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2017年4月 8日 (土)

大相撲から見えてくるニッポンイズム

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 先だって、日本列島を、呆然でもなく、震撼でもなく、人によっては感涙に噎ぶほどに感動させたらしい横綱・稀勢の里と大関・照ノ富士の優勝のかかった一番。
 勿論、前日、大関復帰がかかった琴奨菊との一番で、横に体をかわし“変化”したってことで大阪府立体育会館の観客に罵倒され唾棄されたらしい(当方はその場面は観ていたなかった)照ノ富士じゃなく、前々日受けた肩か胸の負傷を押して出場した稀勢の里に対する声援と熱狂。
 
 
 本割り(普通の対戦)と優勝決定戦の両方の勝負を観た。
 で、対戦はというと、のっけから、“横綱”稀勢の里、変化した。
 と、どういう訳か、すぐ仕切り直しとなった。
 別段両者とも立ち会いに特に問題があったと思われないのだけど・・・
 そして、満を持しての再度の仕切り・・・
 と、稀勢の里、またもや変化した。
 結局、その一番は、大方の予想を裏切って、負傷した稀勢の里が嫌にすんなりと勝ってしまった。前日の、横綱・鶴竜に理の当然の如く簡単に敗けてしまった一番とまるで真逆。
 たった一日でこうも回復してしまえるのか?
 そういえば、照ノ富士、好成績をあげてきた割には、何故かこの土俵での動きが妙に覚束なかった。
 ふと、その時、その日の午前中だったかに見たネットニュースを思い出した。
 確か照の富士だと思うのだけど、朝の稽古もそこそこに足を引きずるように引きあげていったって消息。2週間近くの相撲で、元々痛めていた膝がいよいよ悪くなってきてしまったのか。
 
 
 次の優勝決定戦。
 館内は沸きに沸いていた。
 前日、稀勢の里と対戦した鶴竜が、対戦した際の稀勢の里が「当たった瞬間に力が抜けていた」と、動態の下での対戦相手の身体の状態を体感できたのと同様、照の富士の脚下の覚束なさから膝の負傷の悪化を悟ったかのような勝算のほくそ笑み=余裕すら、その時稀勢の里の表情から読み取ろうとするのは考え過ぎだろうか。
 そして、最後の仕切り立ち会い・・・
 が、本割りじゃ見せなかった稀勢の里の十八番芸、当方は“ニッポン相撲”と呼んでいるが、要するにまともに立ち会おうせず、相手の勝負に賭けた気勢(集中力だけじゃないそれ以上のもの)を削ぐ所作=手口が早速顔を出した。
 稀勢の里と栃煌山をその双頭的頂点として、同様の手口を常套する力士たちを、その殆どが何故か日本人力士ばかり(外人力士にはまず居なかったのが、もう長く“常態化”している故にか、最近は外人力士にも少しづつ増えてきている。その一人が、誰あろうこの照ノ富士だった。但し、先述した双頭的頂点たる二人の日本人力士の厚顔無恥なまでの執拗さに較べたら可愛いいもの)なので、“ニッポン力士”と命名した次第。
 普通、蹲踞(そんきょ)の姿勢から仕切りにはいるため、双方同時に一度立ち上がるのだけど、照ノ富士が立ち上がっても、稀勢の里、蹲踞の姿勢のまままんじりともしない。
 何としても、

  “優勝!”

 って、シフトなんだろう。
 照ノ富士がしゃがむのをしっかと確認してから、おもむろに横綱・稀勢の里、ゆっくりと立ち上がり、そしてしゃがむ。普通、互いに立ち上がってしゃがみ、立ち会いに向けて一切を集中するってのが定式だったはずなのだけど・・・。
 そして、立ち会い。
 照ノ富士、さっと立ち上がり踏み込んだ。
 が、稀勢の里、まるで立ち上がる気配もなく、悠然と照ノ富士を見遣るばかり。
 すかさず、行事が止めに入り、仕切り直しになってしまった。
 はやった照ノ富士が一方的に突っかけたって訳でもなかった。
 普通に考えれば、敢えて稀勢の里が、自分の不利を悟って立ち上がらなかったってところだろう。( 勿論、ニッポン相撲の“雄”故に、意図的な“かわし”の可能性も排除できない。心理戦って訳だ。)
 つまり、事実上の“横綱”稀勢の里の “待った!”。
 この辺の判定の恣意性って、大概にゃ古くから指摘されていたにもかかわらずの、ニッポン相撲協会の無能と怠慢、無責任さの典型的産物。
 普通なら、そのまま、立ち会いを続けさせられることもザラ。
 だから、その時点で、行事が止めに入らなければ、確実に照ノ富士が勝っていた。
 

 それとは別に、照ノ富士、この時、自分を見失っていたようで、あたかも自分で“つっかけた”かのようにペコリと審判員の誰かに頭を下げてしまった。( まさか、その審判員が何か土俵上の照ノ富士にインネンでもつけたのだろうか? 稀勢の里はじめニッポン力士達なんて常習なのに、彼等がそれで土俵下から審判員たちに叱責・注意受けるなんて、本当に稀でしかない。)
 そもそもが、蹲踞して見合った後、照ノ富士が、稀勢の里の動きを確かめることもなく、あっさり立ち上がったってこと自体が彼のいつものやり方を崩しているのだから。直前の本割で、簡単に敗けてしまって、後がないってことの焦りの故なのか。
 この後、稀勢の里、ようやくまともに仕切り直し、立ち会って、簡単に勝ってしまった。
 まともな立ち会いをやろうと思えばやれたって訳だけど、もうその時は、照ノ富士、焦りとリズム・集中力を毀され、こう言って良ければ、完全に稀勢の里の術中に嵌ってしまっていた。

 
 この二人の対戦で分かったことは、やっぱし、相撲って、上半身よりも下半身の負傷の方が圧倒的に致命的ということだ。だから、本当は、損傷の致命傷度は、稀勢の里なんよりも、むしろ照ノ富士の方が高かったってことだろう。


 元々、照ノ富士が膝の負傷をしていなければ、とっくに横綱になっていたのは余りにはっきりしていたし、致命的な膝の損傷だった故に、さっさと一場所でも、二場所でも休んで完治してからでも、充分に横綱になれたのも又当時の定説的評価であった。
 もし照ノ富士が横綱になっていれば、稀勢の里が横綱になる目なんて先ずあり得なかったろう。否、優勝すらあり得なかったに違いないのだから。
 ところが、現実には、常識を覆しての、照ノ富士の強行出場だった。
 周囲の猛反対にあいながら、“頑な”って言葉を粉砕するほどの“異常”行動だった。
 自分から、自分の目前数十センチ先に、もう掴まれることをばかり待っていた横綱の地位を、一体何を思ったのか( あるいは、ひょっとして、誰かがそれを求めたのか? )、遠ざけてしまったのだから。否、力士生命すら危ぶまれる暴挙だったにもかかわらず。

 これは完全に不可解なんて域を越えた、もう《 謎 》の領域だろう。

 普通にまず思い至るのが、“大相撲を舐めていた”故に、という仮説だけど、だったら、その後の一、二場所で、その不可能性を悟り、やっぱし完全休場しかないと納得する他なく正解ではない。ところが、実際には、もうそれ以上の場所数を踏んでいながら、照ノ富士は、一向にそんな理に適った挙にでることもなく、只いたずらにダラダラと愚挙を繰り返すばかり。
 この異常性には、いやでも、昨今の様々なこの国を取り巻く状況から、色んな疑念・猜疑が、果ては陰謀論の類まで頭をもたげてきてしまいかねない。
 何しろ、ニッポン相撲協会が、ともかく如何しようもないほど種手様々な悪弊・トラブルの元凶と化して久しいからだ。
 かつて柔道が国際化された頃から既に大部時間が過っているにもかかわらず、最近になってもまだ、あたかも自分たちだけには如何なる責任もない、ひたすら一切は外国の審判や・その組織にあるていわんばかりに喧しく騒ぎ立てている国内の柔道界を見るにつけ、その徹頭徹尾の自分たちの都合と論理ばかりのお粗末な体質に、ニッポン相撲協会の底なし加減も了解できてしまう。


 “ニッポン相撲” ・・・ むろん、これは相撲評論家やファンが使っている訳じゃなく、専ら当方が、昨今のこの国の趨勢に因んで命名した概念に過ぎないけど、先述の双頭的力士たち以前から延々と続けられてきた所作で、立ち会いの仕切りは、双方が呼吸を合わせ、同時に起きあがって始まる取組を、その立ち会いの仕切りの時点であれこれ意図的な工作を弄して、相手の集中力・気勢を逸らしたり乱れさせたりする悪弊だ。
 “真の相撲ファン”達や評論家、ニッポン相撲協会の趨勢は、世間向けのゴタク(=詐術)はともかく、実質的には、これをむしろ肯定的に相撲的“駆け引き”として、
 「何が悪いんだ?」
とばかり黙認・許してきた。
 それ故に跳梁跋扈し蔓延してきたのだ。
 しかし、これって、かつて柏鵬時代の一翼を担った横綱・柏戸=鏡山親方が審判(副・長)時代に口騒(うる)さく、目に余る力士には、土俵下からでも大声で怒鳴りつけることしきりだったという有名な逸話=伝説すらあったほど。
 これももう旧い話になるけど、以前《八百長・相撲賭博》事件で角界が震撼とした頃、出所不明のビデオで世間の耳目を集めた、何処かの会場で、居並ぶ大勢の力士や親方衆に向かって、初代若乃花=二子山理事長が、大声で罵声をあげる場面。
 その時、二子山理事長がなじっていたことこそ、件の“立ち会い”問題だったという。

 「一体、お前達は、何時になったらちゃんとやれるようになるんだ!」 

 ってところだろう。
 つまり、そういう問題ということだ。
 だから、横綱・朝青龍や白鵬はじめ外人力士の方が、日本人力士たちのそんな悪弊の野放しに違和や怒りを覚えていたろう。その癖、外人力士の些細な所作やなんかじゃ大騒ぎしてみせる審判員や相撲協会(・横綱審査会)。又、白鵬たちだけじゃなく、日本人力士の中にも、そんなニッポン相撲の常習者=ニッポン力士に怒りを覚え、土俵上で対応的所作をあからさまにやって見せたりしてるのを幾度も眼にしたこともある。(尤も、満身創痍の長老格・安美錦や同じく小柄で長老格の豪風なんかが使う分には誰も文句をつける者はないだろうが。)

 問題は更に、外人力士の間にもそんな風潮が徐々に拡がりはじめているってことだ。正攻法でゆくと損という利益優先的現実主義的対応って奴だろう。 その上での、先だっての“稀勢の里=照ノ富士”戦騒ぎだった。
 正に絵に描いたような、排外主義的ニッポンイズム。
 
 別段、当方、一時期流行った“真の相撲ファン”でもなければ、所謂“通”(平成風に呼ぶとオタク)でもない普通の映像でのみ観たり観なかったりのライトなファンでしかない。
 キックもフルコンタクト空手もK-1も、所詮クリンチ・ボクシングと大差ないので観なくなり、相撲だけは一応フルコンタクト格闘技ってことで、凡戦も多いけど(否むしろ年々益々増えてきている)、それでも他にないので観続けるだろうけれど、何とも鬱々するばかりの今日この頃。

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2017年3月25日 (土)

小倉=長州・企救郡百姓一揆 ノート (4)

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 幕末・慶応二年(1866年)六月十七日早朝、長州軍(奇兵隊・報国隊)が関門海峡を越え、小倉藩・幕府合同軍が手ぐすねひく小倉藩領=田野浦・大久保に艦砲射撃とともに上陸した所謂“小倉口の戦”(“豊長戦争”あるいは“長倉戦争”とも呼ばれる)で、幾らもしない内に、幕府合同軍に逃げられ見捨てられた小倉藩、自らの城を焼き払い、内陸奥の香春まで逃走・退却を余儀なくされ、結局、小倉藩領=企救半島を長州軍に占領・支配されてしまう。
 ところが、明治二年六月に“版籍奉還”発布され、企救半島=六郷は政府直轄地となって日田県の管轄なってしまったにもかかわらず、長州軍そのまま支配者として居座り続けた。そのあげくと言うべきか、とうとうその年の十一月、その長州占領下の企救半島において、燎原の火のごとく、農民一揆が席巻するこことなった。

 《 企救農民(百姓)一揆 》と呼ばれるこの、基本無血一揆にもかかわらず、それも長州藩・維新政府側が、“その罪を問わず”と明言しての解散・収束的妥協だったにもかかわらず、新道寺の原口九右衛門・縛首、他数名禁錮刑というその後の維新政府=大日本帝国の不実・背信的本性をその最初期に於いて既に顕わにしていたってことで実に印象的な事件でもあった。


 この一揆、流布している資料・記事から大体の流れは理解できるのだけど、一揆の基本的な部分以外の、それでもそれなりに肝心な部分が意外に曖昧・朦朧としていて、踏み込もうとするればするほどその白靄が濃くなってくる。一市井のトウシロウに過ぎない当方には当然といえば当然なのだけど、それにしてもたった150年くらい前の出来事なのに資料が本当に少ない。やはり農民決起=一揆ってのは、住民の大半であったはずの当の農民達にとっても、やはり秘匿しておくべき事柄多かったってことか。しかし、時代はもう封建領主的苛政からの解放を謳っていたのじゃなかったろうか。やはりこれは、維新を謳った新権力もそれ以前と同様、基本的に下からの民衆運動ってものを厭い疎んじ続けてきたってことの証左であろう。


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 ( 小倉城下を流れ関門海峡に注ぐ紫川の向こうに佇む長尾・能行の街並)
 

 
 そもそもこの一揆に関する資料、日付が資料によって異なるという曖昧さがついて回る。
 別段、基本的な問題じゃないので気にするほどのことじゃないんだけど。
 要するに、明治も5年になってから、江戸時代から使っていた太陰暦を西洋に倣って太陽暦に変えたために生じたもので、五年も溯って明治初年からに適応したために、一層ややこしくなってしまった。明治維新の時に一緒に太陽暦に移行してればまだしも、維新以降5年もの間、幕藩体制下同様太陰暦で記述していたものを、あらためて日付を計算し直さねばならなくなってしまった。太陰暦って、閏年どころか閏月なんてものまであって、ともかくややこしい。
 つまり、一揆当時の日記・日誌は太陰暦で記述されているので、新暦・太陽暦で記述した資料・記事にあたる際には、それが変換された日付かそのままの日付なのかはっきり附言されてないのもあるので留意してないと勘違いすることになりかねない。
 因みに、明治二年十一月十九日=西暦1869年12月21日。
 あるいは、西暦1869年11月19日=明治二年十月十六日。


 問題は、日数。
 資料によってその日数に異同がある。
 こりゃ勘弁して欲しい。
 一揆衆が一揆当日の深夜、横代原( 小倉城から4、5キロ南 : 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》ではもっと手前の2、3キロ南の城野エリア )で、関門海峡沿いの幕府合同軍とりわけ肥後熊本藩精鋭軍( 肥後藩は他の幕藩と相違して、長州軍なみの近代的装備をしていた )と長州軍の血みどろの激戦が行われた赤坂に駐屯していた長州軍=干城隊を率いる大石雄太郎と対峙し、一揆衆の罪は問わず、願いの事は聞き届けるとの言質をもって、一揆衆引き上げ、一揆も収束に向かった・・・という《義民・九右衛門と企救百姓一揆》での件(くだり)は、しかし、他の資料・記事じゃ、些か様相を異にしていた。

 
 「 ・・・群衆(=一揆衆)も亦之(これ)に服従し、暴行を停止す。されど安否落着する迄は、帰村せず。一同長尾、能行、祇園町に引き揚げ、茲(ここ)に屯在する事拾余日。此の間屡々(しばしば)干城隊より隊長以下、解散宅帰りの説諭に出張す・・・服従して各自帰宅す。」 
                   
   《 企救郡誌 第二項 明治初期の騒擾 : 小倉藩政時状記 内山円治 》


 この“・・・拾余日”、つまり“十数日”。
 干城隊・隊長に説諭され言質を得、そのままその日の内に一揆を解散し自分たちの村に戻っていったのと、所詮、悪辣な役人・庄屋輩の詐術の類かもって訳で、十数日もの間、少し離れた紫川の向こうで、ちゃんとした結果・成果を手中にするまではと待機し続けたってのじゃ、随分と違う。(一説によると、踏ん張った甲斐あってか、半年近く、限定されたものであれ、企救半島の農民たちは自分たちの自由自治的な状態を享受できたらしい。)
 一日二日の相違なら何らかの行き違いに因るものだろうと了解できる範囲だけど、一万人以上の一揆衆が、城下( 実際には城は焼け落ち、周辺の城下町の多くも自焼して焼野ヶ原となっていたものの、長州藩の本陣があった。 )から十キロも離れていない場所で、十日以上もの間ずっと長州藩小倉本陣と対峙し続ける緊迫状況にあったのだから、恣意的な解釈の余地なんて入りようがないだろう。
 この間、幾度も長州藩小倉本陣=撫民局( 民生取捌所 )から役人達が解散・帰村の説得工作に訪れ、農民側と交渉を重ねてようやく、一揆側の罪を問わぬ事と、要求の善処を約して一揆衆の解散・帰村の運びとなった。


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 それにしても、一つの同じ事件の重要な局面にもかかわらず、何故にこんな差異が生じてしまったのか。
 普通、十余日間の滞在が、一日(あるいは二日)に縮まることはない。
 原著者の内山円治は、石原町の庄屋であり、この一揆やもう数年前の小倉(幕府合同軍)・長州藩の戦いをもリアル・タイムにその渦中で生きた原口ら一揆衆と同時代人でもあるのだけど、その証言あるいは関係者から聞き取ったものの記録であるはずの“十余日”の方が、最初に干城隊が巡撫に訪れた時のその日の内=当日に一揆解散・帰村説よりも理には適っている。


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 当日、一揆衆が陣取っていた横代原あるいは城野方面(《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》)から引き揚げたのを、一揆そのものの解散、撤退と勘違いしたのだとすると、当然それは農民側の情報じゃなく、ありえるとするならば庄屋たちの皮相な瞥見的情報というところだろうか。
 実際には、紫川を渡った対岸に一揆衆一万余が様子見のために移動したに過ぎない。
 とは言え、内山翁は、長州・小倉藩(幕府合同軍)の戦いを綴った《 小倉戦史 》の編纂にも携わった人物なので、彼の明記した“拾余日”を、“当日”説の著者たちが知らない訳もなく( 《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》じゃ引用までしているけれど、“拾余日”の箇所には触れてない )、とすれば、単純に誤報あるいは皮相な情報に惑わされたというより、もっと意図的なものと考えられる。
 そこで問題になるのが、長州側に求められ差し出した一揆衆の代表者の一人、原口九右衛門の認めた“訴状”、その最後に九右衛門の署名とともに記された日付。

 “明治二年巳(みのとし)十一月二十日”

 当時はまだ太陰暦だったので、その年の干支(巳)が付けられている。
 この“訴状”の日付、二十日は、《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》だと、蜂起したのが11月18日、干城隊・大石に説得され言質を得て解散・帰村したのが19日(但し、門司エリアじゃ21日までもめつづけた、と《 豊田日記 》に記されているらしく、門司エリアだけは留保されている。)ってことで、一揆衆がそれぞれの村に辿り着いた翌日の作成という運びとなる。
 つまり、内山翁の明記した“十余日”だと齟齬・矛盾をきたすという懸念から、“訴状”の“十一月二十日”の字義通りに時間軸を設定したってところだろう。情報・資料の僅少さからの不明瞭さと不安が、そのハショリを生じさせ、一見すっきり論理的整合性を保っているように見える体裁を採とろうとしたのは了解できなくもない。その整合化としての、

 「 一日おいての二十日の日、新道寺の九右衛門・治平、石原町の新蔵、長野村の清右衛門、高野村の清蔵、曽根村の荘次郎の六名に、長州藩小倉本陣への出頭命令が出ました。」
   《 義民・九右衛門と企救百姓一揆 》
 
 って記述だろう。
 そして続けて、
 「 ・・・その日のうちに、村人たちの気持ちと、一揆に及んだ事情をからめた訴状を、・・・長州藩本陣に提出しました。」

 その訴状の末尾に、先にあげた日付が記されいるって訳だけど、因みに《 明治初年 百姓一揆 》じゃ末尾に、「宣敷御聞執り成被下度奉願上候」の後、

 「 十一月廿三日」

 と記されている。この20日と23日との2日の差は、どうも太陰暦と太陽暦的齟齬のようで、本質的な問題ではない。
 それはともあれ、この説でいくと、長州藩小倉本陣からの出頭命令→訴状作成→出頭→訴状提出って流れになる。けれど、この訴状って、必ずしも出頭時に認められたって訳じゃない。
 先述の内山翁の記にはこうある。


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 ( 人影も殆どないひっそりとした長尾・祇園神社の境内の幕末に建てられた石鳥居。一揆衆、ここにも参集したという。 )

 「 ・・・其(その)後各村人民より出訴したる書面に基き、庄屋の不正行為を事実なりと認むるものは、庄屋を召連れ、官史其村に出張し、庄屋と人民の口頭弁論、又は対話を為さしむる事屡々有るも、其間人民より巨魁(首謀者)として拘束せらるゝ者無く、動揺(一揆)後既に四五ヶ月間経過したる翌明治三年三月、企救郡は日田県管轄となり、同県に引渡り前、俄然新道寺村原口九右衛門、池田治平、大村新蔵三名を召喚拘留し、事務引譲りと同時に、身分は日田県に引渡し、小倉監獄に留置す。其後林権少属(明治初期の太政官制の官位。低級。)係りにて、取調の結果、日田に於て、原口九右衛門は絞罪、池田治平は懲役十年、大村新蔵は同五年に処分となり・・・」

 紫川の向う岸側の長尾、能行、祇園町に待機した十余日後、それぞれの村に戻ってから、何時提出されたかつまびらかじゃないけれど、一揆側各村で提出した訴状を元に長州側が対応したって運び。その訴状提出の期日を明記してないものの、原口九右衛門名の訴状はあくまで新道寺村の代表としてのもので、実際は各村・各地域でそれぞれの代表者が出したようだ。恐らく、紫川対岸で待機していた二十日に原口のは認(したた)められたのだろう。
 勿論、絶対的確証=証拠がある訳じゃない。
 もし存在したなら、こんな日数的齟齬なんて起こりようもなかったろう。
 あくまで、内山翁の記述のリアルな説得性故にそう断じたに過ぎない。
 そして、前述した通り、帰村の後、


 「 一揆蜂起と同時に、庄屋は悉く村を脱走したるを以て、此際用便の為、暫役と名称を下し、庄屋事務取扱人の民選を命じ、人民の選挙したる人物を採用す。」


 この頃、長州藩自身でも、奇兵隊はじめ諸隊の武力紛争や農民一揆が各地で頻発し、その対応に四苦八苦していて、他領でこれ以上のもめ事を増やしたくなかったのもあっての結果的産物としての束の間の人民統治ってところだろうか。
 残念ながら、その詳細は明らかではない。

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2017年2月18日 (土)

中国武侠映画的覚書

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 以前、図書館の払い下げコーナーで、中国武侠映画の雄=キン・フー(胡金銓)監督の《 侠女 》の女主人公の絵の横に“ キン・フーからツイ・ハークまで 武侠片は死んだのか? ”という月並みだけどちょっと気になる見出しに釣られて遂い貰ってしまった中国雑誌《 三聯・生活周刊 》(2012年1月)を久し振りに取り出してみた。
 この雑誌は、ルーツは戦前まで溯る総合雑誌のようで、恐らく前年末の12月に中国全土で封切りになったばかりのツイ・ハーク(徐克)監督・ジェット・リー主演の3D武侠(古装)映画《 龍門飛甲 》(邦題:ドラゴンゲート空飛ぶ剣と幻の秘宝)に合わせた企画なのだろう。筆者はワン・カイとなっていて、この記事の後に続けて《 武侠映画の二つの世界 》(武侠電影的両個世界)をキン・フーとツイ・ハークを中心に展開した一文も掲載している。
 《 龍門飛甲 》は以前に紹介したことがあるがツイ・ハークとジェット・リーのコンビってこともあってキン・フー、ツイ・ハークの師弟二代にわたる《龍門客桟》シリーズの新たな3D巨片化って趣きで、正に面目躍如、結構面白く観させてもらった。


 ワン・カイによると、60、70年代に始まった中国武侠映画の新しい波の中心に立って活躍してきた監督・張徹が当時を振り返って、やはり第一人者はキン・フー、二位が彼張徹自身、三位は楚原とランキングをしたらしい。キン・フー以外の二者については未知だけど、ネットで調べたら結構活躍していたようだ。
 でも、当時、第一人者の、あの黒澤明ですらが一目置いていたキン・フーでさえも、後にカンヌ映画祭で受賞した《 侠女 》の撮影終了の後、映画会社がそれまでも会社の意向を無視して中々コンスタントに映画を作ろうとせず、制作費ばかりそれも多額の浪費を決め込むキン・フーに愛想を尽かしてか、カンヌでの受賞をすら怪しみ、もはや彼の好き勝手にはさせなくなっていて、結局キン・フー、カンヌ映画祭には、借金して渡航費を作って赴いた挙句での受賞だったらしい。

 そもそもキン・フーって、作家・老舎と明史の研究、世界中の図書館巡りが趣味で、仲間との酒宴も併せて、一端映画撮影に入ってしまうと断念せざるを得ないのが堪えられなくて、中々映画を撮ろうとしなかったという。何か人生をえらく損するような強迫観念に囚われるのだろう。それはしかし、映画会社にとっては、国際的に有名ではあっても、金と時間ばかり喰う寡作監督って、実に厄介な存在なのだろう。
 《 侠女 》の撮影には九ヶ月の時間と一万人以上の人員動因、広大な古い建物群のセット、更にその上、明史に詳しいぶん時代考証に拘り、当時の衣裳になんかにも素材から拘ったりで予算もどんどんかさんでいったらしい。そんな彼の行き方故に、しまいには彼の映画に出資してくれる企業を捜すのも大変になっていたのも意に介すことなく、己がスタイルを変えることもなく、人物や寺廟等をあたかも一幅の山水画の如く描こうとして湯水のように予算を使いまくり、確かに芸術性は高かろうが観客との間の乖離は拡がるばかり。やっとついてくれた出資者たちをも煩わせ不快にすることしきりだったようだ。これは頻くある作家(性)と採算(性)の問題で、洋の東西を問わない。


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 以下、要約すると、米国帰りのツイ・ハークと一緒に《 笑傲江湖 》(1990年)を制作した際も、相も変わらず完全主義的な作品本位主義的志向に走り、香港の映画会社との契約期間をとっくに過ぎても衣裳なんかに拘りまくったりで埒があかず、とうとうツイ・ハークが交替し、彼の兄弟たちとあっちこっちから金をかき集めて予算を作り、一月で完成させてしまった。
 尤も、そのツイ・ハークもキン・フーに負けず劣らずの浪費家で、《 新蜀山剣侠 》じゃ、仙女たちが飛翔するシーンのワイヤー・ワーク撮影のために、わざわざ香港の武術監督を呼び集めたりしたようだ。彼の作風は、キン・フーのリアリズムと真逆な、けれん味たっぷりな奇想天外な空想的リアリズムといったところ。
 ツイ・ハークの初期の頃は、西洋科学と幻想映画の結合を企図していたものの、次第に西洋的なものとの結合に違和感を覚えるようになったのか、東洋的な方途に傾き始め、ジェット・リー主演《 黄飛鴻 》シリーズでは一昔前の中国の勇壮なシーンを作ってみせた。
 ワン・カイは、その背景に、ツイ・ハークの西方文化に対抗しようとする観念・思想を指摘する。勿論、例えば、彼の(2012年当時の)最新作《 竜門飛鴻 》じゃ、新しい映像(世界)を創出するために、最新のテクノロジーを用いたりもしている。


 中国の武侠映画の本質は、復讐の快感=怒りのカタルシスだという説もあるけど、確かに最近のブルース・リーの師匠ってことで有名な詠春拳達人=葉問《イップ・マン》シリーズなんかそのいい例だろう。最後には、イップ・マンが理不尽な外人をやっつけるって寸法だ。しかしこれじゃ何としてもレベルが低く、“侠”とは言い難い。
 武侠映画の歴史において、真正の英雄として人物造形されたものは数が知れていて、秀作を多く作ってきたキン・フーでさえ例外ではない。彼の人物造形した高僧も人心を感化できたとは言えず、安易な御都合主義のレッテルを貼られても致し方ないだろう。


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 最後に、
 「一つの映画には一つの武侠の夢がある」
 これが宣伝のための単なるキャッチ・コピーであったとしても、あるいは真実の核心をついたものであったとしても、ともあれ、中国独自のこの武侠片というジャンルは、これからも生き延びてゆくのだろう、と期待を込めて結んでいる。

 この最後の言葉の前に、米国・ハリウッド映画が70年代の武侠映画を分析研究して作られた、名前は知っているものの未見のアニメ映画《カンフー・パンダ》の世界的成功に触れた後、では中国武侠映画の方はといえば、粗製濫造の旧態依然、すっかり行き詰まって前方にあるのは隘路ばかりって危機感を吐露してはいるのだけど、結局、“武侠映画は死んだのか”(武侠片已死?)ってセンセーショナルなタイトルにしては、案の定、月並みなものでしかなかったのは残念。
 中国映画なんて映画館で観れるのは希有な、わが南西辺境州じゃ、いわんや武侠映画なんてレンタル・ビデオで観るしかない。尤も、昨今は有難いことに、youtubeや中国のネットでそれなりには観れなくもないけど、字幕が基本、中国語か英語って制約があるのが玉に瑕。
 王家衛の《 グランド・マスター 》(2013年)の脚本を担当し、自らメガホンを取った《 倭寇的踪跡 》(2011年)の原作者でもある作家の徐浩峰の、《 箭士柳白猿 》(2012年)が中々面白そうで観てみたいのだけど、中国ネットあれこれ捜してみたものの予告編やらの部分的なものばかり。箭士とは弓士のことらしく、時代も民国初頭ってことで、いよいよ廃れてゆく武術としての弓ってところが良い。前作でも倭寇の残滓とも謂える倭刀が興味深かったし、独特のリアリズムも魅力的だった。


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2017年2月 4日 (土)

ブラフマーの聖地 プシュカル ( 旅先のパンフレット )

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 バック・パッカーには新年・正月を何処で迎えるかに結構こだわったりする者も少なくなく、ぼくもその例に倣って噂に聞いたヒンドゥー教の聖地でもある場所で迎えてみようとインド・ラジャスターン砂漠の入口にひっそりと佇んだ小さな町・プシュカルで年越し・新年を過ごしたことがあった。
 勿論別段何が変わったという訳でもないけれど、いつもの日本国内の変わり映えのしない光景とはやはり異り、異質と同一性の体験的自己確認ってところで、一人悦に入れたことは確かであった。

 とりわけ、大晦日の夕刻、アジメール側の低い灌木の覆う小さな山から、沈みかけようとしている夕陽の方に流れてゆく雲がだんだんと赤く染まってゆき、街の真ん中にあるプシュカル湖を囲繞したガート(石階段式沐浴所)のヒンドゥー寺院から鐘や太鼓や詠歌あるいはマントラが湖中に響き渡ってゆくセレモニーは味わい深いものだった。
 もっともこれは、ヒンドゥー教的の毎夕の祭祀的所作に過ぎないものだけど、刻々暮れなずんでゆくガートに面した寺院や民家の人々が、金属皿の上の燃える炎をそれに吊るした鎖でグルグル廻す所作は、遥か古のペルシャの拝火教(ザルトーシュト)以来なのか、ロシア正教のそれをも思わせ、西アジア的血脈に想いを馳せてしまう。


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 現地のブログ見てみると、外人観光客やインド国内の中産階級以上の観光客を対象にしてるのか、プール付の豪華そうなホテルが建ち並んでいるようで、ぼくが訪れた当時とは雲泥の差に近代化された観光地となっていた。湖周辺は寺院関係や住民で占められているので、郊外つまり砂漠地帯に作られたものだろう。
 国産タータのバスで団体でやって来て、そのバスの近くで煮炊きして食べ寝る地方からきた団体の巡礼たちの姿と比較してみても始まらないけど、それは何処の国も経てきた路でもあり、その最たるものの、今だ中世の遺制色濃く残るカースト国家インドであってみれば、正にあらゆる意味において生きた化石的風物詩と言えなくもない。


 そもそもこの町は、ヒンドゥー教の三神( トリムルティ )の一神・宇宙神ブラフマーを祀ったインドでも珍しい聖地。大抵はシヴァかヴィシュヌ神のどちらからしい。水上に横たわったヴィシュヌの臍から伸びた尾の先の蓮花の上に四面をもってこじんまりと単座している有名な図が示しているように、宇宙神と称された割には前二者に比して影が薄い。
 プシュカルの巡礼客相手の商店街の店頭に並べられていたインド風の薄っぺらなプリミティブな印刷のパンフレットの表紙にも、そのヴィシュヌ=ブラフマーの赤い図像が掲載されていて、その異国情緒漂うキィッチュな印刷物に興味をそそられ、つい一冊買ってみた。
 中は墨一色の単色印刷で、聖地プシュカルの神話・伝説的入門書ってところ。


 さてブラフマー、他の神々が自分たちの名を冠した聖地を持っていたのに鑑み、彼自身の名を冠した聖地を欲しくなり、蓮華を三本空中に投げた。
 一番最初に落下したのが、現在プシュカルと呼ばれている真ん中に佇んだプシュカル湖で、“年長のプシュカル”Jesrtha Pushkarと呼ばれ、二番目に落下したところは“真中のプシュカル”Madhya Pushkar、三番目は“年少のプシュカル”Kanista Pushkarと呼んだ。
 三番目のプシュカルは郊外にあってアジメールだったかの貯水池ともなっていて、英語でジュニア・プシュカルとも呼ばれてるけど、地元じゃブッダ・プシュカル(老プシュカル)とも呼ばれている。
 

 蓮華といえば、チベットに仏教を伝えた開祖パドマ・サンブァバ、名前の通り“蓮華生”と呼ばれ、蓮の花から生まれたという伝説で有名だけど、水上に浮かび大輪の紅花を咲かせる蓮華って、確かに神秘的かつ鮮やかで、シンボリックな連想を抱かせる。鬱蒼と茂った草林の奥の小さな沼や池に一輪紅い花弁を拡げる蓮華も極美だけど、靄の向こうの湖上一面に鮮やかに咲きほころんだ蓮華も極彩色のマンダラを彷彿とさせる。
 push=華、kar=(ブラフマーの)手ということでプシュカルらしく、そこで沐浴をすれば罪深い者達の罪が浄化される、ということで、毎日、インド中から信者達が参集してくる。ジャイナ教やイスラム教徒達までもが訪れるという。


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 このパンフレットによると、あらゆる聖地での沐浴は罪人達の罪業を払ってくれるけど、このブラフマーの聖地プシュカルだけは最も罪深い者達の罪すら浄化してくれる最も霊験あらたかな聖地なのだ。では、なぜ、そうなったのかと言えば・・・

 そもそもがブラフマーの聖地たるこの三つのプシュカル湖で沐浴さえすれば、ブラフマー神の慈悲によって、誰でも罪を浄化され死後天国へ昇れるようになった。この実に簡単な方法で救済と天国での至福の享受を得られることを知った人々は、本来ヒンドゥー教徒なら行うべき日々の精進や祭祀を軽んじ顧みなくなった上に、彼等で天国は溢れかえてしまった。
 ある日、そんな状況を危惧した神々達は、ブラフマー神のところに連れだってその由々しき事態への懸念を伝えた。すると、ブラフマー神はためらうことなくこう答えた。


 「 確かにあなた方の仰る通りでしょうが、あのプシュカルはもはや私と切っても切れないくらいに親密で不可分な場所となっているし、それに今更自分の作ったものを変えようとは思わない」


 そうはいかじと神々達、尚も喰いさがった。


 「 おお、宇宙の創造者よ!
 プシュカルの聖なる沐浴のおかげで、実に容易に人々は天国のキップを手に入れた。罪人達でさえ、我々と同等になってしまった。
 このままいけば、誰も日々の精進やら祭祀にソッポを向き、神々の聖火に供物を捧げることすらしなくなってしまう。我々の立場はどうなるのか?」


 そこまで言われて、さすがブラフマー神、おのれの失敗を悟った。


 「 いや、確かにあなた方の仰る通り。
 じゃ、人々の罪を浄化するプシュカルの力に制限を加えましょう。
 Kartika月(11月~12月)のShukla Paksha(新月からの最初の二週間)の最後の五日間にプシュカルで聖なる沐浴をした者だけの罪業を浄化することにしましょう。そのかわり、すべての神々は、この五日の間にプシュカルを訪れたすべての人々に祝福を与えて下さい。」


 神々はそのブラフマーの言葉を聞き、安心して天国へ戻っていった。
 それ以降、人々は、最も霊験あらたかなKartika月の最後の五日間、聖なる沐浴をするようになった。


 その五日間が、いわゆる《キャメル・フェスティバル》 ラクダ市の日(実際には二週間の祭り)でもある。結構盛大なものらしく、さすがに人、人、人で溢れまくるフェスティバルは、ぼくは遠慮させてもらった。プシュカル湖のガートや周辺の木々に屯するラングール猿達で充分。


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 プシュカルの南西にあるというアジガンデシュワル(Ajgandheshwar)寺院にまつわる説話も興味深い。
 かつて、ヴァシユカリ(Vashkali)と呼ばれた悪魔が居た。
 どんな心持ちでか定かでないけど、何と一万年もの間、プシュカルでブラフマー神に則って瞑想・苦行を続けたという。ブラフマー神も喜び、悪魔の願いを聞き届けてやることにした。
 悪魔ヴァシユカリは申し出た。


 「 おお、神よ。宇宙創造神よ。もし、本当に私の願いを叶えてくれるなら、私を決して人間や神々にさえ殺すことのできない不死の身体にして貰いたいのですが」


 上機嫌のブラフマー神、たやすく悪魔の願いを聞き入れた。

 「 悪魔よ。今日からお前は、神々によっても、いかなる人間達によっても殺すことの出来ない存在となろう 」


 さっそく悪魔ヴァシュカリ、厳粛に誓いを立てた。
 プシュカルの湖で沐浴し、ブラフマー神の祭祀(Darshan)を行い、毎日食事を供すると。


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 やがて悪魔の仲間達がその噂を聞きつけてやって来て、インドラの王国、つまり天国に攻め込み、その乗っ取りをけしかけた。悪魔はそそのかしに乗り、大軍を率いて天国へと進軍していった。強力な悪魔軍はまたたくまに天国軍を蹴散らし、インドラはほうほうの態で天国から逃げ出した。
 こうして悪魔ヴァシュカリは天国、人間、悪魔達の三つの世界の王となり、法(ダルマ)に従ってきっちり支配することとなった。それでも、悪魔は、日毎のブラフマー神の祭祀ダルシャンとプシュカル湖での沐浴を怠ることはなかった。

 一方、敗走し天国の王位を失ってしまったインドラは意気消沈し悶々とした日々を送っていた。それから一万年過ったある日、インドラは破壊神シヴァ神のところへ赴き訴えた。


 「 私は悪魔ヴァシュカリによって王国を奪われ、天国から追い払われてしまいました。ブラフマー神が、彼奴に決して神や人間に打ち倒されないよう加護を与えたからです。」


 シヴァ神は答えた。


 「 おお、親愛なるインドラ。
  ならば、山羊に化けて悪魔ヴァシュカリを確実に葬ってしまおう。」


 悪魔は毎日ブラフマー神のダルシャンの前にプシュカル湖で沐浴することにしていた。
 シヴァ神は羊の姿で現れ、悪魔はその大きな山羊を見つけ、弓矢で殺そうとした。その時、あわてて悪魔の配下の大臣が、ひょっとしてあの山羊はヴィシュヌ神かシヴァ神かも知れないと諫め止めるのも聞かず、例えそうであったとしても、ブラフマー神以外ならどんな神だろうと皆殺しにしてやると息巻き、毒矢を放った。
 山羊=シヴァ神、毒矢をものともせず悪魔に大きな角で一突き、悪魔は即死してしまった。影でその様子を窺っていたインドラや天国を追われた神々は、シブァ神を褒め称えた。そこにはブラフマー神も居て、シヴァ神を賞賛しながらこう言った。


 「 もし、あなたが本当に私に好意を示してくれるなら、私の最愛のプシュカルに名声と栄光を与えて下され」


 その時、あたりを揺るがせてシヴァ・リンガが大地を突き破って現れた。
 
 「 ここにこのリンガは残り続け、カルティカ月のシュクラ・パクシャの十四日目には、必ず私はやって来る。」


 そう告げ、神々を災厄から救ったシヴァ神は立ち去っていった。
 すべての神々は歓喜のうちにリンガを祭り、インドラの後に続いて天国へと戻っていった。
 この恐らくシヴァ派なのだろう寺院の起源譚なのか、ブラフマー神の聖地の中での別神シヴアの面目躍如って説話だけど、この薄いパンフレットには他にもブラフマー神的脈絡に横やりを入れ拮抗し終いには圧倒するシヴァ的説話も少なくない。やはりシヴァ・ヴィシュ両神に較べ何とも脆弱な感は否めない。
 この悪魔ヴァシュカリの説話でも、最後に彼を倒したシヴァ神を賞賛する神々の列にどういう行きがかりでなのか、いつの間にかブラフマー神も一緒に並んでいるってのも、今ひとつ判然としない。薄いパンフレット故に本来の筋を割愛したのかも知れないが、あるいは、ヒンドゥー教の三神一体(トリムルティ)論的に、ブラフマー=創造神、ヴィシュヌ=維持神、シヴァ=破壊神って訳で、一度悪魔ヴァシュカリに不死の力を付与(=創造)したからには、ブラフマー神にもはやそれを止め立てすることはできず、後はもう破壊を司るシヴァ神の出番しかないって三権分立的規範なのか。そこら辺の微妙なところが割愛されているのが残念。
 因みに、プシュカルでの沐浴の基本はカルティカ月の最後の五日間の最終日、つまり満月の日(=プルニマpurnima)。

 この他、ゴール朝の王・ヴラドラータ(Vrahdratha)の、カルティカ・プルニマの満月の夜になるとプシュカルの三つの湖を沐浴することなく静然と巡りつづける輪廻転生譚なんかも興味深い。

 (注)リンガLinga ; 男根の豊饒多産的シンボライズした砲弾型の石像。その基底にヨーニ(女陰)を象ったものと結合した形が一般的。普通、シヴァの代名詞。

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2017年1月21日 (土)

ミレニアム的ゆらぎ  帰ってきたヒトラー(2015年)

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 一昔前、確か角川文庫の《 アドルフ・ヒトラー 》(著・ルイス・シュナイダー)だったか、小さな本屋で買って読んだことがあった。一度、ヒトラー=ナチスの実像を大まかであっても把握しておこうと思い至ったからであった。ところが、読んでみると、余りに決めつけと誹謗中傷、つまり何としても貶めようという心底の見え透いた“アンチ・ヒトラー=ナチズム”的プロパガンダ以上のものではなく、辟易してしまった経験があった。
 ヒトラー・ナチス=アウシュビッツという錦の御旗の下、ともかくあれこれ難癖をつけ、誹謗中傷し、貶めれば、国際的な官許的ステータスを得られた時代の典型的な産物ってところだったんだろう。
 実際、当時、海外のテレビ番組なんかでも、ナチスの宣伝相ゲッベルスが演出したらしいヒトラーの演説(あるいはそのニュース映画等も)の際の、“如何に民衆の心を掴むか”というパフォーマンス的手練手管、例えば表情やポーズをとったりしていた事なんかを、滑稽で欺瞞的詐術だと侮蔑し、化粧までしているとこき下ろしたりしていたのだけど、ところが昨今、何処の国の政治屋・権力者も、もうそんな演出的パフォーマンスなんて常道といわんばかりの踏襲ぶり、どころか、ゲッベルス=ナチスの頃を遙かに凌駕して恥じることなし。 
 あのヒトラー=ゲッべルスに対する稚戯めいた誹謗・侮蔑って、一体何だったんだろう。


 ドイツ国内で250万部売れたからだろう、色々物議を醸したらしいその2012年のティムール・ヴェルメシュ著《 帰ってきたヒトラー 》を映画化し、それも大ヒットしたという2010年代ドイツの時代相を知るには端的な作品といえなくもない。
 基本設定は、今流行のタイム・スリップもの。
 連合国の猛攻に今や崩壊寸前の第三帝国(=ナチス・ドイツ)・首都ベルリンの総統地下壕で愛妻エヴァとともに自殺したはずのヒトラー、何故かミレニアム2014年に突如姿を現した。現在では総統地下壕跡地となった植込みに、拳銃自殺後に部下によってガソリンで焼き払われる手筈だったそのガソリンの臭いをプンプン漂わせながら。
 近くのキオスクの店主に助けられ、テレビ会社をクビになったカメラマンの男の目にとまって、彼のテレビ局復帰のための動画の主人公にされ、ドイツ各地を巡るロケの旅に出ることになる。
 やがて、ヒトラーのそっくり俳優として件のテレビ会社に雇われ、トーク番組に出演しどんどん人気者となったと思ったら、会社の内紛に巻き込まれテレビから姿を消してしまう。それでも、内紛で追放された元局長とカメラマンの男にヒトラーの書いた本を元にした映画の主役に抜擢される。そんな矢先、とうとうカメラマンに、そっくり俳優じゃなくて本物のヒトラーと見破られ、拳銃で命まで狙われ追い詰められてしまう・・・


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 原作がスラップ・スティックと評されたように、ヒトラーがパソコンでグーグル検索するシーンすらあったりするコミカルな映画にしあげられている。
 だからといって、喜劇という訳でもない。
 あっちこっちの街角で通行人達と、ヒトラーの扮装のまま対話する場面もある。
 余りにすんなり通行人・市民達と会話がなされているので、実際の対話じゃなく、俳優達が市民を演じているようにすら思えてしまう。ぼくはそのどっちとも判別出来ず小首を傾げながら観ていた。この手のシークエンス(場面)の構造って、大抵が、通行人やらの違和が基準といってもいいくらいなのが、それが全く感じられない。もう、現在のドイツじゃ、“ ヒトラー=ナチス ”って、思わず生理的拒否反応を示す質のものじゃなくなってしまっているようだ。
 面白かったのは、ヒトラーが支持する政党を問われ、ネオ・ナチではなく、〈緑の党〉を選んだ場面。国土の汚染を嫌うってところでシンパシーを覚えたって設定なんだろうが、確かにヒトラー、酒もタバコどころか珈琲までも嫌っていたのは有名。喫煙と癌との関係をドイツの医学者が警告したかららしい。ヒトラーが公共の場での喫煙まで規制していたとは知らなかった。昨今の健康志向の先駆けってとこだろうか。
 

 そもそもが、ヒトラー役のオリヴァー・マスッチ、《 ヒトラー 〜最期の12日間〜》(2004年)のブルーノ・ガンツと較べても明らかに似てない。髪型と鼻髭そして軍服でそれらしく見えているに過ぎない。典型的特徴の記号性ってところでの了解性の上に成り立っているだけ。それでも、現地ドイツ国内の市民達は彼を“ヒトラー”と認めたのだから。
 それも、流行のスマート・フォンでのツー・ショット撮影の洗礼を受けるほど、好意的に。
 “ そっくりさん ”というエンターテイメント的了解性が既にあっての好意的対応だったのだろう。
 
 映画後半で、カメラマンの男に拳銃で狙いをつけられたヒトラーが云う。

 「 ( 嘗てナチスが政権をとったのは ) 大衆が扇動された訳ではない」

 「 彼等は計画を明示した者を指導者に選んだ 」
  
 「 わたしを選んだのだ!」


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2016年12月31日 (土)

藍凧、青天に襤褸のごとく 『 青い凧 』(1993年)

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 甍と白煙、土埃舞う胡同の路上に子供達が遊び、驢馬車がポクポクと荷を引いてゆく。と、ある民家の門の中に、大八車で運んできた簡素な家具類を運び込む男達。新婚の樹娟と少竜の二人の新居に収めるためだ。その時、何処かから、ラジオのソ連の最高権力者スターリンの死を報じる声が流れてくる。1953年3月5日午後9時50分死亡・・・


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 1953年といえば、“第一次5カ年計画”の発布された新生(人民)中国発展の基礎となった年であり、日本では、京都・舞鶴港に、ようやく中国大陸からの引揚者一行を満載した帰国第一便が到着した年でもある。まだまだ戦争の残煙が色濃く烟(けぶ)っていた時代。
 親族や仲間、近所の親しい住民が集ってのいたって簡素な結婚式で、壁に掲げられた毛沢東の肖像に二人が一礼をし革命歌を唄うシーンって、四年前に中華人民共和国として独立し、ようやく建設の端緒についたという、まだまだ新生中国に夢と希望を抱いた溌剌の象徴なのだろう。
 小学校教師の樹娟(シューチュアン)と図書館司書の少竜(シャオロン)、そしてやがて生まれる鉄頭(大雨)の3人家族の、乾井という胡同を中心に物語が始まる。
 少竜はじめ、3人も伴侶が替わった女主人公、田壮壮監督の母親・于藍(ユイ・ラン)を模したといわれる樹娟の、揺れ動き続ける新中国=人民中国の時代の波に呑まれ、惨澹の憂き目憂き目が、その伴侶の変転の次第を語ってゆく。
 当然に文化大革命の大波にも呑まれ、3番目の党幹部の夫も紅衛兵らによる糾弾の最中凄惨に死を余儀なくされてしまう。因みに、最初の夫・少竜は、“百花斉放・百家争鳴”で有名な整風運動の波に足下を掬われ、強制労働キャンプ送りになってそこで事故死し、2番目の夫・李は、彼等の友人でもあったのが少竜を右派として密告した張本人で、良心の呵責に苛まれ、彼等に誠心誠意尽くし続けたあげく病死してしまう。第5世代監督たちの自家薬籠中的定番手法でもある。


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 以前紹介した《 盗馬賊 》(1985年)も結構面白かったけど、この《 青い凧 》(原題 : 藍風箏)も悪くはない。中国じゃ上映禁止のままという。今更言ってみてもはじまらないけど、社会主義的リアリズムって、社会主義国なら常道だったはずが、いずこのマルクス主義国家(権力)も目の敵にしてあれこれと弾圧に走ってしまう。狭隘なこと限りない。“革命”とは真逆。タイの諺で謂う“(一度)虎の背に乗ると(もう)降りられない”って奴なのだろうか。権力(主義)の慣性と論理だ。
 それでも、ブログ見ると、田壮壮、それなりに作品発表し続けているようだ。
 章子怡(チャン・ツィイー)が3世代・3役演じた《 ジャスミンの花開く 》原題:茉莉花開(2004年)に、彼も制作総指揮ってポジションで関わっていたとは知らなかった。
 この《 青い凧 》、基本、胡同を舞台に描いていて、土の路、土塀、黒瓦屋根、朦々と壁から烟る白煙、群れなし戯れる子供たちの姿や、土の路からアスファルトの道路への時代の変遷も情緒たっぷり。


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 田壮壮の両親は共に映画(俳優・制作)に携わってきた生粋の映画一家らしい。
 ところが驚いたことに、ここでもあの江青の影が禍々しくとぐろを巻いていた。
 母親の于藍が有名俳優・趙丹と共演した《 不屈の人々 》原題 ; 烈火中永生(1965年)に、自分も原作が気に入って撮りたかったのを横取りされたと怨んで、わざわざ撮影所までやってきて難癖をつけたという。2年後、文革の嵐が吹き荒れ始めると、早速、于藍と夫の田方ともどもに“反革命分子”のレッテルを貼られ追及され投獄されてしまう。詳細はつまびらかじゃないけど、そもそも江青の目の上のタンコブ=趙丹と共演したとばっちりもあったかも知れない。田方は獄死したが于藍は生き延びた。が、獄中の身体的トラブルで女優の路を断念し、制作の方に専念することになった。
 その時の体験がこの映画にも反映しているらしい。
 3番目の党幹部の義理の父親の邸まで押しかけてきた紅衛兵の一団に、義理の父親が指弾され持病の心臓病を発症してもそのまま追及集会場か何処かへ連れ去られようとするのを、見かねて止めに入った母親も紅衛兵たちに暴力を揮われ一緒に連れて行かれてしまう。まだ少年の鉄頭も何とか母親を取り返そうとするも多勢に無勢、思い余ってレンガを手に紅衛兵の一人に殴りかかりはするものの直ぐに袋叩きにされ、地面に臥(よこた)わったまま、ふと空を見上げると、木の枝に引っかかった藍い凧が風に小さくなびいていた。原題の《 藍風箏 》の藍って、母親・于藍の藍でもあるのだろう。
 しかし、遺憾なことに、江青の名も、名付けた者が、“青出於藍更勝於藍”から取ったらしい(別の説もある)。彼女の上海女優時代に使っていた“ 藍蘋(あおりんご) ”から発想したのだろうが・・・


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監督 田壮壮
編劇 肖矛
音楽 大友良英
樹娟 呂麗萍
少竜 濮存昕
李  李雪健
制作 北京電影製片廠(1993年)

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2016年12月23日 (金)

インド=ボリウッド 旅先のポストカード

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 旅先の見知らぬ街や路地裏で、ふと見つけた絵葉書(ポストカード)って、それが安っぽく通俗的なものであればあるほど、ポップでキッチュな味わいってものが醸し出されてて、つい手にしてまう。
 その典型がインドの神様絵葉書や映画俳優絵葉書だろう。
 かつてイラストレーター横尾忠則が彼の土俗的サイケデリック世界のモーメントとして好んで駆使してた世界でもある。
 部屋の戸棚の奥のぶ厚い封筒の中に20年近くの歳月( 一瞬ドキッとさせられてしまう言葉だ )を経た、まだまだ残っている何枚かを取り出してみた。


 ギータ・バリ

 1930年生まれの1965年死亡(天然痘が死因)故って訳でもないんだろうけど白黒写真に着色した何ともレトロな仕様で、発行所がボンベイ(デリーの住所も)ってのが、如何にも時代を感じさせてくれる。
 大部以前、グル・ダットと共演した《 バーズ 》(1953年)を紹介したことがあった。男まさりに剣を振りまわす愛らしいお嬢様役を好演してて、表情豊かなこの時代を代表する女優の一人らしい。でも、35歳で病死とは早すぎる。
 グル・ダット監督作品にはこの《 バーズ 》も併せて3回出演してて、この作品だけダット本人と共演。他の2作は、売れっ子男優デヴ・アナンダとの共演。
 まだパキスタンがインドから分離独立する前のパンジャブで生まれ、その後アムリトサルに長く住んでいたようだ。アムリトサルといえば、ヒンドゥーとイスラムの中間的な宗教らしいシーク教の本拠地で、彼女の父親もシーク教の宗教音楽歌手でもあり哲学者でもあったという。
もし長生きしていれば、1984年のアムリトサルにあるシーク教本山にたてこもったシーク教徒過激派をインド軍が襲撃し多くの犠牲者を出した“黄金寺院事件”を経験することになったろう。


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 ラタ・マンゲシュカル

 インド映画の女性プレイバック・シンガーとして有名過ぎるぐらい。
 唄った曲が何万曲というギネス記録すら持っているらしい。
 1927年生まれで、現在も元気で活躍しているようだ。
 彼女の存在を初めて知ったのは、イラン→パキスタンで一緒になったカメラマン氏に教わった時で、イランから西パキスタンの要衝クエッタに入ると早速レコード屋に走り彼女のミュージック・テープを買い求めていた。
 若い頃の彼女を知る訳もない当方だけど、聴かしてもらって、当時60歳代の彼女の歌声って、インド独特の文化的産物だなと感心してしまった。大御所然として悪くはないのだけれど、やっぱしも少し若いアルカ・ヤグニクの方が声が艶やか。
 
 1960年代、彼女は男性歌手マダン・モハンとコンビを組んでヒットを飛ばしていたらしい。マダン・モハンは中東イラク・クルディスタンのエルビル生まれのインド人で、7歳ぐらいの時家族と一緒にパンジャブに戻ってきたという。ガザール(宗教音楽)歌手であり、作曲家、音楽監督でもあって、シャールーク・カーン&プリティー・ジンタ主演の《 ベール・ザーラ 》(2004年)でも、ラータ&マダンと同世代の監督・プロデューサーのヤシュ・チョプラの思い入れだったのか、30年前に亡くなったマダン・モハンの曲をラタ・マンゲシュカルと他の男性歌手とのコンビで唄わせていて、中々雰囲気があって良かった。その音楽だけのメイキング映像が別途一枚、映画のDVDに封入されている入れ込みよう。
因みに、モハン、クルド育ちといってもイスラムじゃなく、ヒンドゥーらしい。


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 シュリ・デヴィ
 
 本物のボンベイの路上生活少年少女たちを主人公にしたミーラー・ナイール《 サラーム・ボンベイ 》(1988年)の映画館の場面で、少年たちが画面に映し出された人気女優のダンス・シーンに合わせて客席で踊り出すシーンがあった。その銀幕上でインド中を席巻した彼女の代名詞ともなっていたらしい“ハワ、ハワイー”を踊っていた女優こそが、シュリ・デヴィだった。彼女の名と姿を日本国内でマイナー・ヒットしていたその映画で初めて知った。
 劇中での歌や踊りって、何もインド映画だけのものじゃなく、邦画界も嘗ては東映の時代劇なんかもやっていたのはレンタル屋で確認できるだろう。そういえば、相当昔、どこぞの名画座で、高倉健・三国連太郎・北大路欣也・小林稔侍なんかが、埃っぽいスラム街で、ハリウッド映画を標榜したらしい歌と踊りのシーンがはじまり、マジすか!と暗い客席で両の眼が点になったのを記憶している。深作欣二監督の《 狼と豚と人間 》(1964年)だった。 
 
 1963年、南インド・タルミナドゥー州生れ。
 小さな頃から映画界に入り、ローテイーンの頃にはタミルや他の南インド諸州の映画に出演し、ブロックバスター・ヒットした有名男優ジータンドラと共演した《 ヒマトワラー 》(1983年)で、本格的なボリウッド(ヒンディー映画)・デビューを果たしたってことらしい。
 彼女の名を不動のものにしたのは、やっぱり1989年の《 チャンドニィー 》のようだ。
 ヒット・メーカーのヤシュ・チョプラが監督し、得意のダンスも人気を博した、80年代を代表する映画の一つともいわれているらしい。
 パキスタンはペシャワールの、もうなくなったが90年代初頭まだ営業していた《カイバル・ホテル》に泊まっていた日本人娘が、シュリ・デヴィの大ファンで、わざわざレンタル屋でその《 チャンドニィー 》のビデオ(当時はカセット式)を借りて、旧市のバルーチだったかパシュトンだったか忘れてしまったがその部族専用宿に泊まっていた長期滞在の日本人の部屋でみんなで観たことがあった。“チャンドニィー、オ・メレ・チャンドニィー”と唄いながら画面のシュリ・デヴィと一緒に踊り出してのを覚えている。

 2012年に、《English Vinglish》(邦題 マダム・イン・ニューヨーク)で、15年ぶりにカンバック。


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2016年12月10日 (土)

1995年 夏の北京

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 1995年7月上旬、夕刻に北京空港に到着。
 初めての北京ってのもあるけど、余り嬉しい時間帯じゃない。
 けれど、日記を読み返しても、どうにも記憶が甦らない。
 その六年前の、海外旅行から中国行から何から何までもが初めてだった上海空港の、すっかり夜の帳もおりた暗闇の中に、群がり蠢く薄明かりに照らし出された胡散臭げな男達が一斉に声をかけてきた時のリアルな迫力は記憶に刻まれているんだけど。
 それはタクシーの運転手たちだった。
 当時はまだ天安門事件の余韻醒めやらぬ時節で、その上、当時中国で相次いで邦人殺害事件も起こり始めていたこともあってか、首から大きな身分証を提げたおばさんたちが、運転手達の間に立って大丈夫かどうか受け合ってくれていた。面喰らい、心細くもありながらも、ままよ! とばかりその運転手のタクシーに乗り込んだのであったが・・・正に中国映画の、暗い夜闇の一コマ、影絵の世界であった。


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 が、もう中国自体がそんな状況じゃなくなっていた時代の北京ではあったものの、さっぱり不案内で、やはり一筋縄ではいかなかった。
 空港ターミナルからリムジンで北京駅まで行ったのはよかったが、目指す《 北京僑園飯店 》行の20番のバスの乗場が見つからず、あたりは次第に暗くなってくるし、仕方なくタクシーに乗る。とりあえず30元に値切った。
 ところが、天安門から前門へと進んだ後、まっすぐ運河の方に向かわず突然右折してから運ちゃん、延々と少し行っては通行人に路を尋ねまくり、その毎に毒づきつづけた。その知らぬ態の真偽の程は定かじゃないけど、地方からの出稼ぎ組だとあり得る話で、すっかり諦めた頃、するりと 《 北京僑園飯店 》の看板の前に止まった。
 入口に坐っていた青年に尋ねると、あっちに票処があるからあっちへ行けと言われ歩いてゆくと、《 国家教育委員会留学生招待所 》の看板があって、そこのガードマンに"駄目だ!"とけんもホロロに追い返されてしまった。先っきの青年を連れて行って試みてもやはり不可。 結局、その同じ通りの先にあった《 北京永定門飯店 》にチェック・イン。時計は10時を廻っていた。ドミトリーはなく、三人部屋を借りきりで何と、99元。泣く泣く100元札を一枚渡した。部屋は、ソファーにテレビ、テーブルも備わった中国宿の定番だったけど、上海の浦江飯店なんかと較べようもない代物。水浸しの狭苦しい共同のシャワー室に白人の泊客たちが素っ裸で押し合いへし合いしているのを見て辟易し、食事もとらず、パンツ一丁で寝てしまった。
 何とも蒸し暑い北京の夜ではあった。
 100ドル=821元


A

 翌朝、早速ホテル横のバス停〈沙子口〉から、25路のバスで虎坊橋の《 遠東飯店 》を尋ねた。
 一番安い部屋で95元という。
 《 北京恵中飯店 》は見つからず、やむなく《 北京永定門飯店 》に泊まることに。
 尤も、5日分先払いで75元ってとこに落ち着いたが。
 今回の北京行の目的は、未踏の中央アジアに一歩踏み入れるための先ずはカザフスタンのビザ取得と、上海じゃ幾度も観ていたもののやっぱり本場北京での京劇鑑賞って訳だった。結論から先に言えば、大スカ! やっぱり北京だった!


 次の日は懸案の本場の京劇鑑賞ってことで、45路のバスで天橋まで行き、そこで乗り換え、王府井で降りて東単から王府井大街へ。王府井横にあるはずの王府井書店は無人の廃墟と化し、吉祥劇院のあるはずの金魚胡同の広い一角までもが、何と工事中。
 これが北京一の繁華街なのかと眼を疑った。
 青いシートと上空を舞う白っぽい工事の塵埃ばかり。
 天橋劇場も外壁が残っているだけ、あった首都劇場は京劇じやなくて現代劇の方だった。
 王府井近辺に行けば、庶民的な小さな京劇院もあるはずだったのが、一軒も見つからなかった。
 マジすか!
 雲南の州都・昆明の旧市街の壊滅的再開発さながらって訳で、訪れた時期が悪過ぎた。
 結局、前門にある前門飯店の中にある外人観光客御用達の梨園劇場で、テーブルで飲み食いしながらの白人観光客たちと一緒に、勿論後方座席には地元の中国人たちも陣取ってはいたけど、孫悟空なんかを観る羽目になって・・・心底情けなかった。


C

B


 建国門にあるCITS( 中国国際旅行社 )ビルに行き、あっちこっちの旅行会社や事務所でカザフスタンのビザが欲しいのだけどと訊いて廻るも、何処も不可能で、自分でカザフ大使館に赴いて取りに行く他ないと言う。《 地球の歩き方 》を読んでみると、バウチャーを作ってもらってから自分で大使館に取りに行くという手筈のようで、どうもCITSビルに入っている旅行会社じゃまず無理。のっけから、本場の京劇も中国からのカザフ=中央アジアへのアプローチも頓挫し、今回の中央アジア行自体断念する他なくなってしまった。( 最終的には、雲南・昆明から空路バンコクって運びになり、東南アジア行に変更。)
 因みに、この建国門の大使館街の並木って柿の木で、随分と大きく、既に青い実が沢山なってて、秋にはさぞ壮観だろうが、やがて熟し始めると次から次へと落下して、舗道は潰れた柿の実で鬱陶しい事態になるのじゃないだろうかと、他人事ながら気になってしまった。


 この頃の北京はともかく蒸し暑く、窓の少ない風通しの悪いバスの女性車掌も犬のように喘いでいた。
 32、3℃にもなる部屋には一応四角いファンが置いてあったけど、首の回らない固定式だった。殆ど、つけっぱなし。
 近くの果物屋の店頭には、桃、西瓜、マクワ瓜、ハミ瓜、葡萄、リッチー(茘枝)、マンゴー、バナナ、プルーン果ては椰子の実まで並んでいた。茘枝はあっちこっちで売られ、旬なのだろう。中国桃(3斤で10元 : 1斤=600グラム)を買った。味は悪くはなかった。

 
 ハルピンは治安が悪く、最近留学生がよく殺されてて、陽が落ちると誰も外出しないと嘆いていたハルピンの日本人留学生は、最初ぼくにシェアーを求めていたが、結局、他の日本人と3人部屋をシェアーし、一人74元と言う。彼は毎回北京を訪れた際には、件の《 北京僑園飯店 》に泊まっていたのが、今回工事中につき閉鎖中で、やむなくこの《 北京永定門飯店 》に泊まることとなった由。来月には再び営業を始めるらしく、服務員の態度も良く、ワン・ベッド幾らだと言う。このホテルも、今月17日から修理のため営業停止らしい。
 もう、北京中が工事、工事、営業停止って最悪の状況だ。

 雲南コースに変更したため、部屋代の高い北京には長居は無用ってことで、北京駅に昆明行の列車チケットを買いに行った。
 向かって右側の入口から入り、左奥の外人客用の待合室の奥にある国際旅客のチケット売場で、申込用紙と10元の手数料を払って、所定の窓口に持っていってチケット代を支払う。
 硬臥=568元。
 ホテルが閉鎖になる前日の16日発。
 2泊3日(53時間)の旅で、夕方5時頃昆明に到着予定。
実は、乗った後になって、この列車が実はエアコン車両だったのに気いた。
 よく見ると、チケットに“空調”と記してあって、初めての中国エアコン列車体験となった。



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2016年11月26日 (土)

憑依的現象論 小説《 血と霊 》 

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 帝都を震撼させた関東大震災の起きた大正十二年( 1923年 )、日活(向島)で、映画の新しい波=ドイツ表現主義のおどろおどろしい恐怖映画《 カリガリ博士 》ばりの表現主義的趣向の作品を作ろうと、その年デビューしたばかりの溝口健二監督の、《 血と霊 》が撮影された。
 当時、彗星のように現れ、すっかりベストセラー作家となっていた大泉黒石が、日活の脚本部専属として原作を書いた恐怖・探偵物映画であった。《 カリガリ博士 》と同じ雰囲気を狙ってか、ドイツの小説家・ホフマンの《 スキュデリー嬢 》を元に、異国情緒漂よう長崎を舞台にした禍々しい呪われた血の相克劇にしたてあげた。映画とタイアップし、映画封切りより前の、七月に春秋社から、他の短編と合わせて短編小説集として同じタイトルで出版された。〈巻頭〉、こう記してある。


 「 読者姉兄へ

  私は日本活動写真株式会社向島撮影所に新設された脚本部へ顧問として入社しました。そして著作のひまひまに向島撮影所に出かけます。そこで従来作られてゐた新派映画とは無関係で、私の作品を撮影する事になつたのです。これが会社としては既に行き詰まつてゐる日本映画改革の第一歩らしいのです。その宣言の手始めに作るのが、この一巻に収めてある『 血と霊 』。それから『 絨緞商人 』と云ふ順序になり、いづれも純表現派(エキスプレッショニズム)の形式で撮影してゐます。だから、今月の初めでなければ来月の末に映画(フィルム)となつて、皆さんの前に現はれるでせう ・・・・・・
                         一九二三年六月下旬  」
        
          
 《 絨緞商人 》の方も“撮影してます”とあって、つい真に受けて 《 絨緞商人 》のフィルムも本当は残されていたのか、一切はあの関東大震災によって灰燼に帰してしまったのかとミステリアスな伝説にもう一つ項目を増やしたくなってしまうけど、その後 《 絨緞商人 》の撮影に関して取りざたされてないのだろうから、まずタイアップの予定の先書ってところだろう。

 “ 霊の生活は血の中にあり ” 

 この観念って、当時(大正)流行ったらしい劇作家ストリンドベリや精神学者ロンブローゾの影響らしい。
 そう、まさに“血”。 
 “ 霊は血にあり ”とは、個々一人ひとりの血の中にそれぞれ霊が棲んでいるということなのだろうけど、その霊って、旧約・新約キリスト教世界的常識としては神の霊(性)ってことになる。ところが、この物語では、“憑いた霊”と称され、悪霊をすら含んだ八百萬(やおろず)神的な超越的存在( 古代日本でも“チ”=血という概念で、同様に自然の生物・無生物には精霊“スピリッツ”が宿っているという概念を指し、又、人間の生命力の根源も血にあるとする。つまり、古代世界的に通底した、アニミズム的発想。ふと、以前黒石が《 草の味 》で論じていた植物の葉脈と人間・動物の血の同一性を想起してしまう。)、霊一般的なものとして考えられている。
 この時代は、戦後ほど分析的じゃなく大雑把だったようで、黒石も“整合性”なんてものを“姑息”に逐一斟酌することもなく、一気呵成に筆の赴くままに展開している。以前に紹介した秀吉の朝鮮侵略の頃の平城を舞台にした短編《 不死身 》でも、丁度ホラー映画《 エクソシスト 》のプロローグを彷彿させるような、エクゾチックな雰囲気を演出しようとアラジンの魔法のランプの魔精( ジン )の如く、当時の日本人になじみの薄い回教(イスラム)の神を異教の神として登場させ、それを又、“ 悪霊 ”とも呼んでいた。
 それはさておき、もう少し霊=憑依に拘ってみるために、大まかなあらすじを記しておこう。


 南京から異国・長崎に移り住んだ宝石商・鳳雲泰、実は、母親ゆずりの宝石に対する異常な偏愛的性向が、母親が死んだ( その病を悲観して夫、つまり雲泰の父親が殺害 )年齢と同じ四十三歳に達するやいなや、夜な夜な支那人街での宝石がらみの殺人行に及ぶこととなってしまった。
 そして、それも束の間、深夜、店の顧客の白人が持っていた宝飾懐中時計を奪い返そうと襲いかかり返り討ちにあって、ついに弟子の牛島秀夫の眼前であえなく絶命。
 捨子だった秀夫(雲泰が、わが子同然に可愛がって育てた)が、あろうことか、雲泰の一人娘・アシと恋仲にあるのを知って、雲泰は、断固反対し、別れさせていた。母親からの“呪われた血”を、更に蔓延させてしまう恐怖からだった。
 ある夜、自分の正体を秀夫に知られてしまい、雲泰は血の秘密を打ち明け、秀夫一人の胸に秘すことを誓わせた。そして最後の夜、よりによって秀夫が雲泰を殺害した犯人と誤解され官憲に捕縛される。怪訝に思って牢獄に面会に訪れた女流画家・杉貞子( 雲泰が傾倒して彼女の描いた絵を多数収集し、その故に、そもそのこの事件の発端となった人物 )に、秀夫は“呪われた血”の真相を告白してしまう。
 原作といわれているホフマンの《 スキュデリー嬢 》では、その後も長々と救出劇が展開されるようなのが、黒石はここで物語の幕を下ろしてしまう。秀夫と雲泰の娘・アシがその後どうなったのか、雲泰の遺言にしたがって子供を作らなかったのかどうか、いわんや娘・アシが母親と同じ年齢に達した時、“呪われた血”が鬱勃と姿を現すことになったのかどうかも不明のまま。


 次に、霊に憑かれた雲泰の如何ともしがたい心的現象を列挙してみると、  

 
 「 其四十三の夏を迎えた俺は、不意に波打ちの轟きを胸の奥底に、聞いたのだ。・・・」


 「 俺は自分で自分が解らなくなり、物凄い血のどよめきを五体の隅々まで感ずるのだった。『 殺せ!殺して取り返せ!』さう云う、重苦しい声が、どこからとも伝つて来て、俺に命ずるのだ」


 「 全く、卑しい、まっ暗な、そして、俺の力では打ち勝つことの出来ない、神秘(ふしぎ)な、そして非常に、非常に厭らしい不浄な、目に見えぬ力に心を握り絞られてゐたのだ。その不思議な力は、俺の心を暗まし、俺に眼かくしをして此處へつれ出したのだ・・・」


 圧倒的な霊の力に、雲泰は有無も云わされず、紅い宝石奪回のため顧客たちを鋭い刃で屠りつづけてきたのだけど、“常識的”に考えると、いつの間にか分け入ってきた“声”とは、現実と拮抗する自身の、いわゆる自問自答的な内面の声に過ぎなかったのが、情緒的あるいは環境的な不安定・軋轢によって、内面のバランスが崩れ亀裂が走って生成されたいわゆる病的現象( あるいはひょっとして下意識的本能的なバランス回復作用としての衝動 )=分裂的な多重人格的な声となって“威力”まで帯びてしまったものじゃないのか。
 心奥からの圧倒的な威力を発揮する声(言葉)って、普通には、何らかの身体器官的・精神的な病的発現=症候群って判断されてしまう。それが親子に継続的に発現したとなると器質的“遺伝”。
 ところが、これが“霊”的な存在(者)から発現したものとなると、あくまで自己と対峙するものとして、その霊的存在(者)が自身の肉体に巣食ったものなのか、自身の外、外部から働きかけてくるものなのかが問われる。
 外部なら超越的存在(者)ということだろう。
 普通、神的存在(者)を意味するものの、昨今、これには宇宙人も含まれ、更にもどきとして、番外にこの数十年来の科学的魍魎“電磁波兵器”までが控えている。  
 勿論、ここじゃ、“ 霊は血にあり ”なんだから、自身の肉体、その根源としての血に巣喰ったものってことになる。


 プロローグの、〈私〉とその友人の物理学者との問答の中で、一つの定式(仮説)が、物理学者によって提示される。


 「 此処に一つの、妙なる美しきものがありますね。よろしいか? あなたに限らず誰でも、それを一と目見た瞬間の、恍惚とした感情を禁ずることが出来ない、とします。その讃嘆の念は、やがて一つの憧憬となり、次には欲望、占有と云った情に変わります・・・・・・つまり、こゝにあらゆる同形同質の美に対する独占の欲望が起こることになるわけです。これは自然の勢ひではないでせうか?」


 「 この熱望が、その爛熟、沸騰点に達するときを考へるものです。もしもそのときに、或る一つの大きなショックがあつて、熱望に駆られ、夢中になり、美を求めてゐる人の心や肉体を、たゞ一撃の下に粉砕し去るならばです。・・・・・・
 甲の熱情が、甲の肉体の瞬間的な破壊によつて跳び去るとき、その熱情や意志は、エーテルの波動と同じく、乙に伝はるか、さもなければ、殆んど同質同形の血液をもつた他の人に感応するものです。」


 「 美しきものに対する極度の憧憬である場合の、所謂遺伝なるものは、自らまた異なってゐると云はねばなりません──つまり趣味の遺伝です。」


 あまり明晰な記述の仕方じゃないけど、プロローグの最後に、“趣味の遺伝”と明示され、その具体例として語られたのがこの物語であり、雲泰の母親の奇態であった。
 これって、世間によく散見される、ある“欲望”が昂じてタガがはずれ底なしの肥大化の果ての自滅という欲望追及の論理的帰結とも観れる。
 でも、これが、“趣味の遺伝”と予め明示されていることから鑑みると、息子の雲泰の方で、それが憑依として語られているってことは、そもそも母親自身が既にその異常なまでの性向・器質を彼女の親族(両親)から遺伝によって受け継いでいたのかも知れないという可能性を排除するものではない。
 あるいは、母親が彼女の43年の“生”の過程の何処かで、何らかの理由で、(悪)霊に憑依されたために、息子・雲泰と同様の尋常ならざる執着・妄念を余儀なくされてしまっていたという可能性をも。当然その場合、母親にも、霊(=声)は絶対的威力をもち、猛威をふるっていたってことになろう。
更に、ひょっとして、雲泰に見られた暴力性を、物語上じゃ触れられることはなかったけど、ひょっとして母親も有していたのではないかという可能性も。( あるいは逆に、母親には見られなかった暴力性を、何故に雲泰がのみ顕現するに至ったのだろうか、と問うこともできよう。)

 一見、憑依と遺伝って、相矛盾する概念のように思えてしまう。
 そもそも、憑依って、あくまで外部から当事者に取り憑くことを意味するし、遺伝とは、代々その当事者の親族(先祖)から受け継ぐものであって、その当事者の人生の過程のある時点で鬱勃と顕在化してくるものだろう。
 この両概念の整合性を、しかし、黒石は、計ることなく物語の脈絡のダイナミズムで押し切ってしまう。元ネタのホフマン作《 スキュデリー嬢 》の中にその契機があった。
 《 スキュデリー嬢 》では、懐妊中の母親が、貴族に抱き寄せられた際、彼女の心を奪った貴族の首飾りに触れた刹那、貴族がその場で脳卒中で死亡し、死体に抱かれたままの状態で助け出される。胎児の時に母親が経験したこの恐怖が、生まれてきた子供の犯罪に結びついたとされる。これが、この物語《 血と霊 》の塑形なのだ。
 《 遺伝と感応  大泉黒石の『血と霊』 》で中沢弥は、ストリンドベリの影響をあげながら所謂先天的遺伝と微妙に異なるこの憑依的遺伝を“胎内感応”と呼びこう規定している。
 

 “ 親の血に流れている性質が血を通して遺伝するだけでなく、妊娠時の母親の経験や感情が胎児に影響する ”


 でも、昔からこの両者を包含する概念はあった。
 巷間、奇態な憑依現象が代々現れる特定家族を指して、“憑きもの筋”と呼び慣わされてきた。昔から閉鎖的共同体内では疎まれ、その被害を回避し、あるいは補償するものとして様々な方策が採られてきたようだ。
 その悪霊、日本だと“狐憑き”が有名で、タイじゃ“ピー・ガ”といって家系に憑くのも存在するらしい。
 タイ(カンボジア)風にちょっと戯画化してみると、雲泰の母親が誰かに強く疎まれ、その人物が呪術師(モー・ピーあるいはラーンソン)に頼んで悪霊を憑かさせたに違いないという、彼地じゃ現在でも日常的茶飯事らしいおどろおどろしさも倍増の憑依譚となってしまう。
 その上、タイには、そんな人間関係的しがらみとは別個に、ピーパー( 森の霊=浮遊霊 )といって、森に潜んでいて人間や動物に憑き、その人間・動物が死ねば他の動物に憑いてゆくのもいる。デンゼル・ワシントン主演の映画《 悪魔をあわれむ歌 》でも、これに似た人間や動物に憑いて悪事を働く悪霊( 悪魔ベゼル・ブブ )が、次から次へと秒単位で通りを歩く人々に憑依してゆく様が不気味に描かれてもいた。


  『 血と霊 』 大泉黒光 (春秋社)1923年7月


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2016年10月24日 (月)

大泉黒石+溝口健二=血と霊(1923年)

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 先だってネットでめったにおめにかからない大泉黒石に関する記事があって、確かめてみると、何と大泉黒石が原作の映画に関する論文であった。
 マジ? と、驚き、更にその映画のメガホンをとったのが、誰あろう溝口健二とあって二度びっくり。
 映画のタイトルは《 血と霊 》。
 その黒石の原作もその一つとして小説集が出されていたという。
 その短編集の目次には、知っているもの、既読のものも含まれていたけど、《 血と霊 》はまったく未知の作品で、その次に映画化される予定であったらしい《 絨緞商人 》は《 黒石全集 第7巻 》に入っていたものの未読。


V

 ( 大泉黒石 。誰にそそのかされたのか、俳優としてデビューしようとして日活にアプローチしたという。)

 
 このサブタイトルが同じ“――大泉黒石の『血と霊』――”なる中沢弥の二篇の論考、一作目が《分身と憑依》(1999年)で二作目が《遺伝と感応》、小論ながら、周辺的なところをよく調べていて色々参考になった。
 その流れで、映画評論家・四方田犬彦すらもこの映画を、溝口健二と大泉黒石の両面からアプローチした評論《 大泉黒石と表現主義の見果てぬ夢 ――幻の溝口健二『 血と霊 』の挫折――》(月刊新潮 2015年9月号)を発表していたのを知った。
 この四方田の雑誌にしては長目の論考の冒頭、2007年1月に東京・パルテノン多摩で、とっくにフィルムの消失してしまったこの幻の映画の、数少ない残存スチール写真やシノプシス(あらすじ)等を総動員して復元を試みた企画があったことを紹介している。1923年(大正12)の無声映画作品だった故に、活動弁士とピアノ伴奏まで駆使したものだった。


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 ( 映画「血と霊」のスチール写真 )
 
 
 ぼくも以前このブログで、中薗英助の《 何日君再来物語 》の絡みで、1939年の中国映画《 孤島天堂 》(監督・蔡楚生)の何者による如何なる意志の下にか定かではないけれど、珍妙な風に前後関係を編集し、あるいは主演の黎莉莉が、当時上海・中国で流行っていた“何日君再来”を唄ったシーンが消去された不可解極まるフィルム構成を、せめて前後関係でもってところで再構成=復元を試みたことがあった。この時は、まがりなりにも一応フィルムは欠落巻はともかく存在しビデオにすらなっていたので可能だったけど、その肝心のフィルムが無いとすると如何ともし難く、スチールとシノプシスや原案たる黒石の同名小説を頼りに復元・再構築してゆくというのは本当至難の業。要は“群盲象をなぞる”の類だからだ。

  
 大正12年(1923)というと、黒石の全盛時代、現在じゃ名監督の一人として名高い溝口健二はこの年にまだデビューしたばかり。いわば日活(向島)の期待される新進気鋭の新監督ってところ。折から、二年前1921年に公開され映画関係者に強い衝撃を与えたドイツ(表現主義)映画《 カリガリ博士 》の余韻がようやく国内映画関係者の間で熟成しはじめ自分たちの“表現主義”的な作品の創出って気概も高まりはじめた時節であった。ジャンル的には恐怖・探偵映画。恐怖映画の始祖・プロトタイプと現在でも目されているらしい。 


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 ( 「カリガリ博士」とフォルムを異にした「血と霊」の美術セット。)

 この頃日本の映画界変動の時節だったようで、それまで歌舞伎と同様いわゆる女形が女役を演じていたのが西洋並みに女優を起用するようになり、後年の映画監督・衣笠貞之助の如くそれまでの女形俳優から脱却して一挙に監督に転じたりした者まで出てきた。
 この映画《 血と霊 》の主演女優・江口千代子もその娘役・酒井米子も女優。
 酒井米子は色々話題豊富な女優だったらしく、新劇の方で活躍していたのが芸術座で島村抱月が彼女に懸想したと松井須磨子にねたまれ確執となって力関係でか遠ざかり、世過ぎに一時芸者すらして映画会に入ったいう。
 外の映画会社が次々と新しい状況に対応した体制造りに入っていってゆく中、一歩遅れた日活(向島)も転機とばかりの一投石だったようだ、当時何を思い至ったのか仲間の口利きで映画俳優になろうと日活に接近した黒石、待ってましたとばかり既にベストセラー作家だった黒石を、俳優としてじゃなく、早速脚本部に採用してのなりゆき。
 大泉黒石=辻潤なんて交友圏には石井莫はじめ演劇関係者なんてざらで、その伝手なんだろうが、そういえば辻潤すらが舞台に立ったことがあったのだから、そう奇矯なことがらでもない。いわんや黒石って日露のハーフ故に息子の大泉晃より一枚上手のイケ面だったから尚更。只、長州出自の割には随分とバタ臭い風貌の日本歌謡歌手・藤原義江はその欧州帰りってところが売りだったのだろうしあくまでオペラ歌手ってところで付加価値だったにしても、大画面に現れる映画俳優としては、まだまだ違和感があり過ぎてなじまないと判断されたのだろう。息子の晃はクォーターなので大部白人臭も薄らいでいて、戦時下にあっても堂々と名子役としてデビューできたのだろう。
  
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 ( 演劇界で増井須磨子と覇を競ったという酒井米子。この後も何作か溝口健二の作品に出ることになる。)

 
 まず映画の冒頭、スクリーンに、つぎの文言が提示されたという。


 「 『 霊の生活は血の中にあり 』と旧約聖書にあるが、血の中には恐らくある種の神秘が潜んでいる。しかしそれは一切の聖餐礼が不可解であるやうに、私たちの智恵や判断ではとても解釈のできないものである。」

 
 黒石、時間的余裕がなかったからか、流行りの《 カリガリ博士 》を意識してか、同じドイツの作家・ホフマンの《 スキュデリー嬢 》を元に独特の黒石世界を展開してみせた。
 中沢的には“分身と憑依”、“遺伝と感応”であり、四方田的には“孤児流謫”、“異邦人の血の宿命”ってとこなんだけど、二人とも黒石の十八番ともいえる中国志向(シノワズリー)を指摘し、四方田はこうも言っている。


 「 黒石が強調しているのは、長崎が歴史的に形成してきたエスニックな多元性である。江戸時代に鎖国政策の中にあって唯一例外的に、清国人とオランダ人の居留を許可してきた都市という事情が、この地にコスモポリタン的な雰囲気をもたらした。黒石にとって長崎を語ることは、混血児としてのみずからの起源を語ることに他ならないことだった。《 血と霊 》という小説は、こうして、『 土地の精霊 』 都市の固有性を前提として成立した作品である。」


 《 カリガリ博士 》の大胆な独特の象徴主義的意匠(セット)とは又一種別様の暗鬱な不安神経症的なフォルムにおしなべられた空間(セット)の下、長崎の中国人宝石商と日本人女流画家の織り成す赤々と血塗られた秘話。
 当時の《 キネマ旬報 》に内田岐三雄の映画《 血と霊 》の要約がある。


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 ( 鳳雲泰を演じた水島亮太郎)


 「それは或る街の出来事であつた。何の目的で行はれるのか犯人は誰であるのか解からない不思議な殺人が毎夜の様に街の人々を戦慄させてゐた。併し或る夜、宝石商人鳳雲泰の弟子牛島秀夫が、彼れは鳳の娘・アシと恋仲であつたが、鳳の死体を担いで街を通った事がある。そして牛島が犯人として捕へられてからは殺人がパッタリ止んだので人々は牛島こそ犯人であると思った。併しその後、矢張この渦中に巻き込まれた杉貞子といふ画家が獄中に牛島を訪ねた時に彼れの語るを聞けば、真の犯人は鳳自身である。鳳は宝石に対する極度の誘惑を感じた。それは鳳の母からの遺伝であつた。宝石に対する誘惑は遂にその所有者を殺して迄も、宝石を得んとする行に出たのである。而して、最後には鳳も酔漢と争つて却て己れの死を招いたのであつた。」


 当時は文字通りまだ異国情緒たっぷりだったろう長崎は中国人街“籠町”を舞台に、連綿と続く人間的業の紅蓮の炎燃え盛る相克図。
 映画評論家・四方田犬彦はこの映画の失敗をこう分析する。
 

 「 溝口健二による《 血と霊 》の脚色と監督に欠落していたのは、原作者がかくも拘泥した長崎という都市のローカリティであり、エスニシティであった。」


 「 溝口健二は原作小説を単純に、猟奇殺人をめぐる探偵物語であると了解した。彼は表現主義の衣装や舞台装置に興味こそ抱いていたが、それが敗戦( 第一次世界大戦 )直後のドイツ人の集団的な心象に起因するとはまでは考えがいたらず、西洋から到来したモダンな流行という程度にしか理解していなかった。そのかぎりにおいて、表現主義は探偵小説と同様、モダニズムの意匠にすぎなかった。」


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 ( 主人公の牛島を演じた三桝豊)


 当の黒石自身はこう反省の辞を記している。

 「 ・・・私は日本の俳優達が、未だ表現派といふものに理解がないのを惜しんだ。今度の『血と霊』に於ても失敗は明らかに此点に多く存ずるのだと思って居る。それは無理な注文かも知れないが、俳優としても、もう少し斯うした方面に理解があって欲しいものだ。此頃第二の作品にかかってゐる。作者としても可成り馴れたりするから、今度製作にかかる時にはこれよりもっとよいものが出来ることと自信して居る 」

《活動倶楽部》(1924年1月号)

 すっかり黒石その気になって次作《 絨緞商人 》の自身の小説をもっと映画化に即した脚本に仕立てようと構想を練ってでもいたような口吻だけど、権力による盟友・辻潤の生命すら危うくした関東大震災の故にか、残念ながらそれは成らなかった。


 尚、先の復元を試みたパルテノン多摩でのプロジェクトで監修を務めた溝口の研究家らしい映画評論家・佐相勉《 1923 溝口健二 『血と霊 』》 1991年刊(筑摩書房)でも、佐相は復元を試みていて詳しいらしい。


 監督 溝口健二
 原案 大泉黒石
 撮影 青島順一郎
 装置 亀原嘉明
 制作 日活向島

 杉貞子(画家)       江口千代子
 鳳雲泰(宝石商)      水島亮太郎
 鳳アシ(雲泰の娘)    酒井米子
 牛島秀夫(雲泰の弟子) 三桝豊
 お里(乳母)         市川春衛


P6

 ( 大正の映画雑誌《活動倶楽部》)


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