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2017年5月20日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち

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 かれこれ来年の5月14日で丁度20年になるという1998年5月14日にインドネシアの首都ジャカルタで発生し、インドネシア中を席巻した“ジャカルタ暴動”。
 主にそのターゲットに中国系の人々および商店・企業を狙い撃ちし、千人以上の死者まで出し、それも普通余り例を見ない小さな少女や老婆までレイプし殺害した暴動だったけど、悪名高いスハルト軍政権力とその眷属輩が背後で糸を引いていたってことのようだ。( 後、インドネシア全土に拡がるにつれて、宗教戦争の様相を呈しはじめた。)
 

 そんな禍々しい事件の余韻も醒めやらぬ7月、バンコク・ドンムアン国際空港から、40分遅れのガルーダ航空B747-400に乗り、両側にコバルト・ブルーに映えた海が拡がるングラ・ライ(デンパサール)国際空港に降り立った。
 インドネシア=イスラムと相違して、唯一例外的に殆どがヒンドゥー教徒の島・バリ故にか、そんな痕跡も燻(くすぶ)りも見えなかった。只、バンコクのパッカーたちに定番の如く聞かされた“若い日本人娘”で溢れかえっているはずの、クタはまだしも、芸能村ウブドの通りという通りは、閑散として静かにプリメリアと椰子の葉が風にそよいでいるばかり。店の前に屯している、本来は日本や欧米の若い娘だと先を争って駆け寄ってくるバリ・ジャン(?)たちも、こっちが冴えない風体のいわゆるバック・パッカー(=貧乏旅行者)野郎だと一瞥を呉れるだけで微動だにすることもなく、所在なさげに物憂い眼差しのまま雑談に余念がなかった。

 インドネシア・ルピアーの暴落で、それまで月10万ルピアーもあれば貯金すら出来ていたのが30万ルピアーは必要になってしまい、暴動の余波で観光客が激減し、閉める店やホテルが増えてしまって、必然的に失業の若者も増えてしまった。バリとは無関係のジャワはじめイスラム・エリアでの暴動・事件でしかないのにもかかわらずえらいとばっちり。尤も、バリでもスハルトおよびその眷属輩の評判は余り良くはなかった。( その辻褄を合わせるように、後になって、ヒンドゥーの島国バリにも、イスラム勢力がやってきてテロを起こし始めた。)
  インフレでどんどん物価が上昇し続け、ウブドで最初に観たバリ・ダンス、セマラ・ラティの“スピリッツ・オブ・バリ”が、最初チケット屋の青年から1万ルピアでチケットを買って、そのままそのチケット屋のバイクの背に乗って会場に到着すると、もう1万5千ルピアに値上がっていた。(当時APAでのレート : 1$=14450ルピア/現在 : 1$=13335ルピア)
 最初安いと思っていた郵便料金なんて、例えば葉書(エアメール)の送料が1000ルピアだったのが、ほんの一ヶ月の間に、6800ルピアに跳ね上がってしまった。こりゃ地元住民たちもたまったものじゃないだろう。

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 ( グンタ・ブアナ・サリは踊手もガムラン器楽奏者も皆若かった。チョンドンの衣裳を纏い微笑んでいる娘こそまだ幼い頃のユリアティ )
 

 これは今でも変わらないようだけど、木曜はセマラ・ラティ、金曜はティルタ・サリ、土曜はグヌン・サリそして月曜はウブド・パレスのサダ・ブダヤがバリ・ダンスを上演。
 当方の本命は、グヌン・サリ。
 土曜7時半開演。
 次から次へと畳みかけてくるように息もつかせぬ演奏と舞に惹き込まれ、終わった頃にはぐったりと神経が疲れてしまった。
 何よりも、レゴンクラトン(ラッサム)のチョンドン(侍女と鳥の二役)のユリアティ Gusti Ayu Sri Yuliathi が白眉。
 当時まだ14歳で、2歳違いの妹ビダニーもティルタ・サリで同じくチョンドンを演っていた。
 二人は舞台で化粧した顔は判別し難いくらい似てるけど、ユリアティが丸顔、ビダニーが瓜実顔なのでそれで判断できる。
 当時、制服姿の下校中の二人と間近で遭遇した時、素ッピンの二人の相貌は、正にその定形通りだった。小麦粉色の、エキゾチックな魅力的な顔立ちだけど、やっぱし、も一人一緒に並んで居た同級生と変わらぬ普通の中学生でもあった。この二人、当時日本人観光客の間でかなり人気があったようで、APA(ウブドの観光情報センター)じゃ彼女たちのプロマイドを売っていたぐらい。


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 当時、チケットは大体1万5千ルピア=約1ドル。
 現在はゼロが一つ増えて10万~7万5千ルピア、約7ドルぐらいってことは、当時と較べて7倍近く値上がったということか。昨今のバリの景気は必ずしも悪いわけじゃないようで、大手ホテルが次々と進出しているらしい。けど、それらがそのまま一般庶民にまで還元されるかといえば、日本(とくに地方)すら中々にそうはなってはいないのと同様ほど遠いのだろう。
 二ヶ月近くウブドに滞在した後半頃、ユリアティはチョンドンを卒業し、以前ウブド・パレスの公開練習で見かけた一人だけクソ真面目に稽古に余念のなかった十歳にも満たないのじゃないかと思われる小さな少女がその跡釜に坐った。
 グンタ・ブアナ・サリという少女・少年たち(日本語のチラシによると、10~17歳)のガムラン演奏と舞のグループの公演でも、ペンディット( 歓迎の舞 )にユリアティが出演し一人存在感を顕わにしてたり、妹のビダニーがチョンドンを舞っていたりしていた。尤も、このグンタ・ブアナ・サリ、現在じゃ、当時の若いメンバーも年を喰っていい歳になり演奏に円熟味も出てきてるらしい。


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 あれは忘れもしない8月1日。
 角にあるダラム・プリ寺院で、殆ど燃え尽きよう(=村落的祭祀)としている大きな張子の黒牛や他の牛の姿を横目に歩いていると、ふと見覚えのあるバケツを手にしたミドル・ティーンの美形の娘と出喰わせ娘の方からニッコリと笑い話しかけてきた。
 いつもプリアタンの公演会場でバケツに入れたドリンク類を売っている顔なじみの娘で、何しろ美人なので一応買うつもりで打診するのだけど、いっかな法外な言値を崩すことないので大抵一緒にいる小さな暴ることをまだ知らない小娘から買うことになったのだけど、祭があると公演は行われないことがあるらしいので、「 今夜グヌン・サリの公演はあるのか」、彼女に尋ねてみると、「ある!」と答えた。公演会場でいつも彼女と連れ立っている別の娘がユリアティの同級生だった。

 その夜、グヌン・サリの公演を観た。
 が、噂には聞いていたユリアティがチョンドンから卒業するかも知れないって事態が本当に起こってしまった。レゴン・クラトンの長い前奏の後、前門から姿を現したのは、見も知らぬチョンドン役の女・・・
 一瞬、両の眼が点になってしまった。
 ・・・・・ おばさん?!
 それも、絵に描いたような中年体形の・・・・
 それがバタバタと、ユリアティやビダニーの如く可憐な蝶が舞うように華麗に舞うのじゃなく、正にバタバタと。
 悪い夢でも見せられている様だった。
 と、暫くして、その背後から、シナリオ通り、緑の衣装に細っそりした身を包んだラッサムとランケサリ役の二人の娘が現れた。
 あっ!、当方、思わず声を洩らした。
 ・・・ ユリアティ。
 衣装の色こそ違え、正にあのユリアティだった。
 救われた思いだったものの、やはり、チョンドンにおばさんは・・・
 そして、その前夜、妹のビダニーがティルタ・サリでチョンドンを舞い、以降定位置となった。

 
 この数年、ユリアティは銀行に勤めながら、グヌン・サリだけじゃなくティルタ・サリでも、レゴン・クラトンを舞っているという話をネットで見たけど、一方のビダニーは、何年か前、ユリアティと同様結婚してしまい、小児科医として医業に専念することとなって舞台からは遠ざかっているという。

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2017年5月 5日 (金)

《 長州・奇兵隊墓碑 関門相克史 補遺 》

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 ( JR線路沿いの国道三号線から赤坂一丁目東の信号を折れ少し行くと、左手鳥越・手向山方面奥に黄色のマンション「プレジデント赤坂」が見え、その脇の細い階段を昇ってゆく。)

 幕末・慶応二年(1866年)7月27日、長州軍は、6月17日の田野浦・大久保上陸以来、三度目の門司(小倉藩領)上陸を企図した。今度は、一挙に大里の少し手前の小森江近辺に上陸。
 沿岸部を報国隊が、山間部を山県有朋率いる奇兵隊が快進撃を続けていたが、小倉口=弾正山がグッと海まで突き出て行く手を阻む地形の赤坂=鳥越近辺に到ると、敗走した小倉藩兵と打って変わった肥後・熊本藩の当時最新鋭のアームストロング砲と長州に勝るとも劣らぬ近代的装備で武装した藩兵の的確な猛攻に、途端、一進一退の悪戦苦戦のドロ沼に叩き落とされてしまう。


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 ( 周辺には嘗てのお屋敷が凋落していった廃墟が点々と並んでいて、これから向かうその大半が20代の若者であった長州奇兵隊士の墓のイメージと微妙に融け合った荒廃と悲哀の雰囲気が漂っている)

富野台の忘言亭山から一気に熊本藩軍目がけて駆け下りてきた勇猛で鳴らした山田隊(第一小隊)も、先頭の隊長・山田鵬介をはじめ次々と斃されていき、壊滅。
 結局、早朝から夕刻までの熊本藩軍との延々熾烈な死闘のあげく、さしもの高杉晋作も、ついに退却を余儀なくされてしまった。

 ところが、翌日、長州藩軍と同様、甚大な被害を出した熊本藩軍が、小倉藩というより幕府軍=総督・小笠原長行に不信・反感の念を抱いたらしく、夜闇にまぎれて撤退してしまい、更に将軍・家茂の訃報に当の総督・小笠原自らも遁走してしまって、幕府合同軍は事実上瓦解し、小倉藩を残して霧散。
 城を自焼し遠隔の地・香春への小倉藩の敗走行の顛末。 


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 ( 細い階段を登り切ると左右に道が分かれていて左側に進む。路地めいた小径を進むと狭い駐車と覚しき一角に出る。その少し上側に覗けている。よく確かめないと見逃しかねない。)

 そんな激戦の最中故に、長州軍、とりわけ山間部での自軍兵の屍体を持って帰る余裕あるはずもなく、そのまま放置されたままだったようで、さすがに、山田隊の隊長・山田鵬介の死体だけは、生き残った隊士が首だけを斬り取って持ち帰ったという。
 翌日火葬にふされそのままに放置されていた長州兵たちの死灰・遺骨を、熊本藩軍参謀格の横井小南が見かねてか、集めて《 防長戦死之塚 》を建て供養したのだけど、維新後、現在のすぐ向こうに関門海峡をはさんで間近に長州(下関・彦島)の望める丘の上に移された。


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 ( 墓地の一角。下方の国道に面したフェンス越し前方に、関門海峡を挟んで長州・彦島が望める。左側には小倉・戸畑の工場群が覗けている。)


赤坂のこの近辺って結構“お屋敷”の類も少なくはないけれど、一廻りしてみたらここもご多分に漏れず、何とも平成末=アベノミクス的凋落としか形容しようがないほどに無惨な朽態を露呈していた。一軒などは妙な崩落の異態を晒したまま。

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 やがて、明治維新になり、長州軍がこの辺りも小倉=企救郡も占領することになるのだけど、その最高責任者が、佐藤寛作。誰あろう昭和の悪名高い佐藤栄作・岸信介兄弟の数代前の先祖であり、その末孫がアベノミクスの張本人=現総理大臣・安倍晋蔵って訳だ。これはやっぱし、歴史の皮肉って謂うべきだろう。
 山田鵬介率いる第一小隊が駆け下り突撃してきた現赤坂三丁目あたりの高台は比較的最近造られた住宅街のようで、そのど真ん中にポツンと公園があって、その奥隅に、長州藩軍・熊本藩軍死闘熾烈の合戦の地として《 慶應丙寅激戦の址 》の碑が取ってつけたように佇んでいる。およそ何の趣きも感じられない雰囲気の代物だけど、この辺りに、件の横井小南の建てた《 防長戦死之塚 》があったようだ。


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 ( 四柱の墓石が奇兵隊士のもの。一番小さいのが、切り込み隊長・山田鵬介の墓碑。首のないまま荼毘にふされたのだろうが、150年の年月に風化してしまって小さな文字は判読しづらい。国道をもっと小倉方面に進むと現・延命寺があり、そこにも奇兵隊士の墓碑が立っている。)


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2017年4月24日 (月)

《 青い衣の女 》 バチカン的面目 : コンキスタドール=CIA・MI6

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  「 深い霧に入った途端、気がついたら何百キロも離れた場所に着いていた・・・」


 作者ハビエル・シエラの分身と目されるスペインの神秘主義・超常現象専門雑誌《 ミステリオス 》の記者・カルロスと相棒のカメラマン・チェマが、以前追っていた不可思議な事件――いわゆるテレポーテーション(瞬間移動)。以前観たリチャード・ギア主演の《 プロフェシー 》(2002年)での同じ光景を想い出した。気づいたら、物理的に不可能な長距離を短時間で移動していたのだ。その着いた先が、ウエストバージニア州ポイント・プレザントだった。モスマンと地元で呼ばれる不吉な異生物が絡んできて、数十人の死者を出す橋梁崩壊事件にまで話が及んだ実話を元にしたミステリアスな佳作的小品ホラー映画のプロローグだったか。
 テレポーテーションを題材にした映画って結構ある。
 だけど、現代ばかりじゃなく、随分と昔からこの手の超常現象って人口に膾炙していたようだ。
 

 前回紹介したシエラの《 失われた天使 》(2011年)は、天使の末裔が故郷たる宇宙の果へ戻ってゆく帰還譚だったけど、今回の1998年(2008年改訂版)作品《 青い衣の女 》もやはり天使の末裔が登場する。シエラ、天使と異端審問官がよほど好きなようだ。彼にとって、キリスト教・カトリック世界の正に象徴的存在なのだろう。
 今回も、彼の十八番たるいわゆる“超常現象世界”的面目躍如ってところで、テレポーテーション(瞬間移動)=バイロケーション(同時複数的併存)を媒介にして、近世のバチカン・コンキスタドール(スペイン)、現代のバチカン・CIA(米国権力)の陰謀術数世界を紡ぎ出してゆく。
 

 「 昔の人々は和声を理解し、それを厳密に音楽に応用していただけでなく、それが意識の状態をも変化させ、聖職者や古の奥義を授けられた者たちを現実世界よりも高い領域に触れさせる術も知っていた。・・・・・・古代の賢人たちは、精神の波長を適切なレベルに合わせて“あの世”からのメッセージを受け取っていた。その状態なら、魔術師や神秘家たちはいかなる過去の瞬間をもよみがえらせることができる。言い換えれば、音楽によって脳波の振動数を調整することで、知覚の中枢部分を刺激し、時間を旅することが可能になる。」


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 教会音楽などの“先多声音楽”(プレ・ポリュフォニー)に始原を持ち、バチカンで極秘裏に開発されてきた“クオンタム・アクセス”技術、その結晶としての《 クロノバイザー 》。
 ネットじゃ、《 クロノバイザー 》=“タイム・マシーン”なんて派手なキャッチ・コピーが冠されているけど、実際はどうなんだろう。本当にCIAや英国のMI6やなんかと絡んでいたとなると、随分と焦臭くなってくる。
 そもそもCIAやMI6の連中が、それに不可欠と思われる矜持なんて持ち合わせているだろうか。
 素人でもすぐ既存の様々な陰謀・事件なんかが思い浮かぶはず。
 過去や未来のあるいは進行形の、そもそも彼等の関与が疑われていた事件や都合の悪い事件を、文章を校正し修正するように、自分たちの都合の良いように、修正・改変し、歴史の歪曲=偽造が、場合によっては実に簡単にできたりもするのだから。
 もし、この種の、例えばいわゆる“マインド・コントロール兵器=電磁波兵器”(ひょっとしてまさか同じもの?)なんかを含めて、実際に存在し使われていたとすると、もうとっくに歴史の改変・偽造は為されてきていたってことになりかねない。時代はとっくに、絵に描いたように《1984》世界の真っ直中って訳だ。

 
 そんな科学の粋、その実何とも胡散臭いバチカンの影の結晶=《 クロノバイザー 》的現代と、“先多声音楽”(プレ・ポリュフォニー)から発展したその源基形態=バイロケーション(=テレポーテーション)が頻用(?)されていた遙か近世のコンキスタドール世界(=メキシコ)を、同時進行的に物語は展開してゆく。複数の登場人物・事件の同時進行も含めての、小説・映画における流行の手法であり、シエラの得意の方法でもある。( まさか、シエラ、《 クロノバイザー 》=バイロケーションという主題に合わせて、この手法を採ったのじゃあるまい。) 
 
 コンキスタドールに滅ぼされた後のアステカ(メキシコ)では、当然にキリスト教ローマ・カトリックが権勢を揮うことになり、その宗教的版図を全土に及ばさんと精力的展開していたのだけど、驚いたことに、コンキスタドール的悪辣と暴虐によるのではない、むしろ自発的改宗によってキリスト教化された地域が存在したという。
 恐らくは歴史的事実ではあるのだろうが、それを《 青い衣の聖女 》、生涯スペインから出たこともないマリア・ヘスス・デ・アグレダ( 後に、彼女以外にも何人も存在していたという展開になる )の神秘的霊力(バイロケーション)的布教によるものとして仮構したのは、歴史の間隙を縫うというよりも、如何にも風に当を得たものかも知れない。
 集団帰依=改宗っ訳だけど、実際には、バチカン認定のアステカにおけるキリスト教宣教開始年代以前に、ひょっとしてコロンブス以前のもっと旧い時代にキリスト宣教やそれに類する活動・影響が存在していた可能性も、この物語の中でもちょっと触れられているけど、例えば日本における仏教伝播などと同様十分にあり得たろう。
 そして、現在じゃ、メキシコの9割以上の人々がキリスト教徒となっている押しも押されぬキリスト教(徒)国家となってしまって、これは、この物語のシナリオ的解釈からすると、霊能力修道女たちまでも駆使したバチカン=ローマ・カトリックの周到さの勝利と謂うべきなのだろうか。

 
  《 青い衣の女 》 ハビエル・シエラ 訳=八重樫克彦・由貴子(ナチュラル・スピリット)

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2017年4月 8日 (土)

大相撲から見えてくるニッポンイズム

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 先だって、日本列島を、呆然でもなく、震撼でもなく、人によっては感涙に噎ぶほどに感動させたらしい横綱・稀勢の里と大関・照ノ富士の優勝のかかった一番。
 勿論、前日、大関復帰がかかった琴奨菊との一番で、横に体をかわし“変化”したってことで大阪府立体育会館の観客に罵倒され唾棄されたらしい(当方はその場面は観ていたなかった)照ノ富士じゃなく、前々日受けた肩か胸の負傷を押して出場した稀勢の里に対する声援と熱狂。
 
 
 本割り(普通の対戦)と優勝決定戦の両方の勝負を観た。
 で、対戦はというと、のっけから、“横綱”稀勢の里、変化した。
 と、どういう訳か、すぐ仕切り直しとなった。
 別段両者とも立ち会いに特に問題があったと思われないのだけど・・・
 そして、満を持しての再度の仕切り・・・
 と、稀勢の里、またもや変化した。
 結局、その一番は、大方の予想を裏切って、負傷した稀勢の里が嫌にすんなりと勝ってしまった。前日の、横綱・鶴竜に理の当然の如く簡単に敗けてしまった一番とまるで真逆。
 たった一日でこうも回復してしまえるのか?
 そういえば、照ノ富士、好成績をあげてきた割には、何故かこの土俵での動きが妙に覚束なかった。
 ふと、その時、その日の午前中だったかに見たネットニュースを思い出した。
 確か照の富士だと思うのだけど、朝の稽古もそこそこに足を引きずるように引きあげていったって消息。2週間近くの相撲で、元々痛めていた膝がいよいよ悪くなってきてしまったのか。
 
 
 次の優勝決定戦。
 館内は沸きに沸いていた。
 前日、稀勢の里と対戦した鶴竜が、対戦した際の稀勢の里が「当たった瞬間に力が抜けていた」と、動態の下での対戦相手の身体の状態を体感できたのと同様、照の富士の脚下の覚束なさから膝の負傷の悪化を悟ったかのような勝算のほくそ笑み=余裕すら、その時稀勢の里の表情から読み取ろうとするのは考え過ぎだろうか。
 そして、最後の仕切り立ち会い・・・
 が、本割りじゃ見せなかった稀勢の里の十八番芸、当方は“ニッポン相撲”と呼んでいるが、要するにまともに立ち会おうせず、相手の勝負に賭けた気勢(集中力だけじゃないそれ以上のもの)を削ぐ所作=手口が早速顔を出した。
 稀勢の里と栃煌山をその双頭的頂点として、同様の手口を常套する力士たちを、その殆どが何故か日本人力士ばかり(外人力士にはまず居なかったのが、もう長く“常態化”している故にか、最近は外人力士にも少しづつ増えてきている。その一人が、誰あろうこの照ノ富士だった。但し、先述した双頭的頂点たる二人の日本人力士の厚顔無恥なまでの執拗さに較べたら可愛いいもの)なので、“ニッポン力士”と命名した次第。
 普通、蹲踞(そんきょ)の姿勢から仕切りにはいるため、双方同時に一度立ち上がるのだけど、照ノ富士が立ち上がっても、稀勢の里、蹲踞の姿勢のまままんじりともしない。
 何としても、

  “優勝!”

 って、シフトなんだろう。
 照ノ富士がしゃがむのをしっかと確認してから、おもむろに横綱・稀勢の里、ゆっくりと立ち上がり、そしてしゃがむ。普通、互いに立ち上がってしゃがみ、立ち会いに向けて一切を集中するってのが定式だったはずなのだけど・・・。
 そして、立ち会い。
 照ノ富士、さっと立ち上がり踏み込んだ。
 が、稀勢の里、まるで立ち上がる気配もなく、悠然と照ノ富士を見遣るばかり。
 すかさず、行事が止めに入り、仕切り直しになってしまった。
 はやった照ノ富士が一方的に突っかけたって訳でもなかった。
 普通に考えれば、敢えて稀勢の里が、自分の不利を悟って立ち上がらなかったってところだろう。( 勿論、ニッポン相撲の“雄”故に、意図的な“かわし”の可能性も排除できない。心理戦って訳だ。)
 つまり、事実上の“横綱”稀勢の里の “待った!”。
 この辺の判定の恣意性って、大概にゃ古くから指摘されていたにもかかわらずの、ニッポン相撲協会の無能と怠慢、無責任さの典型的産物。
 普通なら、そのまま、立ち会いを続けさせられることもザラ。
 だから、その時点で、行事が止めに入らなければ、確実に照ノ富士が勝っていた。
 

 それとは別に、照ノ富士、この時、自分を見失っていたようで、あたかも自分で“つっかけた”かのようにペコリと審判員の誰かに頭を下げてしまった。( まさか、その審判員が何か土俵上の照ノ富士にインネンでもつけたのだろうか? 稀勢の里はじめニッポン力士達なんて常習なのに、彼等がそれで土俵下から審判員たちに叱責・注意受けるなんて、本当に稀でしかない。)
 そもそもが、蹲踞して見合った後、照ノ富士が、稀勢の里の動きを確かめることもなく、あっさり立ち上がったってこと自体が彼のいつものやり方を崩しているのだから。直前の本割で、簡単に敗けてしまって、後がないってことの焦りの故なのか。
 この後、稀勢の里、ようやくまともに仕切り直し、立ち会って、簡単に勝ってしまった。
 まともな立ち会いをやろうと思えばやれたって訳だけど、もうその時は、照ノ富士、焦りとリズム・集中力を毀され、こう言って良ければ、完全に稀勢の里の術中に嵌ってしまっていた。

 
 この二人の対戦で分かったことは、やっぱし、相撲って、上半身よりも下半身の負傷の方が圧倒的に致命的ということだ。だから、本当は、損傷の致命傷度は、稀勢の里なんよりも、むしろ照ノ富士の方が高かったってことだろう。


 元々、照ノ富士が膝の負傷をしていなければ、とっくに横綱になっていたのは余りにはっきりしていたし、致命的な膝の損傷だった故に、さっさと一場所でも、二場所でも休んで完治してからでも、充分に横綱になれたのも又当時の定説的評価であった。
 もし照ノ富士が横綱になっていれば、稀勢の里が横綱になる目なんて先ずあり得なかったろう。否、優勝すらあり得なかったに違いないのだから。
 ところが、現実には、常識を覆しての、照ノ富士の強行出場だった。
 周囲の猛反対にあいながら、“頑な”って言葉を粉砕するほどの“異常”行動だった。
 自分から、自分の目前数十センチ先に、もう掴まれることをばかり待っていた横綱の地位を、一体何を思ったのか( あるいは、ひょっとして、誰かがそれを求めたのか? )、遠ざけてしまったのだから。否、力士生命すら危ぶまれる暴挙だったにもかかわらず。

 これは完全に不可解なんて域を越えた、もう《 謎 》の領域だろう。

 普通にまず思い至るのが、“大相撲を舐めていた”故に、という仮説だけど、だったら、その後の一、二場所で、その不可能性を悟り、やっぱし完全休場しかないと納得する他なく正解ではない。ところが、実際には、もうそれ以上の場所数を踏んでいながら、照ノ富士は、一向にそんな理に適った挙にでることもなく、只いたずらにダラダラと愚挙を繰り返すばかり。
 この異常性には、いやでも、昨今の様々なこの国を取り巻く状況から、色んな疑念・猜疑が、果ては陰謀論の類まで頭をもたげてきてしまいかねない。
 何しろ、ニッポン相撲協会が、ともかく如何しようもないほど種々様々な悪弊・トラブルの元凶と化して久しいからだ。
 かつて柔道が国際化された頃から既に大部時間が過っているにもかかわらず、最近になってもまだ、あたかも自分たちだけには如何なる責任もない、ひたすら一切は外国の審判や・その組織にあるっていわんばかりに喧しく騒ぎ立てている国内の柔道界を見るにつけ、その徹頭徹尾の自分たちの都合と論理ばかりのお粗末な体質に、ニッポン相撲協会の底なし加減も了解できてしまう。


 “ニッポン相撲” ・・・ むろん、これは相撲評論家やファンが使っている訳じゃなく、専ら当方が、昨今のこの国の趨勢に因んで命名した概念に過ぎないけど、先述の双頭的力士たち以前から延々と続けられてきた所作で、立ち会いの仕切りは、双方が呼吸を合わせ、同時に起きあがって始まる取組を、その立ち会いの仕切りの時点であれこれ意図的な工作を弄して、相手の集中力・気勢を逸らしたり乱れさせたりする悪弊だ。
 “真の相撲ファン”達や評論家、ニッポン相撲協会の趨勢は、世間向けのゴタク(=詐術)はともかく、実質的には、これをむしろ肯定的に相撲的“駆け引き”として、
 「何が悪いんだ?」
とばかり黙認・許してきた。
 それ故に跳梁跋扈し蔓延してきたのだ。
 しかし、これって、かつて柏鵬時代の一翼を担った横綱・柏戸=鏡山親方が審判(副・長)時代に口騒(うる)さく、目に余る力士には、土俵下からでも大声で怒鳴りつけることしきりだったという有名な逸話=伝説すらあったほど。
 これももう旧い話になるけど、以前《八百長・相撲賭博》事件で角界が震撼とした頃、出所不明のビデオで世間の耳目を集めた、何処かの会場で、居並ぶ大勢の力士や親方衆に向かって、初代若乃花=二子山理事長が、大声で罵声をあげる場面。
 その時、二子山理事長がなじっていたことこそ、件の“立ち会い”問題だったという。

 「一体、お前達は、何時になったらちゃんとやれるようになるんだ!」 

 ってところだろう。
 つまり、そういう問題ということだ。
 だから、横綱・朝青龍や白鵬はじめ外人力士の方が、日本人力士たちのそんな悪弊の野放しに違和や怒りを覚えていたろう。その癖、外人力士の些細な所作やなんかじゃ大騒ぎしてみせる審判員や相撲協会(・横綱審査会)。又、白鵬たちだけじゃなく、日本人力士の中にも、そんなニッポン相撲の常習者=ニッポン力士に怒りを覚え、土俵上で対応的所作をあからさまにやって見せたりしてるのを幾度も眼にしたこともある。(尤も、満身創痍の長老格・安美錦や同じく小柄で長老格の豪風なんかが使う分には誰も文句をつける者はないだろうが。)

 問題は更に、外人力士の間にもそんな風潮が徐々に拡がりはじめているってことだ。正攻法でゆくと損という利益優先的現実主義的対応って奴だろう。 その上での、先だっての“稀勢の里=照ノ富士”戦騒ぎだった。
 正に絵に描いたような、排外主義的ニッポンイズム。
 
 別段、当方、一時期流行った“真の相撲ファン”でもなければ、所謂“通”(平成風に呼ぶとオタク)でもない普通の映像でのみ観たり観なかったりのライトなファンでしかない。
 キックもフルコンタクト空手もK-1も、所詮クリンチ・ボクシングと大差ないので観なくなり、相撲だけは一応フルコンタクト格闘技ってことで、凡戦も多いけど(否むしろ年々益々増えてきている)、それでも他にないので観続けるだろうけれど、何とも鬱々するばかりの今日この頃。

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2017年3月25日 (土)

小倉=長州・企救郡百姓一揆 ノート (4)

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 幕末・慶応二年(1866年)六月十七日早朝、長州軍(奇兵隊・報国隊)が関門海峡を越え、小倉藩・幕府合同軍が手ぐすねひく小倉藩領=田野浦・大久保に艦砲射撃とともに上陸した所謂“小倉口の戦”(“豊長戦争”あるいは“長倉戦争”とも呼ばれる)で、幾らもしない内に、幕府合同軍に逃げられ見捨てられた小倉藩、自らの城を焼き払い、内陸奥の香春まで逃走・退却を余儀なくされ、結局、小倉藩領=企救半島を長州軍に占領・支配されてしまう。
 ところが、明治二年六月に“版籍奉還”発布され、企救半島=六郷は政府直轄地となって日田県の管轄なってしまったにもかかわらず、長州軍そのまま支配者として居座り続けた。そのあげくと言うべきか、とうとうその年の十一月、その長州占領下の企救半島において、燎原の火のごとく、農民一揆が席巻するこことなった。

 《 企救農民(百姓)一揆 》と呼ばれるこの、基本無血一揆にもかかわらず、それも長州藩・維新政府側が、“その罪を問わず”と明言しての解散・収束的妥協だったにもかかわらず、新道寺の原口九右衛門・縛首、他数名禁錮刑というその後の維新政府=大日本帝国の不実・背信的本性をその最初期に於いて既に顕わにしていたってことで実に印象的な事件でもあった。


 この一揆、流布している資料・記事から大体の流れは理解できるのだけど、一揆の基本的な部分以外の、それでもそれなりに肝心な部分が意外に曖昧・朦朧としていて、踏み込もうとするればするほどその白靄が濃くなってくる。一市井のトウシロウに過ぎない当方には当然といえば当然なのだけど、それにしてもたった150年くらい前の出来事なのに資料が本当に少ない。やはり農民決起=一揆ってのは、住民の大半であったはずの当の農民達にとっても、やはり秘匿しておくべき事柄多かったってことか。しかし、時代はもう封建領主的苛政からの解放を謳っていたのじゃなかったろうか。やはりこれは、維新を謳った新権力もそれ以前と同様、基本的に下からの民衆運動ってものを厭い疎んじ続けてきたってことの証左であろう。


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 ( 小倉城下を流れ関門海峡に注ぐ紫川の向こうに佇む長尾・能行の街並)
 

 
 そもそもこの一揆に関する資料、日付が資料によって異なるという曖昧さがついて回る。
 別段、基本的な問題じゃないので気にするほどのことじゃないんだけど。
 要するに、明治も5年になってから、江戸時代から使っていた太陰暦を西洋に倣って太陽暦に変えたために生じたもので、五年も溯って明治初年からに適応したために、一層ややこしくなってしまった。明治維新の時に一緒に太陽暦に移行してればまだしも、維新以降5年もの間、幕藩体制下同様太陰暦で記述していたものを、あらためて日付を計算し直さねばならなくなってしまった。太陰暦って、閏年どころか閏月なんてものまであって、ともかくややこしい。
 つまり、一揆当時の日記・日誌は太陰暦で記述されているので、新暦・太陽暦で記述した資料・記事にあたる際には、それが変換された日付かそのままの日付なのかはっきり附言されてないのもあるので留意してないと勘違いすることになりかねない。
 因みに、明治二年十一月十九日=西暦1869年12月21日。
 あるいは、西暦1869年11月19日=明治二年十月十六日。


 問題は、日数。
 資料によってその日数に異同がある。
 こりゃ勘弁して欲しい。
 一揆衆が一揆当日の深夜、横代原( 小倉城から4、5キロ南 : 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》ではもっと手前の2、3キロ南の城野エリア )で、関門海峡沿いの幕府合同軍とりわけ肥後熊本藩精鋭軍( 肥後藩は他の幕藩と相違して、長州軍なみの近代的装備をしていた )と長州軍の血みどろの激戦が行われた赤坂に駐屯していた長州軍=干城隊を率いる大石雄太郎と対峙し、一揆衆の罪は問わず、願いの事は聞き届けるとの言質をもって、一揆衆引き上げ、一揆も収束に向かった・・・という《義民・九右衛門と企救百姓一揆》での件(くだり)は、しかし、他の資料・記事じゃ、些か様相を異にしていた。

 
 「 ・・・群衆(=一揆衆)も亦之(これ)に服従し、暴行を停止す。されど安否落着する迄は、帰村せず。一同長尾、能行、祇園町に引き揚げ、茲(ここ)に屯在する事拾余日。此の間屡々(しばしば)干城隊より隊長以下、解散宅帰りの説諭に出張す・・・服従して各自帰宅す。」 
                   
   《 企救郡誌 第二項 明治初期の騒擾 : 小倉藩政時状記 内山円治 》


 この“・・・拾余日”、つまり“十数日”。
 干城隊・隊長に説諭され言質を得、そのままその日の内に一揆を解散し自分たちの村に戻っていったのと、所詮、悪辣な役人・庄屋輩の詐術の類かもって訳で、十数日もの間、少し離れた紫川の向こうで、ちゃんとした結果・成果を手中にするまではと待機し続けたってのじゃ、随分と違う。(一説によると、踏ん張った甲斐あってか、半年近く、限定されたものであれ、企救半島の農民たちは自分たちの自由自治的な状態を享受できたらしい。)
 一日二日の相違なら何らかの行き違いに因るものだろうと了解できる範囲だけど、一万人以上の一揆衆が、城下( 実際には城は焼け落ち、周辺の城下町の多くも自焼して焼野ヶ原となっていたものの、長州藩の本陣があった。 )から十キロも離れていない場所で、十日以上もの間ずっと長州藩小倉本陣と対峙し続ける緊迫状況にあったのだから、恣意的な解釈の余地なんて入りようがないだろう。
 この間、幾度も長州藩小倉本陣=撫民局( 民生取捌所 )から役人達が解散・帰村の説得工作に訪れ、農民側と交渉を重ねてようやく、一揆側の罪を問わぬ事と、要求の善処を約して一揆衆の解散・帰村の運びとなった。


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 それにしても、一つの同じ事件の重要な局面にもかかわらず、何故にこんな差異が生じてしまったのか。
 普通、十余日間の滞在が、一日(あるいは二日)に縮まることはない。
 原著者の内山円治は、石原町の庄屋であり、この一揆やもう数年前の小倉(幕府合同軍)・長州藩の戦いをもリアル・タイムにその渦中で生きた原口ら一揆衆と同時代人でもあるのだけど、その証言あるいは関係者から聞き取ったものの記録であるはずの“十余日”の方が、最初に干城隊が巡撫に訪れた時のその日の内=当日に一揆解散・帰村説よりも理には適っている。


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 当日、一揆衆が陣取っていた横代原あるいは城野方面(《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》)から引き揚げたのを、一揆そのものの解散、撤退と勘違いしたのだとすると、当然それは農民側の情報じゃなく、ありえるとするならば庄屋たちの皮相な瞥見的情報というところだろうか。
 実際には、紫川を渡った対岸に一揆衆一万余が様子見のために移動したに過ぎない。
 とは言え、内山翁は、長州・小倉藩(幕府合同軍)の戦いを綴った《 小倉戦史 》の編纂にも携わった人物なので、彼の明記した“拾余日”を、“当日”説の著者たちが知らない訳もなく( 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》じゃ引用までしているけれど、“拾余日”の箇所には触れてない )、とすれば、単純に誤報あるいは皮相な情報に惑わされたというより、もっと意図的なものと考えられる。
 そこで問題になるのが、長州側に求められ差し出した一揆衆の代表者の一人、原口九右衛門の認めた“訴状”、その最後に九右衛門の署名とともに記された日付。

 “明治二年巳(みのとし)十一月二十日”

 当時はまだ太陰暦だったので、その年の干支(巳)が付けられている。
 この“訴状”の日付、二十日は、《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》だと、蜂起したのが11月18日、干城隊・大石に説得され言質を得て解散・帰村したのが19日(但し、門司エリアじゃ21日までもめつづけた、と《 豊田日記 》に記されているらしく、門司エリアだけは留保されている。)ってことで、一揆衆がそれぞれの村に辿り着いた翌日の作成という運びとなる。
 つまり、内山翁の明記した“十余日”だと齟齬・矛盾をきたすという懸念から、“訴状”の“十一月二十日”の字義通りに時間軸を設定したってところだろう。情報・資料の僅少さからの不明瞭さと不安が、そのハショリを生じさせ、一見すっきり論理的整合性を保っているように見える体裁を採とろうとしたのは了解できなくもない。その整合化としての、

 「 一日おいての二十日の日、新道寺の九右衛門・治平、石原町の新蔵、長野村の清右衛門、高野村の清蔵、曽根村の荘次郎の六名に、長州藩小倉本陣への出頭命令が出ました。」
   《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》
 
 って記述だろう。
 そして続けて、
 「 ・・・その日のうちに、村人たちの気持ちと、一揆に及んだ事情をからめた訴状を、・・・長州藩本陣に提出しました。」

 その訴状の末尾に、先にあげた日付が記されいるって訳だけど、因みに《 明治初年 百姓一揆 》じゃ末尾に、「宣敷御聞執り成被下度奉願上候」の後、

 「 十一月廿三日」

 と記されている。この20日と23日との2日の差は、どうも太陰暦と太陽暦的齟齬のようで、本質的な問題ではない。
 それはともあれ、この説でいくと、長州藩小倉本陣からの出頭命令→訴状作成→出頭→訴状提出って流れになる。けれど、この訴状って、必ずしも出頭時に認められたって訳じゃない。
 先述の内山翁の記にはこうある。


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 ( 人影も殆どないひっそりとした長尾・祇園神社の境内の幕末に建てられた石鳥居。一揆衆、ここにも参集したという。 )

 「 ・・・其(その)後各村人民より出訴したる書面に基き、庄屋の不正行為を事実なりと認むるものは、庄屋を召連れ、官史其村に出張し、庄屋と人民の口頭弁論、又は対話を為さしむる事屡々有るも、其間人民より巨魁(首謀者)として拘束せらるゝ者無く、動揺(一揆)後既に四五ヶ月間経過したる翌明治三年三月、企救郡は日田県管轄となり、同県に引渡り前、俄然新道寺村原口九右衛門、池田治平、大村新蔵三名を召喚拘留し、事務引譲りと同時に、身分は日田県に引渡し、小倉監獄に留置す。其後林権少属(明治初期の太政官制の官位。低級。)係りにて、取調の結果、日田に於て、原口九右衛門は絞罪、池田治平は懲役十年、大村新蔵は同五年に処分となり・・・」

 紫川の向う岸側の長尾、能行、祇園町に待機した十余日後、それぞれの村に戻ってから、何時提出されたかつまびらかじゃないけれど、一揆側各村で提出した訴状を元に長州側が対応したって運び。その訴状提出の期日を明記してないものの、原口九右衛門名の訴状はあくまで新道寺村の代表としてのもので、実際は各村・各地域でそれぞれの代表者が出したようだ。恐らく、紫川対岸で待機していた二十日に原口のは認(したた)められたのだろう。
 勿論、絶対的確証=証拠がある訳じゃない。
 もし存在したなら、こんな日数的齟齬なんて起こりようもなかったろう。
 あくまで、内山翁の記述のリアルな説得性故にそう断じたに過ぎない。
 そして、前述した通り、帰村の後、


 「 一揆蜂起と同時に、庄屋は悉く村を脱走したるを以て、此際用便の為、暫役と名称を下し、庄屋事務取扱人の民選を命じ、人民の選挙したる人物を採用す。」


 この頃、長州藩自身でも、奇兵隊はじめ諸隊の武力紛争や農民一揆が各地で頻発し、その対応に四苦八苦していて、他領でこれ以上のもめ事を増やしたくなかったのもあっての結果的産物としての束の間の人民統治ってところだろうか。
 残念ながら、その詳細は明らかではない。

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2017年3月 4日 (土)

関門相克史・後日譚 《 門司港の英国領事館 》

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 以前、このブログの《 関門相克史(新・源平合戦)》で、門司(小倉藩)=下関(長州藩)の狭い関門海峡を挟んでの角逐、その一つとして英国領事館設立に触れたことがあった。
 その明治中葉に下関側設置で決着がついたはずの英国領事館勧誘事件、最近、地元の小さな書店で買った復刻版《 日本國門司港湾案内 》を眺めている内、ふと《 英国領事館 》の表示があるのに気づき驚いた。
 まさか石コロを投げれば届きそうな狭い関門海峡を挟んで、門司=下関両方に《 英国領事館 》が建てられたのかと、思わず自分の眼を疑ってしまった。場所は、山側に近い、現在もある《 門司倶楽部 》の下方。ご叮嚀にも、英国国旗の絵まで記してあるではないか。この《 門司倶楽部 》って、明治36年に、レトロ門司港を象徴するように炭鉱関係や地元の銀行なんかの幹部達の社交場として建てられ、戦後中国料理レストランとなって現在に至ったものらしい。
 
 
 この地図、作成年度が不詳で、添付のパンフレットによると、推定明治40年前後という。有難いことに、件の《 英国領事館 》の項目もあった。
 実は、《 英国領事館 》設置が下関側に決定した後、未練がましくも門司側、尚も英国に領事館設置を具申し続けたのだった。
 そもそもが当時駐日英国公使=アーネスト・サトウが、関門エリアに領事館設置を企画したのが発端らしく、既に時代の流れ的には新興著しかった門司港側が適切だったに違いないのだけど、何しろ維新の軍功めでたい雄藩・長州ってことで、下関側に傾いたのだろう。まさか、下関側が英国に具申した、「 門司の住民の半ばは石炭積込みの労働者及び日本における最下級に属する人物なり・・・」ってところじゃないだろうが。
 

 で、その相克的執拗さで、門司側にも、《 英国領事館 》設置をもたらしたのかと思ったら、そのパンフレットには、“領事館”の明示を、“出張所”と訂(ただ)してあった。
 地図に明示された《 英国領事館 》の何処にも“出張所”の但し書きはない。「対抗意識」と、パンフレット作者は推論してたけど、果たして相克なら正にその通りに違いない。
 下関側設置決定が明治34年(1901年)、建設が5年後の明治39年。
 門司側“出張所”設置は明治36年。
 尤も、パンフレットには「設置が実現した」としか記述されてなく、それが建設をも意味しているのか曖昧なまま。


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 ところが、《 硯海鼠璞 》(けんかいそはく)なるブログには、昭和初期の門司港地図に触れながら、件の明治40年頃の地図に明示されていた《 英国領事館 》を“出張所”と訂し、「明治36年4月1日開庁式」、「船舶事務」を主に取り扱っていたと附言し、その上で、「場所が違う」と明記してあった。
 えっ? 
庁舎の看板を誇大明示した上に、場所も違う?
 時代的社会的ラッシュとはそんなものなのだろう。
 

 が、同じそのブログ確かめてみたら、ことはそれだけで終わっていなかった。
 第二次世界大戦突入で《 英国領事館 》自体が閉鎖され、米軍による猛爆撃で壊滅的打撃を受けた門司港、戦後もまだ地雷処理に明け暮れしている昭和27年に、急に明治の 《 英国領事館 》争奪戦を思い出したかのように、早速英国にまたぞろ領事館設置を具申したという。結果は不詳だけど、そのまだ残存機雷が浮遊していたらしい関門海峡を挟んだ門司・下関両側のどちらかに《 英国領事館 》なるものがあったという話、寡聞にして聞いたことがない。
 尤も、明治の関門《 英国領事館 》に深く関わってきたらしい、長崎グラバー商会系のホームリンガー商会の現在も門司港にある戦後建てられた建物、あるブログじゃ、そこが戦後のだろう英国領事館の建物と記述しているのだけど・・・


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2017年2月18日 (土)

中国武侠映画的覚書

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 以前、図書館の払い下げコーナーで、中国武侠映画の雄=キン・フー(胡金銓)監督の《 侠女 》の女主人公の絵の横に“ キン・フーからツイ・ハークまで 武侠片は死んだのか? ”という月並みだけどちょっと気になる見出しに釣られて遂い貰ってしまった中国雑誌《 三聯・生活周刊 》(2012年1月)を久し振りに取り出してみた。
 この雑誌は、ルーツは戦前まで溯る総合雑誌のようで、恐らく前年末の12月に中国全土で封切りになったばかりのツイ・ハーク(徐克)監督・ジェット・リー主演の3D武侠(古装)映画《 龍門飛甲 》(邦題:ドラゴンゲート空飛ぶ剣と幻の秘宝)に合わせた企画なのだろう。筆者はワン・カイとなっていて、この記事の後に続けて《 武侠映画の二つの世界 》(武侠電影的両個世界)をキン・フーとツイ・ハークを中心に展開した一文も掲載している。
 《 龍門飛甲 》は以前に紹介したことがあるがツイ・ハークとジェット・リーのコンビってこともあってキン・フー、ツイ・ハークの師弟二代にわたる《龍門客桟》シリーズの新たな3D巨片化って趣きで、正に面目躍如、結構面白く観させてもらった。


 ワン・カイによると、60、70年代に始まった中国武侠映画の新しい波の中心に立って活躍してきた監督・張徹が当時を振り返って、やはり第一人者はキン・フー、二位が彼張徹自身、三位は楚原とランキングをしたらしい。キン・フー以外の二者については未知だけど、ネットで調べたら結構活躍していたようだ。
 でも、当時、第一人者の、あの黒澤明ですらが一目置いていたキン・フーでさえも、後にカンヌ映画祭で受賞した《 侠女 》の撮影終了の後、映画会社がそれまでも会社の意向を無視して中々コンスタントに映画を作ろうとせず、制作費ばかりそれも多額の浪費を決め込むキン・フーに愛想を尽かしてか、カンヌでの受賞をすら怪しみ、もはや彼の好き勝手にはさせなくなっていて、結局キン・フー、カンヌ映画祭には、借金して渡航費を作って赴いた挙句での受賞だったらしい。

 そもそもキン・フーって、作家・老舎と明史の研究、世界中の図書館巡りが趣味で、仲間との酒宴も併せて、一端映画撮影に入ってしまうと断念せざるを得ないのが堪えられなくて、中々映画を撮ろうとしなかったという。何か人生をえらく損するような強迫観念に囚われるのだろう。それはしかし、映画会社にとっては、国際的に有名ではあっても、金と時間ばかり喰う寡作監督って、実に厄介な存在なのだろう。
 《 侠女 》の撮影には九ヶ月の時間と一万人以上の人員動因、広大な古い建物群のセット、更にその上、明史に詳しいぶん時代考証に拘り、当時の衣裳になんかにも素材から拘ったりで予算もどんどんかさんでいったらしい。そんな彼の行き方故に、しまいには彼の映画に出資してくれる企業を捜すのも大変になっていたのも意に介すことなく、己がスタイルを変えることもなく、人物や寺廟等をあたかも一幅の山水画の如く描こうとして湯水のように予算を使いまくり、確かに芸術性は高かろうが観客との間の乖離は拡がるばかり。やっとついてくれた出資者たちをも煩わせ不快にすることしきりだったようだ。これは頻くある作家(性)と採算(性)の問題で、洋の東西を問わない。


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 以下、要約すると、米国帰りのツイ・ハークと一緒に《 笑傲江湖 》(1990年)を制作した際も、相も変わらず完全主義的な作品本位主義的志向に走り、香港の映画会社との契約期間をとっくに過ぎても衣裳なんかに拘りまくったりで埒があかず、とうとうツイ・ハークが交替し、彼の兄弟たちとあっちこっちから金をかき集めて予算を作り、一月で完成させてしまった。
 尤も、そのツイ・ハークもキン・フーに負けず劣らずの浪費家で、《 新蜀山剣侠 》じゃ、仙女たちが飛翔するシーンのワイヤー・ワーク撮影のために、わざわざ香港の武術監督を呼び集めたりしたようだ。彼の作風は、キン・フーのリアリズムと真逆な、けれん味たっぷりな奇想天外な空想的リアリズムといったところ。
 ツイ・ハークの初期の頃は、西洋科学と幻想映画の結合を企図していたものの、次第に西洋的なものとの結合に違和感を覚えるようになったのか、東洋的な方途に傾き始め、ジェット・リー主演《 黄飛鴻 》シリーズでは一昔前の中国の勇壮なシーンを作ってみせた。
 ワン・カイは、その背景に、ツイ・ハークの西方文化に対抗しようとする観念・思想を指摘する。勿論、例えば、彼の(2012年当時の)最新作《 竜門飛鴻 》じゃ、新しい映像(世界)を創出するために、最新のテクノロジーを用いたりもしている。


 中国の武侠映画の本質は、復讐の快感=怒りのカタルシスだという説もあるけど、確かに最近のブルース・リーの師匠ってことで有名な詠春拳達人=葉問《イップ・マン》シリーズなんかそのいい例だろう。最後には、イップ・マンが理不尽な外人をやっつけるって寸法だ。しかしこれじゃ何としてもレベルが低く、“侠”とは言い難い。
 武侠映画の歴史において、真正の英雄として人物造形されたものは数が知れていて、秀作を多く作ってきたキン・フーでさえ例外ではない。彼の人物造形した高僧も人心を感化できたとは言えず、安易な御都合主義のレッテルを貼られても致し方ないだろう。


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 最後に、
 「一つの映画には一つの武侠の夢がある」
 これが宣伝のための単なるキャッチ・コピーであったとしても、あるいは真実の核心をついたものであったとしても、ともあれ、中国独自のこの武侠片というジャンルは、これからも生き延びてゆくのだろう、と期待を込めて結んでいる。

 この最後の言葉の前に、米国・ハリウッド映画が70年代の武侠映画を分析研究して作られた、名前は知っているものの未見のアニメ映画《カンフー・パンダ》の世界的成功に触れた後、では中国武侠映画の方はといえば、粗製濫造の旧態依然、すっかり行き詰まって前方にあるのは隘路ばかりって危機感を吐露してはいるのだけど、結局、“武侠映画は死んだのか”(武侠片已死?)ってセンセーショナルなタイトルにしては、案の定、月並みなものでしかなかったのは残念。
 中国映画なんて映画館で観れるのは希有な、わが南西辺境州じゃ、いわんや武侠映画なんてレンタル・ビデオで観るしかない。尤も、昨今は有難いことに、youtubeや中国のネットでそれなりには観れなくもないけど、字幕が基本、中国語か英語って制約があるのが玉に瑕。
 王家衛の《 グランド・マスター 》(2013年)の脚本を担当し、自らメガホンを取った《 倭寇的踪跡 》(2011年)の原作者でもある作家の徐浩峰の、《 箭士柳白猿 》(2012年)が中々面白そうで観てみたいのだけど、中国ネットあれこれ捜してみたものの予告編やらの部分的なものばかり。箭士とは弓士のことらしく、時代も民国初頭ってことで、いよいよ廃れてゆく武術としての弓ってところが良い。前作でも倭寇の残滓とも謂える倭刀が興味深かったし、独特のリアリズムも魅力的だった。


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2017年2月 4日 (土)

ブラフマーの聖地 プシュカル ( 旅先のパンフレット )

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 バック・パッカーには新年・正月を何処で迎えるかに結構こだわったりする者も少なくなく、ぼくもその例に倣って噂に聞いたヒンドゥー教の聖地でもある場所で迎えてみようとインド・ラジャスターン砂漠の入口にひっそりと佇んだ小さな町・プシュカルで年越し・新年を過ごしたことがあった。
 勿論別段何が変わったという訳でもないけれど、いつもの日本国内の変わり映えのしない光景とはやはり異り、異質と同一性の体験的自己確認ってところで、一人悦に入れたことは確かであった。

 とりわけ、大晦日の夕刻、アジメール側の低い灌木の覆う小さな山から、沈みかけようとしている夕陽の方に流れてゆく雲がだんだんと赤く染まってゆき、街の真ん中にあるプシュカル湖を囲繞したガート(石階段式沐浴所)のヒンドゥー寺院から鐘や太鼓や詠歌あるいはマントラが湖中に響き渡ってゆくセレモニーは味わい深いものだった。
 もっともこれは、ヒンドゥー教的の毎夕の祭祀的所作に過ぎないものだけど、刻々暮れなずんでゆくガートに面した寺院や民家の人々が、金属皿の上の燃える炎をそれに吊るした鎖でグルグル廻す所作は、遥か古のペルシャの拝火教(ザルトーシュト)以来なのか、ロシア正教のそれをも思わせ、西アジア的血脈に想いを馳せてしまう。


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 現地のブログ見てみると、外人観光客やインド国内の中産階級以上の観光客を対象にしてるのか、プール付の豪華そうなホテルが建ち並んでいるようで、ぼくが訪れた当時とは雲泥の差に近代化された観光地となっていた。湖周辺は寺院関係や住民で占められているので、郊外つまり砂漠地帯に作られたものだろう。
 国産タータのバスで団体でやって来て、そのバスの近くで煮炊きして食べ寝る地方からきた団体の巡礼たちの姿と比較してみても始まらないけど、それは何処の国も経てきた路でもあり、その最たるものの、今だ中世の遺制色濃く残るカースト国家インドであってみれば、正にあらゆる意味において生きた化石的風物詩と言えなくもない。


 そもそもこの町は、ヒンドゥー教の三神( トリムルティ )の一神・宇宙神ブラフマーを祀ったインドでも珍しい聖地。大抵はシヴァかヴィシュヌ神のどちらからしい。水上に横たわったヴィシュヌの臍から伸びた尾の先の蓮花の上に四面をもってこじんまりと単座している有名な図が示しているように、宇宙神と称された割には前二者に比して影が薄い。
 プシュカルの巡礼客相手の商店街の店頭に並べられていたインド風の薄っぺらなプリミティブな印刷のパンフレットの表紙にも、そのヴィシュヌ=ブラフマーの赤い図像が掲載されていて、その異国情緒漂うキィッチュな印刷物に興味をそそられ、つい一冊買ってみた。
 中は墨一色の単色印刷で、聖地プシュカルの神話・伝説的入門書ってところ。


 さてブラフマー、他の神々が自分たちの名を冠した聖地を持っていたのに鑑み、彼自身の名を冠した聖地を欲しくなり、蓮華を三本空中に投げた。
 一番最初に落下したのが、現在プシュカルと呼ばれている真ん中に佇んだプシュカル湖で、“年長のプシュカル”Jesrtha Pushkarと呼ばれ、二番目に落下したところは“真中のプシュカル”Madhya Pushkar、三番目は“年少のプシュカル”Kanista Pushkarと呼んだ。
 三番目のプシュカルは郊外にあってアジメールだったかの貯水池ともなっていて、英語でジュニア・プシュカルとも呼ばれてるけど、地元じゃブッダ・プシュカル(老プシュカル)とも呼ばれている。
 

 蓮華といえば、チベットに仏教を伝えた開祖パドマ・サンブァバ、名前の通り“蓮華生”と呼ばれ、蓮の花から生まれたという伝説で有名だけど、水上に浮かび大輪の紅花を咲かせる蓮華って、確かに神秘的かつ鮮やかで、シンボリックな連想を抱かせる。鬱蒼と茂った草林の奥の小さな沼や池に一輪紅い花弁を拡げる蓮華も極美だけど、靄の向こうの湖上一面に鮮やかに咲きほころんだ蓮華も極彩色のマンダラを彷彿とさせる。
 push=華、kar=(ブラフマーの)手ということでプシュカルらしく、そこで沐浴をすれば罪深い者達の罪が浄化される、ということで、毎日、インド中から信者達が参集してくる。ジャイナ教やイスラム教徒達までもが訪れるという。


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 このパンフレットによると、あらゆる聖地での沐浴は罪人達の罪業を払ってくれるけど、このブラフマーの聖地プシュカルだけは最も罪深い者達の罪すら浄化してくれる最も霊験あらたかな聖地なのだ。では、なぜ、そうなったのかと言えば・・・

 そもそもがブラフマーの聖地たるこの三つのプシュカル湖で沐浴さえすれば、ブラフマー神の慈悲によって、誰でも罪を浄化され死後天国へ昇れるようになった。この実に簡単な方法で救済と天国での至福の享受を得られることを知った人々は、本来ヒンドゥー教徒なら行うべき日々の精進や祭祀を軽んじ顧みなくなった上に、彼等で天国は溢れかえてしまった。
 ある日、そんな状況を危惧した神々達は、ブラフマー神のところに連れだってその由々しき事態への懸念を伝えた。すると、ブラフマー神はためらうことなくこう答えた。


 「 確かにあなた方の仰る通りでしょうが、あのプシュカルはもはや私と切っても切れないくらいに親密で不可分な場所となっているし、それに今更自分の作ったものを変えようとは思わない」


 そうはいかじと神々達、尚も喰いさがった。


 「 おお、宇宙の創造者よ!
 プシュカルの聖なる沐浴のおかげで、実に容易に人々は天国のキップを手に入れた。罪人達でさえ、我々と同等になってしまった。
 このままいけば、誰も日々の精進やら祭祀にソッポを向き、神々の聖火に供物を捧げることすらしなくなってしまう。我々の立場はどうなるのか?」


 そこまで言われて、さすがブラフマー神、おのれの失敗を悟った。


 「 いや、確かにあなた方の仰る通り。
 じゃ、人々の罪を浄化するプシュカルの力に制限を加えましょう。
 Kartika月(11月~12月)のShukla Paksha(新月からの最初の二週間)の最後の五日間にプシュカルで聖なる沐浴をした者だけの罪業を浄化することにしましょう。そのかわり、すべての神々は、この五日の間にプシュカルを訪れたすべての人々に祝福を与えて下さい。」


 神々はそのブラフマーの言葉を聞き、安心して天国へ戻っていった。
 それ以降、人々は、最も霊験あらたかなKartika月の最後の五日間、聖なる沐浴をするようになった。


 その五日間が、いわゆる《キャメル・フェスティバル》 ラクダ市の日(実際には二週間の祭り)でもある。結構盛大なものらしく、さすがに人、人、人で溢れまくるフェスティバルは、ぼくは遠慮させてもらった。プシュカル湖のガートや周辺の木々に屯するラングール猿達で充分。


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 プシュカルの南西にあるというアジガンデシュワル(Ajgandheshwar)寺院にまつわる説話も興味深い。
 かつて、ヴァシユカリ(Vashkali)と呼ばれた悪魔が居た。
 どんな心持ちでか定かでないけど、何と一万年もの間、プシュカルでブラフマー神に則って瞑想・苦行を続けたという。ブラフマー神も喜び、悪魔の願いを聞き届けてやることにした。
 悪魔ヴァシユカリは申し出た。


 「 おお、神よ。宇宙創造神よ。もし、本当に私の願いを叶えてくれるなら、私を決して人間や神々にさえ殺すことのできない不死の身体にして貰いたいのですが」


 上機嫌のブラフマー神、たやすく悪魔の願いを聞き入れた。

 「 悪魔よ。今日からお前は、神々によっても、いかなる人間達によっても殺すことの出来ない存在となろう 」


 さっそく悪魔ヴァシュカリ、厳粛に誓いを立てた。
 プシュカルの湖で沐浴し、ブラフマー神の祭祀(Darshan)を行い、毎日食事を供すると。


Pushkar5_2

 
 やがて悪魔の仲間達がその噂を聞きつけてやって来て、インドラの王国、つまり天国に攻め込み、その乗っ取りをけしかけた。悪魔はそそのかしに乗り、大軍を率いて天国へと進軍していった。強力な悪魔軍はまたたくまに天国軍を蹴散らし、インドラはほうほうの態で天国から逃げ出した。
 こうして悪魔ヴァシュカリは天国、人間、悪魔達の三つの世界の王となり、法(ダルマ)に従ってきっちり支配することとなった。それでも、悪魔は、日毎のブラフマー神の祭祀ダルシャンとプシュカル湖での沐浴を怠ることはなかった。

 一方、敗走し天国の王位を失ってしまったインドラは意気消沈し悶々とした日々を送っていた。それから一万年過ったある日、インドラは破壊神シヴァ神のところへ赴き訴えた。


 「 私は悪魔ヴァシュカリによって王国を奪われ、天国から追い払われてしまいました。ブラフマー神が、彼奴に決して神や人間に打ち倒されないよう加護を与えたからです。」


 シヴァ神は答えた。


 「 おお、親愛なるインドラ。
  ならば、山羊に化けて悪魔ヴァシュカリを確実に葬ってしまおう。」


 悪魔は毎日ブラフマー神のダルシャンの前にプシュカル湖で沐浴することにしていた。
 シヴァ神は羊の姿で現れ、悪魔はその大きな山羊を見つけ、弓矢で殺そうとした。その時、あわてて悪魔の配下の大臣が、ひょっとしてあの山羊はヴィシュヌ神かシヴァ神かも知れないと諫め止めるのも聞かず、例えそうであったとしても、ブラフマー神以外ならどんな神だろうと皆殺しにしてやると息巻き、毒矢を放った。
 山羊=シヴァ神、毒矢をものともせず悪魔に大きな角で一突き、悪魔は即死してしまった。影でその様子を窺っていたインドラや天国を追われた神々は、シブァ神を褒め称えた。そこにはブラフマー神も居て、シヴァ神を賞賛しながらこう言った。


 「 もし、あなたが本当に私に好意を示してくれるなら、私の最愛のプシュカルに名声と栄光を与えて下され」


 その時、あたりを揺るがせてシヴァ・リンガが大地を突き破って現れた。
 
 「 ここにこのリンガは残り続け、カルティカ月のシュクラ・パクシャの十四日目には、必ず私はやって来る。」


 そう告げ、神々を災厄から救ったシヴァ神は立ち去っていった。
 すべての神々は歓喜のうちにリンガを祭り、インドラの後に続いて天国へと戻っていった。
 この恐らくシヴァ派なのだろう寺院の起源譚なのか、ブラフマー神の聖地の中での別神シヴアの面目躍如って説話だけど、この薄いパンフレットには他にもブラフマー神的脈絡に横やりを入れ拮抗し終いには圧倒するシヴァ的説話も少なくない。やはりシヴァ・ヴィシュ両神に較べ何とも脆弱な感は否めない。
 この悪魔ヴァシュカリの説話でも、最後に彼を倒したシヴァ神を賞賛する神々の列にどういう行きがかりでなのか、いつの間にかブラフマー神も一緒に並んでいるってのも、今ひとつ判然としない。薄いパンフレット故に本来の筋を割愛したのかも知れないが、あるいは、ヒンドゥー教の三神一体(トリムルティ)論的に、ブラフマー=創造神、ヴィシュヌ=維持神、シヴァ=破壊神って訳で、一度悪魔ヴァシュカリに不死の力を付与(=創造)したからには、ブラフマー神にもはやそれを止め立てすることはできず、後はもう破壊を司るシヴァ神の出番しかないって三権分立的規範なのか。そこら辺の微妙なところが割愛されているのが残念。
 因みに、プシュカルでの沐浴の基本はカルティカ月の最後の五日間の最終日、つまり満月の日(=プルニマpurnima)。

 この他、ゴール朝の王・ヴラドラータ(Vrahdratha)の、カルティカ・プルニマの満月の夜になるとプシュカルの三つの湖を沐浴することなく静然と巡りつづける輪廻転生譚なんかも興味深い。

 (注)リンガLinga ; 男根の豊饒多産的シンボライズした砲弾型の石像。その基底にヨーニ(女陰)を象ったものと結合した形が一般的。普通、シヴァの代名詞。

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2017年1月21日 (土)

ミレニアム的ゆらぎ  帰ってきたヒトラー(2015年)

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 一昔前、確か角川文庫の《 アドルフ・ヒトラー 》(著・ルイス・シュナイダー)だったか、小さな本屋で買って読んだことがあった。一度、ヒトラー=ナチスの実像を大まかであっても把握しておこうと思い至ったからであった。ところが、読んでみると、余りに決めつけと誹謗中傷、つまり何としても貶めようという心底の見え透いた“アンチ・ヒトラー=ナチズム”的プロパガンダ以上のものではなく、辟易してしまった経験があった。
 ヒトラー・ナチス=アウシュビッツという錦の御旗の下、ともかくあれこれ難癖をつけ、誹謗中傷し、貶めれば、国際的な官許的ステータスを得られた時代の典型的な産物ってところだったんだろう。
 実際、当時、海外のテレビ番組なんかでも、ナチスの宣伝相ゲッベルスが演出したらしいヒトラーの演説(あるいはそのニュース映画等も)の際の、“如何に民衆の心を掴むか”というパフォーマンス的手練手管、例えば表情やポーズをとったりしていた事なんかを、滑稽で欺瞞的詐術だと侮蔑し、化粧までしているとこき下ろしたりしていたのだけど、ところが昨今、何処の国の政治屋・権力者も、もうそんな演出的パフォーマンスなんて常道といわんばかりの踏襲ぶり、どころか、ゲッベルス=ナチスの頃を遙かに凌駕して恥じることなし。 
 あのヒトラー=ゲッべルスに対する稚戯めいた誹謗・侮蔑って、一体何だったんだろう。


 ドイツ国内で250万部売れたからだろう、色々物議を醸したらしいその2012年のティムール・ヴェルメシュ著《 帰ってきたヒトラー 》を映画化し、それも大ヒットしたという2010年代ドイツの時代相を知るには端的な作品といえなくもない。
 基本設定は、今流行のタイム・スリップもの。
 連合国の猛攻に今や崩壊寸前の第三帝国(=ナチス・ドイツ)・首都ベルリンの総統地下壕で愛妻エヴァとともに自殺したはずのヒトラー、何故かミレニアム2014年に突如姿を現した。現在では総統地下壕跡地となった植込みに、拳銃自殺後に部下によってガソリンで焼き払われる手筈だったそのガソリンの臭いをプンプン漂わせながら。
 近くのキオスクの店主に助けられ、テレビ会社をクビになったカメラマンの男の目にとまって、彼のテレビ局復帰のための動画の主人公にされ、ドイツ各地を巡るロケの旅に出ることになる。
 やがて、ヒトラーのそっくり俳優として件のテレビ会社に雇われ、トーク番組に出演しどんどん人気者となったと思ったら、会社の内紛に巻き込まれテレビから姿を消してしまう。それでも、内紛で追放された元局長とカメラマンの男にヒトラーの書いた本を元にした映画の主役に抜擢される。そんな矢先、とうとうカメラマンに、そっくり俳優じゃなくて本物のヒトラーと見破られ、拳銃で命まで狙われ追い詰められてしまう・・・


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 原作がスラップ・スティックと評されたように、ヒトラーがパソコンでグーグル検索するシーンすらあったりするコミカルな映画にしあげられている。
 だからといって、喜劇という訳でもない。
 あっちこっちの街角で通行人達と、ヒトラーの扮装のまま対話する場面もある。
 余りにすんなり通行人・市民達と会話がなされているので、実際の対話じゃなく、俳優達が市民を演じているようにすら思えてしまう。ぼくはそのどっちとも判別出来ず小首を傾げながら観ていた。この手のシークエンス(場面)の構造って、大抵が、通行人やらの違和が基準といってもいいくらいなのが、それが全く感じられない。もう、現在のドイツじゃ、“ ヒトラー=ナチス ”って、思わず生理的拒否反応を示す質のものじゃなくなってしまっているようだ。
 面白かったのは、ヒトラーが支持する政党を問われ、ネオ・ナチではなく、〈緑の党〉を選んだ場面。国土の汚染を嫌うってところでシンパシーを覚えたって設定なんだろうが、確かにヒトラー、酒もタバコどころか珈琲までも嫌っていたのは有名。喫煙と癌との関係をドイツの医学者が警告したかららしい。ヒトラーが公共の場での喫煙まで規制していたとは知らなかった。昨今の健康志向の先駆けってとこだろうか。
 

 そもそもが、ヒトラー役のオリヴァー・マスッチ、《 ヒトラー 〜最期の12日間〜》(2004年)のブルーノ・ガンツと較べても明らかに似てない。髪型と鼻髭そして軍服でそれらしく見えているに過ぎない。典型的特徴の記号性ってところでの了解性の上に成り立っているだけ。それでも、現地ドイツ国内の市民達は彼を“ヒトラー”と認めたのだから。
 それも、流行のスマート・フォンでのツー・ショット撮影の洗礼を受けるほど、好意的に。
 “ そっくりさん ”というエンターテイメント的了解性が既にあっての好意的対応だったのだろう。
 
 映画後半で、カメラマンの男に拳銃で狙いをつけられたヒトラーが云う。

 「 ( 嘗てナチスが政権をとったのは ) 大衆が扇動された訳ではない」

 「 彼等は計画を明示した者を指導者に選んだ 」
  
 「 わたしを選んだのだ!」


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2016年12月31日 (土)

藍凧、青天に襤褸のごとく 『 青い凧 』(1993年)

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 甍と白煙、土埃舞う胡同の路上に子供達が遊び、驢馬車がポクポクと荷を引いてゆく。と、ある民家の門の中に、大八車で運んできた簡素な家具類を運び込む男達。新婚の樹娟と少竜の二人の新居に収めるためだ。その時、何処かから、ラジオのソ連の最高権力者スターリンの死を報じる声が流れてくる。1953年3月5日午後9時50分死亡・・・


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 1953年といえば、“第一次5カ年計画”の発布された新生(人民)中国発展の基礎となった年であり、日本では、京都・舞鶴港に、ようやく中国大陸からの引揚者一行を満載した帰国第一便が到着した年でもある。まだまだ戦争の残煙が色濃く烟(けぶ)っていた時代。
 親族や仲間、近所の親しい住民が集ってのいたって簡素な結婚式で、壁に掲げられた毛沢東の肖像に二人が一礼をし革命歌を唄うシーンって、四年前に中華人民共和国として独立し、ようやく建設の端緒についたという、まだまだ新生中国に夢と希望を抱いた溌剌の象徴なのだろう。
 小学校教師の樹娟(シューチュアン)と図書館司書の少竜(シャオロン)、そしてやがて生まれる鉄頭(大雨)の3人家族の、乾井という胡同を中心に物語が始まる。
 少竜はじめ、3人も伴侶が替わった女主人公、田壮壮監督の母親・于藍(ユイ・ラン)を模したといわれる樹娟の、揺れ動き続ける新中国=人民中国の時代の波に呑まれ、惨澹の憂き目憂き目が、その伴侶の変転の次第を語ってゆく。
 当然に文化大革命の大波にも呑まれ、3番目の党幹部の夫も紅衛兵らによる糾弾の最中凄惨に死を余儀なくされてしまう。因みに、最初の夫・少竜は、“百花斉放・百家争鳴”で有名な整風運動の波に足下を掬われ、強制労働キャンプ送りになってそこで事故死し、2番目の夫・李は、彼等の友人でもあったのが少竜を右派として密告した張本人で、良心の呵責に苛まれ、彼等に誠心誠意尽くし続けたあげく病死してしまう。第5世代監督たちの自家薬籠中的定番手法でもある。


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 以前紹介した《 盗馬賊 》(1985年)も結構面白かったけど、この《 青い凧 》(原題 : 藍風箏)も悪くはない。中国じゃ上映禁止のままという。今更言ってみてもはじまらないけど、社会主義的リアリズムって、社会主義国なら常道だったはずが、いずこのマルクス主義国家(権力)も目の敵にしてあれこれと弾圧に走ってしまう。狭隘なこと限りない。“革命”とは真逆。タイの諺で謂う“(一度)虎の背に乗ると(もう)降りられない”って奴なのだろうか。権力(主義)の慣性と論理だ。
 それでも、ブログ見ると、田壮壮、それなりに作品発表し続けているようだ。
 章子怡(チャン・ツィイー)が3世代・3役演じた《 ジャスミンの花開く 》原題:茉莉花開(2004年)に、彼も制作総指揮ってポジションで関わっていたとは知らなかった。
 この《 青い凧 》、基本、胡同を舞台に描いていて、土の路、土塀、黒瓦屋根、朦々と壁から烟る白煙、群れなし戯れる子供たちの姿や、土の路からアスファルトの道路への時代の変遷も情緒たっぷり。


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 田壮壮の両親は共に映画(俳優・制作)に携わってきた生粋の映画一家らしい。
 ところが驚いたことに、ここでもあの江青の影が禍々しくとぐろを巻いていた。
 母親の于藍が有名俳優・趙丹と共演した《 不屈の人々 》原題 ; 烈火中永生(1965年)に、自分も原作が気に入って撮りたかったのを横取りされたと怨んで、わざわざ撮影所までやってきて難癖をつけたという。2年後、文革の嵐が吹き荒れ始めると、早速、于藍と夫の田方ともどもに“反革命分子”のレッテルを貼られ追及され投獄されてしまう。詳細はつまびらかじゃないけど、そもそも江青の目の上のタンコブ=趙丹と共演したとばっちりもあったかも知れない。田方は獄死したが于藍は生き延びた。が、獄中の身体的トラブルで女優の路を断念し、制作の方に専念することになった。
 その時の体験がこの映画にも反映しているらしい。
 3番目の党幹部の義理の父親の邸まで押しかけてきた紅衛兵の一団に、義理の父親が指弾され持病の心臓病を発症してもそのまま追及集会場か何処かへ連れ去られようとするのを、見かねて止めに入った母親も紅衛兵たちに暴力を揮われ一緒に連れて行かれてしまう。まだ少年の鉄頭も何とか母親を取り返そうとするも多勢に無勢、思い余ってレンガを手に紅衛兵の一人に殴りかかりはするものの直ぐに袋叩きにされ、地面に臥(よこた)わったまま、ふと空を見上げると、木の枝に引っかかった藍い凧が風に小さくなびいていた。原題の《 藍風箏 》の藍って、母親・于藍の藍でもあるのだろう。
 しかし、遺憾なことに、江青の名も、名付けた者が、“青出於藍更勝於藍”から取ったらしい(別の説もある)。彼女の上海女優時代に使っていた“ 藍蘋(あおりんご) ”から発想したのだろうが・・・


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監督 田壮壮
編劇 肖矛
音楽 大友良英
樹娟 呂麗萍
少竜 濮存昕
李  李雪健
制作 北京電影製片廠(1993年)

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