反時代的一擲 白鬼来 阿片戦争はかく戦われた( 大泉黒石 )
「 この節のイギリス夷に於いては、その猖獗凶悍、安禄山の比に御座無く候。」
佐久間象山
夷=(い。)異民族の侮蔑的呼称。
「 伝記と夢にだけ出て来る世にも恐ろしき白鬼!! この恐るべき白鬼が百年前に東洋に現れた。英国がそれだ。奴は女王・インドを一たまりもなく其の毒牙にかけ、眠れる老大人・支那の心臓に鋭い爪を打込んだ。阿片戦争がそれだ。爾来百年の長きに亘り、悲憤の涙を呑む支那を尻目に、其の心臓部香港より絶えまなく生血を吸いとっていたのだ。阿片戦争はいかにして展開し、いかに戦はれたかーー 」
昭和17年4月18日、前年末の《 真珠湾攻撃 》開戦から半年もしないうちに、米海軍航空母艦ホーネットから飛び立ったB25爆撃機16機が、東京はじめ本土主要都市を爆撃。B29による本格的な列島大爆撃の前哨に過ぎなかったものの、真珠湾以来の派手派手しい戦勝報告に沸き返っていた日本中を震撼させるには十分であった。
翌5月には、情報局指導で《 日本文学報国会 》が創立され、官民挙げての文学の統制がなされ、当時植民地だった朝鮮での徴兵制が閣議決定されたりの、挙国一致的不退転のきな臭い歴史の傾斜に愈々雪崩込もうとした時節の真っ只中、我が黒石先生、盲動列島と化した時代に向け、刺笑的一擲を謀んだ。
五年前の昭和12年、大杉栄と並ぶもう一方の無政府主義運動のリーダー・岩佐作太郎が、運動的圧殺の状況に鑑み、体制の皇国史観的矛盾を逆手にとって認めた偽装転向的啓蒙篇《 国家論大綱 》と相似な構造を駆使した大胆不敵的一作。
〈 蘭法外科医、匿名浪人に阿片問題を解く 〉の小タイトルの後、黒石節全開のプロローグからはじまる。
「 婆羅門凧の弦の唸りが、落ちついて聞える日は、風がなくて暖かいという。おだやかな陽波(ひあし)が、玻璃障子の外から、いっぱいに射入る座敷の中央に、おどろくばかりの、大きな紫檀の支那卓子が据えてあり、卓上に古めかしき、玻璃鐘の中の置時計は、五代前の主人公だった、外科医栗崎道喜が、百八十九年の昔、はるばる南の呂宋(ルソン)から、持ち帰ったという怪物の、生き永えて動く振子が、日光を射返して燦々(きらきら)と耀く。
その機械(からくり)の微かな音を聞きながら二人の客・・・痩せぎすで半禿げの唐通詞西鶴仙と、頭の太(でか)い、眉の秀でた、紋付羽織の田舍武家が、端然と椅子に腰かけ、婢(おんな)置去りしところの、お茶を啜っている。」
江戸後期・天保十一年三月(1840年)、南蛮・中国など異国情緒漂う長崎は梅ヶ崎(現・梅香崎)十善寺坂の外科医・栗原道斎宅を、長崎通事・西鶴仙と信州浪人・松代樵山人が訪れるところから物語は始まる。
常連客の鶴仙の隣に坐した未知の侍風に道斎の柔らかな視線が動く。
「輓近( ばんきん : ちかごろ )、海外事情の研究とやらに、当地へ来られた御仁だが、阿片の紛擾で、支那と英国とが、砲火を交えそうな形勢に至った、そもそもの経緯を知りたいから、私に話を聞かしてくれ、と仰有る」
この栗原道斎、実在の江戸時代の南蛮外科・栗崎道喜の子孫の設定。道喜の家系は代々唐人屋敷の医師を兼ねていたという。
松代樵山人は、前書きにも記していた信濃松代藩士・佐久間象山だろう。象山が、藩主・真田幸貫に顧問に抜擢されて、大英帝国と大清帝国のアヘン戦争等切迫した海外情勢の研究報告を課された故事に因んでの設定、恐らく黒石の敬愛する長崎にも何年か奉行所に赴任していた蜀山人=大田南畝をもミックスしての形象化に違いない。
因みに、佐久間象山がらみでいえば、門弟の河井継之助=蒼龍窟、次作の《 ひな鷲わか鷲 》(昭和19年)に影を落とすことになる。
この作品、五章から成っている。
第一章 江戸後期、長崎・梅ヶ崎十善寺坂の外科医・栗原道斎宅を訪れた長崎通事・西鶴仙と信州浪人・松代樵山人との歓談。道斎が阿片戦 争に至るプロセスを教示する。
第二章 清国宣宗帝道光十九年(1839年)四月二十三日、広東市内。欽差大臣・林則徐が阿片密輸商征伐敢行のため戒厳令を敷き、一斉取り締まりを始めた。東印度会社系のジャーディン・マティスンの支店《 英華公司 》の二階に集った宋一賓、宋花春、胡馬平。やがて、武装した司直の一隊が現れ、屋敷に突入。三人は外へ逃げようとして、一人宋一賓が銃弾に斃れる。
第三章 再び、栗原道斎の屋敷。英傑・林則徐の賞賛。西鶴仙、樵山人と入れ替わりに訪れた出島オランダ商館のアルベール医務官、道斎が広東から連れてきた使用人の宋花玲の美麗さに賛嘆頻り。突然、思い立ったように道斎が彼の研究室に夜毎現れる女の幽霊の確認を求め、一晩泊まり、果たして件の右手小指のない女霊と遭遇。道斎、かって広東の病院に居た頃、関節肉腫を患った娘・蘇小蘭の小指を切除した時の経緯を話。
第四章 取り締まりから逃げるため、総督府の蘇克方一家が、長崎目指して黄埔港から寧波行きの貨物船に乗り込んだ事情が明らかになる。氾奇全、宋花春、胡馬平、スチール商会員・張知義、新城区署役人・呂長雲( 機密を英人商館に売るスパイでもある )等、広東の敵として林則徐暗殺の謀議と決行。
第五章 予定より紙幅が足りなくなったのか、物語を端折って、阿片戦争の結末と女霊事件の顛末の概要を並べて、阿片戦争直後に作られたらしい民謡を提示し、了。
江戸後期の長崎そしてアヘン戦争前期とも云うべき中国・広州の日中に舞台を設定し、そこに執筆当時のリアルな時局的エピソードを繰り込むという構成。ある意味斬新な手法であったろう。当時の差し迫った情勢にあっては、むしろ、リアルな手法だったかも。
所詮八紘一宇的な絶対天皇制を前提としての五族協和・大東亜共栄圏の絵に描いたような虚偽性が、時局に照応した皇国史観的ラベルで表装した内奧から、自ずからじわじわと浮かび上がってくる構造。それを媒介するものとしての《 アヘン 》は、正に好個の素材であって、大陸進出が一層加速される頃の橋頭堡として門司港・満州=長春(新京)を舞台に設定した《 心癌狂 》黒石怪奇物語集( 新作社 )で既に大正14年に作品化していて、いわば黒石の定点的視座でもあった。
日本・関東軍主導で満州帝国が昭和7年( 1932年 )に作られる以前に、既に満州はアヘン産業の一大中心地となっていて、後、大連市長にすらなった石本鏆太郎のようなアヘン財閥すら存在していた。
人家も疎らな十善坂の道斎の屋敷から西鶴仙と松代樵山が退去し、広州の病院で一緒だったオランダ商館のアルベール医務官が現れると、いつの間にか話題が道斎の研究室に夜な夜な出現し悩ませる女霊に移ってゆく。唐突に、オカルト的題材が持ち込まれるのだけど、当方が知っているだけで、この中国で関節肉腫で指を切断手術を処された娘が、日本に帰国した医者を、彷徨える霊となって東シナ海を渡り追いかけて来る、喪失した自身の指を取り返そうとする女霊奇譚は、二篇ある。
初作の《 切られた小指 ーさるこまとすー 》( 月刊・東京 大正14年 )、 後作《 葵花紅娘記 》(《 灯を消すな 趣怪綺談 》大阪屋号書店 昭和4年 )。
〈 日露戦争 〉終戦直後、戦時中旅順に軍医部長として赴任していた本間博士から、彼の弟子たる医学士であり日本心霊学会員でもある私=三枝哲三宛てに一通の手紙が舞い込んだとこから物語がはじまる《 切られた小指 》。 舞台は東京・千駄ヶ谷の森の奥の古色蒼然とした妻と博士が旅順から連れ帰った美麗な中国娘と住まう本間邸。切断手術したのは旅順の病院に出入りしていた陳萬全という豪商の娘・梨喬だった。 日本に戻ってきた本間博士にずっと屍霊として付き纏いつづけ、弟子の三枝が同じ関節肉腫の指を工面してきて、屍霊に自身の指と思わせ持ち去らせることに成功する。
後作《 葵花紅娘記 》じゃ、日独戦争(第一次世界大戦)中、青島の野戦病院で湯逸方なる婆さんの若くて美麗な、しかし、片眼が義眼の娘・クウ(女偏に句)の右手小指にできた関節筋肉腫を切除した老教授・山北一次郎、青島の戦禍で身寄りもなくなった美貌の水汲女・金秀玉を長崎・隠岐の島に連れて帰り、侍女として同居していた。その隠岐の島に流れ着いた棺桶にクウの腐乱した屍が納められていて、その日以来クウの霊が研究室に現れては教授を悩ませつづけていた。その話を聞いた弟子が同じ関節筋肉腫の小指を工面してきて、女霊に持って行かせることに成功し教授も喜ぶのだけど、実は、それはクウの霊なんかじゃなく、同居していた金秀玉がヒロポン中毒に侵された挙句の芝居だった。
「恐ろしい顔の主の正体は、美しい顔の主のお金さん、近頃噛み始めたモルヒネが癖になり、お金さん! 硝子棚の中の薬壜から盗み出すためにクウの幽霊に見せかけ」
弟子はそれを見破り、教授を安心させ、金秀玉の立場も守るための一計だった。黒石は死霊復活説の非科学性を指弾してみせる。
この《 白鬼来 》じゃ、《 葵花紅娘記 》と同じ、モルヒネ欲しさのための一計。
「『 蘇小蘭の亡霊の正体 』は、阿片中毒者花玲が、道斎の研究室にあるモルヒネを盗まんがために、小蘭の姿を借りた仮裝であった」
モルヒネ=アヘン。
このモルヒネ、芥子( ケシ )から抽出されるアヘンを原料にしていて、国際的にも鎮痛剤として広く使用されている。いわゆる麻薬的効能故に、心的な沈痛にも援用されることもあって、戦場と化した旅順・青島で家族や知人が面前で亡くなっていった無惨=悲惨的トラウマから免れようとして、美貌の水汲女・金秀玉が、徐々に蝕まれていったのは想像に難くない。宋花玲の場合、自身の悲惨な出自や広州での惨憺の記憶、異国での孤独と不安を韜晦・払拭するためであったろう。
正にこの一点で、《 葵花紅娘記 》と《 白鬼来 》は同致。
但し、宋花玲と道斎の接点=中国・広州=大英帝国と清国のアヘン戦争の根拠地←宋兄妹や胡馬平の欽差大臣・林則徐の暗殺の舞台という歴史的位相が異なる。
この端的に中国侵略戦線的符丁( 象徴 )を基軸に、鬼畜=大英帝国、そして今度は鬼畜=大日本帝国という歴史的変転、同時にそれは英・米+中国対日本という歴史的位相、つまりこの作品の実舞台=大東亜・太平洋戦争を、アイロニカルに変換・構築した警句的反戦物語といえよう。
尤も、巧妙というより、岩佐の《 国家論大綱 》同様スケルトン的偽装性というべきで、よく検閲を通れたと感心するばかり。黒石、余程自身があったのか、更には、林則徐暗殺→ロシア皇帝暗殺→天皇暗殺というもう一つの歴史的連鎖・エピソードを組み込むという大胆!!
林則徐暗殺のエピソード、すぐ想起されるのが、同じ馬車に乗ったロシア皇帝アレキサンドル二世暗殺事件(1881年)であり、これは韓国問題だけど、アヘン=満州帝国以前のハルビン( 哈爾濱 )駅頭で射殺された伊藤博文暗殺事件( 1909年=明治42年 )。安重根・禹徳淳・曹道先等が、大韓帝国の国権回復を目指して、日本の韓国統監府初代統監だった伊藤博文暗殺を謀議し、日本の満州支配の企図の下ハルビンを訪れた伊藤を、安重根がピストル( ブローニングM1900 )で射殺した伊藤博文暗殺事件。(昨今、別の場所からブローニング以外の弾丸でも撃たれていたという異論もあるらしい。ケネディー大統領暗殺事件と併せて、安倍晋三暗殺事件の際に跋扈した陰謀論の祖型か。)
宋花春が林則徐暗殺を決意した理由が、兄の宋一賓が逃げようとして林則徐の部下に背後から射殺された怨恨、そして林則徐が広州の街を破滅に陥れようとする市民の的という大義であった。彼らの一団は、あくまで英国アヘン産業の担い手側からの視点に依拠していて、幕末長崎・道斎宅では、逆に、大清帝国(中国)=アジア侵略の手段としてのアヘン貿易に決然と抗する救国英雄的林則徐像が支配的であった。
英国商館主たちに欽差大臣・林則徐暗殺を請け負った張知義(首謀者・英国商館スタッフ)・宋花春・胡馬平・氾奇全そして外縁的立場の呂長雲( 新城区署の役人 )。張知義の手から受け取った武器。英国製連発ピストル、オランダ式ゲベ-ル・ピストル、新式ミニエー・ピストル。資金五百両。
四章の後半。
「いくはい目かの酒盃を伏せて立ち上り、衣服を正して、四海飯店から流れいで、沙面地区に向った氾奇全が、英国領事館前の大通りに、足を踏み入れたのは、十時に三十分前だった。作者いう。昭和十七年三月廿五日(広東発同盟)旧沙面租界の行政移管式は、二十五日午後二時、旧英国総領事館前の沙面公園で挙行された。南支派遣軍最高指揮官、陳広東省政府主席等、日華関係軍官民約二百名参集、酒井最高指揮官より行政移管に関する意義深き挨拶あり、陳主席は感謝に満ちた答辞を述べ、次で日華両国歌合唱裡に、日本国旗の撤収と、中国々旗の掲揚の歴史的シーンを展開、両国の万歳を唱へ散会した。(全文)」
★ 陳( 公博 )広東省政府主席 中国共産党→国民党→南京国民政府(汪兆銘政権)=日本軍の傀儡政権と渡り歩き、戦後、日本に亡命した後、帰国し、蒋介石政権によって漢奸として銃殺刑に処される。
「・・・・・百年前に遡って、今や欽差大臣林則徐を狙撃せんとする一青年の氾奇全が、現在の沙面公園である英国領事館前の大通りに、黄色い姿を現わした場面の、描写にかゝろうとする、この時、東都の新聞紙が、如上の広東電報を掲げたのも、作者の心には、不思議な因縁とも感ぜられたのである 」
偶々この作品執筆中に目にした新聞に掲載されていたのか、むしろこの記事に想を得て構想したのか定かじやないけど、愈々列島中、もはや後戻りのきかないのっぴきならない情勢の只中故に、フィクション中のリアルタイムなリアリズムの挿入って、如何にも黒石らしい感性ではある。そこから、再び、百年前の幕末=大清帝国時代に、ストーリーは戻ってゆく。広州・沙面・・・
「 この時刻には、人通りも稀れで、警戒任務に就く巡邏も、兵隊の姿も見えず、人に怪しまれ迂散に思はれる心配はなかったが、心は〔 しんにょうに貞 〕さすがに落ちつかない。彼は四辺(あたり)に鋭い眼を配りながら、上衣の衣嚢(かくし)から取出した拳銃(ピストル)を、椰子の梢を漏る月影に、注意ぶかく検(しら)べて見た。故障はなかった。氣味の悪い微笑が、彼の口辺にゆらめいた。『 三十分たゝないうちに、支那全土を震駭の底に叩ッ込むような、大事件が突発するんだ! 張知義も胡馬平も花春も、今頃は彼等の担当場所に就いて、殺される人間の出現を、今か今かと待っているに違いない。彼等は屹(きっ)と巧くやるだろう。一番目の張が、まかり間違って、やりそこなっても、二番目の胡がいる。何かの手違いで、それが失敗(しくじ)っても、三番目の持場に花春がいる。それが失敗しても、四番目の俺が、これで仕止めてやる! この鋼鉄の弾丸の餌食にしてやるぞ! 葉蔭の暗闇(くらがり)から、ズドーンと一発! たゞ一発だ! 』勇壯果敢に演ッてのけ得る、大きな自信をもって、心の中に叫びながら、兇悪な面つきの飛道具を凝(じっ)と見た。短銃は黒く冷たく静かに光っている。短銃はいとも冷静である。それを握りしめている彼の手は、しかし顫え(て)いた! 生れて始めての大冒険を前にして、抑えることの出来ない、烈しい興奮に、全身が震えていたのだ。」
ところが、クライマックス・土壇場に到って、最初の張知義が決行していたはずの場所を何事もなかったかの如く、林則徐を乗せた馬車一行が平然と現れ、二番目の胡馬平が黒光りするピストルを構えた次の瞬間通行人に擬した二人組にドッと取り押さえられ、反対側に位置していた花春も狙い澄まさんと構えたピストルを、誰あろう呂長雲にはたき落とされてしまった。肝心最後の氾奇全、その光景を遠目にも目撃し、突如臆病風に吹かれたのか、在り得ぬ事態に平衡感覚が足下から崩れ落ちあたふたと逃げ出してしまった。そんな路傍の夜闇での暗闘等どこ吹く風と、林則徐の馬車は定速で走り抜けていくのだった。
黒石の原風景がそこにあるかの如く執拗に数多の作品で反復してみせる中国と日本の東シナ海を隔てての往還劇宜しく、呂長雲に狙撃を阻止された宋花春、東シナ海を渡って姉・花玲に再会すべく長崎に密航、その後を、彼女に恋慕する呂長雲が追いかけるという筋書も、実際には紙幅足らずで省略され了。
馬車・自動車に乗って移動する権力者の暗殺といえば、もう帝政ロシア時代の、人民解放・革命の名の下に、圧制者=皇帝(ツァーリ)を俎上にしたテロリスト達の独壇場の観すらある。
1881年(明治14年)3月13日、ナロードニキ派《 土地と自由 》からの分派組織《 人民の意志 》党によって企図された皇帝アレクサンドル二世の馬車襲撃暗殺事件は有名だけど、それ以前にも、後にも失敗は少なくなかった。この暗殺事件は、数ヶ月もの準備期間の上に実行されたもので、皇帝アレクサンドル二世の馬車が通る片側の道路の地下にトンネルを掘ってダイナマイトを埋設したりのかなり大がかりなものだった。
投擲爆弾とピストルで武装したリサコフ、イグナツィ・フリニェヴィエツキ、イワン・イェメリアノフ、ソフィア・ペロフスカヤ達はそれぞれの持ち場に潜みあるいは通行人の如く佇み、皇帝の馬車が現れるのを今か今かと待ち構え、果たして、一番目、二番目の投擲爆弾で目的を達した。まだ息のあった瀕死の皇帝アレクサンドルに三番目の爆弾の入った鞄を持って接近するはずのイワン・イェメリアノフは状況判断して不必要と断じたのか、投擲せずにその場から退ち去った。
もし皇帝が予想通りのコースを逃げ切って現れたら、逮捕された夫の代わりにピストルとナイフを忍ばせた夫人ソフィア・ペロフスカヤが最後の一擲とばかり走寄り銃弾を浴びせたのだろうが、工科大卒の俊才ニコライ・キバリチチが製造した投擲爆弾の威力が強力だった。( つい、後年日本の、例えば大正末の無政府主義者テロリスト《 ギロチン社 》の面々が作ったピー缶爆弾の余りの稚拙さに思いが到ってしまう。)
結果、《 人民の意志 》党の事件関係者五人が絞首台の露と化した。
( セルゲイ大公暗殺事件実行者 イワン・カリャーエフ=社会革命党員。詩人でもあった。 )
黒石のこの英国商館主達によって策謀された、反アヘン・反英の急先鋒=欽差大臣・林則徐暗殺の実行団の図って、もうこのソフィア・ペロフスカヤ等の《 人民の意志 》党をモデルにしてるのは一目瞭然。もっと後年の、同じ《 人民の意志 》党の皇帝アレクサンドル三世暗殺未遂事件の方が当局に察知され未遂に了ってしまった事件なので、むしろこっちの方がモデルに近いんだろうが。先の皇帝アレクサンドル二世暗殺事件で当局の徹底的な弾圧を受け風前の灯火状態となっていた《 人民の意志 》党は完全崩壊。この時も五人程が絞首刑に処されてた。レーニンの実兄も敢然と特赦を拒絶し、絞首台の露と化してしまった。
1905年のセルゲイ大公暗殺事件も有名なテロリスト事件で、アレクサンドル二世の五男であったセルゲイ大公、モスクワ総督時代、モスクワの社会的地位の低いユダヤ人を追放し、モスクワ経済にも深刻な打撃を与えたり、社会主義勢力を弾圧したりの反動政治で悪名を轟かせ、とりわけ、同年1月9日の「血の日曜日」事件での責任者として社会革命党に指弾され、エスエル戦闘団ニコライ・カリャーエフが馬車に乗っていたセルゲイ大公の膝の上に爆弾を放り込んだ。大公、四肢断裂の即死だった。その二日前にもチャンスはあったものの、セルゲイの幼い子供が同乗していたのでカリャーエフが中止していた。ロープシン( サビンコフ )やA・カミュの文学作品でも有名な事件。
ロシア皇帝暗殺(未遂)事件といえば、日本にも係わってくる。
こっちは、いわゆる圧政に対する弱者の抵抗・抗議としてのテロリズムとは真逆だけど、明治二十四年、滋賀県大津で、警備巡査・津田三蔵が、突如、身につけていたサーベルでロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフに斬りつけた。単独犯故にその場で取り押さえられた。面目をなくした明治天皇、早速列車で駆けつけ謝罪を余儀なくさせられ、津田も絞首台に昇りかけたが、殺害したわけでもないという理由で、無期が言い渡された。伊藤博文・西郷従道・後藤象二郎等は断固死刑を求めていたという。尤も、収監された数ヶ月後に肺炎で亡くなってしまった。その親日家の皇太子ニコライの随行員の中に、大泉黒石の父親・アレクサンドル・ステバノヴィチが居て、長崎で、黒石の母親となる恵子と邂逅。
その19年後の明治23年、長野県安曇野明科での爆発物取締罰則違反容疑の無政府主義者・宮下太吉逮捕に端を発っした天皇暗殺にかこつけたフレームアップで幸徳秋水はじめ無政府主義者・社会主義者達が全国で大量に逮捕され、24人に死刑判決、12人が絞首刑となったいわゆる幸徳事件=大逆事件。実際は、宮下太吉・管野スガ・新村忠雄・古河力作の四人の計画でしかなかった。それも殆ど机上の。そもそも検察・警察は、まともに調書すら取ることもなかったらしい。
大正12年師走、東京虎ノ門で、走ってきた皇太子・摂政宮裕仁の乗った黒塗りの御料車めがけて、難波大助がステッキ銃の引き金を引いた。
皇太子は無傷で、同乗していた侍従が軽傷を負った。大助は、「革命万歳」と叫びながら尚も車の後を追い、警備の警官・憲兵・群衆に取り押さえられ殆どリンチ状態になったという。
長州山口の名家の出身で、尊皇思想の衆議院議員の父親とは成長するに従って諍うことが多くなり、社会主義に傾倒し、現実変革の手段としてのテロリズム=天皇暗殺に帰着した。幸徳等の大逆事件の資料を読み漁っていたり、在京時に遭遇した大震災時に権力( および権力の走狗と化した住民達 )がやらかした、朝鮮人虐殺や大杉栄・伊藤野枝と甥の宗一( 幼児 )に対する憲兵隊の虐殺事件、社会主義者・労働運動家達に対する虐殺等で、反権力思想をいよいよ過激化させたのだろう。権力の懐柔に志操を曲げること無く絞首台に昇ることを選んだ。
当時は、大正天皇を俎上にするのは病的として躊躇われていた風で、大助もギロチン社もその了解性があって、既に公務も代行していたらしい皇太子・裕仁を権力の象徴と位置づけたようだ。
( 昭和十七年植民地朝鮮での徴兵制が閣議決定され、翌十八年兵役法改正、十九年に実施。十八年には海軍でも特別志願兵令が公布された。)
その関東大震災の折、予防検束で逮捕された無政府主義者・朴烈、金子文子も、実行されていず未遂にもならない机上の空論に近い天皇暗殺計画が、世情騒然の只中で、時の権力の都合と論理で、大逆事件扱いとなり、死刑判決。恩赦で無期の定番的懐柔だったが、二人とも拒否。さりとて、もはや絞首台に昇ることもできず、気丈の文子は自死を選んだ。最近、二人の映画がリリースされたものの、当方は未見。隣町で演ってたんだけど観損なってしまった。
昭和七年、あろうことか桜田門・警視庁前で、閲兵式帰りの天皇の一行に、抗日武装組織「韓人愛国団」所属の朝鮮人テロリスト李奉昌が投擲爆弾を投げつけた。が、手製爆弾( 組織から渡された手榴弾ってことになってるが、正式軍用だったらあり得ない )だったのか威力が小さく、おまけに数台並んで走っていた馬車のどれに天皇が乗っているのか皆目見当も突かず、説破詰まっての、しかし、李奉昌にとっては渾身の一擲。爆発はしたものの、天皇の馬車には掠りもせず、一行はことも無くそのまま平然と皇居へと走り去って行った。
単独的実行らしく、緊張し過ぎなのか、動揺し過ぎたのか、馬車列を見過ごしてしまって、慌ててタクシーを拾って桜田門前に急行し、事に及んだという。それでも、不敬的大逆罪ってことで、絞首台昇りに。
長々と、戦争という大量虐殺の時代の真っ只中にあって、そんな体制をも含めての圧政に対する告発・抵抗あるいは、又、変革・革命としてのテロリズムに触れてきたけど、この作品を黒石が執筆した当時、国内の皇帝=天皇暗殺事件って結構当時の人々の記憶にもまだまだ鮮明に刻印されていたろうってとこが重要で、それを前提としての、アイロニーと云ってしまえば簡単だけど、中国→ロシア→日本の連想的縁環という心的連鎖を容易に発動させんばかりの黒石の意図的布石に違いない。林則徐の暗殺という必ずしも不可欠でない、むしろ突飛なエピソードを中心に据えるってことの意図性・・・正に、挑発的! !
昭和17年、偶然高橋新吉に会った黒石、雑談の中で、「九人の子供のある妻君が、若い燕と逃げた」と云ったという。
黒石、あれだけ子煩悩だったにもかかわらず、妻子と離別しての単独行。ある種の自棄性として風評されつづけてきたけれど、あるいはひょっとして、腐縁的畏友・辻潤がそれを旨( =決意 )としての一子・まこととの離別=単独的漂白に同調したのか倣ったのか。その上での、一連の刺笑的著作活動というべきか。
重ねて云えば、フレーズこそ顕わにはしてないものの、あの差し迫った時局で、禁忌の天皇暗殺事件にまで及ぶエピソードを根幹の一つに据えている意図性=覚悟ってものを念頭にすれば・・・
黒石の定点的視座=アヘン=大日本帝国・軍部の中国(朝鮮)侵略から紡ぎ出され組み込まれた、一矢報いようとした告発篇、とむしろ云うべきだろう。
大泉黒石《 白鬼来 阿片戦争はかく戦われた 》 昭和17年7月10日1942年( 大新社 )
【 追記 】 やっぱり、これを端折ってしまうと、肝心の黒石この作品自体の創作動機がも一つ曖昧になってしまいかねないので、忙しさに失念してしまった箇所を、遅ればせながら追記する。
「 清国は十万の大軍を動かして、必死の防戦に努めたが、先進国英利西軍の、近代武器と近代戦術には、全く歯が立たず、大敗を喫した。この敗戦が幕末(天保時代)日本の国民の耳目である先覚者や、憂国の志士たちにあたえた衝撃は、大きなものであった。その根本は幕末日本の、対内的対外的国情にあるこというまでもない。高度の資本主義発達を遂げていた欧羅巴諸国の近代産業と、それが土台となっている近代武器の力のまえには『 眠れる獅子 』支那のように、時代おくれの武器や、貧弱な兵力を擁するに過ぎない、封建日本の立場は真に危険である。英国の支那侵略は、川向うの火事ではない。支那を屈伏せしめた英国は、必ず日本征服に立向って来る。かくして阿片戦争は、日本自身の重大問題として、長崎遊学の志士たちの口から叫ばれ、漸く国内に拡がっていった。」
第五章 〈 阿片戦争は大東亜戦争の序曲 〉
「 阿片戦争は大東亜戦争の序幕であったのだ。・・・因果の循還し、事件の積重なって出来上る歴史は、奴豆腐のようなわけにはいかない。百年前に蒔かれた『 阿片戦争 』の種は、今日、大東亜戦争となって花をひらいたこを忘れてはならない。」
第五章 〈 阿片戦争は大東亜戦争の序曲 〉
要するに、大英帝国( +米国 )=高度の資本主義発達を遂げていた欧羅巴諸国の近代産業と、それが土台となっている近代武器の力
対
ここで描かれている『 眠れる獅子 』支那( 大清帝国 )のように、大日本帝国=時代おくれの武器や、貧弱な兵力を擁するに過ぎない、封建日本の立場は真に危険である。
つまり、日米開戦の際、かかる常識的情勢・状況を踏まえていた辻潤が、ニッポン権力のその余りの井の中の蛙的な無知さ加減に驚倒し、あっちこっちにその自滅的無謀さを唾棄して廻ってたという有名なエピソード、その辻と腐れ縁的な黒石も、やはり同様な見解を有していたってことであろう。黒石の場合、小説という体裁を採って、むしろ、やがて『 進め一億火の玉だ ! 』から 『 一億総玉砕 』へとなし崩し的に雪崩込んでゆく国家権力と盲動・迷走的国民に対する警告的啓蒙を提示してみせた。

































































