カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の315件の記事

2018年4月18日 (水)

旅先の現地本

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 海外を旅していると、ついその国の文化、とりわけ音楽出版物なんかについ惹かれてしまう。
 最初の頃だとカセット・テープがまだ大陸や東南アジアで余命を保っていた頃で、それでも中国・最南部の雲南省の小さな町、たとえば大理なんかの間口の狭い小さなカセット屋の店先にも段ボールに放り込まれた音楽CDや愛国戦争物VCD(低画質のビデオCD)等が売られ、感心したものだった。タイのバンコクで、VCD専門プレーヤーを見つけたのもその少し後だったか。DVDは、まだ、ワンランク上の高嶺ってあつかいだった。
 例によって、バンコクのお手軽ソフトの殿堂MBKマーブンクロンでも、オリジナル・カセット・テープからCD、ゲームCDまでコピーし売りまくっていた。時折、あの二百万本売れたといわれるボー(スニター・リティックル)のデビューアルバムも、二回店舗を変えて買ってみても音の全く出ないブランクを渡されるようなこともあったけど。


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 けれど、印刷出版物も、やはり、異国情緒そのままなので、文字が分からぬままでも、つい、どんなものか手にしてしまう。そんな中でも、バンコクはアジア旅の基点として頻繁に行き来し、本屋や書籍コーナーに通う回数も多かった。タイ文字が珍しくて、とりわけ詩の本(大抵は薄い冊子型。サイズは色々小さなものも多かった。)は、挿絵なんかが入っていたりして視覚的に興味を惹いた。
 またタイは元々映画量産国の一つでもあって、映画コンプレックスもあっちこっちにあり、TTゲストハウスに常備の英語新聞[ バンコク・ポスト ]でチェックしたりしてサイアム周辺の映画コンプレックスに日本より三カ月~半年早い封切りの洋画やタイ映画を観に通った。
 タイは隣国カンボジアと同様、今でも霊媒師や霊能者たちが活躍している土俗的オカルティズムの跋扈する社会で、ホラー映画が断然人気があったようだ。そんなホラー・オカルト映画にも、時代の要請で、新しい波がおこり、その金字塔的作品が、ノンシィー・ニミブット監督のタイの伝説的ホラーの映画化[ ナン・ナ―ク ](1999年)だった。空前のヒットだったらしいが、同様に二年後の十六世紀アユタヤを舞台にした宮廷王権争奪物語たるチャートリー・チャルーム監督[ スリヨタイ ](2001年)も大ヒット。この[ スリヨタイ ]のDVD持ってるけど、劇場じゃ三時間だったのが、DVDセットじゃ、三枚組で五時間という長時間物で観終わるのに一苦労。
 
 そんな映画関係の出版物も増えて来たのか、[ ナン・ナ―ク ]や[ スリヨタイ ]なんてビッグ・ヒット作に関する気の利いた出版物も店頭に並ぶようになって、[ ナン・ナ―ク ]はモノクロだけど[ スリヨタイ ]は国策映画でもあるからかカラー写真口絵が豊富。でも、映画自体[ ナン・ナ―ク ]の方が気に入ってるのもあるが、作り的にも二百ページもある[ ナン・ナ―ク ]の方がやる気まんまん、映画全体の流れを項目立てて懇切丁寧に作ってて好感が持てる。両方とも定価は130バーツ前後。
 

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 1992年に三十才で亡くなったタイのルークトゥンの歌姫プンプアン・ドゥアンチャンに関する本。
 [ 去っていったドゥアンチャン ]185バーツ。B5版より一回り小さなサイズだけど三百ページ以上あって読み応えありそう。タイ語辞典片手じゃちょっとしんどそうなので未だ手付かず。
 ルークトゥンって余り聴かないけど、プンプアンは嫌いじゃない。


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 どこで買ったのか、「上海戸籍出版社」とあるので、恐らく上海の福州路のその店で買ったのだろう。
 この辺りは確か古書店が並んでいた記憶があるけど、現在はどうだろう。最初の頃は、地方から出稼ぎやって来た小姐たちが大して広くもない店の中に何人も居て、昼飯なんかそこら辺に座り込み、ホーロー製の丼や大コップに盛ったぶっかけ風を箸でかき込んでいたのが印象的だったけど、時代が経過するにつれて、小奇麗な店員然としてきてそんな"人民"風味的服務員なんかすっかり姿を消してしまった。
 昔の印刷物のままの写植印刷・・・まさか板版画で刷ったものじゃあるまい。組活字じゃ難し過ぎよう。
 [ 老子 ]上下巻が原文のまま(?)で、勿論解説文などなく、本文のみ。1.6元は安いのかむしろ高いのか。
 道可道非常道名可名非常名・・・


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 イランの首都テヘランの本屋で見つけた冊子型の書籍で、いかにも中国趣味的異国情緒感を醸し出した表紙が好い。

 老舎[ 茶館 ]1957年

 中華民国成立前後の長い時代的変遷を見続け又翻弄されてきた北京の老舗茶館の物語。
 戯曲として発表された時から文化大革命の終息するまで、中国国内ではさまざまな難題難儀をこうむってきた典型的作品。老舎自身も文革中に、紅衛兵たちに殺害されたとか、入水自殺したとか死因も定かならぬまま死亡。開高健の[ 玉、散る ]でも有名。
 イラン=ペルシャと中国とは、随分と古くから往来し因縁浅からぬ関係にあるのだろうから、互いにどんな意識と感情を持っているのか興味あるところだ。
 漢字茶館の下にペルシャ文字で「チャーイ・ハーネ」、つまりチャイ屋=茶館と認めてある。
 巻末には、中国の演劇舞台での[ 茶館 ]のモノクロ写真が八ページにも渡って掲示してある。ホメイニーのイスラム革命の初期においては社会主義的要素も強かったらしく、イスラム原理主義体制の中でも問題なく書店の棚に並べられていたのだろう。
 当方も、まさかイスラム原理主義の総本山イランのテヘランで老舎の作品が並べられているとは思いもしかったけど、他にフランスの小説家・思想家のカミュの作品もあった。大きなカミュの顔写真が表紙を飾っていた。
 その割には、音楽の方は中々厳しかったようだ。
 日本の喜太郎のカセット・テープは、器楽演奏だけだからかあっちこっちで見かけた。
 イラン映画が世界でそれなりにヒットし、インターネットで簡単に海外の音楽・ニュースが見られるようになった昨今、イラン国内音楽事情は少しは変わったのだろうか。


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2018年4月 8日 (日)

長崎パノラマ綺談 大泉黒石《 血と霊 》のカルマ的痕跡を巡って ( 2 )

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 昨年末以来二度目の長崎行、平日にもかかわらず路面電車も、《 長崎駅前 》の狭いホームこそ、そこそこ空いていたものの、乗車するとさっそく満員になってしまった。折からの観光的時節ってことだろう。アジア系の観光客も多い。
 帰りしななんか、ホームで待ち客の間にふと美形の娘が眼に留まって、つい視遣っていると、同じ数人のグループだろう三、四十代の女性が何か話しかけていた。典型的な、タイ人( あるいはラオス )だった。件の美形娘、何処かで覚えのある独特のひっつめ黒髪をポニーテールにした瓜実貌だと思ってたら、タイで頻く見かけた風貌だった。疲労の中の一陣の春の爽風ってところか。


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 早速、長崎電鉄路面電車《 正覚寺下 》行に乗り込む。
 満員だった電車内も、下車した《 思案橋 》頃にはそこそこ空いていて押し合いへし合いすることもなく降りれた。今回、四回ほど乗り降りしたけど、最後になって、別路線に乗り換える際は、下車時に運賃の120円を運転手に払って“乗り換え”を伝えると、小さな乗り換え用のチケットを無料で呉れるってことを知った。( JR長崎駅の観光案内所で一日券を売ってはいるけれど。)


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 宝石商・鳳雲泰殺しの嫌疑で逮捕された弟子・牛島秀夫が、万才町の石垣上にある裁判所の獄屋に面会に訪れた画家・杉貞子に、鳳雲泰の夜な夜なの殺人行と数奇な運命を訥々と語り始めるのだけど、銅座河に面した細工場から、「 銅座河に沿って寺町に向 」う経路に、この思案橋が位置している。
 嘗ては、銅座河が流れ、その上に架かった思案橋だったのが、被爆以降に暗渠化されて現在の姿になったらしい。銅座市場やハモニカ横丁なんかも銅座河の暗渠の上に建てられていて、比較的最近になって長崎の観光エリアの暗渠化された地域を再び元の河川に戻す政策が施行され、やがてその銅座市場やハモニカ横丁も無くなってしまう由。その思案橋から、こっち側と真逆の北側に進むと寺院の並んだ寺町に至る。


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 ( ハモニカ横丁。両サイドの商店街の裏側。裏口と営っているのかないのか定かでない構えの店もあって、狭いながらも雑然としている。終戦直後的どさくさ風味の残滓ってやつだろうが、平成末になってもまだしぶとく残っているのが一味。)

 《 思案橋 》から篭町に面した周辺一帯は、いわゆる“歓楽街”の様相を呈し、東側にちょっと足を延ばすともうそこは、嘗ての日本三大遊廓の一つとも謳われた丸山 ( 遊廓街 ) がひっそりと横たわっている。
 目的地のシーボルト邸跡に向かう前に、前回も訪れた電車から降りてすぐの本石灰 ( しっくい) 町から、カステラの《 福砂屋 》本店の横を通り、船大工町の細い通りの先の大徳寺下の小路、そしてくねった大楠が覆いかかった石段を登って、老舗焼餅屋《 菊水 》の佇む楠稲荷神社に至る。
 案の定、大楠の周りの桜が満開に咲きほころんでいた。
 それを確かめたかったのだ。
 若き黒石もその桜を眺めたろうか?
 その日は、《 菊水 》には客の姿はなく、仄暗い店先にも老婦一人。
 当然、買ってはみたが、何しろ、思案橋を出てすぐ脇にある思案橋横丁の有名らしい中華屋《 天天有 》でチャンポンを食べてしまっていたので、さすがに普通の饅頭より一回り大きな焼餅は食指が動かず帰路バスの中で食べることにした。


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 ( 二枚とも中川の支流・清滝川。上の写真の方が若干上流で、シーボルト通りの下に百メートルばかり暗渠化された出口辺り。 )


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 「 ・・・内々非常な注意を払ってゐ(=い)た私は、細工場の部屋を忍び出て主人の跡をつけました。ところが案の定です。鳳雲泰の足は、── 銅座河に沿ふて寺町に向ひました。寺町から水車場の並木 ── 聖堂から中川へ ── そこまで来ると、シイボルト博士の邸跡も間ぢかに見え、眼鏡橋を一つ隔てゝ、貴女のお住居 ── あのアトリエの窓から流れる黄色い電光に、ほかされている広い庭が見えます。」   (p 83)

 大正の頃の「 水車場の並木 」も「 聖堂 」も何処にあるのか、地図の何処さがしても杳として見当もつかない。また、「 ほかされている広い庭」ってのも、これがシーボルト邸跡を指しているのか、それとも杉貞子のアトリエの方なのかも些か曖昧。幅の狭い川であっても、道路もあって、それ越しにアトリエの窓光がシーボルト邸跡の草むらをぼんやりにでも照らし出せるほどの光量を持ち得るとは考えにくいとなると、やはり、杉貞子のアトリエの庭しかあるまい。


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 ( 上図は、幕末頃らしい本来のシーボルト邸=清滝塾の姿。下の写真は、明治初期頃のだろうか。明治後期の名所絵ハガキだと、既に草地となっていて、現在もある石碑が一本立っているだけ。)


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 シーボルト博士って幕末、長崎・鳴滝で《 鳴滝塾 》を作り、日本人相手に蘭学を教えたドイツ人医師・植物学者なのは教科書ものだけど、現在建物らしきものは何もない。隣接した場所に大きな煉瓦風の建物《 シーボルト記念館 》が木陰の向こうに佇むだけ。


「 ・・・この町で、隠れた古跡の一つになっているシイボルト博士の邸跡へ、ある家の娘さんが、女中をつれて花摘みに行きました。町の娘はよく其処に行くのです。邸の跡は、町を貫いて流れている中川の奥にありました。で、ちょっと見るとまるで薔薇油を振りまいた花絨毯の上に、ナラヤナの涅槃でも敷きのべたやうに美しいその邸・・・」   (p2)


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 シーボルト邸といっても、ここはあくまで《 鳴滝塾 》であって、幕末頃は本来は外人の居住は出島内に限られていたので、当時の絵や写真見ても、西洋風とは無縁の日本の普通の民家。それも明治七年頃に大風で破壊され、そのまま打ち捨てられていたのか明治二十七年に解体されて現在の植木と原っぱだけの状態になったようだ。それでも戦前は大きな碑の類が建っていたらしい。
 この物語の頃は、「 花絨毯 」とあって、花々が咲き乱れていたのだろう。
 只、「 美しいその邸 」から先が、この国会図書館蔵の《 血と霊 》の原本のこの頁が破り取られてでもいるのか“ 欠 ”頁になっていて定かじゃなく、「 ナラヤナの涅槃でも敷きのべたように美しい・・・ 」と意味ありげな修辞まで冠され興味のある個所なんだけど、如何ともし難く、ネット見ると昨今はアジサイの花壇が設えられているようでもあった。当方が訪れた三月末がたまたまガラーンとした植木と雑草(?)だけだったのかも知れない。


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 ( シーボルト邸跡。奥の銅像あたりらしい。下の写真は、そこから前に拡がる街並みの景観 。背後に低い山々が迫っている。)


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 「 彼の心にあるものは血腥い殺戮と強奪の微笑 ── 血だらけの笑ひです ── 鳳雲泰は、磧( かわら )の露出した細い河の流れをへだてゝ、まつ暗いところから、アトリエの窓を凝視してゐました。窓硝子には、貴女が耳環をいぢくりながら何か獨り言を云ふてゐる横顔や姿が、ぼんやり映つてゐました。
 ・・・橋を跳び渡るや否や庭へ駈け込んで行かうと身がまへました。そのとき、少し離れた川茨の蔭に蹲ってゐる私の目に映ったものは、アトリエの横丁から一人の酔っ払ひが、鼻唄を唱ひながら橋の袂へやって来る影でした。」


 画家・杉貞子のアトリエが、シーボルト邸跡のすぐ前を流れる中川( 実際には、支流の鳴滝川 )を挟んだ向かいという設定なのは分かる。
 尤も、あくまで、この作品はフィクションなので、逐一正確に地理的対応してるのかどうかは判然としない。そもそも、中川に注ぎ込む支流の鳴滝川って川幅が狭いので、アーチ二つの“ 眼鏡橋 ”なんて架かりようがなく、せいぜいが普通の単アーチ型の石橋ってとこだろう。それに、長崎市内でも眼鏡橋って何本もある訳じゃないので黒石が記憶違いをやらかしようもなく、意図的な長崎的異国情緒的変容ってところだろう。
 だから、あまり詳細に拘ってみてもそれこそ木乃伊盗がミイラになってしまう愚を犯しかねない。けど、黒石がどんな風に現実の長崎の風物を基に自分の作品世界を紡ぎあげたのか、百年の時空的変容の向こうに当時の消息を識る縁(よすが)にはなってくれるだろうという試行に他ならない。


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 肝心のシーボルト邸跡って、建物のない低い石垣の上のせいぜいが垣根ぐらいの平地にシーボルトの像が一つだけ立っているだけで、「 間ぢかに見え 」る条件の場所っておのずから限定されてくる。それでも、結構幅があって、実際には対岸の何処が対応しているのか、現在マンションも何軒も立ち当時と様子も変わってしまってるようで容易に推定もし難いけれど、シーボルト記念館の斜め前にあるマンションに架かっている橋から、少し下った二本の橋が架かっている間って設定じゃないかと思える。当時の古地図でもあればともかく、基本は、橋の背後が杉貞子のアトリエの脇か近傍の横丁の路地に連なっているってことだろう。それ以上に下るとちょっと無理があるかも。


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 ( 奥に赤レンガ風のシーボルト記念館が覗ける一角。この周辺ぐらいしか対応した場所は考えられないけど、果たして実際は・・・? )


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 「 窓硝子には、貴女が耳環をいぢくりながら何か獨り言を云ふてゐる横顔や姿が、ぼんやり映つて」いたなら、川の対岸間際に庭のある屋敷ということになる。老いた乳母と二人きりのお嬢様画家って趣きだけど、その貞子をシーボルト邸跡前の川縁の、当時は大々的な観光地でもなかったようで、薄暗い街燈が、思い出したようにポツン、ポツンと散在しているぐらいだったのか、真っ暗闇の中で、じっと黒豹が獲物を見定めるように睨めつける鳳雲泰、そして同じ側の茨の陰に隠れて彼の動向を監視しつづける愛弟子の牛島。
 貞子の手中にある紅ダイヤ《 楊妃の瞳 》を嵌め込んだ耳環を取り戻そうと、名状し難い欲動と意識の坩堝と化し、鋭い刃先の骨刀をしっかり握りしめた鳳雲泰が、正にそれを実行せんと眼鏡橋に向かって血塗られた一歩を踏み出した。敢然、最悪の悲劇を阻止するため牛島は茨陰から飛び出そうと身構えた。
 と、その眼鏡橋の向こう、杉貞子のアトリエのある路地奥から、大きな人影が現れた。そしてフラフラとその酔漢らしき人物が眼鏡橋を渡り始めた。
 牛島はじっと茨陰に身を隠したまま、固唾を飲んだ。
 鳳雲泰は出鼻をくじかれたのか、橋の袂に留まり酔漢をやり過ごそうとした次の瞬間、その巨漢の酔漢が彼の宝石店の客で、買っていった鳳雲泰のお気に入りの黄金の宝飾時計が、その酔漢の手に輝いているのを彼は見逃さなかった。
 一閃、手にした骨刀が、酔漢に襲い掛かった。
 が、酔漢は予想に反し、素早く骨刀を取り上げ、逆に鳳雲泰の胸を一突き。巨漢は酔いも醒めたのか、そそくさとその場から逃げ去った。
 その場に崩れ落ちた鳳雲泰は殆ど即死に近かった。
 正に、その場、鳳雲泰の悪運が尽いた、否、因縁の場所というべきか、それがその眼鏡橋の袂だった。つまり、ニュースにこそならなかったものの、実際は、杉貞子のアトリエの眼と鼻の先で、カルマの赤い糸で雁字搦めになった鳳雲泰が業の紅蓮の炎に焼き尽くされていたのだった。

 


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2018年3月31日 (土)

排外主義的残穢

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 昨年末から驚くほどに、散々マスコミ総動員して、戦前もかくの如くだったかと瞠目させた排外主義的キャンペーンたる所謂[ 日馬富士暴行事件 ]、最近になって些か風向きが変わって来たかのような様相を呈しているけど、この手の挙国一致的キャンペーンって、国民の脳裏に刷り込みをし、感性化させれば、目的は十分に果たせたいう代物。
 

 そもそもが貴乃花部屋自体が“札付き”「暴力部屋」でしかなかったようで、それが埒が明かないと原告の元・貴乃花部屋力士に見切られたのか相撲協会への訴訟問題にまで発展し、且つ貴乃花とつるんでいたといういかがわしい顧問までもが協会に訴えられ、窮鼠猫を噛む的な、元横綱の品位もプライドも糞喰らえとばかりのさもしい手段、否むしろ手口というべきか、に走ったに過ぎない。それが、貴乃花の背後にいる黒幕と時の権力サイドの都合と一致したのだろう。相撲バカの貴乃花が一人で、あれだけの用意周到な計画的組織的な一連の行動なんてやれようもないし、思い至りようもなかったろう。

 実際のところ、八角理事長=相撲協会が、貴乃花部屋内部での貴ノ岩の常習的暴力(他部屋のモンゴル力士に対する暴力行為も含まれる)事件とでさっさと貴乃花と貴ノ岩に処分を下していれば、白鵬も日馬富士も貴ノ岩に忠告や叱咤なんてする理由もなくなっていたのだろうから、そもそもが、[ 日馬富士暴行事件 ]なんて起きなかった事件というのが本当のところだろう。
 つまり、本当の被害者は、誰でもない、貴ノ岩の将来をおもんばかった日馬富士だったという訳だ。
 現役の、それも事件の直前場所で、身体の負傷を押して一人横綱として頑張り優勝し相撲人気を保ってくれた横綱を、愚弄し罵り追放までしたのだから、貴乃花・貴ノ岩は、さっさと相撲界から、自ら去るのが筋だろう。
 日馬富士に対して一体いかなる謝罪を、協会と、この国はするつもりなんだろう。

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2018年3月21日 (水)

春三月、木陰にひっそり佇む権藤成卿墓

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 先だって、ハリマオ=谷豊の墓ならぬ、彼の名もその一部として刻まれた戦没者の碑が彼の博多・南区の生家近くにあるってことで、南区に向かう西鉄・天神大牟田線に乗ろうと始発駅たる天神駅に赴いた際、天神大牟田線の行先駅の名がづらり連なって明記されたボードを、皆目見当もつかないエリアであることもあってしげしげと眺めていると、意外と近い位置に「久留米」の名があり、思わず目を疑ってしまった。
 てっきりかなりな遠方と決めつけていたからだけど、駅数から、その上、急行・特急まであるので、結構すんなりいけそうで、うまくいけば三十分ぐらいで行けるかも知れないと胸算用。
 何よりも、久留米といえば、かの岩佐作太郎に[ 国家論大綱 ]執筆の論理的根拠を与えた農本主義思想家・権藤成卿の生地。
 全く未踏のエリアだったのもあって、一度足を延ばしてみようと思い立っての今回の久留米行。


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 ( 左側の肌色の建物がバスターミナル )


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 ( 奥の駅と連結したバス・ターミナル )


 天神駅から久留米まで運賃は520円。
 ところが、驚いたことに、この西鉄・天神大牟田線って、各駅以外の急行・特急とも各駅と同じ料金なのだ。つまり、同一料金で各駅・急行・特急に乗れるってことで、つまり客の用途に応じて選べるのだ。勿論、特急の電車両もいかにも特急って仕様。
 当然、最近博多のベッド・タウン化しつつあるらしい人口30万の久留米には、特急で直行。
 平日だったにもかかわらず、行きも帰りも、乗客が多い。
 30分以上かけ着いた西鉄・久留米駅は、駅ビルにつながっていて、一階西側にはバスターミナルがある。見ると、普通の路線バスに「佐賀」の文字があって、佐賀にも近接した町なのが分かった。長崎に行く折、外縁を通過したことがあるだけで、佐賀も未知のエリア。
 駅の表側には岩田屋という本拠が博多にあるデパートなんかが立ち並んでいて、それなりに都市的景観を呈しているものの、バスターミナルのある側に、時代に取り残されたような旧い褪せた建物が佇んでいたのが印象的。


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 ( 筑後街道沿いの旧民家。同じ左側沿に旧い建物が点々と佇んでいた。時間の関係で傍で観察はできなかったのが残念。)


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 ( 右奥に[ JR久留米大学前 ]の駅舎が覗けている。大学町らしい看板のかかったこの民家も旧い。)
 
 
 [ 信愛女学院 ]行のバスに乗り、メインストリートらしい文化センター通り( 筑後街道 )を走って、[ 千本杉 ]で降りる。
 筑後街道から右側に伸びた県道(800号線)に入ってすぐの踏切を渡って最初の路地を右折し、真っすぐ行くと、民家の奥の突き当りに石垣の上に佇むコンクリートりの御堂らしきものが望めた。
 果たして、そこが目的地、権藤成卿が眠る上隈山墓地だった。
 実際は、ネットを捜しても曖昧模糊としてはっきり明示されてなくて、最初は[ 千本杉 ]で降りてからそのまま筑後街道をまっすぐ進行方向にしばらく歩いて行って、右側に如何にもそれらしく、隠れるように薄暗く佇んだ[ 味水(うまみず)御井神社 ]の境内に紛れ込んでしまった。奥に急で細い階段を上ってゆくとそのままJ久大線の線路に跨った陸橋になっていて、[ 久留米大学前 ]駅の脇に出れる。
 
 
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 ( 色とりどりの梅花咲きほころぶ季節、この民家、写ってない部分にも庭いっぱいに同じくらい梅花が咲き乱れていた。細路の右向うに件の墓地が見える。)


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 ( 空家然とした民家の珍しいベンガラ色の褪せたトタンと白塗り土塀が時代を感じさせる。以前は板塀だったのを上にトタンを張ったのだろう。よく旧い農家で茅葺き屋根をトタンで覆ったりするのと同じ。)


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 ( 周辺には新旧の民家が混在していて、この屋は旧農家のスタイル。)


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 新・旧の民家が立ち並ぶ狭い一角の向こうに、石垣の上にコンクリ造りの納骨堂らしき堂宇と墓標が薄曇りの空の下静かに端座していた。かつてこの辺り一帯、隈( くま )山と呼ばれる丘陵は、墓石立ち並ぶ広大な墓地だったという。地元でも代々続いたそれも独特に異彩を放つ旧家だったらしい権藤成卿一族の墓地も、久留米大学の学部移転建設のため、当時50基ぐらいあったのを15基位いに整理して移し現在の姿に至ったとのこと。
 実際来てみると、権藤家の墓って、この墓地の後側の狭い一角だけで、他は別家の墓のようだった。
 整然と並べられた墓石群は、それでも、他に人影もない静寂に包まれ、長年の暑熱と雨風に晒され苔むしてびっしり刻まれた文字も判別し辛いのが一層情緒を醸し出し、ふっと時間からすべり落ちた消息的異界って趣きだろうか。
 一族の墓所といえば、以前小倉の、巌流島の決戦の場が望める宮本武蔵と佐々木小次郎の碑がある手向山の麓の薄暗い一角に、ひっそりと佇んだ武蔵の養子・宮本伊織の一族の墓所を思い出す。伊織は、剣術指南というより、名家老として高名だったらしいのもあってか、藩主にそれなりの配慮を払われていたのだろう。


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 ( おそらくこのコンクリ納骨堂に、以前あった墓石の遺骨等が収められているのだろう。)


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 ( 丘陵ゆえの傾斜地に建てられているのが分かる。錆びた鉄柵の背後に久留米大学の敷地が広がり、細路の奥には、静かに権藤家の墓所が佇んでいる。)


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 ( 奥の植え込みの陰に覗ける権藤成卿の墓標。)


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 ( 権藤家墓所の入口。門柱には、「 宕陽之郷学 」「 志在明漸化 」とある。成卿の祖先・栄政(江戸時代後期)が近辺にある愛宕山に因んで宕山(とうざん)と号した由。)


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 ( 奥の三基の真ん中が、戦国時代後、この地に移り住んできた(府中)権藤氏の初代・権藤種茂の墓。
 手前右の墓は、天明二年(一七八二)生まれの権藤直( 延陵 )。花岡青洲の春林軒で麻酔術を、長崎でオランダ医学を学んだりして当時名医として誉れ高かったようだ。平戸藩主から藩医に請われたのを辞退し、地元府中にもどっても藩医に請われたのも辞退し、府中の地で開業し、地元民で盛況をきたしたという。また、地元青年を相手に、学問や医術の塾も開いたりし、『救飢論』、『防疫論』なんて著書もあるという。)


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 ( 木陰にひっそりと佇む権藤成卿の墓。)

 
 門から入ってすぐ正面奥の植込みの陰に、隠れるようにひっそりと権藤成卿の墓石が覗けていた。
 木影でうっかりすると見逃してしまいかねない。
 「 成卿先生墓 」と記されている。
 家族というより、弟子や後援者が立てた趣き。
 代々医術・医学あるいは学問の師匠・教授を生業としてきた家系だからか、他のもっと旧い先祖の墓石にも同様の「先生墓」が見られる。

 権藤氏は鎌倉・室町からの豪族・武将の家柄だったのが、関ヶ原の戦で豊臣側についてしまい、父・種盛と兄たちを黒田官兵衛(如水)に殺害され若干18歳だった権藤伊右衛門種茂が、久留米・府中の地に逃げ延び、武士を捨て、医術の途に進んでから代々の医家として名声を馳せてきたようだ。
 明治初年生まれの権藤成卿は、しかし、名医だったらしい父親の士強(松門)が、明治になって漢方が廃され西洋医術が基準となって、代々守って来た医家の看板を放棄し、阿志岐(現・山川村本村)の松門寺跡に起居し、農園をつくり農学的探求にいそしむ様になっていて、もう一方の国学的方途へ進み、宕山秘蔵の南淵請安が記したといわれる[ 南淵書 ]を典拠に、農本主義的世界の構築に邁進したということらしい。 
 成卿の著作は未読で詳らかにしないけど、岩佐が援用した「自然而治」なんか、老子にも通じるものがあって、その東洋的理想社会思想は、戦前、農本主義的な志向をもった人々に、左右を問わず影響を与えたという。
 
 
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 ( 栄政(宕山)の長子、権藤種栄の墓。 )


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2018年3月10日 (土)

眼下の海峡的騒擾を見続けてきた 厳島神社(伊崎) [ 下 ]

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 ここの厳島、鈴ヶ森稲荷の両神社、一通り見て廻って気づいたのは、荒廃とまではいかないものの、些か朽ちた観は否めない。もう一つの新地の長門國厳島神社の方は数百の騎兵隊員の墓標が整列し祀られているのからして如何にもオフィシャル的格式って趣きなのに較べて、この伊崎厳島神社の方はこじんまりとしている。そもそもが、地元漁師町・伊崎の人々の、機縁は源平合戦の時の平家船からの遺物ってこらしいけど、「航海安全」祈願などが主眼なのだろうから、村の鎮守的存在ってところだろうか。
 神社の拝殿の屋根瓦こそまだ葺き替えて間がないのか黒々として艶やかだけど、朱塗装の剥落は昨今のトロピカル的焦熱故ってこともあろうが蔽うべくもなく、境内のあっちこっちに破損・倒壊したまま放置された石柱や石灯篭が転がっていて、中には相当年月も過っているのか土を被って久しいものもある。
 アベノミクス的凋落と言ってしまえば簡単だけど、列島中年々の漁獲量の減少と高齢化で、地元の氏子たちのそれを支える財政的物理的力量も減衰してゆくばかり。かつかつの維持が精いっぱいってとろなんだろう。
 ふと、以前直接眼にして驚いた瓦解と遺棄の完膚なきまでの廃墟と化してしまっていた小倉・頂吉の高倉神社や門司・田野浦の春日神社の惨状を思い出した。ここの神社も、いづれ下界の伊崎の漁師町の活性的崩落によって同じ運命を辿らないとも限らないという一抹の危惧を覚えてしまった。 

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 ( 腐食して倒壊した鳥居もそのままの、人一人がやっと通れる幅の恐らく旧い祠堂。ブログの写真見ると、この鳥居まだ立っていたので、倒壊したのは比較的最近のことのようだ・・・)


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 昼尚仄暗いを絵にかいたような鈴ヶ森稲荷神社の奥。
 如何にも的な怪しげな雰囲気に満ちていて気に入ってしまった。
 尤も、逢魔ヶ時以降は一人居座ろうなんて気は毛頭なく、さっさと退散するに限る。
 いくら本拠地=阿弥陀寺から離れているとはいえ、何しろ[ 耳なし芳一 ]はじめ、平家怨霊の跋扈するエリアでもあるのだから。

 右の小さな祠堂は、[ 稲荷大明神 ]とある。
 その奥の神社の裏口とおぼしき境界に佇む緑蔦繁茂した廃屋と仏像三体。
 戦前昭和の年号が刻印されていた。
 右端の火焔の燃え立っているのが航海安全の[ 波切不動明王 ]。

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 廃屋の横を通る鎮守の森ならぬ裏山に続く裏参道。
 裏山といっても神社自体がその丘の頂上近くに位置しているので、すぐ枯れた草原と雑木林に竹藪の意外と開けた頂きに至る。何か独特の雰囲気の場所で、そこを越え、反対側に行くと、今度は関門海峡から響灘につづく小瀬戸の海に面した伊崎の海岸奥に下る道になる。右手向うに、彦島に向かう高架の彦島大橋が覗けている。
 この神社の一角は廃墟や空家と覚しき旧い建物が多く、全体沈んだ佇まい。
 それだけに、そんなうらぶれたというより、静かな境界世界めいたのが好きな御人には興味深いスポットかも知れない。

 そこで興味深い因縁を紹介すると、この伊崎厳島神社って、戦後間もない1950年に火災に遭って延焼したらしいのだけど、それから42年後、1992年に今度はもう一つの長門國厳島神社の方が、浮浪者の放火によって燃え落ちていたという。
 つけ火といえば、すぐにJR下関駅の放火炎上が思い浮かぶ。
 それが、ちょうど、その長門國厳島神社の燃えた年から14年後の2006年。
 つまり、皆「7」年の倍数(間隔)。
 そして、その「7」年にこじつければ、これは火災とは少し離れてしまうけど、下関の事件として一番有名になったのが、1999年の下関駅無差別殺人事件。
 正に世紀末ミレニアム的因縁の年。
 そして、もう少しこじつければ、2013年周南市金峰で起きた所謂「山口連続殺人放火事件」もあった。
 ラッキーナンバーのはずが、アベノミクス本拠地じゃ、凶数となってしまったって訳だけど、高杉晋作たちが命をかけた維新革命も、戦後半世紀自民党支配およびアベノミクスですっかり息の根を止められてしまって、新地の地下で眠る晋作も浮かばれず、あるいは悲惨な末路を辿ることとなった奇兵隊員たちが怨霊となって警鐘を鳴らしてでもいるのだろうか。
 ついそんな仄暗い想念に捉われてしまう2018年の伊崎・厳島神社の初春であった。  
 


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2018年3月 3日 (土)

眼下の海峡的騒擾を見続けてきた 厳島神社(伊崎) [ 上 ]

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 かつて高杉晋作が長州=幕府の所謂[ 四境戦争 ]の際、下関の厳島神社に戦勝祈願に赴いた由の記事があったのをふと思い出し、二月下旬の、ほんのちょっぴり春の気配が感じられるようになってきたある日、別に何の祈願があるわけでもない専らの好奇心で訪れることにした。
 ここは、下関駅からも近いってこともあって簡単に行けるのだけど、駅前から山陰方面に向かう幹線道路沿いの
両側に早速すっかり燻(く)すみ淀んだ空ビルや廃墟と覚しき建物が続いていて、幕末の晋作の頃には、日本中の大店の支店が軒を連ね繁華を極めていたはずが、アベノミクスの本拠地にもかかわらず専らなる凋落の一途って趣きには来る毎にむしろ白日夢的境界感に陥ってしまう。


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 大通りから一歩奥に踏み入るともうそこは民家とかつての商店の蝟集した一角で、その仄暗い廃残的気配がどんよりと色濃く漂っている。細路・路地裏は普通に無人で稀に老いた人影がも一つ覚束ない足取りでゆっくりと通り過ぎてゆくばかり。晋作所縁(ゆかり)のスポットも隠れていたりするそんな狭い路地の向こう上方に、ふっと件(くだん)の厳島神社の朱塗りが覗け見える。と、ある路地の角に、[ 鈴ヶ森稲荷神社 ]の表示。鈴ヶ森・・・あの刑場で名高い鈴ヶ森? けど、あれは関東の方だったはず・・・それにあれって神社だった? その路地奥から狭い石段がずっと厳島神社と同じ方角に伸びていて、・・・訝しい想念を燻らせながら好奇心に駆られ、崖に沿った狭い石段をトボトボ登ってゆくと、本来の参道に出、朽ちた民家と樹枝のしなだれかかる石垣に挟まれた薄暗い参道の途中から朱色の鳥居の列が続いていた。


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 寄進者の名を刻んだ石欄干も長年の雨風に、とりわけこの十年来の列島トロピカル化の強い陽射しに侵食され継ぎはぎしたものも少なくない。さすがに明治以前のものはないようだ。ふと、何処かで覚えのある字面に眼が止まった。暫し記憶を手繰ってみる。
 「籠寅」・・・かごとら。
 ひょっとして戦前、明治・大正・昭和と勇名をはせたらしいあの地元下関の侠客?
 果たして、同じ石の隣面に、本名がちゃんと刻まれてあった。地元の企業家でもあり衆議院議員でもあった大親分で、お決まりの芸能興行なんかも手広くやっていたようだ。それぞれの顔での寄進という訳か。
 も一つ驚いたのは、「馬場遊廓」の刻印。
 対岸の門司港の遊廓で、遠く平安時代までさかのぼるといわれる格式ある稲荷町遊廓や維新以降隆盛となった新地遊廓等、[ 花魁道中 ]とも合わせて遊廓の本場の観のある下関の神社の欄干に名を刻むとは、他にも門司の地名の冠された商店らしき名があっちこっち散見されているのも鑑みると、「商売繁盛」のご利益で知れ渡っていたのだろうか。

 

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 斜面に面した石段を渡り了えると、眼下に手前の漁師町・伊崎から下関駅方面のびっしり連なった街並みが俯瞰でき、その林立するビルの向こうに関門海峡が覗け、その当時(源平)はまだなかったらしいこの神社の高台から、視界を遮えぎる建物とてない海峡で繰り広げられた、源平の戦や欧米四国軍との長州戦争、晋作たちの活躍した長州=小倉・幕府の戦、そして遥か上空から雨あられと落とされてくる米爆撃機の焼夷弾や機雷の異様な軌跡と炸裂の様を、人々は、一体どんな思持ちで眺めてきたのだろう。

 小倉藩=幕府軍との晋作ら長州軍との戦は、長崎から軍艦ユニオン号=乙丑丸(いっちゅうまる)に乗って届けに来た坂本龍馬や海援隊も参戦し、ちょうどこの丘の真ん前辺りで、龍馬の乗った乙丑丸が幕軍軍艦や門司(小倉藩=幕府軍)沿岸に大砲で猛攻撃をしかけていたようで、そんな戦況が手に取るように確かめられたろう。
 この境内、登って来た崖沿いの参道の前にあるのが鈴ヶ森稲荷神社で、奥の、つまり下から真っすぐ伸びた正面の石段が正門で、その突き当り正面に鎮座しているのが厳島神社であった。
 鈴ヶ森神社は末社とあって、あくまでメインは厳島神社らしいけど、どうひいき目に観ても、隣り合わせた末社のはずの鈴ヶ森稲荷に比べて建物が簡素。祠堂にほんのちょっぴり神社らしい粉飾をほどこし朱塗りしただけの観が強い。

 境内に由緒記があるのだが、晋作の一文字もなく、両神社とも専ら源平合戦起縁ばかり。
 実は、この下関には、歩いて幾らもかからない晋作に縁の深い新地界隈に、もう一つ、厳島神社があって、晋作が必勝祈願したのはどうもそっちの方らしい。吉田松陰・晋作はじめ奇兵隊数百人の墓柱まで奥の院に祀られているというのだから先ず間違いない。よく見てみると、こっちは「伊崎」厳島神社となっていて、新地の方は「長門國」厳島神社という。まぎらわしいけど、海峡を渡った門司・小倉のかつての小倉藩の所謂企救半島にも、天疫神社がそれこそあっちこっちに建っている。とんだ勘違いだったという訳だ。
 

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 ( 右の手前を向いている方が鈴ヶ森稲荷神社で左の横向きが厳島神社。その前に正面の石鳥居があって、下方の海岸に面した漁師町・伊崎へ急勾配の石段がまっすぐ伸びている。)

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2018年2月10日 (土)

ジャワ少女的動乱史 《 諦め 》

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 例によって、図書館の払い下げ書籍の一冊、《 インドネシア短編小説集 》(1983年)の中に面白い作品を見つけた。
 プラムディア・アナンタ・トゥル《 諦め 》(1950年6月)という、日本軍がジャワに侵攻してきた頃から、独立、内戦、オランダの再占領と果てしない戦乱・内乱に否応なく巻き込まれてゆく少女スリとその姉妹を中心にした物語。
 最初、日本軍のフレーズが目に入ったので、インドネシアにおける日本軍って、現地の人達から視たらどんなのだろうとページを繰り始めたのだけど、読んでみると、古さをまったく感じさせない読み応えのあるスリリングな激動史的翻弄流転譚だった。


 大東亜戦争・太平洋戦争において旧日本軍は、石油の確保のため、《対英米戦争》開戦後二週間ほど過った1941年12月20日に、先ず在留邦人保護の名目でオランダ統治下のインドネシアのダバオに上陸、翌1942年1月11日にタラカンとメナドに上陸し本格的に《 蘭印作戦 》(H作戦)を展開、3月1日には最終目標地といわれたジャワ(島)に上陸。
 この小説の舞台となった中央ジャワ県の中心地ブロラは、現在でも人口五万人の小都市だけど、沿岸と内陸を結ぶ交通の要衝らしく、侵攻してきた日本軍も押し寄せて来たようだ。


 「 日本は、地理学さえ忘れていた町も見逃さなかった。・・・
 私は、いまでもよく憶えている。
 あの時日本軍は、完全武装の兵士を乗せたトラック二台でやって来た。その後に、死体を鮨詰めにしたトラックが四台続いた。死体の上には幌が掛けてあった。幌をきっちりかけすぎたせいか、死体は痙攣した口を天に向って喘がせていた。しかし、そんなことはどうでもいい。大事なのは、日本軍が来たことだ。役人たちは、臆病風に吹かれた鶏のように為すすべを知らなかった。悪人と善人とに充ちた、貧しく小さな町は、大騒動だった。」

 
 この“ 悪人と善人とに充ちた、貧しく小さな町”ってさり気ないフレーズが好い。やがてこの小さな町=ブロラを襲う運命を暗示するフレーズでもある。


 「 侵攻後の一週間、略奪がまかり行われた。町は、近郷近在からの人びとで溢れた。自分たちの土地で暴威をふるったオランダの最期を見届けようと押しかけたのだ。
 ・・・・・・
 しかし、それも束の間、その政治の空白を軍政が埋めた。全ゆる貼紙に日の丸が描かれ、刑罰による威嚇がどうにか二十四時間治安を維持するようになった。
 ・・・・・・
 自由経済における流通の中核たる商店には、略奪されつくして、もはや商品は何も残っていなかった。商業活動は全く停止してしまっていた。しばらくして略奪品が市場に溢れたが、三週間もすると、もうそれも底をついた。小さな町は、陸に投げ出された魚のようにじたばたするだけで、日用品の流通は途絶えたままだった。
 物心両面の混乱が続けざまに起こり、人々は、一人また一人、悲しみと空腹で死んでいった。
 スリの母親が亡くなったのもそんな時だった。」

 
 「 スリはまだ小さかった。少し泣いただけだった。すぐ泣き止んだ。家計の苦しさなど、彼女にはまだ分からなかった。それが一九四二年五月、彼女が私立小学校の五年生になったばかりの時だった。
 日本は、オランダの遺習や民族主義傾向のある私立学校を無くそうと真剣だった。」


 「 大日本帝国陸軍の上陸は、若者たちに活気を与えた。彼らは、日本人に瞠目した。日本人は、アジア大陸においても、アジアの島々においても、白人帝国の威望を瓦解させたのだ。・・・・・・
 あれこれの即成教育が始まった。まず日本語の即成教育だった。若者たちは大和魂に触れたいと願った。」


 スリの父親も、日本軍が上陸して来る以前から、支配者オランダ憎しのせいもあってか、日本語を学んでいた日本贔屓(びいき)というより心酔者で、上陸してからは、日本軍=独立のために家庭を顧みることもなく東奔西走の毎日。
 母親が亡くなったためにすスりが一人で、妹ディアと三人の弟フスニ、フトモ、カリアディの面倒を見ざるをえず、あと二ヶ月を残したまま小学校を辞めなくてはならなくなってしまった。けれど、何とか自分も姉のようにちゃんと卒業資格をとって外で働きたいスリは、再三、二つ年上のイスにあと二ヶ月だけ働くのやめて家で兄弟の面倒を見てくれまいかと掛け合うのだけれども、巌として受け付けてくれず、とうとう諦めてしまう。
 姉のイスはタイピストとして働き家計を助けていたものの、出稼ぎに出て行ったまま音信不通の上二人の兄達は、知らない内に日本軍とともにビルマ戦線で戦っていて、ある日突然二人の戦死の報が舞い込む。( 実際に戦死したのは長男のスラディだけで、次男のスチプトは戦後だいぶ過ってからの独立戦争の真っ只中に、よりによってオランダ軍の軍服姿で現れ、それが災いして近所の連中に家を焼かれてしまう。)
 兄二人の戦死の報が届いてからというもの、父親はすっかり落胆し、口数も減り、日本軍政府の支援活動から次第に遠のいていった。


 「 時代も世界も、日本と日本軍とを甘やかしてばかりはおかなかった。栄えるものの常で、日本も日本軍もやがて凋落した。
 ・・・・・・
 変化が始まった。
 ・・・・・
 あちらこちらでも、礼拝所では、新しい国家の平安を祈る礼拝が行われた。
 ・・・・・・
 人びとは導師( 注・イスラム教の )の言葉を鵜呑みにした。
 スリの一家も、大日本帝国の占領による長い闇をぬけて、独立によって息を吹き返した。小都市の私たちの町では、どの家族も希望に輝いた。大体のところインドネシア人は希望が有りさえすれば、それだけで幸福になる。
 ・・・・・・ 
 きらびやかな独立だった。まるで昔物語にある勇者の凱旋だった。その独立も、時がたつにつれて、何時しか苦しい茨の道に変わった。気づいた時には、植民地の方が良かったのか、独立した方が良かったのか、判らないな状態だった。イデオロギーを持った人間と、利権漁りの亡者だけが、勢よく跳ねまわって、口角泡を飛ばしていた。」


 失意の底にあった父親も、さっそく国民委員会の委員となって、再び精力的に活動し始めた。
 通りには、銃こそ少なかったものの山刀や包丁ですら持ち出し武装した青年たちが闊歩し始め、姉のイスもインドネシア社会主義青年同盟に参加し、新生社会のれっきとした一員として活動を開始した。
 スリも既に十八才になり、妹のディアも中学生になっていた。
 そんな折、別の風が東から吹き出した。


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 「 あれは、既に何時間も前に太陽が地平線に沈んでいた時間だった。ふだんはたくさんの兵士が徘徊している道路も静まり返っていた。人々は、まだその変化に気づいていなかった。
 ・・・・・・
 『 赤が来るぞ ? 』
 市場のざわめきが一瞬静かになった。
 『 赤が来たぞ ? 』もう一度叫び声が聞こえた。
 何人かがその叫びを繰り返した。市場のざわめきは完全に死に絶えた。
 静寂だった。
 ・・・・・・
 人々がそれぞれの安全な場所に身を隠す前に、赤軍は私たちの小さな町を占領した。一時間たち、二時間たち、三時間が過ぎた。辺りはひっそりしたままだった。そして世があけた。」


 赤軍がブロラの町を占領して一週間目に、頭に巻いた赤い布をなびかせてイスが馬にまたがってが帰って来た。すっかり、“自覚した”赤軍戦士然として。
 次にはイスが所属しているらしい騎馬伝令隊のイスと同年齢ぐらいの美人の隊長を伴って。その隊長に入隊を求められ、妹のディアが自分が犠牲になろうとして行く事を決意したのをスリは押し止め自身が入隊した。


 「・・・『 お父さんを連れて行ったのは、赤軍警察よ。』と、ディアは、息を荒げて言った。『 それに、お姉ちゃんは、』と、イスを指差して続けた。『 お姉ちゃんは、病気のお父さんを連れて行った赤の手助けをしているのよ。今度は、妹を赤に売った。お姉ちゃんは、自分と妹を売ったのよ。』」


 暫くして情勢はまた変転した。
 今度は、元の植民地支配の再開を目論んだオランダ軍が再上陸してきたのだ。ブロラにも忽ちにオランダ軍が攻め込んで来た。


 「 赤軍の侵攻と、オランダ軍の侵攻とは、少しやり方が違っていた。赤軍の時には、一発の銃声も聞こえなかったが、オランダ軍の場合は、焼土作戦で、砲声が小さな町を包んだ。日本軍の時と、全く同じだった。」


 そんな最中、ボロボロの衣服をまとっていても一目で赤軍の敗残兵と分かってしまう痩せ細った風体の女が、よろよろと現れた。スリだった。シリワギ軍に追われ、乗っていた馬が撃たれ、崖から転落して片腕を骨折していた。イスは全滅したスマラン近郊に本隊とともに向かっていたらしい。兄弟皆が喜びと安堵の涙を流したのも束の間、今度は、とっくに戦死していたはずの次男スチプトが両の眼を赤く充血させオランダ王国軍の軍服姿で戸を叩いた。しかも、これ見よがしに、表に自動車まで停めたまま。
 案の定、自動車は焼かれ、スリたちの家にも火が放たれた。彼女たちの一番恐れた事態。スチプトは慌てて外に出、再び戻ることがなかった。燃え盛る炎に、さすがに兄弟たちも逃げ出し、畑の藪に駆け込んだ。一層夜闇に真っ赤な炎をあげて、スリたちの家が燃え上がってゆくのをいつまでも眺めつづけるのだった。


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 状況も設定もまったく違うのだけど、直(ひた)向きなスリを見ていると、ベトナム戦争の真っ只中で親や姉妹を米軍や南ベトナム政府軍に散々な目にあわされ殺害され、その恨みを晴らさんがため、少年少女たちで組織された拳銃と爆弾を隠し持ってのテロリストの途へ直走っていったベトナム娘クイ(《 ツバメ飛ぶ 》1989年)を想い出してしまう。
 日本軍が持ち込んだ“隣組”のせいばかりじゃあるまいが、中国の文化大革命期を彷彿とさせる悉皆敵といわんばかりの喰うか喰われるかの疑心暗鬼・監視密告の閉塞的極限状況の連綿って、何ともアジアは、否、当時の言葉を借りるなら、“第三世界”は何処も自由と解放への契機を孕むものであったとしても同じ悲惨な時代状況にあったのだな、と改めて思い至らせられてしまった。


 作者のアナンタ・トゥル( 2006年没 )、ネットで調べてみると、嘗てノーベル文学賞候補にもなったインドネシアじゃ高名な作家であり、且つベスト・セラー作家でもあったらしい。
 オランダ支配に抗する運動に連座し2年ほど投獄され、この短編が執筆された15年後の1965年に起きた《9・30事件》( CIAも関与していたらしい )でも逮捕、スハルト政権に政治犯としてブル島に10年以上も幽閉され、その後も10年以上自宅軟禁状態に置かれていたという。
 2000年、福岡アジア文化賞を受賞した際にもスハルト政権が出国を許さず、ジャカルタでインタビュー( 朝日新聞 )をしたという。


 三十二年間のスハルト政権とは何だったのか。

 “ ヒトラーと同じファシズム体制だった。ヒトラーに対しては全欧州が抵抗したが、スハルトには、だれも抵抗しなかった。同時代を生きた知識人があまりにも無力だった。西側諸国もスハルト支援に回った。”


一九六五年の九・三〇事件がスハルト政権を生み出した。事件後の共産党弾圧では、五十万人が殺されたともいわれる。

 ”初代のスカルノ大統領は「反植民地主義、反資本主義、反帝国主義」だった。九・三〇事件は、そのスカルノ政権を倒すために利用された。共産党によるクーデター未遂事件とされ、共産主義者は「人殺し」とののしられた。だが、殺されたのは共産党員だった。”

《 インドネシア短編小説集 》監訳 : 佐々木重次( 井村文化事業社 )1983年

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2018年1月20日 (土)

七彩のアジア的幻視 ? 《 シャンバラの道 》 ニコライ・レーリッヒ

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 シャンバラ関係の定番とも謂うべきニコライ・レーリッヒの《 シャンバラの道 》(1996年)、眼を通してみると、シャンバラの探求書というより、1920年代( 大正後期~昭和初期 )のチベット=東洋文明に関するレーリッヒの著作を集めたアンソロジーってとこで、シャンバラに言及したのは一部。どころか、レーリッヒ、当時のチベット仏教の現状にかなり辛辣な言及をしていて、それはそれでリアルで興味深い。
 

 レーリッヒとその家族がチベット=アジアを旅したのは1920年代で、英国(インド)・ロシア・中国・米国・日本等の列強がそれぞれの己が利益と侵略的野望のためにチベットを篭絡し浸蝕し、ダライ・ラマ13世、パンチェン・ラマ ( タシ・ラマ ) 9世たちが遁走・奔走に明け暮れる正に混沌の坩堝。
 いやでも命がけの、否、何人もの犠牲者すら出しての過酷なチベット=シャンバラ探求行となってしまった。厳しい自然的環境の故というより、専ら当時のチベットに蔓延していた頽廃と政治的な無能・悪辣の故。
 実際にチベットに入ってレーリッヒが何よりも一番驚いたのが、チベット僧( =ラマ僧 )たちの無能と堕落だったようだ。

 
「 あるラマは雪雲を阻んで、雪を解かしてやろうと申し出た。この気象上の現象がごく手ごろな値段で手に入るという ── すべてひっくるめて二アメリカ・ドルだ。わたしたちはそれをのんだ。ラマは骨の笛を吹き、まじないの言葉を大声で叫んだ。が、彼はなかなかの商売人で、私たちにその二ドル分のご大層な領収書をよこした。私たちはまたとない好奇心でそれを取っておいた。雪は降りつづき、さらに寒さが厳しくなっていたが、それはどうでもよいことだった。このタントラ行者はくじけなかった。彼は自分の黒い天幕の上に紙の風車のようなものを取り付けて、ひと晩中、人間の骨でできたらっぱを吹き鳴らしていた・・・。」


 「 ダライ・ラマから特別な信任を得ているあるラマ僧の外交官は、私たちがある僧院に灯明の油代として一〇〇ナルサンを寄進したことを聞いて、にわかに怒り出した。彼は言った。『 いいですか、ここの僧侶はあなた方の金を自分で着服してしまい、けっして灯明に火をともすなんてことはしませんよ。聖像に明かりを供えたいのでしたら、この私から油をお買いなさい』」
 

 「 中央チベット、シェーカル地方で、数人のラマが近づいてくるが、そこで聞かれるのは祈りではなく、市場(バザール)を訪ねたことがある者にはおなじみのあの言葉だ。驚くなかれ、市場の乞食の『 バクシーシ(お恵みを)』という言葉をきわめてはっきりと聞き取ることができる。このラマの口から聞かれる『 バクシーシ』という言葉には、何ともがっかりさせられる。こういった大勢の役立たずやろくでなしは、いったいどこからやって来るのだろうか?」


 「 というわけで、すべての有害で無知な条件を排除したときに、チベットにおいてはより高い教えへの意識ある崇敬は、その多くが人里離れた場所で隠遁生活を送る、少数の人びとによってなされいることがわかる。チベット人たち自身が、仏陀の光明の教えは、チベットでは浄化される必要があると言っている。
 ・・・・・ダライ・ラマの命令が、ラマの城壁を越えても大いに価値があるのだと考えるなら、それは間違っている。私たちはこれ見よがしな、何もかもひっくるめた、ダライ・ラマの政府が発行した旅券を持っていたが、まさに私たちの目の前で、人びとは自分たちの支配者の命令を実行することを拒絶した。『 私たちはデワシュン(政府)のことは知らないのですよ』と長老は言った。そして各地のゾン(注:チベットの行政的宗教的及び軍事的拠点ともいうべき城砦 : シガツェのが有名らしいが最近再建されたもので、むしろブータンに本来の姿で残っているという)の官史たちは、自分たちが恥ずかしげもなく要求した袖の下がどれだけ気前よく払われたかに応じて、それぞれがその旅券の内容を勝手に解釈する方法を編み出しているにすぎない。」


 「 ・・・・・・チベット高地の部族ホル人は、自分たちをラサのチベット人といっしょにしないでほしいと私たちに頼んだものだった。アムド出身の人びとやカムに住む人たちは、つねに自分たちはラサの人間と違うのだと強調する。
 ・・・・・ラサ以外の、これらすべての人たちは、きわめてあからさまにラサの官史に対立したことを語る。シャンバラからの新たな支配者が、数えきれないほどの兵士を引き連れてやって来て、ラサを打ち破り、その城塞の内部に正義を確立するという予言を、彼らは引き合いに出す。これも同じ人々から聞かされたことだが、タンジェリンの僧院に端を発する予言によれば、現在のダライ・ラマは十三世にして最後の支配者と呼ばれているということだ。また、ほかのいくつかの僧院から流された予言では、真の教えはチベットを離れて、その発祥の地であるボーディガヤに再び戻るということだ。」


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 首都ラサはあたかも頽落した伏魔殿の様相すら呈していたかの如く。けれど、更にレーリッヒの癇に障ったのが、チベットに仏教以前からあった土着の宗教といわれていた《 ボン教 》であった。


 「 しかし、民衆のかなりの部分が、仏陀をまったく拒絶し、完全に独自な守護者と導き手を主張するボン・ポ、『 黒教 』に属していることを忘れてはならない。彼らは公然とすべての仏教徒たちを敵とみなし、ダライ・ラマを宗教的な力を持たないたんなる世俗の支配者としてしか認めていない。これらの人びとはきわめて強情であり、仏教徒もラマ教徒も自分たちの寺院に入ることを許さない。彼らの儀式では、あらゆるものが逆向きにされる。
 ・・・・・・彼らの間では、もっとも低いたぐいのシャーマン教、黒魔術などが実践されている。まるで中世にいるような錯覚に陥る。」


 当方も以前、ダライ・ラマと亡命政府の居地ダラムサラに滞在した折、ボン教徒を自認する学生に遭ったことがあった。他のチベット仏教徒の学生たちと一緒に、これからのチベットのありようを模索していた普通に明るい人見知りしないタイプの学生で、ボン教はチベット仏教と共存している口吻だったけど、後にも先にも当方が実際に接した唯一のボン教徒であった。
 レーリッヒが訪れた当時は、まだ、チベット文化一般、いわんやチベットの宗教の研究レベルなんて低く、時代的制約というべきレーリッヒのボン教観であって、ボン教自体は結構その始原は古く、古代中央アジアってことらしく、チベット仏教の最古二ンマ派とも互いに影響し合っていたともいい、幾年も滞在していた訳でもない所詮一外人旅行者に過ぎないレーリッヒたちが、アニミズム的所作の毒々しさに幻惑させられ、チベット僧=役人たちの低劣な行状に辟易し、あげくレーリッヒ一行は彼等のために幾人もの犠牲者すら出さされてしまっていたという状況故に、勢い厭わしいものに観えてしまったのだろう。そんな悪しきアニミズム的産物を一刀両断に一蹴し、創造的進化=シャンバラの御旗を高々と掲げてみせる。


 「 仏陀の誓約を守ることには高い責任が課せられる。迫りくる啓発されしマイトレーヤ( 弥勒菩薩 )の再来の予言のなかに、創造的進化に向けた足がかりを見ることができる。シャンバラの偉大な概念は、人に間断ない知識の蓄積を求め、啓発された労働、そして広範な理解力を求める。この気高い理解のどこに、最下位のシャーマニズムや呪物崇拝が入り込む余地があるだろうか? 」


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 シャンバラ自体に触れているのは、「 ラマよ、シャンバラについて教えてください!」から始まる表題作の第一章《 輝きを放つシャンバラ 》だけど、もはや流布したシャンバラを語る上での定番と化したエピソード・言説のオリジナルの出所がここなので、逆倒した表現をすれば、特に目新しさはない。
 

 「 私は高き魂が、すでに準備が整えられているならば、シャンバラへと呼び招く声である『 カリギヤ 』の叫びを聞くことを知っています。私たちはどのタシ・ラマ( パンチェン・ラマ =ダライ・ラマと並ぶチベット仏教指導者 : この時代に既に中国権力との係わりが強かったようだ )がシャンバラを訪れたのかを知っています。私たちは大僧正タイシャンの『 シャンバラへの赤き道』という本のことを知っています。・・・・・・」


 そのレーリッヒの問に、ラマはこう答える。


 「 大シャンバラは海を越えたはるか彼方にある。それは広大なる天上的な領域だ。私たちのいる地上とはまったくかかわっていない。何ゆえに、どうしてこの世の人びとがそれに興味を持たねばならないのか?・・・・・・」


 「 ラマ、私たちは偉大なるシャンバラのことを知っています。私たちはそれが実際には言葉にできない領域であることを知っています。が、私たちはまた実在する地上のシャンバラについても知っているのです。身分の高いラマがシャンバラに行った話や、その途中では、まさしくこの世の風景を目にしたという話も聞いています。
 ・・・・・それどころか、私たち自身が、シャンバラの三つの前哨地のひとつである白い国境哨所を見たのです。ですから、どうか私に天なるシャンバラについてだけでなく、地上のそれについてもお聞かせください。」
 
 更に、

 「 ラマよ、いまだに地上のシャンバラが、旅人たちによって発見されないでいるのはどうしてなんでしょうか ? 地図の上にはすでに多くの探検家の足跡がしるされています。すべての高みはすでに征服されて、すべての渓谷や川は踏査されてしまったように思われます。」


 「 まことに、地中には多くの黄金があり、山々には多くのダイヤモンドやルビーがあり、あらゆる者がそれらを喉から手が出るほど欲しがっている ! じつに多くの人びとが、それらを見つけようとしている !
 ・・・・・・多くの者たちが、呼ばれてもいないのに、シャンバラに至達しようとした。彼らのうちの多くが永遠にこの世から消えてしまった。ごくわずかな者だけが、神聖な土地に到着したが、それはほかならぬ彼らにカルマの用意ができていたからだ 」


 「 法を侮ってはいけない ! 熱烈な労働のなかで、シャンバラの使者があなたのもとを訪れるのを待つがよい。彼が絶えざる達成のただ中に現れるのを。力強い声が『 カリギヤ ! 』と叫ぶのを待つことだ。そのときは安全に、このすばらしい事柄のなかへと入ってゆけるだろう。むなしい好奇心は誠実な学習へと、高き原理を日々の生活に適用してゆくことへと変容されなければならない」


 「 カーラチャクラに明らかにされているものとは何か ? そこには禁忌というものがあるのだろうか ? いいや、高雅な教えは建設的なことしか示さない。そういったものなのだ。この高き力がすべての人類に差し出されている。元素の自然力を人類のために使う方法が、きわめて科学的に説き明かされている。『 最短の道はシャンバラにある、カーラチャクラにある』と言われているが、それは勝ち取られるものが達成不可能な理想なのではなく、誠実で勤勉な努力によって、ここで、このまさに地上で、このまさに生において達成されうるものであることを意味している。これがシャンバラの教えだ。まことに、だれもがそれを達成しうる。まことに、だれもが『 カリギヤ ! 』の叫びを耳にすることができる。」


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 もはや、現ダライ・ラマ14世ですら、シャンバラってこの世に実在するものではなく、あくまで方便と公言する時代であってみれば、残るのは我が内なるシャンバラ探求あるいは嘗てのもはや失われた理想郷跡の考古学的探求ってところだろうか。そもそも、このレーリッヒもそうだけど既存のシャンバラ志向って、基本賢人政治。その本質はファッシズム=全体主義。そんなものは御免こうむりたいものだ。
 むしろいっそ樹立されるべき人類的理想郷として探求・建設してゆくものとしてのシャンバラ、それこそが今日的な在りようではなかろうか。 
 かつて尊師・麻原彰晃率いる《 オーム真理教 》もシャンバラに言及していたけれど、如何なる現実的力学によってか、インドからチベットに仏教をもたらしたといわれる蓮華生パドマ・サンバヴァの“ ボア ”の概念やミラレパ的カルマを援用したような所謂《 ハルマゲドン 》( 世界最終戦争 )の果てに幻視した彼らの王国とは、果たして、七彩に輝くものだったろうか。

共にダライ・ラマ十三世( 現在のは十四世 )と係りがあったらしい同時代人の同じロシア(アルメニア)出身の神秘主義的思想家グルジエフとは、神秘主義的思想活動の他に、グルジエフが舞踏・作曲、レーリッヒが絵画・音楽舞台美術に特異性を発揮してて、随分と肌合いが違う。只、レーリッヒの方が、ノーベル平和賞候補に挙げられたり、ソ連からロシアに変転する頃活躍した大統領ゴルバチョフにも高く評価されたりの紛う方ないエスタブリッシュメント的存在だったのは意外。でも、考えてみれば、既に1913年、ニジンスキーが振付けをしたストラビンスキーの《 春の祭典 》のパリ初演の際、舞台美術を任されるほどの著名人だったのだから、別に不思議なことではないだろう。 


 学研版の田中真知の《 理想郷シャンバラ 》(1984年)のリファレンス的ポジションは、尚も不動のままってところのようだけど、30年以上も過ぎているのに中々これを越える《 シャンバラ 》論の決定版って出てこないってのも残念。そもそも学研の、ジュニア世代を対象とした“ ムー・シリーズ ”の一冊なんだから、いくら田中真知がかっちり作った労作であったしても、こうも越えるものが出現しないってのも情けない情況には違いない。


 《 シャンバラの道 》ニコライ・レーリッヒ
           訳 : 澤西康史 ( 中央アート出版 )1996年

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2017年12月31日 (日)

 ラビットの誘う不気味な世界 《 魔女 》The Witch

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 1620年、英国プリマスから、英国・国教会に否を唱え、自分達の宗教世界を実現せんと清教徒ピューリタン一行が、草創期の米国植民地に到着してから十年後、1630年の、とある東海岸北部のニューイングランドの入植地にある集会所での会衆シーンから映画は始まる。
 その入植共同体の責任者から、正に、その教団=共同体からの追放の宣告を受けようとする一家の家長は、尚も頑なに神の摂理に沿わない旨を根拠にその教団=共同体を指弾した。
 解る人たちにはその場面のあれこれで了解できてしまうのだろうけれど、英国キリスト教なんぞにてんで知識のない当方には、単純に画面でこれ見よがしに描かれたもの以上の理解は不可で、そもそも、その共同体がピューリタンのものなのかどうなのかも定かでなく、もしそうだったらその一家は体制内改革派のピューリタンを批判する分離派ってことになるけど、ひょっとしてその共同体の方が分離派で一家はピューリタンだったってこともあり得る。あるいはもっと別様の異端派なのか。その辺のところが特に明示されてないので甚だ曖昧なまま、しかし、物語はどんどん進行してゆく。
 結局、一家は追放されてしまう。
 やがて、こんもりと茂った森と対峙するように彼らの家があった。
 一見、前途洋洋、漸く手に入れた自分達だけの新たな生活に浮かれているようにさえ見えてしまう。が、自給自足の、他に助けてくれる者もない自分達の力だけで一切を作り出し賄ってゆかねばならない生活に、やがて疲れと焦り=不安めいたものにじわじわと捕らわれ始めてゆく。メイフラワー号には、ピューリタンとは別個に植民地建設に必要な経験と力量を備えた男達が乗り込んでいたけれど、そもそも追放された一家は一般の信者家族でしかなく、ゼロからの開拓をそれも一家族でだけで完成できるほどの力量も経験も乏しかった。さっそくその破綻があっちこっちで燻り始めていた。


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 そんな矢先、庭先で、長女トマシンが乳児をあやしている内、忽然と乳児が姿を消してしまった。ほんの一瞬間のタイム・ラグの間隙を衝くように。
 トマシンは、すぐ真ん前に拡がった森の中を必死に捜し廻った。
 ( 乳児は森の奥深く隠れ住む魔女にさらわれ、殺害され、魔女はその血を自分の裸体(からだ)中に塗りたくった。)
  
 夜半、経済的に窮してトマシンを出てきた共同体のある家に奉公に出そうと両親が相談しているのを盗み聞きしたトマシンと弟のケイレブが、ひょっとして森に仕掛けた罠にかかっているかも知れない獲物を採りに向かう。もし獲物がかかっていればそれを食料にするか売るかして家計の助けになるから。そして、獲物がどんどん獲れるようになってゆけば・・・。ところがトマシンとはぐれてしまったケイレブが、件の魔女の手管にかかってしまう。
 物語の終わり近くで初潮を迎えるトマシンが15才、姉のトマシンのふくらみ始めた胸元が妙に気になってしまうケイレブが12才くらいの思春の頃。この森の魔女に、というよりも、トマシンとは相違して大きく成熟しはちきれんばかりの魔女の胸のふくらみに吸い寄せられるように、若いケイレブに舌なめずりして瞳を輝かせた魔女の肉厚な唇に簡単に絡め獲られてしまう。中近世のキリスト教と異教世界、暴力とエロス=処女って世界、ふとベルイマンの《 処女の泉 》を想起してしまった。

 やがて素っ裸のままのケイレブが転がり戻って来た。

 土間に寝かされたケイレブ、うわ言の果てにのけぞって法悦の笑みを浮かべ死んでしまう。夭逝を悼んで皆で祈りを捧げようとすると、小さな双子達が聖句を唱えるのを忌むように騒ぎ立てはじめ、あげく、乳児が居なくなったのもケイレブが失踪しこんな無残な死に至ったのもトマシンが魔女だからよ、と彼女を指弾する。トマシンも負けじと、二人は飼っている黒い雄山羊といつも話しをしているとか、乳児が居なくなった際も女が連れ去ってゆくのを見えたという訳で、双子達こそが魔女と言い返す。
 が、次第に、状況はトマシンに魔女の烙印を押すことに。
 父親は双子と一緒にトマシンを納屋に閉じ込める。


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 翌朝、外に出た父親は、壊された納屋の下の二匹の白山羊の屍と起き出したばかりのトマシンの姿に呆然とする。と、突然、黒山羊の大きな角が彼の腹部を激しく突き刺した。更に再び、とどめを刺すように突進し、父親は積み上げた薪の下に倒れこみ二度と起き上がることはなかった。父親の様子を間近で確かめようとしたトマシンを、今度は長男ケイレブを失ったことで平衡感覚を失った母親が襲い掛かる。堪えられなくなって、トマシン、傍にあった小鉈で馬乗りになった母親に反撃する。
 二回、三回。
 トマシンの顔や胸に母親の頭から流れ落ちた血が滴り落ちる。

 ラスト・・・森の奥の、裸体の魔女たちの供宴(サバト)に、一糸まとわないトマシンも加わってゆく。やがて、頭上高く飛び回り始めた魔女達に少し遅れて、トマシンもゆっくりと昇りだす。・・・


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 当時、魔女や悪魔崇拝者達が、幼児を喰ったり、“洗礼前の子供の脂肪”を身体に塗ると飛行能力がつくとかいう風説が流布していたようだ。事ある毎に現れる黒ウサギや大きな角を生やした雄山羊も、キリスト教以前の異教の匂いをプンプンさせたアンチ・キリスト的な悪魔の化身の如く登場していて、《 不思議の国のアリス 》的な“不可思議な世界”って訳で面白いのだけど、意外とあっさりとした描き方をしている。
 “ニュー”ならぬオリジナルのイングランドの森ならば、異教的森羅万象ってことなんだろうが、何しろ、遙か大西洋を二カ月以上もかけて渡ってきた新大陸、つまり先住民=ネイティヴ・アメリカン達の森って訳で、果たしてあの森の中に棲んでいた魔女は何者なんだろうか。ネイティヴ達(あるいは先祖の霊)の呪いにかかってしまったのか、それとも、本国の異端的因縁すらも帆船で運んできたのだろうか。
 
 それにしても、巡航ミサイル国産化に呼応するような、最近の“ 日馬富士暴行事件”での、それまで聞いた風な良識的デモクラット的言説・主義を決め込んでいた連中が、まるで申し合わせたかのようなマスコミ総動員の、そんな見せかけをかなぐり捨て、いとも容易に自らの正体を臆面もなく晒しはじめた余りにこれ見よがしな展開の、戦前もこうだったかと想わせる排外主義的熱波って、苦笑することすらできぬ正に亡国的金字塔ってとこだったけれど、“ 神の導いてくれた新大陸 ”の錦の御旗を掲げて、さっそくの先住民達に対する略奪と虐殺の惨劇の上に建てられた神々しいばかりの清教徒的構築物=アメリカ、それがいよいよ底なしに、他の惑星にすらその触手を伸ばそうとしているミレニアム=新時代ってとこなんだろう。


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2017年12月16日 (土)

 長崎パノラマ綺談 大泉黒石《 血と霊 》のカルマ的痕跡を巡って

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 ( 唐人屋敷跡に佇む土神堂。福徳正神ともいうらしく、土地の守護神。)


 本当は平日の方が良かったのだけど、諸般の事情で、やっぱり日曜日ってことになって、絵に描いたように、初めての長崎の路面電車に乗り込んだら、びっしりな密度で押し合いへし合い。その上、ネットで事前にチェックしておいた、どこまで乗っても一律100円が、乗ってから120円に値上がってるのに気づき、おまけに両替不可のニュアンスの張り紙までしてあって、ポケットにゃきっかり100円玉1枚。慌ててしまったが、普通に運転席の脇の料金箱に両替機が併設してあって、難なく下車できた。そもそもが長崎駅前の幅の狭い路面電車ホームが既に満員でルートマップなんて確かめる暇もなく、それでも歩ける距離内って観念があったので、ともかく二、三駅先で降りることにした。

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 ( 長崎JR駅前。人口比な小じんまりとした駅舎。隣接した商業コンプレックス・ビル"アミュ・プラザ"の一階のフロアーの大半を占めているファースト・フード屋やスターバックスは、日曜のせいで超満員。外にはレストランの類はあっても、喫茶店を捜すのも一苦労。その一階に全部が集約されているようだ。)


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  ( 路面電車停車場"西浜町アーケード前" 向側が築町、川の手前が浜町。ゆったり乗ってみたかったが、日曜だったので混んでてそれもならず。ここは日本中のかつての電車両が走っててユニーク。)


 大泉黒石+溝口健二の日活映画《 血と霊 》(大正12年)の原作の舞台となった篭町が先ず第一の目的地で、まっすぐ出島の旧オランダ商館跡の高い塀沿いに歩いてゆくと、中国人観光客ばかりが蝟集した一角の前に、派手な色彩の中国人街が一本奥まで伸びていた。さすがもう少し、周辺にも中国商店でも並んでいるだろうとの期待はきっぱり断ち切られ、その一本の中華街だけ。まあ、人口比でいけばそんなものだろう。中華料理屋と数軒の中国雑貨店が両側に立ち並んでいるのだけど、客の殆どが中国人、わざわざ海を越えてやってきた中国観光客が自国の料理や物産(意外と彼等には珍しいものもあるみたいだったけど)などに今更どうしようというのだろうと思ってしまうが・・・当方、こんなところで中華料理を、まさか中国の巷間の砂鍋米線なんかがある訳もなく、食べようなんて気毛頭なく、さっそく中国雑貨店を物色してみた。どうにも皆一様に狭く大した品もなく、安価なパッキングされた中華饅頭を五、六種購入。
 そこを通り抜け、福建通り=唐人屋敷通りと南下してゆくと、片側に唐人屋敷跡の看板のある脇に《 土神堂 》が小さく静かに横たわっていて、中は猫が一匹心地よさそうに昼寝している以外人影もなく、京都の辻裏の薄暗がりにポツンと佇む小さな祠(ほこら)と似た雰囲気が気に入った。門を入ってすぐ石橋があり、その奥にはもう祠堂が立ち塞がっていて、実に簡素。かつて、中国から渡って来た人々が普請して建てたものを、原爆後、市が再建したという。


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 ( 新町の中華街は本当にこの一本の通りだけ。黒石の頃の中国人街としての賑わいと比べようもないのだろう。二月の灯会ランタンフェスティバルぐらいしか中国情緒を感じられないのだろうか。まぁ、人によっては結構満足できるのだろうが。当日は、日本人客より中国人観光客の方が圧倒的に多かった。)


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 ( 何軒かある中国雑貨と安手の中国菓子を売っている店。"人民幣"レンミンビーも使えるような声も聞こえた。久し振りに聞いたフレーズ。中国人のおばさん達があれこれ固まって駄弁りながら物色していた。若い中国娘達は、そんなに大声で喋ったりせず、普通。)


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 ( 中華街の通りから少し離れた唐人街跡にポツンと佇んだ土神堂。奥の祠堂から入口門の方を望む。両側に僅かだけど茂った樹木のせいもあって、昼尚静謐な佇まい。)

 その土神堂の唐人屋敷通りを隔てたまん前に、《 あっ、チャンポン 》なる長崎名物の大きなチャンポンの看板を立てた麺屋があった。是非一度本場長崎でチャンポンを食べてみたかったのでさっそく入ってみた。
 中は普通の麺屋の佇まい。
 もちろん、レギュラーの“チャンポン”だけの注文。皿の真ん中に具材がこんもりと盛り上げてあって、小さくカットした海鮮・野菜がいっぱい。味は悪くない。700円。
 只、当方としては、かつて喰ったことのあるリンガーハット以来の食べ易いチャンポンとは別種の生皮のつきのままのエビの、エグイくらいに強い風味が記憶にあって、あれこそ本来のワイルドな本場長崎の味と勝手に決め込んでいたこともあって、本来の野趣を、都会的な口当たりの良さで封じ込んでしまってる感も否めず、も一つ納得できぬまま。
本当の幻の長崎チャンポンになってしまった。
 後でネットで調べてみたら、この店は、元々博多で流行っている店のようで、それが故郷の長崎に戻って来ての比較的最近の出店という。写真確かめてみると、ちゃんと“長崎店”と記してあって、余生を生まれ育った長崎で店をやりながら過ごそうというのだろう。篭町の方向を店の女性に尋ねた際、わざわざ厨房から姿を現した親父さんは人の好さの現れた衒った感じのない年配の人だった。


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 ( 土神堂をすぐ脇のフルーツ屋の角を折れた路地にある銭湯。三星って、福星・禄星・寿星、つまり道教的至福の三要素のことらしい。華美とはいかないけど、中国的異国情緒って訳で悪くはない。これは男湯の方で、女湯の方には、万年善徳為良範とある。)


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 ( 中新町の坂道=路地と石段の果ての頂上近くの旧い民家。入り組んだ路地が迷路のように続いていて小旅行にはもってこい。もっと先へ登ってゆくと、車道のある通りに出、ミッション系の海星系列の広い学校敷地が向かい側に佇んでいる。 )


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 ( 中新町の坂の上の通り。大袈裟に言えば、尾根の上の通りからの市内の俯瞰。反対側の海側を一望する場所も近くにあったが今回は端折って次回に持ち越し。)


 その後、さっさと大徳寺(跡)に向かわず、唐人屋敷通りから、十人町の路地に分け入ってしまい、トボトボと十年来でガタのきたデジカメ片手に長崎の地形的特性たる坂路をあてどなく辿りつづけた。石段に継ぐ石段。比較的新しい建物から旧式民家、列島中瀰漫しつづける朽ちた空家・廃屋。中国臭を漂わせた民家って殆ど見かけなかった。一体どのくらいの中国系の人々が住んでいるのだろう。大半が、神戸・横浜に移っていったのだろうか。丘の上まで至ると、中新町の表示があった。左手下方に海が覗け、右側に上って来た篭町はじめ長崎市内が俯瞰できた。
 70年以上前、その500メートル上空で原爆の閃光と圧倒的なきのこ雲が上空高く盛り上がり、遠く九州の真反対の大分県の海沿の町からも、阿蘇山越しにだろうそのきのこ雲が目撃されたという。
 つまり、基本、市内の多くの旧い建物は大半が廃されてしまったということで、当然、明治・大正の頃の姿をしか前提としてない黒石の作品世界、とりわけ大正時代の《 血と霊 》に描かれた長崎の街の雰囲気なんて望むべくもないってことは前提であっても、やはりその頃の痕跡を何処か一片でも確認できればってのが人の性ってところだろう。


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 ( 思案橋方面から大徳寺(跡)下の通りを坂上に向かう。人通りもまばらな静かな坂路。杉貞子もこの通りを、未だ鳳雲泰との数奇な出遇いが待ち構えているとは露知らず、紅い耳飾りを持って、篭町へ向かったのだろう。)


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 ( 坂上から大徳寺下の通りをのぞむ。石垣下に、楠稲荷神社へと昇る石段が覗けている。)

 
 「 すると、乳母は目を丸くして『 滅相もないことを仰有る、あなたさま、この夜ふけに、それだけはおやめになりませんと、途中で、又どんな奴に出会わないとも限りません。』と言いながら、主人( 杉貞子 )の無鉄砲を叱るように押し止めました。で、その夜のことはそれで、翌る朝早く耳環をもって、宝石屋とか細工商の多い籠町と云う支那人街に近い巷に出かけるつもりなのが、訪問者のために妨げられ、昼間近になって、やっと外に出られたのでした。行きがけ、一寸、魚町の展覧会へ顔を出し、そこから電車で、山の口と云う終点まで行くと、大徳寺の下を、一丁ほど歩けば、西洋人や支那人が、いつも賑やかに往来している港一の、繁華な通りに出るのです。その辺一帯が籠街なのでした。
 ・・・杉貞子が訪ねた宝石屋は、そこから五六軒目の、大徳寺坂下にあった。」


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 ( 石垣上の楠稲荷神社へ至る途中。左上に大きく曲ねった大楠の枝が見える。石段を登り切った向うに老舗《 菊水 》のくすんだ佇まいが。)

 

 母親から受け継いだ禍々しい血、宝石に対する狂的なまでの異常な執着に如何とも抗し難く自らの自滅の路をひた走りつづける宝石商・鳳雲泰とは露知らぬ画家・杉貞子が、雲泰の弟子・牛島秀夫から自宅に届けられた“楊妃の瞳”と呼ばれる紅いダイアモンドの耳飾りを、“貰う理由がない”と持ち主を捜し出し返却しようと籠町に向かう途中の道筋を、実際は如何なる雰囲気と佇まいなのかを、辿ることによって、当時黒石がイメージしていたものの幾許かでも体感してみようと思い立った長崎行なんだけど、ちょっと気負い過ぎた割には、のっけからルート外の中新町までの路地徘徊で些か疲労気味。
 それでも、路面電車の“思案橋”駅から下ってきた十字路の福砂屋本店横の路地をまっすぐ行くと、片側が石垣の 崖(当時だとひょっとして両側が上からと下からの崖かも)になっていて、確かに大正の頃だと夜にはガス灯の街燈の仄暗い明かりぐらいだろうから、物寂しさなんて通り越して、自分の影にすら怯えかねない怖い怖い坂路だったに違いない。片側の崖上に、地名の故(もと)である大徳寺の境内が拡がっているはずなのだけど、実際には、大正の当時も、黒石の生まれ育った頃も、とっくに明治維新の頃の、恐らく廃仏毀釈によってだろう廃寺となっていたらしく、既に現在と同様、“跡”であった。当然、維新政府がやらかした天皇制的策動なので、全国の少なからずの寺院が神社にすげ替えられてしまっていて、ここも現在、樹齢800年の楠の大木が聳える神社と公園になっている。
 その楠、“ 大徳寺の大楠 ”の名で現地じゃ流布しているらしく、その崖上の崖に面した一角に一軒旧い佇まいの木造民家があって、それが当地の老舗《 菊水 》。明治の創業というから黒石の生まれ育った時分にも商いをしていたはず。“大徳寺焼餅”という福岡・大宰府の名物らしい梅ヶ枝餅と同系の焼餅を作り売っていて、そこを中心に下側から大徳寺=大楠神社に昇る石段の上に覆い被さっている大楠と、《 菊水 》からも一つ上に石段を登った公園に大きく聳えた大楠って、後で帰宅してネットを見て気づいたのだけど、どうも両方とも“樹齢800年”と銘打っていて、一本だけじゃなく、大徳寺(跡)の境内に聳えている複数の大楠の総称として“大徳寺の大楠”って訳のようだ。
 さっそく、その老夫婦が金属プレートで1個づつ焼いている大徳寺焼餅を、一人前4個=700円なので2個=350円買い、かつて黒石もその境内で舌鼓をうったのかも知れないすぐ脇の神社公園のベンチに坐り、大きく伸びた大楠を見上げながら食べてみた。普通の饅頭より一回り大きく、白い薄皮の下にびっしりと甘さを適度に抑えたこし餡が詰まっていて、2個とも平らげてしまった。


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 ( 明治創業の“大徳寺焼餅”の老舗《 菊水 》。老夫婦が忙しそうに、数は少ないものの切れ目なく現れる客の注文に応じて金属プレートで焼き続けていた。色々主人も工夫しているんだろうけど、やはり昨今の妙に作ったのとは別様の純朴な昔風味が芳醇さすらを感じさせる。黒石も少年時代には食べたのだろうが、さすがに貞子や鳳雲泰の処を飛び出した牛島が空腹を紛らわせるために一つの焼餅わ貪るってシーンは描かれていなかった。)


 大徳寺(跡)=神社から崖下の細い通りに降りる石段があり、細い通りはそのまま真っすぐ行くと崖になったカーブを曲がって現在ではマンションで行き止まりのようだが、その神社への参道の石段をその件の細い通りから更に下ると、崖下一帯に拡がる篭町に至る。貞子が最初に訪れた宝石屋もその辺りってことになる。
 そして、その辺から50メートルほど先には銅座川が流れていて、川向うは銅座町。鳳雲泰の宝石店と細工場が在ったのはその一角に違いない。


 「 (鳳雲泰の)店の裏は、あの濁った銅座河岸です。河岸の道路に面して、焼杉の黒塀がございますでしょう? あれが表口から庭つづきになった細工場で、そこには支那人の職人が仕事をしています ── 亀甲を磨いたり、石を切ったり、金を熔かして ── 奇妙な生活は細工場の中に始まったのです。」


 
 魚町の美術クラブの絵画展覧室に立ち寄った杉貞子に、そのクラブの頭目たる老画家が声を掛け、懐から夕刊を取り出して昨夜の連続殺人事件の記事の部分を指し示した。


 「 昨夜も、下町の天満宮と裁判所のある石垣の下で演ぜられました。石垣と云うよりも城壁と云った方が適当かも知れない。そこは百年も前に、南蛮の行政を司る役所があった。その時の建物が今そっくり裁判所となっています。昼間は、その近くの公設市場に荷を運ぶ百姓達や買い出し人で雑鬧( ざっとう )するが、日がくれると、奇妙に森閑となる場所でした。その城壁の下に、一人の若い女が、心臓を刳りぬかれ、沙( すな )を掴んで俯向けに倒れていた事や、それもやはり例の殺人狂の仕業だろうと云うことなどが毒々しい文句で新聞の半面を埋めていました。」


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 ( かつての裁判所のあった現在も法務省関係の建物が頭上に聳えている石垣下の通り。築町・賑町の市場等が軒を連ねている。 )

 
 現在も、銅座から中島川を越えると市場なんかの並ぶ築(つき)町のすぐ向うに、高い石垣の上に法務省関係のビルが建ち並んだ万才町が連なっている。天満宮(注1)の方は戦後すぐ近くの賑(にぎわい)町に移っている。法務関係の敷地とその天満宮跡地(現在は法務関係敷地)の間に、かつて色々な事件の舞台にもなったらしい“大音寺坂” ( 天満坂 ) と呼ばれる些か広目の石段があって、“喧嘩坂”とも呼ばれる由縁を記した案内ボードも立っている。築町・賑町の辺りは市場なんかが並んだ長崎市の台所とすら称されている一帯らしいけど、残念ながら、その日は日曜だったので殆どシャッターが降りていてその雑踏は確認できなかった。


「 ただ、彼女は心の中に、不思議な耳環の行きかがりから、彼等が潔白である事実を掴みとることさえ出来るならば、と、それを願うのでした。裁判所は、前にもお話したように、下町の石垣の上にあります。杉貞子は、中川べりから車を駆りました。会わせてくれるかどうかと心配していたが、幸いに、彼女の社会的な名声を知っている係りの役人は、彼女の願いを聞き届けてくれました。杉貞子は暗い部屋の中で単独に、そして初めて、不思議な男と会いました。」


 この石垣崖下の狭い通りはかなり寂れた感じで、夜になると当時と同様に森閑としてしまうのかも知れない。
 夜も更け静まり返ったその通りで、ある若い女性が鳳雲泰の鋭利な刃物で殺害され、その崖上の裁判所施設に、犯人と間違われ捕らわれた雲泰の愛弟子・牛島秀夫が幽閉されるという随分とメリハリが利いた成り行きだけど、その面会室で、貞子は、牛島の驚くべき隠された秘密を滔々と明かされることとなる。
 殺害された鳳雲泰が、母親の宝石に対する異常な執着性の血を受け継ぎ、客が買った宝石を取り戻すため夜な夜な殺人行に直(ひた)走り続け、とうとう白人の客から返り討ちに合って斃れてしまったという血塗られた物語であった。
 この母親の血は、しかし、作者・黒石に拠ると、代々の遺伝子的にというよりも、彼女の美意識が次第に研ぎ澄まされた果ての、夫によって殺害されるという衝撃で、まだ幼かった雲泰に憑依し、血の中に溶け込んでいったという胎内感応の敷衍というイマジネーティブな発想と論理によって構築されたカルマ的怪奇譚。


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 ( 築町の角にある老舗の海産物問屋・小野原本店。安政六年=1691年の創業で、大正時代に現在地に移り火災に強いらしい現在の建物を建て、原爆にも堪えて今に至っているという。)


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 ( 芸者で有名な丸山。現在もその名残が点々と残っている。当然、坂道・石段の路地ってのが風情。)


 蛇足だけど、この界隈の立体駐車場で、幾年か前、少年(中一)による、猟奇的というより、屈折した少年期的リビドー的発露とも謂うべき幼児を裸にして刃物で傷つけ最後に屋上から投げ落とし殺害するという陰惨な事件が起きていたのを、ネットを見ていて、改めて思い出した。
 そういえば、長崎で、もっと猟奇的というより社会的閉塞を絵に描いたような病的な女子高生(高一)の事件もあった。典型的なエリート家庭で、睡眠中の父親をバットで殴り、同級生を殺し解剖したってので随分と騒がれた事件だった。元々解剖に興味があったらしいけど、医学部や生物学志望という訳じゃなかったようだ。如何ともし難い哀れさばかりが募る少年・青少年の屈折的蹉跌。
 けれど、この鳳雲泰の殺人衝動を基準にしてみると、この女子高生、それらしき口吻を洩らしてはいなかったはず( だから金輪際無かったとは断じれないのが問題だが )で、もっと端的に、これはネットで再確認しようとしたらもう詳細どころか、事件の存在も意図的に消去されているみたいで、被疑者が精神疾患を疑われていたせいかも知れないけど、1985年(昭和60年)に山口県下関で、“ 宇宙人の声がした”あるいは“ 宇宙人に命令された”と供述した被疑者の農業従事者が、自分の母親を日本刀で殺害し更に通行人に斬りつけたいわゆる無差別殺人事件、記憶が曖昧になって他の同様の事件での被疑者の供述と混同しているかも知れない。
 “宇宙人”じゃなくて“神”だったかも。
 1999年9月29日に下関駅構内で起きた無差別殺人事件とは別で、こっちは被疑者がそんな口吻を洩らしたって話はなかったようだ。
 宇宙人・神の声あるいは命令が、一体、どのくらいの圧倒的な威力をもって、被疑者たちの心身に影響を及ぼしたのか、あるいはもっと直截に云うと、その凶行に走らせたのか、知る由もない当方だけど、その微妙な、もっともリアルなデティールを、司法・警察なんぞがちゃんと追及・精査するって先ず期待できないだろうから、現代の語り部たる作家なんかに、たとえば田中慎弥あたりに期待したいものだ。

 【注1】因みに、天正年間に日本人切支丹によって創建され、切支丹弾圧まで建っていたキリスト教会が壊されて後、大音寺が建立されたものの幾らもしない内に他へ移転し、大部過った享保の頃、その跡に坂上天満宮(坂上神社)が建てられたという。
 

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