カテゴリー「書籍・雑誌」の442件の記事

2026年6月 4日 (木)

昏い谷間の活劇「邪痕魔道」 阪妻&古海卓二

 

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 いわゆる昏い谷間の時代=昭和初期に束の間花咲いたいわゆる傾向映画、とりわけ古海卓二の「アジプロ」映画、《 日光の円蔵 》、《 戦線街 》、《 剣 》 等当方にとって垂涎的幻の作品群の少し前、大正15年(1926年)、獏与太郎こと古海卓二、金子洋文、小生夢坊、高堂国典(俳優)等で、当時寡占的だったらしい四社(松竹・日活・帝キネ・東亜)の打倒の意気の下に結成された第一線映画連盟、しかし、たった三作品撮っただけで一年でポシャってしまった。

 

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 背に腹は代えられないと、妻の女優・紅沢葉子は京都まで赴き、当時全盛の阪妻こと阪東妻三郎に泣きついた産物が、この《 邪痕魔道 》。
 大阪朝日新聞社・全関西映画協会の懸賞(千円)公募した原作で、脚色・監督を卓二が担当。当初は阪妻、卓二すっかり意気投合しノリノリだった。が、何しろ古海卓二、当時、時代劇じゃ常道だった要所要所の主役のドアップを、必然性がない!の一言で無視したりで、たちまち仲が険悪に。それでも、一場面のみのドアップ、延々と続くチャンバラ剣劇シーンの最長記録のいずれも革命的と評価されたりで、大ヒット。
 この《 邪痕魔道 》後、ケンカ別れし、もう一人の雄・市川右太衛門の右太プロに参加。傾向映画《 日光の円蔵 》(1929年12月)、《 戦線街 》(1930年2月)等を撮ることになる。

 

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 偶々ネットで見つけたこの《 邪痕魔道 》のパンフレット。
 9センチ×13センチの小判で、「道頓堀 朝日座」と裏表紙にある。
 その前身は江戸時代後期まで遡り、明治中期に芝居館「朝日座」を名乗り、明治末期には映画上映をメインに据えた映画館となった由。
 この小パンフ、朝日座が独自に作ったものなのか、同じ系列の映画館共通に配布されてたものかどうかは定かじゃない。
 「解説」に、吉原仲之町の野外セットが、当時としては空前の規模とあり、俳優陣も“ オールスターキャスト ”とあって、大々的な阪妻再起作品ってことだったようだ。

 

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 冒頭、◇ 言葉・・・宿命に反逆する者ーーーそはその結末において血塗どろの敗北を招くとも、よしまたその歩程において凄惨な悲劇を生むとも人生の苦闘に直面し得る熱と力の強者ではあるまいか。◇
 二年前の阪妻の代表作《 雄呂血 》(大正14年)じゃ、"直情径行"で生きるに不器用な侍・久利富平三郎の凋落と惨憺の軌跡が描かれていたが、この《 邪痕魔道 》の主人公・詫間栄之進、京で十幾年の剣術修行を終えて江戸に戻ってきた所からストーリーが始まる。
 早速許嫁の変節が発覚し、自身もこの家の嫡男じゃなく妾腹の子であることすら告げられ、忽ちにして奈落の淵に突き落とされてしまう。
 実の老いた母親を半場強引に自身と一緒に出奔させた栄之進の行く末は、正に暗澹奈落の転落転変行。やがて時代(昭和)そのものが、その跡を雪崩うつように辿ってゆく。

 

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但し、このパンフは、あくまで「前編」のみ。
 新記録を樹立したといわれる剣戟延々の格闘篇は後編。
 卓二監督、数年後の、右太衛門との共作《 戦線街 》じゃ、検閲カットの最長記録も樹立。記録ずくめの与太平=古海卓二、正に彼の傍若無人・破天荒な生様そのまま、投影の観すらあるこの《 邪痕魔道 》。
 傾向映画は勿論、この作品も、後年阪妻と再度組んだ《 変幻七分賽 》なんかも是非観てみたいが、殆ど焼失してしまったようだ。残念。

 

《 邪痕魔道 》監督・古海卓二 主演・阪東妻三郎 原作・坂西夫次郎 阪妻プロ(太秦撮影所)1927年(昭和2年)作品


参考《 日本映画縦断1 傾向映画の時代 》竹中労(白川書院)1974年

 

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2026年4月28日 (火)

黒石的七彩境界を探して 長崎外海・出津 

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 以前、《 大泉黒石(私)研究 》に掲載された大泉黒石のスケッチ《 睡れる少女の顔 》で、中学の頃、大浦湾に面した鯨漁( むしろ加工・運輸の方だったようだ )の小さな漁村・時津(とぎつ)の静かな景観と雰囲気が好きで度々スケッチブック片手に赴いていて、偶々訪れた「海に面した小奇麗な茶店」、駄菓子屋も兼業の店でラムネを飲んでいると、店番の娘がうたた寝をはじめ、その愛らしい横顔に魅せられ思わず描いてしまったという経緯。
 
 今改めてそのスケッチを眺めてみると、どうにも日本人とは思われない西洋人的相貌で、勿論実際には色んな血の混じった東の涯の日本列島住民であるんだから、様々な骨格・相貌があっても違和はない。けど、余りに西洋風にあり過ぎてて、これはむしろ黒石が自分に寄せてディフォルメした美意識的変容の産物じゃ、と断じたくなってくる。黒石の中学の友人たる彼女の親戚も、同様に鼻梁の高い西洋人っぽい風貌だったのだろうか。
 あるいは、ひょっとして彼女は当時まだ存在していたろう南山手の異人館あるいは稲佐のロシア系のラシャメンの子孫だった可能性もあり得る。

 

「 私の幼年時代の記憶の中で、一番色彩の濃いのは、この漁村である。」
 

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 ( 出津文化村バス亭 長崎駅前からの直通は少ない。途中乗換えもそこそこ。隣村・黒崎は歩けなくはない距離で、当方は時間とエナジー切れで諦めたが、時間があればアプローチした方が面白い。フェンスの向こうに東シナ海が拡がっている。)

 

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( バス亭から眼下に覗けた出津漁港。小さな漁港で、春の陽光の下、のんびりした雰囲気。)

 

 黒石の心の奥底にゆらめく原風景としての時津。
幼年時代の記憶とあるからには、中学生以前に遡るものだろうけど、十キロ以上の距離を小学生がスケッチブック片手に散歩するってのは些か無理があって、おそらく大人に車か何かに乗っけられての同道だったに違いない。彼の乳母の郷里でもあったという。
 それは又、《 長崎夜話 》( 大正九年の《 中央公論 》に掲載 )中、主人公・黒助の乳母だった女性の実家が、近郷の農村で鯨商を生業としていたという設定にも連なってきて、首からECCE HOMEの刺繍のある黒羅紗の札を吊るした老婆・お島と、首からアルミのマリア像をさげた娘・おふじの二人が、毎回鯨肉を手土産に黒助宅を訪れていたのが、次第に鯨肉が小さくなってきたのを疎ましく思い始めた四面楚歌の黒助だった。
 その二人、つまり乳母の母親と娘に厄介者扱いにされていた老爺・佐太郎が、浜に教会が建てられてから、浄土宗から耶蘇教に帰依したとあって、明治維新以降の新キリスト教徒には違いない。黒助はその教会の神父に恐れと確執を抱いてて、佐太郎の葬儀の際、愈々妖気漂う異界空間も極まってしまうのだけど、そもそも時津には戦前、キリスト教会はなく、戦後も大部過ってから建てられたものがあるだけという。

 

 

 長崎から時津の倍の距離、東シナ海・五島灘に面した外海(そとめ)と呼ばれる断崖が続くエリアの一角に、出津(しつ)の小さな漁港があり、そこには、明治15年( 1882年 )にフランス人宣教師ド・ロ神父によって建てられたカトリック教会が建てられていた。けど、二十キロも離れているので気軽にスケッチブック片手じゃ余りに無理過ぎ。
 つまり、黒石がこの出津を念頭において時津に組み込んだのか、あるいはもっと創作的に、佐太郎の告別式の七彩的妖気漂う伴天連的牙城として何としても教会が欲しかったのか。

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( 出津漁港、昼間だったのもあるが、人影はほとんどない。左の旧い木造家屋は朽ちていた。ここは山側も海側も石垣作りが多い。一年を通して強風が東シナ海・五島灘から吹きつけてくるのもあるのだろう。)

 

 で、今回、念願のその出津に行ってみた。
 久しぶりの長崎駅は、まだ駅ビル外で工事中。その外側にローカル・バス停留所があって、11時5分の西海バス( 100番 )に乗った。桜の里バスターミナルで乗り換えせずに済む出津( 出津文化村 )直行便。 さすがに過疎エリアらしく2×1の座席も乗客も少ない。出津は元々貧困エリアであったらしく、明治前期にやって来たド・ロ神父もその余りの貧しさを目の当たりにして、自身の財産を注ぎ込んで救済に奔走したという。貧しさ故の産業育成や施設、小さな診療所そして教会建立。彼は貴族の出で、それなりの財産があったようだ。マカロニやソーメン、パン、織物等、女性達の生活的自立を助けるための施設は現在でも文化財として残っている。

 

 

 一時間ちょっとのバス旅は混むことがないので満喫できた。
 途中までは時津と同じルートだったけど、次第に山道に入ってゆき五島灘に向かって屹立した断崖とちょっと開けた小さな漁港が点々と下方に覗ける高台を縫ってゆく。ようやく海に面した道路に出たと思ったら、もう出津文化村、眼下に張り付くように蝟集した小さな出津港が見下ろせた。青々とした遙か向こうまで東シナ海にいたる水平線が拡がっていた。かつては大きく帆を張り白波を蹴立てた異国船が行き交っていたのだろう。しばし、ガードレールに身を寄せ、往事も吹いていたろう冷んやりした五島灘の風が、陽光の下、心地よかった。
 

 出津の村は小さな村だけど、地図で見てたのと違って、バス亭のすぐ前に漁港が開けているんじゃなくて、急勾配の坂道を下ってゆかねばならない。漁港の両側にはもう断崖がそそり立っている。すっかり整備されている出津の文化村は、それでも、やっぱり長崎って感じで坂道が縦横に走ってて、ゆっくりと歩き回るにはもってこいの規模。
 目的の出津教会はすぐに見つかった。
 丘上に長細い瓦と漆喰塗りの白壁の低い屋根の、ド・ロ神父と村民達が建てた教会が、春陽の下、のんびりと横たわっていた。傍に近づくと、入口上の設えられた塔の先に塑像なのか淡色のマリア像が眼に入った。
 白地に腰の水色の帯がアクセントになってて、ド・ロ神父がフランスから運んできた像ということで、彼好みの、教会ともども余り飾気のない淡いマリア像に違いない。
 その本堂と少し離れた場所に、もうそれだけのために建てられた風の塔の上に、呼応するように大きく両手を広げたイエスの白像があって、どう考えても、後から立てられたもので、やはりカトリックは聖母が主なのか。聖母マリア(像)って観音菩薩(像)と似たとこがあるからか、隠れキリシタン達の隠れ蓑としてマリア観音像なんて流布していたという。華美とは無縁の飾気希薄な質素な佇まいは、赤貧洗うが如くの貧しい人々の欣求的癒しの場とし相応しいものだったろう。

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( 出津教会。瓦と漆喰壁が簡素だけど、なかなかの風合いと雰囲気。玄関上に伸びた尖塔の先にマリア観音像。向こうの小さな登楼にキリスト像。夏はコンクリや石が焼けてともかく暑そう。)

 

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( 石段上から見下ろした教会玄関。マリア像がよく見える。この石段上は一休みするにも持参の弁当広げるにもベスト・ポジション。)

 

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 ド・ロ神父は、慶応4年( 1868年 )に、所属していたカトリック・パリ外国宣教会から長崎に派遣され、横浜にしばらく滞在した後、明治11年( 1878年 )、出津の教会主任司祭として赴任。明治15年に出津教会を建て、翌明治16年に女性のための授産施設《 出津救助院 》を設立。最初、無知な当方は、授産を出産関係かと感じ違いしたが、これは貧困対策としての産業的技術の授業ってことだった。
 彼は隣村黒崎村の教区も兼任していて、大正に完成が延びたものの出津教会とは全く別様の赤レンガ造りの立派な教会をも立て、大正初期に体調不良で戻っていた浦上天主堂に付属した大主教館工事中に斃れたという。

 

 

 教会を少し下った坂道に黒瓦拭きの何軒か蝟集した建物《 出津救助院 》があって、いずれも歴史的遺構で料金を払えば見学できる。門の中に入ると、正面に昔風の民家の佇まいの土産物屋宜しく小さな売店があり、カトリック尼僧の衣装をまとった女性が出てきた。片側の奥深い建物がかつての工場で、売店の建物がかつての医療室だったらしい。尼さんの話だと、この辺り一帯は風が強く、強風の吹き荒ぶ時は大変という。教会も風対策として、ド・ロ神父が低い屋根に設計したようだ。

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( 教会堂の裏。フランスの宣教師らしく、ルルド。)

 

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 佐太郎の告別式が催された七彩の妖気漂う異界空間=教会堂って、それなりの規模のステンド・グラスを前提とするけど、この出津教会堂の内側は、外形と同様飾気を排した質素な作りになっていて、浦上天主堂なんかの長崎市内の教会の内部をイメージしたんだろうか。境界世界的悪夢の舞台に設定するには、この東シナ海から時折強風の吹きつける出津の質素な教会は、余りに不向き。
 むしろ、隣村の黒崎教会にこそ、信徒達が一個一個積み上げていった赤煉瓦造りで天井高く、七彩の光に満ち溢れるだろうステンド・グラスが張り巡らされている。尤も、時間の関係で当方は未見。大正九年に完成したとある。《 長崎夜話 》が月刊《 中央公論 》に掲載された年と同年。それだと、可能性は低い。

 

 年間を通して東シナ海からの強風に晒される外海、断崖多い地形から如何にも厳しい自然条件って先入観が先にたってしまう。実際その通りのようで、風が強いと転覆する漁船も多く、残された女・子供が呻吟してたってことでのド・ロ神父=教会・救助院の成りゆき。現在でも住民の半数近くがカトリック( 切支丹 )教徒という。隣町黒崎近くの高台に遠藤周作文学館があったりで、当日も、何処かのミッション系なのか女子高生達の一団がゾロゾロと教会を訪れ、靴箱に履物を預けて中へ入っていった。薄っらと雲のかかった青空から照りつける陽光に、尖塔上で両手を合わせた淡い聖母マリアが一層眩しく佇んでいるばかり。
 黒石の見えることのなかった母ケイや、黄廛来の刑死した若き母親や李桂花の如く。

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( 出津の救助院。ド・ロ神父肝いりの授産施設。彼は建築から農業まで幅広い知識と技術を有した正に献身的使徒のようだ。)

 

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2026年3月31日 (火)

高杉晋作=東行庵(下関・吉田) 再訪

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 昨秋訪れた際は、暑熱もあって、訪問客疎らで閑散とした佇まいの中、広い池全面に大輪の白蓮が溢れ、その絶景は筆舌に尽くし難いものだったと云えば些か形容過剰だけど、想定外だったこともあって、感動ものだった。
 今回は、連休中日とあって、風こそ少し強く肌寒かったものの小春日和に近く、さすがにそこそこ人出はあった。肝心の池には枯れ萎れた蓮茎が点々とシルエットとなり、つがいらしい雁と紅鯉が一尾悠然と回遊するばかり。
 

 

 市の博物館にはそれなりに揃ってるのかも知れないけど、萩の晋作の居宅も、ここの東行記念館にも晋作がらみの歴史的遺物って僅少。もう少しあってもいいんじゃないか思うんだけど、あっちこっち形見分けしてしまってたんだろうか。あるいは、分散・・・
 今回、上下段に並んだ晋作と愛妾おうの=梅処尼の墓の右手奥に並んだ奇兵隊士たちの墓列の方にも足を伸ばし、一つ一つ確かめてみた。当然、奇兵隊の大まかな顛末は了解してるものの、個々逐一は殆ど未詳で、実際は、只刻まれた時代を確認するぐらい。それほど朽ちた風でもないにもかかわらず判別しにくい。
 奇兵隊創立して幾らもしない内に亡くなった隊士や明治も大分過ってからのもあった。昭和になってからここへ改葬したのも少なくない。死してからの様々な帰趨転変。如何にも時代の波に、切り開いたはずが翻弄されることとなった奇兵隊の命運ってとこだろうか。

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 ( 昨秋は一面大輪の白蓮が咲き誇っていたけど、今は枯茎のみ。) 

 

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 ずらり瞥見して気づいたのは、本来なら維新新政府と抗い拮抗角逐した奇兵隊士=諸隊脱退隊士たちの墓も並んでいたことだった。元々この地は、新政府本道とも謂える、晋作の盟友・山形狂介(有朋)の所有地だったのを、晋作の遺言に従って晋作を葬り、おうのに東行庵として譲渡したものだった。それでも、官制じゃなく、あくまで私的なものってとこで、かかる運びとなったのだろう。

 

 

 明治2年6月、版籍奉還で、長州→山口藩知事・毛利元徳は、11月、いわゆる精選を実施し常備軍結成のため、諸隊約5000名の内、3000名を、論功行賞も無く解雇した。それに激怒し、異議を申し立てた奇兵隊はじめ振武隊、鋭武隊等旧諸隊士が脱隊騒動を起こした。
 

 

「奇兵隊之儀ハ、有志之者相集候義ニ付、藩士・陪臣・軽率不撰、同様ニ相交り、専ら力量を 尊ひ、堅固之隊相調可申ト奉存候」

 

 

 そもそも、晋作が提起した理念、出身・身分を問わない志のある者たちの、平等に協同し、もっぱらその力量だけが問われるはずの奇兵隊だった。ところが実際には、その初期から、厳然とした身分的な差別があり、最後まで払拭されることはなかった。あまつさえ、諸処での戦で死傷した隊士たちはいかほどの補償すらして貰えなかったという。
 帝都・東京から木戸孝允(桂小五郎)が鎮圧のため帰藩、一進一退の末、壊滅し鎮圧した。木戸は、脱退隊士たちと折から長州藩中に沸き起こった農民一揆が結びつき、新政府の存立を脅かす全国的波及を恐れたという。
 正にそのごときというべきか、処刑( 斬首 )された隊士の半数以上が農民出身だったという。

 

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 ( 高杉晋作=東行の墓。晋作の像や山形狂介の像が別の場所に立てられている。)

 

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 ( おうの=梅処尼の墓。晋作墓の下の段にある。)

 

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 (それぞれの物語を秘めた隊士の墓石が、昼尚仄昏い林陰に静かに佇んでいる。)

 

 この東行庵隣接の奇兵隊士の墓列に並んでいる佐々木祥一郎は、ある種、諸藩脱退の象徴的な存在で、晋作と同じ上級武士の出身。事態の成り行きで、脱退組の指導的立場に祭り上げられたようだけど、出自のせいもあってか、藩主の鎮撫( 当初は、藩主・毛利公直々に対応していた )を踏みにじる挙には出難たかったようで、武力じゃなく、極力話し合いでの解決を意図してたらしい。
 結局、壊滅し、捕縛され、刑場に引き立てられる途中で、突然暴れ出したという。武士の最後のプライドとして切腹を求めた、という話もある。その際、刑吏に鉄棒でさんざ撃ちのめされ、血塗れのまま斬首されたようだ。彼の憤激・慟哭は、後年新政府を脅かした士族反乱の、先駆けともいえよう。
 因みに、彼の亡骸は家族が密かに一族とは別に埋葬し、やがて行方不明になっていたのが、戦後になって発見され、現在地に改葬されたという。
 

 

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 ( 叛乱分子扱いなんだろう墓石を横に向けたまま。時代的制約はもう解いていいはずが、史跡重視って訳か。)

 

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 (下関の豪商・白石正一郎のとこで働いていた奈良屋源兵衛、封建主義的身分的角逐ともいうべき教法寺事件に巻き込まれ惨死。)

 

 もう一つ、奈良屋源兵衛、元々は晋作や坂本龍馬も支援を受けていた商人・白石正一郎の下で働いていたのが、奇兵隊に入隊。
 1863年(文久)8月、いわゆる《 教法寺事件 》に巻き込まれてしまった。当時、下関の前田砲台(奇兵隊)と壇ノ浦砲台(先鋒隊)を、毛利定広が閲兵するってんで、それぞれの隊が興奮混じりに期待に胸を膨らませていた。が、先に赴いた奇兵隊の駐屯する前田砲台であれこれ丁寧に見回ったのか、時間を喰い過ぎ、壇ノ浦砲台を省略して帰ってしまった。問題は、壇ノ浦砲台の先鋒隊が、一般募集の奇兵隊と相違して、全員、藩士たちで構成されていた、つまり長州藩正規軍だったってことで、その頃既に下関・長州界隈で流布していた、

 

 麦の黒ん穂と先鋒隊はせいを揃えて出るばかり
 
という戯歌、先の関門海峡で四国連合艦隊と一戦交え、前時代的な鎧兜の出立ちで蜘蛛の子を散らす如く逃げ惑い、あげくフランス軍に砲台まで占拠された屈辱的事件を揶揄したもので、その当事者がれっきとした藩士たちだけで作られた先鋒隊だった。
 そのいわば出身身分を嵩に着たエリート意識ばかり強い先鋒隊が、藩主直々閲兵の名誉ある瞬間を鼻先で藩主踵をかえすというあり得ないな事態、それもよりによって、大半が百姓ばかりの奇兵隊に妨げられたというこれ以上ない屈辱と怒りの爆発が、しかし起こるべきして起こった角逐的顛末。奈良屋源兵衛、そんな騒動には無縁な場所にいたにもかかわらず、憤った先鋒隊にひっつかまり、惨殺されてしまったという。何とも哀れ。墓の脇に立った表札には、はっきり“リンチ”と記されている。晋作も当時現場に居たようで、責任を取らされ、奇兵隊総監を罷免されてしまった。たった三ヶ月の就任であった。

 

 

 昨今、高杉晋作神話も、奇兵隊神話も崩れつつあって、いよいよ本格的にその実像に迫まれる時節に至ったということなんだろうか。
 奇兵隊はじめとする旧隊脱退勢力と農民一揆との結びつきってテーマ、現在研究者の間じゃ錯綜してるようだけど、対岸の小倉藩・企救半島農民一揆との絡みで興味は尽きない。

 

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2026年3月18日 (水)

黒石ブログ的近況 《 笑うべからず 》同類異種的島田清次郎への接近

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 2025年6月、イランの高官・科学者まで殺害、軍・核基地を中心に爆弾やトマホーク等で攻撃した米国・イスラエル、それに対してイランの側もドロ-ンや弾道ミサイル等で反撃した《 十二日間戦争 》が勃発し、その八ヶ月後、今度はイランの最高指導者ハメネイ大統領を家族もろとも殺害し、もっと徹底した攻撃をイスラエル・米国が敢行。

 

 虫の息なのかと思われたイラン、さすが米国本土に報復に値する攻撃をする意志はないようで、基本、せいぜいイスラエルと湾岸諸国に対する攻撃に終始しているようだ。ハネメイ一家殺害はイスラエルが強行したというトランプ米国のスタンスらしいけど、それにしても、イランって一方的にネタニヤフ・イスラエル当局から籠絡されるばかりで、基本、一指だにできてない。
 先は長いのか短いのか、エシュロン以外にも世界的監視システムはあるのだろうから、イラン一国だけじゃ、同等のものをイランが所有してない限り甚だ難しい。それ故に〈 核 〉に執着するイランや北朝鮮なんだろう。
 米国・イスラエルともども、碌な建国じゃない札付き侵略虐殺国家。 その米国の傀儡パ-レビを追い出したのは良かったけれど、その後が、イスラム原理主義的ファシズム国家じゃ、イラン人達も、あたかも台湾の人々が、日本軍去ったと思ったら、大陸から追い出された蒋介石・国民党の腐敗ファシスト達が雪崩をうって遣ってきて、悪辣極まりない苛政を押しつけてきた果ての迷惑極まりない現在って図式と相似。
 

 

 ハメネイ家族もろとも殺害って、同じことを、イランがトランプ一家もろともドロ-ン攻撃でやらかしたとしたら、欧米どころか、世界中が騒ぎ立て、恐るべき犯行と罵り呪詛し、世界中が喪に服し、仕舞いにゃ結託して“ Down with IRAN ! ”のシュプレヒコ-ルを連呼し、イラク侵攻の時同様、多国籍軍として猛攻撃しかねないといった図式の上で成り立った戦前以来の帝国主義列強的世界。
 一般論として、まるで、この世界には、反省って観念が皆無って風だ。

 

 

 戦前、そんなウンザリするような帝国主義植民地争奪戦以外の何物でも無い戦争、不可抗的に鬼畜英米と対決せざるを得なくなって、大日本帝国の盲動に、目が点になった辻潤とおそらく同様に己のが耳目を疑った我が大泉黒石、森閑とした暗夜、二人で酌み交わした酒は、飲めども飲めどもさめざめと白けるばかり、あるいはやがてこの列島に展開されるであろう阿鼻叫喚のきな臭い予感に苛まれ、悪酔いの淵に沈んでゆく泥酒だったろうか。

 

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 昨年は色々身辺騒がしく黒石に集中できず、不如意なまま了ってしまった。今年も、もう三月、そろそろ着手したく、まずネットで、四方田犬彦《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》以降少しは増しな状況になってきてるはずと、些かの期待をもって検索してみた。
 が、如何せん、相も変わらず、大半が《 大泉黒石 わが故郷は世界文学 》の営業ブログばかり。時折、児玉司の《 大泉黒石(私)研究 》が出てくるだけで、以前と基本的には殆ど変わりはない。
 そんな旧態依然とした閑散の中に、わずかに一点、あさき主宰の《 NOTE 》に全文復刻掲載された《 笑うべからず 》( 《 改造 》大正14年7巻2号 )があり、初見なので一読させて貰った。如何にも黒石然として黒石節全開の止めどなさに久しぶりに舌を巻いてしまった。

 

 

 黒石が満州に旅してる留守に、あろうことか、嫁の美代の腹が膨れ、スワッ ! 亭主の居ぬ間の不倫か?という読売新聞の記事に端を発した黒石近辺の人間模様の黒石的饒舌的展開。
 その美代の膨れた腹の中に居たのが誰あろう、後年映画俳優になる大泉滉なのだが、それはともかく、黒石一家が居を構えていた場所を、村と呼び、おそらく北豊島郡長崎村が比定されるんだろうが、「うまくもない十五銭のカツやコロッケを撓(たゆ)まず飽かず夫婦掛け合いで食ってやるので」すっかりお馴染みになった「村に古くからある田甫道の酒場」《 開化楼 》の女給・船子と、彼女がサ-ビスのつもりで置いていった《 醜婦の友 》( おそらく、主婦の友 )十二月号のぺ-ジに偶然覗けたゴシップ記事の当事者の島田清次郎。この二人を中心に、長広舌が延々展開されるのだ。

 

 

 「 何の気なしに頁をペラペラ繰ると、島田清次郎なる若年小説家の顔が現われた。
 見ると奴さん、往来の真ん中で突然発狂して巡査に取ッ捕まり、巣鴨の保養院へ叩き込まれて暗い独房でワイワイ泣いているという大袈裟な見出しの記事があるのだ。」
 
   
 大正十三年七月、おりから青山墓地で爆弾事件が起こって警視庁総力を挙げての一大取締まり作戦の真っ只中、巣鴨・白山通りの路上を人力車に乗ってたのだけど、よりによって赤い血痕に点々と染まった浴衣をまとっていたものだから、早速引っ捕えられてしまった。
 尤も、巣鴨署に拘引した後、吉野作造博士宅に押し入っての一悶着や海軍少将の娘の誘拐・監禁事件で既に有名になっていた新進作家・島田清次郎と分かってからは、すっかり持て余し者状態だったようで、翌日早々、巣鴨の保養院( 主に精神病施設 )に引き渡されてしまった。
 その件の爆弾事件、かのひょっとして黒石も一度面識があったかも知れない大杉栄の労働運動社に出入りしていた浜鉄が、大阪府警にリャクで逮捕され、関東大震災時に虐殺された大杉栄達の復讐と浜鉄の奪還を目論んだ古田大次郎等《 ギロチン社 》残党の爆弾製造の一環としての青山墓地での爆弾試作行為だった。
 

 

 「 好奇半分で読むと、発狂の顛末が如何にも巨細にわたって、いい気味だ、態を見ろと言わぬばかりに書きのめしてある。昔は人間の首を戸塚ッ原の獄門台に晒したが、今日では婦人雑誌がその役目を引き受けたと見え 」

 

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 週刊誌・月刊誌、つまりマスコミって、戦前からかくの如しって訳だ。
 島田は大正八年に、新潮社から《 地上 地に潜むもの 》を上梓し忽ちベストセラー、全巻売上総数50万部にもなったという。若干二十歳で一躍文壇の寵児となり、あの芥川龍之介にも将来性を嘱望された。
 只、黒石とはまた違った毀誉褒貶の著しい作家だったようで、巣鴨での事件の前年にも、もともと島田のファンだった海軍少将・舟木錬太郎の娘と一緒になろうと些か強引に連れ出し、葉山に住んでいた徳富蘇峰に仲人を頼もうとした矢先、折から皇太子(ヒロヒト)が葉山御用邸行幸で警備中の警官達に怪しまれ逮捕された。
 二度も厳戒中のピリピリ状態の官憲に怪しまれ、有無も言わせられず引っ立てられる不運。その上、父親の海軍少将に、娘を傷物にしたと誘拐・監禁・陵辱等で訴えられてしまう。このスキャンダルが決定的となって、転落の一途を辿り始めることになったようだ。

 

 

 「 若年小説家が三躍しての発狂沙汰は要するに大将、口ばかりで腸(はらわた)がなかったせいもあるが、俗物どもが寄ってたかって酷め過ぎたのは事実だ。島田清次郎とは僕の家で一度、誰かの出版紀念会で一度。会ったきりで時々は消息を寄越すこともあったが、僕はあの人相が気に食わないので交際(つきあい)は遠慮していた。然しこうなっては見ていられない虐待だ。此の際何とか出来るなら何とかするなら僕の性分だ。誰も構わなければ俺が構う。発狂まえに持ち廻って散々断られたという其のボロボロ原稿はどんなもんだか知んが恐らく大将の絶筆だろう。一ツ閲( み )た上で本屋に掛け合い、出版したら屹度喜ぶだろうと考えた。」

 

 この原稿は、黒石先生の苦労の甲斐あったのか、それまで《 地上 》を出版していた新潮社から彼の原稿は一切拒絶されていたので、春秋社から、「 我れ世に敗れたり 」のタイトルで出版された。《 地上 》自体が当方には未見だけど、《 地上 》の第六巻に当たるらしい。一躍スタ-ダムに昇り、出版界の寵児となったは良いが、あれこれと毀誉褒貶著しく次第に人気も下降していったって構図は、黒石と島田、相似。また、島田は二度ほど自殺未遂があり、黒石も、当人の弁だと少年期に長崎港の岸壁から飛び込み自殺を図ったってのも共通。
 尤も、島田の場合、正に凋落だけど、黒石の場合は、衰退って形容すべきか。それでも、皆に叩かれ罵られる島田を見るにつけ、自身の面影を投影もしただろうし、憐れみと義憤から一助を買って出たのだろう。
 因みに、島田は同じ保養院で、昭和五年に享年31歳で亡くなった。

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 この短編じゃ、島田より、むしろ近くの酒場(カフェのことだろうか)《 開化楼 》の女給・船子のエピソードの方が多く、例によって次回続きで筆を置き、尻切れトンボなんだけど、黒石の腐れ縁的畏友・辻潤も、平辻潤平の名を冠されて登場している。船子の玲瓏な声にすっかり魅入られ賛辞を惜しまぬ風の粹客として。

 

 

 「 睫毛の長い愛嬌顔もまんざらでないし、当人御自慢の声は滅法玲瓏たるもので、暇さえあれば、酒場の蓄音機を師匠に、ワルツやオペラの類から流行歌に至るまでの練習で客の度肝を抉えぐるのだ。」

 


この鬘を被った声楽(ボ-カル)嗜好の娘のエピソード、掲載された《 改造 》にじゃなく、《 醜婦の友 》にでもなく、黒石の得意先の観のある《 実業之日本社 》の婦人雑誌『婦人世界』に、受け継がれたようだけど・・・



 「 『婦人世界』7月号から12月号にかけて連載した「鬘娘」は「笑うべからず」(改造7巻2号、1925年)を長篇として書き直したもの 」

 

                           “スランプの持続・過去作品の使い回し”《 大泉黒石(私)研究 》

 

 

 とあって、拡大改編ってとこなんだろう。
 因みに、この船子って女給、実在の人物かどうか当方には定かじゃないけれど、誘拐・監禁に島田が問われた当の少将の娘、後にプレタリア演劇女優になる舟木芳江の“舟”の一字を拝借しての命名なんだろう。
 何よりも、誘拐・監禁事件をそのまま、男一人から二人に変え、とりわけ村役場の馬面の役人が一方的に執拗に船子に求婚を迫るのだから、島田の事件をネタに、コミカルに変容した黒石風刺笑譚ってとこか。
 
 因みに、最近は、YOU TUBEの方が若干、黒石的には賑わっている風で、茗荷谷かぼす氏以降、次々と、もちろん微々たるものじゃあるけれど、自分の黒石的世界の表演ってジャンルが拡がっているようで、これは将来的にも楽しみな流れではある。

 

2026年2月23日 (月)

わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか ! 古海卓二《 九州の百姓一揆 》

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 ( 八十年前の、文庫本より一回り小さなサイズ。ネットで結構出回っているけど、皆一様に使用感・経年劣化が強い。終戦直後は皆活字に飢えていたという。こんな120数ペ-ジの小冊子でも、それなりに売れたのかも知れない。「木の葉叢書」と銘打ってるけど、すぐに潰れたらしく、数冊ぐらい出して廃刊になったようだ。)

 
 1930年、主演・市川右太衞門のシリ-ズ第一作、《 旗本退屈男 》 オリジナルを監督した古海卓二、大正時代の浅草演劇から活躍したある種希代の反逆児だったが、時代風潮がいよいよ澎湃として侵略主義と閉鎖的排外主義的鬱々暗々としたものになりはじめ、唾棄するようにメガホンを叩きつけ、さっさと北九州・黒崎の実家に戻ってしまった。
 戦時中《 麦と兵隊 》で有名になった地元の火野葦平達のグル-プに加わり、執筆に活路を見出していたようで、福岡日日新聞( 現・西日本新聞 )に小説《 日本剣客伝 》を連載したりしていた。
 戦後いち早く、九州書房なる地方出版社を主催し、文庫本体裁の“木の葉叢書(2)”と銘打った《 九州の百姓一揆 》を出版。奥付に、配給が「日本出版配給統制株式会社」となっている。敗戦翌年の昭和21年6月発行だから、まだまだ焼跡があちこちに残ったままの紙事情だったんだろう。

 

 

 昭和21年といえば敗戦の翌年、前年進駐した米軍トップのマッカ-サ-元帥が新年早々、極東国際軍事裁判所の設置を命じ、二月には戦前の封建主義的土地所有を廃止する農地改革が実施されたり、フィリピンで山下奉文元陸軍大将が絞首刑に処され、東京で極東国際軍事裁判所が開廷されたりの旧制度が時代の波に崩れ落ちながらも尚もしがみつこうとする軋轢・拮抗=変転的時代であった。
 
 
 大正・昭和初期まで、古海は大杉栄なんかと係わりをもつアナキズム系的な立場だったのが、昭和4年5月にモスクワで開催された《 日本映画博覧会 》に招聘され、かなりの歓待を受け、以前浅草時代に《 どん底 》を発表したこともあったそのオリジナルの作家ゴ-リキ-とも会えたこともあってか、帰国後はすっかりマルクス主義の信奉者に変わっていたという。
 当時のロシア( ソ連 )は、1917年のロシア革命からレ-ニン→スタ-リンと政権が推移し、この昭和4年(1929年)は正に悪名高いスタ-リン主義体制が確立された年でもあったのだけど、同様に悪名高い上からの強制的集団農業制も正に彼が滞在していた頃に確立された。一介の外国人映画関係者なぞに、そんなリアルな革命的変容・圧政的光景を見せる訳もなく、海外からの客人対応モ-ドに単純に乗っけられたに過ぎなかった。
 当時の日本でも、すでに大杉栄が、ボルシェヴィキ=ロシア共産党に叛旗を翻すウクライナの反強権主義的革命運動を展開していたマフノ運動に言及していたにもかかわらず、少なからずのアナキスト達が、マルクス主義=日本共産党に走っていた。

 

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 ( 中扉。)

 

 古海、帰国しての監督第一作が、御大・市川右太衛門主演の《 日光の円蔵 》であった。
 
  「 この俺がいい御手本だ、支配階級の横暴と、悲惨な百姓の生活を見兼ねて、侍という特権を捨てて、農民解放の真っ先に立ったが・・・」

 

 世界恐慌の荒波が押し寄せ始めた時代に束の間流行った傾向映画ではあるが、あの市川御大が、大画面で、啖呵ならぬ、一大プロパガンダ的アジテ-ションをやってのけてるのが、いかにも古海らしい一途さであろう。勿論、こんなセリフ検閲が許すわけもなく、当然にカットされた場面。( 戦後、竹中労がシナリオから拾い出して明らかになった。 )
 ここで扱われたのが百姓( 農民 )一揆。
 竹槍や鎌なんかの場面もカットになってたらしいけど、官製的作為に粉塗されたロシア革命的現実であっても、その真っ只中の人々の蒼貌や息吹に彼なりに触発され感得したものが、フツフツと滾り溢れての制作だったに違いない。
 

 

 約80年前の、文庫本より一回り小さいそれでも所謂仙花紙のような薄っぺらい頼りない紙質ではないものの、すっかり茶色に変色し素手で触るとヒリヒリするぺ-ジを繰ってゆくと、前がきの冒頭にこうある。

 

 

 「 封建社会に於ては、一揆発頭を極刑に処したのが通例であった。梟首とか刎首とかにされ、罪は一家の者にまで及ぶことすらあった。このような極刑に処されたにも拘らず、一身一家を捨てて、一揆発頭をしなければならなかった百姓の環境は悲惨であり、封建制度は残虐無道であった。」

 

 発頭(ほっとう)=首謀者  刎首(ふんしゅ)=刎頸と同意。首をはねること。梟首は、さらし首。

 

 封建社会=徳川幕藩体制を打倒し新社会建設のはずの明治維新の、例えばその典型的な元基形態ともいえる、城を自焼し小倉藩主達が逃亡した後に入ってきた維新当体の長州軍が、既存の庄屋達と結託して不当不正に走り、憤った小倉藩=企救半島の百姓(農民)達が決起した庄屋・村役人達の屋敷を打壊し焼払って長州軍本営のあった城下まで迫った企救一揆。その首謀者・発頭と目された新道寺村の原口九右衛門は、その罪を問わないという言質を長州軍の代表が確しての和議だったにも拘わらず、大分・日田の河原で絞首刑に処されてしまった。
 明治2年の維新早々、後の明治維新政府・体制の強権主義的な不実・背信に満ちた正体を証して余りあるものであった。
そもそも、その河原は、徳川時代から地元日田近辺の百姓一揆・叛乱の首謀者達が、あるいは梟首され、あるいは絞首される刑場であった。

 

 

 「 百姓一揆蜂起の原因を大別すると、凶作飢饉によるもの、財政的なもの、租税の重課、独占専売反対、幣制の紊乱にもとづくもの等である。
 百姓一揆はそのどれもが、殆んど突発的な騒動ではない。要因に基いて、種種の準備行動が行われるのが普通である。一揆の要因となる様々の事件が発生して、百姓の生活が困難の度を益すと、百姓達は寄々集合して対策を講じる。しかし、尋常一様の対策では、困難を克服できないと見透しがつくと、まづ愁訴が計画されるのが普通である。愁訴はもとより禁制である。」

 

 

 「 愁願書は、幾人もの役人が、次から次へ、上へ上へと順次に差し上げて行くものであるから、なかなかの手数と日時を要する。殊に、貢租の苛斂誅求を緩和するための愁願書などは、役人が自分の失策を蔽わんとして、中途に握り潰してしまうことが屡々ある。
 予備行動としての愁訴が駄目となってから、一揆が計画されるのが普通の順序であるが、必ずしも、順序通りにやるという訳ではない。」
 

 

 「 徳川時代に這入ってからの百姓一揆は、根本的に武士の支配から脱却しようとするような、積極的なものは殆どなかった。ただ、百姓が被支配階級として生活的に受くる、それは或場合には精神的なものであったり、また或場合は、物質的な圧迫苦痛を軽減するために起こされた、消極的反抗運動として、集団の力によって、『 願のすじ 』を強訴する行動であった。」

 

 
 畢竟、徳川幕藩体制下の百姓一揆は、体制内改革以上に出るもんじゃなく、体制を根本から覆す一大変革運動に発展する契機を孕むものとは言い難い、という前衛主義的な当時の発想を古海は提示し断じているのだけど、確かに、明治維新直後・翌年の企救郡百姓一揆なんかじゃ、まだまだ当事者の百姓達が既存の封建主義的発想を越える契機を持っていたとは思えない。あくまでその枠内での一揆だったけれど、しかし、四民平等の新社会の御旗を掲げた維新・長州軍相手だったってことは、むしろ、その矛盾を衝く契機を内包していたともいえよう。
 

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 前書き以降、九州の主立った百姓一揆の概括をずらり並べ紹介してみせてるけど、当方が一番驚かされたのは、例えば、亨保13年久留米藩で勃発した筑後一揆。
 その一揆蜂起した百姓( 農民 )側総勢16万人( 6万人の説も )の装備中の“ 鉄砲1万3800挺 ”って箇所。
 勿論、猟師達が所有してる鉄砲の数なんか高が知れてて、況んや百姓なんかに鉄砲など所有させる訳もなく、この一揆のために、事前に、藩役人に、猪・鹿が田畑を荒らし難渋している旨申し立て、確保したものであったという。
 それにしても物凄い数だ。
 久留米藩って、百姓にこれだけの数の鉄砲を貸し出せるってことは、相当に鉄砲を備えていたってことを意味する。
 文化8年の豊後(大分)・岡藩の豊後一揆でも、一揆勢が、町外れの河原で黎明の藍空に向け“ 数百挺の鉄砲 ”を撃ちっぱなして気勢を挙げたという。
 只、この両一揆とも、実際には使用された風は見られないので、あくまで威嚇のため?必要とあらば発砲って含みもなのか・・・否、当時は決死の覚悟の一揆故に躊躇うことはなかったであろう。企救郡一揆じゃ、猟師達の鉄砲ぐらいだったから、それも明治維新以降だったこともあって、統制にうるさかった幕藩体制下の方の量の多さが異様に映ってしまう。これで、藩兵と真っ向銃撃戦突入なんてことになったら、かなりの死傷者が出、嫌でも徳川幕府の知るとことなり、藩の存亡にも係わってくることになるのは必定。

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( 昭和4年、革命ロシアから帰国後撮影。主演・市川右太衛門『日光の円蔵』。検閲でかなりカットされた傾向映画。是非観てみたい一作。)

 

 九州の一揆のハイライトは、やはり維新後、明治6年6月の福岡本庁まで襲った筑前の竹槍一揆。
 福岡県のど真ん中に位置する嘉麻周辺から蜂起した一揆勢、総勢30万( 10万という説も )人叛乱農民が、途中の庄屋・豪商・役人宅を叩壊し焼払いしながら、福岡県庁のある博多の町へ押し寄せ、天神・中州・呉服町をも蹂躙し、官舎すら焼き払った。抜刀隊と銃・大砲を装備した鎮圧部隊の総攻撃を受け、さすがに竹槍一揆と謂われるだけの竹槍や鎌だけの武装で敵うわけもなく、次第にじりじりと後退し、隣の熊本からも鎮圧軍が到来し、博多の町から一揆衆は引き上げていった。
 打壊し・焼討ちにあった家屋4500戸。
 一揆農民側、それぞれ万単位で笞刑・杖刑に処され、何人かは絞罪・斬罪に。官憲側の責任者の幾人かは責任を取って割腹自殺し、県トップは罷免。
 この筑前の場合、鉄砲のことは記されていない。
 この古海の本以外のネット見ても、当時の記録に、博多より遠方の村々からどんどん雪だるま式に人数を増やし福岡県庁目指し、途中の庄屋・豪商の屋敷を打壊し・焼討ちしながらの進行先に、待ち伏せしていた福岡藩士達が、銃を撃ちかけてきたという。恐怖に駆られて一部の一揆衆は逃げ出したものの、一揆衆の誰かが撃たれ死傷したという噂聞いたことなく、威嚇のための空砲なのが分かって、身を隠してやり過ごした、とある。
 これは維新政府・県庁派遣の鎮圧部隊側の銃撃隊の話だけど、それに対応・応戦して一揆側が鉄砲を発砲したという記述はない。つまり、計画的に練られたものじゃなく、文字通りの自然発生的・付和雷同的な一揆の性格が強いってことなんだろう。
 だから、県庁での大砲( 無論空砲 )と抜刀隊(50人前後)の攻撃に次々と斬り倒され後退せざるを得なかったのだろう。石礫という飛道具も多数で行使すれば抜刀隊も威力半減、そのまま整列しての多重の竹槍陣形で進撃すれば十分に対応できたのでは、と素人考えにもこの時の一揆衆の戦術の無さ加減に呆れるばかり。
 古海は、その辺りのところも不満のようだ。
 最後に、この著作の17年前に撮った《 日光の円蔵 》で゛、御大・右太衛門に、こう叫ばせた。

 

 

 「 日光だけの問題ではない、すべての農民、無産の民のためだ、わたしと共に磔刑を覚悟する者はいないか 」

 

 

                         
《 九州の百姓一揆 》古海卓二( 九州書房 )昭和21年6月5日発行
 
   ※ ネットの古本屋でオリジナルが入手可。 

 

2026年2月 7日 (土)

甲斐大策的軌跡  古い港町のオアシス・グリシェン・カフェ

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 久しぶりに門司港の「古民家チャイ・ハナ」グルシェン・カフェでランチを食べた。

 ぞろりとした中央アジア風の衣装をまとった女性オーナー、作家・画家の甲斐大策の事となると、俄然甲斐大策博物館の文芸員宜しく丁々発止に饒舌になるのだけど、生前から大策とは手紙のやり取りしてたようだ。というより、大策自身が、ともかく誰にでも手紙を書きまくってたらしい所謂人たらし的な性向だった・・・否、むしろ自己表出衝動の口実としての手紙だったのだろう。

 

 今回久しぶりに訪れてみると、以前片側の壁にずらり並んだ大判の油絵・アクリル画などがほとんど姿を消し、小さな白黒の小品が一面に掲げられていて、テーブルの上には、紙粘土細工のミニ・アフガン泥雛が七彩の大団円を決め込んでいた。大策手製という。自分の幼い娘のためだったようだ。この店のオーナー女性は大策や彼の娘さんとも親しかったようで、だからこその常設大策絵画画廊なんだろう。この小品群、皆初めて見るものばかり。

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 亡くなってもう七年。

 かつて藤原新也の指定中華料理館だった《 萬龍 》と同じ横丁にあるこの《 グルシェン・カフェ 》の、一ブロック先の商店街近辺で、当の大策の黒ずくめの姿を見かけたことがあったけど、そういえば、カメラ手にした新也爺も何度か見かけた。場所は違うが、いつもアシスタントか秘書か定かならぬ若い女性と連れ立っていた佐木隆三を見かけなくなって久しい。彼はもっと前に亡くなってたが、見かけるのは決まって門司港駅前だった。最近は、どこでだったか忘れてしまったけど、イラストレーターの黒田征太郎を見かけた。港近くの廃ビルにアトリエを構えているという。 

 何しろ列島の西端、南西辺境州の小さな港町、港町の常でもあって、様々な人々が行き交い流れ着く。

 あるいは旅立ち、あるいは、永遠の旅へと流離厭離する。

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 驚いたことに、今回、大策のスクラップと銘打った分厚い、彼の両親に旅先から送った大量のエア・メール(書簡)やイラスト集が閲覧可能なものとして陳列してあった。二冊。興味津々に立ち読みしてると、件の女性オーナーが自分のテーブルでご覧になって下さいと声をかけてくれたので、コーヒー茶碗を端によけてちょと読まさせてもらった。少し暗めの照明だったのでびっしり記された小文字を、知らないうちに、両目をそばだてていたのか、オーナーがわざわざ、大策の遺品といって分厚い拡大レンズを持ってきてくれた。

 最初、当方と同様の拙字だと、些かの同類的安心の念を覚えたのだけど、裸のままのレンズを通して見直してみると、果たして、小さく書き込むため丁寧じゃないけど、けっこう遊び心も窺えるそれなりに味わいのある字面であることが分かった。一、二枚くらいしか読まなかったけど、ナイロビやウガンダの地名が記されてて、つまり、大策=アフガン・中央アジア始めアジア大陸専門とばかり勝手に決め込んでいたら、なんとアフリカ大陸まで足を延ばしていた。その地での悲喜こもごもをびっしり書簡にしたため、画家である父・巳八郎に送り続けていたのだ。

 

 

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 中々に面白い旅先からの書簡集だけど、オーナーに尋ねてみたら、出版する動きはないという。自分じゃ無理とも。画集も未だ出てないらしい。日の目に触れることもないままのここだけの閲覧資料ってことなんだろうけど、残念。

 初めて甲斐大策の短編集を読んだのは、パキスタンは古の古都・ペシャワール、新市街にあったバックパッカーの溜り場《 カイバル・ホテル 》。そこのドミトリーの一角に客が残していった本・雑誌の中に、ポツンと一冊、眼を惹く装丁で手にしたのであった。まだ、ソ連軍がアフガンでイスラムのムジャヒ軍と戦っていた頃だった。

 

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 ( アフリカ・ケニヤ投函。手描きのエア・メイルも遊び心満点。)

 

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( 部分的マル文字も遊び心の一環だろう。これは女性オーナーもいっていたことだが、大策は戦前の旧かな使いを諸所で使ってて、戦中世代的反骨なのか、それをも踏まえた遊び心なのか。)

 

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 ( 彼の場合、バックパッカーとは若干異なるけど広義のバックパッカーには違いない。この書簡には、甲斐大策の一人旅人としての宣言ともいうべき行りもあって興味深い。また、旅先での出逢い、「物を感じ、愛し、美しいものを探し、感動を絵にすること・・・」と、芭蕉が俳句でそうだったように、大策も描画を事とする旅でもあったようだ。)

 

 

2026年1月24日 (土)

浮遊と舞い上がり

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 ( 30年近く前の西ラッダク。今じゃ随分と変わってしまったろう。国境隣の北パキスタン・フンザもあっという間に変貌してたからな。夜になると、漆黒の闇の向こうに、西ヒマラヤのギザギザした峰々が銀色に輝き、頭上には星々が煌めいている中、何処からともなく、チベット寺院から夜の勤行たる地響きのごとくのホーンとシンバルの響きが、遠いシャンバラを予感させ、雰囲気最高の夜々であった。 )

 

 

  現・総理大臣高市が、米国大統領トランプと共に米空母ジョージ・ワシントンでのスピーチの壇上で、前代未聞に大はしゃぎし舞い上がって見せたのは、まだ記憶に新しい。自分でも抑えられないくらいの喜びの噴出。天にも昇らんばかりってやつだ。

 あれを見て、ふと想い出したことがあった。

 大部以前の出来事だったが、西チベット=ラダックのメインストリートに面した二階の窓から真下のラッダク人や犬・牛・ロバ等がゆったりと行き交う光景を眺めれるアムド・カフェ、中国青海省・アムド出身チベット人が営ってる店で、季節外れのわれわれ日本人滞在者の溜り場と化していた。オーナーは、日本人を見つけると中国語が話せる者もいるのを当てにして話せるかどうか尋ねてくる。でも、その時のメンバーには残念だがいなかった。生まれ育った青海で身についた中国語だから、忘れないためにも会話したかったに違いない。

 その時、男ばかりのパッカーの中に、それこそ紅一点、三十前後のすらりとしたしなやかな女性が混じっていた。

 その女性こそ、この出来事の主人公で、日本じゃ、ヨガのインストラクターをやっているとのことだった。ゆったり落ち着いた物腰が如何にもそれを思わせた。さすがに、どんな話をしたか皆忘れてしまったけど、ただ唯一、話が、当時まだ話題になっていたオウム真理教の尊師・麻原彰晃の空中浮遊におよび、当方は、当時流布していた尊師・麻原が苦悶の表情をたたえ浮遊というよりジャンプに近い仕草の写真を想起していた。

 浮遊というのは、ゆったりと空中に漂うことを指す。

 けど、流布した写真の尊師は、およそそんなたゆたいとは真逆の、むしろ跳ね上がっているようにしか見えなかった。

 大勢はそんなところに帰着したけれど、一人、件のヨガ・インストラクターは、

  「 わたしの兄弟子たるグルは、本当に、空中浮遊できますよ」

 と、微塵の気負いもためらいもなく静かに口にした。

 何よりも、その女性が信頼するに足る雰囲気を湛えていたからこそ、当方もこれは二度と巡り合うことのない絶好のチャンスと、一問一問消去法的に、あいまいさを排除するように質問し確かめていった。と、横合いから、ある学生が、全然別の、何の関係もない話で割って入ってきた。話が佳境に入ってきた正に絶妙のタイミングで、話の腰を折られてしまった。

 一体如何なる様態で空中浮遊はなされるのか・・・・

 その肝心のところを、話の腰を折られ、真実の空中浮揚探求は、頓挫してしまった。

 翌日か翌翌日、そのヨガ・インストラクターは次の目的地に向かった。

 横合いから話の腰を折った学生に、当方の態度が、楽しい会話じゃなく、厳しい「追及」の如く見え、女性に助け舟を出したつもりのようだった。・・・・・。

 確かに、のめりこみ過ぎ、力んでしまったのかも知れない。けれど、又とない千歳一隅のチャンスを逃してしまった。

 今もって、空中浮遊は、だから、当方にとって不明のまま、正に歴史の中空をいまだ漂い続けているのだ。

 

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 ( メインストリートに面したチベッタン・カフェ【amdo cafe】。チッベト僧の姿も偶に見かけたりもする。現在でも営業してるようで、you-tubeに様子がアップされている。窓下に展開される動物やラッダク人、チベット人たちの絵模様はいくら眺めても飽きることがない。)

 

2026年1月10日 (土)

八年目的螺旋 2026

 

 

 

 ( 戦前の公共広告ポスター【弾丸切手】「米英を撃てる切手買い」 を掲載してたら、いつの間にか消えていた。Yahoo!なのか公的なのか定かでないが、仮にも戦前の公的なポスターなんだから、現自民党権力が戦前体制に否をいったって聞いたことないはず。南京どころかフィッリピンやシンガポールetc、一向にちゃんと認めもせず、謝罪も、まともに賠償もしていないまま。そのくせ他国のことだと、米国の尻馬に乗って大騒ぎ。本当は、【鬼畜米英】のタイトルのポスターを張り付けるつもりが見つからず、「米英を撃つ」にした次第。「屠れ!米英」ってのもあったんだけど・・・)

 

 

 凡愚凡足の当方、無駄と知悉していても、うだうだと記してしまうミレニアム。

 ミレニアムのミレニアムたるおどろおどろしい終末の呪詛めいた慟哭の呻きがあちこちで唸り始めるのだろう。

 つい、二十世紀末的フレーズの羅列になってしまったけど、正月早々アングロサクソン同盟の悪辣さを唾棄したら、さっそくトランプがベネズエラの大統領を拉致し、あたかも自国の囚人のごとく法廷とやらに引き立ててゆく姿がテレビでも流されていた。

 バイデン・トランプ=アングロ同盟輩の建国以来の強殺犯宜しくの悪辣さ全開に、ふと、デジャヴ的感応を覚えてしまった。

 第二次世界大戦、つまり、東の果ての列島=大日本帝国の軌跡、同様に欧米列強、ソ連、ナチスドイツ、イタリア等が互いに鎬を削った植民地争奪戦の軌跡。およそ碌なものじゃない。鬼畜×鬼畜×鬼畜×鬼畜( 戦前大日本帝国が得意としていた常套句。)・・・・・。

 おぞましいばかりの悪目立ち、正に魑魅魍魎図絵的一大展開。

 独裁者を拉致されたベネズエラの権力のなんとも情けないさっそく米国=アングロ同盟にすり寄り。以前独裁者に抗していたらしい反対派は米国権力に予め言い含められていたのかすっかりご満悦。普通ならむしろ反米救国をいち早く表明するものだけど、もっぱら損得勘定的ご満悦に余念がないようだ。以前、世界のあっちこっちで見かけた図絵でもある。売国・亡国の一大行進曲の軍楽隊のかまびすしいことしきり。

 コロナで華々しくデビューした令和、八年目の今年は、果たして如何なる展開になることやら。

 

 

 

 

 

2026年1月 2日 (金)

蒼茫的2026年・・・

 いよいよ四分の一世紀から四分の二世紀へ突入の2026年。

もっともだからといって何が変わるってことでもない、世界は前年からのなし崩し的慣性・趨勢そのままなんだろう。

バイデン、トランプ、ゼレンスキー、ネタニアフ等の悪目立ちは、プーチン以上で、もともと何か画策してるのが見え見えだった一連の世界的災禍。アングロサクソン同盟と一括りできるくらいの共謀性に満ち満ちている。果たしてその帰趨の果ては。

 権力国家の常套が「危機」の醸成でありその上での「危機管理」の刷り込みとそのシステム化で、もうはるか以前から、この東の果ての列島でもさんざん駆使されてきたしろもの・・・第二次大戦がその結実果。

 一体、何時になったら、『大人』になれるんだろ。

 そもそも『大人になれ!』とは、彼らエスタブリシュメントの十八番の常套句だったはず。

 皆が皆楽しく平和に暮らせる、自由と平等な世界であろう、作り出そうとするのを、いい目にあっていいのは俺(達)だけだとばかり嫌悪し憎悪する輩の勢力の、唯一神教が世界をいよいよ制覇してゆくのと併せて、何と世界に跳梁跋扈しているものか!

 大人論でいえば、若い世代に、一体どれだけの負債を背負せようとするのか・・・まったく申しわけなさで涙が禁じえくなるってのが普通のはずなんだが・・・テレビでもまずお目にかかれない大人達。

 山上君、一体どうなるんだろうね・・・

 

2025年12月16日 (火)

 諭吉の里 明治のスピリット

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 隣町の書店に" フリー "の表示のある棚に、岩波が出している月刊《 図書 》が並べてあって、以前は主だった出版社が自社のステータスといわんばかりに出していたこの手のフリーの小冊子、昨今てんで見なくなってしまってて、限られた紙幅の中にも時折面白い記事・論考があったりして、あれば手にする事少なくない。
 今月"12月号"、ロシア文学者の長縄光男が書いた《 ゲルツェンと福沢諭吉 》は興味を惹いた。福沢諭吉の思想的転換ともいわれているらしい《 民情一新 》( 1879年:明治12年 )の中で、

 

 「『 モスコー』府の学士に『 ヘルズン 』なる者あり。該府書生党の巨魁にして魯国社会党の元祖なり。此の学士嘗て政治の事に付き些細の得失を談じたるが為に、先帝の忌諱に触れ罪を得て禁錮せられたりしが、事に託して伊太里に行き遂に英国龍動府に走て復た帰らず。同府に於て出版の一局を開き、毎週雑誌を発兌して其表題を『 コロコル』と名く。
 ・・・・『 恐れ憚るところもなく公然として魯国専制の治風を攻撃したるものなり。』」

 

  ヘルズン : ゲルツェン 書生 : インテリゲンチャ 
  先帝 : ニコライ二世  龍動 : ロンドン

 

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 ゲルツェンといえば、貴族出自の、ロシア・ツァーリ専制独裁政治に抗して立ち上がったナロードニキ運動のイデオローグともいわれたロシア権力にとって不倶戴天の危険人物。二度も投獄されヨーロッパに亡命し、自ら主宰した雑誌《 コロコル 》誌上で反ツァーリズム運動を展開しつづけ彼地で亡くなった社会主義者。
 ナロードニキといえば、ヴィ・ナロード( 人民の中へ!)、当方の脳裏にすぐ浮かぶのが、かの明治・大正の詩・歌人、石川啄木の次の一節。

 

われらの且かつ読み、且つ議論を闘たたかはすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜ロシヤの青年に劣らず。
われらは何を為なすべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳こぶしに卓をたたきて、
‘V NAROD!’と叫び出いづるものなし。
        
       「はてしなき議論の後」《 呼子と口笛 》1911年(明治44年)

 

 

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 戦後も暫くはこの国でも未だ使われていた" インテリゲンチャ( 知識人 )"なる前時代的な術語ともどもに、ロシア革命前史の金字塔的存在だったように記憶しているゲルツェン。当方的には、専ら、《 土地と自由 》→《 人民の意志 》→ソフィア・ペロフスカヤ→ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺というテロリズムあるいはテロリストの系譜とは裏腹な、穏健派的象徴としてのイメージが強い。
 女侠・ソフィア・ペロフスカヤはじめその一党の多くは絞首刑台の露と化したが、真珠湾攻撃の同年七月に出版された大泉黒石の《 白鬼来 阿片戦争はかく戦われた 》で、舞台は中国に設定されてはいるけれど、ロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺事件の構図をそのまま扱っている。但し、官憲に底意を見抜かれた際のアリバイ的布石としてだろうか、暗殺は失敗としている。たしかに、人民の意志党、六年後に息子の新ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺に失敗し、潰滅してしまった顛末もあるが。  

 

 
もちろん、諭吉も、穏健なゲルツェン的方途を志向した"官"を拒否しあくまで"民"に己れの基準を置いた啓蒙家で、やがて慶応義塾(大学)創設に繋がってゆくのだろうが、日清戦争の際には、最右翼の強硬派と化していたらしく、その辺の成り行きは詳らかにしない。
 現在(とき)あたかもこの列島の米国権力=トランプ風邪に浮かされ、東海の涯(はて)の浜辺の砂小山から掘り出した錆びた懐刀(ナイフ=大日本帝国 )を弄ぶ現半世紀支配権力。明治末の閉塞的時節にも啄木が探し出した浜辺に埋伏されていた真っ赤に錆びた懐刀は如何。
 因みに、実際の啄木の歌集じゃ、テロリスト的心性への憧憬としての、砂山から顕れたのはピストルとある。五十年前のロシアのテロリストたちが埋伏していた暗殺用のピストルだったが、官憲に捕縛され絞首台に登ったか、あるいは監視され容易に取りに来れぬままの歳月だったのか。あるいは、この列島で闇から闇に葬られた管野スガ、宮下太吉等の遺恨として。

 

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 そんな諭吉翁の里に、今夏赴いてみた。
 内陸山間の田川・伊田線と違って、こっちは周防灘沿岸を走るJR線だからか、編成数多くなくてもそれなりに乗客は乗っていた。
 中津は、福岡県との県境近くの大分の人口八万人の小都市。
 高架の線路上から見下ろすと、錆びたアーケードの商店街が駅前から伸びているのがまず眼に入って来る。駅構内に、さっそく一万円札宜しくの諭吉のコーナーが特設されていて、何たって列島中に流布してきた万札のご当人ってところが強味。
 でもやっぱし、この中津の街も、アーケード商店街はシャッターが多く、枝道にいたってはずらり廃墟と化した一角もあった。それでも、昔ながらの昭和的佇まいを残した店舗も頑張っていて、昼尚仄暗く静まり返ったアーケードの下、ノスタルジックな想もちに浸るにはもってこいの場所。周辺の辺鄙な郊外から、街燈に群がって来る蛾の如く夜の帳が降りる頃になると男達が参集する飲屋ばかりがやたら多いように見受けられた。

 

 

 

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 長州・萩城もそうだったけど、この中津藩・中津城も海の近くに位置していて、囲繞するように拡がった武家屋敷エリアの一角に、諭吉の屋敷があった。
 ぶ厚い茅葺の特徴的な建物で、現・高杉晋作の屋敷よりも若干大きいようにも思えるぐらいの中津藩・下級武士の居所ではあった。只、ここは生まれ育った屋敷じゃなく、生れたのは大阪の中津藩屋敷、幼少から育った屋敷はすぐ近くにあったらしい。いずれにしても、明治維新以降は、江戸=東京住まいだったのだろうから、この現在の諭吉屋敷の中庭に面した畳部屋で、正座し本を読む少年諭吉像って、何とも嘘っぽ過ぎるけど、それ故に、その佇まいが一層シュール映えていて、面白い。当方的には、此の屋敷は、この張子か塑像か定かじゃない少年諭吉像に尽きている。
 帰途、まだ夕刻の明るさが残っているこのローカル電車に、終点駅の周辺に蝟集したそれぞれの勤先に向かうのであろう艶かさを露わにした嬢たちが次から次と乗り込んで来る様に、一幅の軽妙な風俗図絵でも観ているかのような蠱惑を覚えてしまった。

 

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