カテゴリー「旅行・地域」の260件の記事

2017年6月24日 (土)

 ウブド的食彩

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 1998年の6月末から8月末までの約2ヶ月、長年観たかった本場のバリ・ダンスの堪能の毎日だった。且つ、いつも狭苦しい安宿ばかりだったバック・パッカーにとって、バリ・インドネシアの宿=ホテルの快適性は申し分ないものだった。
 例のジャカルタ暴動でインドネシア経済が、とりわけ国際的観光地バリはもろその影響を受け、散々な目にあってしまい、泊まったホテル(バンガロウ)もそれまで15000レアルだったのが、25000レアルに値上がりしていた。尤もそれでも約2ドルに過ぎず、2Fのテーブルと椅子の並んだバルコニー、広々とした調度まで付いたワンルームにバスタブのあるシャワー・ルームまで備わっていた。

 
 そこの一人っきりのスタッフ、バリじゃ定番の名前ワヤンが、毎朝、部屋代に含まれる簡単な朝食を運んできてくれるのだけど、他の宿はいざ知らず、そのパン・ケーキが中々巧かった。バンコクの定宿TT2ゲストハウスなんかとえらい違い。
 最初の朝が、ココナッツの果肉を細かく刻んだものがトッピングされたパンケーキ、フルーツ・サラダ、そしてジャワ・ティー(ポット)。
 2回目の朝は、フレンチ・トーストにパイナップルとパパイヤのサラダ。ジャワ・ティー。
 3回目は、オムレツののったトースト、フルーツ・サラダそしてジャワ・ティー。
 毎回メニユーを変えて運んできて呉れるサービスの良さ。
 それをバルコニーの竹製の椅子が向かい合わせに並んだテーブルで、青い実のたわわに実ったバナナの樹が幾本も立ち並んだ庭先、その向こうに拡がる田園風景をも眺めながら食べる朝食は、又格別だった。
 確かに、如何にも安くあがるバック・パッカー的心性に違いない。


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 一番最初にバリ・ウブドで喰ったバリ・インドネシア料理は、その宿から路地を通って出た大通りの向かいのチャンプルー屋風の小さな食堂(ワルン)。
 揚げ物が多く、好みじやないけど、とりあえず魚や揚げ豆腐その他をライスと一緒にオーダー。
 いわゆる“ナシ・チャンプルー”。(ナシ=ライス、つまり定食)
 味は辛目。まあ、こんなものかってところだった。
 一緒に、てっきり地元のコーラと感違いして頼んだボトルのジャワ・ティーは、微かに甘みのある飲みやすい代物で、日本なんかで売っているブラック・ティーとは丸で味が違う。何か加工してあるようだった。


 “カフェ・ラティ”Cafe Ratihでサテー(串焼き)を食べる。
 チキン・サテー、野菜、ライス。コーク。ビンタン・ビール(小瓶)。
 サテーは大きな瓜を半分に切ったような木製の容器の中に炭火を入れ、その上に殆ど焼けた串肉を並べたまま運んできた。後は客が好みで焼き上げるって寸法のようだった。量が少ないのにも拘わらず、そこまで手の込んだやり方するのか、と最初驚いてしまった。それをピーナッツ・ソースに漬けて食べるのだ。味は悪くないけど、ピーナッツ・ソースの味が強過ぎて、どうも今一つ納得がいかなかった。
 ビンタン・ビールは、最近じゃ、他のアジアン・ビール同様、日本でも簡単に手に入れられるようになって、時折飲んだりしてる。ピルスナーのパテント製品のようだ。
 同じマルチ・ビンタン社から、アップル&ライム味の“グリーンサンズ”GreenSands(330ml缶)という清涼飲料があって、特別美味い訳じゃないが、けっこう癖になる飲物で、ウブドの小さなコンビニや雑貨店の冷蔵棚から捜し出して買ったものだ。3750レアルと安く、“セブン・アップ”が見あたらずその代用品として重宝した。 


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 グンタ・ブアナ・サリの開演時間待ちで、カラ集会所の近くの“チプタ・ラサ”(ワルン)で夕食。
 アヤム・バカール(照り焼きチキン)にライス。
 何よりも、バナナの葉っぱの上にライスってのが気に入った。
 ネット見ると、けっこう評判の店だったようだ。 


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 バリといえば芸能の国ってイメージとチャラい若い娘たちの群れる場所ってイメージもあって、ジャカルタ暴動がなけりゃ、芸能村ウブドの通りにも若い娘たちで溢れていた(らしい)んだろうけど、その夏は、如何にもそんな娘たち向けの小ジャレた感じの店(レストラン・カフェ)の並んだ通りはひっそりとしていた。そんな店には今ひとつ入り辛い。けど、ある程度以上の規模の店はそれでも客はそれなりに多く、表のガラス・ケースにジャーマン・ブレッドも並んだ、価格も手ごろな“カサ・ルナ”には、それでも何度か悪しからずご了承下さい運んでみた。
 広めの店内に如何にも赤道直下風なトロピカル植物が生い茂っていて雰囲気が悪くない。
 ここのメニューで気に入ったのはフルーツ・ティーで、水道水を使ってそのまま作ったような色の悪い氷が多い中、ここのはちゃんとした製氷器で作ったような四角い透明度の高い氷を使っていて、パパイヤやパイナップルの切り身がいっぱい入った、ジュースとは又違った味わいが悪くない。それで2000レアルは安い。フルーツ・パイも悪くないけど、当方にはちょっと甘過ぎた。


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2017年6月10日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち その3

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 8月の後半、そろそろバリ=インドネシアの二ヶ月の滞在ビザの残り少なくなってきたある夕刻、グンタ・ブアナ・サリ公演のある集会所の斜め前のプリ・カレランを訪れる。
 今夜も上空は黒っぽく雨雲が垂れ、時折ポツリ、ポツリと雨滴が落ちてはいたものの、何とかなりそうな雲行き。既に会場には椅子が並べられていて、左寄りの中央あたりに坐った。ここは場所が狭いので前後2列にしか並べられない。
 やっぱり、屋根がついているとはいえ室内より、狭くても野外の方が好い。
 ここの前門は、他と違って、踊娘たちが登場してくる階段が三段しかなく、段差がはげしいので、小さな小娘たちには急過ぎるのじやないかと気になった。案の定、例のチョンドンを舞う小娘が最後の段差降りた時帯か何か落とす事態を招くことになったのは、前回述べた通り。
 開演1時間前の6時半頃には、いつもの清涼飲料の入ったバケツをかかえた売娘たちの顔も揃った。美形の“アクセサリー・ブティック”の娘は来てなかった。今夜は客が少ないと読んだのだろう。お決まりの小娘から2000ルピアでコーラを買う。もう、値段交渉もなく、ストレート。


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 ここは控室に入るには通路が一つしかなく、同じ庭の左端を通ってゆくしかない。
 当然、踊娘たちがそこを通るので、その脇に佇み、次から次へとやって来る彼女たちを眺めた。例の余り踊りが巧くない二人組の娘たちが姿を現す。この娘たちだったか定かじゃないけど、スクーターかバイクの後部座席に乗って現れた踊りの今一な娘が、化粧箱を片手に妙に気取って“わたしは違うのよ”とばかり、しゃなりしゃなりと奥の控室に向かうのを横目に、同じくらいの年頃の15、6歳の小肥りした楽団員が露骨に嘲笑ったのを想い出した。ひょっとして同級生なのかも知れなかった。面白くもあり、微笑ましくもあって、思わず笑ってしまった。
 やがて、ユリアティとビダニーの姉妹も連れだって現れ、入口から端の通路に入ると、急に駆け出し走り抜けていった。この二人もそうだったけど、大抵の踊娘は顔だけはメイクを既に施していたものの服装はTシャツやなんかの普段着のまま。
 その後、例のチョンドンのあの小さな小娘が、父親なのか兄弟なのか、30歳前後の男の運転するバイクの後に乗ってやってきた。バリス(騎士)役らしい中学生くらいのメンバーはバリスの派手な衣裳を纏って堂々と現れた。


 雨雲もいつの間にかかき消え、7時半に演奏が始まった。
 いつもシンバルを叩いていた肥えた青年の姿がなく、代わりに中学生くらいの男子が坐って小さなシンバルを亀の形をした5個シンバルが並んだ台に叩きつけた。
 のっけからユリアティが花撒きの踊に出演。
 やがて真ん前で止まり、大きな瞳と紅い唇で微笑みながら舞う彼女に暫し魅入られてしまった。
 場所が狭いので客と間近なせいもあるのだろうが、客と視線を会わすまいとしてか、ぼくと隣の白人女性の間に視線を据え、彼女の些かの緊張すらが伝わってきそうで、思わずドギマギしてしまった。


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 クリンチ・ダンス(少女たちのウサギ踊)で、女優・岩下志麻に似た可愛い娘が先頭に立って石段を降りてきた。いつもの如く、幾分緊張し興奮気味の表情を顕わにしていたのが、やがて二人づつ向かい合わせになって踊るパートになると、フッと本当に嬉しそうに微笑んだ。
 緊張が解けた一瞬なのだろう。
 表のGBSの看板に、彼女の大きな写真が掲げられていて、何時だったか、スタッフがファンらしい女性日本人客と一緒に彼女を並べさせ写真を撮らさせていたこともあって、その志麻ギャル、ビダニーより一、二歳下なのか、人気上昇中の舞娘のようだった。名前も知らないけど、その後どうなったろう。第一線で活躍してるのだろうか。
 ビダニーは、機(はた)織り踊に途中から出てきた。
 何かの事情で遅れたのだろう。
 あげく、途中から入ってきたので勝手が違ったのか、珍しく、一回廻る方向を間違えてしまった。それでも、その四人の中じゃ、素人目にもだんとつに一番巧かった。
 

 終了後、通路の段にも入口のあたりにも現地の住民たちが群がっていて、ユリアティ&ビダニーも志麻ギャルも小走りに駆け抜けていった。ユリアティ&ビダニーは家人のバイクの後に煌びやかな衣裳のまま横坐りし、プリアタンの夜闇に颯爽と消えていった。
 束の間の喧騒を余所に夜空を見上げながら、単体の星なのか星座なのかすら定かでないパッカーたちがあれだそれだと言い合っていた南十字星を捜してみたけれど、さっぱり分らず、そん時以降赤道直下を訪れる機会もないまま現在に至ってしまって、残念至極。

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2017年5月31日 (水)

プリアタン(バリ)の舞娘たち その2

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 ユリアティがレゴン・クラトンのチョンドンを舞っていたプリアタンのグヌン・サリは有名だけど、二つ違いの妹ビダニーがやがてチョンドンを舞うようになったティルタ・サリの方が人気の点では上のようで、明らかに観客数も多く、衣裳や照明も凝っていた。コマーシャリズムには目もくれないグヌン・サリの方が好きだけど、勿論若干の差に過ぎない。
 一方、ウブトの中心地とも謂われるウブド・パレス(サレン王宮)は、場所柄、一番観客が多く、夜の公演以外にも、昼間は子供たちの公開稽古って趣きの催物も行われていた。近くを通りついで、休憩がてらに、当方も、木蔭の石段やに腰掛けて眺めてたりしたものだった。
 グヌン・サリで、ユリアティの後釜に坐ったチョンドン役の小娘も、ここでいつも一人だけ真面目くさった面もちで稽古に励んでいたのが印象的で覚えていたら、やっぱりな、と言う訳だった。これは蛇足だけど、彼女、十歳にも満たない小さな少女で、グンタ・ブアナ・サリの公演でチョンドン役で前門からチョコチョコと舞ながら階段を降りてきた時、三段の石段の段差が彼女にはチョット危ういような懸念を覚えた。と、最後に床に踏み降りた途端、ストン!と、帯かなんかの一部が落ちてしまった。ところが、彼女、一片の動揺も見せず、平然とそのままメリハリの効いた舞を続けたのだった。さすが。ユリアティの後釜に坐れた由縁だ。


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 このウブド・パレスを拠点にしているサダ・ブダヤの人気舞姫がグン・マニ嬢で、当時30歳代だったのだろうか? 
 前夜、夕方にわか雨が降ったので地面が濡れてて、通りを隔てた向かいにある集会所で催されることになったサダ・ブダヤの公演( レゴン・ダンス。サダ・ブダヤは金曜にもバロン・ダンスを公演していた )、晴天の翌日も同じウブド・パレスに公開稽古を観に訪れた。ちょっと眺めて直ぐに出ようと思ってたら、舞台の奥に、周囲の小娘たちよりも少し上の高校生くらいの年頃の娘たちが並んでいて、面白そうなので彼女たちの舞も観てみようと思った。
 が、幾ら待っても彼女たちの番が巡ってこない。
 どうなってんだ、と訝し気にあたりを見遣ると、いつの間にか、当方が坐っていた円形の石のベンチの周囲にサダ・ブダヤのTシャツにジーンズ風の普段着のままの男女メンバーたちがどんどん集まって来た。つい先っきまで少女たちに手取り足取り教えていたグン・マニ嬢の姿すらあった。サダ・ブダヤ関係者ばかりのど真ん中に部外者の当方だけが一人居座ってるのも何か邪魔しているようで気が引け、そそくさと反対側にある楽器にカバーを被せたままの舞台の縁に移動した。そこからだと先っきの円形のベンチの方がよく見えた。
 すると、あのグン・マニが嬢が一人こっちへトボトボ近づいてきた。
 舞台の縁の前に立ち止まり、一人佇んだままじっとしている。
 如何したんだろうと暫し小柄な身体にTシャツとサロンまで纏って何かをじっと待っているような風のグン・マニ嬢を見遣っていたが、余りまじまじと見詰めているのも憚られ、前方の丸石のベンチ周辺に屯している男女メンバーの方に向き直った。
 と、その内、黒っぽいTシャツにサロンを腰に巻いたグン・マニ嬢、ツ、ツ、ツと前方に歩み出、おもむろに一人舞い始めた。後ろ姿しか観れなかったものの、舞台とは又一味違った薄化粧の彼女舞う姿は、妙にリアルで、舞台の上じゃ化粧で幾分ふっくらと見えてたけど、殆ど素の彼女は少しやつれた感じがするがチャーミングな三十代女性であった。
 その内、勝手に練習しているのだと思い込んでいたのが、実はリハーサルだと分った。
 奏でられるガムランとグン・マニの舞が渾然一体となって流れ出した。
 やがて、舞ながら少し乾いた声でセリフまで言い出した彼女に、指導員らしい小肥りしたパンタロン姿の中年女性が、付きっきりであれこれ指導をはじめた。ずっと当方の隣に坐っていたジーンズ姿の若い娘もサロンを纏ってその一団に加わっていった。
 観ていると、まだ出来上がったばかりの演目のプロトタイプって感じで、馬の頭を被って舞っていた青年なんかはまるで慣れていなかった。それでも中々の見物で、飽きもせず眺めていたら、とっくに3時間も過ぎていた。このハプニングに近いリアル感は、やっぱし本場でないと味わえない醍醐味。


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 乾期の割にゃ天候不順の8月はじめ、プリアタン王宮の先の集会所に、グンタ・ブアナ・サリを観に行く。
 ところが、集会所は電灯も消えガラーンとして公演が行われる雰囲気は微塵も感じられなかった。ふと、見ると、少し戻った向かいの歩道側に幕らしきものが張ってあって、ひょっとして、とそっちへ向かうと、果たして、その脇に“ グンタ・ブアナ・サリ ”の看板が立っていた。覗いてみると、露天のかなり狭い場所で、観る分には間近にユリアティ、ビダニーたちの姿が観れるのでそれは却って有難いことだったけど、まだ箒で掃除中で椅子も並べられてなかった。
 ところが、やがて空模様が悪くなってきて、ポツリ、ポツリと雨滴が落ち始め、いつもの屋根のある集会所に戻ることとなった。そこで小娘から2000ルピアで買ったコーラを手に、バケツを下げた売娘たちと一緒にトボトボと元来た道を戻ってゆくと、雨が止み、すると又先っきの狭い露天の一角で演るってことになり、すっかりぬるくなったコーラ瓶を片手に再び売娘たちと戻っていった。
 しかし、見上げると、上空は真っ暗。
 どうみてもまだ降って来そうで、ライトをセッティングしているこのグループのマネージャーらしき髭男に、いつもの屋根のついた場所の方がベターだと進言すると、彼も結局その案に乗り、再々度移動することとなった。小雨の中、缶コーラやボトルの入ったバケツを重そうに下げた売娘たちと辟易しながら歩いて戻っていった。
 それでも、楽器の運搬とセッティングに手間取ったものの、定刻より少し遅れたぐらいで開演。 ユリアティはペンディットを、ビダニーは機(はた)織り踊を舞い、レゴン・クラトンのチョンドンは例の小娘が舞った。
 プリアタンの舞姫たちの世界も少しづつ変化していくのだ。
 プログラムがすべて了って外へ出ると、雨はあがり、ほぼ満月が静かに夜空に輝いていた。

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2017年5月20日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち

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 かれこれ来年の5月14日で丁度20年になるという1998年5月14日にインドネシアの首都ジャカルタで発生し、インドネシア中を席巻した“ジャカルタ暴動”。
 主にそのターゲットに中国系の人々および商店・企業を狙い撃ちし、千人以上の死者まで出し、それも普通余り例を見ない小さな少女や老婆までレイプし殺害した暴動だったけど、悪名高いスハルト軍政権力とその眷属輩が背後で糸を引いていたってことのようだ。( 後、インドネシア全土に拡がるにつれて、宗教戦争の様相を呈しはじめた。)
 

 そんな禍々しい事件の余韻も醒めやらぬ7月、バンコク・ドンムアン国際空港から、40分遅れのガルーダ航空B747-400に乗り、両側にコバルト・ブルーに映えた海が拡がるングラ・ライ(デンパサール)国際空港に降り立った。
 インドネシア=イスラムと相違して、唯一例外的に殆どがヒンドゥー教徒の島・バリ故にか、そんな痕跡も燻(くすぶ)りも見えなかった。只、バンコクのパッカーたちに定番の如く聞かされた“若い日本人娘”で溢れかえっているはずの、クタはまだしも、芸能村ウブドの通りという通りは、閑散として静かにプリメリアと椰子の葉が風にそよいでいるばかり。店の前に屯している、本来は日本や欧米の若い娘だと先を争って駆け寄ってくるバリ・ジャン(?)たちも、こっちが冴えない風体のいわゆるバック・パッカー(=貧乏旅行者)野郎だと一瞥を呉れるだけで微動だにすることもなく、所在なさげに物憂い眼差しのまま雑談に余念がなかった。

 インドネシア・ルピアーの暴落で、それまで月10万ルピアーもあれば貯金すら出来ていたのが30万ルピアーは必要になってしまい、暴動の余波で観光客が激減し、閉める店やホテルが増えてしまって、必然的に失業の若者も増えてしまった。バリとは無関係のジャワはじめイスラム・エリアでの暴動・事件でしかないのにもかかわらずえらいとばっちり。尤も、バリでもスハルトおよびその眷属輩の評判は余り良くはなかった。( その辻褄を合わせるように、後になって、ヒンドゥーの島国バリにも、イスラム勢力がやってきてテロを起こし始めた。)
  インフレでどんどん物価が上昇し続け、ウブドで最初に観たバリ・ダンス、セマラ・ラティの“スピリッツ・オブ・バリ”が、最初チケット屋の青年から1万ルピアでチケットを買って、そのままそのチケット屋のバイクの背に乗って会場に到着すると、もう1万5千ルピアに値上がっていた。(当時APAでのレート : 1$=14450ルピア/現在 : 1$=13335ルピア)
 最初安いと思っていた郵便料金なんて、例えば葉書(エアメール)の送料が1000ルピアだったのが、ほんの一ヶ月の間に、6800ルピアに跳ね上がってしまった。こりゃ地元住民たちもたまったものじゃないだろう。

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 ( グンタ・ブアナ・サリは踊手もガムラン器楽奏者も皆若かった。チョンドンの衣裳を纏い微笑んでいる娘こそまだ幼い頃のユリアティ )
 

 これは今でも変わらないようだけど、木曜はセマラ・ラティ、金曜はティルタ・サリ、土曜はグヌン・サリそして月曜はウブド・パレスのサダ・ブダヤがバリ・ダンスを上演。
 当方の本命は、グヌン・サリ。
 土曜7時半開演。
 次から次へと畳みかけてくるように息もつかせぬ演奏と舞に惹き込まれ、終わった頃にはぐったりと神経が疲れてしまった。
 何よりも、レゴンクラトン(ラッサム)のチョンドン(侍女と鳥の二役)のユリアティ Gusti Ayu Sri Yuliathi が白眉。
 当時まだ14歳で、2歳違いの妹ビダニーもティルタ・サリで同じくチョンドンを演っていた。
 二人は舞台で化粧した顔は判別し難いくらい似てるけど、ユリアティが丸顔、ビダニーが瓜実顔なのでそれで判断できる。
 当時、制服姿の下校中の二人と間近で遭遇した時、素ッピンの二人の相貌は、正にその定形通りだった。小麦粉色の、エキゾチックな魅力的な顔立ちだけど、やっぱし、も一人一緒に並んで居た同級生と変わらぬ普通の中学生でもあった。この二人、当時日本人観光客の間でかなり人気があったようで、APA(ウブドの観光情報センター)じゃ彼女たちのプロマイドを売っていたぐらい。


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 当時、チケットは大体1万5千ルピア=約1ドル。
 現在はゼロが一つ増えて10万~7万5千ルピア、約7ドルぐらいってことは、当時と較べて7倍近く値上がったということか。昨今のバリの景気は必ずしも悪いわけじゃないようで、大手ホテルが次々と進出しているらしい。けど、それらがそのまま一般庶民にまで還元されるかといえば、日本(とくに地方)すら中々にそうはなってはいないのと同様ほど遠いのだろう。
 二ヶ月近くウブドに滞在した後半頃、ユリアティはチョンドンを卒業し、以前ウブド・パレスの公開練習で見かけた一人だけクソ真面目に稽古に余念のなかった十歳にも満たないのじゃないかと思われる小さな少女がその跡釜に坐った。
 グンタ・ブアナ・サリという少女・少年たち(日本語のチラシによると、10~17歳)のガムラン演奏と舞のグループの公演でも、ペンディット( 歓迎の舞 )にユリアティが出演し一人存在感を顕わにしてたり、妹のビダニーがチョンドンを舞っていたりしていた。尤も、このグンタ・ブアナ・サリ、現在じゃ、当時の若いメンバーも年を喰っていい歳になり演奏に円熟味も出てきてるらしい。


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 あれは忘れもしない8月1日。
 角にあるダラム・プリ寺院で、殆ど燃え尽きよう(=村落的祭祀)としている大きな張子の黒牛や他の牛の姿を横目に歩いていると、ふと見覚えのあるバケツを手にしたミドル・ティーンの美形の娘と出喰わせ娘の方からニッコリと笑い話しかけてきた。
 いつもプリアタンの公演会場でバケツに入れたドリンク類を売っている顔なじみの娘で、何しろ美人なので一応買うつもりで打診するのだけど、いっかな法外な言値を崩すことないので大抵一緒にいる小さな暴ることをまだ知らない小娘から買うことになったのだけど、祭があると公演は行われないことがあるらしいので、「 今夜グヌン・サリの公演はあるのか」、彼女に尋ねてみると、「ある!」と答えた。公演会場でいつも彼女と連れ立っている別の娘がユリアティの同級生だった。

 その夜、グヌン・サリの公演を観た。
 が、噂には聞いていたユリアティがチョンドンから卒業するかも知れないって事態が本当に起こってしまった。レゴン・クラトンの長い前奏の後、前門から姿を現したのは、見も知らぬチョンドン役の女・・・
 一瞬、両の眼が点になってしまった。
 ・・・・・ おばさん?!
 それも、絵に描いたような中年体形の・・・・
 それがバタバタと、ユリアティやビダニーの如く可憐な蝶が舞うように華麗に舞うのじゃなく、正にバタバタと。
 悪い夢でも見せられている様だった。
 と、暫くして、その背後から、シナリオ通り、緑の衣装に細っそりした身を包んだラッサムとランケサリ役の二人の娘が現れた。
 あっ!、当方、思わず声を洩らした。
 ・・・ ユリアティ。
 衣装の色こそ違え、正にあのユリアティだった。
 救われた思いだったものの、やはり、チョンドンにおばさんは・・・
 そして、その前夜、妹のビダニーがティルタ・サリでチョンドンを舞い、以降定位置となった。

 
 この数年、ユリアティは銀行に勤めながら、グヌン・サリだけじゃなくティルタ・サリでも、レゴン・クラトンを舞っているという話をネットで見たけど、一方のビダニーは、何年か前、ユリアティと同様結婚してしまい、小児科医として医業に専念することとなって舞台からは遠ざかっているという。

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2017年5月 5日 (金)

《 長州・奇兵隊墓碑 関門相克史 補遺 》

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 ( JR線路沿いの国道三号線から赤坂一丁目東の信号を折れ少し行くと、左手鳥越・手向山方面奥に黄色のマンション「プレジデント赤坂」が見え、その脇の細い階段を昇ってゆく。)

 幕末・慶応二年(1866年)7月27日、長州軍は、6月17日の田野浦・大久保上陸以来、三度目の門司(小倉藩領)上陸を企図した。今度は、一挙に大里の少し手前の小森江近辺に上陸。
 沿岸部を報国隊が、山間部を山県有朋率いる奇兵隊が快進撃を続けていたが、小倉口=弾正山がグッと海まで突き出て行く手を阻む地形の赤坂=鳥越近辺に到ると、敗走した小倉藩兵と打って変わった肥後・熊本藩の当時最新鋭のアームストロング砲と長州に勝るとも劣らぬ近代的装備で武装した藩兵の的確な猛攻に、途端、一進一退の悪戦苦戦のドロ沼に叩き落とされてしまう。


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 ( 周辺には嘗てのお屋敷が凋落していった廃墟が点々と並んでいて、これから向かうその大半が20代の若者であった長州奇兵隊士の墓のイメージと微妙に融け合った荒廃と悲哀の雰囲気が漂っている)

富野台の忘言亭山から一気に熊本藩軍目がけて駆け下りてきた勇猛で鳴らした山田隊(第一小隊)も、先頭の隊長・山田鵬介をはじめ次々と斃されていき、壊滅。
 結局、早朝から夕刻までの熊本藩軍との延々熾烈な死闘のあげく、さしもの高杉晋作も、ついに退却を余儀なくされてしまった。

 ところが、翌日、長州藩軍と同様、甚大な被害を出した熊本藩軍が、小倉藩というより幕府軍=総督・小笠原長行に不信・反感の念を抱いたらしく、夜闇にまぎれて撤退してしまい、更に将軍・家茂の訃報に当の総督・小笠原自らも遁走してしまって、幕府合同軍は事実上瓦解し、小倉藩を残して霧散。
 城を自焼し遠隔の地・香春への小倉藩の敗走行の顛末。 


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 ( 細い階段を登り切ると左右に道が分かれていて左側に進む。路地めいた小径を進むと狭い駐車と覚しき一角に出る。その少し上側に覗けている。よく確かめないと見逃しかねない。)

 そんな激戦の最中故に、長州軍、とりわけ山間部での自軍兵の屍体を持って帰る余裕あるはずもなく、そのまま放置されたままだったようで、さすがに、山田隊の隊長・山田鵬介の死体だけは、生き残った隊士が首だけを斬り取って持ち帰ったという。
 翌日火葬にふされそのままに放置されていた長州兵たちの死灰・遺骨を、熊本藩軍参謀格の横井小南が見かねてか、集めて《 防長戦死之塚 》を建て供養したのだけど、維新後、現在のすぐ向こうに関門海峡をはさんで間近に長州(下関・彦島)の望める丘の上に移された。


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 ( 墓地の一角。下方の国道に面したフェンス越し前方に、関門海峡を挟んで長州・彦島が望める。左側には小倉・戸畑の工場群が覗けている。)


赤坂のこの近辺って結構“お屋敷”の類も少なくはないけれど、一廻りしてみたらここもご多分に漏れず、何とも平成末=アベノミクス的凋落としか形容しようがないほどに無惨な朽態を露呈していた。一軒などは妙な崩落の異態を晒したまま。

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 やがて、明治維新になり、長州軍がこの辺りも小倉=企救郡も占領することになるのだけど、その最高責任者が、佐藤寛作。誰あろう昭和の悪名高い佐藤栄作・岸信介兄弟の数代前の先祖であり、その末孫がアベノミクスの張本人=現総理大臣・安倍晋蔵って訳だ。これはやっぱし、歴史の皮肉って謂うべきだろう。
 山田鵬介率いる第一小隊が駆け下り突撃してきた現赤坂三丁目あたりの高台は比較的最近造られた住宅街のようで、そのど真ん中にポツンと公園があって、その奥隅に、長州藩軍・熊本藩軍死闘熾烈の合戦の地として《 慶應丙寅激戦の址 》の碑が取ってつけたように佇んでいる。およそ何の趣きも感じられない雰囲気の代物だけど、この辺りに、件の横井小南の建てた《 防長戦死之塚 》があったようだ。


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 ( 四柱の墓石が奇兵隊士のもの。一番小さいのが、切り込み隊長・山田鵬介の墓碑。首のないまま荼毘にふされたのだろうが、150年の年月に風化してしまって小さな文字は判読しづらい。国道をもっと小倉方面に進むと現・延命寺があり、そこにも奇兵隊士の墓碑が立っている。)


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2017年4月24日 (月)

《 青い衣の女 》 バチカン的面目 : コンキスタドール=CIA・MI6

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  「 深い霧に入った途端、気がついたら何百キロも離れた場所に着いていた・・・」


 作者ハビエル・シエラの分身と目されるスペインの神秘主義・超常現象専門雑誌《 ミステリオス 》の記者・カルロスと相棒のカメラマン・チェマが、以前追っていた不可思議な事件――いわゆるテレポーテーション(瞬間移動)。以前観たリチャード・ギア主演の《 プロフェシー 》(2002年)での同じ光景を想い出した。気づいたら、物理的に不可能な長距離を短時間で移動していたのだ。その着いた先が、ウエストバージニア州ポイント・プレザントだった。モスマンと地元で呼ばれる不吉な異生物が絡んできて、数十人の死者を出す橋梁崩壊事件にまで話が及んだ実話を元にしたミステリアスな佳作的小品ホラー映画のプロローグだったか。
 テレポーテーションを題材にした映画って結構ある。
 だけど、現代ばかりじゃなく、随分と昔からこの手の超常現象って人口に膾炙していたようだ。
 

 前回紹介したシエラの《 失われた天使 》(2011年)は、天使の末裔が故郷たる宇宙の果へ戻ってゆく帰還譚だったけど、今回の1998年(2008年改訂版)作品《 青い衣の女 》もやはり天使の末裔が登場する。シエラ、天使と異端審問官がよほど好きなようだ。彼にとって、キリスト教・カトリック世界の正に象徴的存在なのだろう。
 今回も、彼の十八番たるいわゆる“超常現象世界”的面目躍如ってところで、テレポーテーション(瞬間移動)=バイロケーション(同時複数的併存)を媒介にして、近世のバチカン・コンキスタドール(スペイン)、現代のバチカン・CIA(米国権力)の陰謀術数世界を紡ぎ出してゆく。
 

 「 昔の人々は和声を理解し、それを厳密に音楽に応用していただけでなく、それが意識の状態をも変化させ、聖職者や古の奥義を授けられた者たちを現実世界よりも高い領域に触れさせる術も知っていた。・・・・・・古代の賢人たちは、精神の波長を適切なレベルに合わせて“あの世”からのメッセージを受け取っていた。その状態なら、魔術師や神秘家たちはいかなる過去の瞬間をもよみがえらせることができる。言い換えれば、音楽によって脳波の振動数を調整することで、知覚の中枢部分を刺激し、時間を旅することが可能になる。」


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 教会音楽などの“先多声音楽”(プレ・ポリュフォニー)に始原を持ち、バチカンで極秘裏に開発されてきた“クオンタム・アクセス”技術、その結晶としての《 クロノバイザー 》。
 ネットじゃ、《 クロノバイザー 》=“タイム・マシーン”なんて派手なキャッチ・コピーが冠されているけど、実際はどうなんだろう。本当にCIAや英国のMI6やなんかと絡んでいたとなると、随分と焦臭くなってくる。
 そもそもCIAやMI6の連中が、それに不可欠と思われる矜持なんて持ち合わせているだろうか。
 素人でもすぐ既存の様々な陰謀・事件なんかが思い浮かぶはず。
 過去や未来のあるいは進行形の、そもそも彼等の関与が疑われていた事件や都合の悪い事件を、文章を校正し修正するように、自分たちの都合の良いように、修正・改変し、歴史の歪曲=偽造が、場合によっては実に簡単にできたりもするのだから。
 もし、この種の、例えばいわゆる“マインド・コントロール兵器=電磁波兵器”(ひょっとしてまさか同じもの?)なんかを含めて、実際に存在し使われていたとすると、もうとっくに歴史の改変・偽造は為されてきていたってことになりかねない。時代はとっくに、絵に描いたように《1984》世界の真っ直中って訳だ。

 
 そんな科学の粋、その実何とも胡散臭いバチカンの影の結晶=《 クロノバイザー 》的現代と、“先多声音楽”(プレ・ポリュフォニー)から発展したその源基形態=バイロケーション(=テレポーテーション)が頻用(?)されていた遙か近世のコンキスタドール世界(=メキシコ)を、同時進行的に物語は展開してゆく。複数の登場人物・事件の同時進行も含めての、小説・映画における流行の手法であり、シエラの得意の方法でもある。( まさか、シエラ、《 クロノバイザー 》=バイロケーションという主題に合わせて、この手法を採ったのじゃあるまい。) 
 
 コンキスタドールに滅ぼされた後のアステカ(メキシコ)では、当然にキリスト教ローマ・カトリックが権勢を揮うことになり、その宗教的版図を全土に及ばさんと精力的展開していたのだけど、驚いたことに、コンキスタドール的悪辣と暴虐によるのではない、むしろ自発的改宗によってキリスト教化された地域が存在したという。
 恐らくは歴史的事実ではあるのだろうが、それを《 青い衣の聖女 》、生涯スペインから出たこともないマリア・ヘスス・デ・アグレダ( 後に、彼女以外にも何人も存在していたという展開になる )の神秘的霊力(バイロケーション)的布教によるものとして仮構したのは、歴史の間隙を縫うというよりも、如何にも風に当を得たものかも知れない。
 集団帰依=改宗っ訳だけど、実際には、バチカン認定のアステカにおけるキリスト教宣教開始年代以前に、ひょっとしてコロンブス以前のもっと旧い時代にキリスト宣教やそれに類する活動・影響が存在していた可能性も、この物語の中でもちょっと触れられているけど、例えば日本における仏教伝播などと同様十分にあり得たろう。
 そして、現在じゃ、メキシコの9割以上の人々がキリスト教徒となっている押しも押されぬキリスト教(徒)国家となってしまって、これは、この物語のシナリオ的解釈からすると、霊能力修道女たちまでも駆使したバチカン=ローマ・カトリックの周到さの勝利と謂うべきなのだろうか。

 
  《 青い衣の女 》 ハビエル・シエラ 訳=八重樫克彦・由貴子(ナチュラル・スピリット)

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2017年4月 8日 (土)

大相撲から見えてくるニッポンイズム

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 先だって、日本列島を、呆然でもなく、震撼でもなく、人によっては感涙に噎ぶほどに感動させたらしい横綱・稀勢の里と大関・照ノ富士の優勝のかかった一番。
 勿論、前日、大関復帰がかかった琴奨菊との一番で、横に体をかわし“変化”したってことで大阪府立体育会館の観客に罵倒され唾棄されたらしい(当方はその場面は観ていたなかった)照ノ富士じゃなく、前々日受けた肩か胸の負傷を押して出場した稀勢の里に対する声援と熱狂。
 
 
 本割り(普通の対戦)と優勝決定戦の両方の勝負を観た。
 で、対戦はというと、のっけから、“横綱”稀勢の里、変化した。
 と、どういう訳か、すぐ仕切り直しとなった。
 別段両者とも立ち会いに特に問題があったと思われないのだけど・・・
 そして、満を持しての再度の仕切り・・・
 と、稀勢の里、またもや変化した。
 結局、その一番は、大方の予想を裏切って、負傷した稀勢の里が嫌にすんなりと勝ってしまった。前日の、横綱・鶴竜に理の当然の如く簡単に敗けてしまった一番とまるで真逆。
 たった一日でこうも回復してしまえるのか?
 そういえば、照ノ富士、好成績をあげてきた割には、何故かこの土俵での動きが妙に覚束なかった。
 ふと、その時、その日の午前中だったかに見たネットニュースを思い出した。
 確か照の富士だと思うのだけど、朝の稽古もそこそこに足を引きずるように引きあげていったって消息。2週間近くの相撲で、元々痛めていた膝がいよいよ悪くなってきてしまったのか。
 
 
 次の優勝決定戦。
 館内は沸きに沸いていた。
 前日、稀勢の里と対戦した鶴竜が、対戦した際の稀勢の里が「当たった瞬間に力が抜けていた」と、動態の下での対戦相手の身体の状態を体感できたのと同様、照の富士の脚下の覚束なさから膝の負傷の悪化を悟ったかのような勝算のほくそ笑み=余裕すら、その時稀勢の里の表情から読み取ろうとするのは考え過ぎだろうか。
 そして、最後の仕切り立ち会い・・・
 が、本割りじゃ見せなかった稀勢の里の十八番芸、当方は“ニッポン相撲”と呼んでいるが、要するにまともに立ち会おうせず、相手の勝負に賭けた気勢(集中力だけじゃないそれ以上のもの)を削ぐ所作=手口が早速顔を出した。
 稀勢の里と栃煌山をその双頭的頂点として、同様の手口を常套する力士たちを、その殆どが何故か日本人力士ばかり(外人力士にはまず居なかったのが、もう長く“常態化”している故にか、最近は外人力士にも少しづつ増えてきている。その一人が、誰あろうこの照ノ富士だった。但し、先述した双頭的頂点たる二人の日本人力士の厚顔無恥なまでの執拗さに較べたら可愛いいもの)なので、“ニッポン力士”と命名した次第。
 普通、蹲踞(そんきょ)の姿勢から仕切りにはいるため、双方同時に一度立ち上がるのだけど、照ノ富士が立ち上がっても、稀勢の里、蹲踞の姿勢のまままんじりともしない。
 何としても、

  “優勝!”

 って、シフトなんだろう。
 照ノ富士がしゃがむのをしっかと確認してから、おもむろに横綱・稀勢の里、ゆっくりと立ち上がり、そしてしゃがむ。普通、互いに立ち上がってしゃがみ、立ち会いに向けて一切を集中するってのが定式だったはずなのだけど・・・。
 そして、立ち会い。
 照ノ富士、さっと立ち上がり踏み込んだ。
 が、稀勢の里、まるで立ち上がる気配もなく、悠然と照ノ富士を見遣るばかり。
 すかさず、行事が止めに入り、仕切り直しになってしまった。
 はやった照ノ富士が一方的に突っかけたって訳でもなかった。
 普通に考えれば、敢えて稀勢の里が、自分の不利を悟って立ち上がらなかったってところだろう。( 勿論、ニッポン相撲の“雄”故に、意図的な“かわし”の可能性も排除できない。心理戦って訳だ。)
 つまり、事実上の“横綱”稀勢の里の “待った!”。
 この辺の判定の恣意性って、大概にゃ古くから指摘されていたにもかかわらずの、ニッポン相撲協会の無能と怠慢、無責任さの典型的産物。
 普通なら、そのまま、立ち会いを続けさせられることもザラ。
 だから、その時点で、行事が止めに入らなければ、確実に照ノ富士が勝っていた。
 

 それとは別に、照ノ富士、この時、自分を見失っていたようで、あたかも自分で“つっかけた”かのようにペコリと審判員の誰かに頭を下げてしまった。( まさか、その審判員が何か土俵上の照ノ富士にインネンでもつけたのだろうか? 稀勢の里はじめニッポン力士達なんて常習なのに、彼等がそれで土俵下から審判員たちに叱責・注意受けるなんて、本当に稀でしかない。)
 そもそもが、蹲踞して見合った後、照ノ富士が、稀勢の里の動きを確かめることもなく、あっさり立ち上がったってこと自体が彼のいつものやり方を崩しているのだから。直前の本割で、簡単に敗けてしまって、後がないってことの焦りの故なのか。
 この後、稀勢の里、ようやくまともに仕切り直し、立ち会って、簡単に勝ってしまった。
 まともな立ち会いをやろうと思えばやれたって訳だけど、もうその時は、照ノ富士、焦りとリズム・集中力を毀され、こう言って良ければ、完全に稀勢の里の術中に嵌ってしまっていた。

 
 この二人の対戦で分かったことは、やっぱし、相撲って、上半身よりも下半身の負傷の方が圧倒的に致命的ということだ。だから、本当は、損傷の致命傷度は、稀勢の里なんよりも、むしろ照ノ富士の方が高かったってことだろう。


 元々、照ノ富士が膝の負傷をしていなければ、とっくに横綱になっていたのは余りにはっきりしていたし、致命的な膝の損傷だった故に、さっさと一場所でも、二場所でも休んで完治してからでも、充分に横綱になれたのも又当時の定説的評価であった。
 もし照ノ富士が横綱になっていれば、稀勢の里が横綱になる目なんて先ずあり得なかったろう。否、優勝すらあり得なかったに違いないのだから。
 ところが、現実には、常識を覆しての、照ノ富士の強行出場だった。
 周囲の猛反対にあいながら、“頑な”って言葉を粉砕するほどの“異常”行動だった。
 自分から、自分の目前数十センチ先に、もう掴まれることをばかり待っていた横綱の地位を、一体何を思ったのか( あるいは、ひょっとして、誰かがそれを求めたのか? )、遠ざけてしまったのだから。否、力士生命すら危ぶまれる暴挙だったにもかかわらず。

 これは完全に不可解なんて域を越えた、もう《 謎 》の領域だろう。

 普通にまず思い至るのが、“大相撲を舐めていた”故に、という仮説だけど、だったら、その後の一、二場所で、その不可能性を悟り、やっぱし完全休場しかないと納得する他なく正解ではない。ところが、実際には、もうそれ以上の場所数を踏んでいながら、照ノ富士は、一向にそんな理に適った挙にでることもなく、只いたずらにダラダラと愚挙を繰り返すばかり。
 この異常性には、いやでも、昨今の様々なこの国を取り巻く状況から、色んな疑念・猜疑が、果ては陰謀論の類まで頭をもたげてきてしまいかねない。
 何しろ、ニッポン相撲協会が、ともかく如何しようもないほど種々様々な悪弊・トラブルの元凶と化して久しいからだ。
 かつて柔道が国際化された頃から既に大部時間が過っているにもかかわらず、最近になってもまだ、あたかも自分たちだけには如何なる責任もない、ひたすら一切は外国の審判や・その組織にあるっていわんばかりに喧しく騒ぎ立てている国内の柔道界を見るにつけ、その徹頭徹尾の自分たちの都合と論理ばかりのお粗末な体質に、ニッポン相撲協会の底なし加減も了解できてしまう。


 “ニッポン相撲” ・・・ むろん、これは相撲評論家やファンが使っている訳じゃなく、専ら当方が、昨今のこの国の趨勢に因んで命名した概念に過ぎないけど、先述の双頭的力士たち以前から延々と続けられてきた所作で、立ち会いの仕切りは、双方が呼吸を合わせ、同時に起きあがって始まる取組を、その立ち会いの仕切りの時点であれこれ意図的な工作を弄して、相手の集中力・気勢を逸らしたり乱れさせたりする悪弊だ。
 “真の相撲ファン”達や評論家、ニッポン相撲協会の趨勢は、世間向けのゴタク(=詐術)はともかく、実質的には、これをむしろ肯定的に相撲的“駆け引き”として、
 「何が悪いんだ?」
とばかり黙認・許してきた。
 それ故に跳梁跋扈し蔓延してきたのだ。
 しかし、これって、かつて柏鵬時代の一翼を担った横綱・柏戸=鏡山親方が審判(副・長)時代に口騒(うる)さく、目に余る力士には、土俵下からでも大声で怒鳴りつけることしきりだったという有名な逸話=伝説すらあったほど。
 これももう旧い話になるけど、以前《八百長・相撲賭博》事件で角界が震撼とした頃、出所不明のビデオで世間の耳目を集めた、何処かの会場で、居並ぶ大勢の力士や親方衆に向かって、初代若乃花=二子山理事長が、大声で罵声をあげる場面。
 その時、二子山理事長がなじっていたことこそ、件の“立ち会い”問題だったという。

 「一体、お前達は、何時になったらちゃんとやれるようになるんだ!」 

 ってところだろう。
 つまり、そういう問題ということだ。
 だから、横綱・朝青龍や白鵬はじめ外人力士の方が、日本人力士たちのそんな悪弊の野放しに違和や怒りを覚えていたろう。その癖、外人力士の些細な所作やなんかじゃ大騒ぎしてみせる審判員や相撲協会(・横綱審査会)。又、白鵬たちだけじゃなく、日本人力士の中にも、そんなニッポン相撲の常習者=ニッポン力士に怒りを覚え、土俵上で対応的所作をあからさまにやって見せたりしてるのを幾度も眼にしたこともある。(尤も、満身創痍の長老格・安美錦や同じく小柄で長老格の豪風なんかが使う分には誰も文句をつける者はないだろうが。)

 問題は更に、外人力士の間にもそんな風潮が徐々に拡がりはじめているってことだ。正攻法でゆくと損という利益優先的現実主義的対応って奴だろう。 その上での、先だっての“稀勢の里=照ノ富士”戦騒ぎだった。
 正に絵に描いたような、排外主義的ニッポンイズム。
 
 別段、当方、一時期流行った“真の相撲ファン”でもなければ、所謂“通”(平成風に呼ぶとオタク)でもない普通の映像でのみ観たり観なかったりのライトなファンでしかない。
 キックもフルコンタクト空手もK-1も、所詮クリンチ・ボクシングと大差ないので観なくなり、相撲だけは一応フルコンタクト格闘技ってことで、凡戦も多いけど(否むしろ年々益々増えてきている)、それでも他にないので観続けるだろうけれど、何とも鬱々するばかりの今日この頃。

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2017年3月25日 (土)

小倉=長州・企救郡百姓一揆 ノート (4)

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 幕末・慶応二年(1866年)六月十七日早朝、長州軍(奇兵隊・報国隊)が関門海峡を越え、小倉藩・幕府合同軍が手ぐすねひく小倉藩領=田野浦・大久保に艦砲射撃とともに上陸した所謂“小倉口の戦”(“豊長戦争”あるいは“長倉戦争”とも呼ばれる)で、幾らもしない内に、幕府合同軍に逃げられ見捨てられた小倉藩、自らの城を焼き払い、内陸奥の香春まで逃走・退却を余儀なくされ、結局、小倉藩領=企救半島を長州軍に占領・支配されてしまう。
 ところが、明治二年六月に“版籍奉還”発布され、企救半島=六郷は政府直轄地となって日田県の管轄なってしまったにもかかわらず、長州軍そのまま支配者として居座り続けた。そのあげくと言うべきか、とうとうその年の十一月、その長州占領下の企救半島において、燎原の火のごとく、農民一揆が席巻するこことなった。

 《 企救農民(百姓)一揆 》と呼ばれるこの、基本無血一揆にもかかわらず、それも長州藩・維新政府側が、“その罪を問わず”と明言しての解散・収束的妥協だったにもかかわらず、新道寺の原口九右衛門・縛首、他数名禁錮刑というその後の維新政府=大日本帝国の不実・背信的本性をその最初期に於いて既に顕わにしていたってことで実に印象的な事件でもあった。


 この一揆、流布している資料・記事から大体の流れは理解できるのだけど、一揆の基本的な部分以外の、それでもそれなりに肝心な部分が意外に曖昧・朦朧としていて、踏み込もうとするればするほどその白靄が濃くなってくる。一市井のトウシロウに過ぎない当方には当然といえば当然なのだけど、それにしてもたった150年くらい前の出来事なのに資料が本当に少ない。やはり農民決起=一揆ってのは、住民の大半であったはずの当の農民達にとっても、やはり秘匿しておくべき事柄多かったってことか。しかし、時代はもう封建領主的苛政からの解放を謳っていたのじゃなかったろうか。やはりこれは、維新を謳った新権力もそれ以前と同様、基本的に下からの民衆運動ってものを厭い疎んじ続けてきたってことの証左であろう。


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 ( 小倉城下を流れ関門海峡に注ぐ紫川の向こうに佇む長尾・能行の街並)
 

 
 そもそもこの一揆に関する資料、日付が資料によって異なるという曖昧さがついて回る。
 別段、基本的な問題じゃないので気にするほどのことじゃないんだけど。
 要するに、明治も5年になってから、江戸時代から使っていた太陰暦を西洋に倣って太陽暦に変えたために生じたもので、五年も溯って明治初年からに適応したために、一層ややこしくなってしまった。明治維新の時に一緒に太陽暦に移行してればまだしも、維新以降5年もの間、幕藩体制下同様太陰暦で記述していたものを、あらためて日付を計算し直さねばならなくなってしまった。太陰暦って、閏年どころか閏月なんてものまであって、ともかくややこしい。
 つまり、一揆当時の日記・日誌は太陰暦で記述されているので、新暦・太陽暦で記述した資料・記事にあたる際には、それが変換された日付かそのままの日付なのかはっきり附言されてないのもあるので留意してないと勘違いすることになりかねない。
 因みに、明治二年十一月十九日=西暦1869年12月21日。
 あるいは、西暦1869年11月19日=明治二年十月十六日。


 問題は、日数。
 資料によってその日数に異同がある。
 こりゃ勘弁して欲しい。
 一揆衆が一揆当日の深夜、横代原( 小倉城から4、5キロ南 : 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》ではもっと手前の2、3キロ南の城野エリア )で、関門海峡沿いの幕府合同軍とりわけ肥後熊本藩精鋭軍( 肥後藩は他の幕藩と相違して、長州軍なみの近代的装備をしていた )と長州軍の血みどろの激戦が行われた赤坂に駐屯していた長州軍=干城隊を率いる大石雄太郎と対峙し、一揆衆の罪は問わず、願いの事は聞き届けるとの言質をもって、一揆衆引き上げ、一揆も収束に向かった・・・という《義民・九右衛門と企救百姓一揆》での件(くだり)は、しかし、他の資料・記事じゃ、些か様相を異にしていた。

 
 「 ・・・群衆(=一揆衆)も亦之(これ)に服従し、暴行を停止す。されど安否落着する迄は、帰村せず。一同長尾、能行、祇園町に引き揚げ、茲(ここ)に屯在する事拾余日。此の間屡々(しばしば)干城隊より隊長以下、解散宅帰りの説諭に出張す・・・服従して各自帰宅す。」 
                   
   《 企救郡誌 第二項 明治初期の騒擾 : 小倉藩政時状記 内山円治 》


 この“・・・拾余日”、つまり“十数日”。
 干城隊・隊長に説諭され言質を得、そのままその日の内に一揆を解散し自分たちの村に戻っていったのと、所詮、悪辣な役人・庄屋輩の詐術の類かもって訳で、十数日もの間、少し離れた紫川の向こうで、ちゃんとした結果・成果を手中にするまではと待機し続けたってのじゃ、随分と違う。(一説によると、踏ん張った甲斐あってか、半年近く、限定されたものであれ、企救半島の農民たちは自分たちの自由自治的な状態を享受できたらしい。)
 一日二日の相違なら何らかの行き違いに因るものだろうと了解できる範囲だけど、一万人以上の一揆衆が、城下( 実際には城は焼け落ち、周辺の城下町の多くも自焼して焼野ヶ原となっていたものの、長州藩の本陣があった。 )から十キロも離れていない場所で、十日以上もの間ずっと長州藩小倉本陣と対峙し続ける緊迫状況にあったのだから、恣意的な解釈の余地なんて入りようがないだろう。
 この間、幾度も長州藩小倉本陣=撫民局( 民生取捌所 )から役人達が解散・帰村の説得工作に訪れ、農民側と交渉を重ねてようやく、一揆側の罪を問わぬ事と、要求の善処を約して一揆衆の解散・帰村の運びとなった。


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 それにしても、一つの同じ事件の重要な局面にもかかわらず、何故にこんな差異が生じてしまったのか。
 普通、十余日間の滞在が、一日(あるいは二日)に縮まることはない。
 原著者の内山円治は、石原町の庄屋であり、この一揆やもう数年前の小倉(幕府合同軍)・長州藩の戦いをもリアル・タイムにその渦中で生きた原口ら一揆衆と同時代人でもあるのだけど、その証言あるいは関係者から聞き取ったものの記録であるはずの“十余日”の方が、最初に干城隊が巡撫に訪れた時のその日の内=当日に一揆解散・帰村説よりも理には適っている。


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 当日、一揆衆が陣取っていた横代原あるいは城野方面(《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》)から引き揚げたのを、一揆そのものの解散、撤退と勘違いしたのだとすると、当然それは農民側の情報じゃなく、ありえるとするならば庄屋たちの皮相な瞥見的情報というところだろうか。
 実際には、紫川を渡った対岸に一揆衆一万余が様子見のために移動したに過ぎない。
 とは言え、内山翁は、長州・小倉藩(幕府合同軍)の戦いを綴った《 小倉戦史 》の編纂にも携わった人物なので、彼の明記した“拾余日”を、“当日”説の著者たちが知らない訳もなく( 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》じゃ引用までしているけれど、“拾余日”の箇所には触れてない )、とすれば、単純に誤報あるいは皮相な情報に惑わされたというより、もっと意図的なものと考えられる。
 そこで問題になるのが、長州側に求められ差し出した一揆衆の代表者の一人、原口九右衛門の認めた“訴状”、その最後に九右衛門の署名とともに記された日付。

 “明治二年巳(みのとし)十一月二十日”

 当時はまだ太陰暦だったので、その年の干支(巳)が付けられている。
 この“訴状”の日付、二十日は、《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》だと、蜂起したのが11月18日、干城隊・大石に説得され言質を得て解散・帰村したのが19日(但し、門司エリアじゃ21日までもめつづけた、と《 豊田日記 》に記されているらしく、門司エリアだけは留保されている。)ってことで、一揆衆がそれぞれの村に辿り着いた翌日の作成という運びとなる。
 つまり、内山翁の明記した“十余日”だと齟齬・矛盾をきたすという懸念から、“訴状”の“十一月二十日”の字義通りに時間軸を設定したってところだろう。情報・資料の僅少さからの不明瞭さと不安が、そのハショリを生じさせ、一見すっきり論理的整合性を保っているように見える体裁を採とろうとしたのは了解できなくもない。その整合化としての、

 「 一日おいての二十日の日、新道寺の九右衛門・治平、石原町の新蔵、長野村の清右衛門、高野村の清蔵、曽根村の荘次郎の六名に、長州藩小倉本陣への出頭命令が出ました。」
   《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》
 
 って記述だろう。
 そして続けて、
 「 ・・・その日のうちに、村人たちの気持ちと、一揆に及んだ事情をからめた訴状を、・・・長州藩本陣に提出しました。」

 その訴状の末尾に、先にあげた日付が記されいるって訳だけど、因みに《 明治初年 百姓一揆 》じゃ末尾に、「宣敷御聞執り成被下度奉願上候」の後、

 「 十一月廿三日」

 と記されている。この20日と23日との2日の差は、どうも太陰暦と太陽暦的齟齬のようで、本質的な問題ではない。
 それはともあれ、この説でいくと、長州藩小倉本陣からの出頭命令→訴状作成→出頭→訴状提出って流れになる。けれど、この訴状って、必ずしも出頭時に認められたって訳じゃない。
 先述の内山翁の記にはこうある。


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 ( 人影も殆どないひっそりとした長尾・祇園神社の境内の幕末に建てられた石鳥居。一揆衆、ここにも参集したという。 )

 「 ・・・其(その)後各村人民より出訴したる書面に基き、庄屋の不正行為を事実なりと認むるものは、庄屋を召連れ、官史其村に出張し、庄屋と人民の口頭弁論、又は対話を為さしむる事屡々有るも、其間人民より巨魁(首謀者)として拘束せらるゝ者無く、動揺(一揆)後既に四五ヶ月間経過したる翌明治三年三月、企救郡は日田県管轄となり、同県に引渡り前、俄然新道寺村原口九右衛門、池田治平、大村新蔵三名を召喚拘留し、事務引譲りと同時に、身分は日田県に引渡し、小倉監獄に留置す。其後林権少属(明治初期の太政官制の官位。低級。)係りにて、取調の結果、日田に於て、原口九右衛門は絞罪、池田治平は懲役十年、大村新蔵は同五年に処分となり・・・」

 紫川の向う岸側の長尾、能行、祇園町に待機した十余日後、それぞれの村に戻ってから、何時提出されたかつまびらかじゃないけれど、一揆側各村で提出した訴状を元に長州側が対応したって運び。その訴状提出の期日を明記してないものの、原口九右衛門名の訴状はあくまで新道寺村の代表としてのもので、実際は各村・各地域でそれぞれの代表者が出したようだ。恐らく、紫川対岸で待機していた二十日に原口のは認(したた)められたのだろう。
 勿論、絶対的確証=証拠がある訳じゃない。
 もし存在したなら、こんな日数的齟齬なんて起こりようもなかったろう。
 あくまで、内山翁の記述のリアルな説得性故にそう断じたに過ぎない。
 そして、前述した通り、帰村の後、


 「 一揆蜂起と同時に、庄屋は悉く村を脱走したるを以て、此際用便の為、暫役と名称を下し、庄屋事務取扱人の民選を命じ、人民の選挙したる人物を採用す。」


 この頃、長州藩自身でも、奇兵隊はじめ諸隊の武力紛争や農民一揆が各地で頻発し、その対応に四苦八苦していて、他領でこれ以上のもめ事を増やしたくなかったのもあっての結果的産物としての束の間の人民統治ってところだろうか。
 残念ながら、その詳細は明らかではない。

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2017年3月 4日 (土)

関門相克史・後日譚 《 門司港の英国領事館 》

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 以前、このブログの《 関門相克史(新・源平合戦)》で、門司(小倉藩)=下関(長州藩)の狭い関門海峡を挟んでの角逐、その一つとして英国領事館設立に触れたことがあった。
 その明治中葉に下関側設置で決着がついたはずの英国領事館勧誘事件、最近、地元の小さな書店で買った復刻版《 日本國門司港湾案内 》を眺めている内、ふと《 英国領事館 》の表示があるのに気づき驚いた。
 まさか石コロを投げれば届きそうな狭い関門海峡を挟んで、門司=下関両方に《 英国領事館 》が建てられたのかと、思わず自分の眼を疑ってしまった。場所は、山側に近い、現在もある《 門司倶楽部 》の下方。ご叮嚀にも、英国国旗の絵まで記してあるではないか。この《 門司倶楽部 》って、明治36年に、レトロ門司港を象徴するように炭鉱関係や地元の銀行なんかの幹部達の社交場として建てられ、戦後中国料理レストランとなって現在に至ったものらしい。
 
 
 この地図、作成年度が不詳で、添付のパンフレットによると、推定明治40年前後という。有難いことに、件の《 英国領事館 》の項目もあった。
 実は、《 英国領事館 》設置が下関側に決定した後、未練がましくも門司側、尚も英国に領事館設置を具申し続けたのだった。
 そもそもが当時駐日英国公使=アーネスト・サトウが、関門エリアに領事館設置を企画したのが発端らしく、既に時代の流れ的には新興著しかった門司港側が適切だったに違いないのだけど、何しろ維新の軍功めでたい雄藩・長州ってことで、下関側に傾いたのだろう。まさか、下関側が英国に具申した、「 門司の住民の半ばは石炭積込みの労働者及び日本における最下級に属する人物なり・・・」ってところじゃないだろうが。
 

 で、その相克的執拗さで、門司側にも、《 英国領事館 》設置をもたらしたのかと思ったら、そのパンフレットには、“領事館”の明示を、“出張所”と訂(ただ)してあった。
 地図に明示された《 英国領事館 》の何処にも“出張所”の但し書きはない。「対抗意識」と、パンフレット作者は推論してたけど、果たして相克なら正にその通りに違いない。
 下関側設置決定が明治34年(1901年)、建設が5年後の明治39年。
 門司側“出張所”設置は明治36年。
 尤も、パンフレットには「設置が実現した」としか記述されてなく、それが建設をも意味しているのか曖昧なまま。


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 ところが、《 硯海鼠璞 》(けんかいそはく)なるブログには、昭和初期の門司港地図に触れながら、件の明治40年頃の地図に明示されていた《 英国領事館 》を“出張所”と訂し、「明治36年4月1日開庁式」、「船舶事務」を主に取り扱っていたと附言し、その上で、「場所が違う」と明記してあった。
 えっ? 
庁舎の看板を誇大明示した上に、場所も違う?
 時代的社会的ラッシュとはそんなものなのだろう。
 

 が、同じそのブログ確かめてみたら、ことはそれだけで終わっていなかった。
 第二次世界大戦突入で《 英国領事館 》自体が閉鎖され、米軍による猛爆撃で壊滅的打撃を受けた門司港、戦後もまだ機雷処理に明け暮れしている昭和27年に、急に明治の 《 英国領事館 》争奪戦を思い出したかのように、早速英国にまたぞろ領事館設置を具申したという。結果は不詳だけど、そのまだ残存機雷が浮遊していたらしい関門海峡を挟んだ門司・下関両側のどちらかに《 英国領事館 》なるものがあったという話、寡聞にして聞いたことがない。
 尤も、明治の関門《 英国領事館 》に深く関わってきたらしい、長崎グラバー商会系のホームリンガー商会の現在も門司港にある戦後建てられた建物、あるブログじゃ、そこが戦後のだろう英国領事館の建物と記述しているのだけど・・・


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2017年2月18日 (土)

中国武侠映画的覚書

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 以前、図書館の払い下げコーナーで、中国武侠映画の雄=キン・フー(胡金銓)監督の《 侠女 》の女主人公の絵の横に“ キン・フーからツイ・ハークまで 武侠片は死んだのか? ”という月並みだけどちょっと気になる見出しに釣られて遂い貰ってしまった中国雑誌《 三聯・生活周刊 》(2012年1月)を久し振りに取り出してみた。
 この雑誌は、ルーツは戦前まで溯る総合雑誌のようで、恐らく前年末の12月に中国全土で封切りになったばかりのツイ・ハーク(徐克)監督・ジェット・リー主演の3D武侠(古装)映画《 龍門飛甲 》(邦題:ドラゴンゲート空飛ぶ剣と幻の秘宝)に合わせた企画なのだろう。筆者はワン・カイとなっていて、この記事の後に続けて《 武侠映画の二つの世界 》(武侠電影的両個世界)をキン・フーとツイ・ハークを中心に展開した一文も掲載している。
 《 龍門飛甲 》は以前に紹介したことがあるがツイ・ハークとジェット・リーのコンビってこともあってキン・フー、ツイ・ハークの師弟二代にわたる《龍門客桟》シリーズの新たな3D巨片化って趣きで、正に面目躍如、結構面白く観させてもらった。


 ワン・カイによると、60、70年代に始まった中国武侠映画の新しい波の中心に立って活躍してきた監督・張徹が当時を振り返って、やはり第一人者はキン・フー、二位が彼張徹自身、三位は楚原とランキングをしたらしい。キン・フー以外の二者については未知だけど、ネットで調べたら結構活躍していたようだ。
 でも、当時、第一人者の、あの黒澤明ですらが一目置いていたキン・フーでさえも、後にカンヌ映画祭で受賞した《 侠女 》の撮影終了の後、映画会社がそれまでも会社の意向を無視して中々コンスタントに映画を作ろうとせず、制作費ばかりそれも多額の浪費を決め込むキン・フーに愛想を尽かしてか、カンヌでの受賞をすら怪しみ、もはや彼の好き勝手にはさせなくなっていて、結局キン・フー、カンヌ映画祭には、借金して渡航費を作って赴いた挙句での受賞だったらしい。

 そもそもキン・フーって、作家・老舎と明史の研究、世界中の図書館巡りが趣味で、仲間との酒宴も併せて、一端映画撮影に入ってしまうと断念せざるを得ないのが堪えられなくて、中々映画を撮ろうとしなかったという。何か人生をえらく損するような強迫観念に囚われるのだろう。それはしかし、映画会社にとっては、国際的に有名ではあっても、金と時間ばかり喰う寡作監督って、実に厄介な存在なのだろう。
 《 侠女 》の撮影には九ヶ月の時間と一万人以上の人員動因、広大な古い建物群のセット、更にその上、明史に詳しいぶん時代考証に拘り、当時の衣裳になんかにも素材から拘ったりで予算もどんどんかさんでいったらしい。そんな彼の行き方故に、しまいには彼の映画に出資してくれる企業を捜すのも大変になっていたのも意に介すことなく、己がスタイルを変えることもなく、人物や寺廟等をあたかも一幅の山水画の如く描こうとして湯水のように予算を使いまくり、確かに芸術性は高かろうが観客との間の乖離は拡がるばかり。やっとついてくれた出資者たちをも煩わせ不快にすることしきりだったようだ。これは頻くある作家(性)と採算(性)の問題で、洋の東西を問わない。


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 以下、要約すると、米国帰りのツイ・ハークと一緒に《 笑傲江湖 》(1990年)を制作した際も、相も変わらず完全主義的な作品本位主義的志向に走り、香港の映画会社との契約期間をとっくに過ぎても衣裳なんかに拘りまくったりで埒があかず、とうとうツイ・ハークが交替し、彼の兄弟たちとあっちこっちから金をかき集めて予算を作り、一月で完成させてしまった。
 尤も、そのツイ・ハークもキン・フーに負けず劣らずの浪費家で、《 新蜀山剣侠 》じゃ、仙女たちが飛翔するシーンのワイヤー・ワーク撮影のために、わざわざ香港の武術監督を呼び集めたりしたようだ。彼の作風は、キン・フーのリアリズムと真逆な、けれん味たっぷりな奇想天外な空想的リアリズムといったところ。
 ツイ・ハークの初期の頃は、西洋科学と幻想映画の結合を企図していたものの、次第に西洋的なものとの結合に違和感を覚えるようになったのか、東洋的な方途に傾き始め、ジェット・リー主演《 黄飛鴻 》シリーズでは一昔前の中国の勇壮なシーンを作ってみせた。
 ワン・カイは、その背景に、ツイ・ハークの西方文化に対抗しようとする観念・思想を指摘する。勿論、例えば、彼の(2012年当時の)最新作《 竜門飛鴻 》じゃ、新しい映像(世界)を創出するために、最新のテクノロジーを用いたりもしている。


 中国の武侠映画の本質は、復讐の快感=怒りのカタルシスだという説もあるけど、確かに最近のブルース・リーの師匠ってことで有名な詠春拳達人=葉問《イップ・マン》シリーズなんかそのいい例だろう。最後には、イップ・マンが理不尽な外人をやっつけるって寸法だ。しかしこれじゃ何としてもレベルが低く、“侠”とは言い難い。
 武侠映画の歴史において、真正の英雄として人物造形されたものは数が知れていて、秀作を多く作ってきたキン・フーでさえ例外ではない。彼の人物造形した高僧も人心を感化できたとは言えず、安易な御都合主義のレッテルを貼られても致し方ないだろう。


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 最後に、
 「一つの映画には一つの武侠の夢がある」
 これが宣伝のための単なるキャッチ・コピーであったとしても、あるいは真実の核心をついたものであったとしても、ともあれ、中国独自のこの武侠片というジャンルは、これからも生き延びてゆくのだろう、と期待を込めて結んでいる。

 この最後の言葉の前に、米国・ハリウッド映画が70年代の武侠映画を分析研究して作られた、名前は知っているものの未見のアニメ映画《カンフー・パンダ》の世界的成功に触れた後、では中国武侠映画の方はといえば、粗製濫造の旧態依然、すっかり行き詰まって前方にあるのは隘路ばかりって危機感を吐露してはいるのだけど、結局、“武侠映画は死んだのか”(武侠片已死?)ってセンセーショナルなタイトルにしては、案の定、月並みなものでしかなかったのは残念。
 中国映画なんて映画館で観れるのは希有な、わが南西辺境州じゃ、いわんや武侠映画なんてレンタル・ビデオで観るしかない。尤も、昨今は有難いことに、youtubeや中国のネットでそれなりには観れなくもないけど、字幕が基本、中国語か英語って制約があるのが玉に瑕。
 王家衛の《 グランド・マスター 》(2013年)の脚本を担当し、自らメガホンを取った《 倭寇的踪跡 》(2011年)の原作者でもある作家の徐浩峰の、《 箭士柳白猿 》(2012年)が中々面白そうで観てみたいのだけど、中国ネットあれこれ捜してみたものの予告編やらの部分的なものばかり。箭士とは弓士のことらしく、時代も民国初頭ってことで、いよいよ廃れてゆく武術としての弓ってところが良い。前作でも倭寇の残滓とも謂える倭刀が興味深かったし、独特のリアリズムも魅力的だった。


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