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2018年6月10日 (日)

ハリマオ(谷豊)は南進の輝ける南十字星か ? ( 2 )

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  ( 西鉄・天神大牟田線の井尻駅。南下すると谷豊が通っていた日佐小学校や戦没碑のある横手宝満公園に至るが、北西に向かうと彼の実家のあった五十川に向かう。)

 昭和9年、豊はクアラ=トレンガヌに戻ってきた。
 
 「 兄(豊)がまたやつて来ました、兄は自分さへゐ(い)たらこんな目にはあはさないのにと涙を流してくやみ再び理髪業をはじめましたが、私どもは兄と二カ月ばかりで別れ、トレンガヌを去つてコタバルに移りました 」

                    ( 妹・ユキノ『 朝日新聞』昭和十七年 ) 

 
 豊はマレーやタイで何度も現地の女性と結婚( あるいは同棲 )していたようで、ある女性との間には子供ももうけていたという。イスラム教なら問題ないのだろう。戦後、大部過って叔父・清吉がその事を知って現地に会いに行ったという。実在してれば、日本でこそあのハリマオの遺児ってことになるが、かつての日本軍の悪行の残滓色濃く残っているマレー(シア)の現状じゃ、そっとしておくことにしたのだろうか。
 
 「 ( 私たちがコタ=バルに転居して )その後は殆ど音信不通でしたが、何でも理髪店といふものは看板だけで、マレー人を手下に使つてなんだか知りませんが、大仕事をやつてゐたらしいです、」

 ( 妹・ユキノ『 朝日新聞』昭和十七年 )


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 ( 西鉄・五十川のバス停。博多・天神から井尻方面に伸びている。)

 筆者の山本は、この大仕事を盗賊稼業という。
 それから程なくして、豊は英国人の屋敷での泥棒で初めて逮捕され、クアラルンプールの刑務所に収監された。その際、マレー・タイで商売をしていて両国語に堪能なのをかわれ、取調べ時の通訳をしたのが鈴木退三( 後、陸軍諜報部=藤原機関で働くことになる)で、豊はマレー語で、妹・静子を殺害した犯人が無罪で釈放されたことを英国官庁に抗議しても無視されたことを唾棄して見せたという。
 その豊の言に依拠した定説、妹・静子の悲惨な死と英官憲の煮え切らない態度に怒りと憎悪の念を覚えたための盗賊化と、実は犯人の広西人は逮捕され死刑に処されていたという“事実”性との乖離に山本は困惑し、何ゆえに豊がそんな思慮にとらわれてしまったのか小首を傾げる。当時のマレー=トレンガヌの複雑な事情を反映した産物というべきか。
 

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 ( 井尻よりの線路近くの水路。確かに側溝よりは広めだけど、まさか本当に子供がこんな場所で泳いだりするのだろうか。あくまで危険防止なんだろうが、昨今こんな場所でも多雨の際には容易に氾濫してしまう。)

 それ以降、豊は、マレー北部のコタ=バルとタイ南部ナラティワッを中心に、クアラルンプールやタイのパタニーまで活動の幅を増やしてゆく。彼の親分肌な性向の故にか、両国を股にかけた多くの構成員を抱える盗賊団の首領となっていた。只、ハリマオ英雄伝の子分三千人と称されたその実際の規模の程は定かじゃないようだ。
 そもそも予め組織された一大構成員の組織って、大陸の匪賊や武装強盗団ならいざ知らず、豊の場合は切った張ったとは無縁の夜陰に乗じるタイプの窃盗団なんだから、それは些か非合理に過ぎよう。各地に潜在しているその都度の泥棒仲間ってところで、豊=ハリマオ・マラユの固定された正構成員って訳じゃないだろう。尤も、山本によると、当時、他にも似たような窃盗・強盗グループって色々存在していたらしい。
 タイ南部ってイスラム教エリアで、現在でも分離独立運動が盛んで、仏教徒が銃殺されたり斬首されたりは、ごく最近は定かじゃないけど、以前は日常茶飯。仏教徒側もその報復に走って南部は危険エリア。個人旅行者なんかはそこを通り抜け、コタ=バルやペナンのリゾート地へ向かう。


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 ( 五十川二丁目。この一帯、路地が入り組んでいて迷路状。奥に五十川八幡宮の入口が覗けている。)

 昭和12年に豊は強盗容疑で逮捕され数ヶ月留置されて後、トレンガヌ州から追放される。マレーの日本人会でも評判悪くなっていたという。又、時期は不詳だけど、コタ=バルの日本の企業《 南洋鉄鋼 》( 日本鋼管の子会社しい )の金庫を盗み、彼地の日本人たちの間じゃ結構知られた逸話だった。特別な私的怨恨があった風でもないようで、何故敢えて日本企業を狙ったのか。豊は目標対象を俎上にのぼらせるにあたって、基本、英国人と裕福華僑の屋敷・企業の二つに絞っていたので、この異例さは背後に何かあったのか思わず猜疑の念を掻き立てられてしまう。
 その後も盗賊稼業を続け、マレー政府に巨額の懸賞金まで懸けられることとなり、とうとう昭和15年頃タイ南部、パタニー近郊の海辺の村バンプーに移った。 
 
「 母の話じゃ、一年ほど前のある朝、ユタカはマレー系のド=ローという若者と一緒にバンプーの村に現れたんだ。そして食事かお茶を飲んだあと、すぐに警察に捕まってしまった。パスポートなしということで、ヤーリンの警察に二週間か三週間か分からないけど、けっこう長い間警察に入れられたんだ。・・・」

                ( 豊と共に藤原機関で活動したタイ人チェ=カデ) 

 豊は、しかし、チェ=カデの遠縁にあたる当時豊の倍近い年齢の女・チェ=ミノに一目惚れされ、彼女が父親に頼み込み、金を払って貰って釈放されることになったものの、強引に彼女と結婚させられたという。只、その後、豊は別の若い愛人を作ってチェ=カデの家に住まわせるという女出入りの頻繁さ。余談だけど、この頃豊は、後年のテレビドラマ《 ハリマオ 》と同様に黒いサングラスをかけていたらしい。
 バンプーには、開戦の昭和16年末までの一年半ぐらいの滞在だったようだ。

 「 バンプーでチェ=マが盗みをしたことはない。彼が警察に捕まったのは、パスポートを持っていなかったからだ。チェ=マはマレーの警察に追われて、クアラ=トレンガヌからコタ=バル、コタ=バルからクランタン、クランタンからパタニーへ逃げて来た。探偵はナラテッワッで生まれたパテ=ママッという男だったが、チェ=マは事件を起こさないから捕まえようがなくて帰った。・・・」

                      ( チェ=カデの筆者への談 )


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 ( 長崎の大泉黒石の生地たる宮地嶽神社の境内同様、ここも間口が狭い。が、奥行は結構ある。)


 探偵ってのが興味を惹くけど、開拓時代の米国でも、銀行強盗や列車強盗なんかを雇われた探偵(団)が追跡し捕縛したり射殺したりは有名。豊も武装していた訳でもなかったようで、マレー警察の探偵パテ=ママッを恐れていたという。
 昭和11年頃、在タイの日本人実業家に、豊は日本人社会の面汚しと唾棄され、
「 それなら捕まえてバンコクによこせ。日本に送り返してやるから 」と応じた当時在バンコクの日本大使館武官・田村浩大佐( 陸軍一の東南アジア事情通と称されていた)が、それから数年後、前述の医師兼特務工作員・ドクター瀬戸から、今度はマレーの広域を荒らしまわる窃盗団の首領としての豊の情報を得、マレー侵攻作戦に使えると顧慮してか、瀬戸に豊との連絡を依頼し、やがて陸軍諜報特務組織“ F機関 ”こと《 藤原機関 》の構成員となる神本利男に豊へのアプローチと教育を一任することとなった。 
 
 当時、豊はタイ南部の大都市・ハジャイの刑務所に収監されていて、そこに事前に豊の履歴を知悉した神本が赴き裏金を払って釈放させ、大日本帝国=天皇の威光を持ち出し、権威主義的心性を搦め手で豊を容易に篭絡し取り込んでしまった。

 「 神本さん、このような私でも、天皇陛下のお役に立つことができるでしょうか」

(《 マライのハリマオ(虎) 》『週刊読売』)


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( 石鳥居の手前に並んだ低い平成になっての石灯篭の後ろに、左右一組四角い作りの高い石灯篭が立っている。昭和五年の刻印があるのだけど、向かって右側の一番左に、何と、豊の父、浦吉の名があった。博多やマレーのクアラ=トレンガヌで開いた理髪店・クリーニング屋で儲かったらしく、それくらいの寄進は喜んでしたろう。ともかく、実家の情報は、プライバシーの問題もあるからか全くなく、行き当たりばったりでせめて雰囲気だけでもと写真を撮りに来たに過ぎなかったのが、思わぬ消息に出会えた。因みに、「進藤」姓も少なくなく、豊の五十川の青年時代に付き合っていた二人が進藤姓だった。)

 

 筆者の山本はこのセリフを必ずしも首肯してはいないようだけど。
 前の箇所と重複するが、従来説と相違して、この本じゃ豊は日本本土で受けた兵隊検査に不合格だったのをそれほど気にもしていなかった旨、当時の豊の周辺的な人物の言をもとに表しているけど、やっぱり、お山の大将的心性と祖母や父親にすりこまれた国家(権威)主義的な愛国主義的心性からして、些細な屈辱として払いのけ平然としていたとは思われない。
 むしろ、平静を装った心理の下でじわじわと豊の深奥を蝕んでゆき挫折と屈辱が澱のように蓄積していき、妹・静子の死およびクアラ=トレンガヌに戻ってからの静子の死にまつわる豊にとって不如意な事態の成行きが更に一層自身の無力と屈辱を完膚なきまで思い知らさせられてしまったろう。叱咤してくれるはずの父親ももはやこの世に居ずって訳での窃盗稼業、そして豊の気性・性向が幸いしての大集団化とその頭目として君臨って次第の方がしっくりくる。手練の神本からすれば、“殉国”の一言で以て、そんな不条理の只中に翻弄され抗おうとする(単)純な豊を落とし引き込むなんぞ造作もなかったろう。


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 ( 「農地改良碑」。こんなものが立てられているってのはこの五十川にあって、この神社が、やはり産土神的な存在だったのだろう。五十川も、かつて谷親子の頃は一時的に日佐村五十川という行政区画であったらしいけど、元々は五十川村。起源は五十構とも五十溝とも。最近も遺構が発見されたとか。数キロ先には福岡空港がある。ともかく、この周辺広い一帯田園が拡がっていたらしい。かつては稲作的には芳しくない湿田ばかりだったのを、大正の頃一大プロジェクトで乾田地帯に整備したという。豊の祖父が農業技官だったのも、そんな環境の故かも知れない。この八幡宮はそんな五十川の産土神らしい。)


 てっきり、南タイのパタニー近郊の小さな海沿いの集落バンプーに豊が現れたのは、既にF機関=神本配下の軍属としてマレー侵攻作戦の任務のためと思っていたら、バンプーに居を定めながらも、他の地で窃盗・盗賊稼業を働いていて、へまをしたのかハジャイの警察に逮捕され投獄までされていた。
 そもそもが、バンプー住民には、パタニー経由でか、とっくに“盗賊”として知られていて警戒された存在でもあったという。この集落で豊に声を掛けられ後に一緒に活動することになるチェ=カデも、最初家族や近隣の者達に、豊と近しくなることに強く警告を受けていたぐらいだった。
 一体何ゆえに、配下三千人の盗賊団と別れ、一人忽然とバンプーにやってきて、あれこれ付け焼刃的な零細商売に身をやつす様に貧窮生活に甘んじたのかと、山本はこのバンプー行に疑問を呈している。
 F機関の一員となってからならこそ、身をやつすってのが意味を成すけれど、おまけに住民たちにはのっけから正体バレバレで、その豊の内心での算段はいざ知らずもっぱら一人で悦に入っていた偽装ってのも些かハズい代物ではあった。探偵パテ=ママッの監視の眼にとまらないための、これ見よがしな正業的粉飾であったってことなのか。
 只、土生良樹の書《 神本利男とマレーのハリマオ 》に触れた個所で、マレーでの盗賊団の配下の主だった者は一緒に南タイに入り、散らばって隠れていたらしく、神本にも彼等を紹介したとも述べている。
 
 
 「 ・・・ここでハリマオを説得しました。ハリマオはハジャイで表向き雑貨商をやっていて、あちこちに部下を置いてました。」  


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( 入口の鳥居。奥にも石鳥居が静かに佇んでいる。神社の脇の一般道に人影がかすかにあるくらい。その側には旧い民家が連なり、反対側には比較的最近の民家が迫っている。)

 昭和16年10月下旬、ハジャイの大南公司( F機関の拠点 )に起居していた土持大尉の下にハリマオが訪れた際の述懐だけど、同月初めにタイにやってきたばかりの土持大尉がハリマオ関係の担当者に任じられていた。同年4月頃、豊がハジャイの監獄から神本によって釈放されてから半年後のこと。この1ヶ月半後の12月上旬にはマレー侵攻作戦開始。
 そんなギリギリでの担当者・土持大尉との初接触ってことだけど、その直後、今度は総大将・藤原少佐自身も土持の面前で豊と直接会って、豊に協力を仰いでいる。神本以来のこの執拗ともいえる協力説得は、やはり豊に対する心理的な懐柔作戦ってところだろう。次から次へと偉いさんたちが、それも最期には組織のトップが直々に協力要請をしに来てくれるという。F機関的には、もう後には引けぬ絶対的・最終的なものでもあった。結果、その効あっての侵攻作戦成功。


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 ( 拝殿。背後に社務所があるけど人影なし。)

 この本で知ったのだけど、藤原岩市少佐の著《 藤原F機関 》に、次のような前線で初めて豊と邂逅した際の記述があるらしい。

 「 彼の肩に手をかけて呼びかけた。谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。・・・サルタンの前に伺候した土民のように・・・。
『 機関長殿、谷です 』と飛びつくだろうことを期待していた私は、谷君のこの卑屈なほどにへり降った対応に、すつかり拍子抜けた。・・・ 」


 例の戦意高揚反英映画《 マライの虎 》の中のハリマオと藤原との対面シーンで、米つきバッタのような卑屈なハリマオの姿態に、幾ら権威拝跪・権威主義をモットーにした大日本帝国情報局御用達映画だからってここまでやるか、と呆れ返ると同時に、政治的プロパガンダ映画とはそもそもここまで演出してなんぼだった、と妙に納得していたのが、何と実は現実そのままのリアリズムだったとは・・・。
 重畳錯綜する豊のコンプレックスの間隙を衝かれての神本=藤原機関への剥き出しの恭順的意識。日毎のジャングルの中を潜航しながらの対英破壊工作活動の過労とマラリアの発症とで心身とも疲弊の極みにあった頃もあって、気力の衰弱が余計そんな姿態を余儀なくさせたのかも知れない。


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 ( 奥の石鳥居を背後から望む。左右に寄進者の名を刻んだ石灯篭が並ぶ。見てみると、「谷」姓がやたら多い。皆、何がしか豊の血統とつながりがあるのだろうか。博多のここら辺一帯は空港があるくらいの広い平地なので、山間の谷って要素はまずありえなく、ここの地形に根差した姓名じゃないのだけは分かる。)

 バンプーで豊は現地人のチェ=カデをメッセンジャー・ボーイとして、タン=ガーデンの神本とナラティッワッの小野某の二人の処に差し向け、情報のやりとりや資金の調達をしていたという。小野という人物は結局正体は不明のままで、山本も把握できなかったようだ。勿論責任者の藤原が知らないはずもなく、謀略組織の協力者ということで明かすことをしなかったのだろう。
 バンブーの豊の家や嫁さんのチェ=ミノの屋敷前の小屋に海から運んできた物資を隠し、神本の家までトラックで運んで貯蔵する兵站活動が当初は主だったようだ。米や缶詰、石鹸なんかの侵攻兵士達の生活物資だけど、他のF機関の構成員や協力者達も同じような兵站活動をやってたらしい。兵士達への態のいいお駄賃代わりにはなるのだろうが、兵站というには所詮微々たる量でしかないと素人考えでも思い至ってしまう。
 ところが、当作戦の兵站物資の本拠地がベトナム南部にあったらしく、これはあくまで、侵攻時にそこからの輸送が間に合わない場合の間に合わせ用だったようだ。兵站といえば皇軍のアキレス腱ってのが定式のように有名過ぎて、つい神本達のが兵站全量なのかと腰抜かしかかったけど、間に合わせ的なものだったと分かってさすが皇軍も精神主義一辺倒だけじゃないのが分かって了解。それでも、その後、東南アジア全域の皇軍兵士達の少なからずが鬼畜的惨状の坩堝に呑み込まれていくのを、豊はともかく、神本や藤原達は考え及んでいたのだろうか。


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( この大正八年の刻印のある石狛犬にも、献じた人々の名前があって、「谷」姓が多い。只、下の名の方が判然としない。)

 昭和16年12月8日、開戦の日の早朝、パタニーに日本軍が上陸したニュースでバンブー集落は大騒ぎ。
 豊は愛人を連れて神本の処へ、チェ=カデはタイ警察に捕まることを恐れ一人山に逃げ込んだのだけど、結局二人ともヤーリンの警察に捕まってしまった。チェ=カデは警官に銃を頭に突き付けられスパイ行為で銃殺されることを示唆されたのが、幾らもしない内に、ピブン=ソンクラーム首相が日泰同盟条約を締結し、二人は釈放された。それも至れり尽くせりの警察の供応ぶりに断ることもできなかったのか、その夜一晩その警察署で過ごす羽目になってしまっという。
 他の地域じゃ、スパイ容疑( 冤罪なのか工作員だったのか詳細不明 )で在タイの日本人達が六人ほど殺害されていたというから、ピブン首相の条約締結がもっと遅かったら、豊もチェ=カデも銃殺されていた可能性高く、とんだ命拾いだった。


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 ( 前の狛犬と反対側の狛犬像に刻まれた名前も風化して名の部分が読みづらく、ためつがめつ確かめようとしたけど不可。残念。)

 その後、藤原機関と合流し、チェ=カデは発病して戦線脱落。
 豊は盗賊団の仲間たちや藤原機関の構成員たちと、ジャングルに隠れながら、反英軍破壊工作といっても、実際は退却する英軍が橋やら鉄道、発電所等の施設を破壊してゆくのを阻止する工作だったらしい。マレー侵攻日本軍の南進をできるだけスムーズに行なわさせる工作で、大半は首尾よく完遂できたようだ。英統治軍の麾下に入っていたマレー兵を帰順・戦線離脱させる工作すらやっていたという。
 一月上旬( 昭和十七年 )頃にマラリアが再発して以来、快方に向かったり悪化したりを繰り返しながら工作活動に専念し、一層悪化の途を辿っていき、重篤化するとあっちこっちの病院を転々としたあげく、三月十七日夕刻、最後に担ぎ込まれたシンガポールの平屋の華僑病院《 丹得仙病院 》で数人に看取られ永眠。
 盗賊団の仲間が遺体を担いで近くのイスラム墓地に葬ったらしいものの、その後、杳として豊の墓と遺骸は見つかず。
 現在に至るも尚谷豊=ハリマオの墓と遺骸発見されず謎のままってのがいよいよ神話的なのだけど、豊本人の内面を吐露したものは本当に乏しく、推量・憶測する他ないようだ。それでも、豊の足跡ってものがこの山本の精力的な著作でだいぶ分かってきた。 やっぱり、谷豊は大日本帝国の南進の輝ける星=ハリマオだったってことだろう。


 問題は、もはや仮定のあるいは論理的帰結としての、もし谷豊がマラリアで死なず生き延びていたとしたら、どうにも逃げられないのっぴきならぬ袋小路に豊が立たされたであろう、皇軍・大日本帝国の占領支配とマレーという拮抗・対立の歴史的現実。タイ人たるチェ=カデが皇軍侵攻でタイ官憲にスパイとして殺害されかかったように、豊もそれを問われることとなるのは必至。彼がマレー人として生きたかったのが真摯なものであればある程、その絶対矛盾から逃げれることはできなかったろうから。

 
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 ( 八幡宮の石灯篭だけじゃなく、周辺の路地の裏々を歩いてみても、やっぱり谷姓の家がやたら多い。戦後建てられたのだろう民家の間に、ポツン、ポツンとかつての農家の佇まいを残した建物もあるのだけど、代々の遺風を偲ぶように残された小さな田畑すら見られなかった。この鉄門の、元農家然とした、しかし、鬱蒼とした茂みが何とも独特の情緒を醸し出し、一歩中に入って撮りたい衝動に駆られたけど、車も停めてあるので遠慮せざるをえなかった。)


《 ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実 》(2002年) 山本節 ( 大修館書店 )

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 ( 赤レンガ塀が好い。)

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 ( ここも朱塗りの鉄門で、前庭に面した建物の配置からして典型的な農家の佇まい。前掲の元農家風屋敷とは又別様の雰囲気。)


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2018年6月 4日 (月)

アラビア海に唄うケララの小娘 スーリヤガヤトリ

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 ( 南インドの海岸。 記事と画像は関係なし )


 昨夜、ひょんなことから南インド・カルナータカ音楽のYOU=TUBEサイトを観る羽目になり、インド小娘とその父親か師匠の鼻髭男のコラボだったんだけど、中々聴かせ、且つ映像も高画質で巧く作れてて感心してしまった。


 少女はスーリヤガヤトリ ( Sooryagayathri ) という、当方の僅少なヒンドゥー知識じゃ、太陽神=スーリヤとヒンドゥー教マントラの精髄と謂われるガヤトリー女神と併せた随分と欲張りな命名だなーと思わず微笑が漏れてしまった。
 ケララ北部の漁業の町ヴァダカラの出身で父親は南インドのカルナータカの伝統的音楽打楽器ムリダンガムの奏者という。南インド音楽じゃよく見かける両側から叩く紡錘型の太鼓で、ブログ見ると、左右で音の高低が異なっているという。初めて知った。


 如何にも優しそうな三十代の男の方は、クルディープ・М・パイ( Kuldeep Muralidhar Pai ) という南インド、ケララ出身のカルナータカ( 伝統的宗教 )音楽の歌手・音楽家でありプロデューサーでもあって、柔らかい声が魅力的な歌手で、スーリヤガヤトリの声とよくマッチしている。彼の音楽学校なのか生徒たちのパフォーマンスをYOU=TUBEにアップしているようだ。


 その中でも、年下のスーリヤガヤトリのパフォーマンスが圧倒的に多く、正に彼の秘蔵っ娘ってところ。
 彼の小娘スーリヤガヤトリに対する親愛の程が映像からでも伝わってくる。双方向的親和の賜物って極みは、年齢の差や師弟の関係を越えて、対等な歌手として唱いあげたインドの第二国歌とも謂われているらしい《 バンデ・マータラム 》だろう。
 この曲は宗教歌じゃなく、かなり以前、A・R・ラフマーンが本来のオリジナルを刷新して新しい《 バンデ・マータラム 》を創ったので話題になっていたのは、ヒンドゥー=イスラムの対立が激化していた時節で、宥和・統一の指標として提示したものであった。 このクルディープ・М・パイの《 バンデ・マータラム 》は、しかし、オリジナルの方の歌詞を踏襲しているものの、詩情豊に、秘蔵っ娘スーリヤガヤトリと唱い挙げていて、今回聴いたそのシリーズの中じゃ秀逸の一作だと思う。
 スーリヤガヤトリの少女の頃の声質って、原則的には彼女以外の少女歌手も同じだろうけど、その年頃独自の世界とエッセンスを有していて、もっと年嵩になって技術的にも巧くなったとしてももはや取り返しようもない“もの”なのを、彼女の幾年間かの期間のパフォーマンス作品を聴いてつくづく思った。


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2018年5月27日 (日)

忘れた頃のトロピカル花 フェイジョア

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 てっきり昨年植えたと思い込んでいたフェイジョア苗木、昨年の暮れ、根元まで切り落として冬越え。今春、どんどんと三又状に細い幹を伸ばし、柑橘風の五、六センチの葉を左右に茂らせ続けた。
 何処かで見たことのあるようなシンボルマークに似た四方に拡がる先端の新葉の開き方に感心しつつも、着花は三、四年ぐらいからという話をブログかなんかで読んだ記憶があって、期待はしてなかったのが、今月に入った頃から、小さな丸い緑の蕾ともつかぬ花芽状のものが手前の枝から伸びた脇枝に何個か生え、これは若葉の包芽(?)と若干違ってるように思えたものの、あらぬ期待を抱くまいと自分を納得させつづけた。
 ところが、やがて丸い包芽の真ん中にほんのりと淡いピンクの色彩が覗けはじめ、あれれっ、これはひょっとしてと、あらぬからあり得るに一気に期待シフトに移行。それでも、遅々として杳として進展は見られず、同じ白っぽい淡い緑の包芽状態がつづいた。
 

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 フェイジョアには、余り肥料や水はやらない方がいいらしい。
 それでも、水はほどとぼにはやっていた。
 他の包芽はつぎつぎに新葉となって伸びてゆくのに、一向にこの脇枝に出来た花芽群に変化が見られず、稀(たま)にはと、昨夕、百円ショップで買ってきた有機肥料をちょっと根元にまいてやった。
 と、今朝、赤い裏側は白い、ちょっと見には毒々しいぐらいの派手なトロピカル・フラワーが一輪だけそっと咲いていた。
 え~、たった一晩で淡い緑がちな蕾から、こんな派手派手しい開花ってあり得る?
 キツネに抓まれたようにまじまじと見覚えのある赤いトロピカル花を見つめるほかなかった。現金な、というのは些か的外れだろうが、まだ幹も枝も細く突風でも吹き付けたひにはポッキリ折れてしまいそうなか細さ故に、養分が廻るのが速かったのだろうか。それとも、施肥が丁度ベスト・タイミングだったのか。
 こうなってくると、こっちの方が現金に、下手すると結実し緑の実がたわわに成ったりするのだろうかと、タヌキの皮算用を決め込みたくなってくる。
 味はパイナップルとリンゴ、バナナをミックスしたような味らしい。
 当方、フェイジョアの実は未食。


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 かつて、カンボジアの首府・プノンペンに滞在していた折、目抜き通りといわれていたシアヌーク通りのある角に、頭上に毒々しい赤い花の咲きほころんだ鬱蒼と茂ったフェイジョアの樹があって、その如何にもトロピカルって感じが気に入り、通る毎にしげしげと見上げたものだった。寺院の庭によく咲いている爽やかな純白花のプルメリアの樹がカンボジアでは一番好きだったけど。
 で、机の上の本棚の中に仕舞ったままの苗を買った際に添付されていた簡易な栽培ガイドを思い出し、取り出してみたら、2015年の11月の日付になっていて、実際は三年前に植えていたって次第。恐らく一度植え場所を変えたりしたのと他の似たトロピカル苗木と紛らわしくなってしまったのだろう。狭い庭でしかないのに。


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2018年5月12日 (土)

ハリマオ(谷豊)は南進の輝ける南十字星か ? ( 1 )

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 最近の《 日馬富士事件 》なんかで列島中を席巻した排外主義。
 戦前、排外主義=大陸侵略のその底なしさ加減に、呆れ、怒り、絶望し、それでも己の置かれた立場を全うしようとした金子光晴や辻潤の抱懐した哀切に、つい想い至ってしまう今日この頃、ふと、戦前のそんな救いようの無い状況の只中で、挙国一致的な不滅の金字塔として喧伝された救国英雄="マレーの虎"ハリマオが改めて思い出された。
 
 以前触れた土生良樹《 神本利男とマレーのハリマオ 》1996年 ( 展転社 )は、基本、中心が神本であってハリマオは副次的な扱いに過ぎなかった。
 今回一読させて貰った山本節《 ハリマオ マレーの虎、六十年後の真実 》2002年( 大修館書店 )は、“戦時中”という隠蔽・隠滅・歪曲をモットーとする時代的制約の下での歴史過程、“真実”=ハリマオ的消息を意欲的にを渉猟し追及しようとしたようで、結構勉強になった。  
 

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( 福岡天神・大牟田線 井尻駅から南に下り、かつて谷豊が通ったという日佐小学校に向かう井尻商店街の入口。井尻六っ角。)


 ハリマオ=谷豊の実像に迫ろうと、彼の家族=血の“組成”から、山本はアプローチする。豊の父親、谷浦吉( 明治11年生れ )を基準に、その父親(谷からは祖父)茂三から兄弟・姉妹まで神話学的触手が向けられる。
 浦吉は福岡県筑紫郡日佐村大字五十川( 現・福岡市南区五十川 )で、農業専門家の父茂三と母ユキとの四男として生まれ、青年時に単身でアメリカに渡り、理髪業的技術を習得して帰国したという。
 「 浦吉は生来血の気の多い、進取の気性に富む 」( 7頁 )人物だったようで、明治40年に近郷のトミと結婚し、明治44年に長男・豊をもうける。その翌年には、シンガポールに渡り、1年後、マレー東岸トレンガヌ州の州都クアラ=トレンガヌに移って、そこの中国人街のはずれで理髪店とクリーニング屋を営むことになったという。山本の言によると、同じ界隈に「 娘子軍の店も五、六軒あった 」らしく、娘子軍って、いわゆる“ 唐ゆきさん ”のことであっても場所柄違和感はない。只、そのままの娼館なのか、娼婦業から離れて別の商売を始めたのかどうかは定かじゃない。勿論単純に現地の女性たちの娼館であった可能性もそれ以上に言及してないので排除はできないが。当時の門司港にも、唐ゆきさん船から逃げ出したりしたものの故郷にも戻れない唐ゆきさんたちが門司港で沖仲仕なんかのハードな仕事を余儀なくされたという挿話もある。


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 ( かつて谷豊が通学した日佐小学校の近辺の街並。御多分に漏れず、空家・廃屋の類が諸所かしこ。)
 
 
 「 浦吉は生来固い国粋的な人物で、郷土愛が強く、故郷の方言を笑われると本気で怒った。家内でいつも博多弁で話していたから、通説のように豊が日本語をまるきり忘れ、話せなかったというような事実はない。浦吉は人の面倒見もよかった。同郷の五十川から移民してきた人もあったが、心構えが十分でないので彼が叱り、銭を与えて帰国させた。
 浦吉は帰国すると・・・マレーで儲けた金を資金にして金貸しをも行ったが、この方面には不向きであった。取り立てに行った先の窮状を見ると、返済を促すどころか見るに見兼ねて逆に金を置いてくる、という按配であった。繁樹( 谷の実弟 )によれば、後年箪笥の中いっぱいに詰まった未返済の借金の証文が発見されたという。」

浦吉の兄・清吉談( 大阪毎日新聞・福岡版昭和17年 )


 浦吉の母、豊には祖母にあたるユキの影響も指摘されている。

 「 あれ(豊)の祖母が負けん気の強い曲ったことの嫌ひな人でした、私が、“ 税金が高くなった”とこぼしたら、えらう叱りましてなあ、日清戦争に私は召されて出征したが、赤紙が来た時“死んだ覚悟で征けるか、迷ふ心があるなら出る前に親子の縁は切る”母は一事が万事で、この調子でした、」
                       浦吉の兄・清吉談( 同上紙 )
 
 
 山本は祖母を「 明治の“軍国の母”」と評しているけど、単純化していえば明治維新以来の国権主義的な権威主義の本道、昭和だと“国防婦人会”ってところだろうか。
 農業技官だったらしい祖父の方は不詳だけど、父・浦吉と相まって、当時の一般的なというより些か主導的な気風ってものの一端が了解される。
 クアラ=トレンガヌじゃ豊は現地の小学校に入っていたものの、浦吉がイギリスの影響が強い授業が気に入らなかったのか、十歳の時、突然日本の小学校(故郷博多の日佐小学校)に妹と一緒に転入させた。そこを卒業し、つづけて日佐高等小学校で一年学んだ昭和2年、妹と共に再びクアラ=トレンガヌに戻らさせられる。
 侠気のある、しかし、勉強はさっぱりの喧嘩ばかりの腕白大将だったようだ。
 昭和6年兵隊検査のため、再度帰国するまで、家業の理髪店を手伝っていた。豊は手先が器用だったようで小学生の頃から手伝っていたという。

  「 豊の学業成績(比佐小学校)はお恥ずかしいことながら余り芳しくなかった、ただ手工だけは神技の出来ばえと先生がいつも舌をまかれた、母方に美術学校出の彫刻家や大工職がゐる、やっぱり手筋ですなー。」
                      
 浦吉の兄・清吉談( 同上紙 )


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 ( 右奥に日佐小学校と隣り合わせた宝満神社の暗い森が覗けている。)
 

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 ( 人気の感じられない宝満神社。低い塀の隣の公園には親子づれの姿もあるのだけど。)
               
 
  当時の国民皆兵制度下じゃ20才になると男は兵隊検査を受ける義務があり、豊もわざわざマレー半島から帰国して受けたものの、結果は実質不合格の“丙種合格”。
 豊は1メートル50センチちょっとぐらいの身長だったらしく、基準の155センチに満たなかったのだろう。それでも、巷間いわれているいるように不合格がトラウマになったという訳でもなかったようだ。  
 昭和9年にクアラ=トレンガヌに戻るまで、豊は博多で何度か仕事に就いていたらしい。 給料を貰うと仲間を連れて歓楽街に赴き喧嘩も多かったという。
 当時の豊を山本は、「 精悍で直情径行、多血質の親分肌、心の陰や暗さはあまり見られず、言葉や思想よりもまずすばしこく手足が動く、といった性格が思い描かれる。すでに後年の『ハリマオ』の姿が彷彿とする」と評する。
 そして当時の豊の心の内奥にゆらめいていたものを明かす次のようなエピソードがあった。

 「 豊さんはマレーに帰りたくてたまらない様子じゃった。門司港で密航ば試みて二度失敗しよりました。乗ろうとしたのは外国船でしょう。見つけられれて、清吉さんが引き受け人になって保護しました。」
           ( 谷英雄=豊のいとこ。平成六年福岡市での筆者への談 )      

 末妹・静子が殺害された故にクアラ=トレンガヌに舞い戻ったという俗説とは相違して、それ以前からの望郷の念だったらしい。
 一家の主・浦吉を亡くし、今度は幼子・静子すら惨殺され失意して帰国したトミが、豊にも静子の死を( 親戚の者は皆とっくに手紙で知っていたが豊には何をしでかすかわからない危惧から教えなかった )知らせたら、案の定、豊は仇を取るんだと日本刀を片手に門司港から乗船しようと謀らみ、清吉が門司港に連絡して捕って戻された由。それでも、結局、ちゃんとパスポートもとって、マレーに戻ることになった。


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 ( 宝満神社と日佐小学校に隣接した宝満公園。奥角に豊の名が刻まれた戦没者碑がある。)

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 ( 日佐小学校。井尻の駅の北西約1キロ辺りに豊の父の弟・清吉の家があった五十川から、同じく井尻の駅から南西約1キロにあるこの日佐小学校に通っていた。当時はこの辺り一帯は田畑の拡がった田園地帯だったようだ。)


 昭和8年(1933年)11月6日、満州事変に怒った一部華僑(他所からやって来た)が、クアラ=トレンガヌの中国人街を襲う事件が起こった。
 当時のトレガンヌの中国人って人口の一割程度で、その中国人街の中に、30人程度の移民・出稼ぎの日本人たちが住んでいたに過ぎなかったらしい。トレンガヌ以外の町からやってきた日本の満州侵略に激怒した勢力だったようで、それでも近隣のマレー人たちに危急を知らされたり日本人歯科の家に隠れたりして大半は難を免れたのだけど、よりによって理髪店の二階で風邪で寝ていた豊の末妹・静子( 9歳 )が犠牲になってしまった。事件当日、地元の華僑たちも恐怖し、学校から生徒たちを帰さなかったというけれど、今一つ事件の根幹とも謂うべき肝心の抗議集団の数が曖昧。中国本土で全国的に起き、遙か南洋マレーの華僑社会でも呼応して沸き起こった抗議運動なんだろうが、タイ国境にも近い小さな町のクアラ=トレンガヌじゃ基本発生していなかったようだ。
 トレンガヌ以外のどの都市から波及してきた運動なのか詳らかでない上、そもそもがトレンガヌで荒れ狂った凶行の当事者、実は広西出身の一華僑青年でしかなかったという。てっきり他の町から押し寄せてきた反日抗議の集団とばかり思ってたらとんでもなかった。様々なハリマオ関係の既存の記述じゃ正に反日集団って趣きだったのが、この山本の本を読んで腰砕けになってしまった。
 トレンガヌの華僑たちも、片手に血塗られた青龍刀を握り、もう一方の手にはこれ見よがしに血の滴る9歳の少女の生首を引っ提げた“ 一人の頭の狂った青年が暴れている ”と日本人たち同様凍てついていたという。
 尤も、犯人の広西青年は、国産" 反英 "映画《 マライの虎 ハリマオ 》(1940年)のように英国統治官憲が逃がした説とは相違して、逮捕され、コタ=バル近辺で死刑になっていたともいう。
 只、その青年が本当に日本の満州事変に怒って起こした行動だったのかどうか、あるいは彼の遠戚・知人が満州事変で殺害されたり被害を受けたのかどうか、その肝心の詳細が不明なままになっていて残念。筆者の山本氏に後続を期待したいが、この本の発表後に亡くなったらしい・・・。 
 ともあれ、豊が如何なる私憤・義憤にかられてみても、日本の満州侵略の反動が、遠いマレーの移民・出稼ぎの日本人街の住民・幼い静子を生贄にしてしまったってことにかわりはない。


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 ( 少子化著しい時節柄、子供の姿が見られない。夏日なんてシュールなまでに真昼の陽光に照らし出され熱気にゆらぐ無人の公園って図が容易に想像できてしまう。公演の隅に佇む石碑群。右の円柱が件の碑。)

 
 実は、博多・五十川の谷清吉のところには、不憫に思った同じトレンガヌの住民・歯科医・浦野軍之助が斬首された静子の生首を縫合してやったその写真も送られて来ていた。むろん間違っても豊かには見せられず隠したままであった。
 その歯科医師・浦野は若くしてマレーにやってきて、クアラ=トレンガヌに落ち着き、谷家の人々とも近しくしていたという。トレンガヌには、歯科医は彼一人しか居ず、土地のスルタン(王)すら歯の治療を受けに来たほど貴重な存在だったようだ。後、日本軍のマレー・シンガポール侵攻作戦中に、徴用されたのかどうか定かじゃないが、憲兵隊通訳となり、陸軍病院でも働いたという。
 
 この歯科医の行(くだり)に接して、かつてバンコクで観たユッタナー・ムクダーサニット監督《 少年義勇兵 》(2000年)を思い出した。
 1941年(昭和16年)、マレー侵攻作戦の一環として日本軍が上陸して来たタイ湾に面したホアヒンの南200キロぐらいのマレー半島東岸の町チュムポンを舞台にした青春群像物語だったけど、タイ軍の手薄を補完するための志願兵募集に参加した高校生たちの中に、姉婿の日本人の写真家の営っている写真館で同居していた主人公が居た。
 ところがその写真家、実は陰で日本軍上陸を手引きするための工作員の仕事をしていて、魚釣りをしているように見せかけて海の深度なんかを調査し日本軍に情報を送っていたのだった。そして、12月8日未明、日本軍が上陸し、件の少年義勇兵たちは少数のタイ国軍と一緒に果敢に日本侵略軍と戦うことになったものの、多勢に無勢、おまけに同日深夜には首相ピブンソンクラームによって日本軍通過の協定が締結され即終戦。勝ち誇った日本軍車上に軍服をまとったその日本人写真家の姿があった。
 つまりその姉婿の写真家は諜報工作員だったという訳だけど、この脚本は、ある在タイ日本人の父親が正にその如く働いていたという回顧をそのまま踏襲していたようで、その父親ってのが、写真家ならぬ医者だったという。  

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 ( かつては日佐村だったらしい。幕末の戊辰戦争や西南の役から太平洋戦争までの日佐村の戦没者の碑。上段左から二番目に谷豊の名が刻印されている。軍属扱い故に公死なんだろう。)


 それ故に、トレンガヌにコタ=バル上陸部隊が南下してきた際、上述の歯科医・浦野も、同様な事前工作に従事していた可能性を捨てきれない。この神話学者・山本節の《 マレーの虎、六十年後の真実 》には、他にも同様な在マレー邦人たちの行動が記されていて、本当に純粋に移民・出稼ぎだったのか、あるいは強制的な軍部徴用ならまだいざ知らず( 否、これとても甚だ問題 )、いとも容易に軍部に協力し、日本軍のマレー( タイやインドネシア )侵略の手先となって働いていたという事実・傾向性は様々な問題を孕むことになる。
 流れ的に前後するが、滝川虎若という在タイの医師の回顧談に触れている個所の、


 「 ハリマオに出会ったのは昭和十五( 一九四〇 )年頃だったと思います。スンガイ=パティの私の医院に、性病を治しに来ました。淋病でした。コタ=バルから私の所にって来たんですが、そんなに多い回数ではありませんでした。一、二度だったと思います。・・・・・・『 谷豊 』と名乗っていたと思います。サロンに帽子のマライ人の服装でしたが、私とはもちろん日本語で、『 普通弁 』で話していました。」


  「 私がタイのバンコクに渡ったのは昭和一〇(一九三五)年五月でした。ここで医者のライセンスをとりました。他に瀬戸さんという医者と、石野さんという歯科医と三人でバンコクの中央病院前で開業して、その後三人で南タイのシンゴラへ行って開業しました。」


 この瀬戸という医師こそが、前述の《 少年義勇兵 》の主人公の義理兄の日本人写真家のモデルになった可能性の高い医師と同名で、先ず同一人物だろう。そして、直前のハリマオの淋病を治療した医師・滝川に、豊を紹介したのが、軍部諜報機関=藤原機関と関係のあった人物であったという。 
 ともかく南方に居着いていた日本人医師( 勿論医師だけじゃなかったろうが )って、戦前・戦後のいわゆる日本の排外主義的論法を逆手にとって逆照射してみると、皆一様に、日本権力=軍の諜報員あるいはそれに準じた協力者、要するに“手先”ってことになってしまう。
 これって、“真珠湾攻撃”で米国との戦争に突入して後、移民・出稼ぎの米国在留日本人たちが丸ごと、正にその“手先”的傾向性を猜疑された故に収容所に隔離された米国政府の政策の正当性すら裏付けることになってしまいかねない。


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 後年、相当時間を経過して、米国に根付いた在米日本人移民たちが抗議し、米国の差別主義的排外主義に反対する勢力の後押しもあって、いわゆる名誉回復=米国政府の謝罪って結果に至ったけどれど、マレー侵攻日本軍はそのまま南端シンガポールに至って、いわゆる“ 抗日分子”の殲滅を企図した《 シンガポール華僑粛清事件 》を、最高責任者・山下奉文司令官の命によって実行し、日本軍側発表5千人~シンガポール総商会の発表5万から10万人もの華僑たちが殺害された現実を前にするともはや言う言葉すらなくしてしまう。ここでも戦前の日本皇軍=権力のこれ以上ない象徴たる参謀・辻正信が顔を出していて、自ら現場を訪れ、

「 シンガポールの人口を半分にするつもりでやれ 」

 と、例のしたり顔で激を飛ばしたという。
 こんな輩が、自国の多くの将兵を、同時に行く先々のアジアの国々の人々をも幾度も、それも越権の限りを尽くしてまで死地と修羅場に追いやってきて、敗戦後自刃することもなく(他の者には押し付けて平気なのが)、アジア中を逃げ回り、戦後の国会議員選挙で堂々と上位当選して国会議員になれた国って・・・敗戦直後の大陸からの引き上げ時の悲惨や捕虜兵たちのシベリヤ抑留の不当性を声高に騒ぎ立ててきた行為・心情の( 戦後世代からみれば驚愕的 )虚偽性を最初から証しているってことでもあった。
 シンガポールや他の東南アジアや大陸で日本権力=軍部がやらかした侵略主義的蛮行 ( あのマレー侵攻作戦の端緒というべき、タイ上陸・侵攻の際にも既に強姦・略奪が行われていたという話すらあった ) が、在米移民・出稼ぎ日本人たちが収容所に隔離された後に延々と行われていたにもかかわらずの、後年の在米移民日本人や反排外主義的な米国人団体による違法性指弾の運動故の米国権力側の謝罪って事実は、しかし、それだけのことでしかなく、戦後および謝罪以降も内外での米国政府の同様な侵略主義および差別主義的排外主義は止まることもなかった。 


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 ( 日佐小学校の裏の狭い一角には空家が連なっていて、中庭に面して白塗り土蔵もある旧い農家風のこの民家は、かつて豊が五十川から毎日通っていた頃にも同じ佇まいを見せていたのだろう。定番の元は茅葺屋根だった赤いトタン屋根。雰囲気が気に入った。)


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 ( 同上 )

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2018年4月25日 (水)

青桐の陰の白壁の暗い家  黒石的生地

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 ( カトリック教会、その名も八幡町教会。かつては歌舞伎館・八幡座が建っていた。) 


 銅座河の細工場から、鳳雲泰と彼の跡をつけていった牛島秀夫が、寺町を抜け、中川に差し掛かる手前に、「水車場の並木、聖堂」のコースと重なるかどうかはともかく、作者の黒石の生地といわれている《 八幡神社=宮地嶽神社 》がある。
 
 
 「 支那海の波が長崎港へ押し寄せて来る、英彦山がまともに見えるだろう、山麓の蛍茶屋から三つ目の橋際に芝居小屋があるだろう、その隣が八幡宮だ。鳥居をくぐると青桐の陰に白壁の暗い家がある。今でも無論あるはずだ。そこでお袋は俺を生んで直ぐ死んだ。」       『 人間開業 』大泉黒石全集 1 (緑書房)
 

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 ( かつて黒石が生まれたといわれる宮地嶽神社=八幡神社。奥の鳥居が明治に立てられた有田焼製の鳥居。)


 
 路面電車の《 諏訪神社前 》と《 新大工町 》の真ん中あたりから南下し、中川を越えて百メートルぐらいの民家の密集した一角にその神社はあった。
 時節柄、この近辺の中川沿いにはずらり桜が咲き乱れ春の微風に桜花舞い、雰囲気は十分に盛り上がって、いざ黒石の生誕の地の神社の前に立ってみると、果たして、ネットで予め知っていた有田焼製の《 宮地嶽神社 》の鳥居の向こう、人影もまったくない境内の奥に拝殿が一つ真昼の陽光に白々と照らし出されているばかりの、すっかり白日夢世界。
 煤けた感じの拝殿の背後も車が停まっていて、普通あるべきはずの本殿の姿も見えない。何のことはない、最初何か変と思ったのは、道路に面した二つの鳥居と奥の拝殿以外、つまり境内がそまののコンクリート床の駐車場になっていたからだった。駐車場の只中に、ぽつんと、鳥居と拝殿だけが立っている妙な空間のせいであった。
 入口の二つの鳥居は前後しているが共に明治の刻印があり、拝殿両サイドに控えた狛犬は安政の産。


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 ( 前の通りを右に行くと、かつての八幡座、現・カトリック教会の前を通って中川に出る。)


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 ( 鳥居のすぐ隣には奥行の無い民家が連なっていて、確かに時代を経るにしたがってどんどん敷地・境内を浸蝕されてきたような神社ってよく見かけるけど、ここの場合、黒石が生まれた明治の頃に既に現在と同じくらいに間口が狭かったのだろうか。)

 確かに、青桐こそ影も形もなかったけど、石鳥居のすぐ片側隣に、もう民家の、それも玄関が迫っていて、黒石の生まれ育った家もそこら辺だったのだろう。
 神社の中に民家があるってのは余り聞かず、一体如何なるなりゆきで境内に民家が建つ成行きになったのだろうと怪訝に思っていたら、何のことはない、間近かに隣接していたのだった。あるいは、当時は神社の敷地内ってことだったのかも知れない。
 その民家の北側、つまり川側の隣が、現在こそカトリック系教会の敷地になってるが、昭和初期まで《 八幡座 》という芝居小屋が建っていたらしく、移動の余地はない。
 ひょっとして今は駐車場になっている方に建っていた可能性も捨てきれない。それだと青桐の立っていられる空間も確保されるのだけど、すると殆ど間口が鳥居分しかないいよいよ狭苦しい神社ってことになってしまう。ここも、明治維新の際の廃仏毀釈で、仏教寺院が廃されて八幡神社が残った由。だとすると、本来はもっと広かったはず。明治維新政府権力の仏閣を廃してまでの天皇=神道至上化政策も、それほど現実で゛は効力もなく、通りのふとした狭間の鳥居分だけの小祠堂並みに凋落してしまったという訳か。
 ともかく、当時は如何なる状況にあったか不明なので、所詮推測・推論の域を出ない。


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 拝殿の石段に坐ってペット茶をちびりちびり飲みながら気づいたのは、拝殿の側の床は、コンクリートじゃなく石畳になっていることだった。コンクリの所は、以前は土剥き出しの地面か玉砂利だったのだろう。経営上の問題でか駐車場にする際にコンクリで覆ったのか。これもアベノミクス的産物って訳だろうか。
 それにしても、真昼の陽光に照らし出された《 宮地嶽神社 》とその周辺世界の、静謐とまではいかないけれど、静けさは、キリコの絵以上にシュールなものにちがいない。
 

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 ( 一見普通の神社の拝殿然とした裏に廻ってみれば、本来あるべき本殿が消え、コンクリの駐車場的回廊って趣きに、かなり厳しい経済事情の諸々が妙にミニマニズム的に随分とすっきりした景観を呈させているってのが分かってきそう。

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 ( 拝殿前の石段から望んだ景観。鳥居が随分と端っこに追いやられて感が強い。それが神社の面前で覚えた違和感だったのだろう。)

 けれど、黒石が生まれた頃はもっと喧騒に満ちバイタリティーに溢れていた界隈だったはず。
 と云うのも、黒石の生まれた家があったらしいこの八幡宮のすぐ隣が、現在こそカトリック系の教会の敷地になってすっかり長崎情緒然としているものの、黒石の頃は、彼が単に芝居小屋とだけ記している建物があった。それが実は長崎で一番古い文政11年(1828)創立の歌舞伎興行館で、終戦直後火災で消失するまで建っていたという。当然それに応じた店々も、周辺に立ち並んでたろうから、結構賑やかだったことは想像できる。
 長崎関係のブログを見ると、「 長崎で起きた史実を元に歌舞伎の題目となったものも多い。」( 長崎Webマガジン「ナガジン」)とあって、戦前、市川猿之助が《 長崎土産唐人話 》なんかを上演したという。
 そんな雰囲気の只中で黒石も子供の頃から育ち、ちょこちょこ観劇すらしていた可能性もあって、彼の作品の異国情緒性も、そんなところから培われていたのかも知れない。


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2018年4月18日 (水)

旅先の現地本

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 海外を旅していると、ついその国の文化、とりわけ音楽出版物なんかについ惹かれてしまう。
 最初の頃だとカセット・テープがまだ大陸や東南アジアで余命を保っていた頃で、それでも中国・最南部の雲南省の小さな町、たとえば大理なんかの間口の狭い小さなカセット屋の店先にも段ボールに放り込まれた音楽CDや愛国戦争物VCD(低画質のビデオCD)等が売られ、感心したものだった。タイのバンコクで、VCD専門プレーヤーを見つけたのもその少し後だったか。DVDは、まだ、ワンランク上の高嶺ってあつかいだった。
 例によって、バンコクのお手軽ソフトの殿堂MBKマーブンクロンでも、オリジナル・カセット・テープからCD、ゲームCDまでコピーし売りまくっていた。時折、あの二百万本売れたといわれるボー(スニター・リティックル)のデビューアルバムも、二回店舗を変えて買ってみても音の全く出ないブランクを渡されるようなこともあったけど。


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 けれど、印刷出版物も、やはり、異国情緒そのままなので、文字が分からぬままでも、つい、どんなものか手にしてしまう。そんな中でも、バンコクはアジア旅の基点として頻繁に行き来し、本屋や書籍コーナーに通う回数も多かった。タイ文字が珍しくて、とりわけ詩の本(大抵は薄い冊子型。サイズは色々小さなものも多かった。)は、挿絵なんかが入っていたりして視覚的に興味を惹いた。
 またタイは元々映画量産国の一つでもあって、映画コンプレックスもあっちこっちにあり、TTゲストハウスに常備の英語新聞[ バンコク・ポスト ]でチェックしたりしてサイアム周辺の映画コンプレックスに日本より三カ月~半年早い封切りの洋画やタイ映画を観に通った。
 タイは隣国カンボジアと同様、今でも霊媒師や霊能者たちが活躍している土俗的オカルティズムの跋扈する社会で、ホラー映画が断然人気があったようだ。そんなホラー・オカルト映画にも、時代の要請で、新しい波がおこり、その金字塔的作品が、ノンシィー・ニミブット監督のタイの伝説的ホラーの映画化[ ナン・ナ―ク ](1999年)だった。空前のヒットだったらしいが、同様に二年後の十六世紀アユタヤを舞台にした宮廷王権争奪物語たるチャートリー・チャルーム監督[ スリヨタイ ](2001年)も大ヒット。この[ スリヨタイ ]のDVD持ってるけど、劇場じゃ三時間だったのが、DVDセットじゃ、三枚組で五時間という長時間物で観終わるのに一苦労。
 
 そんな映画関係の出版物も増えて来たのか、[ ナン・ナ―ク ]や[ スリヨタイ ]なんてビッグ・ヒット作に関する気の利いた出版物も店頭に並ぶようになって、[ ナン・ナ―ク ]はモノクロだけど[ スリヨタイ ]は国策映画でもあるからかカラー写真口絵が豊富。でも、映画自体[ ナン・ナ―ク ]の方が気に入ってるのもあるが、作り的にも二百ページもある[ ナン・ナ―ク ]の方がやる気まんまん、映画全体の流れを項目立てて懇切丁寧に作ってて好感が持てる。両方とも定価は130バーツ前後。
 

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 1992年に三十才で亡くなったタイのルークトゥンの歌姫プンプアン・ドゥアンチャンに関する本。
 [ 去っていったドゥアンチャン ]185バーツ。B5版より一回り小さなサイズだけど三百ページ以上あって読み応えありそう。タイ語辞典片手じゃちょっとしんどそうなので未だ手付かず。
 ルークトゥンって余り聴かないけど、プンプアンは嫌いじゃない。


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 どこで買ったのか、「上海戸籍出版社」とあるので、恐らく上海の福州路のその店で買ったのだろう。
 この辺りは確か古書店が並んでいた記憶があるけど、現在はどうだろう。最初の頃は、地方から出稼ぎやって来た小姐たちが大して広くもない店の中に何人も居て、昼飯なんかそこら辺に座り込み、ホーロー製の丼や大コップに盛ったぶっかけ風を箸でかき込んでいたのが印象的だったけど、時代が経過するにつれて、小奇麗な店員然としてきてそんな"人民"風味的服務員なんかすっかり姿を消してしまった。
 昔の印刷物のままの写植印刷・・・まさか板版画で刷ったものじゃあるまい。組活字じゃ難し過ぎよう。
 [ 老子 ]上下巻が原文のまま(?)で、勿論解説文などなく、本文のみ。1.6元は安いのかむしろ高いのか。
 道可道非常道名可名非常名・・・


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 イランの首都テヘランの本屋で見つけた冊子型の書籍で、いかにも中国趣味的異国情緒感を醸し出した表紙が好い。

 老舎[ 茶館 ]1957年

 中華民国成立前後の長い時代的変遷を見続け又翻弄されてきた北京の老舗茶館の物語。
 戯曲として発表された時から文化大革命の終息するまで、中国国内ではさまざまな難題難儀をこうむってきた典型的作品。老舎自身も文革中に、紅衛兵たちに殺害されたとか、入水自殺したとか死因も定かならぬまま死亡。開高健の[ 玉、散る ]でも有名。
 イラン=ペルシャと中国とは、随分と古くから往来し因縁浅からぬ関係にあるのだろうから、互いにどんな意識と感情を持っているのか興味あるところだ。
 漢字茶館の下にペルシャ文字で「チャーイ・ハーネ」、つまりチャイ屋=茶館と認めてある。
 巻末には、中国の演劇舞台での[ 茶館 ]のモノクロ写真が八ページにも渡って掲示してある。ホメイニーのイスラム革命の初期においては社会主義的要素も強かったらしく、イスラム原理主義体制の中でも問題なく書店の棚に並べられていたのだろう。
 当方も、まさかイスラム原理主義の総本山イランのテヘランで老舎の作品が並べられているとは思いもしかったけど、他にフランスの小説家・思想家のカミュの作品もあった。大きなカミュの顔写真が表紙を飾っていた。
 その割には、音楽の方は中々厳しかったようだ。
 日本の喜太郎のカセット・テープは、器楽演奏だけだからかあっちこっちで見かけた。
 イラン映画が世界でそれなりにヒットし、インターネットで簡単に海外の音楽・ニュースが見られるようになった昨今、イラン国内音楽事情は少しは変わったのだろうか。


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2018年4月 8日 (日)

長崎パノラマ綺談 大泉黒石《 血と霊 》のカルマ的痕跡を巡って ( 2 )

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 昨年末以来二度目の長崎行、平日にもかかわらず路面電車も、《 長崎駅前 》の狭いホームこそ、そこそこ空いていたものの、乗車するとさっそく満員になってしまった。折からの観光的時節ってことだろう。アジア系の観光客も多い。
 帰りしななんか、ホームで待ち客の間にふと美形の娘が眼に留まって、つい視遣っていると、同じ数人のグループだろう三、四十代の女性が何か話しかけていた。典型的な、タイ人( あるいはラオス )だった。件の美形娘、何処かで覚えのある独特のひっつめ黒髪をポニーテールにした瓜実貌だと思ってたら、タイで頻く見かけた風貌だった。疲労の中の一陣の春の爽風ってところか。


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 早速、長崎電鉄路面電車《 正覚寺下 》行に乗り込む。
 満員だった電車内も、下車した《 思案橋 》頃にはそこそこ空いていて押し合いへし合いすることもなく降りれた。今回、四回ほど乗り降りしたけど、最後になって、別路線に乗り換える際は、下車時に運賃の120円を運転手に払って“乗り換え”を伝えると、小さな乗り換え用のチケットを無料で呉れるってことを知った。( JR長崎駅の観光案内所で一日券を売ってはいるけれど。)


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 宝石商・鳳雲泰殺しの嫌疑で逮捕された弟子・牛島秀夫が、万才町の石垣上にある裁判所の獄屋に面会に訪れた画家・杉貞子に、鳳雲泰の夜な夜なの殺人行と数奇な運命を訥々と語り始めるのだけど、銅座河に面した細工場から、「 銅座河に沿って寺町に向 」う経路に、この思案橋が位置している。
 嘗ては、銅座河が流れ、その上に架かった思案橋だったのが、被爆以降に暗渠化されて現在の姿になったらしい。銅座市場やハモニカ横丁なんかも銅座河の暗渠の上に建てられていて、比較的最近になって長崎の観光エリアの暗渠化された地域を再び元の河川に戻す政策が施行され、やがてその銅座市場やハモニカ横丁も無くなってしまう由。その思案橋から、こっち側と真逆の北側に進むと寺院の並んだ寺町に至る。


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 ( ハモニカ横丁。両サイドの商店街の裏側。裏口と営っているのかないのか定かでない構えの店もあって、狭いながらも雑然としている。終戦直後的どさくさ風味の残滓ってやつだろうが、平成末になってもまだしぶとく残っているのが一味。)

 《 思案橋 》から篭町に面した周辺一帯は、いわゆる“歓楽街”の様相を呈し、東側にちょっと足を延ばすともうそこは、嘗ての日本三大遊廓の一つとも謳われた丸山 ( 遊廓街 ) がひっそりと横たわっている。
 目的地のシーボルト邸跡に向かう前に、前回も訪れた電車から降りてすぐの本石灰 ( しっくい) 町から、カステラの《 福砂屋 》本店の横を通り、船大工町の細い通りの先の大徳寺下の小路、そしてくねった大楠が覆いかかった石段を登って、老舗焼餅屋《 菊水 》の佇む楠稲荷神社に至る。
 案の定、大楠の周りの桜が満開に咲きほころんでいた。
 それを確かめたかったのだ。
 若き黒石もその桜を眺めたろうか?
 その日は、《 菊水 》には客の姿はなく、仄暗い店先にも老婦一人。
 当然、買ってはみたが、何しろ、思案橋を出てすぐ脇にある思案橋横丁の有名らしい中華屋《 天天有 》でチャンポンを食べてしまっていたので、さすがに普通の饅頭より一回り大きな焼餅は食指が動かず帰路バスの中で食べることにした。


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 ( 二枚とも中川の支流・清滝川。上の写真の方が若干上流で、シーボルト通りの下に百メートルばかり暗渠化された出口辺り。 )


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 「 ・・・内々非常な注意を払ってゐ(=い)た私は、細工場の部屋を忍び出て主人の跡をつけました。ところが案の定です。鳳雲泰の足は、── 銅座河に沿ふて寺町に向ひました。寺町から水車場の並木 ── 聖堂から中川へ ── そこまで来ると、シイボルト博士の邸跡も間ぢかに見え、眼鏡橋を一つ隔てゝ、貴女のお住居 ── あのアトリエの窓から流れる黄色い電光に、ほかされている広い庭が見えます。」   (p 83)

 大正の頃の「 水車場の並木 」も「 聖堂 」も何処にあるのか、地図の何処さがしても杳として見当もつかない。また、「 ほかされている広い庭」ってのも、これがシーボルト邸跡を指しているのか、それとも杉貞子のアトリエの方なのかも些か曖昧。幅の狭い川であっても、道路もあって、それ越しにアトリエの窓光がシーボルト邸跡の草むらをぼんやりにでも照らし出せるほどの光量を持ち得るとは考えにくいとなると、やはり、杉貞子のアトリエの庭しかあるまい。


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 ( 上図は、幕末頃らしい本来のシーボルト邸=清滝塾の姿。下の写真は、明治初期頃のだろうか。明治後期の名所絵ハガキだと、既に草地となっていて、現在もある石碑が一本立っているだけ。)


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 シーボルト博士って幕末、長崎・鳴滝で《 鳴滝塾 》を作り、日本人相手に蘭学を教えたドイツ人医師・植物学者なのは教科書ものだけど、現在建物らしきものは何もない。隣接した場所に大きな煉瓦風の建物《 シーボルト記念館 》が木陰の向こうに佇むだけ。


「 ・・・この町で、隠れた古跡の一つになっているシイボルト博士の邸跡へ、ある家の娘さんが、女中をつれて花摘みに行きました。町の娘はよく其処に行くのです。邸の跡は、町を貫いて流れている中川の奥にありました。で、ちょっと見るとまるで薔薇油を振りまいた花絨毯の上に、ナラヤナの涅槃でも敷きのべたやうに美しいその邸・・・」   (p2)


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 シーボルト邸といっても、ここはあくまで《 鳴滝塾 》であって、幕末頃は本来は外人の居住は出島内に限られていたので、当時の絵や写真見ても、西洋風とは無縁の日本の普通の民家。それも明治七年頃に大風で破壊され、そのまま打ち捨てられていたのか明治二十七年に解体されて現在の植木と原っぱだけの状態になったようだ。それでも戦前は大きな碑の類が建っていたらしい。
 この物語の頃は、「 花絨毯 」とあって、花々が咲き乱れていたのだろう。
 只、「 美しいその邸 」から先が、この国会図書館蔵の《 血と霊 》の原本のこの頁が破り取られてでもいるのか“ 欠 ”頁になっていて定かじゃなく、「 ナラヤナの涅槃でも敷きのべたように美しい・・・ 」と意味ありげな修辞まで冠され興味のある個所なんだけど、如何ともし難く、ネット見ると昨今はアジサイの花壇が設えられているようでもあった。当方が訪れた三月末がたまたまガラーンとした植木と雑草(?)だけだったのかも知れない。


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 ( シーボルト邸跡。奥の銅像あたりらしい。下の写真は、そこから前に拡がる街並みの景観 。背後に低い山々が迫っている。)


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 「 彼の心にあるものは血腥い殺戮と強奪の微笑 ── 血だらけの笑ひです ── 鳳雲泰は、磧( かわら )の露出した細い河の流れをへだてゝ、まつ暗いところから、アトリエの窓を凝視してゐました。窓硝子には、貴女が耳環をいぢくりながら何か獨り言を云ふてゐる横顔や姿が、ぼんやり映つてゐました。
 ・・・橋を跳び渡るや否や庭へ駈け込んで行かうと身がまへました。そのとき、少し離れた川茨の蔭に蹲ってゐる私の目に映ったものは、アトリエの横丁から一人の酔っ払ひが、鼻唄を唱ひながら橋の袂へやって来る影でした。」


 画家・杉貞子のアトリエが、シーボルト邸跡のすぐ前を流れる中川( 実際には、支流の鳴滝川 )を挟んだ向かいという設定なのは分かる。
 尤も、あくまで、この作品はフィクションなので、逐一正確に地理的対応してるのかどうかは判然としない。そもそも、中川に注ぎ込む支流の鳴滝川って川幅が狭いので、アーチ二つの“ 眼鏡橋 ”なんて架かりようがなく、せいぜいが普通の単アーチ型の石橋ってとこだろう。それに、長崎市内でも眼鏡橋って何本もある訳じゃないので黒石が記憶違いをやらかしようもなく、意図的な長崎的異国情緒的変容ってところだろう。
 だから、あまり詳細に拘ってみてもそれこそ木乃伊盗がミイラになってしまう愚を犯しかねない。けど、黒石がどんな風に現実の長崎の風物を基に自分の作品世界を紡ぎあげたのか、百年の時空的変容の向こうに当時の消息を識る縁(よすが)にはなってくれるだろうという試行に他ならない。


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 肝心のシーボルト邸跡って、建物のない低い石垣の上のせいぜいが垣根ぐらいの平地にシーボルトの像が一つだけ立っているだけで、「 間ぢかに見え 」る条件の場所っておのずから限定されてくる。それでも、結構幅があって、実際には対岸の何処が対応しているのか、現在マンションも何軒も立ち当時と様子も変わってしまってるようで容易に推定もし難いけれど、シーボルト記念館の斜め前にあるマンションに架かっている橋から、少し下った二本の橋が架かっている間って設定じゃないかと思える。当時の古地図でもあればともかく、基本は、橋の背後が杉貞子のアトリエの脇か近傍の横丁の路地に連なっているってことだろう。それ以上に下るとちょっと無理があるかも。


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 ( 奥に赤レンガ風のシーボルト記念館が覗ける一角。この周辺ぐらいしか対応した場所は考えられないけど、果たして実際は・・・? )


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 「 窓硝子には、貴女が耳環をいぢくりながら何か獨り言を云ふてゐる横顔や姿が、ぼんやり映つて」いたなら、川の対岸間際に庭のある屋敷ということになる。老いた乳母と二人きりのお嬢様画家って趣きだけど、その貞子をシーボルト邸跡前の川縁の、当時は大々的な観光地でもなかったようで、薄暗い街燈が、思い出したようにポツン、ポツンと散在しているぐらいだったのか、真っ暗闇の中で、じっと黒豹が獲物を見定めるように睨めつける鳳雲泰、そして同じ側の茨の陰に隠れて彼の動向を監視しつづける愛弟子の牛島。
 貞子の手中にある紅ダイヤ《 楊妃の瞳 》を嵌め込んだ耳環を取り戻そうと、名状し難い欲動と意識の坩堝と化し、鋭い刃先の骨刀をしっかり握りしめた鳳雲泰が、正にそれを実行せんと眼鏡橋に向かって血塗られた一歩を踏み出した。敢然、最悪の悲劇を阻止するため牛島は茨陰から飛び出そうと身構えた。
 と、その眼鏡橋の向こう、杉貞子のアトリエのある路地奥から、大きな人影が現れた。そしてフラフラとその酔漢らしき人物が眼鏡橋を渡り始めた。
 牛島はじっと茨陰に身を隠したまま、固唾を飲んだ。
 鳳雲泰は出鼻をくじかれたのか、橋の袂に留まり酔漢をやり過ごそうとした次の瞬間、その巨漢の酔漢が彼の宝石店の客で、買っていった鳳雲泰のお気に入りの黄金の宝飾時計が、その酔漢の手に輝いているのを彼は見逃さなかった。
 一閃、手にした骨刀が、酔漢に襲い掛かった。
 が、酔漢は予想に反し、素早く骨刀を取り上げ、逆に鳳雲泰の胸を一突き。巨漢は酔いも醒めたのか、そそくさとその場から逃げ去った。
 その場に崩れ落ちた鳳雲泰は殆ど即死に近かった。
 正に、その場、鳳雲泰の悪運が尽いた、否、因縁の場所というべきか、それがその眼鏡橋の袂だった。つまり、ニュースにこそならなかったものの、実際は、杉貞子のアトリエの眼と鼻の先で、カルマの赤い糸で雁字搦めになった鳳雲泰が業の紅蓮の炎に焼き尽くされていたのだった。

 


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2018年3月31日 (土)

排外主義的残穢

Harumafuji
 

 昨年末から驚くほどに、散々マスコミ総動員して、戦前もかくの如くだったかと瞠目させた排外主義的キャンペーンたる所謂[ 日馬富士暴行事件 ]、最近になって些か風向きが変わって来たかのような様相を呈しているけど、この手の挙国一致的キャンペーンって、国民の脳裏に刷り込みをし、感性化させれば、目的は十分に果たせたいう代物。
 

 そもそもが貴乃花部屋自体が“札付き”「暴力部屋」でしかなかったようで、それが埒が明かないと原告の元・貴乃花部屋力士に見切られたのか相撲協会への訴訟問題にまで発展し、且つ貴乃花とつるんでいたといういかがわしい顧問までもが協会に訴えられ、窮鼠猫を噛む的な、元横綱の品位もプライドも糞喰らえとばかりのさもしい手段、否むしろ手口というべきか、に走ったに過ぎない。それが、貴乃花の背後にいる黒幕と時の権力サイドの都合と一致したのだろう。相撲バカの貴乃花が一人で、あれだけの用意周到な計画的組織的な一連の行動なんてやれようもないし、思い至りようもなかったろう。

 実際のところ、八角理事長=相撲協会が、貴乃花部屋内部での貴ノ岩の常習的暴力(他部屋のモンゴル力士に対する暴力行為も含まれる)事件とでさっさと貴乃花と貴ノ岩に処分を下していれば、白鵬も日馬富士も貴ノ岩に忠告や叱咤なんてする理由もなくなっていたのだろうから、そもそもが、[ 日馬富士暴行事件 ]なんて起きなかった事件というのが本当のところだろう。
 つまり、本当の被害者は、誰でもない、貴ノ岩の将来をおもんばかった日馬富士だったという訳だ。
 現役の、それも事件の直前場所で、身体の負傷を押して一人横綱として頑張り優勝し相撲人気を保ってくれた横綱を、愚弄し罵り追放までしたのだから、貴乃花・貴ノ岩は、さっさと相撲界から、自ら去るのが筋だろう。
 日馬富士に対して一体いかなる謝罪を、協会と、この国はするつもりなんだろう。

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2018年3月21日 (水)

春三月、木陰にひっそり佇む権藤成卿墓

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 先だって、ハリマオ=谷豊の墓ならぬ、彼の名もその一部として刻まれた戦没者の碑が彼の博多・南区の生家近くにあるってことで、南区に向かう西鉄・天神大牟田線に乗ろうと始発駅たる天神駅に赴いた際、天神大牟田線の行先駅の名がづらり連なって明記されたボードを、皆目見当もつかないエリアであることもあってしげしげと眺めていると、意外と近い位置に「久留米」の名があり、思わず目を疑ってしまった。
 てっきりかなりな遠方と決めつけていたからだけど、駅数から、その上、急行・特急まであるので、結構すんなりいけそうで、うまくいけば三十分ぐらいで行けるかも知れないと胸算用。
 何よりも、久留米といえば、かの岩佐作太郎に[ 国家論大綱 ]執筆の論理的根拠を与えた農本主義思想家・権藤成卿の生地。
 全く未踏のエリアだったのもあって、一度足を延ばしてみようと思い立っての今回の久留米行。


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 ( 左側の肌色の建物がバスターミナル )


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 ( 奥の駅と連結したバス・ターミナル )


 天神駅から久留米まで運賃は520円。
 ところが、驚いたことに、この西鉄・天神大牟田線って、各駅以外の急行・特急とも各駅と同じ料金なのだ。つまり、同一料金で各駅・急行・特急に乗れるってことで、つまり客の用途に応じて選べるのだ。勿論、特急の電車両もいかにも特急って仕様。
 当然、最近博多のベッド・タウン化しつつあるらしい人口30万の久留米には、特急で直行。
 平日だったにもかかわらず、行きも帰りも、乗客が多い。
 30分以上かけ着いた西鉄・久留米駅は、駅ビルにつながっていて、一階西側にはバスターミナルがある。見ると、普通の路線バスに「佐賀」の文字があって、佐賀にも近接した町なのが分かった。長崎に行く折、外縁を通過したことがあるだけで、佐賀も未知のエリア。
 駅の表側には岩田屋という本拠が博多にあるデパートなんかが立ち並んでいて、それなりに都市的景観を呈しているものの、バスターミナルのある側に、時代に取り残されたような旧い褪せた建物が佇んでいたのが印象的。


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 ( 筑後街道沿いの旧民家。同じ左側沿に旧い建物が点々と佇んでいた。時間の関係で傍で観察はできなかったのが残念。)


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 ( 右奥に[ JR久留米大学前 ]の駅舎が覗けている。大学町らしい看板のかかったこの民家も旧い。)
 
 
 [ 信愛女学院 ]行のバスに乗り、メインストリートらしい文化センター通り( 筑後街道 )を走って、[ 千本杉 ]で降りる。
 筑後街道から右側に伸びた県道(800号線)に入ってすぐの踏切を渡って最初の路地を右折し、真っすぐ行くと、民家の奥の突き当りに石垣の上に佇むコンクリートりの御堂らしきものが望めた。
 果たして、そこが目的地、権藤成卿が眠る上隈山墓地だった。
 実際は、ネットを捜しても曖昧模糊としてはっきり明示されてなくて、最初は[ 千本杉 ]で降りてからそのまま筑後街道をまっすぐ進行方向にしばらく歩いて行って、右側に如何にもそれらしく、隠れるように薄暗く佇んだ[ 味水(うまみず)御井神社 ]の境内に紛れ込んでしまった。奥に急で細い階段を上ってゆくとそのままJ久大線の線路に跨った陸橋になっていて、[ 久留米大学前 ]駅の脇に出れる。
 
 
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 ( 色とりどりの梅花咲きほころぶ季節、この民家、写ってない部分にも庭いっぱいに同じくらい梅花が咲き乱れていた。細路の右向うに件の墓地が見える。)


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 ( 空家然とした民家の珍しいベンガラ色の褪せたトタンと白塗り土塀が時代を感じさせる。以前は板塀だったのを上にトタンを張ったのだろう。よく旧い農家で茅葺き屋根をトタンで覆ったりするのと同じ。)


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 ( 周辺には新旧の民家が混在していて、この屋は旧農家のスタイル。)


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 新・旧の民家が立ち並ぶ狭い一角の向こうに、石垣の上にコンクリ造りの納骨堂らしき堂宇と墓標が薄曇りの空の下静かに端座していた。かつてこの辺り一帯、隈( くま )山と呼ばれる丘陵は、墓石立ち並ぶ広大な墓地だったという。地元でも代々続いたそれも独特に異彩を放つ旧家だったらしい権藤成卿一族の墓地も、久留米大学の学部移転建設のため、当時50基ぐらいあったのを15基位いに整理して移し現在の姿に至ったとのこと。
 実際来てみると、権藤家の墓って、この墓地の後側の狭い一角だけで、他は別家の墓のようだった。
 整然と並べられた墓石群は、それでも、他に人影もない静寂に包まれ、長年の暑熱と雨風に晒され苔むしてびっしり刻まれた文字も判別し辛いのが一層情緒を醸し出し、ふっと時間からすべり落ちた消息的異界って趣きだろうか。
 一族の墓所といえば、以前小倉の、巌流島の決戦の場が望める宮本武蔵と佐々木小次郎の碑がある手向山の麓の薄暗い一角に、ひっそりと佇んだ武蔵の養子・宮本伊織の一族の墓所を思い出す。伊織は、剣術指南というより、名家老として高名だったらしいのもあってか、藩主にそれなりの配慮を払われていたのだろう。


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 ( おそらくこのコンクリ納骨堂に、以前あった墓石の遺骨等が収められているのだろう。)


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 ( 丘陵ゆえの傾斜地に建てられているのが分かる。錆びた鉄柵の背後に久留米大学の敷地が広がり、細路の奥には、静かに権藤家の墓所が佇んでいる。)


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 ( 奥の植え込みの陰に覗ける権藤成卿の墓標。)


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 ( 権藤家墓所の入口。門柱には、「 宕陽之郷学 」「 志在明漸化 」とある。成卿の祖先・栄政(江戸時代後期)が近辺にある愛宕山に因んで宕山(とうざん)と号した由。)


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 ( 奥の三基の真ん中が、戦国時代後、この地に移り住んできた(府中)権藤氏の初代・権藤種茂の墓。
 手前右の墓は、天明二年(一七八二)生まれの権藤直( 延陵 )。花岡青洲の春林軒で麻酔術を、長崎でオランダ医学を学んだりして当時名医として誉れ高かったようだ。平戸藩主から藩医に請われたのを辞退し、地元府中にもどっても藩医に請われたのも辞退し、府中の地で開業し、地元民で盛況をきたしたという。また、地元青年を相手に、学問や医術の塾も開いたりし、『救飢論』、『防疫論』なんて著書もあるという。)


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 ( 木陰にひっそりと佇む権藤成卿の墓。)

 
 門から入ってすぐ正面奥の植込みの陰に、隠れるようにひっそりと権藤成卿の墓石が覗けていた。
 木影でうっかりすると見逃してしまいかねない。
 「 成卿先生墓 」と記されている。
 家族というより、弟子や後援者が立てた趣き。
 代々医術・医学あるいは学問の師匠・教授を生業としてきた家系だからか、他のもっと旧い先祖の墓石にも同様の「先生墓」が見られる。

 権藤氏は鎌倉・室町からの豪族・武将の家柄だったのが、関ヶ原の戦で豊臣側についてしまい、父・種盛と兄たちを黒田官兵衛(如水)に殺害され若干18歳だった権藤伊右衛門種茂が、久留米・府中の地に逃げ延び、武士を捨て、医術の途に進んでから代々の医家として名声を馳せてきたようだ。
 明治初年生まれの権藤成卿は、しかし、名医だったらしい父親の士強(松門)が、明治になって漢方が廃され西洋医術が基準となって、代々守って来た医家の看板を放棄し、阿志岐(現・山川村本村)の松門寺跡に起居し、農園をつくり農学的探求にいそしむ様になっていて、もう一方の国学的方途へ進み、宕山秘蔵の南淵請安が記したといわれる[ 南淵書 ]を典拠に、農本主義的世界の構築に邁進したということらしい。 
 成卿の著作は未読で詳らかにしないけど、岩佐が援用した「自然而治」なんか、老子にも通じるものがあって、その東洋的理想社会思想は、戦前、農本主義的な志向をもった人々に、左右を問わず影響を与えたという。
 
 
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 ( 栄政(宕山)の長子、権藤種栄の墓。 )


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2018年3月10日 (土)

眼下の海峡的騒擾を見続けてきた 厳島神社(伊崎) [ 下 ]

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 ここの厳島、鈴ヶ森稲荷の両神社、一通り見て廻って気づいたのは、荒廃とまではいかないものの、些か朽ちた観は否めない。もう一つの新地の長門國厳島神社の方は数百の騎兵隊員の墓標が整列し祀られているのからして如何にもオフィシャル的格式って趣きなのに較べて、この伊崎厳島神社の方はこじんまりとしている。そもそもが、地元漁師町・伊崎の人々の、機縁は源平合戦の時の平家船からの遺物ってこらしいけど、「航海安全」祈願などが主眼なのだろうから、村の鎮守的存在ってところだろうか。
 神社の拝殿の屋根瓦こそまだ葺き替えて間がないのか黒々として艶やかだけど、朱塗装の剥落は昨今のトロピカル的焦熱故ってこともあろうが蔽うべくもなく、境内のあっちこっちに破損・倒壊したまま放置された石柱や石灯篭が転がっていて、中には相当年月も過っているのか土を被って久しいものもある。
 アベノミクス的凋落と言ってしまえば簡単だけど、列島中年々の漁獲量の減少と高齢化で、地元の氏子たちのそれを支える財政的物理的力量も減衰してゆくばかり。かつかつの維持が精いっぱいってとろなんだろう。
 ふと、以前直接眼にして驚いた瓦解と遺棄の完膚なきまでの廃墟と化してしまっていた小倉・頂吉の高倉神社や門司・田野浦の春日神社の惨状を思い出した。ここの神社も、いづれ下界の伊崎の漁師町の活性的崩落によって同じ運命を辿らないとも限らないという一抹の危惧を覚えてしまった。 

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 ( 腐食して倒壊した鳥居もそのままの、人一人がやっと通れる幅の恐らく旧い祠堂。ブログの写真見ると、この鳥居まだ立っていたので、倒壊したのは比較的最近のことのようだ・・・)


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 昼尚仄暗いを絵にかいたような鈴ヶ森稲荷神社の奥。
 如何にも的な怪しげな雰囲気に満ちていて気に入ってしまった。
 尤も、逢魔ヶ時以降は一人居座ろうなんて気は毛頭なく、さっさと退散するに限る。
 いくら本拠地=阿弥陀寺から離れているとはいえ、何しろ[ 耳なし芳一 ]はじめ、平家怨霊の跋扈するエリアでもあるのだから。

 右の小さな祠堂は、[ 稲荷大明神 ]とある。
 その奥の神社の裏口とおぼしき境界に佇む緑蔦繁茂した廃屋と仏像三体。
 戦前昭和の年号が刻印されていた。
 右端の火焔の燃え立っているのが航海安全の[ 波切不動明王 ]。

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 廃屋の横を通る鎮守の森ならぬ裏山に続く裏参道。
 裏山といっても神社自体がその丘の頂上近くに位置しているので、すぐ枯れた草原と雑木林に竹藪の意外と開けた頂きに至る。何か独特の雰囲気の場所で、そこを越え、反対側に行くと、今度は関門海峡から響灘につづく小瀬戸の海に面した伊崎の海岸奥に下る道になる。右手向うに、彦島に向かう高架の彦島大橋が覗けている。
 この神社の一角は廃墟や空家と覚しき旧い建物が多く、全体沈んだ佇まい。
 それだけに、そんなうらぶれたというより、静かな境界世界めいたのが好きな御人には興味深いスポットかも知れない。

 そこで興味深い因縁を紹介すると、この伊崎厳島神社って、戦後間もない1950年に火災に遭って延焼したらしいのだけど、それから42年後、1992年に今度はもう一つの長門國厳島神社の方が、浮浪者の放火によって燃え落ちていたという。
 つけ火といえば、すぐにJR下関駅の放火炎上が思い浮かぶ。
 それが、ちょうど、その長門國厳島神社の燃えた年から14年後の2006年。
 つまり、皆「7」年の倍数(間隔)。
 そして、その「7」年にこじつければ、これは火災とは少し離れてしまうけど、下関の事件として一番有名になったのが、1999年の下関駅無差別殺人事件。
 正に世紀末ミレニアム的因縁の年。
 そして、もう少しこじつければ、2013年周南市金峰で起きた所謂「山口連続殺人放火事件」もあった。
 ラッキーナンバーのはずが、アベノミクス本拠地じゃ、凶数となってしまったって訳だけど、高杉晋作たちが命をかけた維新革命も、戦後半世紀自民党支配およびアベノミクスですっかり息の根を止められてしまって、新地の地下で眠る晋作も浮かばれず、あるいは悲惨な末路を辿ることとなった奇兵隊員たちが怨霊となって警鐘を鳴らしてでもいるのだろうか。
 ついそんな仄暗い想念に捉われてしまう2018年の伊崎・厳島神社の初春であった。  
 


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