カテゴリー「書籍・雑誌」の249件の記事

2019年7月 6日 (土)

時代閉塞的断章 《 白い花 》 秋山清

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 YOUTUBEで土取利行が朗読している秋山清の《 白い花 》、詩は特に好きという訳じゃないけどこの作品は結構気に入っていて、時々視聴したりする。
 土取の朗読の仕方もあるんだろうが、戦時中という前提もあって一語一語がシリアスに心底に沁み入ってくる。
 ところが、秋山の著作にその《 白い花 》を彼自身解説した《 わが解説 》(文治堂書店 )があると知り、早速Amazonで取り寄せてみた。
 奥付をみると“ 2004年発行 ”とある。
 あれ、確か秋山って昭和に亡くなっていたはず、と思ってると、果たして解題に昭和63年( 1988年 )で84歳で死去とあり、《 わが解説 》自体は昭和52年から文芸誌《 幻野 》に連載したものという。
 そもそも《 白い花 》って、同じタイトルの《 白い花 》という昭和10年~21年の主に戦時下に書き溜めた作品をまとめたタイプ印刷の小詩集で、発行所はコスモス社。
 タイプ印刷といえば、手書きのガリ版刷りよりワン・ランク上の印刷ってことだけど、どちらも簡素なことこの上ない。それ故にシンプルな妙味もある。

 “ わが解説 7 《 白い花 》前後 ”の冒頭。

 


 「 薄っぺらな詩集『 白い花 』には短い詩が三十数篇集められ、それは一九三五年( 昭和一〇)から一九四六年に至る戦争の十年間の私の詩のすべてである。未発表のものも多く、『 反対 』『 文化組織 』『 詩作 』等の他『 林業新聞 』という方角のちがったところにも掲載してもらった。何といっても寡作であった、ということを併せて、その理由は私の非力と未弱、それ故に戦争というはげしい現実が詩に耐え切れなかった、ということがもっと大きい。」

 

 

 「 ・・・戦後何かが華々しく見えた時代にも、その作品はひたすらに見すぼらしかった。しかし本当に見すぼらしかったのは、この本の中味である。戦時下の人民的抵抗の一つであったといわれることがあったとしても、質量ともに貧弱きわまることは私自身が証明する。この小っぽけな詩集の中の詩を二つか三つか、とり出して、秋山清の詩的レジスタンスは、なにと語るとすれば、そのように見えるかもしれない。が一冊の詩集としての貧しさは、到底語るに及ぶものではない。それに値する作品があるかと問わるれば一も二もない。」

 

 

 上記の“ 人民的抵抗の一つ ”とは、吉本隆明の《 抵抗詩 》の中のでの言葉であろう。

 

 “ ・・・この三篇(「 白い花 」「 国葬 」「 拍手 」)の詩にひどく感銘をうけた。当時は、わたしなどの戦争期の記憶などからすると、ちゃきちゃきの戦争謳歌の詩をかいていた詩人が、いっぱしの抵抗詩人であったかが如き言辞をロウし、・・・わたしは決定的にニヒリステイクであった。そなんとき、秋山の詩をよんだのである。
 わたしの当時の感じは、「 これならほんとうだ 」というものであった。これを抵抗詩と呼び、これを抵抗詩人と呼ぶなら、わたしも承認してもよいという感じであった。”

 

 

 

 「 支那事変のはじまるより以前に私たちは、現実について書くための表現方法を求めようとして、それで以って検閲の目をくぐろうとの思惑を併せ持とうとした・・・その全くささやかな視点をわがものにすることの実践は矢張りむずかしかった・・・
 私らの詩法「現実に語らせる」というのは、目に見たものを描写することから発し、事実( 現実 )を先ず捉え、それによって真実を表現しようとすることであった。そこには省略も拡大も必要であるが、存在の現実を描いて真実を語らせるまでの力は私にはなかった。」 

 


 「 詩集『 白い花 』のなかに「 白い花 」という短い詩がある。昭和十九年( 一九四四 )の秋、私はある若い友人がアッツ島で戦死して、近く区民葬として大勢の戦死者といっしょの葬儀があるという話を聞いた。彼の父と妻と子供たちは東京の世田ヶ谷区のどこかに住んでいた。そのことによって私はこの詩をかいた。」

 

 

  アッツの酷寒は
  私らの想像のむこうにある。
  アッツの悪天候は
  私らの想像のさらにむこうにある。
  ツンドラに
  みじかい春が来て
  草が萌え
  ヒメエゾコザクラの花がさき
  その五弁の白に見入って
  妻と子や
  故郷の思いを
  君はひそめていた。
  やがて十倍の敵に突入し
  兵として
  心のこりなく戦いつくしたと
  私はかたくそう思う。
  君の名を誰もしらない。
  私は十一日になって君のことを知った。
  君の区民葬の日であった。

 

 

 「 全軍が死んだアッツ島の戦争は想像の及び難いことであった。だが、当時日本兵がそこの山陰に休んでいる光景や白いアッツザクラなどがうつくしく新聞には出ていた。僅かな夏期に茎みじかく咲く白い花に見入っている兵の姿もあった。悪天候ということや日本では思いもつかぬ寒気、そんなことは皆新聞で知った。そこでは野草の花のヒメエゾコザクラを兵たちがアッツザクラと呼んだこともあったという。」

 

 

 「 すでに太平洋を制圧していたアメリカ軍が、十数倍の兵と武器とを投入してアッツ島に迫り、のしかかって来れば、逸早く白旗をかかげぬ限り、全滅は必死である。全軍が死んでから幾日か幾月かが過ぎてから、戦死の友人もまじった合同の区民葬ときいたのであった。私は、知るかぎりのアッツへの思いを駆使して一篇の「 白い花 」を書いた。そらの珍しく晴れた晩秋の一日が記憶に残ったのである。」

 

 

 「 この詩のなかに「 心のこりなくたたかいつくした 」という一行がある。あれはじつに不安定な、無責任な言葉であったかもしれない。たたかいつくすとはどういうことか。全軍が一人のこらず死なねばならぬということか。跡方もなく壊滅し、一人の生きた者もなく、討たれ果てたということか。多分そうであろう。だが、死にたくない思いを故郷の妻子に傾けて、おののき死んだ者の上に、たたかいつくしたという言葉が使用できるだろうか。私が説明したような意味がそこから発生して読者に伝わるであろうか。少なくとも作者はこの言葉には不満である。だから、「 たたかいつくしたと私はかたくそう思う。」となったのである。私は心やさしかりし友人が、君国のためわが命を捨てることを我と我が身に悲しんだであろうことを信じたかったが、十分にそのようにはかけなかった。たたかいつくしたという表現に、いくらか、わずかに、その無念の思いが表現できたらとあせりながら、こんな詩になってしまった。」

 

 

 「 自己の思いによって何ものも充たされることなく、死に向かうことだけしかなかった、といったことを、時と所とを隔てて思い返して見れば遺憾のみがあって、心の開かれるところはどこにも、何一つもなかったであろうことが思われ、そのような人の思いに届くことはこの詩には描かれなかった、そのことをつくづく悟らされるのである。」

 

 

 本当は、白い花、つまり秋山のいっていたヒメエゾコザクラ=アッツ桜の写真でも乗っけておこうと思ったんだけど、いざネットで探してみると、まあ、これがてんで埒もない。あるのは、濃いピンクの“アッツ桜”ばかり。
 これは秋山の零していた、" 近頃東京の花屋でも売っている花弁が一枚多い、しかしどう見ても桜には見えない "白い花の類。おまけに、かつて白だったらしいのが、昨今じゃ紅い花ばかり。おまけに、この現在流布している“アッツ桜”は、そもそもが北方・寒冷地体とは真逆の南アメリカ原産( ロードヒポキシス )という。
 で、“ ヒメエゾコザクラ ”の方はといえば、これは五弁だけど、まずアッツ桜と同様濃いピンクあるいは紫色ばかり。稀に白い花もあるようだ。花弁の形は桜より細長い。でも、このエゾコザクラ(蝦夷小桜)、オホーツク・ベーリング沿岸エリアの寒冷な草原に咲く多年草というから、こっちの方が可能性が高い。
 恐らく、【 アッツ島占領 】の記事の写真にヒメエゾコザクラ=エゾコザクラにロードヒポキシス花が似ていたからアッツ桜として売り出したのだろうが、秋山が新聞で見たらしいヒメエゾコザクラ自体がどんなものなのかはっきりしない。

 

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2019年6月22日 (土)

真夜中の告発者 生ける彫像 ( 大泉黒石 )

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 大泉黒石の短編《 生ける彫像 》が掲載されているってことで入手してみたのだけど、いわゆる昭和初期の“エログロ・ナンセンス”を地でゆく体裁の雑誌《 グロテスク 》( 1929年=昭和4年新年号 )であった。
 おまけに、そんな雑誌の特性に合わせたように、黒石、巻末の10ページにも満たないミニ短編《 生ける彫像 》とは別に、《 勧燬(き)淫書論 ( ルビ : いんしょせいばつ ) 》なる論考をも連載しているようで、むしろそっちの方に興味を覚えてしまった。

 

 

 表紙に、“ 耽奇・探奇・談奇”とある。
 終戦直後の薄っぺらなカストリ雑誌と相違して、それなりのページ数のあるちゃんとした雑誌の体裁で、発行者は、この雑誌にも自身の論考を複数掲載している、発禁になった訳書《 デカメロン 》で有名になった梅原北明という明治の宮武骸骨に勝るともおとらない反骨精神旺盛な出版者。
 そもそもが梅原、明治末の幸徳秋水ら十数人が死刑に処された《 大逆事件 》に衝撃を受け、アナルコ・サンジカリズム運動にも影響を受けて、一時“水平社運動”に参入し結構活躍していたという。
 後年、上海のカジノで知り合った帝国海軍元帥・山本五十六も、彼のファンだったという話もあるらしく、その縁でか、いよいよ“時局”が押し迫ってきて、窮した梅原に海軍がらみの仕事を提供してくれたという。

 

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 ( チェコ出身の幻想怪異画家リチャード・ミュラーの作品。モノクロの同じ構図の作品もある。)

 

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  扉の口絵に、ページ中頃の“ グロテスク画集 ”にも掲載されているチェコ出身の画家リチャード・ミュラー( リヒャルド・ミュラー)の幻想的・怪奇的作風の絵が掲げられ、その次にとじ込みの両開きの小さなピンクの《 新年号目次 》があり、そのもう一つ後には国芳の浮世絵《 狸の睾丸画集 》と題した色刷り版画風まで折り込まれている凝り様。 
 全体的にモノクロ写真や挿絵が適時配されている。   
 梅原北明自らも( ペンネーム多いらしく、他の名で掲載しているのもあるかも知れないけど、当方には不詳 )梅原の名で複数の論考を載せていて、《 阿片考 》じゃ写真や図解まで使って阿片の吸引器具・使用法を懇切丁寧に認めている。


 《 生ける彫像 》の巻頭にも小さなモノクロ挿絵があしらわれていて、本来は、当時ヨーロッパやロシアで活躍した舞台美術・衣装デザイン・挿絵なんか手がけるベラルーシ生まれの美術家レオン・バクストの、1910年パリ・オペラ座で行なわれたロシア・バレー団の《 シェラザード 》の舞台装置の前年に描かれたものなら下絵かデッサンというところだろうか。1909年は同じロシア・バレー団の《 クレオパトラ 》だったようだ。
 シェラザードといえば、《 アラビアン・ナイト 千一夜物語 》だけど、黒石の短編と特に係わりがあるとも思えない。共に、深夜の語りって一点で共通はしているけど。

 

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 ( 中扉。先月号、つまり12月号が発禁となったとある。)

 

 それにしても、肝心の黒石の《 生ける彫像 》、余りに短かい。
 要は水子譚ってとこなんだろうけど、黒石らしく、最後の最期に一ひねり入れている。
 正に、“ 咄 々々 ”。
 ネタ元は、その何年も前、大正末の世相を騒がせた“ 柳原白蓮事件 ”なのは明白で、成金財閥、皇族・華族、それに右翼・女性権利拡張運動もが絡んだ話題に富んだスキャンダル故に、黒石的には待ってましただろうけれど、だったらもっと縦横に描いていいはずが、所詮スキャンダルってことでか、軽くあしらった。( 確かに、描きようによっては、再度、発禁 ! って事態に到りかねなかっただろうが ) 
 

 

 と、ある成金資産家、“五十万”( 大正時代頃の資産家の財産基準らしい )とのっけから但し書きし、いわゆる財閥レベルじゃないところをあらかじめ明示している。理由はモデルにした“ 柳原白蓮事件 ”故に、九州の石炭財閥当主そのままに登場させる訳にはいかなかったのだろう。
 叩きあげの筑豊・飯塚の炭鉱王・伊藤伝右衛門の方はともかく、妻の、歌人として知られていた伊藤の半分の年齢の柳原白蓮=燁子( あきこ )の方が問題だった。
 彼女の父親・柳原前光は、大正天皇の生母の柳原愛子の兄で元々の公家、彼女の兄・義光は貴族院議員、姉・信子の夫・入江為守は東宮侍従長とどっぷり天皇=皇族・華族的しがらみに漬かっていた白蓮=柳原家。とりわけ、貴族院議員の兄・義光の選挙資金がらみの政略結婚の噂が喧しかったようだ。
 そんな白蓮が、よりによって、大陸浪人・革命家として高名だった宮崎滔天( 当時は既夢破れて病床に伏していたらしい )の息子・宮崎竜介と不倫関係になり、失踪し、竜介の下に走ってしまった。
 市井の一市民同士の不倫失踪ならまだしも、それでも当時は姦通罪に問われてしまうが、皇族=華族がらみってことでかなり世間にバッシングを受けた。成金財閥の伊藤自体はそれ程悪しざまに言われるような質の人物じゃなかったらしいものの、裸一貫で切った張った三昧の炭鉱労働者関係と渡り合ったりのおよそ教養とは無縁の処世故に、華族深窓の歌人娘との対比で如何にも式に女性権利拡張論者・運動家から誹られつづけたという。その辺の所も斟酌・加味した黒石的展開にはなっている。
 宮崎滔天は息子と白蓮との結婚を応援していたようだけど、世論は厳しかった。
 福岡の右翼団体《 黒龍会 》も白蓮非難の急先鋒だったようだ。
 それでも白蓮、不義の子を産み、何年か後には龍介と一緒になってしまう。
驚いたことに、その子を、当時の宮内省が、伊藤が怒りを露わに断っても断っても、執拗に伊藤に自分の子としての認知を迫りつづけたという。終いには、伊藤、自ら精子検査を受け“生殖不能”、つまり彼の子じゃないってことを証してしまう。
 

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 ( 巻末の新春増大号扱いで、黒い縁取りが付されている。)

 

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 ( 1910年のパリ・オペラ座での<シェラザード>のレオン・バクストの舞台装置。<生ける彫像>の巻頭に配された挿絵とは別のもの。写真かと思ってよく見てみると絵のようでもあり、定かじゃないので画像としておく。バクスト自身の手による作品かも。)

 

 
  「 ・・・動物の貂皮でおおわれた臂(ひじ)掛椅子に、ふかぶかと身を埋め、閃く石の美しい双手に、額を支え、皺だらけの顔に沈痛な色をうかべ落ち窪(くぼ)める眼に愁しげなる涙さえ湛えて、物思いに沈む、半白の老紳士があった。言うまでもない。これが此の部屋この邸の主人なのだ。彼はこの夜の枕に就くべく、ここに入り来ってより数時間を、この姿こうしているのだが、時々はその暗い面を静かに擡(もた)げて、寝臺(しんだい)の真上の壁に、沾(うるお)える眸(ひとみ)を向け、そこに掛けてある額を瞶(みつ)めながら、深い溜息を洩らすのである。額の中には世にも比類なく麗しき夫人の肖像が嵌めこまれている。」

 

 

 冒頭の資産家が深夜、彼の自宅の一室で亡くなった愛妻の追慕に浸り悲嘆にくれるシーン。
 “ 人の心や社会の底を流れゆく時の風潮”に疎い無教養者( イグノラント )とある。
 よくある叩きあげ資産家なんかの定番の通俗的人物像であろうが、かといって封建的家父長的な因業横柄さとは無縁の思いやり深い酸いも甘いも噛分けた善人で、彼女が“ 心やさしく夫に尽せば、それに倍して彼は妻を愛した ”という愛妻家でもあった。
 

 

「 いつも美しく、いつも若々しいのが、子を生まぬゆえに、容色の衰えを免れる夫人の徳である。分娩は美貌の敵という、彼女は宛(さなが)ら不老泉に住む永遠の乙女のその如くに水々しかった。」

 

 

 「 子なき寂しさは、絶えるまもなく胸底に往来し、年と共に強くなるばかりであった。ただ彼の美しき同伴者である『 生ける彫像 』によって慰められていた。いや自ら慰められていたのであったが、哀れむべし、遂にはその唯一の慰藉者にも遠くえ往かれてしまった。」

 

 

 「 老いて子なき夫が、頼りとする妻に先立たれたる心中は。いかなる人の言葉も慰め和らぐるには足りないであろう。嘗てそこには優しき佳人の愛情ある面影を見た一室に閉じ籠り、無情の想いに胸を掻き毟る彼の心は、痛ましくも悲惨なものであった。」

 

 

 財産家の美麗な妻とその妻との間の子宝に恵まれなかったことへの哀惜の最中、ふと、小さな物音が響いた。

 

 

「『 コッ。コッ。コッ。』
 他聞(ひとぎき)を憚るように、ほとんど聞きとれぬほど、微かに静かに此の部屋の扉を叩く音がして、覚めかけていた黙想から、はッと老人。やや驚きの面差で、背後へ振りかえった。
『 誰じゃ ? 』」
 

 「 しづかに入って来たのは正に少年。風采凛として、豊かな頬に、さも懐かしげな愛情のほころびを泛(うか)べた品のいい、しかし、全く見も知らない美少年であった。」
 

 少年は唐突に自分が財産家の息子だと告げた。

 

 

 「『 何かの間違いではないか? 寝呆けて戸惑っているんじゃないか? 儂の名は入江九衛門。邸の門札に出ておる筈じゃ。子どもなどは一人もないわい。』
 『 ありますよ。僕がそうです。』
と少年。にこりと微笑する。」

 

 

 訝る財産家、少年に自分の顔をよく見てくれと言われ改めてまじまじと見直してみると、確かに亡くなっ妻の花貌のあれこれが生き写しだし、財産家の部分的特徴と相似な造りも見て取れた。もし妻との間に子供が出来たとしたら、正に、面前の少年の容貌のごとくであったろう。
 得も言われぬ想持に囚われた財産家、少年に誘われるように、邸を出、暗い夜道を少年の後についてトボトボ歩き続けてゆくと、人通りの絶えた商店街の常夜の電飾看板や街燈にぼんやり照らし出された通りに差し掛かった。

 

 

 「 ・・・曲がり角にある外国書籍店のまえにぴったり立ち停まった少年は、いかりに耀く眼を、くわッと見ひらき、店窓(ショウウインドウ)の中に飾られた外国本の一つを恨めしげに睨ねめつけながら『 僕は、それ、その黄表紙の悪魔に殺されたのです ! 』」

 

 

 突然、少年は蒼白となった貌に悲憤の念を燃え上がらせ、そう、叫んだ。
 驚いた財産家、あわててガラス越しにその黄表紙の洋書のタイトルに両の眼を凝らしてみたもののさっぱり英語は解らず眼を白黒。ふと、少年の方を振り返ると、忽然と姿が消えていた。
 少年の姿を通りに捜す財産家の背後のショーウィンドウ・・・

 

 
 「 煌々たる電燈の光りに黄表紙の背文字が踊るばかり。×××××夫人著。“ BIRT CONTROL”! 咄々々!」

 

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 ( リチャード・ミュラーのグロテスク画集の中の一片。エッチング )

 

 この××夫人とは、幾度も来日した米国の産児制限運動家・マーガレット・サンガーで、黄表紙本のタイトルとは“ BIRTH CONTROL”。
 この短編じゃ、“H”が抜けて“ BIRT CONTROL”となってるけど、黒石が意図的にやらかしたのか、この雑誌《 グロテスク 》の編集者の校正ミスなのかどうか定かでない。というのは、黒石のもう一つの掲載物《 勧燬淫書論 》の最後の“ 附記 ”に印刷所のミスを記しているから、ひょっとしての可能性も捨てきれない。
 当時、日本でも女性権利拡張運動の一環として注目されはじめ、避妊(器具)推進等で、米国ともどもに権力・保守勢力にあの手この手の阻止にあったようだ。なかんずく、マーガレットは米国で投獄の経験すらある女闘士。
 

 

 でも、これって、成金財産家の入江九衛門の積年の願いとは裏腹に、当の水晶の花貌、心優しく夫に尽くしてきたはずの妻は、一緒に連れ添った20年もの間、まさか旦那が認める訳もない避妊を、つまり女性側の意志での避妊を隠れて行いつづけてきたってことになる。
 正に、不実。
 実在のモデル、成金財閥・伊藤伝右衛門も、妻・白蓮に裏切られ、後ろ脚でめいっぱい汚泥をかけられ若い龍介のところに逃げられてしまったが。
 幼馴染の娘と一緒になり、沢山の子供をもうけた黒石とは真逆。
 子沢山の故もあるのか生活苦に喘いでいた黒石こそ、マーガレット・サンガー女史の唱えるところの貧窮からの脱出のための産児制限が必要だったのじゃないのか、と自嘲したのか、内外のそんな運動に後ろめたさや反撥心を覚えてしまっての結晶化した作品なのか。
 

 その妻の20年にも及ぶ背信的所作って、物語中にも述べられていたように、彼女の若々しい美貌を保つためだったのだろうか。

 

 「 いつも美しく、いつも若々しいのが、子を生まぬゆえに、容色の衰えを免れる夫人の徳である。分娩は美貌の敵という、彼女は宛ら不老泉に住む永遠の乙女のその如くに水々しかった。」

 

 この如何にも意味ありげな言葉は、やはり前フリってことだろう。
 旦那もそれを愛でていたからこそ、彼女も子宝を断念し、若々しい美貌の保持の方を敢えて選んだってのもありえなくはないのかも知れない。
 あるいは、容色の衰えが旦那の寵愛を遠ざけてしまうという懸念からか、それとも専ら自身の美意識のなせる術だったのか。
 それにしても、多年の間、無数の避妊で、どれだけの本来的結合的結晶が未完のまま汚物として廃棄されてきたのだろうか。

 この視点からすると、なんとも途方もない罪業の淵って趣きが濃くなってくる。

 その水子にすら成り得なかった前-水子霊の群が真夜中の訪問者の少年として結晶化したってことなのだろう。
 昨今、この伝でいけば、毎夜の如く、自分によく似た風貌の少年・少女たちにドアをノックされる人々の数って半端ないに違いない。

 

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 ( 裏表紙 当時、中国でも仁丹やなんかと一緒に流布したクラブ化粧品の歯磨きの広告。)

 

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2019年6月 8日 (土)

黎明的ゆらぎ  『 菊とギロチン 』

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 you tube にある秋山清『 白い花 』の土取利行の朗読がけっこう気に入っていて、その戦中に認められた詩の彼自身の解説があるということで読んでいた《 わが解説 》( 文治堂書店 ) 、ところが、ふと立ち寄ったレンタル・ビデオ屋の棚に、秋山と遠戚関係にあるらしい中浜鉄を中心とした《 ギロチン社 》の面々を主人公にした瀬々敬久監督《 菊とギロチン 》が並んでいた。
 

 

 大正末、関東大震災直後の軍部( 権力 )や自警団による“ 朝鮮人・中国人・労働組合活動家・社会主義者 ”たちの虐殺に、一矢報いようとテロルを画策するアナキスト集団《 ギロチン社 》、そして当時巷で流行っていたその殆どが東北出身者だったという女相撲の一座《 玉岩興行 》、その二つの底辺的存在がひょんなことで遭遇することになった。
 同じ《 ギロチン社 》を扱った山田勇男監督の映画《 シュトルム・ウント・ドランクッ 》( 2014年 )とは又些か趣きを異にした大正末・青年群像劇。
 戦前この国の貧窮の象徴のように謂われた東北地方、昭和十一年の《 二・二六事件 》等でも決起将兵の中にも東北出身者が多く、女相撲も大半が東北出身者によって占められていたらしい。昨今の女たちのスポーツ界進出も華々しくなった状況にダブらせるように、“ 強くなりてえ ! ”と、女たちの置かれた困窮的因習的差別的あるいは暴力的現実から這い上がろうとする藻掻(もがき)を、一向に“ 解放・革命 ”を具体的現実として実現できずに藻掻きつづける《 ギロチン社 》と絡めてみた物語の成り行きは、しかし、依然として仄暗い黎明が彼方にゆらめくばかり。

 

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 相撲といえば、確か秋山清も、地元の浜鉄の柄杓田の隣村、今津で村祭の際に行われる奉納相撲でけっこう活躍していたという。 
関東大震災の直前、大正十二年夏、秋山は東京から一時帰郷し、一夏故郷の夏休みを満喫したのだけど、夏祭の余興の素人相撲に、何を思ったか、青年・秋山、借りたマワシを締め、飛び入りで参加した。ところが、素早い取り口で勝ち進み、その強さに村の相撲の頭取( 親方 : 各村に居たらしい )に気に入られ、近隣の村祭りの相撲に参加することになったという。勝つと紙に包んだ花( 御捻り )が投げ込まれた。それなりに人気があったのか、結構な額の花が貰えたらしい。映画の方じゃ、花じゃなく、野菜や魚なんかの現物のようだったけど。
 村の相撲が開催される際、他の村の相撲取りにも参加して貰うため、開催地の頭取の遣いの者が他の頭取の家の前で、任侠の仁義に似た、腰をかがめて口上を述べるのを、秋山の近くに親方が住んでいて何度か見たことがあったという。
 年配の相撲取りが彼の四股名を秋山に呉れたという。
 《 今響 》
 今津と響灘をかけた四股名なんだろうが、アナキストや詩人で相撲の四股名を持っているなんて、まず他にはいないだろう。
 この映画の時代設定の頃、浜鉄の親戚の秋山も、裏門司といわれた地域一帯の土俵の上で活躍していたとは・・・

 

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2019年5月21日 (火)

アスリート・ファースト  平成=令和のアベノミクス的残影

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 早朝5時前、独特に微妙な曙光に暗い上空全体にうっすらと流れてゆく雲の向こう南天45度に満月が絶妙に端座していた。その右、兎陰の下方に少し距離をおいて小さく木星が輝いていた。他に星影もない早朝の空に、その二つだけ。

 

平成から令和に年号も変わり、来年は《 東京オリンピック 》ってことらしい。
 けどこの、本来は福島=東電原発事件の被災者やらの復興に最優先的に回して当たり前の東京都の予算を、急に何を思いついたのか、当時の東京都知事・石原慎太郎が、予算ならちゃんとあるんだとぶち上げたのが発端。
 そもそもが東電・福島原発の最受益者であり、むしろその故にごり押しして来た東京都、彼らにこそ多大の責任があるにもかかわらず、これで足れりというほどには支出もせず、あろうことか専ら東電に一切の責任をなすりつけ、まずあり得ようもない《 東京オリンピック 》をぶち上げ、注ぎ込んでしまった。
 それも、いかにも連中( 都知事・石原=自民党 )らしく、金に物をいわせての誘致までやらかしてまで。 
 

 

 ところが、当時、そんな金に物をいわせるやり口って何処でもやってるんだとばかり、自民党近辺やスポーツ界・マスコミもむしろ得意顔だったのが、案の定、今年になってフランス当局にその違法性を問われはじめると、皆一応に知らぬ半兵衛を決め込む始末。 ニッポン=《 東京オリンピック 》勢力の恥知らずな違法性が明らかになっただけ。
 福島(や東北 )の被災者支援・復興の予算を削ってまで、“ アスリート・ファースト”なんて掠め取った予算の再分配( ありていに云えば、貪ぼり )をぬけぬけとやってのけれるのが、そもそも昔から一貫しての前時代的封建主義・権威主義的権力主義と利権漁りの権化=ニッポン《 体協 》なのだろう。昨年あたりやたらマスコミで喧伝されたスポーツ界のパワハラ問題も、元々そんな体質の問題でしかなく、"アスリート・ファースト"ともどもの再分配問題でしかない。

 

 

 かつてオリンピックの表彰台で、米国の黒人選手たちが黒い手袋をした拳を高々とあげ米国の黒人差別に対する抗議=“ブラック・パワー”を誇示したのを、米国権力が怒り、関係した選手たちを徹底的にパージした。オリンピック・スポーツに“政治を持ち込むな ! ”と。
 ところが、その後、今度はその米国権力が、ソ連のアフガン侵攻に抗議とか称して、モスクワ・オリンピックを“ボイコット”し、他の国にもボイコットを強要し、多くの国々( 所謂西側先進国を中心に )がオリンピックのこれ以上ない政治利用に賛同し棄権する挙に出た。それはそのまま、“自由と平等”と真逆な“権力と金”の権化そのものでしかない米国と一心同体であることを、つまりオリンピック精神とやらを公然に踏みにじって見せたそれらの国々自体の正体をも証してしまった。( 尤も、そのソ連も報復としてその後の米国でのオリンピックをボイコットし、結局、“ 何処の国も ”って救いようの無い顛末が結果してしまった。)
 つまり、いわゆる西側先進国って、そもそもがスポーツの世界的祭典=オリンピックになんて参加する資格すら持ち合わせてなかったのだ。それがそれ以降もぬけぬけと、厚顔無恥なんてものかわ、したり顔までして、それぞれの国で多額の予算を湯水のごとく浪費してまで参加しつづける始末。
 だから、国際社会だとかパラリンピックだとか声高に騒いでみせても、所詮これ以上ないくらいのさもしいばかりの政治的経済的利権、つまり性根=商魂の大団円以上の何ものでもないってことだろう。
 
 
 だから自民党半世紀支配なのだろうし、あれだけその危険性・経済的・社会的リスクを指弾され警鐘を受けて来たのにもかかわらず、そんな批判派を非科学的とか無知とか嘲笑してきた自民党・経済界の福島原発( あるいは他の原発 )ごり押しの論理的帰結=福島原発事件で、自民党や経済界・関係マスコミの誰一人として責任とることもなくしたり顔し被災地を廻って見せたりできるのだろう。
 そんな中の、肝心なその責任取りだけはスルーして“反原発”を新たな御題目として掲げて廻っていられる小泉なんだろうが、しかし、かつて、この国の売国・亡国の輩総出演の観すらあったFテレビの朝の政治番組で、そんな原発批判に対する嘲笑・愚弄をさんざんやらかしていた張本人の一人が誰あろう石原慎太郎だった。
 そもそもが、かつて自民党・鈴木都知事“三選”の際、“権力の亡者・老害”とばかり唾棄し嘲笑までしてみせた石原、都知事になるや空前絶後に“四選”までやらかした張本人。( 都民=有権者の大半が、そんな石原を四度も都知事に選んで見せた。)
 その石原が、ぶちあげたのが、他ならぬ、“ 東京オリンピック ”だった。
 正に、平成=令和って、売国・亡国行進曲の輝かしい軌跡って訳だ。

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2019年5月11日 (土)

平成=令和のアベノミクス的残影 門司港

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 平成→令和に年号が変わった。
 しかし、平成の粋たるアベノミクス、そのアベノミクス的凋落は令和にも持ち越され、列島中その仄暗い残影に蔽われたままいよいよかそけき終末へと突っ走ろうとしているのかと見間違いかねない。
 そんな気息奄々的命脈の象徴たる商店街が、門司港にもあった。
 改修も終わり( 一部では未了 )リニューアルした門司港駅近辺には、折からの観光シーズン中、何しろ狭い区画故、内外の観光客に埋め尽くされた感があった。その雑踏から些か離れた住民エリアの一角にひっそりと佇む戦後闇市時代の面影を残したアーケード商店街《 中央市場 》( 英語もどきに“ Chuo Market ”とも併記されている。)は、つい最近も又一軒消えてしまって、いよいよ昼尚仄暗いシャッター商店街色も極まってしまった。

 

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 高々と伸びた蘇鉄の葉が生い茂る公園側と駅方面に向かう道路に面した側の2ブロックに件の商店街は分かれていて、道路側に面したブロックには八百屋と魚屋、雑貨屋のせいぜい六、七軒、それに引き換え公園側の入口の両側には果物屋と比較的最近できた食堂があり、食堂、古書店、茶葉屋、裁縫店、花屋、雑貨屋等十軒近く、勿論点々とだけど一応軒を連ねている。
 本来の店舗の三分の一程度ってところで、これは列島の地方都市じゃ平均的なパーセンテージじゃなかろうか。

 

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( 昭和・平成・令和の庶民的生活臭の凝結したような色褪せ朽ちた佇まいの一角。奥の建て増し建て増し城砦が件の商店街の外貌。)

 

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( 表通りから奥に件の商店街を望める一角。)

 

 

 一階だけが店舗になっていて、上階は居住エリアのようだ。
 何しろ戦後の焼け跡に建てたらしく、大通りからその燻すみきった旧い建物の一角が覗けていてその香港のミニ九龍城的な佇まいを窺い知れる。
 そんな如何にも場末ったシャッター商店街であるはずの、その公園側のブロック、最近になって次々と食物屋関係が増えるという人通りがますます僅少になってきている現象に逆倒した珍現象あるいは怪現象が起きている。
 元々このブロックには年配女性の営ってる狭い間口のカウンター式喫茶店があったきりだった。

 レトロ・ブーム的余波とでもいうべきか、一軒、又一軒と手打ち蕎麦屋、食堂等の開店ブームが始まった。
 正にこのブロックじゃ、食物屋がブームになっているのだ。
 いよいよ数少なくなった通行人、客を皆で取り合う消耗戦になってしまいかねない危惧など何処吹く風らしい。まあ、こんなエリアで“ 一儲け ”をたくらむ物好きも居ないにしても、そこそこ何とか喰えていければ良いって平成風味な有様なのだろうか。

 

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 ( 二つのブロックの間の通り。商店街と直角に並んだ店々。如何にものんびりとした雰囲気。)

 

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 ( 駅側の入口に向かってシャッターばかりが連なっているけど、向かって左側に普段はおばちゃんの営っている店なんかが二、三軒並んでいる。)

 

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 ( 反対側の公園に向かう連なり。廃品雑貨屋が片側を占めている。この街を象徴する店。珍しく、二人の青年が頑張っている。)

 
 そんな中で、一軒異色な店ができた。
 《 大都会 》と看板にあった。
 当初は“ 情報紹介 ”と銘打って、如何にも風に衣服や雑貨、思想書などを並べていたのが、やがてその前を通る毎に、【 珈琲 】から【 角打ち 】(酒)、【 おでん 】等とだんだん置いてある食べ物系の種類が増えていった。
 昼間はまず客らしき姿は稀で、大抵奥の机で一人パソコンに向かっている印半纏の店主の姿ばかり。夜間はそれなりにあるのだろう。
  最初から商売っ気の類は窺えなかったものの、次第にあれこれと多角経営的方途に赴き始めたのを見るにつけ、やっぱり彼なりに利益を出そうとしているのかと思わず苦笑してしまった。
 そして、直近では、このブロックのブームに乗っかってか、【 朝食 】まで商路を拡げていった。さしずめ、この商域に喰い入ろうとすれば、このブロックの手練れの食物屋のカバーしてない時間帯=早朝=朝食しかないという消去法的アプローチだったのではないか。
 まあ、余計な詮索、余計なお世話に過ぎないのだけど、何とも悠揚迫らぬ人の好さそうな店主を見るにつけ、つい心もとなく、推量してしまった。
 ブログ見ると、彼は熊本産らしく、あれこれ巡り巡って、この三か月しかもたない国際定期航路( 韓国 )港のプレハブ・カスタムもいよいよ朽ち果てもっぱら青々とした雑草ばかりが五月の陽光に眩しく映えるばかりの場末った港町の、ひなびた一角にすっかり居ついてしまったとの由。
 たしかに、港町の風情ではある。

 

 

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 ( 件の「大都会」。所狭しとインフォメーション・ボードや貼紙が並べられ、珈琲どころか角打ちまで揃っている。早朝七時のブレイク・ファーストらしいけど、みそ汁・ライスの和朝食のようだ。黒板に毎月のこの店での催物の予定が掲示されていて、些か挑発的なタイトルが踊っていたりする。)

 

 

 

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2019年4月27日 (土)

海峡的遊覧

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 先日、海峡沿いの道を歩いていると、ふと何処かで見た記憶のある大型船が青く映えた海面を滑るように走っていた。

 狭い海峡いっぱいに恐らく海流に乗っているらしいその大型客船の船体に「ピース・ボート」とあった。

 よく通りに募集のポスターが貼ってあるあれだ。

 豪華客船・飛鳥は時々見かけるけれど、このピース・ボートは初めて。

 デジカメをもっていなかったので写真に撮れなかったのが残念。

 

 国際航路らしい門司港のフェリー・ターミナルのカスタムはとうに廃墟と化しぺんぺん草すら玄関に生え始めて久しいけれど、

周辺の岸壁には、時折思い出したようにクルーズ船が停泊している。

 中でも昨年の六月前後、大型クルーズ船が停泊するフェリー・ターミナルと隣り合わせた岸壁から少し離れた岸壁に、見たこともない

変わった造りの小型クルーズ船を、実際はヨット(メガ・ヨットと呼ぶらしい)らしいけど、見つけたことがあった。

 ゛A vikini゛号、船尾に立てた旗がマーシャル諸島船籍を示していた。

 これこそ、ロシア富豪・A・メレンチェンコ氏の所有しているらしい全長118メートル、5959トンで、

ヘリ・ポートや潜水艇・モーターボートも備えているという。つまり個人所有のクルージング・ヨット。

 無機的なプラスチック風にテラッた独特のデザインは遠くからでも眼を惹く。

 ネット見ると列島中あっちこっちの港に出没しているようで、こんな大型の個人クルーザーって、

大型の豪華客船に負けず劣らぬの経済効果を寄港地近辺にもたらすという。

 暑熱日の下、白人の乗組員が一人のんびりと甲板を掃除していただけだったが。

 

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 そのちょっと後くらいに、今度はフェリー・ターミナル岸壁に、グレーの軍艦仕様の海自のヘリ空母「ひゅうが 181」が

大きな船体を横付けしていた。カスタム前にばかデカい海軍旗(旭日旗)をひるがえしたテントまで立てて関連グッズの即売会

って訳で、30人も遊漁客や乗組員を海の藻屑に葬って逮捕や起訴すらされることもなかった"なだしお事件"以降、

米軍と同様にこの国じゃ「治外法権」の殿堂入りした感のある海自=防衛庁、いよいよ大出を振って亡国一路を決め込んで

いるようだ。

 

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 13950トン、全長197メートルで、最大11機のヘリコプターを搭載でき、VLSなる垂直型ミサイル・システム

も備えているという。

 かつてはこの海峡は両側合わせての軍港でもあった。

 そのため、米軍にいやというほど、水雷や焼夷弾攻撃を受け、一面の焼け野が原と化し、

戦後もえんえんと掃海作業に勤しまねばならなくなってしまい、十全な港湾都市として活動できなかったようだ。

 

 更にその後だったか、フェリー・ターミナルの隣接岸壁の方に、ななめに艦砲のように聳えた煙突が特徴的な

中型の客船が停泊した。フランスのポナンPONANT社のヨット・クルーズ船で極地にも赴くエクスペディション・クルーズを

専門にしているロストラルL'AUSTRL号で、全長142メートルの10700トン。収容客数264人。

 日本郵船の飛鳥Ⅱが872人だから随分と小さめだけど、大型船じゃ入れないような小さな港も寄港できる小回りが利き、

フランス料理のフルコースも人気だという。いわば"通"のエクスペディション・クルーズ船ってとこだろう。

 

 

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2019年4月15日 (月)

強迫観念的譫妄  《 アンシンカブル 襲来 》

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以前、“ 9・11”的不安神経症産物、米国映画《 テイク・シェルター 》(2011年)に触れたことがあった。
 日毎の異常気象的世界崩壊の悪夢が絶対的予兆として主人公の精神・現実世界を圧倒してゆくストーリーだったけど、その主人公の抑鬱的な強迫観念世界と現実との溶融した境界世界に比して、このスウェーデン映画《 アンシンカブル 襲来 》( 2018年 )は、もっと規模を大きくした主人公の父親の抑鬱的な強迫観念的譫妄世界といえよう。

 

 スウェーデン映画といえば、当方にとってはもう古典の部類に入ったベルイマンに尽きる。それでも、ベルイマン以降の様々なジャンルの作品、結構面白いものがあれこれ出てきて、他のデンマークやらも含めて北欧映画ブームの観すら呈している昨今ではある。
 物語の基本は昔ながらの“父と子”、親子の関係的相克。
 伴侶たる嫁とその一人息子に対する父親の日本とそう違いないようなギクシャクした関係的軋轢によって一層色濃く父親の精神世界に蜷局(とぐろ)を巻いていったスウェーデンの政治的社会的環境的産物としての“ ロシアの侵略 ”的譫妄。
 いわゆるイスラム原理主義勢力による侵略=テロわも併せての、きわめて今日的な政治的社会的強迫観念で、ロシアを他の国名に替えても成り立つ普遍性をもった冷戦以来、否、もっと戦前にまで遡る仮想敵国=排外主義的観念群。

 

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スウェーデンでは、2010年に首都のストックホルムの繁華街で、行動途中で誤自爆したらしい自爆テロ事件、2017年にも同じ繁華街で、盗難トラックでISIS( イスラム国 )と思われる人物が通行人を次々に撥ねて行ったテロ事件(この事件の際、国会議事堂や地下鉄が封鎖されたという。)が起きていて、隣国ノルウェーでも、2011年7月22日、首都のオスロ政府庁舎爆破事件とウトヤ島銃乱射事件が起き、とりわけウトヤ島銃乱射事件では69人も殺害されたのは記憶に新しい。

 

 最近、スウェーデン政府の民間緊急事態庁が、「もし、危機や戦争になったら(IF CRISIS OR WAR COMES)」という小冊子を全世帯に配布したという。
 例えば、侵略者に対する抵抗を弱めたり、無抵抗を呼び掛けたりするニュースは皆デマである、我々は最後まで抵抗し続けるんだ、という戦前、米国との開戦間際、日本軍が発した戦陣訓(その後、警察や民間人にもそれに準じた運動が拡まった )と相似な総力戦態勢的プロパガンダの類。
 2014年のロシアによるクリミア半島併合やウクライナへの軍事介入で、ロシアの領土拡張主義として危機感を募らせていたらしい。それでなくとも、元々、ロシアとスウェーデンは昔から互いに敵対的な関係にあったようで、フィンランドを舞台に武力衝突してこともあったという。
 そんなスウェーデンの社会的背景の下に、“俺が養ってやってるんだ ! ”と前時代的な感性・価値観から抜けきれない父親との抑鬱的な軋轢・相克に疲れ果て嫁も息子も離れていってしまう。スウェーデン=“進んだ社会福祉の国”ってイメージからすると、随分と違和感を覚えてしまう。そういう家父長的保守的な父親の、嘗てナチスの下に参集していった没落的中産階級という図式そのままに、仮想敵国的強迫観念=盲目的排外主義が更に一歩踏み込んでの譫妄的具象化=譫妄世界=現実。
 その変容した譫妄的現実世界に、彼の息子や周辺の人々が次々と巻き込まれてゆくのだけど、それが集団ヒステリー的に世界に蔓延しているのが現実の昨今的状況ってところなんだろう。
 《 テイク・シェルター 》が当時の時代の心象風景だったように、この《 アンシンカブル 襲来 》も2020年代を前にしての時代の心象風景なのだろう。
 
 
監督・ヴィクター・ダネル
脚本・ヴィクター・ダネル 、 クリストファー・ノルデンルート
2018年( スウェーデン )

 

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2019年3月24日 (日)

ボリウッド的愛国帰郷譚 デリー6 ( 2009年 )

 以前MVが気に入ってて頻くMVだけをyoutubeで視聴していたものだったインド( ボリウッド )映画《 Dehli 6 》、今回その同じyoutubeで漸く映画自体を見せてもらった。
 2009年制作ってことで改めて時間の経過に驚いた。
 もう十年も過ってる。
 当方の感覚じゃまだ数年前・・・
 “ masakali masakali~ mataakali mataakali~・・・ ”
 と、モーチット・チョーハンの唄うmasakaliの乗りのいい曲にあわせて、すらりとした美形女優ソナム・カプールが父親の飼っている純白のハト・マサッカリを頭にのっけて踊ったり、主人公ローシャン( アビシェーク・バッチャン )がインドの首都デリーの旧市街の路地を巡ってゆく《 masakali 》をはじめ、旧市街の大きなモスク、ジャーマー・マスジッドの中庭や回廊、否、その周辺にもびっしり溢れひしめいた信者たちが正座し一斉に礼拝する姿からはじまる敬虔さとやがて映画の中で展開されるヒンドゥーとのコミュナル( インド的な主にヒンドゥー=モスレムを中心とした宗教的紛争・軋轢 )な争闘的悲哀を孕んで朗朗とjaved Ali, とKailash Kherが唄い上げる《 Arziyan 》、オールド・デリーから突如ニューヨークのタイムズ・スクエア―に分け入って溶融した主人公の白昼夢的世界《 Dil Gira Dafatan 》、このタイムズ・スクエア―にオールド・デリー的世界が浸潤した場面はなかなか面白く、最初観た時は随分と大掛かりなニューヨーク・ロケをしたのかだと呆れたほどで、実際はデジタル画像処理によって作られた光景で、パソコン・ソフトでも使ったかのような画像処理シーンもあって遊び心満点。


 物語は、米国から死地として母国を選んだ母親と一緒にインドに帰国し、郷里のオールド・デリー=チャンドニー・チョークの久しく空家になっていた自宅に戻って来た主人公・ローシャン(アビシェーク・バッチャン)と、その界隈に昔から住んでいて母親・アンナプルナ( ワヒーダ・レフマン )と旧知の人々とその周辺人たちとの親愛・葛藤を経て、彼ローシャンも母親と一緒に旧市街の路地裏の住民となることを選択するに至るという愛国的帰郷譚ってところ。

 このアビシェーク・バッチャン主演の《 Dehli 6 》じゃ、住民のイスラム=ヒンドゥーの宗教的対立を媒介にして予定調和的宥和に落ち着いてしまうのだけど、ちょっと前の

《 Swades 》(2004年)じゃ、主人公モーハン( シャールーク・カーン )は米国のNASAに勤めていて、両親に先立たれていて唯一の肉親のような乳母が高齢で気にかかり、インドに戻って来て、彼女が学校教師の一人娘と住んでいるウッタル・プラデッシュ州の片田舎の村を訪ねそこに滞在している内、その時代から取り残されたような余りに旧弊な村の有様に、何とかせねば、と改革的方途に着手し、一旦米国に戻ったものの、村人たちの顔々が浮かび上がって来てやもたてもたまらず、NASAでの仕事を放りだし、チャランブール村に戻ってしまう同系列の愛国的帰郷譚だったけど、この作品の場合も、この

《 Dehli 6 》と同じA.R.ラフマンの名曲が情景を盛り上げることしきり。

 当時、確かインドじゃ、先進国に移住している成功したインド人たちの帰国的援助を国策的に求めるキャンペーンをしていたような記憶があるけど如何だったろう。

 《 Swades 》じゃ、貧困と無知という何とも前時代的な題目の克服という文部省推薦的な匂いすら漂ってきかねないきらいもあったものの、この首都・デリーの旧市街の物語《 Dehli 6 》は後半から展開されるヒンドゥー=モスレムのコミュナルな紛争の宥和ってことで多少の相違はある。

 それともう一つ、この映画の始めの方で、ローシャン母息子がチャンドニー・チョークの旧居に戻って来た際、近隣住民に歓迎され門を開けるシーンがあるけど、《 Chak De! India 》( 2007年 )じゃ、イスラム系のプロのクリケット選手だった主人公( シャールーク・カーン )が国際試合でパキスタン側に有利なプレイをしたという疑いをもたれ、世間・周辺住民から“ 売国奴 ! ”と罵られ、老いた母親と一緒に長年住み慣れた旧市街の家を後にする際の門を閉めるシーンが同じアングルだった。こっちは石持て追われる流れで、幾年か後、女子クリケット・チームを率いて紆余曲折を経ながらも優勝街道へ直走ってゆくのだけど、これも一種のコミュナルなニュアンスが漂い、“ 愛国統一戦線 ”的なスローガン、“ Chak De! India ”( 行け! インド )という訳だ。
 因みに、シャールーク自身も、本来は隣国パキスタン・ペシャワールの出身のイスラム系俳優だったのもあって、いやでもリアルな様相に。


 ローシャンの母親役のワヒーダ・レフマン、'50~'60年代に活躍した男優&監督のグル・ダッドと彼と結婚した当時の人気プレイバック・シンガーのギータ・ロイとの三角関係にあって、グル・ダッドは自殺し、幾年か後にギータも酒に溺れて死んでしまったという悲劇的結末で有名な、以前にも紹介したことのあるグル・ダッド主演・監督の《紙の花》Kaagaz Ke Phool(1959年)でもヒロインを演じ、以降もナンバーワン美人女優として第一線で活躍していたようだ。

 当時の美麗さの記憶しかないので、最初この映画で観た際も余りの変貌に、あのワヒーダ・レフマンとは思いもかけなかった。

  《 Dehli 6 》(2009年) 監督・ラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ
( 制作・ショーマン・ピクチャー )
 追記 :  ココログ=ニフティーのリニューアルとやら、3月20日でもう大丈夫って配信してたけど、4日過っても不具合のまま。
    この記事に画像つけようにも小さすぎて使いものにならず断念。以前にもこんなリニューアル的不具合の滞留状態があって、まともな  
    状態に戻るのにけっこう時間がかかった記憶がある。そもそもこの記事も、こんなに早くアップする予定はなかったのだけど・・・
               

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2019年3月12日 (火)

  1932年の夜逃げは水路をひっそりと 林家舗子

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 久し振りに旧い中国映画を観た。
 以前紹介した魯迅すら観に来たという《 春蚕 》(1933年)と同じ、原作・茅盾=脚本・夏衍だけど、こっちはそれから二十数年後の1959年に水華監督で撮られた《 林家舗子 》( 邦題『 林商店 』)。
 養蚕農家を扱った《 春蚕 》もそうだったが、この《 林家舗子 》も一地方都市の小さな商店の“上海事変”的ゆらぎを描出した悲惨故事。原作はともに1932年で、茅盾が故郷・浙江省桐郷県烏鎮に一時帰郷した折に想を得たという。

 先ず、“1931年”と、時代を告知する。
そして、淀んだ運河を船頭の漕ぐ舟がゆっくりと進んでゆく長閑な光景から始まり、やがて両側にくすんだ昔ながらの民家・商家が連なる入り組んだ細い水路に分け入ってゆき、運河が網羅された水郷の町であることが分かる。
 と、終業の鐘が鳴らされる。
 授業の終わった生徒たちが次から次へと校舎から溢れだす下校時、林家の一人娘・明秀と仲良しの小李が手をつないで校庭の外に向かっていると、小李の友人が背後から声をかけ二人にその夜に催される“日本製品ボイコット( 抵制日貨 )”集会の案内状を手渡される。
 二人の背後で別の女子生徒二人、訝しそうな眼差しで聞こえよがしに嘯(うそぶ)く。

 
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 「 あの娘( 明秀 )、着てるのいつも日本製( 東洋貨 )よ ! あの娘の家の店の品も、皆日本製 ! 」

 明秀が一人運河沿いの自分の商家に戻ると、家の前に人垣ができていた。
 余会長の一行が、店頭での日本製品の有無を確かめに来ていたのだ。
 明秀の父である店主は怪訝な表情を隠すこともなく反論した。

「 うちにゃ日本製品なんて極くわずかしか置いてませんよ !」

 袖の下を求めにやって来ているのだった。
 向かいの商売敵《 裕昌祥 》は五百元も会長に袖の下を払ってるので、店主の店《 林源記 》の何十倍も日本製品を売っていても一切お咎めなし。彼の妻が、強盗の方がまだ増しよ ! と吐き捨てる所以であった。
 この時期、“世界恐慌”や“満州事変”ですっかり低迷していた景気に呻吟し不安を募らせていた人々を喰いものにする蒋介石支配の国民党政権下の腐敗横行は、一層鬱々とした更なる社会不安を蔓延させた。
 抗日を煽り、その裏では利権を貪(むさぼ)る蒋介石=国民党の露骨な腐敗的体質は、かつて一時的に蒋介石の保護下にあったらしいあのMr.皇軍=参謀・辻正信すらが直に見聞きした彼らの余りの腐敗性に言及していたほど。
 結局、泣く子と地頭には勝てぬ、とばかり店主は袖の下の工面に向かう。


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 師走( 旧正月 )も押し迫ってくると、この店に預金していた朱三の老妻が店に現れ、節季( 歳末。その年の支払い関係の期限。)というのにもう利息三月分も滞っていると三か月分=9元の支払いを求めて来る。後のない切羽詰まった彼女の気配に、やむなく店中の現金をかき集めて支払う始末。それなりの店舗のようなのが、たった9元の現金支払いにすら窮するぎりぎりの経営状態。

 その後、今度はうちつづく景気不振に上海の金融機関( おそらく伝統的 )からやって来た代理人にまとまった額の支払いを求められ、地元の両替商《 恒源銭荘 》へ赴くもあの手この手で断られてしまい店の金をかき集め何とか難を乗り切った。
 起死回生の策として、折から戦火を追われこの遠い水郷の小さな町にも上海から船に溢れんばかりになってやって来た避難民たちが、皆着の身着のまま状態で逃れて来たのに商機を見出し、最低必要用品一式を洗面器に収めて一元という難民たち向け特別大売り出しをうった。“ 林源記 大廉価 優待避難同胞 ”のプラカードまで掲げさせ町中で宣伝させたかいあってか、避難民たちが殺到。
 が、そもそもその売り出しの製品をそろえる資金の不足したところを、金を貸している零細商店から借金のかたとして“それだけは ! ”と必死に泣きついてきたのを振り払い強引にその店の品物を根こそぎ近く奪い取って来たものでもあった。
 あるいは、以前“ 15パーセント値引き( 八五折 ) ”バーゲンをやろうとした向かいの店《 裕昌祥 》の裏をかいて“ 大減価 20パーセント値引き( 八折 ) ”で対抗し、今回も一方的に避難民客を取ってしまった形の《 林家舗子 》に業腹な《 裕昌祥 》の店主が、薄利多売を繰り返す《 林源記 》の資金繰りの悪さを見透かし、腹いせに界隈に《 林源記 》の店主一家が夜逃げしようとしているというデマを流す奸策を謀る事態をも招来させてしまった。早速噂にのせられて朱三の老妻と寡婦の張家嫂嫂(嫁)が乳飲み子を抱えて店に押しかけて来た。
 “ 店主が逃げようとしている”と噂されているじゃないの、ともかく預けている元金を全部返してくれ、と。
 当惑した店主は、当店はちゃんと店舗を構えた店ですよ、と一笑に付して見せ、一応はなだめすかして帰らせる。


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 ところが事態はそれだけで済まなかった。
 卜( 中国読み : プあるいはブ )警察局長が林家の一人娘・明秀を見染め、妾( =姨太太 )にしようと、一向に肯わない林家店主を逮捕する挙に出た。
 番頭の寿生の奔走のかいあって何とか釈放されるが、店主夫婦も娘を卜警察局長の妾なんぞにする気など毛頭なく、とりわけ母親は心底の怒りを覚えたものの、八方塞がりで万策尽きてしまった。その時、番頭の寿生が机の上に黙したまま“ 走 ”と指先で記して見せた。
 出奔、つまり「夜逃げ」。
 店主の妻が机の上にヘソクリの400元をならべ、憤った彼女は断固として居残りを宣言し、番頭の寿生も一緒に残って残務整理に当たることにし、ともかく旦那の店主と娘の明秀を逃がすことに。
 何のことはない、《 裕昌祥 》が垂れ流した噂が本物になってしまったという訳だ。


 と、噂を聞きつけて飛んできた乳飲み子を抱えた張家の寡婦が激しく閉まった店の戸を叩く音が鳴り響いた。
 店の裏側がそのまま運河に沿った河岸になっていて、店主父娘は待たせてあった小舟にあたふたと乗り移り、暗い細水路をひっそりと逃げ去っていった。
 翌朝、両替屋《 恒源銭荘 》に差し押さえられてしまった《 林源記 》の周囲には、銃を持った警官まで多数配置され、押しかけた小口の預金者や諸々の債権者たちが中に入ろうとするのを押し返した。
 そこに、再び、血相を変え乳飲み子を抱いた張家の寡婦が駆け込んで来て、制止する警官の脇から強引に入り込もうとするが叩き出される。やがて、事態が一層険悪になって来て警官たちが威嚇発砲すると、群衆は一斉に逃げ出した。逃げ惑う群衆にもまれ抱いていたはずの乳飲み子と逸(はぐ)れてしまった張家の寡婦、見やると向うの地面の上に転がった乳飲み子、そしてその上を逃げ惑う群衆が・・・


 官憲に追われ逃げ惑う群衆と乳飲み子って場面、この時期なら当然に、エイゼンシュタインの《 戦艦ポチョムキンの叛乱 》( 1925年 )の広い階段での転がった少年や赤ん坊の乗った乳母車のシーンのアナロジーなんだろうが、ビデオのせいか今一つ迫力に欠ける。


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 因みに、この張家の寡婦を演じたきつい一重瞼の女優、中国第五世代の監督の一人・田荘荘の母親=于藍( ユイ・ラン )で、男優・田方と結婚し、後年の文革期には、この作品が江青たちの批判の対象に挙がったこともあってか、論難され、監督の水華と脚本の夏衍をはじめ彼女たち夫婦も何年も下放されてしまったという。原作者の茅盾は幾年も音信不通に雲隠れしていたらしい。力のある党幹部に匿われていたのだろうか。
 旦那の田方は獄死。
 下放中に顔に損傷を受けていた于藍、釈放後、女優業から遠ざかり、児童映画協会の会長なんかに収まってそれなりの活躍はしていたようで、現在ももう百歳近いにもかかわらず存命中。
   

 当時の国民党政権下の中国社会を、“大魚吃小魚、小魚吃蝦”、大きな魚は小さな魚を食べ、小さな魚はエビを食べる式の弱肉強食的社会として捉え、その論理の行きつく先には、暗澹と破滅しかないという基本的認識の小説的具象化として《 林家舗子 》が構想されたという。
 ブログ見ると、“上海事変”以降、上海じゃ預言書が流行ったという。
 その消極的受動的運命論の蔓延を、一種の麻酔効果として茅盾は批判的で、希望とは己が手で勝ち取るもの、実現するものという積極性を萎えさせるものとして社会主義者としては当然の立場であったろう。悲惨的描出の向こうに読者・観客にどうすべきかの自律的積極性の喚起を想定しての作品化だったようだ。
 先ず理論が先行し、それから作品的肉付けしてゆくタイプらしいけど、公式イデオロギーのステレオタイプ的垂れ流しとはあくまで一線を画す、創造的なアプローチだったようで、同じ作家連盟のむしろ政治的な方面のリーダーだった魯迅と相違して、あくまで作家としてのリーダーシップを発揮していたらしい。
 

  《 林家舗子 》( 邦題『 林商店 』) 1959年制作 ( 北京電影制片庁 )
      監督・水華  原作・茅盾 脚本・夏衍


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2019年2月25日 (月)

 大泉黒石 仮構的燦爛世界

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 ( 黒石一家。まだ。後の映画俳優・大泉滉は生まれてない頃のよう。)

 

 大正八年、編集長の瀧田樗陰(ちょいん)に認められ《 中央公論 》に《 私の自叙伝 》、《 俺の自叙伝 》の連載をはじめ、瞬く間に作家として時代の寵児となってゆく大泉黒石。そんな黒石の軌跡を追い黒石の人物像に迫ろうとした志村有弘 の《 近代作家と古典 》( 笠間書院 )の中の一章、《 大泉黒石の文学と周辺 》は小編の割にはけっこう力作で面白い。

 

 「 今日の『 朝日新聞 』に大泉黒石の記事が写真入りで出ていた。二、三日前に『 中央公論 』が出たばかりなのに、早くも、キョスキー・大泉がクローズ・アップされて、彼の経歴が彼自身の口で語られている。自分の故郷はトルストイの住んでいたヤスヤナポリアナに近いので、トルストイはよく知っているなどとも言っていた。『 俺の自叙伝 』に出ていたフランス時代の話や、これからの仕事に対する抱負らしいことも、謙遜しながら語っていた。新聞に出るのが早いのにも感心したが、黒石氏もどうやら『 俺の自叙伝』で一躍、世に出たという感じだ。」

 

                          大正八年九月十日の件 《 木佐木日記 》

 
 当時《 中央公論 》の編集員の一人だった木佐木勝は、樗陰の黒石に対する過剰な賞賛に危惧の念を抱いていたようだ。

 

 「 とにかくこの人は眼の色が変わっているばかりではない。『 俺の自叙伝 』も変わっているが、この人自身が変わっているという印象だ。自叙伝を読み、実物を見て正体がつかめないところがあると思った。十二ヶ国語に通じているという田中(貢太郎)氏の話もにわかに信用できないと思った。」

                           ( 同 上 )

 

と、端から黒石に対して胡散臭げな印象を隠そうともしない。 
 石を投げつけたら怒って投げ返そうとしたトルストイの話や、意地の悪いドオデェのことなどを小説=創作世界の中だけにとどまらず、《 朝日新聞 》で自身の口で同様の経歴を披歴したらしく、彼の言説の悉くが如何様にも変容する不確定性にゆらいでいたようだ。
 かつての江戸の絵師や戯作者達の一部なんかがそうだったように、長崎育ちの割には「 江戸弁の饒舌体 」を自家薬籠中の如く駆使する黒石も自身を韜晦する傾向性が見られ、煙に巻かれた周辺人たちの歯ぎしりと憤懣が絶えることがなかったようだ。
 面白いのは、“江戸戯作”の開祖的存在と称されていた平賀源内( =風来山人 )、上方から江戸にやって来ての江戸詞(ことば)の駆使三昧ってところで、長崎育ちの黒石と何か通底するものが窺えるところ。

 

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( 黒石の父。天津・漢口のロシア領事館領事・アレキサンドレ・S・ワホヴィッチ )

 

 明治二十六年十月二十一日、長崎は中川沿いの幕末以来の歌舞伎興行館・八幡座と隣り合わせた宮地嶽八幡神社の境内の脇の民家で、天津のロシア領事館員の父親と長崎娘の母の間の第一子として生まれ、幼少時に早々とその両親とも亡くしてしまって、母方の祖母のもとで育てられたいう。
  
 黒石自身の言によると、小学校は“ 桜馬場の小学校 ”となっているけど、この小学校《 桜馬場小学校 》は当初は現在も観光地になっている《 シーボルト宅跡 》に《 鳴滝小学校 》として創られたのが、明治十一年に馬場郷の《 桜馬場天満神社 》の一角に移って《 桜馬場小学校 》となったものらしい。
 ところが、明治二十六年、つまり黒石が生まれた年に、更に西山郷鴉谷( 現在の西山町三丁目 )に移転し、《 村立上長崎尋常小学校 》となり、二年後には手狭になって片淵町(二丁目)に新築校舎に移った由。現在の《 市立上長崎小学校》に至っているとのこと。
 問題は、黒石が生まれた頃には、既に《 桜馬場小学校 》ではなく、《 上長崎尋常小学校 》となっていたってことで、これってあきらかに黒石の韜晦的変容ってやつだろう。
ひょっとして実際に通っていたのは別の小学校だった可能性も考えられなくはないものの、《 上長崎尋常小学校 》の前身の名前を冠したってのが如何にも黒石らしい韜晦的手法じゃあるまいか。
 ( 因みに、この桜馬場エリアって、そもそもが長崎の町のオリジンの場所という。又、後に黒石の嫁になる美代の実家があった春徳寺山にも近い少年期の記憶的刻印色濃いエリアでもあるようだ。この辺りを舞台にした黒石や美代の少年期を題材にした《 代官屋敷 》(《 中央公論 》大正九年二月 )って作品もある。) 

 

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 ( 長崎・鎮西学院中学生の頃の黒石。)

 

 黒石が十歳の頃、中国・漢口の中国領事だった父親が亡くなって、モスクワ郊外の父親の兄弟の所に引き取られ、二年ほどして、伯母の居たフランスに渡り、サンジェルマン・リセ―の寄宿舎に入るが、途中曾祖母が亡くなって帰国し、地元のミッション系の鎮西学院中学に編入して貰い入学したという。後、京都の南禅寺に起居しながら《三高》に通っているうち、偶然にも長崎の幼馴染(許嫁だったともいう)だった美代と邂逅する。 やがて結婚するが美代の親族の反対にあい、東京に駆け落ちする。
 黒石二十五歳の大正六年六月のことという。
 ところが、最初に就いた工場の書記の仕事がすぐに駄目になりさっぱり仕事の口が見つからず、出産したばかりの美代にさんざん愚痴られて、背に腹はかえられずと実入りの良い牛屠殺の仕事や皮革工場に勤めたりしてるうち、ひょんなことから《中央公論》に作品を執筆する運びとなる。
 初めての東京で、さすがの黒石も、喰わんがため、夫婦二人と生まれたばかりの第一子を養っていくため、それこそ断末魔の牛達の叫びと真っ赤な血飛沫に塗れながら、底辺的日々を送り続けたのであろう。《 俺の自叙伝 》にはその辺のところが彼の独特の饒舌体で面目躍如として描かれている。

 

 「 昔、尾上松之助の芝居を、一日百枚書いて十円貰って、ほんとうに、みっともないほどお辞儀をしていた時分や、三日三晩――と云えば何だかお伽話の定り日のようだが――かゝって、女房に蚊を追って貰って、焼酎の元気で「中央公論」へ百五十枚ばかりの自叙伝を書いた( 実際ヘマをやればその百五十枚で壁でも貼らなければならなかったのだが )時代は殆んど文壇と云うものゝ存在も知らないし、そこに何の野心も目的もなかった。従って其文壇と云うものに如何に多くの小姑が巣喰ってゐて、いかに偏見と野暮と嫉妬は俺だ ! と云ふ風な面がまへをして散々私と云う孤立の一文士の、貧弱な立ち場の損な一文士の城塁に切り込んで来ることか ?」

 

                    《 刺笑の世界から 》大泉黒石( 大正九年七月)

 

 ようやく何とか作家として立ち、生活の目鼻が立ち始めた頃、同じ《 中央公論 》誌上で活躍していた芥川龍之介や佐藤春夫なんかが、黒石や田中貢太郎、松村梢風等いわゆる大衆作家の作品が掲載されていた“説苑”欄を越境して、彼等純文学の“創作”欄に掲載しようとした編集側の動きに断固反対の挙に出たらしい。

 

 「 われわれはあのような徒輩と同席するのをいさぎよしとしない。即刻掲載を中止せよ。」

 

 高名作家たちの執筆拒否まで持ち出してのけんもホロロの最後通牒に、さすが名編集者の樗陰も屈服せざるを得なかったエピソードは有名だったようで、両者は互いに反目し合っていたという。 

 

 「 しかし、私の大嫌いな、私共の生活に一体どれほどの味方や貢献を与えてくれるのかさっぱり解らない作者先生輩等のペダンチカル・アリストクラチック・ムード・・・」

 

 と、そんな高名作家たちを指弾した後、黒石は、自らをこう位置づける。

 

 「 俺の芸術は苦笑の世界から生れて来るのだ。刺笑の世界に限られているのだ。」

 

 「 私が云うとすることは、ほんとうに人間だけが賦与されている笑いと云う自己忘却で、( 自己忘却の方法としては其他に失神や睡眠や、酩酊、陶酔などがあるけれども )積極的に幸福と云うものゝない人間の、開闢以来私どもの生活に必然的に伴って来る、そして、その中から脱却することの出来ない不幸を、一時休止させる一種の発狂状態が私の主張する私の芸術だと云うのである。陶酔も笑いも結果は同じことである。生よりの忘却手段である。芸術に最高の目的があるとすれば、それは陶酔であり笑いであるに違いない。」

                       《 刺笑の世界から 》大泉黒石

 

 

 そもそもが、黒石が京都三高時代の頃に《 大阪朝日 》の某国太郎の処に原稿を持って訪れた際、国太郎が小説の書き方を簡単に教示してくれたことがあったという。 

 

「 ・・・小説は、国太郎のように、心を酔わせて、神経を麻痺して、不安や焦燥から、まわりくどく遁れて綺麗に白粉を塗って胡魔化さなけりゃ駄目だ。」

 

 “心を酔わせ”が、正に上記の黒石の作品論と同様の没頭的陶酔であり、“白粉を塗る”とは、正に虚構的糊塗のことであろう。つまり、没頭的陶酔のうちに糊塗し上首尾に仕上げるって寸法、想像の翅を大きくはばたかせる、それが小説=フィクションって基本の教示。( まだ、高校生だった黒石に分かりやすく教えてくれたに違いない。)
 黒石にとって要はそこなんだろう。
 そして作家としてそこが基準になり“真実”となって、“作家活動”自体もそれに準ずるものとなってくる。勢い、舞台裏のプライバシーの方が“虚構”、黒石の家庭の事情誰も知らずって構図。
 それにしても、黒石、根が生真面目なのか、大阪朝日の編集者の言葉をよくも後生大事に信奉してきたものだ。一見、彼の“キャラ”からすると反撥しそうなものだけど、やはり納得できるものがあったのだろう。
 因みに、《 俺の自叙伝 》で一躍有名になって後、《 恋を賭くる女 》をその《 大阪朝日 》に連載することになった。

 

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 ( 漢口のロシア領事館での黒石の父・伯母・祖母 )

 

 滞米期間も長かった米国帰りの作家で大正十五年( 1926年 )から《 週刊朝日 》の編集長をやっていた翁(おきな)久允は、米国での経験から黒石に比較的同情的であった。

 

 「 ・・・私と大泉黒石との出会は昭和の初めであったが、その前に私はアメリカにいたので( 明治四十年から大正十三年まで )その間に黒石の小説を読み彼の存在を認識していた。帰ると間もなく朝日に入り、週刊朝日の編集をやることになった。ある特集をやったとき、黒石に手紙を出して寄稿を依頼したらもって来てくれたのが初会見だったと思う。このアイの子はその多年在米していた私にはなつかしいものであった。彼のアイの子文学はその頃一種の特長をもっていたが、文壇人はアイの子である彼に対しては薄い幕を張っていた。孤独な彼に私は同情の念をもった。そこで私は遊びに来ないかと誘って、よく私宅で酒を呑み合った。無邪気なところが私は好きであった。彼は磊落に見えたが、原稿の一字一字は実に正確な字画であった。」

                              ( 翁久充の志村有弘宛の書簡 )

 

 「 ・・・本当の友達らしい友達をもっていなかったところに私は黒石を見ている。アイの子というものに対するその頃の日本人の偏狭な感情が彼に対してほの見えた。それが私の彼への愛情になった。彼は酒飲みだけの友達しか持っていなかったのでなかろうか。家庭のことは何もきかなかったが子供が沢山あったらしく、生活は苦しかったそうだ。原稿も余りよく売れなかった。どうして生活しているのかと私は内心心配していた。だから、やってくると彼の欲するだけの酒を飲ました。
 ・・・文壇人とは殆ど交遊を絶ったが黒石はちょいちょい訪ねて来た。その頃はボロ着に笠を冠り、下駄などと粗末なものであった。貧乏も底をついているようであった。彼は何も欲していない。ただ酒であった。そして飲むと飄々として去った。」

                                      ( 同 上 )

 

 恐らく《 中央公論 》デビュー前のことだと思うが、日本で作家として名をなせないのなら、アメリカやフランスで作家としてデビューしようと企んでいたという話もあって、最近こそ海外でそこの現地語で著作活動をする日本人作家って必ずしも珍しい存在ではなくなったものの、大正の頃だと殆ど稀有だったろうし、黒石なら本当にやらかしそうそうにも思える。フランスだとデビューが黒石よりちょっと遅いけれど同世代の《 世の果てへの旅 》のセリーヌなんかが活躍し始めた頃だったろうか。

 

 「 ・・・逆を言えば、黒石にとって創作は単に世渡りの手段であり、文壇など眼中になかったのではなかろうか。」                            

 

 と、この著者・有村は述懐する。
 しかし、喰わんがため・世渡りの手段ってことを前提とすると、上記のアメリカやフランスでもデビューしようと企んでいたというエピソードは、“出稼ぎ( 移民 )”的イメージも帯びてくる。
 当時も、喰わんがためあるいは一山当てようと海外に出稼ぎ・移民に飛び出していった者は少なくない。ハリマオ=谷豊の家族も、そんな中の一家族に過ぎなかった。戦後も大部過ってからは、いわゆる低開発国から盛んにやって来られる側の国になったものの。
 この本で知った面白いエピソードがある。

 

「 ・・・三月大泉黒石が来て図書館で講演した。ががたる鼻柱の下からロシアなまりの巻き舌で繰り出すので、『 エスペラントのごたる』と評した人がいた。」
     
                            島内八郎(長崎の歌人)《 長崎新聞 》


 テレビやなんかでアジアや欧米からやってきた外人たちの繰り出す日本語が総じてそれぞれの母国語の発音からくる“なまり”を帯びているのと同じだけど、それってやはり黒石がロシアやら国外での生活が短くはなかったってのを証してもいるってことになるし、それ以上にそんな口調の金髪碧眼の身長もそれなりにある、つまりロシア人然とした男が突然自分たちの面前に立ち現れたら、いくら大正デモクラシー華やかし当時にあっても文化エリートたちは、アカデミズム的徴象の一片だに掲げることもないむしろ貧民窟の血腥い牛血の異臭すら漂ってきかねないその異貌に、忽ち違和感、あるいは本能的な嫌悪感すら覚えたのかも知れない。当時、ロシアから亡命してきた盲目の詩人・エロシェンコにはいかにも舶来ものに触れるような対応だったらしいのが。
 所詮東の果ての島国の閉鎖的な性根のなせる業ってことに尽きてしまうことだったのだろうか。  

 

         《 近代作家と古典 》志村有弘 ( 笠間書院 )1977年

 

 

 

 

 

 

 

 

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