高杉晋作=東行庵(下関・吉田) 再訪
昨秋訪れた際は、暑熱もあって、訪問客疎らで閑散とした佇まいの中、広い池全面に大輪の白蓮が溢れ、その絶景は筆舌に尽くし難いものだったと云えば些か形容過剰だけど、想定外だったこともあって、感動ものだった。
今回は、連休中日とあって、風こそ少し強く肌寒かったものの小春日和に近く、さすがにそこそこ人出はあった。肝心の池には枯れ萎れた蓮茎が点々とシルエットとなり、つがいらしい雁と紅鯉が一尾悠然と回遊するばかり。
市の博物館にはそれなりに揃ってるのかも知れないけど、萩の晋作の居宅も、ここの東行記念館にも晋作がらみの歴史的遺物って僅少。もう少しあってもいいんじゃないか思うんだけど、あっちこっち形見分けしてしまってたんだろうか。あるいは、分散・・・
今回、上下段に並んだ晋作と愛妾おうの=梅処尼の墓の右手奥に並んだ奇兵隊士たちの墓列の方にも足を伸ばし、一つ一つ確かめてみた。当然、奇兵隊の大まかな顛末は了解してるものの、個々逐一は殆ど未詳で、実際は、只刻まれた時代を確認するぐらい。それほど朽ちた風でもないにもかかわらず判別しにくい。
奇兵隊創立して幾らもしない内に亡くなった隊士や明治も大分過ってからのもあった。昭和になってからここへ改葬したのも少なくない。死してからの様々な帰趨転変。如何にも時代の波に、切り開いたはずが翻弄されることとなった奇兵隊の命運ってとこだろうか。
( 昨秋は一面大輪の白蓮が咲き誇っていたけど、今は枯茎のみ。)
ずらり瞥見して気づいたのは、本来なら維新新政府と抗い拮抗角逐した奇兵隊士=諸隊脱退隊士たちの墓も並んでいたことだった。元々この地は、新政府本道とも謂える、晋作の盟友・山形狂介(有朋)の所有地だったのを、晋作の遺言に従って晋作を葬り、おうのに東行庵として譲渡したものだった。それでも、官制じゃなく、あくまで私的なものってとこで、かかる運びとなったのだろう。
明治2年6月、版籍奉還で、長州→山口藩知事・毛利元徳は、11月、いわゆる精選を実施し常備軍結成のため、諸隊約5000名の内、3000名を、論功行賞も無く解雇した。それに激怒し、異議を申し立てた奇兵隊はじめ振武隊、鋭武隊等旧諸隊士が脱隊騒動を起こした。
「奇兵隊之儀ハ、有志之者相集候義ニ付、藩士・陪臣・軽率不撰、同様ニ相交り、専ら力量を 尊ひ、堅固之隊相調可申ト奉存候」
そもそも、晋作が提起した理念、出身・身分を問わない志のある者たちの、平等に協同し、もっぱらその力量だけが問われるはずの奇兵隊だった。ところが実際には、その初期から、厳然とした身分的な差別があり、最後まで払拭されることはなかった。あまつさえ、諸処での戦で死傷した隊士たちはいかほどの補償すらして貰えなかったという。
帝都・東京から木戸孝允(桂小五郎)が鎮圧のため帰藩、一進一退の末、壊滅し鎮圧した。木戸は、脱退隊士たちと折から長州藩中に沸き起こった農民一揆が結びつき、新政府の存立を脅かす全国的波及を恐れたという。
正にそのごときというべきか、処刑( 斬首 )された隊士の半数以上が農民出身だったという。
( 高杉晋作=東行の墓。晋作の像や山形狂介の像が別の場所に立てられている。)
( おうの=梅処尼の墓。晋作墓の下の段にある。)
(それぞれの物語を秘めた隊士の墓石が、昼尚仄昏い林陰に静かに佇んでいる。)
この東行庵隣接の奇兵隊士の墓列に並んでいる佐々木祥一郎は、ある種、諸藩脱退の象徴的な存在で、晋作と同じ上級武士の出身。事態の成り行きで、脱退組の指導的立場に祭り上げられたようだけど、出自のせいもあってか、藩主の鎮撫( 当初は、藩主・毛利公直々に対応していた )を踏みにじる挙には出難たかったようで、武力じゃなく、極力話し合いでの解決を意図してたらしい。
結局、壊滅し、捕縛され、刑場に引き立てられる途中で、突然暴れ出したという。武士の最後のプライドとして切腹を求めた、という話もある。その際、刑吏に鉄棒でさんざ撃ちのめされ、血塗れのまま斬首されたようだ。彼の憤激・慟哭は、後年新政府を脅かした士族反乱の、先駆けともいえよう。
因みに、彼の亡骸は家族が密かに一族とは別に埋葬し、やがて行方不明になっていたのが、戦後になって発見され、現在地に改葬されたという。
( 叛乱分子扱いなんだろう墓石を横に向けたまま。時代的制約はもう解いていいはずが、史跡重視って訳か。)
(下関の豪商・白石正一郎のとこで働いていた奈良屋源兵衛、封建主義的身分的角逐ともいうべき教法寺事件に巻き込まれ惨死。)
もう一つ、奈良屋源兵衛、元々は晋作や坂本龍馬も支援を受けていた商人・白石正一郎の下で働いていたのが、奇兵隊に入隊。
1863年(文久)8月、いわゆる《 教法寺事件 》に巻き込まれてしまった。当時、下関の前田砲台(奇兵隊)と壇ノ浦砲台(先鋒隊)を、毛利定広が閲兵するってんで、それぞれの隊が興奮混じりに期待に胸を膨らませていた。が、先に赴いた奇兵隊の駐屯する前田砲台であれこれ丁寧に見回ったのか、時間を喰い過ぎ、壇ノ浦砲台を省略して帰ってしまった。問題は、壇ノ浦砲台の先鋒隊が、一般募集の奇兵隊と相違して、全員、藩士たちで構成されていた、つまり長州藩正規軍だったってことで、その頃既に下関・長州界隈で流布していた、
麦の黒ん穂と先鋒隊はせいを揃えて出るばかり
という戯歌、先の関門海峡で四国連合艦隊と一戦交え、前時代的な鎧兜の出立ちで蜘蛛の子を散らす如く逃げ惑い、あげくフランス軍に砲台まで占拠された屈辱的事件を揶揄したもので、その当事者がれっきとした藩士たちだけで作られた先鋒隊だった。
そのいわば出身身分を嵩に着たエリート意識ばかり強い先鋒隊が、藩主直々閲兵の名誉ある瞬間を鼻先で藩主踵をかえすというあり得ないな事態、それもよりによって、大半が百姓ばかりの奇兵隊に妨げられたというこれ以上ない屈辱と怒りの爆発が、しかし起こるべきして起こった角逐的顛末。奈良屋源兵衛、そんな騒動には無縁な場所にいたにもかかわらず、憤った先鋒隊にひっつかまり、惨殺されてしまったという。何とも哀れ。墓の脇に立った表札には、はっきり“リンチ”と記されている。晋作も当時現場に居たようで、責任を取らされ、奇兵隊総監を罷免されてしまった。たった三ヶ月の就任であった。
昨今、高杉晋作神話も、奇兵隊神話も崩れつつあって、いよいよ本格的にその実像に迫まれる時節に至ったということなんだろうか。
奇兵隊はじめとする旧隊脱退勢力と農民一揆との結びつきってテーマ、現在研究者の間じゃ錯綜してるようだけど、対岸の小倉藩・企救半島農民一揆との絡みで興味は尽きない。



















































