カテゴリー「旅行・地域」の293件の記事

2018年8月19日 (日)

トロピカル・アイランド的佳境 

A

 
 
 
 今早朝、まだ明けやらぬアスファルト路の上空をふと見上げると、殆ど真東の闇空に何とオリオン座がいぶし銀の如く輝いているではないか。
 唐突な久しぶりのオリオンの瞬きに、人気のない街燈に照らし出されたアスファルトの真ん中に立ち止まり、暫し見入ってしまった。六百光年の彼方の赤色超巨星・ベテルギウスはまだ健在だった。
 地球の気候的変動なんか意中にないといわんばかりに星座はもう秋モードって訳か。
 尤も、昨今顕著になり始めたらしい地軸の微細な傾きによって多少の現れ位置にズレは生じるのだろうが。


 この国がトロピカル列島と化してもう大部なる。
 そのシンボルが、当方じゃ狭い裏庭に茂ったパパイヤとハイビスカス。
 烈日に青々と映えた大きな葉脈のパパイヤの葉は、もっぱら観賞用で、結実を期待することはないけれど、正にトロピカルの極みって雰囲気が好い。あれよあれよという間に二メートル近くになった前回と違って今夏のは丈の短い種で、上よりもひたすら横に伸びてすっかり繁茂状態。

 ハイビスカスの方は、昨年植えた直径二十センチ以上もある花びらのジャンボ・ハイビスカス( 商標はジャンボビスカス )が、昨年よりも一カ月以上前から真紅の大輪花を咲かせ、花数もポツポツだった昨年とうってかわって幹が大きくなった分正に艶やかに咲きほころび続けている。七月の途中からぷっつり咲き止んでしまったものの、八月に入るや再び以前よりもパワー・アップして毎朝咲きまくっている。正に盛花。最高十七輪で、ここまでくると些か壮観。
 このままゆくと、来年には如何なるんだろう。
 それでなくとも狭い庭なのだから。
 それこそシュールな真紅花世界って趣になってしまうのだろうか。


|

2018年8月11日 (土)

火星反転夜話

Mars

 火星が地球に大接近って騒いでいたのはちょっと前だけど、現在でもまだ夜半南東にオレンジ色に輝いている。そもそも太陽系の惑星なので肉眼でもはっきり見えて当然といえば当然だけど、幾ら大接近したからといって、肉眼でくっきりとその球形が見える訳でもいわんや斑点の模様までが視認できるわけじゃない。当方の二十倍の双眼鏡ですら、かすかに微細なオレンジ色の球体として見えるだけ。所詮、ちゃんとした天体望遠鏡でなんぼのマニアの世界に過ぎない。
 むしろ、昨今の、一億総ベンチャー時代の象徴のような成金男をはじめ、内外でいよいよ喧しくなってきた、かつてのすわっ! 新大陸だ、蝦夷だ、満州だと略奪と破壊、搾取の十字軍宜しくの“ 火星開発ラッシュ ”の方が、よっぽどうっとうしく気にかかる。結局、あの長い間の西部開拓史物語の隆盛と消滅の軌跡って教科書的題目に過ぎず、すべてが換金的対象物=商品という資本主義的構造から一歩も出ない、やっぱし一切を貪らねば止むこともない中世十字軍的進軍の真っただ中ってとこなんだろうか。

 そんな成金の星・トランプ大統領が“ 二酸化炭素が地球温暖化の原因じゃない ! ”とぶちあげてからか、地軸の傾きにその原因があるという説がネットを賑わしているようだ。“ 北極点が欧州方向に急移動 ”から“ 北極がシベリア方面に移動 ”とか、地磁気の減衰、果ては“ ポール・シフト”等の警句が乱立し、事態は一層暗澹の色を濃くしている。ポール・シフトって、北極と南極が入れ替わるって正に地球的規模の大異変なんだけど、過去360万年の間に11回も既に起きているという。現地球じゃ、いつ起きても不思議じゃないらしく、勿論起きれば壊滅的な事態が我々を待っているようだ。
 そういえば、幾年も前、北極圏で9発だったかの水爆を、米国が一斉に地下爆発させたという話がネットで束の間流れたことがあったけど、あれは・・・。
 
 かつて火星も地磁気が減衰し、太陽風に大気を根こそぎにされて現在のような(一見)死の星の様相を呈することになったという。我々はそんな火星を見上げ、赤々とした輝きの中に一体何を見ようとするのだろう。

|

2018年7月28日 (土)

白人至上主義的ヒートアップ ? 

Photo
 
 ( 黒焼所は、和漢方薬としての動物の黒焼き製造薬房 。現在でもあるらしい。)

 列島トロピカル化してもう十年以上過ぎたけど、思ったほどには中々に40℃世界って訳にはならないようだ。
それでも、数日前の昼過ぎ外で温度を確かめてみたら、42℃くらいになっていた。これが普通になりはじめると恐らくクーラー全開で発電所がヒート・アップし厄介な状況に陥ってしまうだろうし、45℃以上になったらもうクーラーも効かなくなってしまいかねない。
 そんな地球の温暖化の真夏にあって、今夏も例年の如く中国・広西チワン族自治区玉林市で開かれた《 狗肉祭 》はじめ夏の風物詩ともいえるアジア各国の犬肉節、そのアンチたちの告発・難癖との応酬合戦も、一層白熱を帯びてきているようだ。
 ところが、欧米各国の動物愛護主義者達とその追従勢力たる韓国・中国・台湾・ベトナム・インドネシア等各国の白人至上主義者達の国際世論とやらをバックにしたシュプレヒコールもなんのその、むしろ犬肉食が増えているという。

 インドネシア、確かにバリ島には大きな野犬が通りにたむろし、夜に催されるバリ舞踊・ガムランの帰り道なんか結構怖い思いをすることもあった。時折、観光客なんかに噛みついたりして、狂犬病がらみで問題にもなっていたのを思い出すけど、そんなバリ島だけでも年に一万匹( 世界じゃ毎年二、三千万匹らしい )のそんな野犬も含めてだろう犬たちが屠殺され食肉として人々の胃袋に収まってしまうらしい。バリの有名な肉料理といえば、日本の焼き鳥同様に小さな串に刺して焼いたサテで、当方も、幾度かオープンの店で御相伴にあづかり、決して悪くはない庶民の味ってところで嫌いじゃない。そのサテの材料に、犬肉が流用されているという。ひょっとして当方も知らぬうちに舌鼓でもうっていたのかも知れない。 

 犬肉は何処の国でも大抵貧しい庶民の貴重なタンパク源で、インドネシアもしかり。
 ともかく安価で大きさも手ごろでなので面倒がかからないってのが、業者にとっても享受する顧客にとってもコスト・パフォーマンスも良い日常食ってところ。さすがに貧困層も若干経済レベルが上がって来たのか、肉類=犬肉に対する需要も増えてきてるという。
 勿論、経済的に発展した中国・韓国なんかでは、もはや牛・豚・鶏と同様の嗜好食に過ぎないのだろうけど、やっぱし土用のうなぎならぬ土用の犬肉=補身湯ポーシンタン(犬肉スープ)は、伝統食としての地位はゆるぎないようだ。韓国・中国は犬肉料理の歴史が長く種々様々な調理の仕方があるようで、犬酒ってものすらあるという。


 それらの国々じゃ犬だけにとどまらず、猫からネズミまでその食材的バリエーションは網羅されているのだけど、現在のところ犬だけに限定されて反対・排斥運動が展開されていて、先じゃネズミはともかく、猫肉食にも一大反対・排斥運動が拡がっていくのだろうか。勿論現在でも、猫肉食に反対する運動はあるがまだ微々たるもの。

 彼らの論理って、結局、自分達が食べないからって一点に尽きている。

 可哀そうとか、理不尽とか、鬼畜的所業だとかの修辞で飾られてはいるものの。
 欧米、とりわけ米英オーストラリア・ニュージーランドなんかの、要するにアングロ同盟国は、自国の牛や豚・鶏・羊の肉をさんざん押し付けてきた当事者でもあって、彼等の金看板“人道主義的動物愛護 ”って甚だ胡散臭い。
 つい最近インドで、牛を移送中のイスラム教徒が、見つけた村人達に襲われたというニュースがあった。インドの大半を占めるヒンドゥー教じゃ、牛は神様の乗物って訳で、聖地バナラシーの沐浴場あたりで牛に踏み殺されたりすると、もう最高の死・至福の極みとも言われているくらいで、そんな神がかりの牛を食用のため移送していたってことで、とりわけイスラム教徒がやっていたってことで余計事が大きくなってしまったのではあろうが。そんな聖なる存在=牛を、サァーどんどん喰えって、日毎大量屠殺し、送り付けてくるアングロ同盟国って、しかし、一体どんな国なんだろう。
 中国でも日本でも、戦後暫くぐらいまでは、牛は農家の大事な労働力で、家族同様大切にされてきていた。禅の十牛図なんかその証左でもあろう。そんな近しい牛を只喰うために屠ったり、食肉業者に売ったりするなんて、当時なら鬼畜的悪行と誹られたであろう。
 我が日本人達といえば、アングロ同盟国の傀儡・自民党権力が押し付けてきたそれもかなり汚染された牛( 豚・鶏 )三昧政策で、もはやすっかり骨の髄まで汚染牛的組成となってしまっている。


 年々取れ高が減少してきて絶滅危惧種の可能性すら取沙汰されている土用のうなぎも、この際、かつて江戸時代の初めころは冬になると競って犬肉に舌鼓をうっていた歳事に因み、土用の犬肉ってのもありかも知れない。何しろ、明治以降廃れてしまったとはいえ伝統の風物詩なのだから。

|

2018年7月21日 (土)

列島無惨の淵源?

Photo_2

 かつて米国・カリフォルニアで大地震( 1989年のロマ・プリータ地震か1994年のノースリッジ地震のどっちか忘れてしまったけど )が起き、建物や高速道路の倒壊やらで少なからずの犠牲者が出た時、わざわざ当時の建設次官=自民党官僚が現地に飛び被災地を訪れ、高速道路の倒壊など、我国・ニッポンではありえない ! と、米国の行政と建設産業を罵倒したことがあった。
 被災地にわざわざ赴いて、米国権力の走狗でしかない自民党議員風情が白人旦那の御座所でよくもそんな罵詈雑言を欲しいままにしたものだと、感心し呆れもしたのでよく覚えていた。

 ところが、それから幾らもしない1995年、六千人以上の犠牲者を出した例の阪神・淡路大震災が起こった。高速道路が倒壊・崩落したのでも有名になって、一体どんな根拠があってのものなのか、かの自民党官僚ともどもの当たり前のように流布していた“ ニッポン製神話 ”が跡形もなく崩壊してしまった。
 で、その件の建設次官だけど、国内外に向けて放なったに等しい米国愚弄と大言(壮語)の謝罪をしたとか責任を取ったとかいう話寡聞にして聞いたことが現在に至るもない。( ひょっとして何処かでしてた ? )


 今回の西日本集中豪雨の当日、正に西日本諸地域で悪戦苦闘・無惨陰惨が繰り広げられている最中、当の半世紀支配政党自民党政府の幹部たちが酒宴に酔い痴れていたというニュースを知って、さらにその後の彼等の、世間の批判・非難等どこ吹く風といわんばかりのシレ―とした態度をも知って、ついそんな旧い記憶が甦ってきた次第。
 何よりもその宴の音頭をとっていたのが外ならぬ、翌早朝のオーム真理教の尊師・麻原をはじめ教団幹部の計七人の死刑執行を指示した現・法務大臣=上川陽子だったという。
 念願の絞首刑執行の“ 前夜祭 ”という趣きもあったのだろうとは誰しもの脳裏を過(よ)ぎる単純推論だけど、そもそも所謂《 オーム真理教サリン事件 》自体、その真偽のほどは決して自民党権力とマスコミが喧伝しているようには明々白々とは到底言えない虚偽・隠蔽・世論操作の数々に塗れた何ともいかがわしい代物。彼等がさっさと証拠隠滅宜しく殺害したに過ぎないのだから、これで一安心とばかりのさぞや美味い美酒に酔い痴れた夜宴だったのだろう。

 元を質せば半世紀支配の自民党的施政に結果する昔から列島中で毎年起こる自然災害という名の災厄でしかないと言えなくもなく、彼等自民党権力にとっては、幾ら多くの住民が被災し犠牲となり、呻吟し塗炭の苦しみに嗚咽していたところで、所詮他人事でしかなく、事後にのこのこ現れ、ちょっと神妙な表情やまことしやかな言葉を振りまき“ 復興支援 ”の金看板をちらつかせてやればもうすっかりこっちのもの・・・という長年連綿と続けてきた慣行から十二分に知悉した住民たちの反応に対する所作(=手口)へのゆるぎない自信ってものがあって、野党やマスコミが小手先の非難・批判をやってみせたところでびくともするものじゃない。
 おまけに、今回は、何故か、猛批判して然るべき野党がどういう訳か蚊の泣く声で呟いたに過ぎなかったようだ。ある野党が同時刻宴会を催していたのにひけ目を覚えたらしいようだけど、政権当事者と野党とじゃまるで立場が異なることぐらい子供でも分かろうに。所詮バーチャル・デモクラシーのバーチャル野党でしかないってとこなんだろう。

 それにしても、一体この国は、何時になったら、災害専門のレスキュー部隊をちゃんと作るのだろう。自分たちの存在を正当化するために近隣国を仮想敵国として喧伝し、彼等の白人旦那=米国の飼犬(走狗)して戦争挑発行為を繰り返してきた絵にかいたような憲法違反の自衛隊をさっさと廃して、国民誰もが望み緊要なレスキュー部隊を創設すべきだろう。
 そもそも、普通に考えたら、憲法を踏みにじり、自衛隊をこの国でゴリ押しして作った権力って、既にその時点で、クーデターを起こしているってことになる。 


|

2018年7月14日 (土)

 平成末的門司港残影

Moji_port_3

 ちょっと前、門司港レトロ・エリアでこの街の如何にもローカルな港祭なんかが催されていた頃、友好姉妹都市・大連の旧ロシアの東清鉄道事務所の洋館を復元した国際友好図書館に行き、二階の図書館に向かう階段を登ろうとすると、階段の前に貼紙があり、読んでみたら何と三月いっぱいで“廃館”とあった。
 尤も、図書館だけが廃されるだけで、後日観光施設としてリニューアルという。
 中国・韓国なんかの東アジアの蔵書、満州関係のかなりの資料もごっそり何処かへ移されたのであろう。一キロぐらい離れた場所にある雑書館とも謂うべきチャチな図書館の倉庫に移すには余りにも膨大・・・はちょっとオーバーかも知れないが、それでも明らかに多過ぎて、同じくらいの図書館がもう一ついるぐらいの量ではある。
 恐らく、以前幾度か訪れてみたことのある隣町の図体ばかりデカい図書館の方に大半が移されたのだろうが、まず宝の持ち腐れってところだろうか。

 例えば、十五巻ぐらいの分厚い中国語の辞典、勿論中国の辞典だからすべて中国語だけど、最近こそさっぱり音沙汰になってしまったものの以前は色々と重宝させて貰った。調べ物でなくても読んでるだけで勉強になるくらいの有難い代物で、一体、その他の大きな都市の大図書館でも備わってないだろうその大辞書は何処へ隠されてしまったのか。 その隣町の大きな図書館の薄暗い倉庫の奥に黄ばみ朽ちるまで半永久の眠りにつかされてしまうんじゃあるまいか・・・等と、何ともうら寂しい想いに捕らわれてしまった。


Moji_port_2

 
 文化じゃ金にならないってとこなんだろうか。
 この国際友好図書館、そもそもが図書館と銘打っていたものの、図書室の照明は薄暗く、テーブル上の卓上蛍光灯を傍に寄せてもまだ照度不足なくらいの、本当にまともに利用者に本を読ませようという気なんてあったかどうか甚だ怪しい代物ではあった。レトロな建物が欲しくて、図書館を口実にしたってところじゃなかったろうか。メインはレトロな建物って訳で、書籍は飾り。それでも、観光コースと思った観光客たちがゾロゾロと入って来てはチラリと一瞥し出てゆくのを尻目に、ごく少数の利用者が疎らには散見されはしたけれど。
 
 
 どころか、あれだけ何度も出来ては消えを繰り返してきた、韓国五千万=ニッポン一億総ベンチャー時代の象徴たる日韓国際フェリーの発着所=玄関前に雑草も伸び庇も朽ち始めてた国際旅客港のカスタム事務所の玄関にも一枚の張紙が貼ってあった。
 何と、裁判所の公示書。
 地元の債務企業が勝手にその元のカスタム事務所の設置物や地権を移動させてはならぬという通達らしいけど、一体全体如何なる経緯でそんな訳の分からぬ仕儀に至ってしまったのか。ここの自治体か第三セクターか知らないけど・・・この国際図書館も国際旅客ターミナルも平成的産物で、正にニッポン末期資本主義的アベノミクス的凋落の好個の例として海峡史に刻印されるべきもの。
 思い起こせば、明治維新直後の長州及びその走狗と化し利権を漁ろうとした既存の元の小倉藩庄屋(小倉藩じゃ、手長と呼ぶ)たちに困窮・呻吟した農民たちが蜂起した企救郡一揆の際の小倉藩領地を支配していた長州側のトップが誰あろう、安倍の先祖・佐藤寛作だったという因縁つき。
 
 そういえば、対岸の下関と向かい合った海岸沿いの古戦場ともいうべき小山の端に立っていた国民宿舎跡に何か立つはずだったのが、その業者が暴力団がらみだったとかいう事で宙に浮いたまま、いつの間にやら、トロピカル列島化した現在には一等不向きなコンクリ床の露天展望台ってところに落ち着いてしまっていた。確かに、役人たちのやる事だろう。


Moji_port_1


|

2018年7月 7日 (土)

無一物的遁走へ Spectator《 つげ義春 》特集

Tsuge

 この数年、ホント古本屋を訪れることがなくなった。
 ネット、とくにアマゾンでチェックして安く買うことが多くなり、物によっては殆ど送料だけってこともあって、懐事情を鑑みざるをえない当方としては有難くもあるけれど、これだと古本屋の方が軒並み潰れてしまいかねなくなる資本主義的矛盾律というより論理的帰結への危惧の念の方が一層強まってくる。
 とはいえ、例えば手持ちの新旧の書籍を処分しようと古本屋へ持ってゆくと、足元を見尽くしたように二束三文、そして何日か後にはその古本屋の書棚に信じられないような価格で収まっていたりするのを見たりしていると、やっぱし、アマゾンの方に食指が動いてしまう。
 アマゾンって、すっかり苔むし蔦類が覆ってしまったどう見ても廃屋然とした民家のガラス戸が突然軋みを立てて開き、仄暗い中から当たり前のように住民の姿が現れたりするアベノミクス的平成末=末期資本主義的風景の只中で、一切を白熱に輝く終焉へと導くファンファーレの奏手=真っ白い両翼の天使なのだろうか。


 久し振りの新刊書店の雑誌コーナー、青灰色の地に独特のタッチで描かれた表紙絵に思わず眼が止まり、手に取って見てみると、果たして、つげ義春の特集号であった。
 《 スぺクテイター》Spectator 、なじみのない雑誌名で、奥付を確かめると、なんと所在地が長野。
 つげの特集って定期的に何年かに一度は何処かの雑誌が企画しているみたいで、もう作品を描かなくなって随分な年月が過ぎているのも関係しているのだろうが、やっぱし変わらない人気の故に尽きるだろう。
 近影からはまだまだ元気って感じだ。
 《 おばけ煙突 》、《 ほんやら洞のべんさん 》、《 退屈な部屋 》の三点が掲載され、後は周辺的な記事。
 巻末の、取材嫌いらしいつげに何とかアプローチした苦肉の策ってとこだったらしいインタビューが興味を惹いた。
 昨年八十才になったつげ義春、それを記念してだったのかどうか定かでないが、《 日本漫画家協会 大賞 》を貰ったのが、会場に姿すら現さなかったらしい。
 編集部に近況を問われ、

「 近況は、早くこの世からおさらばしたい。もうそれだけですよ。」

 と、にべもない。 
 眼を悪くし絵が描けなくなってしまっていることもあってか、もはややり残したこともなく唯だ日毎の生活に追われるばかりの生に辟易している風。
 一刻も早くこの世から消え去りたいって呪句、昨今の“生き延び過ぎた”老人たちが頻く吐露する流行り言葉の感すらある常套句だけど、つげの場合、一切から解放されたいという彼自身の抱懐する“逃げる思想”= 仏教的解脱ってことらしい。
 (本来)無一物の最高の境地としての“乞食”に対する憧憬の念すら明らかにし、そういえば、つげの作品に幕末の流浪俳人・井上井月に触れたものがあったのを思い出した。


 《 スぺクテイター》41号 2018年 (発行・エディトリアル・デパートメント)

|

2018年6月23日 (土)

夜闇は死の香りそれとも生の息吹 《 立去った女 》 (フィリピン映画)

The_woman_who_left


 
 最長十一時間の作品もあるというフィリピンの監督ラブ・ディアス、この二年前の作品《 立去った女 》で初めて知ったのだけど、思わせぶりに大型拳銃まで初老の元女教師ホラシアに持たせたりしながの“ 復讐譚 ”のはずが暴力に厭んでいるのか、最後にはスルリと回避し、むしろ“ 平穏 ”を選ばさせてしまう。
 それにしてもこの作品、三時間というより四時間近い長丁場にもかかわらず全その長さを感じさせず、その上タルコフスキー並みにそのモノクローム映像が中々のものだったとしたら、ともかく最後まで一気に観るほかないだろう。

一昔前のフィリピンといえば信じられないくらいのはした金で殺人を請け負う貧民層で溢れた国ってイメージが強く、現在は如何なっているのか定かじゃないけど、この映画の設定はまだまだそんな時代状況の最中ってところ。
 地方ボスが暴力と金で幅を利かせ、同じ頃、タイなんかでもそんな暴力抗争が殺し屋なんかも介在して果てしない状況を作品化した映画も後を絶たず、否どころか、国家権力自体が正にそんな状況を派手に現実化しつづけ、マルコス以降のフィリピンも同様だったのだろう。同じスペイン語圏という訳じゃあるまいが、中南米並に誘拐事件の多発なんかが伝えられてもいた。

 詳細は語られないけれど、地方ボスだったかつての恋人ロドリゴが、後にホラシアが別の男と一緒になったのを恨み、ある女を使ってホラシアに殺人犯の汚名を着せ、投獄させてしまった。それから三十年が過ぎ、何の因果でそうなったか同房で起居を共にする羽目に陥ったその冤罪事件の当の殺人犯だった女囚が、長年ホラシアと生活する中でホラシアの人間性に感服し、貧しさからやむなく犯してしまった旨も一緒にロドリゴに頼まれてやらかした事件の顛末を刑務所長に自白してしまい、ホラシアが釈放された日に自殺してしまう。
 唐突に保釈されたホラシア。
 が、彼女は、釈放されたことを、誰にも秘密にしておいてほしいと刑務所長に頼み、自身の家に戻ってみると、不在の間の管理人家族が住み着いているだけで、彼女の夫はとつくに死去し、息子は行方知れず。唯一娘だけが嫁ぎ先で健在。その娘にも彼女の釈放のことを他言無用と厳命する。
 そして、仇敵・ロドリゴの住む島へと向かう。
 小さな食堂を始め、夜な夜なロドリゴの屋敷の近辺の様子から探り始める中で、様々な“虐げられた人々”と遭遇し、関係が深まってゆく。深夜のそんな光景や蠢きがモノクローム世界に繰り広げられてゆく。


 《 タクシー・ドライバー 》(1972年)でロバート・デ・ニーロが演じた主人公・ヴェトナム帰りの元海兵隊員トラビスの有名な所作・場面に相似したシーンも少なくない。
 バロット(アヒルの半孵化卵)売りに拳銃の入手を頼み、連れられて行った先のブローカーのところで、テーブルの上にずらり並べられ黒光りした拳銃・・・これって《 タクシー・ドライバー 》の定番シーン。日本の映画でも汎用されたショットで、さすが自室で半裸になり鏡に向かって拳銃を構えたりはしていなかったものの似たシーンも。
 支持する大統領候補の私設警護官を決め込んだトラビスが、大統領候補の演説会に下見に向い、本物のシークレット・サービスに怪しまれ、ほうほうの態で逃げ出してしまう。そのあたりから明らかにトラビスの心に変容を来たし、錯綜的力学の果てに、ひょんなことから巡り合った少女娼婦アイリスを売春組織から救い出そうと完全武装して一人乗り込んでゆくって些かエキセントリックな慣性的な衝動の軌跡。
 死の匂いをプンプンと漂わせるトラビス。
 当時は病み鬱屈したポスト・ベトナム的状況の米国の象徴として、そして現在の救いようもなく荒廃し鬱屈した日本でも盲目的迷走の秘されたイコンとして。
 しかし、ホラシアも地方ボス・ロドリゴの行きつけの教会に下見にゆき、そこで見つかりそうになって逃げだすのだけど、逃げ戻った部屋で蒼白となって鎮静剤をしこたま呑み込んだりすることなく、闖入ゲイのホランダの傷ついた身体と心を献身的に癒してゆく中で、次第に復讐への意志と情念が薄らいでゆき、ついには復讐を放棄してしまう。
 ところが、入れ替わるように、元々自殺衝動の強かったホランダがホラシアの拳銃を使って、ロドリゴを射殺してしまう皮肉。
 同じ夜の世界が基軸になっていても、トラビスの孤独な魂のゆらぐ夜の闇と、ホラシアの潤んだ夜の闇とは、やはり微妙に違っているようだ。


  監督・脚本・撮影・編集 ラブ・ディアス (2016年)

|

2018年6月10日 (日)

ハリマオ(谷豊)は南進の輝ける南十字星か ? ( 2 )

X1

  ( 西鉄・天神大牟田線の井尻駅。南下すると谷豊が通っていた日佐小学校や戦没碑のある横手宝満公園に至るが、北西に向かうと彼の実家のあった五十川に向かう。)

 昭和9年、豊はクアラ=トレンガヌに戻ってきた。
 
 「 兄(豊)がまたやつて来ました、兄は自分さへゐ(い)たらこんな目にはあはさないのにと涙を流してくやみ再び理髪業をはじめましたが、私どもは兄と二カ月ばかりで別れ、トレンガヌを去つてコタバルに移りました 」

                    ( 妹・ユキノ『 朝日新聞』昭和十七年 ) 

 
 豊はマレーやタイで何度も現地の女性と結婚( あるいは同棲 )していたようで、ある女性との間には子供ももうけていたという。イスラム教なら問題ないのだろう。戦後、大部過って叔父・清吉がその事を知って現地に会いに行ったという。実在してれば、日本でこそあのハリマオの遺児ってことになるが、かつての日本軍の悪行の残滓色濃く残っているマレー(シア)の現状じゃ、そっとしておくことにしたのだろうか。
 
 「 ( 私たちがコタ=バルに転居して )その後は殆ど音信不通でしたが、何でも理髪店といふものは看板だけで、マレー人を手下に使つてなんだか知りませんが、大仕事をやつてゐたらしいです、」

 ( 妹・ユキノ『 朝日新聞』昭和十七年 )


X2

 ( 西鉄・五十川のバス停。博多・天神から井尻方面に伸びている。)

 筆者の山本は、この大仕事を盗賊稼業という。
 それから程なくして、豊は英国人の屋敷での泥棒で初めて逮捕され、クアラルンプールの刑務所に収監された。その際、マレー・タイで商売をしていて両国語に堪能なのをかわれ、取調べ時の通訳をしたのが鈴木退三( 後、陸軍諜報部=藤原機関で働くことになる)で、豊はマレー語で、妹・静子を殺害した犯人が無罪で釈放されたことを英国官庁に抗議しても無視されたことを唾棄して見せたという。
 その豊の言に依拠した定説、妹・静子の悲惨な死と英官憲の煮え切らない態度に怒りと憎悪の念を覚えたための盗賊化と、実は犯人の広西人は逮捕され死刑に処されていたという“事実”性との乖離に山本は困惑し、何ゆえに豊がそんな思慮にとらわれてしまったのか小首を傾げる。当時のマレー=トレンガヌの複雑な事情を反映した産物というべきか。
 

X4

 ( 井尻よりの線路近くの水路。確かに側溝よりは広めだけど、まさか本当に子供がこんな場所で泳いだりするのだろうか。あくまで危険防止なんだろうが、昨今こんな場所でも多雨の際には容易に氾濫してしまう。)

 それ以降、豊は、マレー北部のコタ=バルとタイ南部ナラティワッを中心に、クアラルンプールやタイのパタニーまで活動の幅を増やしてゆく。彼の親分肌な性向の故にか、両国を股にかけた多くの構成員を抱える盗賊団の首領となっていた。只、ハリマオ英雄伝の子分三千人と称されたその実際の規模の程は定かじゃないようだ。
 そもそも予め組織された一大構成員の組織って、大陸の匪賊や武装強盗団ならいざ知らず、豊の場合は切った張ったとは無縁の夜陰に乗じるタイプの窃盗団なんだから、それは些か非合理に過ぎよう。各地に潜在しているその都度の泥棒仲間ってところで、豊=ハリマオ・マラユの固定された正構成員って訳じゃないだろう。尤も、山本によると、当時、他にも似たような窃盗・強盗グループって色々存在していたらしい。
 タイ南部ってイスラム教エリアで、現在でも分離独立運動が盛んで、仏教徒が銃殺されたり斬首されたりは、ごく最近は定かじゃないけど、以前は日常茶飯。仏教徒側もその報復に走って南部は危険エリア。個人旅行者なんかはそこを通り抜け、コタ=バルやペナンのリゾート地へ向かう。


X5

 ( 五十川二丁目。この一帯、路地が入り組んでいて迷路状。奥に五十川八幡宮の入口が覗けている。)

 昭和12年に豊は強盗容疑で逮捕され数ヶ月留置されて後、トレンガヌ州から追放される。マレーの日本人会でも評判悪くなっていたという。又、時期は不詳だけど、コタ=バルの日本の企業《 南洋鉄鋼 》( 日本鋼管の子会社らしい )の金庫を盗み、彼地の日本人たちの間じゃ結構知られた逸話だった。特別な私的怨恨があった風でもないようで、何故敢えて日本企業を狙ったのか。豊は目標対象を俎上にのぼらせるにあたって、基本、英国人と裕福華僑の屋敷・企業の二つに絞っていたので、この異例さは背後に何かあったのか思わず猜疑の念を掻き立てられてしまう。
 その後も盗賊稼業を続け、マレー政府に巨額の懸賞金まで懸けられることとなり、とうとう昭和15年頃タイ南部、パタニー近郊の海辺の村バンプーに移った。 
 
「 母の話じゃ、一年ほど前のある朝、ユタカはマレー系のド=ローという若者と一緒にバンプーの村に現れたんだ。そして食事かお茶を飲んだあと、すぐに警察に捕まってしまった。パスポートなしということで、ヤーリンの警察に二週間か三週間か分からないけど、けっこう長い間警察に入れられたんだ。・・・」

                ( 豊と共に藤原機関で活動したタイ人チェ=カデ) 

 豊は、しかし、チェ=カデの遠縁にあたる当時豊の倍近い年齢の女・チェ=ミノに一目惚れされ、彼女が父親に頼み込み、金を払って貰って釈放されることになったものの、強引に彼女と結婚させられたという。只、その後、豊は別の若い愛人を作ってチェ=カデの家に住まわせるという女出入りの頻繁さ。余談だけど、この頃豊は、後年のテレビドラマ《 ハリマオ 》と同様に黒いサングラスをかけていたらしい。
 バンプーには、開戦の昭和16年末までの一年半ぐらいの滞在だったようだ。

 「 バンプーでチェ=マが盗みをしたことはない。彼が警察に捕まったのは、パスポートを持っていなかったからだ。チェ=マはマレーの警察に追われて、クアラ=トレンガヌからコタ=バル、コタ=バルからクランタン、クランタンからパタニーへ逃げて来た。探偵はナラテッワッで生まれたパテ=ママッという男だったが、チェ=マは事件を起こさないから捕まえようがなくて帰った。・・・」

                      ( チェ=カデの筆者への談 )


X6

 ( 長崎の大泉黒石の生地たる宮地嶽神社の境内同様、ここも間口が狭い。が、奥行は結構ある。)


 探偵ってのが興味を惹くけど、開拓時代の米国でも、銀行強盗や列車強盗なんかを雇われた探偵(団)が追跡し捕縛したり射殺したりは有名。豊も武装していた訳でもなかったようで、マレー警察の探偵パテ=ママッを恐れていたという。
 昭和11年頃、在タイの日本人実業家に、豊は日本人社会の面汚しと唾棄され、
「 それなら捕まえてバンコクによこせ。日本に送り返してやるから 」と応じた当時在バンコクの日本大使館武官・田村浩大佐( 陸軍一の東南アジア事情通と称されていた)が、それから数年後、前述の医師兼特務工作員・ドクター瀬戸から、今度はマレーの広域を荒らしまわる窃盗団の首領としての豊の情報を得、マレー侵攻作戦に使えると顧慮してか、瀬戸に豊との連絡を依頼し、やがて陸軍諜報特務組織“ F機関 ”こと《 藤原機関 》の構成員となる神本利男に豊へのアプローチと教育を一任することとなった。 
 
 当時、豊はタイ南部の大都市・ハジャイの刑務所に収監されていて、そこに事前に豊の履歴を知悉した神本が赴き裏金を払って釈放させ、大日本帝国=天皇の威光を持ち出し、権威主義的心性を搦め手で豊を容易に篭絡し取り込んでしまった。

 「 神本さん、このような私でも、天皇陛下のお役に立つことができるでしょうか」

(《 マライのハリマオ(虎) 》『週刊読売』)


X12

( 石鳥居の手前に並んだ低い平成になっての石灯篭の後ろに、左右一組四角い作りの高い石灯篭が立っている。昭和五年の刻印があるのだけど、向かって右側の一番左に、何と、豊の父、浦吉の名があった。博多やマレーのクアラ=トレンガヌで開いた理髪店・クリーニング屋で儲かったらしく、それくらいの寄進は喜んでしたろう。ともかく、実家の情報は、プライバシーの問題もあるからか全くなく、行き当たりばったりでせめて雰囲気だけでもと写真を撮りに来たに過ぎなかったのが、思わぬ消息に出会えた。因みに、「進藤」姓も少なくなく、豊の五十川の青年時代に付き合っていた二人が進藤姓だった。)

 

 筆者の山本はこのセリフを必ずしも首肯してはいないようだけど。
 前の箇所と重複するが、従来説と相違して、この本じゃ豊は日本本土で受けた兵隊検査に不合格だったのをそれほど気にもしていなかった旨、当時の豊の周辺的な人物の言をもとに表しているけど、やっぱり、お山の大将的心性と祖母や父親にすりこまれた国家(権威)主義的な愛国主義的心性からして、些細な屈辱として払いのけ平然としていたとは思われない。
 むしろ、平静を装った心理の下でじわじわと豊の深奥を蝕んでゆき挫折と屈辱が澱のように蓄積していき、妹・静子の死およびクアラ=トレンガヌに戻ってからの静子の死にまつわる豊にとって不如意な事態の成行きが更に一層自身の無力と屈辱を完膚なきまで思い知らさせられてしまったろう。叱咤してくれるはずの父親ももはやこの世に居ずって訳での窃盗稼業、そして豊の気性・性向が幸いしての大集団化とその頭目として君臨って次第の方がしっくりくる。手練の神本からすれば、“殉国”の一言で以て、そんな不条理の只中に翻弄され抗おうとする(単)純な豊を落とし引き込むなんぞ造作もなかったろう。


X7

 ( 「農地改良碑」。こんなものが立てられているってのはこの五十川にあって、この神社が、やはり産土神的な存在だったのだろう。五十川も、かつて谷親子の頃は一時的に日佐村五十川という行政区画であったらしいけど、元々は五十川村。起源は五十構とも五十溝とも。最近も遺構が発見されたとか。数キロ先には福岡空港がある。ともかく、この周辺広い一帯田園が拡がっていたらしい。かつては稲作的には芳しくない湿田ばかりだったのを、大正の頃一大プロジェクトで乾田地帯に整備したという。豊の祖父が農業技官だったのも、そんな環境の故かも知れない。この八幡宮はそんな五十川の産土神らしい。)


 てっきり、南タイのパタニー近郊の小さな海沿いの集落バンプーに豊が現れたのは、既にF機関=神本配下の軍属としてマレー侵攻作戦の任務のためと思っていたら、バンプーに居を定めながらも、他の地で窃盗・盗賊稼業を働いていて、へまをしたのかハジャイの警察に逮捕され投獄までされていた。
 そもそもが、バンプー住民には、パタニー経由でか、とっくに“盗賊”として知られていて警戒された存在でもあったという。この集落で豊に声を掛けられ後に一緒に活動することになるチェ=カデも、最初家族や近隣の者達に、豊と近しくなることに強く警告を受けていたぐらいだった。
 一体何ゆえに、配下三千人の盗賊団と別れ、一人忽然とバンプーにやってきて、あれこれ付け焼刃的な零細商売に身をやつす様に貧窮生活に甘んじたのかと、山本はこのバンプー行に疑問を呈している。
 F機関の一員となってからならこそ、身をやつすってのが意味を成すけれど、おまけに住民たちにはのっけから正体バレバレで、その豊の内心での算段はいざ知らずもっぱら一人で悦に入っていた偽装ってのも些かハズい代物ではあった。探偵パテ=ママッの監視の眼にとまらないための、これ見よがしな正業的粉飾であったってことなのか。
 只、土生良樹の書《 神本利男とマレーのハリマオ 》に触れた個所で、マレーでの盗賊団の配下の主だった者は一緒に南タイに入り、散らばって隠れていたらしく、神本にも彼等を紹介したとも述べている。
 
 
 「 ・・・ここでハリマオを説得しました。ハリマオはハジャイで表向き雑貨商をやっていて、あちこちに部下を置いてました。」  


X8

( 入口の鳥居。奥にも石鳥居が静かに佇んでいる。神社の脇の一般道に人影がかすかにあるくらい。その側には旧い民家が連なり、反対側には比較的最近の民家が迫っている。)

 昭和16年10月下旬、ハジャイの大南公司( F機関の拠点 )に起居していた土持大尉の下にハリマオが訪れた際の述懐だけど、同月初めにタイにやってきたばかりの土持大尉がハリマオ関係の担当者に任じられていた。同年4月頃、豊がハジャイの監獄から神本によって釈放されてから半年後のこと。この1ヶ月半後の12月上旬にはマレー侵攻作戦開始。
 そんなギリギリでの担当者・土持大尉との初接触ってことだけど、その直後、今度は総大将・藤原少佐自身も土持の面前で豊と直接会って、豊に協力を仰いでいる。神本以来のこの執拗ともいえる協力説得は、やはり豊に対する心理的な懐柔作戦ってところだろう。次から次へと偉いさんたちが、それも最期には組織のトップが直々に協力要請をしに来てくれるという。F機関的には、もう後には引けぬ絶対的・最終的なものでもあった。結果、その効あっての侵攻作戦成功。


X9

 ( 拝殿。背後に社務所があるけど人影なし。)

 この本で知ったのだけど、藤原岩市少佐の著《 藤原F機関 》に、次のような前線で初めて豊と邂逅した際の記述があるらしい。

 「 彼の肩に手をかけて呼びかけた。谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。・・・サルタンの前に伺候した土民のように・・・。
『 機関長殿、谷です 』と飛びつくだろうことを期待していた私は、谷君のこの卑屈なほどにへり降った対応に、すつかり拍子抜けた。・・・ 」


 例の戦意高揚反英映画《 マライの虎 》の中のハリマオと藤原との対面シーンで、米つきバッタのような卑屈なハリマオの姿態に、幾ら権威拝跪・権威主義をモットーにした大日本帝国情報局御用達映画だからってここまでやるか、と呆れ返ると同時に、政治的プロパガンダ映画とはそもそもここまで演出してなんぼだった、と妙に納得していたのが、何と実は現実そのままのリアリズムだったとは・・・。
 重畳錯綜する豊のコンプレックスの間隙を衝かれての神本=藤原機関への剥き出しの恭順的意識。日毎のジャングルの中を潜航しながらの対英破壊工作活動の過労とマラリアの発症とで心身とも疲弊の極みにあった頃もあって、気力の衰弱が余計そんな姿態を余儀なくさせたのかも知れない。


X10

 ( 奥の石鳥居を背後から望む。左右に寄進者の名を刻んだ石灯篭が並ぶ。見てみると、「谷」姓がやたら多い。皆、何がしか豊の血統とつながりがあるのだろうか。博多のここら辺一帯は空港があるくらいの広い平地なので、山間の谷って要素はまずありえなく、ここの地形に根差した姓名じゃないのだけは分かる。)

 バンプーで豊は現地人のチェ=カデをメッセンジャー・ボーイとして、タン=ガーデンの神本とナラティッワッの小野某の二人の処に差し向け、情報のやりとりや資金の調達をしていたという。小野という人物は結局正体は不明のままで、山本も把握できなかったようだ。勿論責任者の藤原が知らないはずもなく、謀略組織の協力者ということで明かすことをしなかったのだろう。
 バンブーの豊の家や嫁さんのチェ=ミノの屋敷前の小屋に海から運んできた物資を隠し、神本の家までトラックで運んで貯蔵する兵站活動が当初は主だったようだ。米や缶詰、石鹸なんかの侵攻兵士達の生活物資だけど、他のF機関の構成員や協力者達も同じような兵站活動をやってたらしい。兵士達への態のいいお駄賃代わりにはなるのだろうが、兵站というには所詮微々たる量でしかないと素人考えでも思い至ってしまう。
 ところが、当作戦の兵站物資の本拠地がベトナム南部にあったらしく、これはあくまで、侵攻時にそこからの輸送が間に合わない場合の間に合わせ用だったようだ。兵站といえば皇軍のアキレス腱ってのが定式のように有名過ぎて、つい神本達のが兵站全量なのかと腰抜かしかかったけど、間に合わせ的なものだったと分かってさすが皇軍も精神主義一辺倒だけじゃないのが分かって了解。それでも、その後、東南アジア全域の皇軍兵士達の少なからずが鬼畜的惨状の坩堝に呑み込まれていくのを、豊はともかく、神本や藤原達は考え及んでいたのだろうか。


X16

( この大正八年の刻印のある石狛犬にも、献じた人々の名前があって、「谷」姓が多い。只、下の名の方が判然としない。)

 昭和16年12月8日、開戦の日の早朝、パタニーに日本軍が上陸したニュースでバンブー集落は大騒ぎ。
 豊は愛人を連れて神本の処へ、チェ=カデはタイ警察に捕まることを恐れ一人山に逃げ込んだのだけど、結局二人ともヤーリンの警察に捕まってしまった。チェ=カデは警官に銃を頭に突き付けられスパイ行為で銃殺されることを示唆されたのが、幾らもしない内に、ピブン=ソンクラーム首相が日泰同盟条約を締結し、二人は釈放された。それも至れり尽くせりの警察の供応ぶりに断ることもできなかったのか、その夜一晩その警察署で過ごす羽目になってしまっという。
 他の地域じゃ、スパイ容疑( 冤罪なのか工作員だったのか詳細不明 )で在タイの日本人達が六人ほど殺害されていたというから、ピブン首相の条約締結がもっと遅かったら、豊もチェ=カデも銃殺されていた可能性高く、とんだ命拾いだった。


X17

 ( 前の狛犬と反対側の狛犬像に刻まれた名前も風化して名の部分が読みづらく、ためつがめつ確かめようとしたけど不可。残念。)

 その後、藤原機関と合流し、チェ=カデは発病して戦線脱落。
 豊は盗賊団の仲間たちや藤原機関の構成員たちと、ジャングルに隠れながら、反英軍破壊工作といっても、実際は退却する英軍が橋やら鉄道、発電所等の施設を破壊してゆくのを阻止する工作だったらしい。マレー侵攻日本軍の南進をできるだけスムーズに行なわさせる工作で、大半は首尾よく完遂できたようだ。英統治軍の麾下に入っていたマレー兵を帰順・戦線離脱させる工作すらやっていたという。
 一月上旬( 昭和十七年 )頃にマラリアが再発して以来、快方に向かったり悪化したりを繰り返しながら工作活動に専念し、一層悪化の途を辿っていき、重篤化するとあっちこっちの病院を転々としたあげく、三月十七日夕刻、最後に担ぎ込まれたシンガポールの平屋の華僑病院《 丹得仙病院 》で数人に看取られ永眠。
 盗賊団の仲間が遺体を担いで近くのイスラム墓地に葬ったらしいものの、その後、杳として豊の墓と遺骸は見つかず。
 現在に至るも尚谷豊=ハリマオの墓と遺骸発見されず謎のままってのがいよいよ神話的なのだけど、豊本人の内面を吐露したものは本当に乏しく、推量・憶測する他ないようだ。それでも、豊の足跡ってものがこの山本の精力的な著作でだいぶ分かってきた。 やっぱり、谷豊は大日本帝国の南進の輝ける星=ハリマオだったってことだろう。


 問題は、もはや仮定のあるいは論理的帰結としての、もし谷豊がマラリアで死なず生き延びていたとしたら、どうにも逃げられないのっぴきならぬ袋小路に豊が立たされたであろう、皇軍・大日本帝国の占領支配とマレーという拮抗・対立の歴史的現実。タイ人たるチェ=カデが皇軍侵攻でタイ官憲にスパイとして殺害されかかったように、豊もそれを問われることとなるのは必至。彼がマレー人として生きたかったのが真摯なものであればある程、その絶対矛盾から逃げれることはできなかったろうから。

 
X13

 ( 八幡宮の石灯篭だけじゃなく、周辺の路地の裏々を歩いてみても、やっぱり谷姓の家がやたら多い。戦後建てられたのだろう民家の間に、ポツン、ポツンとかつての農家の佇まいを残した建物もあるのだけど、代々の遺風を偲ぶように残された小さな田畑すら見られなかった。この鉄門の、元農家然とした、しかし、鬱蒼とした茂みが何とも独特の情緒を醸し出し、一歩中に入って撮りたい衝動に駆られたけど、車も停めてあるので遠慮せざるをえなかった。)


《 ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実 》(2002年) 山本節 ( 大修館書店 )

X14

 ( 赤レンガ塀が好い。)

X3

 ( ここも朱塗りの鉄門で、前庭に面した建物の配置からして典型的な農家の佇まい。前掲の元農家風屋敷とは又別様の雰囲気。)


|

2018年6月 4日 (月)

アラビア海に唄うケララの小娘 スーリヤガヤトリ

Photo

 ( 南インドの海岸。 記事と画像は関係なし )


 昨夜、ひょんなことから南インド・カルナータカ音楽のYOU=TUBEサイトを観る羽目になり、インド小娘とその父親か師匠の鼻髭男のコラボだったんだけど、中々聴かせ、且つ映像も高画質で巧く作れてて感心してしまった。


 少女はスーリヤガヤトリ ( Sooryagayathri ) という、当方の僅少なヒンドゥー知識じゃ、太陽神=スーリヤとヒンドゥー教マントラの精髄と謂われるガヤトリー女神と併せた随分と欲張りな命名だなーと思わず微笑が漏れてしまった。
 ケララ北部の漁業の町ヴァダカラの出身で父親は南インドのカルナータカの伝統的音楽打楽器ムリダンガムの奏者という。南インド音楽じゃよく見かける両側から叩く紡錘型の太鼓で、ブログ見ると、左右で音の高低が異なっているという。初めて知った。


 如何にも優しそうな三十代の男の方は、クルディープ・М・パイ( Kuldeep Muralidhar Pai ) という南インド、ケララ出身のカルナータカ( 伝統的宗教 )音楽の歌手・音楽家でありプロデューサーでもあって、柔らかい声が魅力的な歌手で、スーリヤガヤトリの声とよくマッチしている。彼の音楽学校なのか生徒たちのパフォーマンスをYOU=TUBEにアップしているようだ。


 その中でも、年下のスーリヤガヤトリのパフォーマンスが圧倒的に多く、正に彼の秘蔵っ娘ってところ。
 彼の小娘スーリヤガヤトリに対する親愛の程が映像からでも伝わってくる。双方向的親和の賜物って極みは、年齢の差や師弟の関係を越えて、対等な歌手として唱いあげたインドの第二国歌とも謂われているらしい《 バンデ・マータラム 》だろう。
 この曲は宗教歌じゃなく、かなり以前、A・R・ラフマーンが本来のオリジナルを刷新して新しい《 バンデ・マータラム 》を創ったので話題になっていたのは、ヒンドゥー=イスラムの対立が激化していた時節で、宥和・統一の指標として提示したものであった。 このクルディープ・М・パイの《 バンデ・マータラム 》は、しかし、オリジナルの方の歌詞を踏襲しているものの、詩情豊に、秘蔵っ娘スーリヤガヤトリと唱い挙げていて、今回聴いたそのシリーズの中じゃ秀逸の一作だと思う。
 スーリヤガヤトリの少女の頃の声質って、原則的には彼女以外の少女歌手も同じだろうけど、その年頃独自の世界とエッセンスを有していて、もっと年嵩になって技術的にも巧くなったとしてももはや取り返しようもない“もの”なのを、彼女の幾年間かの期間のパフォーマンス作品を聴いてつくづく思った。


|

2018年5月27日 (日)

忘れた頃のトロピカル花 フェイジョア

Feijor_2

 てっきり昨年植えたと思い込んでいたフェイジョア苗木、昨年の暮れ、根元まで切り落として冬越え。今春、どんどんと三又状に細い幹を伸ばし、柑橘風の五、六センチの葉を左右に茂らせ続けた。
 何処かで見たことのあるようなシンボルマークに似た四方に拡がる先端の新葉の開き方に感心しつつも、着花は三、四年ぐらいからという話をブログかなんかで読んだ記憶があって、期待はしてなかったのが、今月に入った頃から、小さな丸い緑の蕾ともつかぬ花芽状のものが手前の枝から伸びた脇枝に何個か生え、これは若葉の包芽(?)と若干違ってるように思えたものの、あらぬ期待を抱くまいと自分を納得させつづけた。
 ところが、やがて丸い包芽の真ん中にほんのりと淡いピンクの色彩が覗けはじめ、あれれっ、これはひょっとしてと、あらぬからあり得るに一気に期待シフトに移行。それでも、遅々として杳として進展は見られず、同じ白っぽい淡い緑の包芽状態がつづいた。
 

Feijor_1


 フェイジョアには、余り肥料や水はやらない方がいいらしい。
 それでも、水はほどほどにはやっていた。
 他の包芽はつぎつぎに新葉となって伸びてゆくのに、一向にこの脇枝に出来た花芽群に変化が見られず、稀(たま)にはと、昨夕、百円ショップで買ってきた有機肥料をちょっと根元にまいてやった。
 と、今朝、赤い裏側は白い、ちょっと見には毒々しいぐらいの派手なトロピカル・フラワーが一輪だけそっと咲いていた。
 え~、たった一晩で淡い緑がちな蕾から、こんな派手派手しい開花ってあり得る?
 キツネに抓まれたようにまじまじと見覚えのある赤いトロピカル花を見つめるほかなかった。現金な、というのは些か的外れだろうが、まだ幹も枝も細く突風でも吹き付けたひにはポッキリ折れてしまいそうなか細さ故に、養分が廻るのが速かったのだろうか。それとも、施肥が丁度ベスト・タイミングだったのか。
 こうなってくると、こっちの方が現金に、下手すると結実し緑の実がたわわに成ったりするのだろうかと、タヌキの皮算用を決め込みたくなってくる。
 味はパイナップルとリンゴ、バナナをミックスしたような味らしい。
 当方、フェイジョアの実は未食。


Feijor_3

 かつて、カンボジアの首府・プノンペンに滞在していた折、目抜き通りといわれていたシアヌーク通りのある角に、頭上に毒々しい赤い花の咲きほころんだ鬱蒼と茂ったフェイジョアの樹があって、その如何にもトロピカルって感じが気に入り、通る毎にしげしげと見上げたものだった。寺院の庭によく咲いている爽やかな純白花のプルメリアの樹がカンボジアでは一番好きだったけど。
 で、机の上の本棚の中に仕舞ったままの苗を買った際に添付されていた簡易な栽培ガイドを思い出し、取り出してみたら、2015年の11月の日付になっていて、実際は三年前に植えていたって次第。恐らく一度植え場所を変えたりしたのと他の似たトロピカル苗木と紛らわしくなってしまったのだろう。狭い庭でしかないのに。


|

より以前の記事一覧