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2025年11月24日 (月)

高杉晋作・萩行

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 ( 下関・吉田清水山の東行庵。暑熱の九月に訪れた時には、池一面に大輪の蓮花が咲いていた。その清々しさは、暑熱を暫し忘れさせる見事さだった。)

 

 今夏、ふと思い立って、高杉晋作の旧跡を訪ねてみた。
 明治維新→大日本帝国→第二次世界大戦 
 というアジアの果ての遅れて来た帝国主義国家の興亡・自滅史の根幹=明治維新において、やはり早く逝ってしまったとはいえ、高杉晋作の影・存在性は希薄なものじゃなかったろう。何しろ、ミレニアムの、令和の現在まで、小泉・安倍の薩長同盟的無能と悪辣によって、この列島どころか周辺諸国にまで奄々と害悪を及ぼし続けているのには、もう言葉も無い。

 

 

 功山寺での義挙、源平以来の関門海峡を挟んでの長倉戦争、肺結核で愛人おうのに看病され野村望東尼たちに看取られ逝った終焉の地である下関の、海のそばのJR駅から鈍行に乗った。
 ネームバリューは十分すぎる山口県最大の都市・下関の駅のはずが・・・・関門海峡を挟んだ九州からみれば、下関は本州の玄関口だけど、本州から見れば最西端ってわけだからか、ホームこそ三本、六本線もあっても、基本、皆鈍行。唯一例外的に京都行のスペシャル列車はあるものの毎日じゃなく、要するに日常的に急行・特急列車が走ってないのだ。
 余りにローカル過ぎるだろ。
 ところが、この下関駅、山口県下のどの駅よりも利用者数は断トツで一位という。山口県ってそんなんだったけ・・・・ちなみに、薩・長の鹿児島、鹿児島中央駅はといえば、その倍以上の利用者数。確かに、今春、鹿児島市を訪れた際、商店街( アーケード )の大きさ、シャッターじゃなくそれなりに活況を呈していたのには驚かされたので素直に了解できる。
 

 

 二両だったと思うが三両編成だったかも知れないそれもかなり旧式の山陽本線列車で、一時間近くかけて新山口駅へ。ここは新幹線と交差し、山口で二番目に利用客が多い。真新しい感じの夏陽にまぶしく照り輝いた駅舎に連結して高速バスターミナルがあって、もろ灼熱に照らし出され、待ち客はエアコンの効いた待合室でじっと待期。水害で、くだんの萩(東萩駅)に繋がっていた線路が流されたきりらしく、新山口から高速バスを利用するしかなくなっている。萩って山口の一番の観光名所のはず。日本列島中、寸断されたままの路線だらけのようだ。
 凋落の上の凋落。
 もう先が見えはじめた薩長同盟的帰趨ってところなのか。

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 ( 萩城下町の一角にある晋作の生家。入来客は殆どいなかった。否、真昼の碁盤の目の路上自体に人影が疎ら。むしろ、海水浴場の方に比較的多かった。)

 

 交通の要衝って流れで萩駅じゃなく東萩駅が観光の基本。
 駅舎の外観も小奇麗。けれど、萩駅も東萩駅も実質無人駅! 東萩駅は、一応観光の基点ということで、JRじゃなく、萩市の委託運営。駅員的業務の一部を担ってるだけで、閑散そのもの。待合室もエアコンは一応備わってたが、この熱中症的猛暑の只中でも、節約ってわけなのか、それとも単にやって来た客の自己責任って論理なのか切ったまま。
 帰路、数時間、午后の暑熱真っ盛りの中、ここに居ちゃ確実に熱中症で倒れてしまうこと受け合いと、しかし周辺も開店休業状態の店舗ビルばかり、それでも何とか暑熱の少しでも微少な場所を移動し続けて、ようやく夕刻の涼風が火照り切った身体を撫でる頃、ゆるりと新山口行の高速バスが現れた次第。
 別に山口観光局をディスるつもりはないけれど、ちょっとやば過ぎ。 

 

 

 肝心の高杉晋作より、そんな現実的凋落惨憺の記憶の方が強過ぎる城下町萩行になってしまった。
 暑熱を憂慮しての早朝行だったのが、結局カンカン照りの熱射に晒され続けての迷走行・・・最初、少年晋作も日毎眺めつづけたであろう白砂も眩しい菊ヶ浜の透明なエメラルドグリーンの海面、沖合に点々と浮かぶ島影の爽快さにテンションも上がった。ところが、その海に面した萩城跡を確かめた後、城下町の店と云えば焼き物屋ばかり迷路に嵌り込み、やっと大した指標・看板もない晋作の実家屋敷跡に辿りついた頃にはぐったり。
 気をつけてないと通り過ごしかねない小さな武家屋敷の門戸を潜り抜けると、これまた小さなチケット窓口と案内処を兼ねた窓口があり、係りのおばさんが手持無沙汰にチケットとともに自分の飴玉を二つ呉れた。
 小じんまりとした生家で、元々は父・高杉小忠太の居宅。
 かつては敷地五百坪だったのが、維新以降大幅に削られたりして現在の規模に至ったようだ。

 

 

  父の小忠太は萩藩でも上級家臣の地位にあった故の比較的広い邸宅、それ以下の平均的武家屋敷がこんなものなのか、それだと女中部屋すらない小家族ぎりぎりのスペース・・・一見簡素な佇まいに簡素な生活を想像してしまうが、往時は家具・調度もちゃんと揃ってたに違いない。やがて、記念的展示扱いになって皆処分されたのだろう。因みに、江戸時代の高級藩士居宅の平均的な敷地が五百坪~千坪という。
 当時の一般侍達の有様を偲ぶには些か心もとない。それでも雰囲気は了解できる。同時代の大分・中津にある下級藩士・福沢諭吉の武家屋敷も似たり寄ったりで、違うのは諭吉の屋敷には隠れ二階部屋みたいな造作があるぐらい。
 

 まあ、こんなものとは最初から分かっていての謂わば確認行、とくに目新しい発見があるわけでもなかった。むしろ、萩城が余りに海に臨んで立っているのを直に見れた方が、藩庁を山口に移した理由を理解するのに大いに参考になったし、
沖合の癸亥丸から萩城めがけての砲撃( 空砲 )による威嚇も了解できた。
 

 

 そもそも今回の晋作・萩行は、当方のミスで、撮った写真、この生家や萩城のがごっそりが、紛失・・・恐らく自分のパソコン上の手違いで消去してしまったのだろう。秋頃赴いた下関・吉田清水山の墓石で撮った写真も一緒に纏めようとして半分消失し、清水山に至る途中までしか残ってないという正に痛恨のお粗末さ。まあ、そんなに遠隔地という訳じゃないので取り直して来ればいいだけなんだけど、萩はもう勘弁。吉田は逃げ場所のない全くの田舎なので、冬場は遠慮しておくことにした。

 

2025年11月 4日 (火)

魑魅魍魎世界の山上徹也

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 山上徹也の公判廷があったという。
 2022年(令和4年)7月8日昼前、奈良・大和西大寺駅近くで選挙応援演説の最中、自民党半世紀支配=統一教会的惨禍に苛まれ続けた半生に叛旗を翻すべく、乾坤の一擲ともいうべき手製水平二連銃で元総理大臣・安倍晋三を射殺。

 

 演説中の安倍の背後、七、八メートルくらいから最初の一発目、数秒置いて五、六メートルの距離から第二発目が山上の手製水平二連銃から発射され、二発目の時、警護員が黒の防弾鞄を翳して見せたものの、銃声のした背後を振り向こうとした安倍に数発の散弾が命中。自力で演説壇から降り、その場に蹲った。
 警備の甘さを一頻り、マスメディアが指弾していたものだけど、米大統領レーガンが銃撃された折も、SP達が廻りを囲んでいたにもかかわらず、紙一重で命はとりとめたものの被弾は免れ得なかった。
 

 

 映画《 実録・仁義なき戦い 》で、菅原文太( 広能昌三 )が吐き捨てたセリフ、

 

 

 「 狙われる者より、狙う方が強いんじゃ!」

 

 

 正にかくの如く。
 

 

 そういえば、以前、隣町の駅のホームで電車を待ってると、ふと、黒づくめの男女がゾロゾロやって来て、当方が坐ってたベンチの周辺に等間隔に散開した。
 最初、何処かの企業の社員達が、やがて現れたその会社の幹部か得意先と思しき一人の背広を纏ってアタッシュケースを手にした華奢な体躯の男を見送りに来たものとばかり決めつけていた。
 が、普通に考えて、幾ら大事なお得意先の幹部だとしてもちょっと物々し過ぎはしまいか・・・と、尋常じゃない雰囲気に他の待ち客達も気付き始め、ジロジロ見やることしきり。黒スーツの若い女達も、普通のOL達と明らかに身のこなしが違ってて、ようやく、彼等がその何処かの役人かなんかを警備するために配備された私服警官だと了解した。

 

 
 やがて入って来たブルーの特急列車ソニックの先頭車両にくだんの四十前後の役人風が乗り込み、黒づくめも一人か二人後に続いたと記憶している。発車し、姿が見えなくなると、黒づくめの男女の警備警官達も一斉にホームの階段に消えていった。
 SPというより、警備の方なんだろうが、生れて初めて視た光景に、しかし些かの感慨も覚えることもなかったものの、あんな感じなのかと得心はした。
 けれど、ガードされた人物が、如何にもそこら辺のまだまだ若いヒョコヒョコした中堅幹部風なのもあって、も一つ、一行の物々しさと平衡がとれず、既成のイメージと余りに懸け離れ過ぎて、むしろシュールな場面との遭遇だった。

 

 大部過って、同じホームで、同じ黒ずくめの光景に出遭った。
 やっぱし、VIPは、ヒョコヒョコした役人風だった。
 

 

 マスメディアによると、検察=自民党権力が、山上徹也を死刑にしようと謀んでいるとか。
 あれだけ悪事・禍事に淫した安倍を、強権発動で、ファシズムとはかくの如きかと想わせる青天の霹靂的【 国葬 】をゴリ押した現権力の、しかし、やりそうなことではある。
 かつて、日本社会党党首・浅沼稲次郎を、この国の右翼組織を使って、米国CIAが刺殺させたのは余りに有名だけど、今度この国の総理大臣、初の女性総理らしい髙市首相が、米海軍のその名も先住民=アメリカ・インディアン達に対する大量虐殺で高名なジョージ・ワシントンの名を冠した原子力空母の上で、戦前のチャップリン追放時代を彷彿とさせる排外主義エポックの立役者・米国大統領トランプの隣で、初代女性総理大臣就任と、宗主国米国のトップと同席できたことへのご満悦ですっかり舞い上がった図は余りにも有名・・・そんな歴史的関係性を念頭に置くと、なんともおぞましいばかり。ニュースによると、その時なのか、トランプが髙市の腰に手を廻していたとか、それが白人旦那からの太平洋を越えた列島の現地傀儡政権トップに下されたご褒美って訳なのか、長い間の嗜虐的惨禍の犠牲になった多くの人びとの真紅の血にどっぷりと塗れたご満悦の図ってわけだ。

 

 

 

 

 

 

2025年10月 5日 (日)

欧米列強的"1984" バーチャル的ミレニアム

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 グレタちゃんが乗っていたガザ支援物資輸送船団は、定番の如く、イスラエル軍によって拿捕=拉致されてしまったようだ。イスラエル軍(+イスラエル人入植者) による今回のパレスチナ人虐殺は、六万人を越えている。

 

 パレスチナの人々にとっては何を今更ってとこだろうが、底無しの小覇権国家イスラエルのこの二年もの間の侵略的暴虐・虐殺に、世界の国々は、ロシアがウクライナに侵攻した時には、かつての9.11の時並みに同情して見せ、戦車だミサイルだドローンだとあれこれ兵器武器弾薬、物資的援助を現在も惜しげないにもかかわらず、アリバイ作りにもならないガザに対する口先だけのもので、飢死者すら出て来て久しく、その妙な在り様をあかすように、バイデン=トランプを軸にして、ウクライナ総帥=ゼレンスキーとイスラエル総帥=ネタニヤフの親密さ・仲の良さが伝えられ、余りにも絵に描き過ぎた図式に何とも鼻白むばかり。

 

 つまり、二十世紀はとっくに過ぎ、時代はミレニアムにはいっているのに、今だ世界はアングロサクソン同盟に牛耳られたままのようだ。
 最近は、英国あたりが、如何にもこれ見よがしに、パレスチナ独立を認めるとかアドバルーンを上げると、さっそく参集する国々、アングロサクソン同盟麾下の衛星国とか属国とか謂われる国々の権力が走り寄って来た。これから、もっと増えるのだろうが、トランプ=米国は一人ネタニヤフ=イスラエルに支持といわんばかりにいよいよ様々な物資的援助をぶちあげて見せる。
 余りにも見え透いた筋書としか見えまい。
 パレスチナの独立 ? 
 パレスチナが、一体何処から独立するというんだろう。
 勝手にアングロ同盟とイスラエルが画策した奸策、侵略者シオニスト=イスラエリが周辺に追いやった先に線引きした覇権国家・小覇権国家の常套の上に敷かれた侵略シオニストたちの思う壺。

 

 為されるべきことはひとつ、侵略者達=シオニスト・イスラエリたちの、侵略地つまり元のパレスチナの地から、侵略してくる以前にいた居たところ、つまり代々棲みついていた欧米ロシアその他の国々に戻れば良いだけ。
 彼等の後援者達、とりわけ昨今じゃ米国=トランプが盛んにやらかしている政策でもあるので、異議を唱える筋合いもなかろうし、元々の国々が、ユダヤ人に対して差別的であった集積あるいは論理的帰結がナチのホロコーストだったんだから、パレスチナ人が、そんな欧米の差別主義の犠牲になる筋合いは全くありえなく、それぞれの元居た国々が自腹を切っても彼等に正式に謝罪し温かく迎えるってのが筋ってものだし道理でもある。

 

 あるいは、一番画策した英国の何処か一、二の州を、彼等に提供するってのもありだろう。一千万人弱のイスラエリ=ユダヤ人達が、七千万人弱の英国に移動したとすると、一挙に八千万にもなってしまうけど、そもそも他国侵略の略奪盗奪で繁栄してきたのだから、アジア・アフリカ・中南米を破壊しつくし、現在以てそれらの元被植民地国は惨状を呈しているのだから、そのくらいのことはやって当り前の贖罪的行為。それもほんの一つに過ぎない程度。
 尤も、英国はじめ元居た国々には、既にユダヤ系の権力とつかず離れずの財閥が存在しているのだから、もっと容易なはず。

 石破が短期内閣なのは、予め、"政治"に疎い当方にすら自明のことがらに過ぎなかった。かつて、蜂の一刺しとやらで短命に終わった内閣もやっぱし同様にババ掴み的な生贄内閣だったのと余りに相似。石破が防衛大臣時代に「イージス艦事件」で、国会内的約束事項をやぶっての違法行為( 自民党的には親孝行 )で稼いだ点数を、そんなババ掴み内閣の長就任で使い果たした、否、果たさせられたというべきか。
 今度のこの列島の女性首班も、宗主国=米国トランプ政権を反映したのか、それとももっと直接的に指示でもあったのか。バーチャル政治の中のバーチャルってとこだろうけど・・・

 

2025年9月17日 (水)

 AK47娘子軍的ゆらぎ  エロスとタナトスの饗宴

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  明るい緑の草原の上、白のブラウスにすらりと伸びた下肢の太腿も露わなミニスカート、手にはAK47カラシニコフ自動小銃の女子高生達が、広い画面いっぱいに戦闘モードで展開する戦争絵巻。
 ロケット弾を発射する娘、その発射爆音に思わず耳を両手で蔽う娘、ピンクの手榴弾を運ぶ小犬、右端でこれ見よがしにミニスカートから白いパンティーを覗かせる片脚を後方に伸ばした娘。敵味方入り乱れての肉弾戦も間近な戦闘モードのわりには、一向に悠揚迫らぬ女子高生・娘子軍の眼差し。( 『 草の上のAK47少女 』 原題《 AK少女払暁出撃 》)
 

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 かつては明治の富国強兵的国策で全国から一攫千金を夢見て参集した炭鉱労働者や商売人たちで賑わった炭鉱の町・筑豊の街・田川も、末期資本主義的凋落の急先鋒と云わんばかりにシャッター商店街と昼尚車ばかりが行き交うばかりの、路上に人影殆んどない過疎タウンと化していた。そんなくすんだ佇まいであっても、一様に降り注ぐトロピカルな陽光と暑熱に茹だりながら辿り着いた小さな美術館の扉を開いた向うに、突如立ち現れた横五メートルの壮大な女子高生群世界。
 いきなりの画面展開はシュールな様相すら呈する。
 正にエロスとタナトスの饗宴。

 

 青々とした大空いっぱい、ミニスカートの、両手にAK47カラシニコフ自動小銃を抱えた娘子軍が、真っ白いパラシュートにぶらさがり一斉に降下してくる大画面。戦時中の鶴田吾郎の翼賛絵画『 神兵パレンバンに降下す 』の構図そのままに、降り立つと、皇軍手榴弾よろしくの兎のぬいぐるみを投擲せんと構え、あるいはニッコリ笑みを湛えスマホ自撮りを決め込む娘子軍。
 『 神兵台北に降下す 』 原題《神兵台北降下》。

 

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 「祖父は自分のことを“日本人”、父は“中国人”と思っていたが私は“台湾人”である。」

 1976年の台湾生れの画家、Chen Ching-Yao陳・( 手偏の上に敬)耀 。
 台湾の置かれた特殊性=歴史的ゆらぎを逆手に取っての反戦・反権威主義的な多面的な芸術活動を続けてきた画家・写真家 チェン・チンヤオ。
 ミニスカート女子高生のパラシュート的降下を地上から見上げる仰角図、階段を上る娘達のスカートの中を盗撮する軽佻な淫靡よりもっと直接的な、むしろ画家の願望的形象化なんだろうが、当方的も、ネットで画家のシリーズ化された数多の降下的仰角図を見るにつけ、決して手放さない鈍いスチール色のAK47ともどもに、タナトスとエロスの渾然は中々に面白い。
 『 AK47少女 愛の不時着 』
 「愛の不時着」のタイトルは幾年か前に韓国で流行ったパラシュート( パラグライダー )で間違って北朝鮮に降下してしまった恋愛テレビドラマ( 当方未見 )だったけど、画家的には、台湾=中国と連鎖するものだったのだろう。

 

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 戦時翼賛画、鶴田吾郎の『 神兵パレンバンに降下す 』をモデルにした『 神兵台北に降下す 』に戻ると、台湾=中国というストレートに自明でありながら、現代史的に幾種ものいわくで縺れた政治的坩堝の只中で、画家は、台北に降下する神兵とあえて名づける。降下=侵略なら、戦前の大日本帝国→台湾であり、戦後の蒋介石国民党勢力→台湾でもあるのだけど、今日じゃ、巷間、中国→台湾を謂う。
 で、中国人民解放軍降下部隊の青天下の一大降下ってとこなのが、画家は、伝統的画材「飛天」宜しくのミニスカートの女子高生( 実際には画家はアイドルグループAKB48あるいは乃木坂46の間をとってかAK47 Girls )達の淡い艶めかしさを漂わせての降下に変容させる。この通俗性をうまく活かした比喩的形象ではあるんだろう。

 

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 《 台湾侵攻 》のフレーズが喧しく喧伝されるようになって久しい。
 しかし、台湾は中国の一部・一省に過ぎない、そもそもそれを宣言し、米国の後押しで蒋介石国民党勢力が、台湾でファッショ政権を樹立し、独裁体制を敷き、悪辣を極め、国連でも米国およびその衛星国の類がその上に乗っかった公然事実。
 蒋介石国民党勢力は、中国大陸で、悪辣かつ腐敗( 一時国民党の捕虜となっていた、あのミスター皇軍こと辻正信すらその腐敗さ加減を口を極めて唾棄していた )し切っていた故に追い出され、這う這うの態で台湾に逃亡したのであって、やってこられた台湾人達こそいい迷惑だったのだから。
 やがて、時代の流れ趨勢が、八億中国人民の大陸側を正統と認めるようになり、蒋介石国民党勢力は、米国の後ろ盾で辛うじて命脈を保っていたに過ぎない。やがて国民党自体が衰亡の一途を辿り始め、台湾独立を喧伝し始めるようになった。
 
 つまり、人民解放軍が台湾を侵攻するんじゃなくて、単に、自国の一省に派遣・移動するってことに過ぎない。トランプの、とある米国内一州に、ゴリ押しで州兵を派遣することの方が遙かに違法この上ないのだけど、如何せん、米国および世界でその事実性を端的に指摘しあるいは指弾する声って殆んど聴かない。まあ、実際にはそれなりにあるんだろうが、マスメディアが正に彼等の走狗以外の何物でもなかった歴史からして、公になることはないだろう。当方みたいな、吹かなくても覚束ない微少ブログでの呟きなんて何処にも届かない。

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  ( 如何にも意味ありげなメタファーにゆらでいる。)

 

 勿論台湾には昔から高砂族はじめ先住民族は居たんだけど、蒋介石国民党が自己正当化のためにすべてを歪曲し話をおかしくしてしまった。中国も、実勢的に米国が背後で糸を引いているのが分かっているからには、おいそれと独立以前のレベルでも認めることはないだろう。
 米国の優等生的衛星国・ニッポン自民党権力も、朴正熙、ゴ・ジンジェム、マルコス、蒋介石と名だたるファッシスト達の東アジア衛星国ネットワークの要なんだろうが、例えばアイヌ=北海道、琉球の独立を認めなかったどころか、強権支配してきた正に張本人。それが、台湾独立を恥ずかしげもなくぶち上げるのだから、ついこの前まで、台湾蒋介石国民党こそ中国の正当な政府と連呼していたのを忘れてしまったかの如く。
 もう、このミレニアム世界は、如何とも救いようもなく、末期資本主義的狂態に満ち満ちて、あんな小覇権国家イスラエルのパレスチナ人達に対する果てしない侵略・略奪とリアルタイムの大量虐殺に、殆んどなすすべもないようで、ナチスのユダヤ人虐殺に対してもそうだったはずだろう。
 あの戦後の長い間この列島で世界で垂れ流がされてきたゴタクは一体何だったのだろう・・・

 

 

     戦争と美術 チェン・チンヤオ展 福岡・田川美術館

 

 

2025年9月 2日 (火)

 ハノイ情緒 ベトナム風俗図

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 ベトナム・・・ネットで確かめてみると、首都ハノイの旧市街のパッカー宿でも、数十年前とはもう見違えるほど小奇麗になってて、正に隔日の感。九十年代中頃にプノンペンから陸路でサイゴン( ホーチミン市 )に入ったものの、既に喧伝されていた程には旬じゃなくなっていて、当時しょうもない場所として嫌われていたハノイに向かい、旧市街の安宿アンシン・ホテルに投宿。

 

 ところが、さにあらず、路地の浦々まで正に旧市街、中々に面白く、何故にここをそんなに嫌うのか定かじゃない。当時、中国雲南の昆明も同様に誹られていて、やっぱし実際に訪れて見ると、旧市街は何百年前からの古い民家が蝟集し、路地が張めぐられていて面白くすっかり嵌ってしまった。けれど、ここは中国共産党的官僚主義あるいは改革開放的資本主義的妄動"再開発"で、数年後にきれいさっぱり消えてしまい、風評通りのつまんねー街に戻ってしまった。
 さすがに、ベトナム政府は、お膝元ハノイ・旧市街の強権的改革開放的再開発に着手することはないようで賢明。
 銭か文化か。
 実際には、旧態の軋む建物よりも、すっきり近代的な居住性を求める住民が多いだろうことも、もはや常識。

 

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 現在、ハノイの旧市街の安宿、一泊五百円のドミトリー( 多人数部屋 )があるという。ドル換算なら約三ドルちょっと。1996年当時のアンシン・ホテルのドミが三ドル・・・マジか、ほとんど、変化なし!

 

 

 その頃土産物屋買ったハノイの手書き風俗図。
 印刷物と違って趣きがある。
 ベトナムは随分と昔から中国の版図に入っていた関係で、中国文化の影響を受けていて、山水絵画も伝統化してるらしく、こんなお土産屋に並ぶ小さな絵であっても雰囲気があって好い。
 実物は縦に十数センチくらい。
 勿論大きな額縁に入ったものもあり、一点、伝統的衣装を纏った若い女性像があって、その清楚な清々しさに魅了されてしまった。そう高くもなく、買うか買うまいか暫く迷ったこともあるくらい質もピンきり。
 
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2025年8月16日 (土)

 夢幻泡影的境界 『凱里ブルース』

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 一切有為法
 如夢幻泡影
 如露亦如雷
 應作如是觀
             《 金剛波羅蜜経 》

 

 

 「人生は意図せず始められた実験旅行である。」
        
            ――F・パソア《 不穏の書 》

 

 

 ネット検索中、ふと出遭った未知の中国映画《 凱里ブルース 》、ビー・ガンなるこれ又未知の監督の作品だったけど、観てみると、イントロから雰囲気のある当方的にはなかなかに面白かった。
 中国第六世代監督ジャ・ジャン・クーの《 一瞬の夢 》原題・小武(1997年)と同様、地元の素人を起用した妙なリアリティーを醸し出した映像世界は、《 一瞬の夢 》の実際の地方の中国・中国人をそのまま切りとって来たような生なリアリティーとは些か相違して、中原たる山西省よりもっと南の少数民族の宝庫・貴州省の小都市・凱里を舞台にした境界世界的ゆらぎともいうべき夢幻泡影世界をうまく形象化できている。

 

 

 しばらく、インド映画もそうだけど、中国映画と疎遠になっていた間に、ジャ・ジャン・クーより二世代も後と知って驚いた第八世代監督・ビー・ガン。
 出演者の大半が、彼の周囲の人間らしく、主演の陳永忠は叔父さんという。紅一点といわんばかりの洋裁店の小姐・洋々(ヤンヤン)は、独特の雰囲気をもった本職の女優・郭月で、結構あっちこっちで活躍しているらしい。
 

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 冒頭の二つ、金剛経とF・パソアのパラグラフがこの映画空間の基調となってるようだ。原題の《 路辺野餐 》、日本語だと《 路傍のピクニック 》、つまりストルガツキー兄弟のSF小説《 路傍のピクニック 》(1972年)であり、それ以上にアンドレイ・タルコフスキーのソ連映画《 ストーカー 》(1979年)に触発されての映画作りだったという。
 そういえば、水中に沈んでゆく女性靴のショット、《 ストーカー 》での何気ない水中のコインやブラス製品のショットが、そこはかとなく異界的境界世界=“ ゾーン ”のミステリアスな雰囲気を印象的に醸し出していたのと相似。
 そのゾーンに、この作品でのネック、蕩麦( ダンマイ )が対応している。
 ゾーンは『 幸せが叶う 』部屋だったが、蕩麦は些か違って『 過去の記憶と現実と夢が混在する 』ミステリアスな村で、前作、モノクロの短編作品《 金剛経 》の舞台・蕩麦村をそのまま継続した流れになっている。

 

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 物語は、凱里の郊外を舞台に、以前、反社=流氓・黒社会に身を置いていた兄弟の、出所してきた兄を基本的視座に据えた、幼少の頃彼になついていた弟の一粒胤の息子を巡っての、兄と齟齬・乖離する弟とのゆらぎってところ。
 居所の凱里郊外から、一粒胤の預けられた河畔の街・鎮遠に向かう途中で立ち寄った、霧深い山間の村・蕩麦の、身口意の溶融混沌的金剛経世界。
 
 
 この映画観てると、タルコフスキーの《 ストーカー 》もそうだけど、《 惑星ソラリス 》(1972年 )の意識・記憶を形象・実体化する作用のある意識を反映する海にも及んでいるようだし、明末清初の、夢史・夢郷志で有名な作家・董説の《 鏡の中の孫悟空 》の世界にも至りかねない。
 ともかく、当方的には、面白い映像作家の出現で、ローカルな劇場じゃまずお目にかかれないのだから、やっぱしネットを視るしかないミレニアム25年。

 

 

   《 凱里ブルース 》原題:路辺野餐( 中国・2015年)
    監督・脚本:ビー・ガン

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2025年7月28日 (月)

イランと中国 ( 旅先の切手 )

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 小覇権国家イスラエルのガザ=パレスチナへの侵略・虐殺事件絡みで、何ともどうにも恰好のつかない惨憺たるイランだけど、かつて1980年~1988年まで八年も、隣国イラクと戦った時も、イラクの背後に米国が控えていた。
 ぼくがイランへ初めて行ったのが、ホメイニーが亡くなって休戦になった二年後の1990年、まだ首都のテヘランでも、あちこちイラクから飛んできたミサイル攻撃の爪痕が残っていた。
 当時はイランから日本への出稼ぎが多く、基本ノービザだった。
 それもあってか、とりわけ日本人には皆快く歓迎してくれていた。二年後の1992年にはビザが必要になり、イランで不平を云われたこともあった。けど、もともと旅人には誠心誠意迎えるのがイランの伝統って訳で、皆好意的であった。否、中東、アジアじゃ何処でも皆好意的。

 

 

 イラン人って、ともかく写真好きで、観光地には必ずカメラ持参で撮りまくり。亡くなったばかりのホメイニーの廟の前ですら、家族揃って記念写真を撮りまくっていた。隣国トルコのアブラハム遺跡にすら、イラン産ベンツの観光バスで団体で乗りつけ、容赦なく写真撮りまくり。係りの親爺さんも只、何か云いたそうな表情はするけど終始見守るばかり。

 

 

 1990年と1993年の二回イランに滞在した。
 当時は、亡くなったばかりのホメイニー体制に批判的な学生少なくなかった。イスラム原理主義的体制は現在以て続いているけど、当時の学生も皆中年、働き盛り。米英仏等の破壊と搾取しか興味のない手合いとグルになる訳もいかず、自由と平等のなんと遠いことか。

 

 

 当時、イランの街角でよく見かけたうねる様な舞姫のミニアチュール、中々にエキゾチックで気に入ってる。この手の小判のグリーティング・カードだけじやなく、もっと大判の作品もあったと記憶している。
 周りの切手は、皆、イランのもの。I.R.IRANは、イスラム共和国イランの国名。
 右上の王冠風のものと、左下のホラサン出身の十世紀のイスラム哲学者・アブ・ナスル・ファラビは不詳。どちらも古そう。
 花はいずれもイラン原産の種のようだ。

Stamp-6

 

 

 中国のも、皆1980年代の切手ばかり。
 下のカラフルな年画風の民俗画、いずれも諺めいたあるいは処世訓が記されている。これは切手だけど、ふつうは門扉や部屋の壁に貼るもの。文革の頃は、ほんのりした旧態は排斥され、勇ましい政治的スローガンなんかが躍ったのだろうか。
 真中上の京劇風の挿絵、文字部分と合わせてぴったり横五センチ。
 
 對生活知足常楽
 対芸術精益求精

 

 左下に作者の銘らしきものが見てとれるものの、不詳。
 いずれも定型句のようで、生活に対しては足るを知り平穏、芸術に対しては切磋琢磨怠らない、つまり、画家の言なのか、描かれた京劇役者のそれなのか定かじゃないけど、モットーなんだろう。

 

 

2025年7月13日 (日)

 若き黒石のノスタルジア的憧憬 長崎・時津 

16jun25

 ( 長崎駅前からバスに乗り、浦上街道を北上し、30分くらいで時津の小さな港町に。明治・大正の頃には茶店があったようだけど、今は汎世界的にスターバックスがある。こんな小さな町レベルの場所にも出店してるとは。カトリック世界で、かつて殉教した二十六聖人は有名らしく、それに因んだ浜ってことであえて出店って運びになったのだろうか。因みに、バス停スタンドの脇のベンチ、奇妙になってるけど、実際壊れていて、この写真撮った後に役人らしき連中がやってきて、運んでいった。)


  
 差別主義・排外主義が内外を問わず大手を振って跋扈・瀰漫する昨今、ふと、一世紀前にそんな風潮にさんざ痛めつけられてきた日・露の混血児、我等が大泉黒石に想いが至る。
 辻潤たちの思惑通りの太平洋戦争の敗北はいざ知らず、故郷の長崎での原爆的悲惨に、一体、駐留米軍の中で通訳として働きながら黒石は、いかなる想いを抱懐したのだろうか。幼時を共にした神主の息子や春徳寺の息子たち、口煩い親戚、あるいは桜馬場小学校や海星中学の同級たちの面影が走馬燈の如く去来しただろうか。

 

 

 偶々、ネットで、黒石の自伝的研究を着実に展開しつづけている児玉司の《 大泉黒石(私)研究 大泉黒石の画帖──「俺の落書」「妖畫帖」ほか 》に遭遇。
 当方も以前、黒石の画才的発露ともいうべき月刊誌《 雄弁 》大正9年(1920年)新年号・2月号掲載の《 「俺の落書 少年時代に書いた絵」と「 自賛」 》で、黒石の描いたスケッチを紹介したことがあったけど、思いの外、黒石、かなりあっちこっちに描いていたようだ。漫画風の絵柄は当時の流行りなんだろうが、《 午 》( 日吉堂本店 )なんかの綴じ込み見開きの挿絵は、その由来未詳ながらもダイナミックで面白い。当時の挿絵界の寵児・小川芋銭とは、また趣きが異にしている。
 
 
 その中の《 睡れる少女の顔 》なるうたた寝する娘の横顔のスケッチあるいは線描画。
「海に面した小奇麗な茶店」、実際は駄菓子屋も兼業。
 「あちこちスケッチして歩いているうち、ひどく咽喉が渇いて」
 ラムネを飲みに入った。
 ラムネは二銭五十厘、持ち合わせの三銭全部置いて去った。
 茶代と黒石は記しているけど、チップというところか。
 走るように店を出たというから、そんな所作が大人びたものに思え気恥ずかしかったのだろう。
 その茶店の店先でうたた寝していた娘の寝顔に魅かれ、自身の若くして逝ってしまった未知の母親を重ね合わせるようにして髪の一本一本を白紙に写し取っていったのか、それとも少し年上の女性(にょせい)に淡い思春的憧憬を抱懐し、秘め事の如くのデッサンだったのだろうか。あるいは眠り姫のごとく。

36jun25

 ( 時津川の河口。向こうに大浦湾が覗けている。右側先に時津港・長崎空港行のフェリー乗場がある。小さな埠頭で、それらしき大きなキャリーバッグを引っ張っていた客らしき人物一人みたきり。)

 

 大浦湾にいどんだ時津というごく寂しい漁村での点景。
 実はその娘、黒石のクラスメートの親戚で、後、親しくその店に通うようになるのだけど、元々、時津には、黒石の乳母だった女性の実家があったりして、

 

 「 私の幼年時代の記憶の中で、一番色彩の濃いのは、この漁村である。」

 

とまで記している。
 

 

 当時の若き黒石、気が向くとスケッチブック片手に、三里(約12キロ)も歩いて、喧しい長崎の街から、大浦湾に面した静かな寒村に赴いたという。様々な日々のストレスから解放ってところなんだろう。
 スケッチブック少年というと、やがて盟友とも腐れ縁とも謂われる辻潤の一子・一(まこと)が思い出されるが、一(まこと)少年も、母親・伊藤野枝を甘粕等憲兵隊に虐殺され、片親という環境で育っていた。一(まこと)だけならともかく、若き黒石もそうだとすると、こじつける訳じゃないが、何か共通する悲哀じみたものを覚えざるをえない。

 

 

 その時津、現地じゃ「とぎつ」と読むらしい。
 大浦湾南端のかつての鯨の町であり、浦上街道を南下し、長崎の街へと鯨肉を運ぶ拠点であった。この黒石の頃は、長崎もまだまだ凋落の影すら見えない繁華な時節だったようで、鯨の良質・高級な部位が運ばれ消費されていたという。
 そこで思い出したのが、大正九年《 中央公論 》第三十五年春季大付録号に掲載された《 長崎夜話 》の、主人公・黒助青年( 二十歳の留年中学生 )の幼少期の乳母だった女性の実家が、地名は明示してないけれど、近郷の漁村で鯨商を営っていたという設定。

 

 「 この老婆と娘とは、浜辺の村で鯨を商っている羅馬教の信徒だ。」

 

 勿論、黒石に近しい人脈=貧しいばかりの群像ってところで、店舗での鯨肉の小売りだったのか、それとも一台っきりの大八車か背籠で鯨肉を商う行商の類だったろうか。
 お島とおふじの二人が、決まって毎月はじめに、隣町の浜から、藁包みした鯨肉を下げて、"旧主人"の黒助=盲目の祖母の元へご機嫌伺いに通っていたのが、それに対する黒助の返礼が滞りがちになるにつれて、下げて来る鯨肉がだんだんと小刻みに小さくなってくるのが、足下を見透かされ、小馬鹿にされているようで腹立たしかった。
 つまり、「 生存競争に追い詰め 」られ、家財道具が一つづつ消えてゆく様を訪れる毎に二人が目の当りにし、

 

 「 坊ちゃんのお袋さんの手垢の附いたものは、いつ見ても懐かしい」

 

と追従しながら、ふと開いたミシンの蓋の中が空っぽになってたりして、

 

 「 今に坊ちゃんが学校を出て東京へ上らっしゃると、偉ろう出世して戻ってらっしゃるけ。今暫くの辛抱なもし」

 

と、魔の悪さを誤魔化す様に繰り出す励ましの言葉がいよいよ屈辱三昧。
 あげく、すっかり“ 根絶やし”に売り払ってしまった黒助、口煩さい親戚・縁者達の目をかすめるようにして、盲目の老婆を引き連れ、昔馴染みの額縁屋・夏蔵の、鳴滝奥の竹藪の奥にひっそりと佇む元シーボルト屋敷たる今にも崩れ落ちそうな陋屋の二階三畳間へ引っ越す仕儀に。

116jun25

 ( 日本列島中そうだろうけど、ここもすっかり整備された遊歩道的岸壁が続き、向こうに大浦湾が拡がっていている。高速バスから望む大浦湾は、高みから見下ろすパースペクティブ、中々のもので、ここだけはしっかり視ることにしている。両側には工場や商業施設が並び、小さな町にもかかわらず、この周辺じゃ基幹的なポジションにあるのかも知れない。)

 

 そのごつごつした木綿の盲目縞(縦横糸とも藍染めした綿布)を着こんだその二人は羅馬(キリスト)教信徒で、老婆のお島は、首からECCE HOMEの刺繍のある黒羅紗の札をさげ、娘おふじは、首からアルミの馬利亜像。
 長崎といえば隠れキリシタンだけど、彼女達の家の厄介者扱いされている老爺・佐太郎が、浜に教会が建てられてから浄土宗から耶蘇教あるいは羅馬教(キリスト)教に帰依したというなら、明治維新以降の新キリスト教徒だろう。
 因みに、明治初頭は、まだ隠れキリシタンは弾圧されていて、欧米諸国から猛烈な批判・非難に晒され、明治六年にやっと禁制解除となった。

 

 実際の時津には、キリスト教徒は少数らしく、明治維新以降戦後もキリスト教会はなかったようだ。比較的最近、1979年になってようやくカトリック教会が建立。現在も存在してるようだけど、大浦湾じやなく、五島灘・東シナ海に面した出津(しつ)ってところには、1882年(明治15年)にフランス人宣教師ド・ロ神父によって建てられたカトリック教会が建てられていた。遠藤周作の《 沈黙 》の舞台にもなった一帯で、海沿いの一角に《 沈黙碑 》があるという。
 佐太郎老人もお島・おふじも、維新以降明治前期当たりの信者なのだろうから、こっちの方が理には適っていよう。只、この出津は、外海側で、長崎から時津の倍、二十キロ近くあって、スケッチブック片手に気軽に徒歩で行き来するってのには無理がある。

 

 黒石がこの出津( 勿論、実際にはそれ以外の特定の場所かも知れない )を念頭において時津に組み込んだのか、単純に後に出てくる佐太郎の告別式の七彩的妖気漂う異界空間としての伴天連的牙城として欲したのか。
 この佐太郎老人、若い時は唐人屋敷に丸山遊廓の遊女たちを引率する役人だったという。渡辺淳一《 長崎ロシア遊女館 》でも、幕末に停泊中のロシア艦隊に丸山遊女の便宜を求められ、盗賊方改め・中村吉兵衛が、折衝役に命じられ、丸山遊女たちを斡旋しようとしたものの、ロシア海軍(英国軍も)も先ず検黴( 梅毒検査 )の実施を迫り、しかしながら、股を拡げて検査されることが彼女達にとっては死んだほうがましなくらいの屈辱以外の何ものでもなく、皆けんもほろろ。 しかたなく、中村吉兵衛、ロシア海軍寄港地のある稲佐の地元の貧しい娘達に白羽の矢を立て、丸山で基本的所作を学ばせて、もちろん稲佐の娘達もやっぱり検黴には拒絶を示したが獲られる利益を説いて承知させたってストーリー。

13jun25

 ( 港の芝に立てられた日本二十六聖人の案内書。秀吉の命により、京の切支丹たちが長崎・西坂の刑場まで見せしめのために歩かされたようだ。わざわざ大浦湾を通ったってのは、陸路のままじゃ途中難所でもあったのか、あるいは地元の切支丹信者たちに襲われ聖人たちを奪還される可能性を危惧したからだろうか。)

 

 ところが唐人屋敷は明治三年に焼失。明治九年の廃刀令・秩禄処分で武士は文字通り消滅。下っ端侍はいよいよ生活も困窮を極めることとなる。浜の村に小さなカトリック教会が建つと、さっそく跪き、やがて敬虔なカトリック信徒となった。最初は、周辺の者たちに気付かれないように、隠れるように信仰していたという。
 朽ち果てたシーボルト屋敷の住民・夏蔵、遊廓通いをしているらしいキリスト教徒の教師・福田、そしてその旨恐喝し卒業単位を獲ようとする落ち零れのクラスメート、福田の贔屓の遊女・絲遊等の人間模様の只中で、このカトリック信徒・佐太郎老人を端緒に、やがて佐太郎老人の葬儀が執り行われた件のカトリック教会での、詳しいカトリック的式次第や、参集した面々のおどろおどろしい怪異的変容等の異教・異界的現象が、境界世界としてゆらめく説話世界は面白く、伴天連カトリック信徒=お島・おふじの二人が、次なる物語展開の基軸でもあるような黒石の思わせぶりな予告で、いよいよ伴天連カトリック的異教世界の仄暗いエピソードの連綿なのか、それとも意表を突く黒助に疎まれた老若女二人組の、黒助を更なる途方もない波乱凋落的運命に追い落としてゆく悲惨譚がまっているのか。
 ( 事実的には、続篇なしで、この巻だけの完結世界 )

 

 

黒助の記憶にあった佐太郎老人は、肺病が筒袍を着ていつも気味悪い咳をする影法師のようなヨボヨボの老人だった。
 天主堂の物置みたいな病室で生きを引取ったのだ。
 以前、その天主堂の物置小屋みたいな薄暗い小部屋の中で、藁布団の上に毛布を敷いた上の病的に細くなった佐太郎老人を見舞ったことがあった。
 その時、黒助に胡散臭そうな眼差しを向けた、巨大な蝙蝠のように黒衣を纏い梟の嘴を想わせる鼻の大男の神父が、時折、老人の顔を覗き込む姿が、あたかも老人を地獄へ誘き寄せるために神父に化けて天主堂に忍び込んできたサタンの如くで、以来、黒助はこの天主堂を忌避していた。

 

 

 この境界世界的天主堂はともかく、この天主堂の薄暗い小部屋に病んだまま蟄居していた佐太郎老人の姿って、漫画家・つげ義春の父親が、精神を病み、カラダをも病んで、板前として働いていた料理屋の布団部屋に放り込まれていたのを母親に連れられて見舞に行った際の光景を彷彿とさせる。芥川がそうであった如く、彼つげ義春も後年の恐怖に怯えるようになった果てでの鬱病だったか。 
 同時に、つげの祖父、母親の養父の元漁師だったのが、歳を取ってから体力もなくなり、或る日とうとう窃盗に及び、数年収監され戻って来て、その祖父の下で養女として貰われてきてからというものさんざ虐待されてきた恨みを晴らそうとばかり、「役立たず」( 千葉方言で )と罵しり続けたというエピソードでの、力ない悄然とした老爺の姿が、佐太郎老人と重なったりもして、当方の胸裏には少なからずのリアリティーあるキャラクターとして佐太郎老人はうずくまっている。勿論、明治と昭和との差は随分あるものの。

126jun25

 ( 空港フェリー船。むしろ艇と云った方が近い。長崎空港は未験で想像の他だけど、大浦湾沿いにあるようだ。)

 

 現在の時津はすっかり整備され、小さな港であっても、一応空港までのフェリーもあり、かつてを偲ぶには些かの想像力を起動させねばならない風だけど、向うに拡がる大浦湾を望むと、ふと一陣の涼風が吹き付けてきたりする時、涼やかさの内に少年黒石やうたた寝する娘、黒助や佐太郎老人、藍染めを纏ったお島・おふじたちの姿と息吹が垣間見えたり。
 何しろ、このかつての小浜は、秀吉の命により長崎・西坂の丘で処刑されるカトリック二十六聖人が大浦湾を渡って到着した場所であって、その碑も建っている。黒石の時代、明治後半に、既に二十六聖人を祀った碑が建てられていたかどうか、当方は詳らかにしないが、黒石は当然知っていたろうから、やはりこのかつての静かな寒村に、蒼茫とした大村湾を背にし、人々の苦海で白く糊塗した天主堂を幻視したのだろう。

 

96jun25

 ( 日本二十六聖人の碑。嘗てのこの浜から片耳を削がれた切支丹信徒と神父たちが上陸し、乗って来たバスと真逆に、浦上街道を通って、西坂の刑場まで繋がれていった。純粋信仰と布教ならば秀吉も大目にみたろうが、既に長崎近辺じゃ神社仏閣破壊、僧侶殺害・追放、日本占領画策まで企図していたのをオランダ商人たちに吹き込まれての追放・禁教令という。狐狸庵先生の如く、切支丹=全面被害者という図式は、既に中南米でのイエズス会やキリスト教団の極悪極まりない歴史的犯罪をすら無視した上での虚妄に過ぎる。この図式って、ミレニアムの現在でも基本的に変わりない欧米先進国的覇権的連綿。尤も、その秀吉も、侵略を企んでいたのは、朝鮮半島だけじゃないようだ。権力主義者って、どいつも、こいつもって訳だ。)

 

2025年6月28日 (土)

シーシャを嗜むペルシャ娘 旅先のカード

 Irani

 

 いつ何処で買ったものか、いわゆるグリーティング・カードの類で、イランでも新年や誕生日を祝するカードは流布している。
 現在はどうなっているのか、前世紀( 自身がそこに居たというリアルな刻印・・・自分で書いて思わず唸ってしまう )90年代あたりは、イラン国内でのポップス等は演奏もカセット等で聴くことも禁止されてて、宗教的な弦楽歌曲だけはテレビでも流れていた。イラン的なのかシーア派的なのか、深刻悲壮な表情で男性歌手がオーケストラをバックに熱唱してたものだ。それでも、歌詞がないからか、日本の喜太郎のシンセサイダーのカセットだけは、堂々と路上でも売られていて、喜太郎はイランでも人気があったようだ。
 まだイラン・イラク戦争の記憶も生々しい時節だったのもあって、些かの緊張は否めなかったテヘランの街角で、CIAの大きな文字をあしらったTシャツを着た青年を見つけ、思わず拍子抜けしまったのをまだ覚えている。

 

 

 この新年を祝うカード、アラベスク文様の枠の中に、水煙管( シーシャ )嗜む彩色された単座する美麗なペルシャ娘。
 シーシャは大抵、中東~インド世界じゃ、もっぱら髭面の男達の嗜好品で、女性、それも裏若い娘のは珍しい。その希珍さに買ったんだろう。
 水煙草の流布は近世に入ってからという。
 インドやペルシャがその発祥起源といわれるが、決定的なものじゃないようだ。
 昨今は、“ 女性進出 ”とやらで、女性の嗜好者も増え、香りを楽しむため、煙草葉に花や果物の香りつけの材料を混ぜて使ったりするようになったとのこと。
 水の中を潜らせてるので健康には悪くない、というフレーズは頻く聞かされた。ところが、やっぱり、どう転んでもタバコ同様人体に悪くない理由はないようで、おまけに、シーシャの場合、長々と喫うのが一般的らしく、いよいよ有害という。
 それでも世界的にシーシャはエクゾチックでリッチな嗜好品として徐々に拡がり続けている。

 

 

 背後のページに、H.Kashaniとある。
 カシャ二、如何にもペルシャ風の名だ。
 でも、この美人娘でも、この肖像画を描いた画家の名でもないようで、出版社名のようだ。ネット捜したら、同じような形式の絵のペルシャ詩人オマル・ハイヤームの『 ルバイヤート 』を出版していた。
 最初、カシャーニの響きが、この娘の風貌と相俟って彼女の名前かと決めつけていたのだけど・・・考えたら、H.Kashani・・・苗字の方だった。
 
 それにしても、エキゾチックなオリエンタリズム的一品で、これで紙質とプリント技術がもう少し良ければ文句ないのだが。尤も、数十年前のものなので、昨今じゃ、もっと魅力的なものになっているかも知れない。

 

2025年6月12日 (木)

企救郡一揆的残照 浄明寺河原刑場跡 

124jun25    

 
 明治二年十一月、長州維新軍占領支配の旧小倉藩( 小笠原藩 )企救郡及び周辺地域で農民一揆が勃発、維新軍本拠地・小倉本陣目指し、途中の庄屋・役人の邸を焼き払い打ち壊しながら筵旗を立て進撃し続けた。
 俗に、企救郡農民一揆という。
 
 うち続く不作と長州藩と小倉藩( 幕府合同軍 )の戦いによる荒廃のところに、更に、進駐しいつまでも居座り続ける維新軍が既存の庄屋たちと共謀した不正が蔓延。
 とうとう、原口九右衛門等を中心に、近郷近在の農民が蜂起し、殺生放棄の方針堅持で、いよいよ、長州維新軍本陣のある小倉藩および町民たちが自焼し廃墟と化した小倉城下を包囲し目前にした際、駆けつけた銃・砲を装備した長州維新軍の代表として、長州藩士・大石雄太郎、その後は撫民局( 民生取捌所 )が、「 その罪を問わず」を言質に一揆農民側の言分=訴状を山口表に届ける旨約し、取敢えずその場は一揆農民側は引下がることにした。
 が、後日、原口九右衛門等代表者たちに出頭が命じられ、そのまま拘束されてしまった。

104jun25

 ( 駅前にもかかわらず人影が殆ど見られない。)

 

 維新揺籃の時節、原口九右衛門等の身柄もめまぐるしく変転し、企救群は日田県の管轄( 明治四年の『 廃藩置県 』以前に、既に明治二年頃から各地で同様な県に編入・再編された地域少なくない )となり、正月に身柄は日田・豆田の牢に移され、長々と幽閉され続けた。
 が、その年の暮れ近く、日田・大分でも日田竹槍農民一揆が勃発、藩兵農兵たちと熾烈な戦闘を繰り広げ、商家等が軒を連ねる豆田の町も、放火・略奪の憂き目に遭い、豆田牢も襲われ火を放たれることに。その際、囚人たちも解放された。 原口九右衛門たちは一旦はそのまま脱走したものの、これでは筋が通らぬと思い直し、途中の大庄屋宅に身を寄せた。一端、香春の牢に移り、更に小倉から再び日田に戻されることとなった。
 明治四年三月、一人主魁・原口九右衛門、日田の河原にて絞首刑に処される。
 他の者は有期刑。
 「 罪は問わず」のはずが、何とも空々しいばかりの、維新(政府)的言質ではあった。この不正・背信構造は、そのまま明治維新権力的展開( 内外 )の祖型となった、といえば言い過ぎだろうか。

94jun25

 ( 駅前にも一軒あったが、もはやレトロなレコード屋。件の浄明寺河原に赴く格好のランドマーク。この前の通りをずっと右折してゆく。)

 

 この時期明治初頭、全国的に一揆・暴動が繰り広げられていて、脱走奇兵隊員や尊攘派の長州脱藩浪士・大楽源太郎の影に、当時の維新政府がかなりナーヴァスになっていたという。後、大楽は、かつて奈良の鍵屋辻で大和絵師・冷泉為恭を自身がそうした如く、同志のはずの久留米藩士たちに騙され誘き出されて斬首されてしまったけれど。

14jun25

 ( 緑の看板のある「ア・ビアント・ポム」の裏側に刑場跡が覗けてる。右側の川は中野川。かつては此の辺りは河原だったのだろうか。現在は、この中野川が庄手川に注ぎも一つ向うの本流・三隅川に合流している。駅から来ると、この小橋はもっと先ってことになる。つまり反対側からのショット。 )

 

 前々から、一度、原口九右衛門が絞首に処された浄明寺河原の刑場をこの眼で確かめておきたいと思ってたのが、直はなく、2コースとも乗り換えの迂回路、中々に面倒で、往復だけで8時間はかかってしまう。
 が、まだ暑熱季には時間のある今しかないと、ふんぎりをつけ、ようやく念願(?)の大分の内陸、日田に赴いた。
 当日は、朝から薄曇り、それでも次第に陽が射してきて、ウィンド・ブレーカーを脱いでTシャツ一枚。何しろ、日田は、最高温度でも全国的に有名な盆地の街。バスから降りた途端湿気に汗が滲んでくるという。その日は、湿度は高くなく、強い風・・・ここじゃ涼風・・・もあって比較的過ごし易かった。
 天気予報じゃ二日後は猛暑とあったので、あえてこの日を選んで正解だった。湿度の高い猛暑の中をほっつき歩き続けると熱中症うけあい。

24jun25

 ( 思ったよりも小さな一角。件の磔刑の礎石は右のブロック塀の手前。正面の隣家との境の朽ちた板塀の左側に、地蔵堂への入口がある。)

 

 JR日田駅の北側は有名な江戸時代の建物が残った観光地・豆田。
 土蔵造りの商家がかなり立ち並ぶそれは確かに一見の価値ありで、東アジアの観光客が多く、半分以上は彼等で、親子連れも少なくなかった。
 豆田の牢跡は、この豆田の長福寺の並びの反対側に企業の資材置場となっているらしいけど、訪れなかった。牢の方には余り興味がなかったからだ。
 主眼はあくまで、浄明寺河原刑場。
 浄明寺河原があるのは、逆の駅の南側。
 こちら側が、日田駅の表口。
 閑散とした駅前に、アニメのキャラクターと思しき像が立ってたりするが、若い韓国人カップルが写真を撮っているぐらいで、豆田とはうってかわっての観光地的には閑々散々と静まりかえっていた。
 こちら側は、もっと後代の大正・昭和の佇まい。
 両方とも、それなりの規模があるので見栄えも違う。門司港なんかがとっくに廃棄した本当に旧い街並み・佇まいがしっかり残っていて、勿論自民党=小泉・安倍の薩長同盟支配の賜物たる空家・廃墟も点々と時代相を刻し無惨にさらばえていた。

34jun25

 ( 上の写真と真逆な奥側からのショット。枝葉の下にある矩形の二段石が磔刑礎石。どんな因縁の墓石なのか皆目定かじゃない。ここで刑死した人たちがそのまま埋められ供養されたものってのが常識的判断のはずだけど・・・)

 

 日田駅前の広い道路を真っすぐ南下すると、広めの日田街道と交差する。その十字路の向かいの角に昔懐かしレコード屋があって、ランドマークにお誂え向きの白塗り二階建て『 コトブキ・レコード 』とあった。その十字路を右に曲がり、そのまま何処でもある郊外風の景観の日田街道を一キロ程歩いた先に、右にケンタッキーがあり、その反対側、『 青山 』の脇を通る道路に入る。
 そこを進んだ先の川沿いの道路を右折して暫く行くと、一軒ポツンと佇む洋菓子屋『 ア・ビアント・ポム 』が見え、その店の脇の細路に入った裏側に、墓石群が林立した狭い一角が覗ける。背後に小屋風の祠がありその裏側に、件の小さな墓石群があった。
 墓石群?
 刑場のはずが、なぜか丈の低い刻印も長年の雨風に不明瞭な墓石が蝟集していた。日田の湿気と昨今のトロピカルな灼熱に晒され続けてきた割にゃ朽ち果てることもなく、かろうじて“ 安政 ”の文字が判読できる墓石もあった。
 背後の隣家との境の朽ちた板塀と、右隣の駐車場との間の低いブロック塀に囲まれた猫の額ほどの一角。
 そのブロック塀にくっ付くように大きな四角い石材を二段に積み上げた礎石のようなものの上に、塀との隙間から鬱蒼と伸びた枝葉が覆いかぶらんばかり。

 

 これだった。

 

 この四角い礎石の真中に、丸い穴が穿ってある。
 その穴に、磔や絞首に使う支柱を差し込んで咎人を縛り付ける等して執行したのだろう。
 徳川幕府以来、明治の初め頃まで、この河原の刑場で、少なくない徳川・明治権力によって疎まれた人々が、あるいは怨恨を残し、あるいは望むところと静然と屠られていった。原口九右衛門は、長州・明治政府の背信に疑義を抱きつつも、覚悟の一念の帰結として悠然と死に赴いた、正に後者。
 ここ刑場じゃ、もっと以前、江戸時代・延享三年(1746年)に、馬原の庄屋・穴井六郎右衛門等三人が獄門磔に処せられ、原口九右衛門たちを一揆暴動で解放した日田竹槍農民一揆の主魁・求来里(くくり)喜平等五人も、獄門の刑に処されている。

44jun25

 ( さすが人一人の体重を支えるだけのボリュームがありそうな礎石で、真ん中の穴に支柱の杭を差し込むらしい。久右衛門さんたちもこの礎石の段を昇ったのだろう。動乱の時節には多くの義民たちが屠られ、さぞかし無数の嗚咽と怨念と血をこの礎石は刻刻印し吸い尽くしてきたに違いない。)

 


 遠所で刑死した者の屍体をこの地に仮埋めし、後、関係者が掘り起こして持って帰るってこともあったようで、刑場といえど、さまざまな曰く因縁の帰趨としての墓石群なんだろう。かつてはいざ知らず、狭い道路と駐車場の脇にポツンと佇んだ刑場墓地は、以前は土か砂利であったろう地面はコンクリートで薄く覆われ、鬱々というよりむしろ淡然とした趣き。

84jun25

 ( 菓子屋の前の澱んだ中野川。大きな錦鯉が一匹悠然と泳いでいた。日田の街はともかく川や水路が縦横に走っていて、それだけでも心憩まる。)

 

 この刑場墓地の傍に佇む簡素な祠は、馬原地蔵堂と呼ばれてるらしく、延享三年、馬原の庄屋・穴井六郎右衛門等三人が、代官・岡田庄太夫の苛政に呻吟し農民の窮状を江戸幕府に越訴(=直訴)し、帰国後、同代官に捕らえられ、この刑場で獄門の刑に処された由縁なのかどうか定かじゃない。
 隣の駐車場の向こうの広い空地はマンションの基礎工事がようやく始まったばかりのようで、来年には完成しているのだろう。
 浄明寺刑場跡のすぐ向う、洋菓子屋『 ア・ビアント・ポム 』と同じ並びの道路に沿った狭い川( 中野川 )のちょっと先に、もっと大きな川( 庄手川 )に注ぎ落ちる青塗りされた水門があった。『 浄明寺水門 』と記されていて、庄手川あたりから河原らしい景観になっている。もうちょっと先で、本流というべき三隈川に合流。
 ともかく、日田の街は、南北とも、川や水路が縦横に走っていて、正に水郷。
 地蔵堂の長椅子の端に坐し、面前の朽ちかけた板塀を眺めていると、一陣の涼やかな風が疲れた面持ちの横顔をやさしく撫でいった。

64jun25

 ( 左の中野川から、この水門を通って、下の庄手川に流れ落ちる。コンクリの壁面に、「浄明寺水門」と記されている。)

 

74jun25114jun25

 ( 浄明寺河原とは反対方向の庄手川。向こうに本流・三隅川が流れている。右の茂みは亀山公園。ここら辺は広々として爽快。)

 

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上海の弁護士・公認会計士・税理士