カテゴリー「書籍・雑誌」の201件の記事

2017年9月13日 (水)

ポスト・ペロン的残影 キリング・ファミリー(2017)

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 比較的最近、中・南米の映画、何本かレンタルで観た。
 残念ながら、特に印象に残ってる作品はなかったけど、この今年度作品になっている《 キリング・ファミリー 》THE LOST BROTHER / El otro hermanoは、始めて観る余り縁のなかった国アルゼンチンの映画で、首都ブエノスアイレスから北へ遠く離れたある小さな町が舞台。
 観てると、ふと、前世紀の70、80年代あたりの物語かと思えるくらいにローカルな雰囲気だけど、携帯電話を普通に使っているんで、比較的最近の設定なんだろう。
 日本のサブタイトルが“殺しあう家族”。
 些か猟奇的ニュアンスを煽り過ぎてるけど、近代のコンキスタドール宜しく近代になって先住民や黒人・ガウチョたちを弾圧・排除して、ヨーロッパから膨大な数の(主にスペイン・イタリア)移民を入れて作りあげた白人国家たるアルゼンチンの、それでもラテン的な濃い家族的絆すら、現実のとめどなく浸蝕してくる物質主義に解体されてゆき、かつては世界でも有数の富裕国だった栄光の凋落がオーバーラップするように、旧く朽ちた木造家屋の仄明るい室内の板壁に刻印されたように黒々と凝血した血飛沫が静かにぬめっていたりする。


 キャッチ・コピーで、“悪”の権化と予め断罪された代理人ドゥアルテは、いかなる成り行きでかある普通の決して裕福じゃない家族( 実際には父親を中心にした二家族 )に接近し、彼の銭儲け=悪行に引き込みどっぷりと漬からせ、ついにはその家族のほとんどを細長い骨壺の中の死灰と化してしまう。
 

 この代理人ドゥアルテ、一体どんな職掌なのか曖昧で、ともかく銭儲けに抜け目なく、アルゼンチンの地方の小さな町の中で、ありとあらゆるチャンスを見出しては貪欲に狡猾にむさぼってゆく。
 最初は、一報を受けてブエノスアイレスからやってきたハビエルに、内縁の夫モリナに射殺された彼の母親と弟が安置された死体安置所に案内するモリナの代理人として現れる。散弾銃にでも射殺されたのか、原形をとどめぬ二人の屍に思わず嘔吐してしまう。手慣れた風のドゥアルテ、屍を見せる前に嘔吐用のバケツを手渡す周到ぶり。
 早速、当たり前のように、ハビエルに二人の死にからめた保険詐欺話を持ちかける。平然とした口調でリスク“ゼロ”をアピールし、まんまとハビエル話に乗せられてしまう。
 一切がビジネス・ライクなのだ。 
 ( 常に大型のオートマチック・ピストルを隠しながら。)


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 ハビエルの見知らぬ彼の母親の内縁の夫モリナも、母親と弟を殺害した後、自宅で自殺したという。モリナの妻と息子がまだ住んでいる家にも、ドゥアルテはハビエルを連れてゆく。モリナの嫁が銃で自殺した際に飛び散った大量の血糊を雑巾で拭いている最中だった。対面した両者に特別な感情的起伏も見られず、むしろ嫁さんが世間話の如く愚痴を漏らすぐらいに淡々とした一場。
 実は、モリナの家族、ドゥアルテを頭目とした営利誘拐に手を染めていたのが次第に明らかになってくるのだけど、映画じゃ描かれてないものの、どうも殺されたハビエルの家族そして自殺したといわれているモリナすらも、ドゥアルテに何らかの理由によって殺害された疑念が浮かび上がってくる。
 つまり、互いに殺しあった家族じゃなくて、代理人ドゥアルテに利用され尽くしたあげく彼の手によって殺された家族って可能性。
 只、最後に、ドゥアルテに命令されながらも、義理の兄であるハビエルを殺すことを拒絶し逆にドゥアルテに銃口を向け撃ったモリナの息子・ダニエルがドゥアルテに首を撃たれ瀕死に喘いでいる時、ハビエルはダニエルを見捨て死なさせてしまう。
 カインとアベルの旧約神話を想起させる。
 兄カインがやがてエデンの東を流浪することとなるように、ハビエルも営利誘拐や保険詐欺で得た血塗られた高額紙幣の束の収まった袋を手に隣国ブラジルに逃避行を決め込む。
 唯一生き残った主人公・ハビエルの前途も、しかし、暗澹として明るい兆しの予感すらないまま終幕。


 それにしても、ラテン・アメリカじゃ、やっぱり現在でも営利誘拐が利幅の大きな犯罪のようで、既に1980年代の政情不安なアルゼンチンで人々の耳目を集めた営利誘拐犯アルキメデス・プッチオ一家事件なんてあったらしい。プッチオ一家の残虐性とドゥアルテの残虐性の相似性。その伝でゆくと、モリナもドゥアルテに強いられたものであっても単なる誘拐どころか残虐な行為にまで手を染めていた可能性も考えられる。
 そういえば、南米最北のコロンビアの切羽詰まった閉塞状況の崩壊寸前の村を舞台にしたエべリオ・ロセーロの小説《 顔のない軍隊 》(作品社)で、村の四囲をすっかり左翼ゲリラや右翼自治組織、麻薬組織、政府軍に包囲され、四面楚歌の定年退職した元学校教師の年金生活者イスマエル爺さんも、自分の長年連れ添った嫁さんを人質誘拐グループに拉致されていた。毎月の年金も滞ることの多いしがない老齢年金生活者なんぞに、間違っても高額な身代金なんて払える訳もないにもかかわらず。
 そんな営利誘拐が日常的に発生しているラテン・アメリカじゃあるが、経済大国・先進国の頂点のはずの米国なんて年間誘拐事件百万件といわれている。その被害者の多くが子供たちというさもしさ。
 ドゥアルテって名前、確か独裁者ペロンの嫁さんエビータの長い本名の中にもあるけど、何か関連でもあるのだろうか。単なる偶然ならともかく、アルゼンチン事情に疎い当方にはさっぱり詳らかじゃない。

 
 《 キリング・ファミリー 》THE LOST BROTHER (2017)
監督・イスラエル・エイドリアン・カエターノ
制作 アルゼンチン・ウルグアイ・スペイン・フランス 

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2017年9月 3日 (日)

真夏のブードゥー=ゾンビー世界

 

 この数日朝晩少しは過ごし易くなってきたもののまだまだトロピカル・ランドと化した列島暑熱モードは続くのだろう。
 そんな30℃世界の只中のある昼間、家の裏庭に面した風呂場の天井を見上げると、あしながバチが二匹、天井灯の丸井プラスチックのカバーの横にとまっていた。
 何事かと思い、しばらく眺めていると、驚いたことに巣を作ろうとしていた。
 マジ?
 確かに昼間は空気が乾燥しているけど、夜になると湯気濛々でまずかろう。
 ハチや昆虫って、けっこうとんでもない場所に巣を作ったりしてて、リアルタイムな現在、それもかなり狭い限定された視野内しか認識できないようだ。( もっとも、人間の視野もそういうほど広くもないけれど )
 
  
 そういえば、家からかなり離れたところにあるスーパーの前の歩道脇の植え込みの下に、そこだけ黄土色の砂らしきものが少し盛り上がっているので、何なんだろうと、缶コーヒー片手にのぞき込んでみると、小さな穴が三っつ並んでいて、ヒョコヒョコと真ん中の穴から、黒い羽虫が一匹、後ろ向きのまま這い出てきた。
 すぐ“地バチ”という言葉が浮かんできた。
 が、これは間違いで、後で調べてみたら、地バチって黒スズメバチのことらしく、その穴から現れハチはもっと細っそりした体躯の黒アナバチだった。
 穴を掘ってその奥に巣を作るから、アナバチなんだろうが、見てると、同じ一匹のハチが出たり入ったりしているようだった。後ろ向きに出てくる毎に中の土砂を運んできて、穴口の前に後ろ足で蹴り出し、それがこんもり盛り上がって低い小山を作っている。周囲の黒土と明らかに土質が異なっているので一目瞭然。
 出入りしているのは専ら真ん中の穴だけ。
 これがこのアナバチの習性のようで、たいてい三個の穴を掘り、両側の二つは見せかけだけのダミーで、他の寄生昆虫の侵入を防ぐためだろうといわれているらしい。所用でで外出するときには一々真ん中の穴口を塞ぐという。
 キリギリス系の虫を刺し麻酔状態にしたまま捕らえ運んできて穴奥まで引きずり、そこで麻痺したキリギリス系虫の体内に直に卵を産み付けるという。
 殺さず仮死状態にしたまま、体内で孵化したアナバチの幼虫たちは、キリギリス系虫の体内の肉を食べて成長するって算段。殺してしまうと腐敗してしまうからなのだろうが、怖い話だ。でも、確か人間世にでも、採った魚を叩いて仮死状態にしたまま鮮度を保つって手法がなかったっけ。

 ところが、同じハチの種の中のコマユハチは、その生態から“ ブードゥー・ワスプ ”とも呼ばれ、キリギリス系じゃなく、イモムシに卵を産み付ける。
 イモムシの体内で孵化しイモムシの内部の肉や内臓を食べながら成長してゆくのは同じだけど、そのイモムシを決して殺すことはなく、成長しきった幼虫たちがイモムシの体外に出て蛹になってからも、体内をさんざ喰い破られ瀕死のはずのイモムシはまだ生きていて、面白いことに、そのイモムシは、今度は、蛹を襲おうとして接近してくる他の昆虫を追い払うようになるという。
 実はそのイモムシの体内には常に数匹の幼虫が残っていて、その故なのかともいわれているのが、イモムシの脳=行動をコントロールしているってことなんだけれど、それでブードゥー( イモムシの方はゾンビー )なのだ。ワスプは別に白人旦那たちとの関係を揶揄ってのワスプじゃなく、“ 狩りバチ ”の意味。
 でも、これは、ある種の鳥たちに、別種の鳥が自分の卵を紛らわせ、その鳥たちに育てさせるって手口に相似だし、本当は別種の卵にもかかわらず自分の卵と思ってずっと餌をやり外部の攻撃から身をもって守ろうとする本能的所作をつい想起してしまう。
 ここまでくると、ネコ=ネズミ=ネコの寄生の輪たる寄生中トキソプラズマのおぞましい世界まであと一歩。何しろ、感染したネズミがネコに食べられやすいように行動するようになるらしい。怖い、怖い。それがとっくに人間世界にも蔓延しているらしいので、もっと怖い話だ。

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2017年8月19日 (土)

 解かれた封印 《 ザ・マミー 呪われた砂漠の女王 》

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 早朝五時前のまだ暗い東の夜空四十度くらいの方向にオリオン座が三日月の下に小さく耀いていた。ゆらぐ赤色巨星ベテルギウスはまだ健在のようで、青白く瞬いているはずの下方のシリウスは、残念ながら定かでなかった。このシリウス、実は連星で、現在は地球並の大きさに縮まってしまったシリウスBの方はとっくに死に向かっている白色矮星という。
 
 《 ザ・マミー 呪われた砂漠の女王 》を、盆休みの昼の回で観た。
 久しぶりの映画館だけど、さすが盆だからか、トム・クルーズ主演って訳でか、雨上がり的な天候にもかかわらず館内はほとんど満員。
 you tubeの予告編のホラー風味に好奇心をくすぐられての運びで、考えて見りゃあ、“マミー”ってつまり“ミイラ”、漢字の“木乃伊”の方が感じが直截に表れている包帯ぐるりの動きの緩慢なキャラだったはず。初期のゾンビーたちが、ゆるゆるおぼつかない足取りだったのが、次第に時代の閉塞感・切迫感が増すにつれ、いつの間にか走り出し、人間より敏捷に疾駆する屍鬼に進化してしまったように、この《 ザ・マミー 》でも、女王ミイラは、昨今のホラー映画定番の如く、自在に走り飛び跳ねる正に魔物。


 予告編の女王の棺を積んだ輸送機の中での思わせぶりなシーンに、勝手にホーラブルな展開を逞しくしてしまってたのが、しかし、スクリーン上じゃ、ホーラブルとは些か趣きの異なったむしろ冒険アクション的展開。それもドタバタ風味まで加味され。
 これは好みじゃない。
 けど、席蹴ってしまうほどでもなく、持ち込みの缶コーヒーをチビチビ飲みながら、最後まで観てしまった。
 

 いずこの国・時代でも、権力争いの種は尽きまじとばかり、古代エジプトの宮廷内権力争奪的惨劇 ─── その怨嗟と呪詛、ふとした偶然から数千年の時を超えた現代にその封印を解かれてしまう。
 エジプト=ミイラ物の基本構図なのだろうけど、数百年のヴァンパイヤー(吸血鬼)物から、昨今流行のエイリアン物だともっと膨大な時間が上積みされ現代に甦る。
 古代の種子も、うまくやれば現代でも見事な花を咲かせるのだから、地底や海底の底深く結晶化した何億年の彼方から運ばれてきた一滴、一微粒子が封印を解かれ、禍々しいあるいは驚倒すべき遥か銀河からのパンドラの匣物語って、ミレニアム( 2000年代 )に入っていよいよ現代人の好奇心を掻き立てるようだ。


 さすが片方の主役たる王女アマネット、ぐるぐる包帯の下は朽ちたミイラ然とした老婆の態じやなく、生きたままミイラに封印された時の若々しい妖女そのものとして造形されていて、姿態も裸体シルエットも艶めかしく、前世紀の近未来世界造形映画の金字塔《 ブレード・ランナー 》(1982年)のレプリカント(サイボーグ娘)・プリスの剥き出しのエロティシズムとバイオレンス性を想起させる。
 以前どこかで見た覚えがあると思っていたら、ハリウッド・台湾合作ホラー映画《 ダブル・ビジョン 》(2002年)の妖女がやはり“双瞳”を備えていて不気味さ醸し出していた死霊とも生霊とも知れぬ人の精気を吸って生気を甦らせる妖魔アマネットの双瞳。二つ連なった金色の瞳、妖しくねめつけるその両の眼差しは、中々にエキゾチック。
 只、せっかくのエキゾチックな妖魔女も、端折った作りのためか、中途半端に了ってしまってた。
 砂漠の妖魔女の封印が解かれたのはロンドンだったけど、今週リアルに砂漠=中東の呪詛の封印が解かれたのはスペインでありヨーロッパ大陸だった。こっちの封印は植民地主義的帝国主義、十字軍遠征の頃の産物、あるいはもっと以前からの因縁的産物?


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2017年7月22日 (土)

真夜中の牛肉麺

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 先だって博多に行った際、キャナルシティーという商業コンプレックス・ビルのラーメン・コーナーで、“大明担々麺”の看板を見つけ入ってみた。
 但し、“ 重慶 ”と銘打ってあって、担々麺といえば四川料理のはずなのに・・・と怪訝に思いながらも、紅く映えた見栄えの良い一品に舌鼓をうった。激辛ってほどじゃなく、食べ易い。日本人向けにディフォルメしているんだろうか。

 かつて一度だけ四川の省都・成都を訪れた時、体調をくずし、咽喉の調子が悪かったのもあって、せっかくの辛さが面目の四川料理をあれこれ試食するって機会を逸してしまった。ふと通りかかった路地角の小さな担々麺屋のガラス棚の中に、実に簡素に、丼に山盛りになった麺と別の碗の濃いスープが並んでいるだけで、そのいかにも麻辣(ピリ辛)風に映えた赤黒いスープに、思わず咽喉の奥がピリピリしてきた記憶が甦ってきた。
 
 でも、それは四川の中心地・成都でのことで、そういえば、これも最近ちょっと散歩気分で地元の路線バスに長々乗って、めったに訪れることもなかった一応デパートもある、しかし、周辺の商店街は構えばかりですっかり廃れた、自民党半世紀支配の論理的帰結、所謂“アベノミクス”的帰結を絵にかいたようなくすんだその昼尚薄暗い商店街の奥で見つけた小さな中国食品屋の棚に陳列されていたインスタント・ラーメン二種、片方は有名な“康師傅(カンシフ) 牛肉面”、もう一方ははじめてお目にかかった“酸辣”(ホット&サワー)味の表示のある“重慶小面”、この“重慶小面”、発売元が躍進著しいらしい《四川・白家食品》なのだが、生産地が四川・成都となっていた。
 ( 因みにブログ見ると、十年くらい前、日清食品がこの白家食品の株を取得のため協議したことがあったようで、その後どうなったのだろう。)


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 そもそも重慶って、調べてみたら、元は四川省に属していたという。
 雲南や貴州の一部も。行政的区割りとして、四川省から直轄市として独立して重慶市(北海道くらいの広さ)となったに過ぎず、風土・食物まで変わった訳じゃない。
 四川は四川。
 もう二十年近く以前、二、三回ほど、列車の窓から重慶の町の姿を望み見たことがあった。
 内陸奥地の赤土の曠野の涯の、両側のクレパスのような長江と嘉陵江の濁流に臨んで屹立した正に異境都市然としていて、通る毎に、そんな地の果ての荒寥とした佇まいに、中国人=漢人たちのバイタリティーに感心したものだった。
 2002年の中国映画《 ションヤンの酒家 》を観て、重慶の街並みが結構近代化されているのが分かったけど、映画は旧い繁華街の再開発問題を背景に使っていて、それから既に15年も過っている現在、すっかり近代的な都市の景観を呈しているのだろう。


で、大明担々麺だけど、もう一つの売りメニューに、“四川・牛肉麺”があった。
 これも流行りのメニューのようで、最前の“ 康師傅 牛肉麺 ”はじめ結構色んなメーカーがインスタントの牛肉麺を出している。
 生の牛肉麺は、といえば、これまた相当旧いけど、ちょうど20年前、昆明から列車で2泊3日かけて上海に夜遅く到着し、定宿の《 黄浦飯店 》はさすがにチェック・インはできないだろうと、駅前のあっちこっちに現地の人々が、新聞紙やゴザを敷いて寝っ転がっていたのを見るにつけ、朝まで駅前で待つことにし、とりあえず夕食とばかり入った店が、中国のあっちこっちで見かけるようになっていた《 美国加州牛肉面大王 》だった。
 一番最初にその名を見たのは、確か敦煌観光の拠点の町・柳園の通りで、大道音楽芸人のパフォーマンスが行われていた近くに、オープン記念だったかの派手な看板が並んでいたのを思い出す。“加州”ってのが一体何のことか分からず、ひょっとして米国のカリフォルニアのことかなと推測しながらも、
 アメリカに拉麺なんかあったっけ?
と、それが牛肉麺といかなる関係があるのか理解できぬまま気にもとめなかった。
 さすが上海と云うべきなのか、その店は24時間営業の店だった。
 値段は当然少し高めだったけど、どんな麺料理なのか試してみたかったのもあって、くだんの牛肉麺をスプライトと一緒に注文。
 牛肉麺=6・5元   
 雪碧( スプライト )=5・0元   
 醤油系スープに麺、その上に、牛肉とレバーの角切り、香菜(パクチー)と刻み葱。
 普通の拉麺で辛くはなく、けっこう旨かった。
 深夜の上海駅前の光景を眺めながらすする牛肉麺はまた格別だった。
 
 この《 美国加州牛肉面大王 》、もう中国全土的チェーン店らしいのだが、《 李先生 》なる新看板と重複したりのややこしい商標トラブルに揺れているという。
 人民中国、いよいよ“改革開放”の波に乗って、絵にかいたような資本主義的トラブル全開ってところなんだろう


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1974年の紅い水蓮 シアター・プノンペン

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 カンボジア映画って、2001年の《バンコク・フィルム・フェスティバル》でのリティ・パ二ュ監督のドキュメンタリー映画“ザ・ランド・オブ・ワンダリング・ソウルズ”以来。
 バンコクからハノイまでのコンピューター回線だったかの地下埋設工事のプノンペン周辺の工事の光景を、その土地に埋もれたカンボジアの歴史を“digging”してゆくって寸法だったんだろう。暑熱のプノンペンの光景を、やたら冷房ガンガン効いたたった十人居るかいないかの客席で、長袖ジーンズシャツをTシャツの上に着こんで震えながら観ていた記憶ばかりが残っている。

 普通のカンボジア映画を観るのはこの《 シアター・プノンペン》が初めて。
 今回ネットでちょっと調べてみたら結構カンボジア映画作られていて、日本でも上映されていたらしい。
 今世紀初頭、というと何とも仰々しいが、2000年代に入る前後のプノンペンの映画館ってそれまで煤けたフランス植民地時代の旧い佇まいの文字通り古色蒼然とした廃墟でしかなかった。別の用途に使われていたり、表にポスターを貼りだして細々と営っているところもあった。只、上映映画って殆どがポルポト時代以前に作ったものなのか、あるいはタイから安く輸入した如何にも古めかしいホラー物ばかり。さすが、観る気にはならなかった。それでも、今世紀に入ってからは、メイン通りのモニボン通りに面した映画館が小綺麗にリニューアルし、大きな看板までかかげて“現代”ものらしき作品を上映するようにはなっていた。
 興味をひかれ、平日の昼間入ってみたら、まだ上映前で、男女の高校生ばかりが群れていて、さながら中学校の休み時間なみのはしゃぎよう。昼間のせいか、一般客はわずか。やがて始まった映画は、どうも様子が、プノンペン=カンボジアのものとは思われず、ポルポト以前の首都プノンペンが小パリと呼ばれていたのを考慮にいれたとしても、まるで雰囲気も地理も違う。やがてそれが、隣国タイの首都バンコクらしい、それもどうも1973年に軍政側と学生の衝突したいわゆる“血の日曜日”事件を扱った映画らしいのが分かり始めた。何のことはないタイの映画だった。でもそれが、ポルポト時代以前に輸入したフィルムなのかそれともそれ以降あるいは最近輸入したものなのかは定かでない。


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 この2014年制作の《 シアター・プノンペン》の舞台ともなった映画館もそんな廃墟然とした旧い建物で、場所的には、モニボンなんかのメインの通りじゃなく、むしろ奥まった路地に面したような薄暗い佇まい。2014年現在でのプノンペン設定なので、まだまだ似たり寄ったりの映画館事情なのだろう。
 もっとも、昨今は、プノンペンにも、場所は定かでないが、日本出資のイオンモールが出来、タイの映画会社メジャー・シネプレックスが入って、多数のスクリーンも備わり、3Dどころか最先端らしい4DX(匂いも風も、しまいにゃ水で濡れたりもする体験型らしい)まで揃えているという。

 暴走族の親玉ベスナと恋仲の女学生ソポンは、ある日、ちょっとしたトラブルからプノンペンの町中の煤けた古の映画館の中に一人紛れ込んでしまう。
 そこには、立ち退きを開発業者の手先から迫られながらも、頑なに拒否し、何とかかつてポルポト体制直前に作られた恋愛叙事詩映画《長い家路》の最後の部分last reelの欠落を補って上映したいと願っていたベチアという初老の支配人が一人住んでいた。
 実は、その映画の主演の女優こそ、ソポンの病気がちの母親だった。
 以前女優をやっていたとは生まれてこの方一度も聞いたこともなかったソポンは、残ったフィルムの欠落部分を補おうと、通っている大学の映画部の教授に協力を仰いだ。生徒たちを引き連れ教授は、傷んだフイルムを整備し、残りの欠落部分を、ソポンと暴走仲間から抜けたベスナに主演の恋人同士を演じさせ、ベチアの案内で、かつてそれが撮られた場所へとロケに向かう。

 ところが、母親が撮影に参加し、監督のはずだったベチアと四十年ぶりに対面すると、途端血相を変え、「この男は監督じゃなく、彼の弟よ!!」と吐き捨てて逃げ帰ってしまう。ベチアやソポンの母親、監督たちはポルポト体制下に連行された労働キャンプで、誰かの内通で正体(ポルポト体制下では、映画関係者も処刑の対象となっていた)がばれそうになり、取調室=拷問部屋に連れ込まれたベチアが、拷問の末か、兄が映画監督であることを白状し、監督は処刑されてしまっていたのだった。
 そもそもが、ソポンの母親と監督は恋仲にあったのだけど、その映画で、仮面をした村の男を演じた俳優であもあったベチアも、ソポンの母親に強い恋情を抱いていたのだった。今回の欠落部分も、実はちゃんと映写室に残っていて、思い余って欠落部分を自分の恋情を遂げるシナリオに書き換えて完成させようと企図したものだった。その上、ソポンの父親も、実は、このポルポト的惨禍に深くかかわっていたのだった。


 中国でも文革時代の頃の惨禍・惨劇さらに現在でもその力学が作用しているらしい政治的相克には、中々触れられたくない雰囲気だけど、カンボジアのポルポト体制下に行われた惨劇、その渦中に放り込まれた人々の芯奥の傷(トラウマ)は容易に癒えることの難しい事柄で、端(外人)が勝手に思うようには触れがたいもののようだ。ポルポト全体主義体制下の愛憎的残滓が、しかも尚現在にもそれが暗渠の底に鬱々と暗い流れを作っているカンボジア的今を、流行のミステリー仕立てにしてみせた小品。
 あの、タイとは一味違った赤土から発するカンボジアの熱気と土埃が嫌いじゃない僕にとって、あらゆる意味で、興味深い映画作品。


 欠落した部分(リール)のあるフィルムって、すぐに、中国文化大革命や、それ以前の反右派闘争=百花斉放百家争鳴的整風運動などの渦中である巻(リール)が紛失し更にフィルム構成が支離滅裂にされてしまった中国映画《 孤島天堂 》(1939年)を想起してしまう。
 中国・文革=カンボジア・ポルポト派的社会革命、両者を統べるものはマルクス主義的全体主義ってところなんだろうが、中国文革の方は映画や芸術など自体を否定している訳じゃなく、あくまで党=毛沢東の意に沿っていない反党的、反革命的つまり右派として指弾されてのパージ・弾圧なので、その辺がポルポト的機械的全体主義と相違するところだろう。
 反右派闘争と文革に通底とているのが諜報関係のトップ康生で、毛沢東・江青とつるんで多大な犠牲者を出してきた張本人。《 孤島天堂 》の改変や廃棄も彼なら可能だったろうが、推測の域を出ない。その康生とポルポトの影響の伝聞が時折見られるけど、直接の接触はなかったようだ。 


 《 シアター・プノンペン》the last reel

監督  ソト・クォーリーカー
脚本  イアン・マスターズ / ソト・クォーリーカー
制作  カンボジア(2014年) 

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2017年7月 8日 (土)

改革開放的顛末 《 山河ノスタルジー 》

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 久しぶりのジャ・ジャンクー(賈樟柯)。
 第一作《 小武 》(1997年)で、国策=“改革開放”の波に何とも不器用に乗ることもできず旧態依然に翻弄されるばかりの庶民、その典型=象徴たる主人公・小武の右往左往の果ての凋落の軌跡を、これ又、改革開放的人民中国を象徴するようなくすんだ佇まいの地方都市・汾陽(フェンヤン)を舞台に描いて見せた。
 古からの名水=名酒、中国最古のレンガ造りの塔=文峰塔と鉱物資源でそこそこ有名らしい人口十数万の、石炭鉱山の影響か煤けくすんだ町の佇まいに、改革開放的溌溂さ等とは無縁な、それでいてそれなりに旧態から抜け出ようとして選んだみみっちいスリ稼業から足を洗えず鬱々とした日々を送っていた小武の姿が違和感なく溶け合っていて、絶妙な世界感覚に感動ものだった。

 
今回の現題《山河故人》、物語の基本的流れは、“ 世界の果てまで中国人 ”という、改革開放以降世界中に利潤を求めて飛び出していった出稼ぎ・新移民と、そんな資金も伝手もない零細庶民の国内的出稼ぎ盲流(=民工潮) に分かたれていった二人の幼馴染の男達との愛憎とその結節点たる女(タオ)それぞれの軌跡。
 そして、海外雄飛(ニュージーランド)していった実業家( 張晋生 : ジンシェン )の息子(ダオラー)の父親との確執と、中国語を忘れてしまったために雇われた母親と同年齢の中国語教師( ミア )に対する思慕といったところ。
 
 今回変わってる点は、物語の後半のオーストラリアでの時間設定が2025年と未来になっているところ。使っているスケルトン・タイプのノートパソコンがそれらしさを醸し出していたけど、母国語たる中国語を忘れ話せなくなるって現象は、海外に移住した人民中国(大陸)の中国人達の新世代にやがて起こりえる事柄として捉えられたのだろうが、そん新世代の青年ダオラーは、しかし、心の奥底に母親=母国中国への憧憬が不明瞭なままゆらぎつづけるって設定。
 これは、以前同じ大国インドの映画なんかでも頻繁に取り上げられていたテーマで、例えば若い娘でなくても、やっぱりカーストはじめあれこれの封建的遺風や宗教的しがらみを厭ってまだ自由の利く海外での生活を手放そうとは中々しない女達。それでも、移住先の米国でNASAでの仕事も順調なのにもかかわらず、子供の頃育ったインドの郷里に一度里帰りをし、その郷里の人々の温かな人間関係と後進性に心を捉えられ、米国に戻っても、徐々にインドの郷里への思慕の念が高まってきてとうとう帰国を選んでしまうというシャールーク・カーン主演の《サワデス》(2004年)なんかその好個の例。


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 北京からそれほど隔たっていない山西省の小さな町フェンヤンの約20年後の現在の姿は如何、と画面に展開される街並を眺めると、もはや以前の炭鉱や鉱山の町ってくすんだイメージは薄れ、否、もはやしがないスリの小武の舞台としてではなく、1999年のディスコティックなプロローグで始まる学校教師・タオと二人の幼馴染の男達の舞台って趣きに撮られた光景が展開していた。
 もはや値段票のついた安っぽい背広やサングラス、ウンコ坐りにタバコをふかしたり大きなホーロー碗で昼飯をがっつくような世界じゃなく、スマホを片手にワインでも酌みかわしそうな雰囲気。それでも、タオの父親が死んだ際、別れた実業家の夫(ジンシェン)が再婚相手とともに住む上海から、タオとの息子(ダオラー)を葬式に列席させるため呼び寄せ、迎えに現れたのが空港で、えーっ、空港も出来たのか驚いたら、どうも隣の中都市・太源のエアバスも離着できる国際空港(ほとんど東アジア便のみ) だったようだ。


 冒頭、ペットショップ・ボーイズの“Go West”(1993年)の曲にあわせて踊るシーンがある。中国では、'90年代後半に流行ってたらしい。正に、改革開放のテーマ曲って趣き。そういえば、かつて中国・雲南の大理の現地人ご用達のカフェで見た香港のビヨンドの何ともぬるい曲を若い娘達が嬉々として聴いていたのも、西方世界からの自由の春風って趣きだったのだろうが、ぼくが持参していた中国ロック(揺滾)の旗手・崔健の“紅旗下的蛋”をかけて貰い、大きなスピーカーからハードなロックが流れ始めたら、怪訝な顔して娘達はぞろぞろと店を後にしていったのを思い出した。
 この曲、最後の場面でも、薄っすらと雪の積もったフェンヤンの郊外で、かつて皆と一緒ににぎやかに踊っていた頃を思い出しながら、タオが、一人踊りはじめるシーンにも使われていて、何とも物悲しい哀愁を帯びたエピローグ。


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 東風は西風を圧す、はずが、Go West!! 西へ行こう、孫悟空一行ならめざせ西方浄土だろうし、西側世界へ出て行ってばっちり(外貨を)稼いでこい! だと、北朝鮮風味になってしまうが、改革開放的盲流の世界への流出。ダオラーが母国語すら忘れてしまう2025年頃には、世界に溢れ席巻してしまうのだろうか。
 タオが強引に押しまくられて結婚してしまう実業家のジンシェンは、やがてタオと別れ息子のダオラーを連れてニュージーランドに移り住むけれど、もう一人の、タオに袖にされる控えめな性格の炭鉱労働者の梁子(リャンズ)は、タオから距離をとることを条件に彼(ジンシェン)が買収した梁子の働いている炭鉱のそれなりのポジションの申し出を蹴って、町を出てしまう。フェンヤンからさほど遠くない邯鄲(かんたん)の夢で有名な邯鄲の炭鉱に職を求め、その内出逢った娘と結婚し、労働環境の悪い中で働き過ぎたのか病に冒され、小さな子供を連れて、再びフェンヤンも戻ることとなる。さっそく梁子の嫁がタオの家を訪れ、涙ながらに梁子の重篤な病を打ち明け経済的援助を乞う。
 上海から海外へと雄飛していった実業家のジンシェンと対照的に、小武を思わせるようなうだつの上がらぬ旧態依然の一方の典型・盲流的鉱夫=梁子のこの凋落は、やはり、小武と同致な存在として設定されているのか。意固地的旧態依然の形象?

[注] 盲流は、基本、農民達が都市部に出稼ぎにゆくことを指す。農民は農村に縛られ、出稼ぎは違法行為らしい。
 革命を起こした割には都市部と農村部の住民の身分扱いに基本的な差別を設け現在まで続いていることからすると、あの人民中国革命って、所詮、都市部住民・労働者達のための革命に過ぎなかったということになってしまう。
 荘園領主に縛られていたかつてのタイの農民達とそれほど際立った違いはなく、昨今のタイの農民達の反-軍事政権的運動の過激化の根もそこらへんにあるんだろう。
 都市部の住民が国内や海外に出稼ぎや移住してゆく流れを、中国語独特の言い回しで何と言うのか定かでないので、敢えて盲流=民工(=農民)潮の流行言葉を使わさせてもらった。

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2017年6月24日 (土)

 ウブド的食彩

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 1998年の6月末から8月末までの約2ヶ月、長年観たかった本場のバリ・ダンスの堪能の毎日だった。且つ、いつも狭苦しい安宿ばかりだったバック・パッカーにとって、バリ・インドネシアの宿=ホテルの快適性は申し分ないものだった。
 例のジャカルタ暴動でインドネシア経済が、とりわけ国際的観光地バリはもろその影響を受け、散々な目にあってしまい、泊まったホテル(バンガロウ)もそれまで15000レアルだったのが、25000レアルに値上がりしていた。尤もそれでも約2ドルに過ぎず、2Fのテーブルと椅子の並んだバルコニー、広々とした調度まで付いたワンルームにバスタブのあるシャワー・ルームまで備わっていた。

 
 そこの一人っきりのスタッフ、バリじゃ定番の名前ワヤンが、毎朝、部屋代に含まれる簡単な朝食を運んできてくれるのだけど、他の宿はいざ知らず、そのパン・ケーキが中々巧かった。バンコクの定宿TT2ゲストハウスなんかとえらい違い。
 最初の朝が、ココナッツの果肉を細かく刻んだものがトッピングされたパンケーキ、フルーツ・サラダ、そしてジャワ・ティー(ポット)。
 2回目の朝は、フレンチ・トーストにパイナップルとパパイヤのサラダ。ジャワ・ティー。
 3回目は、オムレツののったトースト、フルーツ・サラダそしてジャワ・ティー。
 毎回メニユーを変えて運んできて呉れるサービスの良さ。
 それをバルコニーの竹製の椅子が向かい合わせに並んだテーブルで、青い実のたわわに実ったバナナの樹が幾本も立ち並んだ庭先、その向こうに拡がる田園風景をも眺めながら食べる朝食は、又格別だった。
 確かに、如何にも安くあがるバック・パッカー的心性に違いない。


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 一番最初にバリ・ウブドで喰ったバリ・インドネシア料理は、その宿から路地を通って出た大通りの向かいのチャンプルー屋風の小さな食堂(ワルン)。
 揚げ物が多く、好みじやないけど、とりあえず魚や揚げ豆腐その他をライスと一緒にオーダー。
 いわゆる“ナシ・チャンプルー”。(ナシ=ライス、つまり定食)
 味は辛目。まあ、こんなものかってところだった。
 一緒に、てっきり地元のコーラと感違いして頼んだボトルのジャワ・ティーは、微かに甘みのある飲みやすい代物で、日本なんかで売っているブラック・ティーとは丸で味が違う。何か加工してあるようだった。


 “カフェ・ラティ”Cafe Ratihでサテー(串焼き)を食べる。
 チキン・サテー、野菜、ライス。コーク。ビンタン・ビール(小瓶)。
 サテーは大きな瓜を半分に切ったような木製の容器の中に炭火を入れ、その上に殆ど焼けた串肉を並べたまま運んできた。後は客が好みで焼き上げるって寸法のようだった。量が少ないのにも拘わらず、そこまで手の込んだやり方するのか、と最初驚いてしまった。それをピーナッツ・ソースに漬けて食べるのだ。味は悪くないけど、ピーナッツ・ソースの味が強過ぎて、どうも今一つ納得がいかなかった。
 ビンタン・ビールは、最近じゃ、他のアジアン・ビール同様、日本でも簡単に手に入れられるようになって、時折飲んだりしてる。ピルスナーのパテント製品のようだ。
 同じマルチ・ビンタン社から、アップル&ライム味の“グリーンサンズ”GreenSands(330ml缶)という清涼飲料があって、特別美味い訳じゃないが、けっこう癖になる飲物で、ウブドの小さなコンビニや雑貨店の冷蔵棚から捜し出して買ったものだ。3750レアルと安く、“セブン・アップ”が見あたらずその代用品として重宝した。 


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 グンタ・ブアナ・サリの開演時間待ちで、カラ集会所の近くの“チプタ・ラサ”(ワルン)で夕食。
 アヤム・バカール(照り焼きチキン)にライス。
 何よりも、バナナの葉っぱの上にライスってのが気に入った。
 ネット見ると、けっこう評判の店だったようだ。 


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 バリといえば芸能の国ってイメージとチャラい若い娘たちの群れる場所ってイメージもあって、ジャカルタ暴動がなけりゃ、芸能村ウブドの通りにも若い娘たちで溢れていた(らしい)んだろうけど、その夏は、如何にもそんな娘たち向けの小ジャレた感じの店(レストラン・カフェ)の並んだ通りはひっそりとしていた。そんな店には今ひとつ入り辛い。けど、ある程度以上の規模の店はそれでも客はそれなりに多く、表のガラス・ケースにジャーマン・ブレッドも並んだ、価格も手ごろな“カサ・ルナ”には、何度か足を運んでみた。
 広めの店内に如何にも赤道直下風なトロピカル植物が生い茂っていて雰囲気が悪くない。
 ここのメニューで気に入ったのはフルーツ・ティーで、水道水を使ってそのまま作ったような色の悪い氷が多い中、ここのはちゃんとした製氷器で作ったような四角い透明度の高い氷を使っていて、パパイヤやパイナップルの切り身がいっぱい入った、ジュースとは又違った味わいが悪くない。それで2000レアルは安い。フルーツ・パイも悪くないけど、当方にはちょっと甘過ぎた。


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2017年6月10日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち その3

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 8月の後半、そろそろバリ=インドネシアの二ヶ月の滞在ビザの残り少なくなってきたある夕刻、グンタ・ブアナ・サリ公演のある集会所の斜め前のプリ・カレランを訪れる。
 今夜も上空は黒っぽく雨雲が垂れ、時折ポツリ、ポツリと雨滴が落ちてはいたものの、何とかなりそうな雲行き。既に会場には椅子が並べられていて、左寄りの中央あたりに坐った。ここは場所が狭いので前後2列にしか並べられない。
 やっぱり、屋根がついているとはいえ室内より、狭くても野外の方が好い。
 ここの前門は、他と違って、踊娘たちが登場してくる階段が三段しかなく、段差がはげしいので、小さな小娘たちには急過ぎるのじやないかと気になった。案の定、例のチョンドンを舞う小娘が最後の段差降りた時帯か何か落とす事態を招くことになったのは、前回述べた通り。
 開演1時間前の6時半頃には、いつもの清涼飲料の入ったバケツをかかえた売娘たちの顔も揃った。美形の“アクセサリー・ブティック”の娘は来てなかった。今夜は客が少ないと読んだのだろう。お決まりの小娘から2000ルピアでコーラを買う。もう、値段交渉もなく、ストレート。


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 ここは控室に入るには通路が一つしかなく、同じ庭の左端を通ってゆくしかない。
 当然、踊娘たちがそこを通るので、その脇に佇み、次から次へとやって来る彼女たちを眺めた。例の余り踊りが巧くない二人組の娘たちが姿を現す。この娘たちだったか定かじゃないけど、スクーターかバイクの後部座席に乗って現れた踊りの今一な娘が、化粧箱を片手に妙に気取って“わたしは違うのよ”とばかり、しゃなりしゃなりと奥の控室に向かうのを横目に、同じくらいの年頃の15、6歳の小肥りした楽団員が露骨に嘲笑ったのを想い出した。ひょっとして同級生なのかも知れなかった。面白くもあり、微笑ましくもあって、思わず笑ってしまった。
 やがて、ユリアティとビダニーの姉妹も連れだって現れ、入口から端の通路に入ると、急に駆け出し走り抜けていった。この二人もそうだったけど、大抵の踊娘は顔だけはメイクを既に施していたものの服装はTシャツやなんかの普段着のまま。
 その後、例のチョンドンのあの小さな小娘が、父親なのか兄弟なのか、30歳前後の男の運転するバイクの後に乗ってやってきた。バリス(騎士)役らしい中学生くらいのメンバーはバリスの派手な衣裳を纏って堂々と現れた。


 雨雲もいつの間にかかき消え、7時半に演奏が始まった。
 いつもシンバルを叩いていた肥えた青年の姿がなく、代わりに中学生くらいの男子が坐って小さなシンバルを亀の形をした5個シンバルが並んだ台に叩きつけた。
 のっけからユリアティが花撒きの踊に出演。
 やがて真ん前で止まり、大きな瞳と紅い唇で微笑みながら舞う彼女に暫し魅入られてしまった。
 場所が狭いので客と間近なせいもあるのだろうが、客と視線を会わすまいとしてか、ぼくと隣の白人女性の間に視線を据え、彼女の些かの緊張すらが伝わってきそうで、思わずドギマギしてしまった。


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 クリンチ・ダンス(少女たちのウサギ踊)で、女優・岩下志麻に似た可愛い娘が先頭に立って石段を降りてきた。いつもの如く、幾分緊張し興奮気味の表情を顕わにしていたのが、やがて二人づつ向かい合わせになって踊るパートになると、フッと本当に嬉しそうに微笑んだ。
 緊張が解けた一瞬なのだろう。
 表のGBSの看板に、彼女の大きな写真が掲げられていて、何時だったか、スタッフがファンらしい女性日本人客と一緒に彼女を並べさせ写真を撮らさせていたこともあって、その志麻ギャル、ビダニーより一、二歳下なのか、人気上昇中の舞娘のようだった。名前も知らないけど、その後どうなったろう。第一線で活躍してるのだろうか。
 ビダニーは、機(はた)織り踊に途中から出てきた。
 何かの事情で遅れたのだろう。
 あげく、途中から入ってきたので勝手が違ったのか、珍しく、一回廻る方向を間違えてしまった。それでも、その四人の中じゃ、素人目にもだんとつに一番巧かった。
 

 終了後、通路の段にも入口のあたりにも現地の住民たちが群がっていて、ユリアティ&ビダニーも志麻ギャルも小走りに駆け抜けていった。ユリアティ&ビダニーは家人のバイクの後に煌びやかな衣裳のまま横坐りし、プリアタンの夜闇に颯爽と消えていった。
 束の間の喧騒を余所に夜空を見上げながら、単体の星なのか星座なのかすら定かでないパッカーたちがあれだそれだと言い合っていた南十字星を捜してみたけれど、さっぱり分らず、そん時以降赤道直下を訪れる機会もないまま現在に至ってしまって、残念至極。

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2017年5月31日 (水)

プリアタン(バリ)の舞娘たち その2

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 ユリアティがレゴン・クラトンのチョンドンを舞っていたプリアタンのグヌン・サリは有名だけど、二つ違いの妹ビダニーがやがてチョンドンを舞うようになったティルタ・サリの方が人気の点では上のようで、明らかに観客数も多く、衣裳や照明も凝っていた。コマーシャリズムには目もくれないグヌン・サリの方が好きだけど、勿論若干の差に過ぎない。
 一方、ウブトの中心地とも謂われるウブド・パレス(サレン王宮)は、場所柄、一番観客が多く、夜の公演以外にも、昼間は子供たちの公開稽古って趣きの催物も行われていた。近くを通りついで、休憩がてらに、当方も、木蔭の石段やに腰掛けて眺めてたりしたものだった。
 グヌン・サリで、ユリアティの後釜に坐ったチョンドン役の小娘も、ここでいつも一人だけ真面目くさった面もちで稽古に励んでいたのが印象的で覚えていたら、やっぱりな、と言う訳だった。これは蛇足だけど、彼女、十歳にも満たない小さな少女で、グンタ・ブアナ・サリの公演でチョンドン役で前門からチョコチョコと舞ながら階段を降りてきた時、三段の石段の段差が彼女にはチョット危ういような懸念を覚えた。と、最後に床に踏み降りた途端、ストン!と、帯かなんかの一部が落ちてしまった。ところが、彼女、一片の動揺も見せず、平然とそのままメリハリの効いた舞を続けたのだった。さすが。ユリアティの後釜に坐れた由縁だ。


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 このウブド・パレスを拠点にしているサダ・ブダヤの人気舞姫がグン・マニ嬢で、当時30歳代だったのだろうか? 
 前夜、夕方にわか雨が降ったので地面が濡れてて、通りを隔てた向かいにある集会所で催されることになったサダ・ブダヤの公演( レゴン・ダンス。サダ・ブダヤは金曜にもバロン・ダンスを公演していた )、晴天の翌日も同じウブド・パレスに公開稽古を観に訪れた。ちょっと眺めて直ぐに出ようと思ってたら、舞台の奥に、周囲の小娘たちよりも少し上の高校生くらいの年頃の娘たちが並んでいて、面白そうなので彼女たちの舞も観てみようと思った。
 が、幾ら待っても彼女たちの番が巡ってこない。
 どうなってんだ、と訝し気にあたりを見遣ると、いつの間にか、当方が坐っていた円形の石のベンチの周囲にサダ・ブダヤのTシャツにジーンズ風の普段着のままの男女メンバーたちがどんどん集まって来た。つい先っきまで少女たちに手取り足取り教えていたグン・マニ嬢の姿すらあった。サダ・ブダヤ関係者ばかりのど真ん中に部外者の当方だけが一人居座ってるのも何か邪魔しているようで気が引け、そそくさと反対側にある楽器にカバーを被せたままの舞台の縁に移動した。そこからだと先っきの円形のベンチの方がよく見えた。
 すると、あのグン・マニが嬢が一人こっちへトボトボ近づいてきた。
 舞台の縁の前に立ち止まり、一人佇んだままじっとしている。
 如何したんだろうと暫し小柄な身体にTシャツとサロンまで纏って何かをじっと待っているような風のグン・マニ嬢を見遣っていたが、余りまじまじと見詰めているのも憚られ、前方の丸石のベンチ周辺に屯している男女メンバーの方に向き直った。
 と、その内、黒っぽいTシャツにサロンを腰に巻いたグン・マニ嬢、ツ、ツ、ツと前方に歩み出、おもむろに一人舞い始めた。後ろ姿しか観れなかったものの、舞台とは又一味違った薄化粧の彼女舞う姿は、妙にリアルで、舞台の上じゃ化粧で幾分ふっくらと見えてたけど、殆ど素の彼女は少しやつれた感じがするがチャーミングな三十代女性であった。
 その内、勝手に練習しているのだと思い込んでいたのが、実はリハーサルだと分った。
 奏でられるガムランとグン・マニの舞が渾然一体となって流れ出した。
 やがて、舞ながら少し乾いた声でセリフまで言い出した彼女に、指導員らしい小肥りしたパンタロン姿の中年女性が、付きっきりであれこれ指導をはじめた。ずっと当方の隣に坐っていたジーンズ姿の若い娘もサロンを纏ってその一団に加わっていった。
 観ていると、まだ出来上がったばかりの演目のプロトタイプって感じで、馬の頭を被って舞っていた青年なんかはまるで慣れていなかった。それでも中々の見物で、飽きもせず眺めていたら、とっくに3時間も過ぎていた。このハプニングに近いリアル感は、やっぱし本場でないと味わえない醍醐味。


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 乾期の割にゃ天候不順の8月はじめ、プリアタン王宮の先の集会所に、グンタ・ブアナ・サリを観に行く。
 ところが、集会所は電灯も消えガラーンとして公演が行われる雰囲気は微塵も感じられなかった。ふと、見ると、少し戻った向かいの歩道側に幕らしきものが張ってあって、ひょっとして、とそっちへ向かうと、果たして、その脇に“ グンタ・ブアナ・サリ ”の看板が立っていた。覗いてみると、露天のかなり狭い場所で、観る分には間近にユリアティ、ビダニーたちの姿が観れるのでそれは却って有難いことだったけど、まだ箒で掃除中で椅子も並べられてなかった。
 ところが、やがて空模様が悪くなってきて、ポツリ、ポツリと雨滴が落ち始め、いつもの屋根のある集会所に戻ることとなった。そこで小娘から2000ルピアで買ったコーラを手に、バケツを下げた売娘たちと一緒にトボトボと元来た道を戻ってゆくと、雨が止み、すると又先っきの狭い露天の一角で演るってことになり、すっかりぬるくなったコーラ瓶を片手に再び売娘たちと戻っていった。
 しかし、見上げると、上空は真っ暗。
 どうみてもまだ降って来そうで、ライトをセッティングしているこのグループのマネージャーらしき髭男に、いつもの屋根のついた場所の方がベターだと進言すると、彼も結局その案に乗り、再々度移動することとなった。小雨の中、缶コーラやボトルの入ったバケツを重そうに下げた売娘たちと辟易しながら歩いて戻っていった。
 それでも、楽器の運搬とセッティングに手間取ったものの、定刻より少し遅れたぐらいで開演。 ユリアティはペンディットを、ビダニーは機(はた)織り踊を舞い、レゴン・クラトンのチョンドンは例の小娘が舞った。
 プリアタンの舞姫たちの世界も少しづつ変化していくのだ。
 プログラムがすべて了って外へ出ると、雨はあがり、ほぼ満月が静かに夜空に輝いていた。

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2017年5月20日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち

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 かれこれ来年の5月14日で丁度20年になるという1998年5月14日にインドネシアの首都ジャカルタで発生し、インドネシア中を席巻した“ジャカルタ暴動”。
 主にそのターゲットに中国系の人々および商店・企業を狙い撃ちし、千人以上の死者まで出し、それも普通余り例を見ない小さな少女や老婆までレイプし殺害した暴動だったけど、悪名高いスハルト軍政権力とその眷属輩が背後で糸を引いていたってことのようだ。( 後、インドネシア全土に拡がるにつれて、宗教戦争の様相を呈しはじめた。)
 

 そんな禍々しい事件の余韻も醒めやらぬ7月、バンコク・ドンムアン国際空港から、40分遅れのガルーダ航空B747-400に乗り、両側にコバルト・ブルーに映えた海が拡がるングラ・ライ(デンパサール)国際空港に降り立った。
 インドネシア=イスラムと相違して、唯一例外的に殆どがヒンドゥー教徒の島・バリ故にか、そんな痕跡も燻(くすぶ)りも見えなかった。只、バンコクのパッカーたちに定番の如く聞かされた“若い日本人娘”で溢れかえっているはずの、クタはまだしも、芸能村ウブドの通りという通りは、閑散として静かにプリメリアと椰子の葉が風にそよいでいるばかり。店の前に屯している、本来は日本や欧米の若い娘だと先を争って駆け寄ってくるバリ・ジャン(?)たちも、こっちが冴えない風体のいわゆるバック・パッカー(=貧乏旅行者)野郎だと一瞥を呉れるだけで微動だにすることもなく、所在なさげに物憂い眼差しのまま雑談に余念がなかった。

 インドネシア・ルピアーの暴落で、それまで月10万ルピアーもあれば貯金すら出来ていたのが30万ルピアーは必要になってしまい、暴動の余波で観光客が激減し、閉める店やホテルが増えてしまって、必然的に失業の若者も増えてしまった。バリとは無関係のジャワはじめイスラム・エリアでの暴動・事件でしかないのにもかかわらずえらいとばっちり。尤も、バリでもスハルトおよびその眷属輩の評判は余り良くはなかった。( その辻褄を合わせるように、後になって、ヒンドゥーの島国バリにも、イスラム勢力がやってきてテロを起こし始めた。)
  インフレでどんどん物価が上昇し続け、ウブドで最初に観たバリ・ダンス、セマラ・ラティの“スピリッツ・オブ・バリ”が、最初チケット屋の青年から1万ルピアでチケットを買って、そのままそのチケット屋のバイクの背に乗って会場に到着すると、もう1万5千ルピアに値上がっていた。(当時APAでのレート : 1$=14450ルピア/現在 : 1$=13335ルピア)
 最初安いと思っていた郵便料金なんて、例えば葉書(エアメール)の送料が1000ルピアだったのが、ほんの一ヶ月の間に、6800ルピアに跳ね上がってしまった。こりゃ地元住民たちもたまったものじゃないだろう。

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 ( グンタ・ブアナ・サリは踊手もガムラン器楽奏者も皆若かった。チョンドンの衣裳を纏い微笑んでいる娘こそまだ幼い頃のユリアティ )
 

 これは今でも変わらないようだけど、木曜はセマラ・ラティ、金曜はティルタ・サリ、土曜はグヌン・サリそして月曜はウブド・パレスのサダ・ブダヤがバリ・ダンスを上演。
 当方の本命は、グヌン・サリ。
 土曜7時半開演。
 次から次へと畳みかけてくるように息もつかせぬ演奏と舞に惹き込まれ、終わった頃にはぐったりと神経が疲れてしまった。
 何よりも、レゴンクラトン(ラッサム)のチョンドン(侍女と鳥の二役)のユリアティ Gusti Ayu Sri Yuliathi が白眉。
 当時まだ14歳で、2歳違いの妹ビダニーもティルタ・サリで同じくチョンドンを演っていた。
 二人は舞台で化粧した顔は判別し難いくらい似てるけど、ユリアティが丸顔、ビダニーが瓜実顔なのでそれで判断できる。
 当時、制服姿の下校中の二人と間近で遭遇した時、素ッピンの二人の相貌は、正にその定形通りだった。小麦粉色の、エキゾチックな魅力的な顔立ちだけど、やっぱし、も一人一緒に並んで居た同級生と変わらぬ普通の中学生でもあった。この二人、当時日本人観光客の間でかなり人気があったようで、APA(ウブドの観光情報センター)じゃ彼女たちのプロマイドを売っていたぐらい。


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 当時、チケットは大体1万5千ルピア=約1ドル。
 現在はゼロが一つ増えて10万~7万5千ルピア、約7ドルぐらいってことは、当時と較べて7倍近く値上がったということか。昨今のバリの景気は必ずしも悪いわけじゃないようで、大手ホテルが次々と進出しているらしい。けど、それらがそのまま一般庶民にまで還元されるかといえば、日本(とくに地方)すら中々にそうはなってはいないのと同様ほど遠いのだろう。
 二ヶ月近くウブドに滞在した後半頃、ユリアティはチョンドンを卒業し、以前ウブド・パレスの公開練習で見かけた一人だけクソ真面目に稽古に余念のなかった十歳にも満たないのじゃないかと思われる小さな少女がその跡釜に坐った。
 グンタ・ブアナ・サリという少女・少年たち(日本語のチラシによると、10~17歳)のガムラン演奏と舞のグループの公演でも、ペンディット( 歓迎の舞 )にユリアティが出演し一人存在感を顕わにしてたり、妹のビダニーがチョンドンを舞っていたりしていた。尤も、このグンタ・ブアナ・サリ、現在じゃ、当時の若いメンバーも年を喰っていい歳になり演奏に円熟味も出てきてるらしい。


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 あれは忘れもしない8月1日。
 角にあるダラム・プリ寺院で、殆ど燃え尽きよう(=村落的祭祀)としている大きな張子の黒牛や他の牛の姿を横目に歩いていると、ふと見覚えのあるバケツを手にしたミドル・ティーンの美形の娘と出喰わせ娘の方からニッコリと笑い話しかけてきた。
 いつもプリアタンの公演会場でバケツに入れたドリンク類を売っている顔なじみの娘で、何しろ美人なので一応買うつもりで打診するのだけど、いっかな法外な言値を崩すことないので大抵一緒にいる小さな暴ることをまだ知らない小娘から買うことになったのだけど、祭があると公演は行われないことがあるらしいので、「 今夜グヌン・サリの公演はあるのか」、彼女に尋ねてみると、「ある!」と答えた。公演会場でいつも彼女と連れ立っている別の娘がユリアティの同級生だった。

 その夜、グヌン・サリの公演を観た。
 が、噂には聞いていたユリアティがチョンドンから卒業するかも知れないって事態が本当に起こってしまった。レゴン・クラトンの長い前奏の後、前門から姿を現したのは、見も知らぬチョンドン役の女・・・
 一瞬、両の眼が点になってしまった。
 ・・・・・ おばさん?!
 それも、絵に描いたような中年体形の・・・・
 それがバタバタと、ユリアティやビダニーの如く可憐な蝶が舞うように華麗に舞うのじゃなく、正にバタバタと。
 悪い夢でも見せられている様だった。
 と、暫くして、その背後から、シナリオ通り、緑の衣装に細っそりした身を包んだラッサムとランケサリ役の二人の娘が現れた。
 あっ!、当方、思わず声を洩らした。
 ・・・ ユリアティ。
 衣装の色こそ違え、正にあのユリアティだった。
 救われた思いだったものの、やはり、チョンドンにおばさんは・・・
 そして、その前夜、妹のビダニーがティルタ・サリでチョンドンを舞い、以降定位置となった。

 
 この数年、ユリアティは銀行に勤めながら、グヌン・サリだけじゃなくティルタ・サリでも、レゴン・クラトンを舞っているという話をネットで見たけど、一方のビダニーは、何年か前、ユリアティと同様結婚してしまい、小児科医として医業に専念することとなって舞台からは遠ざかっているという。

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