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2018年10月20日 (土)

深夜の北京路的哀愁  昆明( 2001年11月 )

Kunming
 


 今早朝、まだ陽の出前の闇空を見上げると、一面雲っぽく濁っていて、南の中空45度の角度あたりに微かに青色の滲んだシリウスがこれ見よがしに輝いていた。
 それにしても、この一、二年、クリアーな夜空ってこの南西辺境州じゃ余りお目にかかることもなくなって、ひんやりとした冷気の中、ふと立ち止まり、辛うじて見慣れたオリオン座や大犬座、双子座、一向に形が把握できないアルデバランやプレアデス(昴)の瞬く牡牛座なんかを辿ることができたぐらい。
 やがて、雲の間に、微細な光点が移動するのが見えた。
 西から東に向かって定速で走る人工衛星だった。
 何処の国の衛星なのかと詮索することもなく、街燈の下、とぼとぼと歩き続けている内、デ・ジャヴにも似た既視感を覚えた。
 

 ・・・街燈に明るく照らし出された深夜の広い歩道・・・場所は、昆明だった。
 旧い木造の建物が延々連なっていた旧市街が市当局によって完膚なきまでに一掃されそのあとにずらり白っぽい中国独特の中層マンションが建てられてしまった年。
 日記を確かめると、2001年11月。
 
 以前は上海や北京から鉄路で向かっていたのが、やがてバンコクからの直行航空便ができてからはダイレクトに飛ぶようになった。
 同じバンコク発のもっと西方を飛ぶバンコク→ネパール便は相も変わらず頻くトラブっていて怖いけど、2時間弱(当時)で中国の辺境・雲南の省都に行けるのは確かに時間的余裕がない旅程の場合は便利なものであった。
 

 バンコクの中国大使館で貰ったのは、スタンプ式じゃなくまだ新しく変わったばかりの貼り込み式のビザだった。時代が少しづつ変わってきているのが実感できた。
 
 
 着いてみると、以前陸路から辿って行った頃と街の様相が一変していた。
 とりわけ中心部はすっかり高層化されいっぱしの大都市の景観を呈していて驚いてしまった。人口六百万の大都市であってみれば当たり前といえば当たり前なんだろうけど。今じゃ地下鉄も走っているという。
 それでも当時(2001年)はまだまだ旧いレンガ造りの褪せた建物が一般的で、潰された旧市街に到底及ばないにしてもそこそこ古都・省都としての佇まいは残っていた。現在は一体どんな風なんだろう。


Kunming_1

 北京路に面した定宿の《 昆湖飯店 》の五階の三人部屋ドミトリー( 20元 )に入る。
 窓側のTVを挟んで右側のベッドに日本人青年、その手前に当方、向かい側のベッドにスウェーデン人の老爺、そして中国のホテルの定番の一列に並んだソファーと小卓、
卓の上の魔法瓶と大きめのカップ、そしてなかなか濃くならない茉莉花茶のティーバッグ。
 前回泊った際は、大通りの北京路に面したベランダが備わってて、下の大通りを眺められ、夜なんか街娼たちが通る男たちに言い寄る光景なんかが覗き見え飽きることもなかったのが、今回の部屋には窓だけ。
 大きなカップでインスタント・ラーメンばかり食べていたスウェーデン人の老爺が体調の関係か常に窓を少しだけ開けていて、夜なんか冷風が入り込りこみ寒くてしょうがなかった。昼間こそ陽光があればそこそこ凌げたものの、陰ったりすると忽ち肌寒くなってフィールド・ジャケットのジッパーを首まで引き上げねばならかった。  
 そのおかげなのか、前から泊っていた日本人青年は、時々咳き込んでいて、やがてバンコクに去って行った。入れ替わりに、広州を廻っていたらしい茶葉の研究家の日本人青年が入って来た。あっちこっちで茶葉を収集しながら旅をしてるという。収集した茶葉で彼のリュックはパンパン。
 名茶栽培農家まで足を運んで専ら筆談で会話し、奥に隠している良茶葉を出させたという。発酵させてないプーアル茶は30年くらい寝かせて置いたりして、良質なものはかなり高価で取引されるとか、土瓶は、茶の香りを吸い香りを薄くしてしまうので、陶器の急須の方が良いんだけど、土瓶も永く使っていると土瓶自体が今まで吸い込んできた香りを独特に発するようになって、これはこれで又味わい深いとか蘊蓄を延々と披歴してくれた。数日後、シーサパンナ(西双版納)に去っていった。


 当方も、昆明の後は、南方の暖かいシーサパンナに向かう予定だった。
 想定外の寒々とした気候のせいか、段々と咳がひどくなってきて、北京路にいっぱい並んでいる薬局の一つで感冒の薬を買った。
 バッファリンであった。
 漢方薬の宝庫=雲南昆明にあって、バッファリンとは。
 高山病の時にバッファリンを服用すると死ぬ場合があるという記事を以前読んだ記憶があって、些かたじろいでしまった。尤も幾ら昆明の標高が高いといっても、高山病になるような高さじゃなく、何日か服用してみた。それでも一向に咳は止まらなかった。
 深夜、これはやばいと森閑と静まり返ったホテルの階段を降り、ガードマンに玄関の扉を開けてもらい、街燈とネオンばかりが寒々と灯った人気の絶えた通りに出た。
 潮騒の如く遠くの人声が微かに響く大通りを、時折車が足早に走り去ってゆくばかり。
 それでもガードマンに教えられた方角にトボトボと歩き続けると、何とか件のこじんまりとした医院かと決めつけていたらそれなりに大きかった病院に行きつけた。

 受付でさっそく4・5元取られ、ガランとした無人の診察室に通された。
 初めての中国の病院だった。
 やがて現れた江青に似た感じの当直女医は、机を挟んで、病状を表現できるような中国語会話能力なんてあるはずもない当方と筆談での問診。
 しかし、何時果てることもない問診ばかりで、一向に実際に脈をすら診ようとはしない。埒もあかず、結局、蹴るようにそこを後にした。
 外の冷気に燻った興奮も忽ちに消え去って、深夜の昆明も珍しく、妙にゆったりした気分で大通りや横丁の、とっくに営業を終えた食物屋の店先で食器を女達が洗ったりしている光景なんかを眺めながらの彷徨は、熱っぽさもあってか、冷んやりとした一種独特に捨てがたい雰囲気に満ちていて、つい夜の果てまでの彷徨って想念が脳裏を過ぎった。

 結局、翌日(正確には当日)早々、バンコクに戻る羽目に。

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2018年9月30日 (日)

 1977年のつげ義春特集 月刊《 ポエム 》

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 表紙に植物のイラストをあしらった130頁くらいの、かならずしも詩の専門雑誌というわけじゃない、次代を担う総合文化誌ということらしい月刊《 ポエム 》昭和52年1月号。 
1977年といえば、前年は、国内じゃ《 ロッキード事件 》発覚で田中角栄、児玉誉士夫らが次々に逮捕され、中国の周恩来総理や毛沢東主席が相次いで死亡し、江青はじめ文革四人組逮捕され文革の終焉、1977年は、青酸コーラ無差別殺人事件はじめ、国内で全日空機が2回もハイジャックされる事件が起き、長崎バスジャック事件もあり、海外じゃ日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件やドイツ赤軍によるルフトハンザ航空機ハイジャック事件も起こったりの些か騒然とした時代。
そんな中での、かの仄暗い路地裏の散歩者然としたつげ義春の特集。
 この雑誌の編集責任者でもある詩人・正津勉の、面識があったのか、あたりさわりのないインタビューじやない、些かつっけんどなアプローチが面白い。
 

  世の中なんかどうでもいい ?
 
 つげ(以下同)「 いいんじゃないですか。」
 

  ずいぶんニヒルな?

 「 そんなことないんですよ。家族三人だけで・・・それでいいんです。天気がいいと三人で散歩に出たりして。」

 
  じゃ、描くことは?

 「 喰えなくなったら、また描きます。なるべく描かないでいられたらいいんですが、喰うほうはやめられませんから。なんだか喰うために描いているようで、まるで『本物』になったようだな。」


 もっとこうシャカリキにやるとか?

 「 いや、やっぱりボーッとしてますよ。生まれつき怠け者なんですが、死ぬまでそうなんでしょうね。」


 喰えなくなる心配はないんですか?

 「 いや、人なみにありますよ。僕の漫画はそんなに売れるという漫画ではないし、それも一年に一作ぐらいですから。」


 不安はないですか?

 「 不安ですよ。だから商売替えしようなんてよく考えることがありますね。湯治場のような温泉宿をやってみたいです。」


 どうにも頑張る気にはなれない?

 「 駄目なんです。仕事したってしようがないとおもってしまうんです。」


 どうしてそうなんでしょうね?

 「 きっと貧乏にいためつけられすぎたからでしょうが、未来がないんですよ。どうしても考えられない。」


 それで青空のようなものがでてきた?

 「 ええ、もう生きていくうえでの関りからすべて解放されたくて、青空のようにまったくなにもない、爽やかで無意味なものに心が惹かれるようになったのです。」


 つげ自身は、物心ついた頃から既に“ 存在の不安 ”に囚われ苦しんでいて、中年に至ったこの正津勉のインタビュー( 昭和52年)の頃に、ようやく何となく解消したと言う。“ 深沢七郎 ”風の人間存在に根拠なし、生きることの無意味性の境位に到達したらしいのだけど、それまでの仄暗い路地裏って定番のつげのイメージと決別し、カーンとした“ 青空”志向へと変容していった時期。
 5年前の《 夢の散歩 》からなのだろうが、確かに、昨今のトロピカル化した日本の夏を思わせるような真っ青な青空と白い入道雲の下での白熱の殆ど人気のない舗道とそこから逸れた泥濘、露呈するリビドー的発露って面白い作品だった。   
 

 この作品に関して、以前紹介した《 芸術新潮 》2014年1月号『 つげ義春特集 』で、つげ自身がこう語っている。

 「 この作品のタイトルは『 夢 』のとしていますけれど、こんな夢を見たわけではなく、リアリズムから発展してこんな風に・・・。でも駄目ですね、説明するのが難しくて。
 ところがその後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法をやっていたんですね。でも自分はカフカ流のマンガでは食っていくことはできないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退して、もとの私小説風に戻ってしまったんです。 」
                                     山下裕二のインタビュー 《 つげ義春 、語る 》


 尤も、実際にはつげ義春、このインタビューの数年後も、妻の藤原マキが癌に罹ってからか、ノイローゼから不安神経症に陥り、自殺をすら決意したという。
 かつて芥川龍之介が、彼の母親が精神を病み入院歴があったのを気に病み、遺伝を危惧しての不安に苛まれ続けたのは有名で、結局彼も神経を病み自殺してしまったけれど、つげの場合も、幼い頃、板前だった父親の出稼ぎ先の料亭に母親に連れられていき薄暗い布団部屋で父の精神を病んで末の無惨な死を面前で視せられたトラウマが、やはり彼の精神の暗部にとぐろを巻きじくじくと浸潤しつづけていたようだ。
 こんな現実の崩落的事象を前にすると、話はちょっと逸れるが、大泉黒石の《 血と霊 》で繰り広げられた転輪する業の連鎖ともいうべき紅蓮の血脈的惨劇、とりわけ宝石商・鳳雲泰の自らの血への不安と恐怖ってものが、単なる絵空事的図式ではない、生々しいリアリティーをもって了解できてしまう。


 《 ねじ式 》(43年)の少し後の同年暮れから昭和51年までの間、机前に端座し只管妄想三昧の夜々、創作ならぬ手慰みに前夜の夢を専らこつこつと描き貯めていたという《 夢日記 》が掲載されている。
 夢の記述とイラストで構成され、いかにもつじらしい世界ではあって、中でも彩色の月光に照らし出された西洋風の木立の間にぽつんと一軒佇む塗壁の洋風民家の脇に湯を湛えた大きな風呂桶ふうの温泉の中で一人悦に入っている姿が、手前の芝の上に点々と白く映えたチューリップの向こうに望める“ 誰にも知られていない温泉”のイラストは独特に夢幻。
 

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2018年9月 8日 (土)

  テロリスムの超克    《 テロルと映画 》 四方田犬彦

Terrorism_1  


  
 七月初めの西日本集中豪雨の際、自民党幹部や若手が夜宴に浮かれていた事件って、なんのことはない翌早朝のオウム真理教・教祖=麻原彰晃はじめ幹部たちの処刑が控えていて、極秘裏にそのカウント・ダウンが既に始まっていたってことの、かつて明治末のいわゆる《 大逆事件・幸徳事件 》( 大半は明治権力のでっち上げ )での幸徳秋水たち計十二名が処刑になった前夜も山形有朋等明治権力の面々もこうだったかと想わせるくらいに、得意の絶頂の祝宴、つまり有頂天ってことだったようだ。
 これって、普通に考えると異常極まりない所作なのだが、そのことに言及・批判したマスコミって居たんだろうか ?
 そもそもがいわゆる《 オウム真理教・サリン事件 》自体が甚だ不明瞭で、平成って時代を特徴づけるように底なしに胡散臭くいかがわしい代物。おまけに、多くの者が再審請求中にもかかわらず、この国のなけなしの民主主義国家の体(てい)すらかなぐり捨てての強引な執行だったという。
 結局、すべては五里霧中の白闇に隠滅されてしまった・・・


 「 もし歴史が個人の悲嘆を乗り越え、社会全体が服すべき哀悼をなしとげることであるとするならば、映画はテロリズムの廃棄を目的として、哀悼的想起としの相のもとに世界を認識するメディアでなければならない。」


 「 それは具体的にいうならば映像を事後性、つまり重要な事件が過ぎ去ってしまって自分たちが残響の中にいるという認識のもとに提示し、寛容と和解の物語を演出することである。だが、最終的にはテロリスムの根底に横たわるスペクタクル的な要素を映画の内側から完璧に排除することにある。」


 「 スペクタクルとは、匿名の観客を前にして演じられる〈 見せ物 〉であり、非日常的な突発事件が音と映像を介して表象される事態を意味している。
 テロリスムとは、現実的な破壊や殺人である以上に、その演劇的表象として世界中に恐るべき速度のもとに伝播されることで、目的を果たすのである。」


 「 もう一つ忘れてはならないのは、後になってテロ事件を想起する場合に起きる障害である。テロリスムの印象がつねに映像によって大きく影響され、固定されてしまうため、人は現実に生起した事件と映像との間に境界線をひくことができなきなり、虚構の映像をしばしば事件の真実だと記憶はてしまうのだ。」


 つまり、

 「 ・・・それは現実に起こったテロリズムの記録映像と、テロリスムを主題とした虚構物語による映画的映像とが、一人の人間のなかでいとも簡単に混ざり合い、溶け合い、ステレオタイプの映像の混合物(アマルガム)を作り上げてしまうという事実である。
 こうした混合の結果、きわめてアイロニカルな状況がしばしば生じる。現実にある場所で時限爆弾が炸裂したり、要人が暗殺されるという事件が起きたとして、その現場を報道する映像を前にわれわれが感じるのが既視感であるという事実である。
 われわれはすでに過去に充分に蓄積された映画体験に基づき、無意識的にそれを基準として現実の事件の光景を受け入れる習慣に馴れきってしまっていた。」


Terrorism_a


 十九世紀的な、古典的ともいうべきロシアのナロード・ニキ(人民の意志)的なテロリズムとは些か様相を異にする、映画が登場し世界的普遍性を持つようになり更にテレビの登場によって伝播的加速性によって同時性をも獲得するようになった現代というすぐれて視覚映像的世界におけるテロリズムの、映画評論家・四方田犬彦の映画論的試論。
 
古典的、ナロード・ニキ的テロリズムとは、例えば明治末、時代閉塞の只中での啄木のこの情念的一擲。


われは知る、テロリストの 
かなしき心を
言葉とおこなひとを分ちがたき 
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らんとする心を、
われとわがからだを敵に擲げつくる心を
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり
 
   
はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌触りに
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

~ ココアのひと匙《 呼子と口笛 》(6.15 1911)


 そして、

 「 地上のどこに住もうと、われわれは潜在的に犠牲者であり服喪者であることを、あらかじめ宣告されている」
 
という。 
 しかし、それは偏にテロリズムに限らず、交通事故やかつて冷戦時代にさんざん喧伝されていた頭上の脅威=核兵器、昨今ならいよいよ身近なものになって来たオスプレイはじめ日米の軍事航空兵器の落下、更に間欠的に発露する所謂通り魔事件等も並べてしまうと、もう権力構造から派生した悉皆テロルの観を呈してしまいかねない。
 それはともかく、テロリズムをテーマにした映画を幾片かあげていて、当方が観たことがあるのは、このブログでも以前紹介したハニ・アブ・アサド監督の《 パラダイス・ナウ 》(2005年)と若松孝二監督の《 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 》(2007年)の二作のみ。( ブルース・ウイルスの主演した《 ダイ・ハード 》(1988年)も観たけど、しかし・・・確かに9.11の頃はそれすら上映が憚られたとかいう記憶がある )


 “ テロリスムをスペクタクルの相のもとに描こうとしていない作品”としてあげられてた《 パラダイス・ナウ 》は、二人のパレスチナ青年が自爆テロを志願し、組織によって差配されお膳立てされて目的地に向かうプロセスのすったもんだを淡々と描いていた作品だけど、この四方田の本によると、パレスチナ人監督・ハニ・アブ・アサドは、この映画を構想した際、オランダ時代に読んだことのある神風特攻隊員の手紙に感銘を受けたのが誘因になったという。あの淡々さとは、正に、神風特攻隊員のそれであったのだろう。勿論あくまで一見の淡々さに過ぎないけれど。
 一人は途中で放棄、もう一人はテルアビブから様々な地元のユダヤ人たちの乗ったバスに乗り込む。が、やがて市内に入った頃、乗り合わせていた兵士が彼に不審な眼差しを向け近づいてきて・・・画面は真っ白。身体に巻いた爆弾を炸裂させたのか、それとも彼の意識が真っ白になって兵士たちに取り押さえられてしまったのか・・・
 

 先年亡くなった若松孝二の作品は、この手の映画にしては結構騒がれてて、一度隣町の名画座で観たことあったけど、結構長かった記憶がある。
 昔、何処でだったか忘れたが、彼の政治&性(ポルノ)系列の作品を一度観た記憶があって、決して悪くはなかったものの、当方的には今一つ、もうちょっと気の利いたやり方があったんじゃないかという残念感だけを妙に覚えている。
 件の《 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程 》の方は、のっけから長々と'60年代左翼運動の変遷の映像が延々とつづき、この本を見ると一時間と記してあって、さすがに閉口してしまった由縁であった。
 “ 総括 ”という名のもとに12人ものメンバーをリンチ殺害したという所謂連合赤軍リンチ殺人事件のプロットはさすが実録だけあって執拗に殺伐酸鼻なシーンが展開されるけど、遠山美枝子なる女性活動家が、幹部の永田洋子と森恒夫の指示の下様々な拷問・リンチの暴力の果てに殺害されてしまう。
 実はその女性活動家は日本赤軍派幹部の重信房子の親友で、旦那も赤軍派幹部だったという。そして、この映画の監督・若松孝二の事務所にも頻繁に出入りしていて、若松と親しい存在でもあったらしい。彼にとってこの事件は辛酸苦渋そのもので、断腸の思いでの映画化だったようだ。
 テロリズムということじゃ、赤軍派の《 よど号ハイジャック事件 》や、《 テルアビブ空港事件 》が有名だが、この連合赤軍派の、当時の言葉でいうと“ 内ゲバ ”なる閉塞的な鬱屈と恐怖の退嬰的な暴力衝動的顛末を、テロリズム(組織)的属性として若松は提起したと四方田は言う。
 
 
 「 誰もが他者によって操作され、他者によって映像を収奪、あるいは付加されているのだが、いっこうにその事実に気付いていない。そのためテロリスムの試みはつねに不毛な演技に終始する。テロリストたちを駆り立てているのは、歴史にみずからの名を刻印したいという熾烈な衝動である。彼らは自分たちを報道し、自分たちに代わって、その主張を言明してくれる者、つまり表象=代行者が存在していないという現実認識に苛立ちを感じ、スペクタクルの演出を通して、一気にその閉塞状況を乗り越えようと試みる。」


 「だが、すべてを茶番劇へと還元してやまない今日の社会は、そのスペクタクルをも平然と回収し、あたかも何ごともなかったかのようにテロリストを表象=代行作用が君臨する世界の内側に閉じ込めてしまう。」


 因みに、

 「 ベンヤミンは、悲嘆、と哀悼はことなっていると説いた。悲嘆とはどこまでも個人が個人の次元において体験するものである。だが哀悼は個人を越えて、社会のなかで成立する行為だ。
 同じように、哀悼的想起もまた単なる想起、つまり思い出や回想とは異なっている。それは個人を越え、より広い次元において社会全体が服さなければならない作業であると考えられる。もし歴史家に役割があるとすれば、それは本来は悲嘆であったものを服喪へと変えることではないかと、ベンヤミンは論じている。」


 「 それは哀悼的想起を組織することである。それはテロリスムをめぐって世界に散乱している悲嘆を掬い上げ、纏め上げ、哀悼という視座のもとに世界を認識し直すことにほかならない。」



    《 テロルと映画 》 スペクタクルとしての暴力  四方田犬彦(中公新書) 2015年   


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2018年8月26日 (日)

最後の平成年的遺産 アベノミクス的墳墓

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 数日前、レトロ海岸エリアに足を延してみた時、ふとある岸壁で足が止まった。
 岸壁下の海のその部分だけが、周囲の青く淀んだ海面と相違して、透明に海底が覗けてたのだ。
 何事かとまじまじ見下ろすと、そこの海底だけが白っぽく石や岩で盛り上がっていて、強い陽射しがその高くなった部分に降り注ぎ、底まで見透かせているのだった。
小さな魚群の姿が透明に波に揺らぐ様は悪くなく、暫し見入ってしまった。
 と、その盛り上がった部分の岸壁の真下に、チラリと暗い開口が見えた。
 川の上をコンクリで埋め立てた暗渠の河口に違いない。
 恐らく、先だっての土砂崩れ等を引き起こした集中豪雨の際、崩れ落ちて来た土石が暗渠に流されてきて、その河口の外の海底に堆積し、円盤状に盛り上がってしまったのだろう。
 一見トロピカル・エメラルドに見紛いかねないその岸壁下の海底にゆらぐ土石の集積は、商品ばかりが氾濫した退屈な一角にあって、自然が平成=アベノミクス的瞞着を葬ったアベノミクスの墳墓として、見るに値する歴史的観光スポットとして推薦したい。

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 ( 干潮時には露呈する。)

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2018年8月23日 (木)

 最後の平成年 アベノミクス的ブルー・シート

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 ( 「開通六十周年」と横断幕が掛かっているけれど。)


 台風ラッシュという。
 午前中、東から西に向かって白雲が次から次へと流れ、その遥か上方に別種のくもがゆっくりと緩慢に南から北へ向かって流れていて、相変わらずの30~35℃世界であっても、風強く過ごしやすく日陰にでもはいれば涼しいくらい。
 これも接近しつつあるらしい台風の影響だろう。
 
 風に髪をなびかせながら、海辺に山が迫った狭い平地に造られた町中をちょっと歩き廻ってみると、幾分もしない内に民家・マンションの向こうに丘陵・小山が間近に臨め、初夏頃に通過した集中豪雨の爪痕たる斜面の崩落・土砂崩れの跡を蔽ったブルー・シートがあっちこっち放置・晒され状態。
 対岸の下関との自動車用海底トンネルの入口の斜面の右上にもブルーシート(実際はグリーンだけど)で蔽われたまま。もう2カ月以上過っているのに一向に対応している風にも見えず、秋の台風シーズン通過の後にでもやっと着工しようという算段なのだろうか。
 例え災害が、それも甚大な被害が出たとしても、「想定外」、「不可抗力」の定句を繰り返し演じ慣れたようにちょっと深刻ぶった表情を浮かべて見せれば、後は最大6か月の給料5パーセントのカットという“厳罰”の免罪符を貰え、記者や民間人もだんまりを決めこんでしまうのだから。


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 ( 列島中がこんな状態ってことなんだろう。)

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2018年8月19日 (日)

トロピカル・アイランド的佳境 

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 今早朝、まだ明けやらぬアスファルト路の上空をふと見上げると、殆ど真東の闇空に何とオリオン座がいぶし銀の如く輝いているではないか。
 唐突な久しぶりのオリオンの瞬きに、人気のない街燈に照らし出されたアスファルトの真ん中に立ち止まり、暫し見入ってしまった。六百光年の彼方の赤色超巨星・ベテルギウスはまだ健在だった。
 地球の気候的変動なんか意中にないといわんばかりに星座はもう秋モードって訳か。
 尤も、昨今顕著になり始めたらしい地軸の微細な傾きによって多少の現れ位置にズレは生じるのだろうが。


 この国がトロピカル列島と化してもう大部なる。
 そのシンボルが、当方じゃ狭い裏庭に茂ったパパイヤとハイビスカス。
 烈日に青々と映えた大きな葉脈のパパイヤの葉は、もっぱら観賞用で、結実を期待することはないけれど、正にトロピカルの極みって雰囲気が好い。あれよあれよという間に二メートル近くになった前回と違って今夏のは丈の短い種で、上よりもひたすら横に伸びてすっかり繁茂状態。

 ハイビスカスの方は、昨年植えた直径二十センチ以上もある花びらのジャンボ・ハイビスカス( 商標はタイタン・ビスカス )が、昨年よりも一カ月以上前から真紅の大輪花を咲かせ、花数もポツポツだった昨年とうってかわって幹が大きくなった分正に艶やかに咲きほころび続けている。七月の途中からぷっつり咲き止んでしまったものの、八月に入るや再び以前よりもパワー・アップして毎朝咲きまくっている。正に盛花。最高十七輪で、ここまでくると些か壮観。
 このままゆくと、来年には如何なるんだろう。
 それでなくとも狭い庭なのだから。
 それこそシュールな真紅花世界って趣になってしまうのだろうか。


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2018年8月11日 (土)

火星反転夜話

Mars

 火星が地球に大接近って騒いでいたのはちょっと前だけど、現在でもまだ夜半南東にオレンジ色に輝いている。そもそも太陽系の惑星なので肉眼でもはっきり見えて当然といえば当然だけど、幾ら大接近したからといって、肉眼でくっきりとその球形が見える訳でもいわんや斑点の模様までが視認できるわけじゃない。当方の二十倍の双眼鏡ですら、かすかに微細なオレンジ色の球体として見えるだけ。所詮、ちゃんとした天体望遠鏡でなんぼのマニアの世界に過ぎない。
 むしろ、昨今の、一億総ベンチャー時代の象徴のような成金男をはじめ、内外でいよいよ喧しくなってきた、かつてのすわっ! 新大陸だ、蝦夷だ、満州だと略奪と破壊、搾取の十字軍宜しくの“ 火星開発ラッシュ ”の方が、よっぽどうっとうしく気にかかる。結局、あの長い間の西部開拓史物語の隆盛と消滅の軌跡って教科書的題目に過ぎず、すべてが換金的対象物=商品という資本主義的構造から一歩も出ない、やっぱし一切を貪らねば止むこともない中世十字軍的進軍の真っただ中ってとこなんだろうか。

 そんな成金の星・トランプ大統領が“ 二酸化炭素が地球温暖化の原因じゃない ! ”とぶちあげてからか、地軸の傾きにその原因があるという説がネットを賑わしているようだ。“ 北極点が欧州方向に急移動 ”から“ 北極がシベリア方面に移動 ”とか、地磁気の減衰、果ては“ ポール・シフト”等の警句が乱立し、事態は一層暗澹の色を濃くしている。ポール・シフトって、北極と南極が入れ替わるって正に地球的規模の大異変なんだけど、過去360万年の間に11回も既に起きているという。現地球じゃ、いつ起きても不思議じゃないらしく、勿論起きれば壊滅的な事態が我々を待っているようだ。
 そういえば、幾年も前、北極圏で9発だったかの水爆を、米国が一斉に地下爆発させたという話がネットで束の間流れたことがあったけど、あれは・・・。
 
 かつて火星も地磁気が減衰し、太陽風に大気を根こそぎにされて現在のような(一見)死の星の様相を呈することになったという。我々はそんな火星を見上げ、赤々とした輝きの中に一体何を見ようとするのだろう。

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2018年7月28日 (土)

白人至上主義的ヒートアップ ? 

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 ( 黒焼所は、和漢方薬としての動物の黒焼き製造薬房 。現在でもあるらしい。)

 列島トロピカル化してもう十年以上過ぎたけど、思ったほどには中々に40℃世界って訳にはならないようだ。
それでも、数日前の昼過ぎ外で温度を確かめてみたら、42℃くらいになっていた。これが普通になりはじめると恐らくクーラー全開で発電所がヒート・アップし厄介な状況に陥ってしまうだろうし、45℃以上になったらもうクーラーも効かなくなってしまいかねない。
 そんな地球の温暖化の真夏にあって、今夏も例年の如く中国・広西チワン族自治区玉林市で開かれた《 狗肉祭 》はじめ夏の風物詩ともいえるアジア各国の犬肉節、そのアンチたちの告発・難癖との応酬合戦も、一層白熱を帯びてきているようだ。
 ところが、欧米各国の動物愛護主義者達とその追従勢力たる韓国・中国・台湾・ベトナム・インドネシア等各国の白人至上主義者達の国際世論とやらをバックにしたシュプレヒコールもなんのその、むしろ犬肉食が増えているという。

 インドネシア、確かにバリ島には大きな野犬が通りにたむろし、夜に催されるバリ舞踊・ガムランの帰り道なんか結構怖い思いをすることもあった。時折、観光客なんかに噛みついたりして、狂犬病がらみで問題にもなっていたのを思い出すけど、そんなバリ島だけでも年に一万匹( 世界じゃ毎年二、三千万匹らしい )のそんな野犬も含めてだろう犬たちが屠殺され食肉として人々の胃袋に収まってしまうらしい。バリの有名な肉料理といえば、日本の焼き鳥同様に小さな串に刺して焼いたサテで、当方も、幾度かオープンの店で御相伴にあづかり、決して悪くはない庶民の味ってところで嫌いじゃない。そのサテの材料に、犬肉が流用されているという。ひょっとして当方も知らぬうちに舌鼓でもうっていたのかも知れない。 

 犬肉は何処の国でも大抵貧しい庶民の貴重なタンパク源で、インドネシアもしかり。
 ともかく安価で大きさも手ごろでなので面倒がかからないってのが、業者にとっても享受する顧客にとってもコスト・パフォーマンスも良い日常食ってところ。さすがに貧困層も若干経済レベルが上がって来たのか、肉類=犬肉に対する需要も増えてきてるという。
 勿論、経済的に発展した中国・韓国なんかでは、もはや牛・豚・鶏と同様の嗜好食に過ぎないのだろうけど、やっぱし土用のうなぎならぬ土用の犬肉=補身湯ポーシンタン(犬肉スープ)は、伝統食としての地位はゆるぎないようだ。韓国・中国は犬肉料理の歴史が長く種々様々な調理の仕方があるようで、犬酒ってものすらあるという。


 それらの国々じゃ犬だけにとどまらず、猫からネズミまでその食材的バリエーションは網羅されているのだけど、現在のところ犬だけに限定されて反対・排斥運動が展開されていて、先じゃネズミはともかく、猫肉食にも一大反対・排斥運動が拡がっていくのだろうか。勿論現在でも、猫肉食に反対する運動はあるがまだ微々たるもの。

 彼らの論理って、結局、自分達が食べないからって一点に尽きている。

 可哀そうとか、理不尽とか、鬼畜的所業だとかの修辞で飾られてはいるものの。
 欧米、とりわけ米英オーストラリア・ニュージーランドなんかの、要するにアングロ同盟国は、自国の牛や豚・鶏・羊の肉をさんざん押し付けてきた当事者でもあって、彼等の金看板“人道主義的動物愛護 ”って甚だ胡散臭い。
 つい最近インドで、牛を移送中のイスラム教徒が、見つけた村人達に襲われたというニュースがあった。インドの大半を占めるヒンドゥー教じゃ、牛は神様の乗物って訳で、聖地バナラシーの沐浴場あたりで牛に踏み殺されたりすると、もう最高の死・至福の極みとも言われているくらいで、そんな神がかりの牛を食用のため移送していたってことで、とりわけイスラム教徒がやっていたってことで余計事が大きくなってしまったのではあろうが。そんな聖なる存在=牛を、サァーどんどん喰えって、日毎大量屠殺し、送り付けてくるアングロ同盟国って、しかし、一体どんな国なんだろう。
 中国でも日本でも、戦後暫くぐらいまでは、牛は農家の大事な労働力で、家族同様大切にされてきていた。禅の十牛図なんかその証左でもあろう。そんな近しい牛を只喰うために屠ったり、食肉業者に売ったりするなんて、当時なら鬼畜的悪行と誹られたであろう。
 我が日本人達といえば、アングロ同盟国の傀儡・自民党権力が押し付けてきたそれもかなり汚染された牛( 豚・鶏 )三昧政策で、もはやすっかり骨の髄まで汚染牛的組成となってしまっている。


 年々取れ高が減少してきて絶滅危惧種の可能性すら取沙汰されている土用のうなぎも、この際、かつて江戸時代の初めころは冬になると競って犬肉に舌鼓をうっていた歳事に因み、土用の犬肉ってのもありかも知れない。何しろ、明治以降廃れてしまったとはいえ伝統の風物詩なのだから。

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2018年7月21日 (土)

列島無惨の淵源?

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 かつて米国・カリフォルニアで大地震( 1989年のロマ・プリータ地震か1994年のノースリッジ地震のどっちか忘れてしまったけど )が起き、建物や高速道路の倒壊やらで少なからずの犠牲者が出た時、わざわざ当時の建設次官=自民党官僚が現地に飛び被災地を訪れ、高速道路の倒壊など、我国・ニッポンではありえない ! と、米国の行政と建設産業を罵倒したことがあった。
 被災地にわざわざ赴いて、米国権力の走狗でしかない自民党議員風情が白人旦那の御座所でよくもそんな罵詈雑言を欲しいままにしたものだと、感心し呆れもしたのでよく覚えていた。

 ところが、それから幾らもしない1995年、六千人以上の犠牲者を出した例の阪神・淡路大震災が起こった。高速道路が倒壊・崩落したのでも有名になって、一体どんな根拠があってのものなのか、かの自民党官僚ともどもの当たり前のように流布していた“ ニッポン製神話 ”が跡形もなく崩壊してしまった。
 で、その件の建設次官だけど、国内外に向けて放なったに等しい米国愚弄と大言(壮語)の謝罪をしたとか責任を取ったとかいう話寡聞にして聞いたことが現在に至るもない。( ひょっとして何処かでしてた ? )


 今回の西日本集中豪雨の当日、正に西日本諸地域で悪戦苦闘・無惨陰惨が繰り広げられている最中、当の半世紀支配政党自民党政府の幹部たちが酒宴に酔い痴れていたというニュースを知って、さらにその後の彼等の、世間の批判・非難等どこ吹く風といわんばかりのシレ―とした態度をも知って、ついそんな旧い記憶が甦ってきた次第。
 何よりもその宴の音頭をとっていたのが外ならぬ、翌早朝のオーム真理教の尊師・麻原をはじめ教団幹部の計七人の死刑執行を指示した現・法務大臣=上川陽子だったという。
 念願の絞首刑執行の“ 前夜祭 ”という趣きもあったのだろうとは誰しもの脳裏を過(よ)ぎる単純推論だけど、そもそも所謂《 オーム真理教サリン事件 》自体、その真偽のほどは決して自民党権力とマスコミが喧伝しているようには明々白々とは到底言えない虚偽・隠蔽・世論操作の数々に塗れた何ともいかがわしい代物。彼等がさっさと証拠隠滅宜しく殺害したに過ぎないのだから、これで一安心とばかりのさぞや美味い美酒に酔い痴れた夜宴だったのだろう。

 元を質せば半世紀支配の自民党的施政に結果する昔から列島中で毎年起こる自然災害という名の災厄でしかないと言えなくもなく、彼等自民党権力にとっては、幾ら多くの住民が被災し犠牲となり、呻吟し塗炭の苦しみに嗚咽していたところで、所詮他人事でしかなく、事後にのこのこ現れ、ちょっと神妙な表情やまことしやかな言葉を振りまき“ 復興支援 ”の金看板をちらつかせてやればもうすっかりこっちのもの・・・という長年連綿と続けてきた慣行から十二分に知悉した住民たちの反応に対する所作(=手口)へのゆるぎない自信ってものがあって、野党やマスコミが小手先の非難・批判をやってみせたところでびくともするものじゃない。
 おまけに、今回は、何故か、猛批判して然るべき野党がどういう訳か蚊の泣く声で呟いたに過ぎなかったようだ。ある野党が同時刻宴会を催していたのにひけ目を覚えたらしいようだけど、政権当事者と野党とじゃまるで立場が異なることぐらい子供でも分かろうに。所詮バーチャル・デモクラシーのバーチャル野党でしかないってとこなんだろう。

 それにしても、一体この国は、何時になったら、災害専門のレスキュー部隊をちゃんと作るのだろう。自分たちの存在を正当化するために近隣国を仮想敵国として喧伝し、彼等の白人旦那=米国の飼犬(走狗)して戦争挑発行為を繰り返してきた絵にかいたような憲法違反の自衛隊をさっさと廃して、国民誰もが望み緊要なレスキュー部隊を創設すべきだろう。
 そもそも、普通に考えたら、憲法を踏みにじり、自衛隊をこの国でゴリ押しして作った権力って、既にその時点で、クーデターを起こしているってことになる。 


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2018年7月14日 (土)

 平成末的門司港残影

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 ちょっと前、門司港レトロ・エリアでこの街の如何にもローカルな港祭なんかが催されていた頃、友好姉妹都市・大連の旧ロシアの東清鉄道事務所の洋館を復元した国際友好図書館に行き、二階の図書館に向かう階段を登ろうとすると、階段の前に貼紙があり、読んでみたら何と三月いっぱいで“廃館”とあった。
 尤も、図書館だけが廃されるだけで、後日観光施設としてリニューアルという。
 中国・韓国なんかの東アジアの蔵書、満州関係のかなりの資料もごっそり何処かへ移されたのであろう。一キロぐらい離れた場所にある雑書館とも謂うべきチャチな図書館の倉庫に移すには余りにも膨大・・・はちょっとオーバーかも知れないが、それでも明らかに多過ぎて、同じくらいの図書館がもう一ついるぐらいの量ではある。
 恐らく、以前幾度か訪れてみたことのある隣町の図体ばかりデカい図書館の方に大半が移されたのだろうが、まず宝の持ち腐れってところだろうか。

 例えば、十五巻ぐらいの分厚い中国語の辞典、勿論中国の辞典だからすべて中国語だけど、最近こそさっぱり音沙汰になってしまったものの以前は色々と重宝させて貰った。調べ物でなくても読んでるだけで勉強になるくらいの有難い代物で、一体、その他の大きな都市の大図書館でも備わってないだろうその大辞書は何処へ隠されてしまったのか。 その隣町の大きな図書館の薄暗い倉庫の奥に黄ばみ朽ちるまで半永久の眠りにつかされてしまうんじゃあるまいか・・・等と、何ともうら寂しい想いに捕らわれてしまった。


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 文化じゃ金にならないってとこなんだろうか。
 この国際友好図書館、そもそもが図書館と銘打っていたものの、図書室の照明は薄暗く、テーブル上の卓上蛍光灯を傍に寄せてもまだ照度不足なくらいの、本当にまともに利用者に本を読ませようという気なんてあったかどうか甚だ怪しい代物ではあった。レトロな建物が欲しくて、図書館を口実にしたってところじゃなかったろうか。メインはレトロな建物って訳で、書籍は飾り。それでも、観光コースと思った観光客たちがゾロゾロと入って来てはチラリと一瞥し出てゆくのを尻目に、ごく少数の利用者が疎らには散見されはしたけれど。
 
 
 どころか、あれだけ何度も出来ては消えを繰り返してきた、韓国五千万=ニッポン一億総ベンチャー時代の象徴たる日韓国際フェリーの発着所=玄関前に雑草も伸び庇も朽ち始めてた国際旅客港のカスタム事務所の玄関にも一枚の張紙が貼ってあった。
 何と、裁判所の公示書。
 地元の債務企業が勝手にその元のカスタム事務所の設置物や地権を移動させてはならぬという通達らしいけど、一体全体如何なる経緯でそんな訳の分からぬ仕儀に至ってしまったのか。ここの自治体か第三セクターか知らないけど・・・この国際図書館も国際旅客ターミナルも平成的産物で、正にニッポン末期資本主義的アベノミクス的凋落の好個の例として海峡史に刻印されるべきもの。
 思い起こせば、明治維新直後の長州及びその走狗と化し利権を漁ろうとした既存の元の小倉藩庄屋(小倉藩じゃ、手長と呼ぶ)たちに困窮・呻吟した農民たちが蜂起した企救郡一揆の際の小倉藩領地を支配していた長州側のトップが誰あろう、安倍の先祖・佐藤寛作だったという因縁つき。
 
 そういえば、対岸の下関と向かい合った海岸沿いの古戦場ともいうべき小山の端に立っていた国民宿舎跡に何か立つはずだったのが、その業者が暴力団がらみだったとかいう事で宙に浮いたまま、いつの間にやら、トロピカル列島化した現在には一等不向きなコンクリ床の露天展望台ってところに落ち着いてしまっていた。確かに、役人たちのやる事だろう。


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