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2019年9月21日 (土)

 軍服をまとったモダン・ガールたち 『 一剪梅 』(1931年)

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 戦前の中国女優・阮玲玉(ルアン・リンユイ)の絡みで、時々DVDやポートレイトの画像を瞥見していた《一剪梅 》( 邦題・一枝の梅 )、岩陰に並んだ金焔と林楚楚や登場人物の軍服姿等に、そもそも映画の内容も知らない故もあって、何か彼女にそぐわない妙な違和感を覚えていた。尤も、江青も《 自由神 》で王瑩等と共に軍服姿で登場してはいたが。
 今回その《一剪梅 》、ようやく中国映画ネットで“中国語字幕版”を見ることができた。
 如何にも中国風のタイトルで旧き良き時代の鴛鴦(えんおう)胡蝶派的な恋愛物と思ってたら、シェークスピアの初期の作品《 ヴェローナの二紳士 》の翻案物という。
 何しろ登場人物の名が胡倫廷=バレンタイン、白楽德=プローテュース、施洛華=シルヴィア、胡珠麗(胡倫廷の妹)=ジュリア等そのまま。

 

 

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 ( 左から白楽徳=プローテュース、胡倫廷=バレンタイン、胡の妹・珠麗=ジュリア)

 

 そもそも監督の卜萬蒼(ブ・ワンツァン)、アメリカ人撮影技師に技術を学び、ハリウッド志向が強かったようだけど、1920年代はまだまだ鴛鴦胡蝶派的な作品が全盛の時代で、《人心》(1924年)、《戦功》(1925年)等で、何年か後には中国“中國第一位電影皇后”や“悲劇聖手”(悲劇の匠)とまで賞賛される大女優にまでなった新人女優・張織雲を見出し育て上げた。殊に美人じゃないけれどおっとりとして優雅な雰囲気が人気を博したらしい。で、御多分に漏れず、監督・女優の関係がいつの間にか恋人同士になり、同居するまでなった。
 ところが、ここで思いもしない人物が登場することになる。
 後年、かの若くして自ら生命を絶った一大女優・阮玲玉の事実上の夫となった“茶葉大王”の異名を持つ資産家・唐季珊その人。
 何と絶頂の張織雲を手に入れようと華やかな社交界を利用し、所詮一監督に過ぎない卜萬蒼より大富豪の方を選ぶべくあれこれ画策し、とりわけ彼女を育てた養母にも取り入って、ものの見事に成就。豪奢な邸で共に生活することになる。
 ところが唐季珊、有名女優との浮名で十分に自身の企業価値が高まったと踏んだのか、さっさと彼女を捨ててしまった。捨てられた張織雲、その後、野放図な散財に身をやつしたりでどんどん零落していって娼婦的世過ぎまで至ったとか噂され、戦後香港の路上で野垂れ死んだとか病死したとか悲惨な末路を辿ったようだ。

 

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 その張織雲と別れた頃、入れ替わるように監督の卜萬蒼の前に、後に戦前中国の一大明星・影后とまで呼ばれるようになる新人女優・阮玲玉が現れる。
 当時、稀代の京劇役者・梅蘭芳は、阮玲玉を、1920~30年代の米国サイレント映画の最高女優といわれたメアリー・ピックフォード( サイレント映画時代の代表的女優であり、プロデューサーでもある。チャップリン、D.W.グリフィス、D.フェアバンクスと共に映画会社《 ユナイテッド・アーティスト》社を設立。)になぞらえて、中国サイレント映画の誇りとまで賞賛したという。
 卜萬蒼、“ またと得難い悲劇女優 ”とまで直感して、張織雲以上の魅力と才能を彼女に見出し、一流の女優に育ててゆくのだけど、あろうことか再び資産家・唐季珊がその手練手管の魔手を伸ばしてきた。金と名声と奸智にものをいわせ、せっかく育て上げた阮玲玉をも掻っ攫っていった。尤も、阮玲玉の場合は、監督・女優としての関係に変化はなく、デビュー作《 掛名的夫妻 》以降も、この《一剪梅 》や《 三個摩登女性 》( 「三人のモダン・ガール」)等共に映画作りを持続していった。

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 ( 一枝の梅の前でほほ笑む胡珠麗=阮玲玉 )

 

 1930年代初頭、上海映画界を席巻したのが、《 聯華影業公司 》の、それまでの旧態依然とした鴛鴦胡蝶派的な映画とは一線を画したハリウッド・ライクなニュー・ウェーブ派の、卜萬蒼,孫瑜(スン・ユィ)、費穆(フェイ・ムー)たちであった。
 そんな時代の寵児でもあった監督・卜萬蒼、当時まだ孫文=国民党の本拠地的残影濃い広州の軍警本部を舞台に、シェークスピアの《 ヴェローナの二紳士 》を基に、胡倫廷・珠麗の兄妹と、倫廷と同じ陸軍学校卒業生の親友・白楽德、赴任先の広州督辨署署長の娘・施洛華等のすったもんだの友情・愛情娯楽片。 
 《 聯華影業公司 》、広州・香港のロケまで敢行し、大勢の兵士( エキストラ ? )を駆使したりしてて、この映画に大部予算を注ぎ込んだらしい。

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( 脂粉将軍・白楽徳の鞄の底。化粧品と女達の写真がどっさり。)

 

中国ブログじや定番のように“ 情侶曲折的愛情故事 ”( 恋人同士の山あり谷ありのラブ・ストーリー)ってキャッチ・コピーがついてるけど、確かに、広州の督弁署( 督辨署 : 日本の行政システムにはない中国独特の政治単位で詳細は不明 )を舞台にした軍服姿の恋人たちの、それこそ昨今のトレンディー・ドラマと寸分も変わらずのモダーン・ラブ・ストーリー。テンポも良い。
 陸軍学校の卒業日の寮内のシーンから始まる。
 皆、将来の夢に胸を膨らませてるなか、我らが“脂粉将軍”白楽德、大きな鞄の底に隠してあった化粧品の脇の大量の女達の写真を取り出し、ためつがめつ見入っては悦に入っていた。早速、同僚たちが笑っているのを聞きつけ、彼の親友・胡倫廷がたしなめる。
 と、シーンはその胡倫廷の邸に変わり、妹の珠麗が楽曲“ 我願意 I am Willing ”を友人のピアノ伴奏で稽古。その友人が一瞬振りかえる・・・何処かで見た記憶のある特徴的な顔立ち・・・阮玲玉と幾度も共演してた黎莉莉だった。クレジットにもない、この場面だけの出演。
 サイレント映画の定番の中間字幕(面)で、その二人のところを“ 一位超越時代的摩登女性”( 時代の先端をゆくモダン・ガールたち )と記している。

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( すっかり仲の良くなった白楽徳と胡珠麗。)

 

 その珠麗を、たまたまやって来た白楽德が見染め、やがて珠麗も美男子でもない彼に行為を持つようになって許嫁の関係になる。
 胡倫廷に広東督弁署衛隊長の任務につくべく辞令が出て、広州の督弁署に単身赴く。この督弁署、軍隊が練兵しているかなり広い敷地を有した官庁で、日本の行政システムにはない政治単位のようで、適合する名称が杳として見当たらない。
 そこのトップ・施督弁が白楽德の親戚らしく紹介状を彼が紹介状を書いてくれたのだけど、忽ち施督弁の娘、凛々しく軍服を纏った洛華と相思相愛の関係に陥ってしまう。
 その内、白楽德も辞令が出て、赴任してくる。
 白楽德、子供の頃親戚同士だったので一緒に遊んだこともあったものの、すっかり成長して魅力的な女性になっていた洛華に一目惚れし、上海で待っている珠麗のことなんてもはや眼中になかった。どころか、悪心を起こし、洛華と親密な胡倫廷を疎ましく思うようになって、あろうことか冤罪的奸策を施督弁に吹聴し、追放してしまう。
 新聞に載った兄・倫廷の罷免を見て驚いた珠麗、単身で広州へ。
 洛華、珠麗に事情を聞いて、とりあえず彼女の副官として珠麗にも軍服を着させ匿う。

 

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 ( 白楽徳に陥れられ罷免・追放になった胡倫廷の新聞記事。上司であるトップの施督弁もカンカンとある。 )

 

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( 上海からわざわざ広州まで安否を確かめようとやって来た珠麗を慰める施洛華。)

 

 
 白楽德の心変わりの真偽を確かめるために、洛華は一計を案じ、白楽德と一緒に馬で遠出をする。白楽德、早速正体を現し、暴力的に彼女をものにしようとする。怪しんで跡をつけてきた同様に洛華を一方的に熱愛していた軍警督察署・署長に格闘の末阻止され逃げ出す。ところが所詮庶民に横暴な軍警のトップらしい署長、白楽德のおかぶを奪うように洛華に暴力的にアプローチ。馬で逃げ出した洛華を凄い形相で追いかける署長。あわや、と思われた次の刹那、何処から一本の投矢がうなりをあげて飛んできて署長の馬に突き刺さり馬は転倒。
 その投矢を放った人物こそ、誰あろう冤罪で追放された胡倫廷であった。
 ロビン・フッドを彷彿とさせる恐らくカラーだったら派手ないでたちであったろうモノクロだとかなりしょぼくれ感が強いのだけど、当時はハリウッドライクなロビン・フッド風ってところでむしろ颯爽としたものに観えたのだろう。

 

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( 洛華の一計にまんまと乗せられ本性を露わにした白楽徳と同様に洛華に惚れた軍警督弁の諍い。 )

 

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( 横暴な広州軍警の巡回。道路交通法違反って訳か、露天商を蹴散らしてゆく。この光景って、昆明やペシャワールでも見たことがある。)

 

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( 貧民を虐める軍警の背に突き刺さった投矢。強きを挫き弱きを助ける、御存じ一剪梅。)

 

 

 実は胡倫廷、追放されてあっちこっちと彷徨っている内、強盗団の老首領に気に入られ、どんどん頭角を現して組織を仕切るようになっていた。
 そこは生真面目な胡倫廷、皆に諮(はか)って組織の変革を図る。

 

 “ 救苦済貧 鋤強扶弱 不許調戯婦女 ”
                   ( 調戯=嘲り弄ること。)

 

 要は「強きをくじき弱きを助ける」という如何にもロビン・フッド的なモットー=綱領を掲げた義賊、その名も《 一剪梅 》。翻った旗にも梅花の紋章が刻印されていた。この作品、いたるところに梅花の紋があしらってあって、そのキィッチュなまでの拘りは面白い。
 横暴な軍警に対して匪賊( =義賊 )《 一剪梅 》が現れ、虐げられる庶民を助けつづけ、ついには関東全省軍警督察署・署長の名において、「 その生死を問わず 捕らえた者に金一千元を与える 」という触書を配布するという事態にまで発展していた。
最後は、ロビン・フッド的な勧善懲悪ものと曲折的恋愛的相関物語を結合させた娯楽片の極みで、窮地に立たされた白楽德が自らの冤罪工作を施督弁に告白し、胡倫廷も珠麗も洛華も彼を赦し、胡倫廷も元の役職も戻れ、白楽德と珠麗も元の鞘に収まり予定調和的大団円。

 

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( 梅花咲き誇る公園の岸壁に互いの想いを筆でしたため合う胡倫廷と施洛華。 )

 

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( 匪賊の老首領と並んだ匪賊から義賊へと組織を変革していった胡倫廷。背後に掲げられた大きな旗にも梅花の紋様が。)

 


 軽快なテンポで展開されるハリウッドライクな作りは余り旧さを感じさせない。
 そもそも《 一剪梅 》って胡倫廷と洛華二人が、広州の何処かの公園の咲き誇る梅花の下で岩壁に毛筆でしたためた互いの連句に因んだ二人だけが知る命名だった。
 ハリウッドライクなモダンガールの所作としては些か古風だけど、これもハリウッド映画に席巻され過ぎて危機感を共有した在来の映画会社が合同して作られた《 聯華影業公司 》ならば、“中国”風味を前面に押し出した(「復興國片」)ものってところで違和感ないのだろう。当時の邦画で、モガが茶の湯をたてるようなものに違いない。

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( 一剪梅のアジトに拉致された格好の珠麗と洛華 )

 

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( 予定調和的大団円に目出度く終わって、広州督弁署の広い敷地の中をパレードしてゆく二つのカップル。)

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2019年9月 7日 (土)

幻の楼蘭王国の秘宝 『 沙漠の古都 』国枝史郎

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 かつてバック・パッカーの間での定番だった中里介山の一大長編時代小説《 大菩薩峠 》、パキスタン・ペシャワールの《 カイバル・ホテル 》のリビング・ルームのテーブルに積んであった泊客たちが置いていった本の中にも何冊かあったのか、一冊試しに読んでみたことがあったけど、陰々鬱々なイメージとは裏腹な、何とも喋々しい登場人物たちの饒舌さかげんに閉口したことがあった。
 大正2年から《 都新聞 》( 東京新聞の前身らしい )に連載を始め、その後さまざまな新聞を経て昭和16年までの30年近く連載し続けた文字通りの長編時代小説だ。
 その大正末にいわゆる大衆小説の決定版ともいえる吉川英治の少年向け長編時代小説《 神州天馬侠 》が《 少年倶楽部 》で連載開始し、その前年にも国枝史郎の《 神州纐纈城 》( しんしゅうこうけちじょう )が《 苦楽 》( 直木三十五が発行 )に連載されたりで、長編時代小説はなやかし時節の観がある。とりわけ《 神州天馬侠 》、《 神州纐纈城 》は伝奇時代小説の精華ってとこだろうか。

 

 

 で、国枝史郎だが、大正11年に『蔦葛木曽桟』( つたかずらきそのかけはし )で一躍有名作家の仲間入りし、伝奇時代小説を中心に活躍したらしい。時代が下るにつれて、時代の鬱屈がエログロ・ナンセンスを跋扈させるようになってからは次第に下降していったのか、昭和7年に《 ダンサー 》を《 婦人公論 》に連載し、翌年春陽堂から単行本として出版すると忽ち発禁処分にふされる。“風俗壊乱”の廉ってことなのだが、愛国・国防婦人会などが台頭してきた時節に、それも婦人雑誌上で、当時の踊子=ダンサーの奔放な世界を描こうとして、例えば、ダンサーのファン(ここでは、ダンス・ゴロと呼ばれていて、昨今のアイドルたちのオタってところ)たちが彼女たちの楽屋裏にでも赴いてのアプローチを、

 

 「 誘惑? 耳たぶを唇で食える奴、腹を無闇におっつける奴・・・・・・左のズボンのポケットの中へゴム毬を入れて来て刺激するような迚(とて)もあくどい奴もあった。」

 

 なんて戦後なら何と言うこともない描写であっても、その露骨さは官憲どころか、愛国・国防婦人会の連中の神経を逆なでするに十分であったろう。
 総じて国枝は現代物は苦手なように評されているようだけど、初期の頃、つまり人気絶頂の頃、現代を舞台にした伝奇冒険小説としてこの《 沙漠の古都 》は好評を博したという。( 但し、本名じゃなく、イー・ドニ・ムニエというペン・ネームを使って )

 

 

  1922年(大正11年)に博文館が発行した大衆向け探偵小説専門誌《 新趣味 》、翌年の関東大震災後に廃刊となり、同じ探偵小説専門誌として新たに《 新青年 》を発刊し継続したという。その《 新趣味 》で大正12年3月から10月まで《 沙漠の古都 》を連載。ポーやルブラン、デュマ、O・ヘンリー等の海外の作品の翻訳が多く紹介されていた中に紛れるように、“イー・ドニ・ムニエ・著、国枝史郎・訳 ”として。彼もあれこれのペンネームを使い分けていたようで、当初はまさか国枝自身の創作だとは誰も気づかなかったらしい。

 

伝奇冒険小説の範疇に入るのだろうが、この雑誌《 新趣味 》は、探偵小説専門と銘うっていて、確かにそんな探偵物的ミステリーのプロローグではあった。
 そもそも最初の主人公らしき人物たちは欧州の探偵。
 つまり、イー・ドニ・ムニエ著とは、正にそんな前提を逆手に取った、あるいは韜晦趣味的演出ってことなのだろう。

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 最初の舞台は、スペイン・マドリード。
 ホームズばりの神出鬼没な慧眼の探偵・レザール、相棒(ワトソン的存在というのか)の“描かざる画家”ダンチョン、そしてラシーヌ探偵の三人組が、遙か東方・幻の湖と呼ばれた羅布湖(ロプノール)の汀に栄えた回鶻( ウイグル )人の都・楼蘭(ろうらん)王国の隠された財宝を求めて、延々とロシア、楼蘭、北京、上海そしてボルネオ・サンダカンまで追跡してゆくのだけど、それに美貌のトルコ娘・紅玉(エルビー)、第二章から出てくる張教仁、そして袁世凱の後身たる悪役=世界征服を企む秘密結社の首領・袁更生までが絡んでくる次第。
 【 支那青年の忘備録の抜粋 】という形で登場する、袁世凱の生命をつけ狙うその青年・張教仁が実質的主人公といっても差支えなく、三人の探偵グループの方が、むしろ狂言回し的な存在といえよう。中国の秘密結社好きで造詣も深いらしい国枝の嗜好から来ているのだろう。語り口も、プロローグのスペインより、中国( 小説内では、当時の一般的呼称・支那が使われている )国内に入ってからの方が躍如としている。
  
 
 「 此の頃北京は物騒であった。政府の高官顕職が頻々として暗殺された。そして犯人はただの一度も逮捕されたことがないのであった。
 その又殺し方が巧妙であった。巧妙というよりも奇怪であった。その一例を上げて見れば、或る白昼のことであったが、警務局の敏腕の班長が、二人の部下を従えて、繁華な灘子(だんす)街を歩いていた。街路の両側の小屋からは、幕開きの銅鑼の賑やかな音が笛や太鼓や鉦に混って騒々しい迄に聞こえて来る。真紅の衣裳に胸飾、槍を提(ひっさ)げた怪美童を一杯に描いた看板が小屋の正面に懸かっている。外題はどうやら、『 収紅孩 』らしい。飯店に出入りする男子の群、酒店から聞こえる胡弓の音、『 周の鼎、宋の硯 』と叫び乍ら、偽物を売る野店の売子、雑踏の巷を悠々と班長と部下とは歩いて行った・・・」
 

 

 ある唄声を聴こうとして、暮れなずむ上海旧市街の巷、“ 不潔な道筋 を眼を顰めさせながら ”そぞろ歩いてゆく探偵ラシイヌ。

 

 「 日没を合図に内外の市街は――県城内の旧市街と県城外の新市街とは、交通を遮断する掟であってその日没も近づいているので、ラシイヌは廓門の一つから城内に急いで這入って行った。城内の街の狭隘さは、二人並んで歩くことさえ出来ぬ。凸凹の激しいその道には豚血牛脂流れ出し殆んど小溝を作している。下水の桶から発散する臭気や、葱や、山椒や、芥子などの支那人好みの野菜の香が街に充ち充ちた煙と共に人の臭覚を麻痺させる。小箱のような陋屋からは赤児の泣声や女の喚き声や竹の棒切で撲る音などが、巷に群れている野良犬の声と、殺気立った合唱(コーラス)を作っている。」

 

 

 同じ隠された秘宝探求の冒険活劇映画《 インディー・ジョーンズ 》のようなジェット・コースター・ムービーがそうであるように、かなり御都合主義的な展開が少なくない。
月刊雑誌の連載という性質上、テンポ良く進行せざるを得ないのだろう。
 後半から舞台はボルネオ(島)・サンダカンから河を遡った奥地のジャングルに移ってゆくが、当方的には些か中だるみの感が否めない。有尾人=ピテカントロプスなんかも登場したりするのだけど。
 確かに、大正時代当時だったら新鮮で遙か西方沙漠の秘宝を追い求めて地球半周ってのは面白かったに違いない。

 

 

 明治20年(1887年)、長野の役人の四男として生まれた国枝史郎。
 早稲田の英文科に入り、小川未明の主宰する《 青鳥会 》に参加し、そこの生田蝶介に口説かれ《 講談雑誌 》で《 蔦葛木曽桟 》を連載を開始。評判良く、翌1923年(大正12年)には《 沙漠の古都 》を《 新趣味 》に連載。
 一応《 沙漠の古都 》以外にも、《 東亜の謎 》、《 犯罪列車 》(南信日日新聞=現・長野日報に連載)なんて現代物もちゃんとあるようだ。 
 1943年、終戦前に喉頭癌のため死去。

 

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2019年8月24日 (土)

夜来香の女  大泉黒石『 淡水艶女傳 』

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 ( 口絵 )

  黒石の短編《 淡水艶女傳 (二) 》が昭和六年発行の『 グロテスク 』八月号に載っていた。当方の持っているこの号は背表紙と背の部分が破損していて古書店で補修している朽ちかけ版。他の『 グロテスク 』二冊は新年特別号で、この八月号を最初見た時、あれっ、小版になっちまったの?、と驚いてしまった。実際は版の体裁は変わってないもののページ数が半分に減って随分と小さく見えてしまったに過ぎなかった。
 奥付に普通号50銭 新年特集号1円とあるので、こっちが普段のページ数=厚さってことになるのか、と決めつけようしたら、【 編集後記 】に「八月号は諸君の頭を大いに暑中休養して貰うために、ウンと、思い切って薄っぺらなものにしました。」とあった。他の号は定かでないけど、この八月号だけなんだろうか?
 因みに、同じ編集後記に、「毎年のことですが、山の、海の遭難者の報を耳にします、いたましい限りです。グロの愛読者諸君も海に山にお出かけのことゝ思いますが、危険なところはアブナイ所と極まって居りますから・・・」とあって、戦前も変わらなかった夏の庶民的風俗。

 

 

 昭和六年といえば、前年にインドでガンジーが反英非暴力抗議運動を開始、国内じゃ共産党員全国一斉検挙、そして秋には台湾で現地民が日本統治権力に対して武装蜂起した《霧社(むしゃ)事件》の記憶もまだ生々しい時節。それでも、昭和12年の日支事変(日中戦争)勃発=皇民化政策実施はもっと先で、それなりの余裕がまだまだあったのだろう。
 そんな台湾の首府・台北から、現在では電車で40分の台湾海峡に面した淡水という港町を舞台にした短編。
 スペイン・オランダの旧植民地でもあって当時の建物も残っている長崎にも似た国際色豊かな港町・淡水。そもそも淡水とは台湾北部の富士山より高い大覇尖山に源を発する大漢渓と新店渓が合してできた河の名であって、首府・台北を貫き、河口の淡水港・台湾海峡に注ぎ出ている。当時、日本から一山当てようと多数押しかけ開いた料亭・娼館で繁盛していたという。
 
 「 港口の灯台光のもとを往来する船の灯の明滅。汽笛の響き。漕ぐ櫓の音や鴎の羽ばたきに遣る瀬無き覇旅(たび)の情を誘われる彼・・・楼上に酒をくむ洋画家見月深太郎である。楼房(へや)を籠めて妖しく烟(けぶ)り薫ずるは女の髪にさしかざしたる夜来香の花。」

 

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 夜来香の花を髪に挿した婀娜女の魅力と細やかな情愛に惹きつけられ、つい長居を決め込み、ちょっとのつもりが、気付くともう夜の十時。三時間も居座っていたことになる。明朝早く船で退たねばならず、未練を断ち切って部屋を出ようとすると、女はあれこれと思いとどまらせようとする。
 “花ならば崩れこぼれるばかりの瑤々たる嬌姿”
 とある。
 酒精にほんのりと頬を染めて、立ち上がろうとする彼の体にまとわりついて放そうとしない。
“わづかに汗ばんだ彼女の肌からいきれたつ女の匂い”
 やがてその支那料理店・青亀楼の女将・お波が現れ、娘の礼儀知らずを咎めては見せはするが、結局女将の勧めもあってそこに泊まる仕儀になってしまう。
 火山・大屯山の麓の北投温泉や五星山の麓の草山温泉の案内まで話が弾む。
 そして、場面は、翌朝・・・
 
 「 淡水長崎間航路の汽船が黒煙を海波になびかし、台湾北端石門庄の沖合を通過するころ、彼・・・見月深太郎は富貴角灯台の後にそびゆる大屯山の雄姿を眺めながら、船の甲板のベンチの上で前夜から今朝までの思い出に耽ってゐた青亀楼の女将・・・彼女は酒食の勘定を取ろうとしないので、彼は志しとして若干の礼をしたのである。」

 

 

 そもそも青亀楼とは、日本から渡って来た女将・お波が中国人貿易商と一緒になり、死に別れてこの淡水で十数年前に開いた店で、同じ中国人貿易豪商、その実は阿片の密貿易の大親分たる中国南部、厦門に本宅のある汕頭(スワトウ)の三龍漢(サンルンハン)が頻繁に利用していて、その三龍漢がその女将の妹・香代子に惚込み妾にしようと手下の太吉( 女将の弟、つまり香代子とは兄妹 )を使って執拗にくどかせる。
 ところが、香代子の方は、ともかく三龍漢を毛嫌いしてて、太吉が幾ら凄もうと取りつくしまもなく、しまいには太吉、実の姉の女将にすら怒鳴られる始末。
 その辺の事情を、洋画家は、夜来香の女に酒の肴に聞かされていた。
 おまけに、彼等密貿易商って、元々は皆まじめな貿易商だったってことまで教えられ、中国政府の舶来品、特に贅沢品の関税の大幅な引き上げ政策によってさっぱり商売あがったりで、やむなく違法な、しかし、当時の植民地香港を基点に、ややこしい政治的間隙をついて楽々と不当な利益を獲る方途へと走ってしまったという。
 

 

 実はかの青亀楼の女将はその洋画家の知人からの推薦状を貰っていて、その故の厚遇かと洋画家は推量してみたりして、早朝の船上のベンチに坐ったまま、そっと夜来香の女が彼のポケットにしのばせてきたハンカチーフを取り出してみた。
 と、ひろげたハンカチーフに紅い絹糸で結ばれた三筋の毛髪が、そして隅に彼女の名が刺繍されていた。
 なんと、彼女こそ噂の女将の妹・香代子だったのだ。

 

 当時の中国の虚々実々な情勢をネックに、南国の夜のふと漂ってくる夜来香の如くの一抹の艶話ってところ。今一だけど、黒石らしい小品。

 

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2019年8月16日 (金)

蒼空に映える白亜の渤海クルーズ『 中華・泰山号 』

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 数日前、レトロ沿岸を散策し、小さな船舶が停泊している以外釣人の影が30℃数度の烈日に照らし出されているだけの岸壁に踵を返そうとした眼の端に、ふと、ドサクサ紛れのごとく、植込みの向こうの廃止になって久しいプレハブ・カスタム玄関の両開きドアがゆっくりと開閉する光景が紛れ込んだ。
 錯覚と決め込もうとしたもののそんなはずもなく、カスタムの玄関に向かってみると、果たして、ちょっと前まで玄関ポーチの低い階段の脇にぺんぺん草が繁茂していたのが嘘みたいに綺麗に刈られていた。あれっと、反射的にポーチの上部を見上げ、以前に消し去られた国際港カスタムの文字を確かめると当然に削り取られたまま・・・
 で、列日の反映で見難くなった入口のガラスドアの奥に眼を凝らすと、やっぱり電灯が点いていて、かつてのカスタムが機能していた時代の取り残された設備だけがぼんやりと照らし出されていた。
 人気もなく設備の点検でもしているのだろうか、と裏側に廻ってみると、細長いカスタムにうがたれた曇りガラスの全部にずらり明かりが灯っていた。

 

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 表側に戻ってようやく気づいたのだが、カスタムの岸壁側の小さな勝手口前に軽自動車が二台停まっていた。数人の男女がその勝手口のドアから出入りしていて、如何にも何か胡散臭げな雰囲気。
 しばらくすると、中から白っぽい大きなものが現れた。
 車の陰になってはっきりしない。
 と、中年女性の後について、まん丸のいわゆる地元の“ゆるキャラ”の着ぐるみがヨタヨタと歩き始めた。真昼の烈日にゆるキャラのまん丸い白い巨体がおぼつかない足取りで岸壁にそってさっさと歩いてゆく女性の後を、どんどんその差が広がってゆきながらも真夏白昼のゆるキャラはヨタヨタと追いかけ続けた。
 と、その先に、一艘の白塗りの練習船が留まっていた。
 カスタム前に来る時、ぞろぞろ見学の親子連れがその小型の練習船にのりこむのを横目にしていたのだけど、もう皆船の中に入っていたようで、女性と白日を照り返して眩いゆるキャラの二人がタラップの下で二人並び、中々出てこようとしない見学客をじっと待ち続けているのを見てると、二人の熱気がこちらに伝染してきたかのように汗が吹き出てきて、あわてて日陰に退避しその場を後にした。

 

 

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 家に戻ると、いくら何でもあんなゆるキャラ出陣のためにわざわざ廃止になったはずのカスタムの全部に灯りを点すとは考えられないので、ひょっとしてとネットをみてみると、案の定、中国の船舶が寄港する予定なのが分かった。

 

 で、10日( 土曜 )に岸壁に赴くと、24,427トン、乗客約1000人の渤海郵輪有限公司のクルーズ船《 チャイニーズ・タイシャン 》中華泰山号の白亜の船体が蒼空の下純白に映えていた。
 カスタム岸壁の手前に留まっていた練習船の姿はもうなく、カスタムの白塗りの鉄柵を越えて手前にはみ出した泰山号の、しかし、10万トン級も珍しくない昨今の大型クルーズ船世界じゃ、むしろ小型の部類に入るのだろうか。
 以前寄港したフランスのポナンPONANT社のロストラルL'AUSTRL号が1万トン級なのでその倍、5万トン・クラスの飛鳥Ⅱの半分。
 尤も、乗客は時節柄なのか、数百人くらいだったようだけど、見に行ったのが昼前で、乗客の大半はもう下船しあっちこっちに出かけた後だったのだろう。カスタム事務所の玄関から、疎らに大抵二人組の黒髪をなびかせた中国人娘が連れ立って何処か散策に向かうぐらい。周辺は閑散としてて、一般道路に出る手前に警備のパトカーが一台停まってて、裏側に観光バスが一台、カスタムのすぐ背後に“Moji Custams”と記したトラックが一台停まってるだけの静かな光景があるばかり。
 結局、このクルーズ船《 中華・泰山号 》寄港のための雑草刈りだったようだ。
 白い船体にカラフルな中国風の絵が小さくあしらわれていて、唯一中国情緒を感じさせる。折からの台風の影響でか、カスタムの鉄柵から手前にはみ出た部分の岸壁側に立入禁止のグリーンの衝立をづらり立て並べていたのが、次から次へと倒れてしまい、慌てて係り員たちが駆寄って来て立て直していた。

 

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門司港を出ると、佐世保に寄り、大連港に戻っていった。
 本当は大連を発ったこの《 中華・泰山号 》、今日15日にも再び寄港する予定であったらしいのが、台風10号のせいで中止になったらしい。15日昼前現在、船舶動静情報(AIS)でチェックすると、台風をやり過ごそうとしているのか、大連港のちょっと沖で停泊したまま。

 

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2019年8月 5日 (月)

 昭和五年勢ぞろい新年特集号『 グロテスク 』と黒石《 人肉料理 》

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 ネットで執筆人のそうそうたるのを見て驚いてしまった『 グロテスク 』昭和五年(1930年)一月新年特集号。
 見開きの目次を見ると一目瞭然なんだけど、大泉黒石を筆頭に、葉山嘉樹,尾崎士郎、川路柳虹、青野季吉、稲垣足穂、辻潤、今東光、金子洋文、黒島傳治、生方敏郎・・・尤も、案の定というのか、辻潤なんて一頁半の、しかし、

 

「 泡を吹いてゐ(い)るのだ――それは泡を吹いてゐるのだ。
 雲の中で眼も鼻もない蒼白い楕円の月が凶暴な不協和音を吼へながら凝結したミルクの泡を吹いているのだ。・・・」
 
なんてのっけからダダ的吐露。
《 一九五〇年売笑婦 》の葉山嘉樹は、

 「 一九五〇年売笑婦 と云う編集者の註文であるが、その頃には×××なってるだろう。しかし売笑婦は、×××と雖も、直ちに撲滅し尽されるものでなく、一時的には、却って激増するに違いない。・・・」

 

 と、20年後の娼婦たちについて唯物史観的だけど分かり易く言及。それ故にか、途中二カ所ほどかなりの語数が伏字ならぬ空白のまま。
 稲垣足穂、エッセイ風な創作と銘うった《 少年読本 》、定番の少年愛的饒舌が破格に20ページに及んでいる。

 

 「 何故なら、私たちはKyotoのD院に所蔵されてゐる『稚児草子』というたぐいの絵巻物をいくつか知ってゐるし、又、Nerigiやお寺の庭に植えてあるKeshiについての話もきいてゐるからです。( 何、御存じない? Nerigiとは必要に応じて手のひらの上でとくように出来た山いもの粉をかためた云わば一つのLubricantです。この種のものがUenohirokojiなどで売られてゐました。KeshiとはPoppyの粉であって、それだけのものが局所麻痺の作用をするのかどうか、それこそさっきの医学生に正してみる必要がありますが、紙に包んでこれを印ろうに入れてゐた見ぬ世の人々の間には、次のような言葉さえあったそうです。“ Keshi o ipuku mairasesorae ”)・・・」

 

 

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 黒石、この号でも《 人肉料理 》と『人を喰った男の評伝』(梅原北明の巻)のコーナーで《 快漢北明論 》なる4ページの人物伝を載せている。
 以前このブログで黒石の《 草の味 》(1943年)を紹介した際、“草木の生命の根源である葉緑素(クロロフィル)が、人間と他の生き物の生命の素であった歴史を有っているのである。”から皇軍的帰結=人肉食にまで敷衍したことがあって、このタイトルと遭遇し、植物の血液・クロロフイル=人類の血液・ヘモグロビンから人肉(血)漁りへの如何なる論理的展開ありや、と勝手に好奇の念を燻らせてみたら、短編小説でもない既存の世界の人肉食的事例を何片か紹介しているだけであった。

 

 その中の一つ、中国での逸話、《 股肉の膾(なます) 》なる明末、河北省での大飢饉の頃の話を紹介してみよう。
 ある旅人が昼飯をたべようと路端の客桟( 宿 )に入ると、店先に据えてある大きなまな板の上に、一人のまだ若い女が素っ裸のまま縛りつけられてて、驚いて店主に尋ねると、貧窮した自分の亭主に金を工面するために自分の肉体を切り売りしようとしているんだとか。
 旅人、女の余りの過酷さに同情し、身銭を切って女を解放してやった。
 女は狂喜し、夫に金を渡してやれれば本望とばかり、後は旅人の奴隷にでもしてくれとひれ伏した。裸のままじゃと、旅人、足元に脱ぎ捨ててあった女の衣服を手に取り、女に着せてやろうとして、ふと、指先が誤って露わな女の乳房にちょっと触れてしまった次の刹那、女はすっくと立ちあがり、憤然とした眼差しで、
 「命の恩人のあなた様へ、召使いとして一生御奉公致す所存でありましたが、しかしながら、貴女様の妾(めかけ)の類になろうなんて気は金輪際ありません! 夫以外の誰にも触れさせるつもりもないからこそ、肉体の切り売りを願い出たのですから。やっぱり、いっそのこと、この身を、肉体を切り刻んでおくれなさい。」
 と女は自ら、大まな板の上に再び仰向けに横たわってしまった。
 思わぬ勘違いに罵られた旅人は言葉もでず、むしろそれに怒ったのは店主の方で、縁もゆかりもない旅の旦那に助けてもらいながら、何ていいがかりつけやがる。こうなっちゃ、もう誰が何てったって聞かねーぞ、と啖呵を吐き捨て、大包丁を高く振り上げ、止める旅人を蹴飛ばし、渾身の力で女の裸体に叩き下ろしたという酸鼻譚。

 【 黒石評 】実に壮烈無比凄惨無類の話だ。こういう方法で身を殺し、貞操を完うする婦人は、今日はもとより昔の支那にも滅多にあるものではない。

 

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 黒石の些かクールな評だけど、話の冒頭で、“ 今でも ”と当時昭和初期の頃の中国の文字通りの人身売買の状況にちょっと触れている。
 幼女が10米国ドル、7歳くらいの男児は20ドルあたりが相場で、他の小動物と一緒に道端に並べて売られているという。いわんや飢饉旱魃の時節においてをや。
 いづこの国でも似たり寄ったりの、とりわけ子供たちの惨状ではあるが、なかんずく中国は世界に冠たるグルメ国、その奢侈の極みなのか、あるいは遥か後期ネアンデルタール世紀の遠い記憶のグルメ故の残滓的発露なのか。 
 飢饉旱魃時は西も東もゾンビー映画さながらの百鬼(昼)夜行はもはや常識だけど、日本でも天明の大飢饉の折など、道端や河原に流れ着いた屍体から始まり墓をあばき出すに到り、あるいは、わざわざ指を串に刺して焼いて食したりなんてあったらしい。指の串焼きってまともに考えるともう単なる食材扱いから美味志向まであと一歩って趣きすら窺えて、非常事態的食人が常態化してしまうと、今度は美味の追及に流れてゆくという人間の性すら垣間見えてしまいそう。
 中国美食道的探求とは正にそれなんだろう。
 天明の飢饉の極みは、死にかけた自分の母親を担保に隣人宅の屍肉を分けて貰うという、もはや流通貨幣と化してしまった例に尽きるだろう。(《 医療としての食人 日本と中国の比較 》吉岡郁夫 )
 
 尤も、人身売買って、食肉とは別途に流行りの言葉で言えば薬膳的素材としての、つまり漢方的・習俗的(=民間療法)薬的素材としての意味もあるだろうし、魯迅の《 薬 》を待つまでもなく中韓日じゃとっくに昔からポピュラーで、昨今は“臓器移植”なんて科学的医療の体裁すらとってもっと直接的なものとして流布している。

 

 因みに、ネアンデルタール人の共喰いが始まったのは、地球の環境が、丁度現在の我々が置かれているのと相似な、むしろ将来を具現したように、温暖化が進んで沿岸地帯が海に沈んで生態系に劇的変化が生じ食料難を来たしたからってことらしい。
 ネアンデルタールの異種との交配が進み始めたのも同じ頃という。現代の我々のDNAにも彼らのDNAが混じっているってのが言わずもがななんだろう。

 

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 ( 巻頭のスイス・チューリッヒの操人形劇団の特集。「操人形」解説までふされていて、二十ページ近い写真も載せてある精力ぶり。人形の顔  がグロテスクなところでの特集なのだろう。)

 

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2019年7月20日 (土)

 映画『 血と霊 』への仮構的アプローチ 《 1923 溝口健二『 血と霊 』 》佐伯勉

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 以前、四方田犬彦が《 大泉黒石と表現主義の見果てぬ夢 ――幻の溝口健二『 血と霊 』の挫折――》(月刊新潮 2015年9月号 )で言及した、映画《 血と霊 》のフイルムが現存しない故の当時のあれこれの記事・写真から再現してみようとするパルテノン多摩でのプロジェクト、その監修を務めた溝口の研究家らしい映画評論家・佐伯勉の1991年に著した《 1923 溝口健二『 血と霊 』 》。

 

 映画関係のシリーズ“ リュミエール叢書 ”の第11巻。
 タイトルから一冊全部、映画《 血と霊 》に言及したものかと決めつけていたら、その前史としての当時の演劇・映画界の状況の概括からはじまってて、映画《 血と霊 》の再現的アプローチは実質半分にも満たなかった。
 そもそもフィルムが当時、関東大震災で焼失し、そんな遠く平成・昭和・大正という三時代も前の事柄ゆえに、当時観た人達の情報も僅少・曖昧、残存する写真・評論の類に依拠するほかないのだからそんなものなんだろう。
 ただ、前史たる当時の映画・演劇界的事情を見ていると、黒石を中心とした例えば辻潤、そのかかわりとしての舞踊家・石井漠、あるいはむしろ《 浅草オペラ 》なんかの名なんかが出てきて、興味を惹かれた。
 
 
 「 この人( 辻潤 )も浅草で活躍した一人である。むしろ高田保( 浅草・新国劇の劇作家 )をリードする立場にあり、自分で原稿を書いたり、下手な芝居に出演したり、それなりの浅草では有名な存在であった。」
   
                                                                                       《 ダダイズム 》石井立夫

 

 

 元々辻潤が演劇関係に係わっていたのは知ってはいた。
 けど、てっきりちょっと舞台に出てみるだけのお遊び程度と決めつけていたら、そんな浮薄な質のもじゃなくて、けっこうそれなりに演劇に入れあげていたのには驚いてしまった。そんな辻と、黒石、盟友なのか腐縁なのか。

 

 

 「 彼(=黒石)がまだ浅草の山平社時代に、公園でバットの屑を拾い歩いたり、草担ぎをやったり、一山百文のドラマを書いて五九郎に売りつけたりしていた時代からの知己で 」 ( 曾我廼家五九郎 : 浅草演劇の雄でもあり喜劇映画の売れっ子でもあったらしい。)

 

                                                                          陀々羅行脚《 絶望の書 》辻潤                             
             
 そして自らも、

 

「 昔、尾上松之助の芝居を、一日百枚書いて十円貰って、ほんとうに、みっともなへいほどお辞儀をしていた時分 」

 

    《 刺笑の世界から 》大泉黒石

 

 大正末に黒石が、《 中央公論 》でセンセーショナルな作家デビューする以前に、尾上松之助や喜劇の曾我廼家五九郎の脚本を書いていたとはつい最近まで知らなかった。
 映画《 血と霊 》に至るまでの、とりわけ映画《 カリガリ博士 》以降、当時の一大現象だった“ 表現主義 ”をめぐるこの国における映画・演劇界はたまた舞踊界までの様々な試行錯誤ではあるが、唐突に黒石にそのお鉢が廻って来たという訳じゃない細い糸でのつながりってものが、むしろ了解できてしまう。

 

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 大正の映画雑誌《 活動雑誌 》( 1923年九月号 ) の“ 映画物語《 血と霊 》”という6ページにわたる特集記事や当時の映画雑誌や新聞・雑誌の映画評、現存するスチール写真、あるいは関係者の記憶的断片を元にしての筆者・佐伯なりのイメージ的再現。

 

そもそも黒石はあくまで原作者で、それもこの映画のためにホフマンの《 スキュデリー嬢 》を基にした翻案物。監督の溝口健二が脚色し、《 カリガリ博士 》での意表を突いた不安神経症的な怪異な表現主義派的舞台装置を美術の亀原嘉明・久保一雄・渡辺造酒らが担当し、撮影が青島順一郎。
 制作は、1923年6月~7月。大正12年8月15日葵館で試写。9月1日関東大震災。

 

 

 写真(スチール)は全部で17枚。
 映画とタイアップした黒石の短編小説集《 血と霊 》大正12年(春秋社)の巻頭にもない、ネットでもあまり見たことのない写真が結構あって驚いた。映画関係者だけあって、あっちこっちから掻き集めてきたんだろう。
 “ 映画物語《 血と霊 》”は、映画の流れを簡単に活字化したもののようだけど、その現物が提示されているわけでもなく、佐伯の提示する断片を見るしかない。
 18片のシーンによって構成され、流れ的には黒石の小説と大差ない。
 けど、佐伯は不満をこぼす。

 

 

 「 映画物語を読む限り原作にあった鳳雲泰の内面の分裂の苦悩など何も感じられない。」

 

  「 映画《 血と霊 》の重点が鳳雲泰の内面描写には無かったと結論づけていいのかも知れない。」

 

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 その上で、当時の批評の一つ、《 キネマ旬報 》の批評に触れる。

 

 

  「 むしろ内田岐三彦が『 物語の筋は不思議な殺人事件を中心とした大変面白いもので』( 《 キネマ旬報 》1923年12月1日号『 主要映画批評 』)と書いているように、映画の物語面での面白さは、怪奇的な殺人をめぐる秘密を解き明かしてゆく謎解きの面白さにあったと言えよう。」

 

 

 という“ 怪奇探偵物 ”としての評価。
 総じて期待された“ (国産)表現主義派映画 ”という肝心の面じゃ余り芳しくなかったようだ。当時の異口同音な映画雑誌や新聞の評論やコメントが並べられている。監督・溝口の脚色の拙さと、そもそも出演俳優たちやスタッフ自身が“ 表現主義 ”をまず理解していない点がやり玉にあげられている。
 でも、外来のニュー・ウェーブなんてどの時代でも大差はない。
 その時点でどんなものを創りあげれたかってところが肝心なのだし、未消化であったとしても、種々様々な違和・錯誤があってもその有機的連関・総体のダイナミズムが、やっぱし面白いはず。
 文部省・教科書的な正誤表的価値判断は余り意味を持たない。
 尤も、原作者・黒石自身も、“失敗作”と断じ、何よりも表現主義に対する理解の無さを嘆じつつ、舞台装置にはそれなりの評価をしていたようだし、次作の、《 絨毯商人 》で挽回を期してもいたようだ。
 
 制作側のアプローチの端的な例が次の髪結の回想であろうか。

 

 

  「 昔表現派とでもいうのでしょうか。/ 故人溝口監督が《 血と霊 》という映画を作りました。監督さんの注文が『 おびえた頭 』『 恐怖の頭 』という具合には困りはてました。絵にでも描いてくれるならともかく、言葉だけの注文ですから話のほかです。結局雀の巣のような頭を作ったことを覚えております。」
      
                                               ( 結髪を担当した亀田(伊奈)もとの回想《 髪と女優 》伊奈もと )

 

 

 大泉黒石+溝口健二=映画《 血と霊 》の実像に迫れると思っていたのだけど、何たって関東大震災の直前に作られたせいで、まともに上映すら行われることもなくフィルムが失われてしまったという状況からしたら、まあ、そんなものかも知れない。
 既に大泉黒石の原作を読み、それに関する二、三の論考まで読んでいる者としては、特に目新しい何かがあった訳でもないものの、未見の幾点かの映画スチールが映画の空間的イメージの雰囲気を大体了解させてくれた。

 

 

 

                           1923 溝口健二《 血と霊 》佐伯勉 ( 筑摩書房 ) 1991年

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2019年7月 6日 (土)

時代閉塞的断章 《 白い花 》 秋山清

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 YOUTUBEで土取利行が朗読している秋山清の《 白い花 》、詩は特に好きという訳じゃないけどこの作品は結構気に入っていて、時々視聴したりする。
 土取の朗読の仕方もあるんだろうが、戦時中という前提もあって一語一語がシリアスに心底に沁み入ってくる。
 ところが、秋山の著作にその《 白い花 》を彼自身解説した《 わが解説 》(文治堂書店 )があると知り、早速Amazonで取り寄せてみた。
 奥付をみると“ 2004年発行 ”とある。
 あれ、確か秋山って昭和に亡くなっていたはず、と思ってると、果たして解題に昭和63年( 1988年 )で84歳で死去とあり、《 わが解説 》自体は昭和52年から文芸誌《 幻野 》に連載したものという。
 そもそも《 白い花 》って、同じタイトルの《 白い花 》という昭和10年~21年の主に戦時下に書き溜めた作品をまとめたタイプ印刷の小詩集で、発行所はコスモス社。
 タイプ印刷といえば、手書きのガリ版刷りよりワン・ランク上の印刷ってことだけど、どちらも簡素なことこの上ない。それ故にシンプルな妙味もある。

 “ わが解説 7 《 白い花 》前後 ”の冒頭。

 


 「 薄っぺらな詩集『 白い花 』には短い詩が三十数篇集められ、それは一九三五年( 昭和一〇)から一九四六年に至る戦争の十年間の私の詩のすべてである。未発表のものも多く、『 反対 』『 文化組織 』『 詩作 』等の他『 林業新聞 』という方角のちがったところにも掲載してもらった。何といっても寡作であった、ということを併せて、その理由は私の非力と未弱、それ故に戦争というはげしい現実が詩に耐え切れなかった、ということがもっと大きい。」

 

 

 「 ・・・戦後何かが華々しく見えた時代にも、その作品はひたすらに見すぼらしかった。しかし本当に見すぼらしかったのは、この本の中味である。戦時下の人民的抵抗の一つであったといわれることがあったとしても、質量ともに貧弱きわまることは私自身が証明する。この小っぽけな詩集の中の詩を二つか三つか、とり出して、秋山清の詩的レジスタンスは、なにと語るとすれば、そのように見えるかもしれない。が一冊の詩集としての貧しさは、到底語るに及ぶものではない。それに値する作品があるかと問わるれば一も二もない。」

 

 

 上記の“ 人民的抵抗の一つ ”とは、吉本隆明の《 抵抗詩 》の中のでの言葉であろう。

 

 “ ・・・この三篇(「 白い花 」「 国葬 」「 拍手 」)の詩にひどく感銘をうけた。当時は、わたしなどの戦争期の記憶などからすると、ちゃきちゃきの戦争謳歌の詩をかいていた詩人が、いっぱしの抵抗詩人であったかが如き言辞をロウし、・・・わたしは決定的にニヒリステイクであった。そなんとき、秋山の詩をよんだのである。
 わたしの当時の感じは、「 これならほんとうだ 」というものであった。これを抵抗詩と呼び、これを抵抗詩人と呼ぶなら、わたしも承認してもよいという感じであった。”

 

 

 

 「 支那事変のはじまるより以前に私たちは、現実について書くための表現方法を求めようとして、それで以って検閲の目をくぐろうとの思惑を併せ持とうとした・・・その全くささやかな視点をわがものにすることの実践は矢張りむずかしかった・・・
 私らの詩法「現実に語らせる」というのは、目に見たものを描写することから発し、事実( 現実 )を先ず捉え、それによって真実を表現しようとすることであった。そこには省略も拡大も必要であるが、存在の現実を描いて真実を語らせるまでの力は私にはなかった。」 

 


 「 詩集『 白い花 』のなかに「 白い花 」という短い詩がある。昭和十九年( 一九四四 )の秋、私はある若い友人がアッツ島で戦死して、近く区民葬として大勢の戦死者といっしょの葬儀があるという話を聞いた。彼の父と妻と子供たちは東京の世田ヶ谷区のどこかに住んでいた。そのことによって私はこの詩をかいた。」

 

 

  アッツの酷寒は
  私らの想像のむこうにある。
  アッツの悪天候は
  私らの想像のさらにむこうにある。
  ツンドラに
  みじかい春が来て
  草が萌え
  ヒメエゾコザクラの花がさき
  その五弁の白に見入って
  妻と子や
  故郷の思いを
  君はひそめていた。
  やがて十倍の敵に突入し
  兵として
  心のこりなく戦いつくしたと
  私はかたくそう思う。
  君の名を誰もしらない。
  私は十一日になって君のことを知った。
  君の区民葬の日であった。

 

 

 「 全軍が死んだアッツ島の戦争は想像の及び難いことであった。だが、当時日本兵がそこの山陰に休んでいる光景や白いアッツザクラなどがうつくしく新聞には出ていた。僅かな夏期に茎みじかく咲く白い花に見入っている兵の姿もあった。悪天候ということや日本では思いもつかぬ寒気、そんなことは皆新聞で知った。そこでは野草の花のヒメエゾコザクラを兵たちがアッツザクラと呼んだこともあったという。」

 

 

 「 すでに太平洋を制圧していたアメリカ軍が、十数倍の兵と武器とを投入してアッツ島に迫り、のしかかって来れば、逸早く白旗をかかげぬ限り、全滅は必死である。全軍が死んでから幾日か幾月かが過ぎてから、戦死の友人もまじった合同の区民葬ときいたのであった。私は、知るかぎりのアッツへの思いを駆使して一篇の「 白い花 」を書いた。そらの珍しく晴れた晩秋の一日が記憶に残ったのである。」

 

 

 「 この詩のなかに「 心のこりなくたたかいつくした 」という一行がある。あれはじつに不安定な、無責任な言葉であったかもしれない。たたかいつくすとはどういうことか。全軍が一人のこらず死なねばならぬということか。跡方もなく壊滅し、一人の生きた者もなく、討たれ果てたということか。多分そうであろう。だが、死にたくない思いを故郷の妻子に傾けて、おののき死んだ者の上に、たたかいつくしたという言葉が使用できるだろうか。私が説明したような意味がそこから発生して読者に伝わるであろうか。少なくとも作者はこの言葉には不満である。だから、「 たたかいつくしたと私はかたくそう思う。」となったのである。私は心やさしかりし友人が、君国のためわが命を捨てることを我と我が身に悲しんだであろうことを信じたかったが、十分にそのようにはかけなかった。たたかいつくしたという表現に、いくらか、わずかに、その無念の思いが表現できたらとあせりながら、こんな詩になってしまった。」

 

 

 「 自己の思いによって何ものも充たされることなく、死に向かうことだけしかなかった、といったことを、時と所とを隔てて思い返して見れば遺憾のみがあって、心の開かれるところはどこにも、何一つもなかったであろうことが思われ、そのような人の思いに届くことはこの詩には描かれなかった、そのことをつくづく悟らされるのである。」

 

 

 本当は、白い花、つまり秋山のいっていたヒメエゾコザクラ=アッツ桜の写真でも乗っけておこうと思ったんだけど、いざネットで探してみると、まあ、これがてんで埒もない。あるのは、濃いピンクの“アッツ桜”ばかり。
 これは秋山の零していた、" 近頃東京の花屋でも売っている花弁が一枚多い、しかしどう見ても桜には見えない "白い花の類。おまけに、かつて白だったらしいのが、昨今じゃ紅い花ばかり。おまけに、この現在流布している“アッツ桜”は、そもそもが北方・寒冷地体とは真逆の南アメリカ原産( ロードヒポキシス )という。
 で、“ ヒメエゾコザクラ ”の方はといえば、これは五弁だけど、まずアッツ桜と同様濃いピンクあるいは紫色ばかり。稀に白い花もあるようだ。花弁の形は桜より細長い。でも、このエゾコザクラ(蝦夷小桜)、オホーツク・ベーリング沿岸エリアの寒冷な草原に咲く多年草というから、こっちの方が可能性が高い。
 恐らく、【 アッツ島占領 】の記事の写真にヒメエゾコザクラ=エゾコザクラにロードヒポキシス花が似ていたからアッツ桜として売り出したのだろうが、秋山が新聞で見たらしいヒメエゾコザクラ自体がどんなものなのかはっきりしない。

 

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2019年6月22日 (土)

真夜中の告発者 生ける彫像 ( 大泉黒石 )

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 大泉黒石の短編《 生ける彫像 》が掲載されているってことで入手してみたのだけど、いわゆる昭和初期の“エログロ・ナンセンス”を地でゆく体裁の雑誌《 グロテスク 》( 1929年=昭和4年新年号 )であった。
 おまけに、そんな雑誌の特性に合わせたように、黒石、巻末の10ページにも満たないミニ短編《 生ける彫像 》とは別に、《 勧燬(き)淫書論 ( ルビ : いんしょせいばつ ) 》なる論考をも連載しているようで、むしろそっちの方に興味を覚えてしまった。

 

 

 表紙に、“ 耽奇・探奇・談奇”とある。
 終戦直後の薄っぺらなカストリ雑誌と相違して、それなりのページ数のあるちゃんとした雑誌の体裁で、発行者は、この雑誌にも自身の論考を複数掲載している、発禁になった訳書《 デカメロン 》で有名になった梅原北明という明治の宮武骸骨に勝るともおとらない反骨精神旺盛な出版者。
 そもそもが梅原、明治末の幸徳秋水ら十数人が死刑に処された《 大逆事件 》に衝撃を受け、アナルコ・サンジカリズム運動にも影響を受けて、一時“水平社運動”に参入し結構活躍していたという。
 後年、上海のカジノで知り合った帝国海軍元帥・山本五十六も、彼のファンだったという話もあるらしく、その縁でか、いよいよ“時局”が押し迫ってきて、窮した梅原に海軍がらみの仕事を提供してくれたという。

 

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 ( チェコ出身の幻想怪異画家リチャード・ミュラーの作品。モノクロの同じ構図の作品もある。)

 

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  扉の口絵に、ページ中頃の“ グロテスク画集 ”にも掲載されているチェコ出身の画家リチャード・ミュラー( リヒャルド・ミュラー)の幻想的・怪奇的作風の絵が掲げられ、その次にとじ込みの両開きの小さなピンクの《 新年号目次 》があり、そのもう一つ後には国芳の浮世絵《 狸の睾丸画集 》と題した色刷り版画風まで折り込まれている凝り様。 
 全体的にモノクロ写真や挿絵が適時配されている。   
 梅原北明自らも( ペンネーム多いらしく、他の名で掲載しているのもあるかも知れないけど、当方には不詳 )梅原の名で複数の論考を載せていて、《 阿片考 》じゃ写真や図解まで使って阿片の吸引器具・使用法を懇切丁寧に認めている。


 《 生ける彫像 》の巻頭にも小さなモノクロ挿絵があしらわれていて、本来は、当時ヨーロッパやロシアで活躍した舞台美術・衣装デザイン・挿絵なんか手がけるベラルーシ生まれの美術家レオン・バクストの、1910年パリ・オペラ座で行なわれたロシア・バレー団の《 シェラザード 》の舞台装置の前年に描かれたものなら下絵かデッサンというところだろうか。1909年は同じロシア・バレー団の《 クレオパトラ 》だったようだ。
 シェラザードといえば、《 アラビアン・ナイト 千一夜物語 》だけど、黒石の短編と特に係わりがあるとも思えない。共に、深夜の語りって一点で共通はしているけど。

 

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 ( 中扉。先月号、つまり12月号が発禁となったとある。)

 

 それにしても、肝心の黒石の《 生ける彫像 》、余りに短かい。
 要は水子譚ってとこなんだろうけど、黒石らしく、最後の最期に一ひねり入れている。
 正に、“ 咄 々々 ”。
 ネタ元は、その何年も前、大正末の世相を騒がせた“ 柳原白蓮事件 ”なのは明白で、成金財閥、皇族・華族、それに右翼・女性権利拡張運動もが絡んだ話題に富んだスキャンダル故に、黒石的には待ってましただろうけれど、だったらもっと縦横に描いていいはずが、所詮スキャンダルってことでか、軽くあしらった。( 確かに、描きようによっては、再度、発禁 ! って事態に到りかねなかっただろうが ) 
 

 

 と、ある成金資産家、“五十万”( 大正時代頃の資産家の財産基準らしい )とのっけから但し書きし、いわゆる財閥レベルじゃないところをあらかじめ明示している。理由はモデルにした“ 柳原白蓮事件 ”故に、九州の石炭財閥当主そのままに登場させる訳にはいかなかったのだろう。
 叩きあげの筑豊・飯塚の炭鉱王・伊藤伝右衛門の方はともかく、妻の、歌人として知られていた伊藤の半分の年齢の柳原白蓮=燁子( あきこ )の方が問題だった。
 彼女の父親・柳原前光は、大正天皇の生母の柳原愛子の兄で元々の公家、彼女の兄・義光は貴族院議員、姉・信子の夫・入江為守は東宮侍従長とどっぷり天皇=皇族・華族的しがらみに漬かっていた白蓮=柳原家。とりわけ、貴族院議員の兄・義光の選挙資金がらみの政略結婚の噂が喧しかったようだ。
 そんな白蓮が、よりによって、大陸浪人・革命家として高名だった宮崎滔天( 当時は既夢破れて病床に伏していたらしい )の息子・宮崎竜介と不倫関係になり、失踪し、竜介の下に走ってしまった。
 市井の一市民同士の不倫失踪ならまだしも、それでも当時は姦通罪に問われてしまうが、皇族=華族がらみってことでかなり世間にバッシングを受けた。成金財閥の伊藤自体はそれ程悪しざまに言われるような質の人物じゃなかったらしいものの、裸一貫で切った張った三昧の炭鉱労働者関係と渡り合ったりのおよそ教養とは無縁の処世故に、華族深窓の歌人娘との対比で如何にも式に女性権利拡張論者・運動家から誹られつづけたという。その辺の所も斟酌・加味した黒石的展開にはなっている。
 宮崎滔天は息子と白蓮との結婚を応援していたようだけど、世論は厳しかった。
 福岡の右翼団体《 黒龍会 》も白蓮非難の急先鋒だったようだ。
 それでも白蓮、不義の子を産み、何年か後には龍介と一緒になってしまう。
驚いたことに、その子を、当時の宮内省が、伊藤が怒りを露わに断っても断っても、執拗に伊藤に自分の子としての認知を迫りつづけたという。終いには、伊藤、自ら精子検査を受け“生殖不能”、つまり彼の子じゃないってことを証してしまう。
 

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 ( 巻末の新春増大号扱いで、黒い縁取りが付されている。)

 

3

 ( 1910年のパリ・オペラ座での<シェラザード>のレオン・バクストの舞台装置。<生ける彫像>の巻頭に配された挿絵とは別のもの。写真かと思ってよく見てみると絵のようでもあり、定かじゃないので画像としておく。バクスト自身の手による作品かも。)

 

 
  「 ・・・動物の貂皮でおおわれた臂(ひじ)掛椅子に、ふかぶかと身を埋め、閃く石の美しい双手に、額を支え、皺だらけの顔に沈痛な色をうかべ落ち窪(くぼ)める眼に愁しげなる涙さえ湛えて、物思いに沈む、半白の老紳士があった。言うまでもない。これが此の部屋この邸の主人なのだ。彼はこの夜の枕に就くべく、ここに入り来ってより数時間を、この姿こうしているのだが、時々はその暗い面を静かに擡(もた)げて、寝臺(しんだい)の真上の壁に、沾(うるお)える眸(ひとみ)を向け、そこに掛けてある額を瞶(みつ)めながら、深い溜息を洩らすのである。額の中には世にも比類なく麗しき夫人の肖像が嵌めこまれている。」

 

 

 冒頭の資産家が深夜、彼の自宅の一室で亡くなった愛妻の追慕に浸り悲嘆にくれるシーン。
 “ 人の心や社会の底を流れゆく時の風潮”に疎い無教養者( イグノラント )とある。
 よくある叩きあげ資産家なんかの定番の通俗的人物像であろうが、かといって封建的家父長的な因業横柄さとは無縁の思いやり深い酸いも甘いも噛分けた善人で、彼女が“ 心やさしく夫に尽せば、それに倍して彼は妻を愛した ”という愛妻家でもあった。
 

 

「 いつも美しく、いつも若々しいのが、子を生まぬゆえに、容色の衰えを免れる夫人の徳である。分娩は美貌の敵という、彼女は宛(さなが)ら不老泉に住む永遠の乙女のその如くに水々しかった。」

 

 

 「 子なき寂しさは、絶えるまもなく胸底に往来し、年と共に強くなるばかりであった。ただ彼の美しき同伴者である『 生ける彫像 』によって慰められていた。いや自ら慰められていたのであったが、哀れむべし、遂にはその唯一の慰藉者にも遠くえ往かれてしまった。」

 

 

 「 老いて子なき夫が、頼りとする妻に先立たれたる心中は。いかなる人の言葉も慰め和らぐるには足りないであろう。嘗てそこには優しき佳人の愛情ある面影を見た一室に閉じ籠り、無情の想いに胸を掻き毟る彼の心は、痛ましくも悲惨なものであった。」

 

 

 財産家の美麗な妻とその妻との間の子宝に恵まれなかったことへの哀惜の最中、ふと、小さな物音が響いた。

 

 

「『 コッ。コッ。コッ。』
 他聞(ひとぎき)を憚るように、ほとんど聞きとれぬほど、微かに静かに此の部屋の扉を叩く音がして、覚めかけていた黙想から、はッと老人。やや驚きの面差で、背後へ振りかえった。
『 誰じゃ ? 』」
 

 「 しづかに入って来たのは正に少年。風采凛として、豊かな頬に、さも懐かしげな愛情のほころびを泛(うか)べた品のいい、しかし、全く見も知らない美少年であった。」
 

 少年は唐突に自分が財産家の息子だと告げた。

 

 

 「『 何かの間違いではないか? 寝呆けて戸惑っているんじゃないか? 儂の名は入江九衛門。邸の門札に出ておる筈じゃ。子どもなどは一人もないわい。』
 『 ありますよ。僕がそうです。』
と少年。にこりと微笑する。」

 

 

 訝る財産家、少年に自分の顔をよく見てくれと言われ改めてまじまじと見直してみると、確かに亡くなっ妻の花貌のあれこれが生き写しだし、財産家の部分的特徴と相似な造りも見て取れた。もし妻との間に子供が出来たとしたら、正に、面前の少年の容貌のごとくであったろう。
 得も言われぬ想持に囚われた財産家、少年に誘われるように、邸を出、暗い夜道を少年の後についてトボトボ歩き続けてゆくと、人通りの絶えた商店街の常夜の電飾看板や街燈にぼんやり照らし出された通りに差し掛かった。

 

 

 「 ・・・曲がり角にある外国書籍店のまえにぴったり立ち停まった少年は、いかりに耀く眼を、くわッと見ひらき、店窓(ショウウインドウ)の中に飾られた外国本の一つを恨めしげに睨ねめつけながら『 僕は、それ、その黄表紙の悪魔に殺されたのです ! 』」

 

 

 突然、少年は蒼白となった貌に悲憤の念を燃え上がらせ、そう、叫んだ。
 驚いた財産家、あわててガラス越しにその黄表紙の洋書のタイトルに両の眼を凝らしてみたもののさっぱり英語は解らず眼を白黒。ふと、少年の方を振り返ると、忽然と姿が消えていた。
 少年の姿を通りに捜す財産家の背後のショーウィンドウ・・・

 

 
 「 煌々たる電燈の光りに黄表紙の背文字が踊るばかり。×××××夫人著。“ BIRT CONTROL”! 咄々々!」

 

2

 ( リチャード・ミュラーのグロテスク画集の中の一片。エッチング )

 

 この××夫人とは、幾度も来日した米国の産児制限運動家・マーガレット・サンガーで、黄表紙本のタイトルとは“ BIRTH CONTROL”。
 この短編じゃ、“H”が抜けて“ BIRT CONTROL”となってるけど、黒石が意図的にやらかしたのか、この雑誌《 グロテスク 》の編集者の校正ミスなのかどうか定かでない。というのは、黒石のもう一つの掲載物《 勧燬淫書論 》の最後の“ 附記 ”に印刷所のミスを記しているから、ひょっとしての可能性も捨てきれない。
 当時、日本でも女性権利拡張運動の一環として注目されはじめ、避妊(器具)推進等で、米国ともどもに権力・保守勢力にあの手この手の阻止にあったようだ。なかんずく、マーガレットは米国で投獄の経験すらある女闘士。
 

 

 でも、これって、成金財産家の入江九衛門の積年の願いとは裏腹に、当の水晶の花貌、心優しく夫に尽くしてきたはずの妻は、一緒に連れ添った20年もの間、まさか旦那が認める訳もない避妊を、つまり女性側の意志での避妊を隠れて行いつづけてきたってことになる。
 正に、不実。
 実在のモデル、成金財閥・伊藤伝右衛門も、妻・白蓮に裏切られ、後ろ脚でめいっぱい汚泥をかけられ若い龍介のところに逃げられてしまったが。
 幼馴染の娘と一緒になり、沢山の子供をもうけた黒石とは真逆。
 子沢山の故もあるのか生活苦に喘いでいた黒石こそ、マーガレット・サンガー女史の唱えるところの貧窮からの脱出のための産児制限が必要だったのじゃないのか、と自嘲したのか、内外のそんな運動に後ろめたさや反撥心を覚えてしまっての結晶化した作品なのか。
 

 その妻の20年にも及ぶ背信的所作って、物語中にも述べられていたように、彼女の若々しい美貌を保つためだったのだろうか。

 

 「 いつも美しく、いつも若々しいのが、子を生まぬゆえに、容色の衰えを免れる夫人の徳である。分娩は美貌の敵という、彼女は宛ら不老泉に住む永遠の乙女のその如くに水々しかった。」

 

 この如何にも意味ありげな言葉は、やはり前フリってことだろう。
 旦那もそれを愛でていたからこそ、彼女も子宝を断念し、若々しい美貌の保持の方を敢えて選んだってのもありえなくはないのかも知れない。
 あるいは、容色の衰えが旦那の寵愛を遠ざけてしまうという懸念からか、それとも専ら自身の美意識のなせる術だったのか。
 それにしても、多年の間、無数の避妊で、どれだけの本来的結合的結晶が未完のまま汚物として廃棄されてきたのだろうか。

 この視点からすると、なんとも途方もない罪業の淵って趣きが濃くなってくる。

 その水子にすら成り得なかった前-水子霊の群が真夜中の訪問者の少年として結晶化したってことなのだろう。
 昨今、この伝でいけば、毎夜の如く、自分によく似た風貌の少年・少女たちにドアをノックされる人々の数って半端ないに違いない。

 

7

 ( 裏表紙 当時、中国でも仁丹やなんかと一緒に流布したクラブ化粧品の歯磨きの広告。)

 

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2019年6月 8日 (土)

黎明的ゆらぎ  『 菊とギロチン 』

G1

 

 

 you tube にある秋山清『 白い花 』の土取利行の朗読がけっこう気に入っていて、その戦中に認められた詩の彼自身の解説があるということで読んでいた《 わが解説 》( 文治堂書店 ) 、ところが、ふと立ち寄ったレンタル・ビデオ屋の棚に、秋山と遠戚関係にあるらしい中浜鉄を中心とした《 ギロチン社 》の面々を主人公にした瀬々敬久監督《 菊とギロチン 》が並んでいた。
 

 

 大正末、関東大震災直後の軍部( 権力 )や自警団による“ 朝鮮人・中国人・労働組合活動家・社会主義者 ”たちの虐殺に、一矢報いようとテロルを画策するアナキスト集団《 ギロチン社 》、そして当時巷で流行っていたその殆どが東北出身者だったという女相撲の一座《 玉岩興行 》、その二つの底辺的存在がひょんなことで遭遇することになった。
 同じ《 ギロチン社 》を扱った山田勇男監督の映画《 シュトルム・ウント・ドランクッ 》( 2014年 )とは又些か趣きを異にした大正末・青年群像劇。
 戦前この国の貧窮の象徴のように謂われた東北地方、昭和十一年の《 二・二六事件 》等でも決起将兵の中にも東北出身者が多く、女相撲も大半が東北出身者によって占められていたらしい。昨今の女たちのスポーツ界進出も華々しくなった状況にダブらせるように、“ 強くなりてえ ! ”と、女たちの置かれた困窮的因習的差別的あるいは暴力的現実から這い上がろうとする藻掻(もがき)を、一向に“ 解放・革命 ”を具体的現実として実現できずに藻掻きつづける《 ギロチン社 》と絡めてみた物語の成り行きは、しかし、依然として仄暗い黎明が彼方にゆらめくばかり。

 

 G2

 

 相撲といえば、確か秋山清も、地元の浜鉄の柄杓田の隣村、今津で村祭の際に行われる奉納相撲でけっこう活躍していたという。 
関東大震災の直前、大正十二年夏、秋山は東京から一時帰郷し、一夏故郷の夏休みを満喫したのだけど、夏祭の余興の素人相撲に、何を思ったか、青年・秋山、借りたマワシを締め、飛び入りで参加した。ところが、素早い取り口で勝ち進み、その強さに村の相撲の頭取( 親方 : 各村に居たらしい )に気に入られ、近隣の村祭りの相撲に参加することになったという。勝つと紙に包んだ花( 御捻り )が投げ込まれた。それなりに人気があったのか、結構な額の花が貰えたらしい。映画の方じゃ、花じゃなく、野菜や魚なんかの現物のようだったけど。
 村の相撲が開催される際、他の村の相撲取りにも参加して貰うため、開催地の頭取の遣いの者が他の頭取の家の前で、任侠の仁義に似た、腰をかがめて口上を述べるのを、秋山の近くに親方が住んでいて何度か見たことがあったという。
 年配の相撲取りが彼の四股名を秋山に呉れたという。
 《 今響 》
 今津と響灘をかけた四股名なんだろうが、アナキストや詩人で相撲の四股名を持っているなんて、まず他にはいないだろう。
 この映画の時代設定の頃、浜鉄の親戚の秋山も、裏門司といわれた地域一帯の土俵の上で活躍していたとは・・・

 

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2019年5月21日 (火)

アスリート・ファースト  平成=令和のアベノミクス的残影

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 早朝5時前、独特に微妙な曙光に暗い上空全体にうっすらと流れてゆく雲の向こう南天45度に満月が絶妙に端座していた。その右、兎陰の下方に少し距離をおいて小さく木星が輝いていた。他に星影もない早朝の空に、その二つだけ。

 

平成から令和に年号も変わり、来年は《 東京オリンピック 》ってことらしい。
 けどこの、本来は福島=東電原発事件の被災者やらの復興に最優先的に回して当たり前の東京都の予算を、急に何を思いついたのか、当時の東京都知事・石原慎太郎が、予算ならちゃんとあるんだとぶち上げたのが発端。
 そもそもが東電・福島原発の最受益者であり、むしろその故にごり押しして来た東京都、彼らにこそ多大の責任があるにもかかわらず、これで足れりというほどには支出もせず、あろうことか専ら東電に一切の責任をなすりつけ、まずあり得ようもない《 東京オリンピック 》をぶち上げ、注ぎ込んでしまった。
 それも、いかにも連中( 都知事・石原=自民党 )らしく、金に物をいわせての誘致までやらかしてまで。 
 

 

 ところが、当時、そんな金に物をいわせるやり口って何処でもやってるんだとばかり、自民党近辺やスポーツ界・マスコミもむしろ得意顔だったのが、案の定、今年になってフランス当局にその違法性を問われはじめると、皆一応に知らぬ半兵衛を決め込む始末。 ニッポン=《 東京オリンピック 》勢力の恥知らずな違法性が明らかになっただけ。
 福島(や東北 )の被災者支援・復興の予算を削ってまで、“ アスリート・ファースト”なんて掠め取った予算の再分配( ありていに云えば、貪ぼり )をぬけぬけとやってのけれるのが、そもそも昔から一貫しての前時代的封建主義・権威主義的権力主義と利権漁りの権化=ニッポン《 体協 》なのだろう。昨年あたりやたらマスコミで喧伝されたスポーツ界のパワハラ問題も、元々そんな体質の問題でしかなく、"アスリート・ファースト"ともどもの再分配問題でしかない。

 

 

 かつてオリンピックの表彰台で、米国の黒人選手たちが黒い手袋をした拳を高々とあげ米国の黒人差別に対する抗議=“ブラック・パワー”を誇示したのを、米国権力が怒り、関係した選手たちを徹底的にパージした。オリンピック・スポーツに“政治を持ち込むな ! ”と。
 ところが、その後、今度はその米国権力が、ソ連のアフガン侵攻に抗議とか称して、モスクワ・オリンピックを“ボイコット”し、他の国にもボイコットを強要し、多くの国々( 所謂西側先進国を中心に )がオリンピックのこれ以上ない政治利用に賛同し棄権する挙に出た。それはそのまま、“自由と平等”と真逆な“権力と金”の権化そのものでしかない米国と一心同体であることを、つまりオリンピック精神とやらを公然に踏みにじって見せたそれらの国々自体の正体をも証してしまった。( 尤も、そのソ連も報復としてその後の米国でのオリンピックをボイコットし、結局、“ 何処の国も ”って救いようの無い顛末が結果してしまった。)
 つまり、いわゆる西側先進国って、そもそもがスポーツの世界的祭典=オリンピックになんて参加する資格すら持ち合わせてなかったのだ。それがそれ以降もぬけぬけと、厚顔無恥なんてものかわ、したり顔までして、それぞれの国で多額の予算を湯水のごとく浪費してまで参加しつづける始末。
 だから、国際社会だとかパラリンピックだとか声高に騒いでみせても、所詮これ以上ないくらいのさもしいばかりの政治的経済的利権、つまり性根=商魂の大団円以上の何ものでもないってことだろう。
 
 
 だから自民党半世紀支配なのだろうし、あれだけその危険性・経済的・社会的リスクを指弾され警鐘を受けて来たのにもかかわらず、そんな批判派を非科学的とか無知とか嘲笑してきた自民党・経済界の福島原発( あるいは他の原発 )ごり押しの論理的帰結=福島原発事件で、自民党や経済界・関係マスコミの誰一人として責任とることもなくしたり顔し被災地を廻って見せたりできるのだろう。
 そんな中の、肝心なその責任取りだけはスルーして“反原発”を新たな御題目として掲げて廻っていられる小泉なんだろうが、しかし、かつて、この国の売国・亡国の輩総出演の観すらあったFテレビの朝の政治番組で、そんな原発批判に対する嘲笑・愚弄をさんざんやらかしていた張本人の一人が誰あろう石原慎太郎だった。
 そもそもが、かつて自民党・鈴木都知事“三選”の際、“権力の亡者・老害”とばかり唾棄し嘲笑までしてみせた石原、都知事になるや空前絶後に“四選”までやらかした張本人。( 都民=有権者の大半が、そんな石原を四度も都知事に選んで見せた。)
 その石原が、ぶちあげたのが、他ならぬ、“ 東京オリンピック ”だった。
 正に、平成=令和って、売国・亡国行進曲の輝かしい軌跡って訳だ。

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