンクワン刑務所で銃殺刑に処された。当時32歳。写真見ると40~50歳の相貌だ。
 シリラート病院・博物館で60年もの長きにわたって梟首(きょうしゅ)ならぬ蝋塗りの裸形のまま晒し物になり、今夏2020年7月23日、ノンタブリーの、処刑になった同じ刑務所に隣接したバーンプレークタイ寺院に舞い戻り、葬儀の後、付設の火葬場でシーウィーの遺体はようやく荼毘にふされた。
 この寺は、元々銃殺刑に処された死刑囚の葬儀を行うところで、多数の子供の生命を奪いその内臓を喰らったというので、葬儀をする価値なしとしてそのままバンコクのシリラート病院の法医学博物館のガラスの筐体にその裸形を晒されることとなってしまった。

 

 タイのメディア・ネットのニュース映像を見ると、ガラスの筐体から、黒光りした彼の屍体を取り出すところから、白地に金の装飾のある柩に収められ、コロナ・ウイルス禍の真っ只中にあっても、少なからずの人々が参列し、オレンジ色の袈裟をまとった僧の読経の下に火葬されたちゃんとした葬儀であった。
 中には、遠くシーウィーがタイで初期の頃居たタイ南部の最近はすっかり海岸リゾー地帯と化したらしいプラチュワップキーリーカン県タップ・サケ―からやって来た人も参列したという。タップ・サケ―の住民たちが彼の遺灰を彼等の寺院に収めたい旨表明しているらしいけど、その帰趨は詳らかにしない。
 タップ・サケ―の住民たちの間では、シーウィーは大人しい真面目な人物としてむしろ好感を持たれていたという。

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2020年7月18日 (土)

冥銭  三途川の渡賃あるいは冥界旅の路銀

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 昨年、黒石がらみで長崎・崇福寺を訪れた際、折からの政治的力学の余波を受けて外人観光客の姿がすっかり僅少になってなのか、それほど広くもない伽藍に、人の気配は余り感じられず、華人系らしい母息子兄弟の三人組だけが、ひっそりと中国風の長い線香束を手に母親に教えられながら拝跪していた。内庭に面した金炉・宝炉と呼ばれる焚紙炉でも紙銭を燃やしていた。タイのバンコクの道教の道観でだったか童乩( タンキ― )が火焔弄ぶ中、犇めく人々があげる線香束の紫煙や紙銭を燃やす炎の充満に瞠目してしまったことがあったけど、その圧倒的なエナジーの揺らぎに比して何とも清々しい一縷の紫煙にも似た趣きに暫し見入ってしまった。二人の息子はまだ二十歳前後であったか、一人は当方に観られているのを些か恥じている風でもあり、旧い習俗に係わっている自身に若輩的なコンプレックスでも抱いているらしいのが透けて見え、思わず苦笑してしまった。
 

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 中国・華人世界じゃめずらしくはないけれど、日本じゃ銅貨六枚の六道銭として流布し、沖縄でも中国経由で入って来た冥界へ旅立つ死者の柩の中に収める冥銭。いずれも、現在でも実通用している習俗的産物。宗派によって違いがあるようで、現在の日本の葬儀でも、棺の中に、三途の川の渡賃とか六道巡る際の逐一の地蔵に渡す銭という六道銭、つまり三途の川の手前での死者の立ち往生を危惧しての、初めて小学校にあがる我子の一人通学をあれこれ慮るように、遺族の側の死者への、金輪際的に過誤の余地のない未知の旅路への思い遣りってところだろう。
 ならば、三途の川渡と六道地蔵へのどちらかに賭ける危うさを避け、最悪双方に支払う定めだった時を考慮して十二文銅貨を持たせておけば先ず安心と思われるのだけど、世間はやっぱり決まりがあるようで、六文銭らしい。尤も、昨今は、中国に倣った訳じゃないのだろうが、現行紙幣を模したような高額紙幣の束を収めたりするようになったらしい。六文銭も冥銭の如く印刷物となって副葬されているらしい。さすがに日本列島じゃ紙銭を燃やす作法は聞いたことがなく、沖縄じゃ現在も紙銭(=打ち紙 ウチカビ )を焼くようだ。中国じゃ、現実を反映して、もしも、を考慮してか、冥土銀行発行のかキャッシュ・カードまであるという。

 

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 柩の副葬品とは別途の、折々の時節に焼く紙銭は、焼くことで気化し、天上世界の、あるいは黄泉の國の死者に届くというものらしく、謂わば、旅先の死者に対する援助金送付って有難くも実に即物的な代物なんだけど、やっぱし親しかった身内の、この世から直接に手の下しようもない彼岸世界ということでの、精いっぱいの所作って訳なのだけど、さしずめ定期的送金ってところが泣かせる。
 となると、基本、紙銭を焼くってことをしない我が日本列島の住民達って、随分と醒めているのかドライなのか、持たせるのは最初の六文銭か札束冥銭だけで、後は死者自身が盂蘭盆等でわざわざこの世の仏壇か墓石まで出戻って来なければならず、それも精々飲食材ばかり。幾年も過ぎてしまうと、一見餓えた餓鬼の如く、自身の墓石か仏壇に供えられた食材を無心に貪っている些か興覚めするようなさもしい姿が脳裏を過ぎってしまう。も少し余裕の態で賞味する図であって欲しいとは誰でも望む俗の俗たる俗人的願意なのだろうか。
 で、そんな危惧を払拭するためには、やっぱ、墓参りや仏壇上に、札束冥銭を幾重にも積み上げる、あるいは中国製のであれ冥土銀行のキャッシュ・カードを供えるってのが一番かも知れない。

 

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2020年7月 8日 (水)

旅先のポストカード ( パキスタン ) Ⅱ

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 今回も、皆同じカラチでの発行で、はっきりメイド・イン・パキスタンと記してある。
 この頃はまだパキスタンは出版等の文化的な基礎産業なんてお粗末極まりなく、書店でも並んでいるのはほとんどが洋書の類で、自国のウルドゥー語の書籍なんてほんのちょっぴり申し訳程度。それでも絵葉書屋の映画俳優( インド=ボリウッド )のポスターなんかはそれなりのレベルのものもあって、あれは当然インドからの輸入ものだったのか。

 

 

 それにしてもこの五枚、文字通りの絵葉書。
 やっぱし元は同じインドだった頃の感性が残っているんだな~と思わせる。
 ヒンドゥーの至上の神々じゃなくて、世上の聖人・王侯たちの聖像をそのまま踏襲した感がある。尤も、さすがにパキスタンの聖人の列には、ウルドゥー語ともどもに無知過ぎ当方には一体誰が誰やら。
 せいぜい、イスラムにおける二聖都、つまり黒い幕で蔽われたサウジのカアバ神殿、そしてかつて預言者モハンマド(マホメット)の住居でもあった緑のドォーム=メディナの預言者のモスクぐらいは分かるぐらい。

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 カアバ神殿は元々イスラム以前のアラブ人たちの信仰する多神教の神々が祀られた神殿として既に存在していて、最高神アッラーフは月の女神=アッラートとマナート、アル・ウッザーの三人の女神の父親でもあり、カアバ神殿の内側に祀られていた360の神像の内、その月の女神=アッラートの神体ともいわれている黒曜石( 隕石とも ) だけ残してすべて、モハンマドによって破壊されたという。現在もカアバ神殿の東南の角に嵌め込まれていて、御利益にあづかろうとする信者たちに撫でられつづけているらしいけど、それでも昨今のコロナウイルス禍で、神聖不可侵の神殿内も殺菌消毒を施したり、あれこれ制限を設けたりしてるという。そんな折、この両モスクへの巡礼ツアーをあのHISが企画してるという。秋頃のプランで、日本国内のイスラム教徒( 約二十万人 )が対象とか。

 

 

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2020年6月27日 (土)

旅先のポストカード ( パキスタン )

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 いつ頃買ったのか定かじゃないけど、パキスタンで購入したものばかり。
 写真の感じからしても、タイのポストカードなんかと較べようもない二昔前の雰囲気で、それがまたキッチュなレトロ感を醸し出している。
 冒頭の十代前半とおぼしき娘が紅い結婚衣装らしきものをまとっているのは、先だって紹介したパキスタン映画《 DUKHTAR 》( 娘よ!)の一場面を彷彿とさせる。
 少女だからこそ観光用の絵ハガキにその容貌をくっきりと載せられたのかも知れない。ある程度歳がいくと、もう許されないのかも知れない。尤も、北方の山岳地帯のフンザの絵ハガキには成人二人の女性が微笑んでいる写真があって、確かに、働くフンザの女性は下界のパキスタンよりも大らかで、顔を隠したりはせず、むしろ外人旅行者にも好意的だった。《 フンザ・イン 》のオーナー=ハイダル・べグ氏によると、パキスタン権力の徴税史と警察がフンザの村にやってきたのもそんなに昔の事じゃないようだし、そんなに町の連中ほどには原理主義的じやないってことも関係あるんだろう。因みに、フンザはスンニ派より圧倒的にシーア派が多いらしい。
 

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 二枚目のは、当時パキスタンのあっちこっちで見かけたポピュラーな絵ハガキ。
 前列の娘たちは顔を出しているけど、後列の成人女性はみんな頭からスッポリ被るブルカをまとっている。ところが、裏側に、印刷所なのか発行場所はカラチとなってるものの、上部に“ エアポート通り ギルギット パキスタン ”とも記されていて、ギルギット・バルティスタン州の州都ギルギットの女性たちってことなんだろうか。
 知らなかったけど、 2013年にギルギットで外人旅行者9人がタリバンに襲われ殺害された事件があったらしい。
 そういえば、当方がギルギットに2回目の滞在をした'90年代の前半だったか、ある日本人旅行者が、郊外に赴いた際、遠くからライフルで狙われたと言ったことがあった。丁度選挙かなんかの時期で、狙うというより威嚇射撃のようだったらしいけど、さすがにもうその時期は過ぎていたのか、その後当方も同じルートを辿ることになり、内心ビクつきながらも、致し方なく郊外の他に人影もない広々とした田園地帯の長い路をリュック担いでとぼとぼ歩いていったけど、遠くの家屋や物陰から銃声のすることはなかった。
 パキスタンの場合、最大都市・カラチやトライバル・テリトリーでの外人拉致は有名であったけど、まさかのんびりした高原・山岳地帯のギルギットでそんな事件があるとは・・・そういえば、フンザ・カリマバードで、ギルギットから下界はもう堕落しているという言葉を聞いたことがあったけれど。
 因みに、カリマバードの《 フンザ・イン 》、現在の《 ハイダー・イン 》Haider Innは、ネット見ると小奇麗なコンクリート三階建てになってて、ドミトリーが600ルピー(420円)という。当方が滞在した頃は20!ルピーだったのが。
 通りのカフェやレストランも今風。背後のウルタル氷河をバックにピザ屋の看板も煌々と耀いている。そんな時節に、ゼロ・ポイント下で長年苦闘してきたかのハイダル・ベグ爺も他界( 2018年 )したらしい。一つの時代の終焉ってことなのだろう。

 

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 上の二枚はカラチでの印刷らしいけど、次のムジャヒディンの二枚は記されてなく不明。
 只、タイトルだけが英語とアラビックで表記されているだけ。
 青いショールの十代中頃の“ 若いムジャヒディン ”と年配の“ ベテラン・ムジャヒディン ”。
 これは恐らくパキスタンというより、アフガニスタンの絵ハガキなのだろうか。
 そういえば、かつてペシャワールの《 カイバル・ホテル 》の老スタッフの息子が、インド=パキスタン、イスラム=ヒンディーの間で長年揉めてきたカシミールの解放のために戦うんだと言ってたのを思い出した。ギルギットとカシミールは南北に隣合わせの地理関係。

 

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2020年6月20日 (土)

アメージング・タイランド  旅先のポストカード 2

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 これは全く知らなかったが、観光立国タイランドは、2017年11月から“ アメージング・タイランド観光年 ”ってことだったらしい。
 この従来の直な観光写真から些かアート感覚を採り入れた元祖“アメイジング・タイランド”ポスト・カードのこのカラフルなロゴは、奇しくも世紀末の真っただ中じゃあったけど、タイ中に溢れていた。当時日本人バック・パッカー達にも人気のあったポップ・シンガーのターター・ヤン(グ)のアルバムのタイトル名(“ アメージング・ターター”)にもなっていたくらい。
 当時、タイは“ 好景気 ”だったようだけど、幾らもしない内に“ 我々は我々が想っていたようには豊ではなかった ”と新聞のコラムで自嘲的なフレーズが並んだりするようになるバブル神話の真っただ中。 
その前が確かオープンになったばかりのミャンマーの観光年“ Visit Myanmar Year1996 ”で、当方もマンダレーからパガンまで時代物のフェリーに乗って他のパッカー達とイラワジ川を溯上したものだった。その次が、タイの観光年( 1998-1999 ) 。
 
 
 黄金のガルーダに背後に、王宮ともいわれるワット・プラケオ( ワット=寺院 )の壮大な伽藍のシルエットが聳えているいわずもがな王都・観光都市=バンコクの象徴的図柄。上方に《 エメラルド寺院 》と記してある。この寺院に祀ってあるエメラルド仏( 実際は翡翠 )故のタイ国内で俗称だ。勿論いかめしく長たらしい官命も別途ある。
 ここは交通の便が今一って先入観があって、訪れた記憶はなく、むしろチャオプラヤ川沿いの所謂ワット・アルン( 暁の寺 )の方には、定宿TTゲストハウスから簡単に行けるフェリー乗場から細長い常に満員のフェリーに乗って青々として群生したホテイ葵( パック・トン・チャワー )の浮かぶ赤い濁流を溯上して幾度か訪れた。ともかく暑熱がコンクリート床を焼いて一層うだされながらの観覧はある種の業すら思わせた。ファラン(白人)達もTシャツをべっとり汗で背中に貼りつけさせながらも、装束を纏った若い女姓モデルと一緒の記念写真に余念がない。

 

 

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 その黄金寺院が所狭しと整然と聳えた中のあっちこっちに、これまた青々とした空に一際映えて眩しいキンナリーの黄金像が佇んでいるらしい。
 このポストカードのキンナリーは両手を合掌しているけど、他のキンナリー像は両手で様々なポーズをとっていて、建物の中には、実際の灯を手にしたキンナリー像もあるようだ。形の整った両乳房を強調したような、あるいはついそこに視線が注がれてしまう態の些かセクシャルな雰囲気を湛えた神像であるが、
 緊那羅(キンナラ)は、インド神話に登場する音楽の神(精霊)で、仏教では天竜八部衆の一つという。キンナラは男神で半人半馬であり、キンナリーは美しい天女であり、半人半鳥の下半身が鳥様。
 だけど、このポストカードのキンナリーは、下半身は、鳥ではなく、さりとてキンナラの如く馬様って訳でもない、むしろ獅子(ライオン)に似てる。ネットでこのワット・プラケオ内の緊那羅像を確かめてみると、必ずしもその定式通りじゃなく、多種様々な姿態のキンナラ・キンナリー像があるのが分かる。
 黄金に輝くキンナリーはクールな東洋的エロティシズムとでもいった独特の雰囲気が魅力的な像で、この種々居並んだ黄金キンナリーを観るためにだけでも、一度は足を運んでみたいものだ。当方のガラス戸棚の中にも、黄金ならぬブラスの7センチ丈のこのポストカードの同じポーズと獅子半身のキンナリー像が長々と佇んでいる。隣国カンボジアの首都・プノンペンあるいはラオスの首府・ビエンチャンのいづれかの店先で見つけたものだった。

 

 

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 バンコクから北に直線距離で60キロほど行ったところに、勿論船で蛇行するチャオプラヤー川を溯ることもできるけど、これはもう団体観光客の定番なので、先ずパッカー達が便乗することはない。廉価なのがあればもう有名になってるだろうが、およそ寡聞にして聞いたことがない。
 当方も一度だけ、それもタイ旅行初期にバンコク以外に最初に訪れた場所が、かつて倭寇跋扈した時代の遺蹟・街並みが残っているというアユタヤだった。
 赤土と赤い濁流の交錯した如何にもメコンの残照といわんばかりの一帯は、丁度氾濫・冠水の時節でもあったのか、隣国カンボジアのシェムリアプと同様、当方の東南アジア的原体験として現在に到っている。
ガジュマルのうねった根に取り込まれた仏頭で有名なワット・マハタートの瓦礫と化した寺院と首を刎ねられた石仏群って、栄枯盛衰というより、所業無常の感が色濃く漂っている。  

 

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2020年6月 6日 (土)

 プライド的仇花 『 DUKHTAR 』( 娘よ!)

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 先だっての甲斐大策《 ペシャワールの猫 》に絡めた訳じゃないけど、偶々観ることになってしまったパキスタンの監督アフィア・ナサニエルの《 DUKHTAR 》(邦題・娘よ)。 2014年の作品。六年も前の映画だった。パキスタン・米国・ノルウェーの三ヵ国共同出資。
 米国にも多くのパキスタン人が出稼ぎや移住してて、パキスタン=米国は軍事的なつながりの緊密さでは、タイ=米国にまさるとも劣らない。( 日本=米国も、ミレニアムになっても、幕末以来の治外法権がまかり通っているぐらい。)
 隣国・アフガニスタンで跋扈するタリバンの基礎がそんなパキスタン権力の手によって作られたってのも意味深。

 

 この映画、観て先ず驚いたのが、舞台が、《 ペシャワールの猫 》で私=甲斐大策とアフガン難民ハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンが、甲斐の十二歳の娘を、結婚間近で家の外へ出れないハジの娘に会わせようと、居所のコハトに赴くためにどうしても通過しなくてはならないダッラの町のパーミッション( 通行許可証 )を貰うため二人してペシャワールにあるダッラの出張所に日参するのだけど、そのダッラと同じパキスタン公権力の権威の及ばない少数民族自治区“ トライバル・テリトリー ”だった。それもアフガン人ハジと同様のパシュトン系の部族エリアの。
 そのパシュトン系に属する、それも比較的最近までは互いに友好的だった二つの部族が、何らかの理由で血の相克劇、果てることのない“復讐”の連鎖に陥ってしまっていた。
 インドも中世の残滓香る世界ではあるけれど、隣国パキスタンも同様イスラムチックな報復=仇討ちがまだまだ血の相克を繰り返している世界であった。パキスタン滞在当時も英字新聞やなんかでも時折記事になってたりしていて驚いたものだった。我国じゃ、明治維新の廃刀令と共にとっくに消えいってしまっていた代物。

 

 

 主人公の母娘、アッララキとザイナブ、はカラコルム山脈のある麓の、中国から伸びたカラコルム・ハイウェイ沿いのフンザを彷彿とさせるある風光明媚な山岳地帯に住んでいた。
 画面じゃそれこそK2峰が望み見えていてもおかしくないくらい。
 トライバル・テリトリーって、カラコルム山脈から少し下ったペシャワール( 標高300メートル )の南西に位置するむしろアフガン南東部と国境を接する地域で、この辺りは基本外人旅行者には開かれてなくて当方にもまったく未踏のエリアなのだけど、どうも画面上の雰囲気と違和感がある。勿論、あくまで映画なので中国と国境を接した側のカラコルム山脈での撮影だったとしてもどうこういう筋合いもないのだが。

 

 
 母親アッララキの年老いた夫が一方の部族の長。
 敵方の部族長に、自分の部族側に何人も犠牲者が出、とりわけ自分の息子も犠牲になったのを嘆き、和解を申し出る。と、敵方の部族長は、ならお前の娘ザイナブを俺の嫁に寄越せと応じた。互いが親戚関係になるのが手っ取り早いってことらしい。
 確かに理には適っている。
 アッララキの夫は二つ返事に応じた。
 
 早速敵方の手の者がアッララキの家に直に新嫁ザイナブを迎えにやって来くる。
 母親アッララキは、まだ十歳の娘を、自分の老いた夫より老いた敵方の部族長に嫁がせることに自身も同じ境遇だったのを顧みて、慚愧の想いに駆られ、結局ザイナブを連れてその家を飛び出す。捕まると殺されるのは自明故の、非力な女にとって男達に物理的に対抗できるのはこれしかないとばかりに、こっそりと夫のだろうピストルを忍ばせて。
 供宴にうつつを抜かしている間に、新嫁に逃げられ、敵側もアッララキの夫側の男達も、共にプライドを傷つけられたと、怒りと殺意剥き出しに二人の追跡を始める。

 

 が、母娘が途中で乗るこことなるトラックの運転手ソハイルとの遭遇が、普通ならとっくに追っ手に捕まり母親は殺害され娘は老いた部族長の下に嫁ぐことになったのだろう運命を大きく変えてしまう。
 最初はパシュトン系の部族と諍いを起こすことに難色を示していたソハイルも、アッララキの命を賭しての逃亡の念に折れ、首都イスラマバードと古都ラホールの中間に位置するアトックまで送り届けることを約束することになる。元々孤児でアフガンのムジャヒディンに何年も参加していた彼には失うものがなかった。それに何よりも、アッララキに魅せられていた。好青年然としたソハイルに彼女もまんざらではない女の情愛を覚え始めているようだった。恐らく初めての・・・

 

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 勿論イスラム国パキスタンであれば、欧米先進国の住民達が思うようなハッピーエンドはそもそも期待すべくもなく、結末は描かれぬまま終わる。
 母娘は人口一千万の大都市ラホールにそのまま隠れ住むのだろうか。
 それとも、隣国インドに更なる逃避行を続けるのか。
 ソハイルとアッララキは一緒になれるのだろうか。
 否、アッララキの老いた夫はまだ健在のはず。
 敵方の部族長は同族の者に殺害され、ザイナブは許嫁婚から解放されたのだろうか。
 映画的には、正に“明日に向かって撃て”的な生きんがための逃避行。
 更に、アフガン帰りのソハイルを基準にすると“タクシー・ドライバー”ってところだろう。それなりに面白く作られた小品だと思う。

 

 映画は六年前の作品だけど、昨今喧しい、家父長的封建主義の産物ともいうべき、親達が当事者の気持ち・意志を何等鑑みることもなく一方的に年端もゆかぬ少女を嫁がせる“少女婚”が、正面切って問われている。
 親が勝手に当事者の意志を無視して結婚相手を決める許婚( いいなづけ )制は、中東・イスラム世界だけじゃなく、人民中国以外の華僑=華人世界じゃ現在でもまだ行われている様で、日本も戦前までは普通に行われていた慣習。明治維新以降の日本じゃ余り低年齢ではありえなくなったものの、華人世界じゃ、結構早い時期に決められたりすることもあるらしい。
 只、昨今の西欧近代主義的風潮って、中世のロメオとジュリエット的自由恋愛とすら背反する似非自由主義、つまり彼等が否定し批判しているつもりの全体主義と横並びの所詮全体主義的産物でしかないって事に留意しておかないと、遙か明治末・大正の《 青踏 》の頃から一寸の深化も得られてないってことになる。

 

 

監督 アフィア・ナサニエル
アッララキ サミア・ムムターズ
娘ザイナブ サーレハ・アーレフ
トラック運転手ソハイル ヒブ・ミルザー
 2014年作品 ( パキスタン・米国・ノルウェー

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2020年5月23日 (土)

パシュトン的プライド 『 ペシャーワルの猫 』甲斐大策

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( アフガン・バスとよばれていた。アフガンからこのバスで逃げてきたかららしい。)

 

 

 昨年一月にアフガン主義 ( 彼が自称しているわけじゃないが、一番端的と思われるレッテル ) 画家・作家の甲斐大策が急逝して早一年以上過ってしまった。
 五年前には、彼のアトリエが出火し全焼。
 本人は難を逃れ大丈夫だったようだけど、“全焼”ってことでひょっとして彼の作品の大半が消失してしまったのじゃないか、とまだ観ぬ作品多かった故に残念に思ってたら、門司港のカフェ《 グリシェンカフェ 》には普通に展示されてて一安心したものだった。
 その《 グリシェンカフェ 》を自ら訪れた際なのだろう一、二度ほど見かけたことがある。中高年の女性ばかりが徘徊する過疎った町中を、のっそりと一人長身に黒っぽい上下と鍔帽子のいでたちは、やっぱ違和感ハンパなく目立っていた。
 と、その同じ年の暮、今度は同じ福岡在住の《 ペシャワール会 》医師・中村哲が、アフガンの現地・ジャララバードで銃弾に斃れた。可能性は常にある覚悟の上での現地での活動だったろう。
 我が列島上空に紅くあるいは碧く瞬いてきたアフガン星座の双星が相継いで逝ってしまった、正に令和元年。

 

 かつて我々バック・パッカーにとって、ソ連侵攻で閉ざされて久しいアフガン、アラビア海とアラビア沙漠の国=イエメンは、もはや夢幻のヴェールはとっくに剥げ落ち旅行マニュアルまで片手にしながらも、やはり熱望の二大聖地であった。
 アフガンはしかし、隣国パキスタンにも跨ったパシュトン人エリアをはじめ、国境近くの大都市に、大勢のアフガン難民が定住していた。
 その一つが古のガンダーラの聖都ペシャワールであった。
 新市街には、中級だけども有名なグリーン・ホテルがあり、バック・パッカーの定番宿カイバル・ホテルがあった。
 作者の甲斐大策は子供連れってこともあってか、も少し大きなホテルに泊まっていたようだ。旧英国植民地時代の遺物なのかバンガロー・スタイルのホテルだったらしい。そういえば、タイ・バンコクのサイアム・ディスカバリーセンター横あたりにかつて古いバンガロー・スタイルのホテルがあった記憶があるけど、あれも旧英国式じゃなかったか。それとも米国式?
 我々が滞在していた'90年代も、旧市街にロータリーが出来たり、新市街にも若干の変容があったりはしたが、YOU TUBEなんかで近影を確かめてみても、そう思ったほどの変貌を遂げてはいない。因みに最近のペシャワールのYOU TUBE観てるとやたら食物の映像が多く、現在のパキスタンもかつての改革開放の頃の中国の如く、先ずは“食”からという訳なのだろうか。

 

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 ( ペシャワール新市街の路地バザール。店舗を持ってないアフガン難民達は路上で商いするしかない。)

 

 1984年秋、甲斐大策はまだ十二歳の娘を連れ、パキスタンは北西辺境州( 現在はカイバル・パクトゥンクワ州 ) の州都・ペシャワール郊外に住む旧友のアフガン人ハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンの娘ザリフに再会させるために訪れた。

 

 「 リキショー( 小型三輪タクシー )がけたたましいエンジン音と猛烈な排気ガスを街中にふりまき、雑踏は街の中空にまで土埃を浮遊させる。牛や羊の生首を満載した手押し車からは血の匂いが漂い、肉を焼く煙が路地の奥まで充満する。ペシャワールは、得体の知れない臭気と喧騒、生と死、善も悪もひっくるめ何千年もかけて混合させてきた古都である。そんな一見混沌きわまったペシャワールではあるが、私達にはうかがい知れない奥深いところで、パシュトンの部族社会が彼等だけのための強力な秩序をめぐらせているのが、時間と共に旅人の眼にも少しづつ見えてくる。そんな時、ペシャワールは旅人にとって、底光りする蠱惑的な都になってくるのである。」

 

 ともかくこの“ ペシャワール ”という響きが好い。
 かつてガンダーラの都だったという重層した歴史的重みと相俟って、一種独特に蠱惑的な魅力を漂わせている。
ちょっと郊外に出ると、早速公権力の威光の及ばぬいわゆるトライバル・テリトリー( 少数民族自治区 )が遠くアフガニスタンまで続く。カイバル・ホテルに滞在していた頃、旧市街のパターン人(パシュトン)宿に住んでいた日本人がよく遊びに来ていて、そこはパキスタンの官憲も容易に介入することができないパターン人だけの小世界を形作っているという話だった。勿論カラシニコフやそれ以上の武装もしていたのだろう。
 このパターン人=パシュトンに、アフガニスタン~パキスタンに渡って分布する男達に、甲斐大策は惚れ込んでしまったようだ。

 

 “ ペシャワールの通りを胸を張って大股に歩くパシュトン達は、古代ギリシャ彫刻の男達をよりたくましく、風と埃と陽光にさらした風貌をもち、沙漠の往来に生きてきた者達の自信に溢れている”

 

 要するにダンディズムって奴なのだろう。
 確かに、大陸生まれの大陸育ちって甲斐大策の出自からしてさもあろう。
 そして又、ご多分に漏れず甲斐大策も、もはや取り返すことの出来ぬ故郷喪失者として、己が原郷を探し求め曠野を歩きつづけてきたのだろうか。
 
 甲斐大策の娘より二つ年上のザリフとの再会は、しかし、容易ならざる事態が遅々としてその実現を妨げた。それが正に、隣国ペシャワールにおけるアフガン難民たるハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンとその娘の置かれた境遇であった。
 ザリフは既に同郷の青年と婚約を済ましていたのだった。
 

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 ( 屋台の台車を引いての商売はこのエリアじゃうるさいようで、ポリスに見つかると蹴飛ばされたり棒で叩かれたりする。で、自分の身体一つで商売。)

 

 「 パシュトン社会では、婚約成立後の娘の身柄を婚家の者と考える。父親をはじめ娘の家族は全員、式当日まで娘を徹底的に外界からへだてて守る警護の義務をおっている。たとえ父親が兄弟と呼び合う仲の旧友であろうと・・・会わせるわけにはいかないのだった」

 

 それと同時に真逆な事態がハジを追い詰めた。

 

 「 兄弟と呼ぶ旧友の遠路の来訪に応えられないパシュトンの苦しみは私達の想像を絶する。人間であることが成り立たない苦しみなのである。」

 

 つまり、甲斐大策と娘の方から、ペシャワール郊外の、つまりトライバル・テリトリー内のコハトまで赴きハジの家に行くしか手はないという訳だ。ならばさっさとハジと共に向かえばいいのだけど、そこが北西辺境州たる由縁のややこしさ。
 コハトに向かうには、例のハンドメイド銃の町ダッラを通らねばならず、そもそもそのダッラが阿片・ハシシのブローカーの町でもあり、米国の圧力もあってナーヴァスになっている中央政府の眼が光っていた。我々の頃はパーミッションが必要で、けっこう無視して訪れる者もいたけど問題があったって余り聞かなかった。が、この1984年は、宗主国・米国の圧力もあって、基本、外国人立入禁止となっていたらしい。
 そこで、ハジと私( 甲斐 )の二人は、ペシャワールの州政府事務所とダラー・アダム・ヘル(=ダッラ)出張所にパーミッション( トライバル・テリトリー通行許可証 )申請に日参するようになったという次第。インド譲りなのか英国譲りというべきなのかパキスタン的官僚主義の真骨頂とばかりに何時果てることもなく事務所の前庭に他のペシャワーリ達に混じって待ち続けさせられることになる。

 

 「 ペシャワール周辺の、アフリディやハタックの見るからに長老クラスの上品な老人達が地面に坐り、それぞれを守るように屈強な若者達が銃を膝に横たえ老人達の周囲にあぐらをかいている。在ペシャワールの者達でないことは、上下の衣裳のゆとりでわかる。都ぶりというのか、ペシャワール出身者の着る上下は、三割方細身である。ハジの上下は、そのいずれでもなく、泥色に染まってしまっているが、太い筒状につくった白色のバクティア風を頑固に守っている。」

 

 「 朝夕、私達はホテル前庭の芝生で茶を飲みながら猫の一家をただ眺めているしかなかった。仔猫達はいつも芥子や百日草の花の下でトカゲやバッタを追っていた。
 私達父娘は、そんな自分を情なく思うほどに猫好きなのである。猫に無視され冷たくされればされるほどいとおしくなって眺める。相手から屈辱感をあたえられてさえも歓びを感じるのはマゾヒズム以外の何物ででもない。被虐的な愛情を支える唯一の条件は、相手のもつ誇りや気品の高さである。その点、ペシャワールの猫は充分に条件を満たしていた。」

 

 アフガンの猫はかなり小型の猫で家猫の原種ともいわれるリビア山猫に似ていたのが、国境を越えたペシャワールのは日本の猫と同じくらいのサイズという。只、ペシャワールじゃ、あっちこっちに徘徊してても誰も気にも留めることもなく、甲斐父娘だけが執拗なくらいに執着していた。 

 

 「 夜にはいると、昼間の荷役やタクシーの仕事を終えたアフガン難民の若者達が私の部屋を訪れるのだった。船上から戻ったばかりの者もいた。ハジが所属する派とは別の、蒙古系ハザラのムジャヒディン( イスラム戦士 )もいた。彼等の大半が、平和な頃のアフガニスタンを共に旅したり、カーブルのチャイハナでの友人知己だった。懐かしそうに両手をひろげて抱擁を求めてくる若者が何者か判らず、広くぶ厚い胸と背中を抱えた腕にちゅうちょする気持が伝わると、敏感にさとって若者は身を引き、白い歯を見せて笑う 」

 

 そんなある日、いつもホテルの前庭に屯していた一団の地元の男達から、ホテルのボーイを介してパスポートの提示を求められた。
 小太りした男が公安関係の捜査官と名乗り、自身を警部と称した。
 けれども、その中の誰一人として、決して自らの身分証明書の類を提示することはなかった。只、ホテルの従業員等の彼等に対する態度でそれを察するだけ。
 当方も、かつてペシャワールの新市街の少し人気の余りないエリアをほっつき歩いていると、二度ほど、警察じゃなくて、情報機関の者と称する自転車に乗った男達にパスポートの提示を求められたことがあった。
 元々情報機関員を称しての詐欺みたいなのがあるって話は聞いていたので余り相手にしていなかったけど、二度目のは、甲斐父娘が遭遇したのと同じようなシャルワーズ・カミーズ姿の多数のグループで、一応はパスポートを見せたが、今度は当方が彼等にも身分証明書の提示を求めると、その内のひょろんとしたリーダーらしき男が無表情に見せてくれた。が、それは如何にも程度の悪いコピーを何度も繰り返したような複製品で、思わず苦笑してしまった。タイあたりじゃ先ず通用しない。まあ、パキスタンならこんなものなのかな、と自分に言い聞かせ、恐らく中国製だろう黒塗りの自転車に乗って、何事もなかったかのように去って行く男達の後ろ姿を見送った。
 甲斐がペルシャ語やそれに近いダーリー語を喋っていたのを見ていたのもあるのだろう、イランの原理主義勢力との関係を疑われたらしい。
 一瞬、甲斐の頭に当時流行っていた映画《 ミッドナイト・エキスプレス》の、異郷の地での出口なしのおどろおどろしい光景が閃いたという。甲斐よりも少し後のパッカー世代である我々の間でも、唐突な現地の権力・官憲からの不合理なクレームなんかを押し付けられた時なんか、往々にして生起する心理作用であり得たろう。

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 ( サダル・バザールのロータリー広場。'90年に来た時は、湾岸戦争時で、サダム・フセイン支持のポスターや貼紙が並んでいた。)

 

 常にそのホテルに常駐し泊り客の動静に眼を光らせている公安関係の捜査官達にとって、一応の確認作業といった程度のことに過ぎなかったようで、難なきを得、翌朝、甲斐父娘がホテルの前庭で朝食を終えた頃、その小太りした警部が段ボールの小箱を手にして現れた。テーブルの上に置かれたそれは出来立てのツァプリ・カバーブが一杯詰まった彼からの前日の気分直しの一品。

 

 「『 さあ、さあ、熱いうちに。ハジ、あんたも。それからババ(爺さま)もやらないか。』・・・肉汁と品格と力のある 風味が口一杯にひろがったが、一瞬の後、あまりの辛さに味覚はほぼすべてけしとんでしまった。その激しさもペシャワール有数のものである。顔を赤らめて食べる私達を警部は嬉しそうに眺めているようだ。・・・」

 

 身体中から汗が噴き出し、横隔膜が痙攣を起こしながらも、次の二枚目に手を伸ばしてゆくのも、ペシャワールやアフガンに限らぬ正に旅先の流儀。
 ペシャワールの出身らしい肥えた警部はパシュトン的流儀でもって応じ、甲斐大策も旅人の流儀でそれに応えたのだけど、我がアフガン難民ハジ・ヌール・ムハンマド・ハーンはといえば、未だバクティアのパシュトンとしての流儀に応えるにはもう少しダッラ出張所に通わねばならないようだった。

 

しかし、現実と言うのは中々にそんなかっこ好くはいかないようで、ふとネット・ニュースの見出しに眼がいった。
 ペシャワールの南西にあるワジリスタンで、ソーシャル・メディア上に十代の娘が男友達にキスされている動画を流しているのを発見され、家族に“ 家族の名誉 ”を穢したと銃殺された事件であった。ワジリスタンは元々パキスタンの中でもかなり保守的なエリアのようだけど、それでも他のエリア(隣国アフガンでも)と相違して、一応殺害犯は逮捕されたらしい。ネット上で踊っている場面をアップしただけでも、家族や周辺の男達に当たり前の如く殺害される口実がやっぱり“ 家族の名誉 ”なのだ。
 名誉=プライド。
 閉鎖的な家父長的封建主義、唯一神教的全体主義のべっとり血糊に塗れた仇花。

 

 ペシャーワルの猫 甲斐大策(トレヴィル) 1990年発行

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2020年5月10日 (日)

大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅲ  秋瑾の影

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 この短編を読んだ時、真っ先に想い至ったのが、ひょっとして黒石が芥川龍之介の《 湖南の扇 》( 大正15年《 中央公論 》)を念頭に置いての、以前からくすぶっていた黒石・大衆小説派と龍之介・文学派の反目の延長線上での意趣返し的産物じゃないのかという疑いで、ところが、調べてみたら出版時期が逆で黒石のこの作品の方が先( 大正9年《 中央公論 》)だったので、当方の単なる勘違いに過ぎなかった。
 《 湖南の扇 》じゃ、長沙で斬首されたのは匪賊の頭目・黄六一で、盗みという行為で黄夫人と共通し、そもそもこの匪賊の頭目・黄六一も斬首され生首を晒されていて、その血を浸したビスケットがこの作品の狂言回し的媒体なのだけど、それはまた単なる盗賊と異なる革命派とも一脈を通じた趣きの複数の頭目をミックスした造形的キャラクターという説(《「湖南の扇」論 Liu Gengyu 》)等によって大きく反転し、盗賊(窃盗)=革命=秋瑾という図式が蒼白い炎の如く揺らめきはじめるというのが、勘違いだった当方の目論見だった。

 

 

 物語に出てくる湘潭の二人の娼妓(中国的には妓女)、玉蘭と含芳、秋瑾の瑾が美玉を意味し、彼女の幼名が玉姑でもあることに因んでの玉蘭、そして扇を手にし、その若さを強調した含芳ともども秋瑾の分身ではなかったか。
 とりわけ、物語の中じゃ含芳の十代中頃なのかその若さに言及し、僕=龍之介が好んでいた風でもあって、玉蘭が体現した秋瑾の新思想=革命の“ 反清復漢 ”的な旧風さを更に乗り越えた人民革命的な新思潮の黎明性の象徴的存在としてみるべきなのだろう。
 因みに、《 湖南の扇 》の“扇”は、秋瑾(しゅうきん :チウチン)が横浜の天地会に在籍していた折就いていた文職軍師=「白扇」に因んだのではないか。つまり、本意は“湖南の革命女史・秋瑾”というタイトルだった可能性も高い。
 

 

 それにしても、この黄夫人、如何見ても、湖南の革命女史・秋瑾を念頭にしているとしか思えない。
 秋瑾の来日・留学、革命活動家・秋瑾を役人に密告したのも彼女の同郷( 魯迅の《薬》だと秋瑾の親戚の三爺ってことで甚だ理にかなっているのだけど、果たして黒石、《 黄夫人の手 》の前年の1919年発行の《新青年》誌上に発表された魯迅の《薬》を読んでいたろうか。実際は、折奏師爺〈郷紳〉きょうしん=章介眉を指しているらしく、血は繋がっていないに違いない。)の者だったし、秋瑾の実家( 浙江省紹興 )もそこそこの地元の旧家で、嫁いだ先も湖南の豪商、最後に刑死(斬首)したのも、黄夫人のそれぞれのエピソードで対応している。
 但し、秋瑾は、事前に役人の李宗嶽が梟首( きょうしゅ )はやらない旨約していて生首を晒しものにされることは免れ、黄夫人の刑死が斬首だったのか絞首だったのか不詳だけど、手首はその美しさと湘潭中を騒がせた罪深さ故に歴史的記念物として切り落とされ役人に保管されたというエピソードとは若干齟齬がある。
 
 つまり、表面的には窃盗癖的妄念に駆られた湘潭美人・添嬿=黄夫人の刑死後の怨霊と化した切断された右手首の凌辱・密告者への復讐譚であっても、その実、革命・蜂起への妄執=革命熱的業火に駆られた秋瑾の刑死の後を受けて、秋瑾や安慶起義(蜂起)を密告し頓挫させた密告者への復讐というアナロジックな蒼白い火焔・業火の転輪譚。

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 秋瑾を密告したといわれる胡道南と章介眉、胡道南は報復として殺害されたものの、郷紳・章介眉の方は生き延び、彼の一命を革命の名において許した王金発は、後、袁世凱の配下となった章介眉に殺害された。「フェアプレーは早過ぎる」と魯迅の憤った所以。
 この両者のどちらが、黄隆泰の原像となったのであろうか。
 胡道南は日本留学中、同じ湘潭からの留学生であった秋瑾の女性解放の演説中に、封建主義剥き出しで女性解放は時期早尚と喰ってかかったけど、彼女に論駁され恨みを抱いたといわれている。
 一方、秋瑾の実家のある紹興の大地主でもある郷紳・章介眉はといえば、その後、袁世凱死後も生き延び天寿を全うしたという。この黒石の短編の頃は、まだ紹興で生きていたってことになる。

 

 
 要するに、湘潭一の美人・添嬿=若き黄夫人とは秋瑾のアナロジー的形象で、美しい黄夫人の手とは、斬首された秋瑾の、安慶起義を頓挫させた密告者への怨念=革命的業火そのもの。黄夫人の窃盗癖的妄執とは、同様に、秋瑾の安慶起義=革命的妄執のアナロジー。
 当時、日本や中国でも流布していたロシアの無政府主義者クロポトキンの《 パンの略取 》でも周知の、権力・資本に略奪されたものを民衆が取り返すという意味での略奪→盗奪からと、《「湖南の扇」論 》Liu Gengyuでも触れている当時の匪賊の中には革命派に繋がるものも少なくなく、また清朝に敵対した存在でもありえたという社会情勢的ダイナミズム的要素からの形象化。

 

 《 黄夫人の手 》発表の前年の1919年には、大日本帝国統治下の朝鮮で《 三・一独立運動 》や中国での反日運動《 五・四 》運動が起こっていて、更にその前年には一大民衆叛乱とも謂うべき《 米騒動 》が日本全土を席巻していた時代の只中で、
秋瑾の無念を黒石が怪奇的装いをとって晴らしたって寸法なのだが、果たして実のところは如何。

 

 時間的に、龍之介の“ 湖南旅 ”は黒石のこの作品の翌年で、同じ《 中央公論 》に既に発表されているこの作品をもし読んでいたとしたら、その基底に秋瑾を据えた構造も了解し得たかも知れない。そこに隠された逐一の造形的デティールが龍之介の脳裏にいやでも植えこまれたろう。
 それ故に、既に帰国直後あたりに龍之介が《 湖南の扇 》を構想していたとしたら、さすがに、にっくき大衆小説派の、それも忌み嫌っている感のある黒石の絵に描いたような後塵を拝す挙にだけは出る訳に行かなかったろうから、5年後という時間は何としても必要だったに違いない。
 この視点から、《中央公論》上で対立していた純文学派と大衆小説派のそれぞれの雄の、清末・湖南の革命女史・秋瑾を基軸に据えた両作品を読み較べるってのも、一興かも。

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2020年5月 4日 (月)

辺境州的パンデミック 2020

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 五月の雨上がりの陽光の下、連休もあってか、観光エリアの海岸近辺は店舗も殆ど閉鎖され、人影も疎ら。それでもスーパーマーケットだけは、三密爆砕的に人々が蝟集している。買物袋を片手に薄暗いシャッター商店街を通っていると、ふと、戦前にも世界的パンデミック《 スぺイン風邪 》がこの今は小さな港町にも押し寄せ蔓延していたのを思い出した。
 
 ロシア革命の翌年、1918年1月から三年間、世界中に蔓延し、総人口の四割ちかくが罹患。計1700万~5000万人が死亡。 
 この日本列島でも同年8月(流行は秋)から三年間跋扈し、初年次に総人口の四割近くが罹患したものの後の二年は激減。それでも計39万~45万人が死亡。
 当時はそれなりの繁華な港湾都市だったこの街にも、少なからずの死者が出、火葬の白煙が途切れることがなかったというこの街にある小さな漁村で育った詩人・秋山清の記述を思い起こしたのだった。

 

 
 「 大正七年の二学期のある日、七、八人が休んだ。次の日クラスが半分近く空席となった。不時呼集の鐘がなって運動場に全校の生徒が集められ、教頭の松本先生からいい渡された。『 遠くスペインからはじまって世界中にはやっている流行性感冒が日本にも来て、本校も今日は欠席者が多い、今から一週間休校する。』
 一週間の休みか、いいなあ、とおもって飛んでかえった。」

 

 

 「 スペイン風邪はほんとうにひどかった。私の村でも、まだ土葬が多かったころだのに火葬場に煙がたえないといわれた。門司や大里あたりは、もう火葬場で死体がさばけきらず、山積になっているなどとうわさが流れてきたぐらいだった。スペイン風邪という私は白いけむりが峠の向こうの火葬場から朝も夕方も昇りつづけた記憶がすぐよびおこされる。白いけむりが山裾から稲の刈あとかの水田の方へたなびいている光景とともに、ほとんどの家に病人が出ていた。その中で、祖父も母も私もついに罹ることがなくてすんだ。」

 

 

 「 一週間がすぎて、学校に出てみると、大方元気でやってきた。そしてカゼのはげしい話ばかりだった。中には一家八人のうち、彼一人が生きのこって、父母きょうだいが死んでしまったという同級生もいた。妹が死んだ、母が死んだ、というのも幾人かいた。」   

 

 

 「 マスクをかけるということをやかましくいわれて、それが行きわたったのもこのころからだったであろう。白い布製の、顔の下半分をかくすほどのものに左右のひもをつけて、それを耳にかけて鼻と口をおおう、あのマスクというやつはほんとうにいやなものであるが、スペイン風邪以来日本中にそれがひろまったようである。」

 

秋山清“ 米騒動とスペイン風邪 ”《 眼の記憶 》( ぱる出版 )

 

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 当時は、前年のロシア革命に干渉する欧米列強それに追従した日本のシベリア出兵、それから派生した全国的米騒動、第一次世界大戦の終焉等揺れ動く内外情勢の只中で、そんな騒擾的どさくさに紛れての世界的パンデミック・スペイン風邪の日本列島縦断であった。
 海外と同様、二派とも三派ともいわれてるらしいが、三年間の蔓延で、それでも段々免疫的抵抗力もついてきてか勢力は弱まっていったようだ。
 つまり、現在のコロナ禍も今年夏か秋頃一旦勢力が衰えても、再び来年第二派がやってくる可能性もあるって訳だ。
  
 

 

 そういえば大泉黒石、このスペイン風邪跋扈の真っ只中の1919年(大正8年)に《 中央公論 》誌上で《 俺の自叙伝 》を、その翌年にも《 黄夫人の手 》を発表しているけど、この世界的パンデミックの影ってどのあたりに刻印されているのだろうか。
 そして、その数年後には、秋山や大泉黒石の住んでいた帝都・東京で大震災が襲う。

 

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2020年4月16日 (木)

大泉黒石《 黄夫人の手 》Ⅱ  悪しき血の慟哭

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 長崎・風頭山の麓・伊良林に佇む藤三の二階家に、忽然と現れた廛来の伯父・黄隆泰、畳みかけるように中国湖南・湘潭から出てきた廛来一家の話を語り始めた。

 「 廛来の母は今申し上げた女窃盗狂なのです。泥棒だと言うと、さも彼女が困窮していたように思えますが、添嬿の親元は、以前、長沙の町でも相応に羽振りを利かせた被服商売で、添嬿が廛来の父へ嫁したときの土産物は大したものでした。」

 「 彼女が廛来を生んだのは十五の歳だったと思います。初めは目立たずにいた盗癖が、廛来を生むと、酷くつのって、彼女が巡邏の手に押さえられるまでには、他人の持ち物は無論、自分の夫の品まで盗んでいたことが発覚しました。」

 「 彼女はある日、方神 ( かみさま ) に向かって、嬰児の生命を絶つことが許されるならば、彼は決して二十一歳まで生き延びないようにすると誓ったそうです」

 「 今年がちょうどその二十一です。確かに二十一です」
  

 湘潭一の美女・黄夫人、17歳の刑死。
 廛来を産んでから刑死までの二年間の破滅への加速的窃盗行。
 余りに若すぎる刑死。
 15歳での結婚はいわゆる許嫁・見合婚。現在でも、大陸の人民中国以外の所謂華僑=華人社会では、旧態依然として、封建主義的な遺制としての許嫁・見合婚の風習が残っている。
 出産してからの窃盗衝動の加速化って事で、典型的な窃盗症(クレプトマニア)的症例と言えなくもない。大正当時の新聞にも、既に、その関連性( あくまで妊娠に重点を置いての言及だけど )を指摘する記事が載っていた。

 

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 “ ホツヘーなどの調査によると、巴里で捕えられた五十六人の万引女の中、三十五人即ち過半数は月経中にあったことが確かめられた。由来月経は婦人の毎月の煩しい生理的現象ではあるが、此時期、或いは其前後には、身体的にも、精神的にも多少相違を生ずることは可なり多数に認めらるるのである。婦人自殺者の約三十六%は月経中であったという報告もある。
 ・・・月経ばかりでなく、妊娠も関係がある。妊娠第1箇月で万引したものがあり、産み月に近く之を行うものもある。かかる場合に之を単に境遇からばかり推測することを許さないのであって、妊娠が母体に及ぼす生理的影響をも十分に考察しなければならぬのである。 ”
  《 犯罪と精神病 》医学博士 呉秀三・大阪毎日新聞 (大正7年)   
       
 更に又、最近の研究によると、妊娠・出産した女性の脳に物理的変化が生じるという。

 “ 妊娠すると女性の脳の構造は変化し、赤ちゃんに対してより共感できるように適応している可能性がある。・・・脳のなかで社会的認知や共感を感じる領域と重なる・・・この脳の変化は妊娠によって始まり、出産後少なくとも2年続くという。 ”
  

“ この変化は生物学的な理由によるものか、それとも子どもと過ごした時間の長さによるものかは明らかではない。しかし研究者たちは、(脳の)灰白質の変化は顕著なもので、その変化の有無を見るだけで被験者が妊娠を経験したかどうかを簡単に見分けることができると述べている。”
                          《 Nature Neuroscience 》誌

 

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 妊婦の置かれている周辺的環境や社会的環境に対する認識や身籠り・出産した我が子に対する母性本能的な共感性が、一時的 ? に変容を来たす・・・・その後は心的平衡は本来の姿に戻ってしまっても、脳器官には変容の痕跡がそのまま残ってしまう。若き黄夫人の妊娠・出産以降の破滅への加速的窃盗行とぴったり符号し過ぎなくらいの“2 年”だ。
 つまり、加速の原因が妊娠・出産時の肉体的精神的変容にあるってことになる。
 黒石は、ロンブローゾ( 生来的犯罪人説で有名な精神科学者。大正当時、流行った )や、かかる当時の精神医学的常識にもそれなりの了解性をもっていたろうし、ホフマンの中の《 スキュデリー嬢 》 副題・ルイ14世時代の物語 (1820年)も、英語版かフランス版でとっくに読んでて念頭にあったろう。

 映画《 カリガリ博士 》 1921年・大正10年5月(日本上映)
  《 血と霊 》(原作) 1923年・大正12年7月

 両作品は、この大正9年の《 黄夫人の手 》(中央公論) より後の作品なので、やはり《 スキュデリー嬢 》が前提となる。何よりも、《 黄夫人の手 》と《 スキュデリー嬢 》の間には共通した複数のテーマが存在し作品の根幹ともなっているから。
  

 “ 診断基準を見てもわかる通り、窃盗直前のスリルや緊張感、窃盗後の達成感や解放感等が特徴的で、盗むこと自体が目的にもなっており、窃盗を他者から咎められたり、逮捕されることがあっても窃盗行為を繰り返してしまいます。
 自分自身でも窃盗行為を止めることが困難なため、窃盗行為の後で強い罪悪感や後悔を経験することも少なくありません。
 「自分で何とかしないといけない」と思うことで、社会的に孤立し、適切なサポートに繋がらず、結果として重症化してしまうことも多く見られます。”
                                                                         《 クレプトマニア医学研究所 》

 つまり、
 “ 自分自身でも窃盗行為を止めることが困難なため、窃盗行為の後で強い罪悪感や後悔を経験する ”
 という罪悪感と孤立感が綯交(ないま)ぜになった強迫観念が、若き黄夫人を苛み、我が児に自身と同じ苦海的煩悶に呻吟させられることのないようにと、それでもせめて二十歳ぐらいは生きて欲しいという母親の乾坤の一擲が、方神に立てた、我が児=廛来が決して二十一歳まで生き延びないようにとの誓願となったのだろう。

 「 高価な装身具を買うと、どんなに大事に保管しておこうと、不可解にもたちどころに消えてしまう。もっとひどいのは、夜分に宝石をもって出歩こうものなら、公道であれ建物の中の暗い通路であれ、かならず奪われ、悪くすると殺されてしまうことだった。」
                
                                         《  スキュデリー嬢 》訳・大島かおり(光文社)

 

 《 血と霊 》じゃ、鳳雲泰は切先の鋭い骨刀で心臓一突きで彼の作った宝石を身に纏った顧客を殺め宝石を奪還したのだけど、オリジナルの宝石細工師のカルディラックは、容赦ない刺殺的手口だけじゃなく、いきなり暗闇から脳天へ拳の一撃で失神させて奪ったり、むしろ最初の頃は、大胆にも顧客の邸宅に忍び込み家人の知らぬ間にその在りかを予め知悉していたのか隠し場所から盗み出していたりの怪盗とも目されていた。
 つまり、黄夫人は、カルディラックの顧客の邸宅に侵入しての奪還的窃盗という比較的穏便な方法をのみ、女性の物理力的制約の故にか専らに駆使する。それも自らの作り出した作品=宝石を奪い返すという口実、つまり奪還という合目的性を捨象した一般的な、盗む行為自体で十全とした窃盗としてのみ。  
 正に女窃盗狂=普通の窃盗症(クレプトマニア)以上には描かれていない。
 黄隆泰の屋敷に忍び込んでいたところを老女中に見咎められ犯してしまった殺人も、意識的というよりむしろ動転して犯したもの。
 
 
 以上、黄夫人の窃盗的偏執が窃盗症(クレプトマニア)に拠るものとしての解釈が成立つことが了解できた。
 ところで、カルディラックが、《 血と霊 》での北島にあたる弟子のオリヴィエに自らの出生時の悪星=宝石に対する妄執についてこう告白していた。

 

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 「 賢者たちがよく言うことだが、妊娠中の女は奇妙な感受性をもっていて、外部から自分の意志ではどうにもならぬ強い印象を受けると、それが不思議な影響をお腹の子におよぼすとか。」

 「 年端もゆかない子どものときから、きらめくダイヤモンドや金の装身具に、なによりも惹かれた。・・・小僧っ子ともなると、金や宝石を盗めるならどこからでも盗むようになったからな。・・・おやじのこっぴどい折檻には、この生まれつき欲望もさすがに勝てなかった。わしは金と宝石をあつかう仕事だというただそれだけの理由で、金細工師の職をえらんだ。」

 《 血と霊 》の鳳雲泰と出自において大差なく、母親の宝石への妄執が妊娠時のショックキングな出来事によって胎児=カルディアックに強いインパクトで遺伝したというという経緯だけど、一方、黄夫人はと言えば、わずかに父親が些か窃盗症的な傾向がみられた程度で、専ら廛来を産んでから二年後の刑死に到る窃盗症的加速の簡単な概念的記述があるのみ。彼女の出生時における経緯や両親のその後の消息もさっぱり詳らかじゃない。つまり、両親の死の際の黄夫人への( 憑依的 )遺伝の有無すら明らかにれてないのだ。但し、その両親の死も明記されていないので、ひょっとして長沙にまだ生存していた可能性すらある。( 昨今の映画やなんかの風潮でいけば、藤三が遙か東シナ海を渡って長沙の黄夫人の実家に赴き、その両親の消息を尋ね、黄夫人の血の実相を辿るって後日譚的続編もありなんだろうが。)
 
 
 鳳雲泰の母親はその役人である夫に湖上で殺害されたのだけど、彼女の子供である鳳雲泰はそれ以前に生まれていて、黒石の言述によると、夫の手によって殺害された瞬間にその宝石に対する妄執の念がまだ幼い鳳雲泰に憑依したという。
 黄夫人の場合は、その辺は余り明瞭に描かれてなくて、むしろ黒石の関心は、黄夫人の窃盗癖的帰結=親戚・黄隆泰による凌辱と密告・老婆殺害故の刑死、官史の恣意的思惑による手首切断とその公開、そこから不倶戴天の仇敵・黄隆泰を追って航路船から長崎までやって来てからの、長崎を舞台にした報復譚にあった。
 只、それでも、藤三の部屋で隆泰が何かに怯えるように明かした言葉があった。

 「 美人添嬿 ティエンイエン ( =黄夫人 )には恐ろしい窃盗狂の血が流れていました 」

 

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 確かに一個人単体における発現でも“ 血 ”を謂う場合もあるけれど、やはり彼女の父親が既に同様の窃盗癖を彼女ほど大胆・執拗ではないものの有していた、そのおどろおどろしい連綿性を指摘した言辞。
 勿論、狡猾な黄隆泰が自身を正当化するために、むしろ先手を打とうとわざわざ藤三の家まで訪れての黄夫人の秘史の披歴故に、黄夫人及び黄家を貶める意図の下での“ 血 ”であろうが、それは又そのもっと前の代からの連綿、つまり“ 血筋 ”をも想起させる。
 そもそも“ 血筋 ”とは何よりも“ 遺伝的連綿 ”。
 黄夫人以前には大騒ぎになるような事態に発展してはいなかったようなので、いずれも軽微な癖(へき)で了っていたのかも知れないけれど、若き黄夫人にとっては、何よりも自身の最愛の我が児の寿命を二十一歳までと祈願するほどに、重くのしかかってくる禍々しい呪われた血( 筋 )であった。

 だから、件の憑依的遺伝という視点からすると、黄夫人の母親→黄夫人というより、刑死と手首切断の断末魔的衝撃を被むった黄夫人→廛来の方が形式的には成り立ってしまう。そうなると、廛来に黄夫人と同等かそれ以上の発現があって当り前が、そうはなってないようで、少年時にその兆候が些かでも顕にでもなったのか父親が彼を学校以外外にも出さず厳しく監視していたお陰もあってか、祈願期日の二十一歳まで窃盗癖は封じられたまま。とりあえず黄夫人の母性的祈願は充たされたと言えよう。となると、今度はやはり、誓願成就の廛来の寿命の終焉が問題となってくる。が、黒石はそこで筆を置いてしまった。
 唯だ、藤三に狂言回しの如くの奇矯な科白を発させているだけ。

 「 サア、今度は廛来の番だ !」

  それも、方神の所作というより、誓願した黄夫人の所作として。
 つまり、乾坤一擲の誓願の最終的所作、黄夫人自らの“手”で、我が児・廛来を殺め、呪われた血(筋)を絶つという正に母猿断腸的所作。謂わば逆-鬼子母神とも呼ぶべき慟哭的慈母譚の趣きすら呈し始めた。《 不死身 》等にも通底した黒石自身の永遠に相見えることのない母親への想いの形象化でもあるのだろう。 

 

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