カテゴリー「音楽」の49件の記事

2018年4月18日 (水)

旅先の現地本

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 海外を旅していると、ついその国の文化、とりわけ音楽出版物なんかについ惹かれてしまう。
 最初の頃だとカセット・テープがまだ大陸や東南アジアで余命を保っていた頃で、それでも中国・最南部の雲南省の小さな町、たとえば大理なんかの間口の狭い小さなカセット屋の店先にも段ボールに放り込まれた音楽CDや愛国戦争物VCD(低画質のビデオCD)等が売られ、感心したものだった。タイのバンコクで、VCD専門プレーヤーを見つけたのもその少し後だったか。DVDは、まだ、ワンランク上の高嶺ってあつかいだった。
 例によって、バンコクのお手軽ソフトの殿堂MBKマーブンクロンでも、オリジナル・カセット・テープからCD、ゲームCDまでコピーし売りまくっていた。時折、あの二百万本売れたといわれるボー(スニター・リティックル)のデビューアルバムも、二回店舗を変えて買ってみても音の全く出ないブランクを渡されるようなこともあったけど。


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 けれど、印刷出版物も、やはり、異国情緒そのままなので、文字が分からぬままでも、つい、どんなものか手にしてしまう。そんな中でも、バンコクはアジア旅の基点として頻繁に行き来し、本屋や書籍コーナーに通う回数も多かった。タイ文字が珍しくて、とりわけ詩の本(大抵は薄い冊子型。サイズは色々小さなものも多かった。)は、挿絵なんかが入っていたりして視覚的に興味を惹いた。
 またタイは元々映画量産国の一つでもあって、映画コンプレックスもあっちこっちにあり、TTゲストハウスに常備の英語新聞[ バンコク・ポスト ]でチェックしたりしてサイアム周辺の映画コンプレックスに日本より三カ月~半年早い封切りの洋画やタイ映画を観に通った。
 タイは隣国カンボジアと同様、今でも霊媒師や霊能者たちが活躍している土俗的オカルティズムの跋扈する社会で、ホラー映画が断然人気があったようだ。そんなホラー・オカルト映画にも、時代の要請で、新しい波がおこり、その金字塔的作品が、ノンシィー・ニミブット監督のタイの伝説的ホラーの映画化[ ナン・ナ―ク ](1999年)だった。空前のヒットだったらしいが、同様に二年後の十六世紀アユタヤを舞台にした宮廷王権争奪物語たるチャートリー・チャルーム監督[ スリヨタイ ](2001年)も大ヒット。この[ スリヨタイ ]のDVD持ってるけど、劇場じゃ三時間だったのが、DVDセットじゃ、三枚組で五時間という長時間物で観終わるのに一苦労。
 
 そんな映画関係の出版物も増えて来たのか、[ ナン・ナ―ク ]や[ スリヨタイ ]なんてビッグ・ヒット作に関する気の利いた出版物も店頭に並ぶようになって、[ ナン・ナ―ク ]はモノクロだけど[ スリヨタイ ]は国策映画でもあるからかカラー写真口絵が豊富。でも、映画自体[ ナン・ナ―ク ]の方が気に入ってるのもあるが、作り的にも二百ページもある[ ナン・ナ―ク ]の方がやる気まんまん、映画全体の流れを項目立てて懇切丁寧に作ってて好感が持てる。両方とも定価は130バーツ前後。
 

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 1992年に三十才で亡くなったタイのルークトゥンの歌姫プンプアン・ドゥアンチャンに関する本。
 [ 去っていったドゥアンチャン ]185バーツ。B5版より一回り小さなサイズだけど三百ページ以上あって読み応えありそう。タイ語辞典片手じゃちょっとしんどそうなので未だ手付かず。
 ルークトゥンって余り聴かないけど、プンプアンは嫌いじゃない。


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 どこで買ったのか、「上海戸籍出版社」とあるので、恐らく上海の福州路のその店で買ったのだろう。
 この辺りは確か古書店が並んでいた記憶があるけど、現在はどうだろう。最初の頃は、地方から出稼ぎやって来た小姐たちが大して広くもない店の中に何人も居て、昼飯なんかそこら辺に座り込み、ホーロー製の丼や大コップに盛ったぶっかけ風を箸でかき込んでいたのが印象的だったけど、時代が経過するにつれて、小奇麗な店員然としてきてそんな"人民"風味的服務員なんかすっかり姿を消してしまった。
 昔の印刷物のままの写植印刷・・・まさか板版画で刷ったものじゃあるまい。組活字じゃ難し過ぎよう。
 [ 老子 ]上下巻が原文のまま(?)で、勿論解説文などなく、本文のみ。1.6元は安いのかむしろ高いのか。
 道可道非常道名可名非常名・・・


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 イランの首都テヘランの本屋で見つけた冊子型の書籍で、いかにも中国趣味的異国情緒感を醸し出した表紙が好い。

 老舎[ 茶館 ]1957年

 中華民国成立前後の長い時代的変遷を見続け又翻弄されてきた北京の老舗茶館の物語。
 戯曲として発表された時から文化大革命の終息するまで、中国国内ではさまざまな難題難儀をこうむってきた典型的作品。老舎自身も文革中に、紅衛兵たちに殺害されたとか、入水自殺したとか死因も定かならぬまま死亡。開高健の[ 玉、散る ]でも有名。
 イラン=ペルシャと中国とは、随分と古くから往来し因縁浅からぬ関係にあるのだろうから、互いにどんな意識と感情を持っているのか興味あるところだ。
 漢字茶館の下にペルシャ文字で「チャーイ・ハーネ」、つまりチャイ屋=茶館と認めてある。
 巻末には、中国の演劇舞台での[ 茶館 ]のモノクロ写真が八ページにも渡って掲示してある。ホメイニーのイスラム革命の初期においては社会主義的要素も強かったらしく、イスラム原理主義体制の中でも問題なく書店の棚に並べられていたのだろう。
 当方も、まさかイスラム原理主義の総本山イランのテヘランで老舎の作品が並べられているとは思いもしかったけど、他にフランスの小説家・思想家のカミュの作品もあった。大きなカミュの顔写真が表紙を飾っていた。
 その割には、音楽の方は中々厳しかったようだ。
 日本の喜太郎のカセット・テープは、器楽演奏だけだからかあっちこっちで見かけた。
 イラン映画が世界でそれなりにヒットし、インターネットで簡単に海外の音楽・ニュースが見られるようになった昨今、イラン国内音楽事情は少しは変わったのだろうか。


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2017年12月31日 (日)

 ラビットの誘う不気味な世界 《 魔女 》The Witch

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 1620年、英国プリマスから、英国・国教会に否を唱え、自分達の宗教世界を実現せんと清教徒ピューリタン一行が、草創期の米国植民地に到着してから十年後、1630年の、とある東海岸北部のニューイングランドの入植地にある集会所での会衆シーンから映画は始まる。
 その入植共同体の責任者から、正に、その教団=共同体からの追放の宣告を受けようとする一家の家長は、尚も頑なに神の摂理に沿わない旨を根拠にその教団=共同体を指弾した。
 解る人たちにはその場面のあれこれで了解できてしまうのだろうけれど、英国キリスト教なんぞにてんで知識のない当方には、単純に画面でこれ見よがしに描かれたもの以上の理解は不可で、そもそも、その共同体がピューリタンのものなのかどうなのかも定かでなく、もしそうだったらその一家は体制内改革派のピューリタンを批判する分離派ってことになるけど、ひょっとしてその共同体の方が分離派で一家はピューリタンだったってこともあり得る。あるいはもっと別様の異端派なのか。その辺のところが特に明示されてないので甚だ曖昧なまま、しかし、物語はどんどん進行してゆく。
 結局、一家は追放されてしまう。
 やがて、こんもりと茂った森と対峙するように彼らの家があった。
 一見、前途洋洋、漸く手に入れた自分達だけの新たな生活に浮かれているようにさえ見えてしまう。が、自給自足の、他に助けてくれる者もない自分達の力だけで一切を作り出し賄ってゆかねばならない生活に、やがて疲れと焦り=不安めいたものにじわじわと捕らわれ始めてゆく。メイフラワー号には、ピューリタンとは別個に植民地建設に必要な経験と力量を備えた男達が乗り込んでいたけれど、そもそも追放された一家は一般の信者家族でしかなく、ゼロからの開拓をそれも一家族でだけで完成できるほどの力量も経験も乏しかった。さっそくその破綻があっちこっちで燻り始めていた。


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 そんな矢先、庭先で、長女トマシンが乳児をあやしている内、忽然と乳児が姿を消してしまった。ほんの一瞬間のタイム・ラグの間隙を衝くように。
 トマシンは、すぐ真ん前に拡がった森の中を必死に捜し廻った。
 ( 乳児は森の奥深く隠れ住む魔女にさらわれ、殺害され、魔女はその血を自分の裸体(からだ)中に塗りたくった。)
  
 夜半、経済的に窮してトマシンを出てきた共同体のある家に奉公に出そうと両親が相談しているのを盗み聞きしたトマシンと弟のケイレブが、ひょっとして森に仕掛けた罠にかかっているかも知れない獲物を採りに向かう。もし獲物がかかっていればそれを食料にするか売るかして家計の助けになるから。そして、獲物がどんどん獲れるようになってゆけば・・・。ところがトマシンとはぐれてしまったケイレブが、件の魔女の手管にかかってしまう。
 物語の終わり近くで初潮を迎えるトマシンが15才、姉のトマシンのふくらみ始めた胸元が妙に気になってしまうケイレブが12才くらいの思春の頃。この森の魔女に、というよりも、トマシンとは相違して大きく成熟しはちきれんばかりの魔女の胸のふくらみに吸い寄せられるように、若いケイレブに舌なめずりして瞳を輝かせた魔女の肉厚な唇に簡単に絡め獲られてしまう。中近世のキリスト教と異教世界、暴力とエロス=処女って世界、ふとベルイマンの《 処女の泉 》を想起してしまった。

 やがて素っ裸のままのケイレブが転がり戻って来た。

 土間に寝かされたケイレブ、うわ言の果てにのけぞって法悦の笑みを浮かべ死んでしまう。夭逝を悼んで皆で祈りを捧げようとすると、小さな双子達が聖句を唱えるのを忌むように騒ぎ立てはじめ、あげく、乳児が居なくなったのもケイレブが失踪しこんな無残な死に至ったのもトマシンが魔女だからよ、と彼女を指弾する。トマシンも負けじと、二人は飼っている黒い雄山羊といつも話しをしているとか、乳児が居なくなった際も女が連れ去ってゆくのを見えたという訳で、双子達こそが魔女と言い返す。
 が、次第に、状況はトマシンに魔女の烙印を押すことに。
 父親は双子と一緒にトマシンを納屋に閉じ込める。


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 翌朝、外に出た父親は、壊された納屋の下の二匹の白山羊の屍と起き出したばかりのトマシンの姿に呆然とする。と、突然、黒山羊の大きな角が彼の腹部を激しく突き刺した。更に再び、とどめを刺すように突進し、父親は積み上げた薪の下に倒れこみ二度と起き上がることはなかった。父親の様子を間近で確かめようとしたトマシンを、今度は長男ケイレブを失ったことで平衡感覚を失った母親が襲い掛かる。堪えられなくなって、トマシン、傍にあった小鉈で馬乗りになった母親に反撃する。
 二回、三回。
 トマシンの顔や胸に母親の頭から流れ落ちた血が滴り落ちる。

 ラスト・・・森の奥の、裸体の魔女たちの供宴(サバト)に、一糸まとわないトマシンも加わってゆく。やがて、頭上高く飛び回り始めた魔女達に少し遅れて、トマシンもゆっくりと昇りだす。・・・


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 当時、魔女や悪魔崇拝者達が、幼児を喰ったり、“洗礼前の子供の脂肪”を身体に塗ると飛行能力がつくとかいう風説が流布していたようだ。事ある毎に現れる黒ウサギや大きな角を生やした雄山羊も、キリスト教以前の異教の匂いをプンプンさせたアンチ・キリスト的な悪魔の化身の如く登場していて、《 不思議の国のアリス 》的な“不可思議な世界”って訳で面白いのだけど、意外とあっさりとした描き方をしている。
 “ニュー”ならぬオリジナルのイングランドの森ならば、異教的森羅万象ってことなんだろうが、何しろ、遙か大西洋を二カ月以上もかけて渡ってきた新大陸、つまり先住民=ネイティヴ・アメリカン達の森って訳で、果たしてあの森の中に棲んでいた魔女は何者なんだろうか。ネイティヴ達(あるいは先祖の霊)の呪いにかかってしまったのか、それとも、本国の異端的因縁すらも帆船で運んできたのだろうか。
 
 それにしても、巡航ミサイル国産化に呼応するような、最近の“ 日馬富士暴行事件”での、それまで聞いた風な良識的デモクラット的言説・主義を決め込んでいた連中が、まるで申し合わせたかのようなマスコミ総動員の、そんな見せかけをかなぐり捨て、いとも容易に自らの正体を臆面もなく晒しはじめた余りにこれ見よがしな展開の、戦前もこうだったかと想わせる排外主義的熱波って、苦笑することすらできぬ正に亡国的金字塔ってとこだったけれど、“ 神の導いてくれた新大陸 ”の錦の御旗を掲げて、さっそくの先住民達に対する略奪と虐殺の惨劇の上に建てられた神々しいばかりの清教徒的構築物=アメリカ、それがいよいよ底なしに、他の惑星にすらその触手を伸ばそうとしているミレニアム=新時代ってとこなんだろう。


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2017年10月15日 (日)

エイリアン : コヴェナント( 聖約 )  一つの存在論的な巨大な実験( =フラスコ )としての人類創生、それとも技術論的な開発としての人類繁殖? 

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 前作の《 プロメテウス 》(2012年)が、この《 エイリアン 》シリーズの新たな、それも本源的展開だったということで、今回、それなりに期待はしていたのが、スルリとかわされてしまった。
 製作者側の企図としては、今回の《 エイリアン : コヴェナント 》は、前回の《 プロメテウス 》の続編だけど、次回作《 エイリアン : アウェイクニング 》こそが、《 プロメテウス 》の直後にくる続編ってことで、今回のはその《 エイリアン : アウェイクニング 》の後に続く三つ目の物語らしい。

 そんなややこしい作りにしたためか、この《 エイリアン : コヴェナント 》、些か説明的に過ぎ、《 プロメテウス 》の未知の異世界を一歩一歩踏みしめてゆくスリリングさも薄れ、如何なる都合・技術的な問題があっての末の一つ飛ばし、あるいは結末の先取りか知らないけど、蠱惑的な謎というより思わせぶりな中途半端な代物に堕してしまった。続編を前提とした作品が往々にして陥る陥穽。  
 

 そもそもが、前作《 プロメテウス 》が、オリジナルの《 エイリアン 》(1979年)の前日譚として作られたもので、オリジナルの《 エイリアン 》の宇宙輸送船ノストロモ号が鉱物資源を積んで地球への帰途の途中、知的生命体らしき信号を発している小惑星へ会社命令による進路変更したことによる未知との遭遇=エイリアン禍に見舞われたのが西暦2122年、惑星探査船プロメテウス号が種の起源を解き明かす鍵となる惑星LV-223に降り立ったのが西暦2093年。

 つまりリプリー達が降り立った惑星LV-426で不気味に佇む巨大な宇宙船と化石化した異星人の姿に遭遇した年から29年も前に、既に同じ企業のプロメテウス号が別の惑星で異星人とその宇宙船、エイリアンとの遭遇を経験しその情報を得ていたということ。

 そして、今回の《 エイリアン : コヴェナント 》では、植民船コヴェナントが2,000人の入植者を目指す惑星オリガエ6に運んでゆく途中、ニュートリノの衝撃波を受けて故障し右往左往している最中、近くの、とある太陽系の第4惑星から知的生命体らしき信号が発信されているのを確認し、地球に近い環境故にとりあえずの探査が行われるのが、前回のプロメテウス号から11年後の2104年。
 そして、次回作、《 エイリアン : アウェイクニング 》が、その11年間の間の何処かって訳で、これだけ見ても何とも煩雑でややこしい。


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 オリジナルのエイリアン・シリーズの頃は、普通にSFホラー・スリラー映画ってとこだったのが、《 プロメテウス 》以降の新シリーズじゃ、人類の起源はじめ本源的なアプローチに西洋的神学を加味し、中々興味深い設定で、とりわけ今回は神学的ニュアンスが強くなっていよいよ面白くなってくるはずだったんだけど・・・。
 

 《 プロメテウス 》で、人類を作った異星人( =エンジニアとこの映画では呼ばれている )が、あたかもノアの大洪水での人類絶滅やソドムとゴモラを殲滅した神ヤハウェの如く、惑星LV-223から人類=地球の殲滅・破壊を企図していたのを、今回の《 エイリアン : コヴェナント 》では、彼等エンジニアの遺棄宇宙船に乗って、彼等の居住する惑星に赴き、上空から彼等エンジニア達が作った生物兵器をぶち撒いて住民たちを最後の一人まで殲滅し尽くしてしまったエピソードを、両作品に登場するアンドロイドのデヴィッドが回想するシーンがある。
 それが、かつて古代の死の都と化したソドムとゴモラもこうだったかと想わせる彼等が降り立ったその第四惑星の黒々と石化した無数の人型の遺物の意味だったという訳だけど、その辺の詳細が、次回作《 エイリアン : アウェイクニング 》で明かされるという流れなんだろう。


 そもそも何ゆえに、人類を作ったはずの異星人エンジニア達が、人類を絶滅することを選んだのだろうか。
 それは、前作《 プロメテウス 》の最後の方で、主人公の考古学者エリザベスの問、地球への帰還を拒絶し彼等エンジニア達の母星に進路をとった際に、アンドロイドのデヴィッドに零したセリフでもあった。てっきり、今作でその謎解きがなされるものと決めつけていたら、完全に肩透かしを喰らってしまったのだけど、この“何故に”( 人類殲滅 )ってのは、はっきり言って為にする類で、昨今の人間達の行状からして幾らでも推測がつく代物。

 要は、それが神=万能の唯一神であってようやく、何故に万能のはずの絶対神がそんな齟齬・矛盾の極みの破綻を来たす挙に出てしまったのか? という疑義も呈されるけど、それが異星人・宇宙人ならば、多少の程度の差こそあれ、所詮横並びの同じ生物ってことで、単なる試行錯誤的な恣意性を出るものじゃないという了解性の上での、デヴィッドの報復(?)あるいは人類絶滅の阻止としての先制攻撃だったのだろう。只、実際のところは、次作を待つ他はない。そう単純に推測されるような作りにはしない監督リドリー・スコットってところなんだろうから

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2017年6月24日 (土)

 ウブド的食彩

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 1998年の6月末から8月末までの約2ヶ月、長年観たかった本場のバリ・ダンスの堪能の毎日だった。且つ、いつも狭苦しい安宿ばかりだったバック・パッカーにとって、バリ・インドネシアの宿=ホテルの快適性は申し分ないものだった。
 例のジャカルタ暴動でインドネシア経済が、とりわけ国際的観光地バリはもろその影響を受け、散々な目にあってしまい、泊まったホテル(バンガロウ)もそれまで15000レアルだったのが、25000レアルに値上がりしていた。尤もそれでも約2ドルに過ぎず、2Fのテーブルと椅子の並んだバルコニー、広々とした調度まで付いたワンルームにバスタブのあるシャワー・ルームまで備わっていた。

 
 そこの一人っきりのスタッフ、バリじゃ定番の名前ワヤンが、毎朝、部屋代に含まれる簡単な朝食を運んできてくれるのだけど、他の宿はいざ知らず、そのパン・ケーキが中々巧かった。バンコクの定宿TT2ゲストハウスなんかとえらい違い。
 最初の朝が、ココナッツの果肉を細かく刻んだものがトッピングされたパンケーキ、フルーツ・サラダ、そしてジャワ・ティー(ポット)。
 2回目の朝は、フレンチ・トーストにパイナップルとパパイヤのサラダ。ジャワ・ティー。
 3回目は、オムレツののったトースト、フルーツ・サラダそしてジャワ・ティー。
 毎回メニユーを変えて運んできて呉れるサービスの良さ。
 それをバルコニーの竹製の椅子が向かい合わせに並んだテーブルで、青い実のたわわに実ったバナナの樹が幾本も立ち並んだ庭先、その向こうに拡がる田園風景をも眺めながら食べる朝食は、又格別だった。
 確かに、如何にも安くあがるバック・パッカー的心性に違いない。


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 一番最初にバリ・ウブドで喰ったバリ・インドネシア料理は、その宿から路地を通って出た大通りの向かいのチャンプルー屋風の小さな食堂(ワルン)。
 揚げ物が多く、好みじやないけど、とりあえず魚や揚げ豆腐その他をライスと一緒にオーダー。
 いわゆる“ナシ・チャンプルー”。(ナシ=ライス、つまり定食)
 味は辛目。まあ、こんなものかってところだった。
 一緒に、てっきり地元のコーラと感違いして頼んだボトルのジャワ・ティーは、微かに甘みのある飲みやすい代物で、日本なんかで売っているブラック・ティーとは丸で味が違う。何か加工してあるようだった。


 “カフェ・ラティ”Cafe Ratihでサテー(串焼き)を食べる。
 チキン・サテー、野菜、ライス。コーク。ビンタン・ビール(小瓶)。
 サテーは大きな瓜を半分に切ったような木製の容器の中に炭火を入れ、その上に殆ど焼けた串肉を並べたまま運んできた。後は客が好みで焼き上げるって寸法のようだった。量が少ないのにも拘わらず、そこまで手の込んだやり方するのか、と最初驚いてしまった。それをピーナッツ・ソースに漬けて食べるのだ。味は悪くないけど、ピーナッツ・ソースの味が強過ぎて、どうも今一つ納得がいかなかった。
 ビンタン・ビールは、最近じゃ、他のアジアン・ビール同様、日本でも簡単に手に入れられるようになって、時折飲んだりしてる。ピルスナーのパテント製品のようだ。
 同じマルチ・ビンタン社から、アップル&ライム味の“グリーンサンズ”GreenSands(330ml缶)という清涼飲料があって、特別美味い訳じゃないが、けっこう癖になる飲物で、ウブドの小さなコンビニや雑貨店の冷蔵棚から捜し出して買ったものだ。3750レアルと安く、“セブン・アップ”が見あたらずその代用品として重宝した。 


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 グンタ・ブアナ・サリの開演時間待ちで、カラ集会所の近くの“チプタ・ラサ”(ワルン)で夕食。
 アヤム・バカール(照り焼きチキン)にライス。
 何よりも、バナナの葉っぱの上にライスってのが気に入った。
 ネット見ると、けっこう評判の店だったようだ。 


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 バリといえば芸能の国ってイメージとチャラい若い娘たちの群れる場所ってイメージもあって、ジャカルタ暴動がなけりゃ、芸能村ウブドの通りにも若い娘たちで溢れていた(らしい)んだろうけど、その夏は、如何にもそんな娘たち向けの小ジャレた感じの店(レストラン・カフェ)の並んだ通りはひっそりとしていた。そんな店には今ひとつ入り辛い。けど、ある程度以上の規模の店はそれでも客はそれなりに多く、表のガラス・ケースにジャーマン・ブレッドも並んだ、価格も手ごろな“カサ・ルナ”には、何度か足を運んでみた。
 広めの店内に如何にも赤道直下風なトロピカル植物が生い茂っていて雰囲気が悪くない。
 ここのメニューで気に入ったのはフルーツ・ティーで、水道水を使ってそのまま作ったような色の悪い氷が多い中、ここのはちゃんとした製氷器で作ったような四角い透明度の高い氷を使っていて、パパイヤやパイナップルの切り身がいっぱい入った、ジュースとは又違った味わいが悪くない。それで2000レアルは安い。フルーツ・パイも悪くないけど、当方にはちょっと甘過ぎた。


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2017年6月10日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち その3

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 8月の後半、そろそろバリ=インドネシアの二ヶ月の滞在ビザの残り少なくなってきたある夕刻、グンタ・ブアナ・サリ公演のある集会所の斜め前のプリ・カレランを訪れる。
 今夜も上空は黒っぽく雨雲が垂れ、時折ポツリ、ポツリと雨滴が落ちてはいたものの、何とかなりそうな雲行き。既に会場には椅子が並べられていて、左寄りの中央あたりに坐った。ここは場所が狭いので前後2列にしか並べられない。
 やっぱり、屋根がついているとはいえ室内より、狭くても野外の方が好い。
 ここの前門は、他と違って、踊娘たちが登場してくる階段が三段しかなく、段差がはげしいので、小さな小娘たちには急過ぎるのじやないかと気になった。案の定、例のチョンドンを舞う小娘が最後の段差降りた時帯か何か落とす事態を招くことになったのは、前回述べた通り。
 開演1時間前の6時半頃には、いつもの清涼飲料の入ったバケツをかかえた売娘たちの顔も揃った。美形の“アクセサリー・ブティック”の娘は来てなかった。今夜は客が少ないと読んだのだろう。お決まりの小娘から2000ルピアでコーラを買う。もう、値段交渉もなく、ストレート。


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 ここは控室に入るには通路が一つしかなく、同じ庭の左端を通ってゆくしかない。
 当然、踊娘たちがそこを通るので、その脇に佇み、次から次へとやって来る彼女たちを眺めた。例の余り踊りが巧くない二人組の娘たちが姿を現す。この娘たちだったか定かじゃないけど、スクーターかバイクの後部座席に乗って現れた踊りの今一な娘が、化粧箱を片手に妙に気取って“わたしは違うのよ”とばかり、しゃなりしゃなりと奥の控室に向かうのを横目に、同じくらいの年頃の15、6歳の小肥りした楽団員が露骨に嘲笑ったのを想い出した。ひょっとして同級生なのかも知れなかった。面白くもあり、微笑ましくもあって、思わず笑ってしまった。
 やがて、ユリアティとビダニーの姉妹も連れだって現れ、入口から端の通路に入ると、急に駆け出し走り抜けていった。この二人もそうだったけど、大抵の踊娘は顔だけはメイクを既に施していたものの服装はTシャツやなんかの普段着のまま。
 その後、例のチョンドンのあの小さな小娘が、父親なのか兄弟なのか、30歳前後の男の運転するバイクの後に乗ってやってきた。バリス(騎士)役らしい中学生くらいのメンバーはバリスの派手な衣裳を纏って堂々と現れた。


 雨雲もいつの間にかかき消え、7時半に演奏が始まった。
 いつもシンバルを叩いていた肥えた青年の姿がなく、代わりに中学生くらいの男子が坐って小さなシンバルを亀の形をした5個シンバルが並んだ台に叩きつけた。
 のっけからユリアティが花撒きの踊に出演。
 やがて真ん前で止まり、大きな瞳と紅い唇で微笑みながら舞う彼女に暫し魅入られてしまった。
 場所が狭いので客と間近なせいもあるのだろうが、客と視線を会わすまいとしてか、ぼくと隣の白人女性の間に視線を据え、彼女の些かの緊張すらが伝わってきそうで、思わずドギマギしてしまった。


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 クリンチ・ダンス(少女たちのウサギ踊)で、女優・岩下志麻に似た可愛い娘が先頭に立って石段を降りてきた。いつもの如く、幾分緊張し興奮気味の表情を顕わにしていたのが、やがて二人づつ向かい合わせになって踊るパートになると、フッと本当に嬉しそうに微笑んだ。
 緊張が解けた一瞬なのだろう。
 表のGBSの看板に、彼女の大きな写真が掲げられていて、何時だったか、スタッフがファンらしい女性日本人客と一緒に彼女を並べさせ写真を撮らさせていたこともあって、その志麻ギャル、ビダニーより一、二歳下なのか、人気上昇中の舞娘のようだった。名前も知らないけど、その後どうなったろう。第一線で活躍してるのだろうか。
 ビダニーは、機(はた)織り踊に途中から出てきた。
 何かの事情で遅れたのだろう。
 あげく、途中から入ってきたので勝手が違ったのか、珍しく、一回廻る方向を間違えてしまった。それでも、その四人の中じゃ、素人目にもだんとつに一番巧かった。
 

 終了後、通路の段にも入口のあたりにも現地の住民たちが群がっていて、ユリアティ&ビダニーも志麻ギャルも小走りに駆け抜けていった。ユリアティ&ビダニーは家人のバイクの後に煌びやかな衣裳のまま横坐りし、プリアタンの夜闇に颯爽と消えていった。
 束の間の喧騒を余所に夜空を見上げながら、単体の星なのか星座なのかすら定かでないパッカーたちがあれだそれだと言い合っていた南十字星を捜してみたけれど、さっぱり分らず、そん時以降赤道直下を訪れる機会もないまま現在に至ってしまって、残念至極。

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2017年5月31日 (水)

プリアタン(バリ)の舞娘たち その2

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 ユリアティがレゴン・クラトンのチョンドンを舞っていたプリアタンのグヌン・サリは有名だけど、二つ違いの妹ビダニーがやがてチョンドンを舞うようになったティルタ・サリの方が人気の点では上のようで、明らかに観客数も多く、衣裳や照明も凝っていた。コマーシャリズムには目もくれないグヌン・サリの方が好きだけど、勿論若干の差に過ぎない。
 一方、ウブトの中心地とも謂われるウブド・パレス(サレン王宮)は、場所柄、一番観客が多く、夜の公演以外にも、昼間は子供たちの公開稽古って趣きの催物も行われていた。近くを通りついで、休憩がてらに、当方も、木蔭の石段やに腰掛けて眺めてたりしたものだった。
 グヌン・サリで、ユリアティの後釜に坐ったチョンドン役の小娘も、ここでいつも一人だけ真面目くさった面もちで稽古に励んでいたのが印象的で覚えていたら、やっぱりな、と言う訳だった。これは蛇足だけど、彼女、十歳にも満たない小さな少女で、グンタ・ブアナ・サリの公演でチョンドン役で前門からチョコチョコと舞ながら階段を降りてきた時、三段の石段の段差が彼女にはチョット危ういような懸念を覚えた。と、最後に床に踏み降りた途端、ストン!と、帯かなんかの一部が落ちてしまった。ところが、彼女、一片の動揺も見せず、平然とそのままメリハリの効いた舞を続けたのだった。さすが。ユリアティの後釜に坐れた由縁だ。


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 このウブド・パレスを拠点にしているサダ・ブダヤの人気舞姫がグン・マニ嬢で、当時30歳代だったのだろうか? 
 前夜、夕方にわか雨が降ったので地面が濡れてて、通りを隔てた向かいにある集会所で催されることになったサダ・ブダヤの公演( レゴン・ダンス。サダ・ブダヤは金曜にもバロン・ダンスを公演していた )、晴天の翌日も同じウブド・パレスに公開稽古を観に訪れた。ちょっと眺めて直ぐに出ようと思ってたら、舞台の奥に、周囲の小娘たちよりも少し上の高校生くらいの年頃の娘たちが並んでいて、面白そうなので彼女たちの舞も観てみようと思った。
 が、幾ら待っても彼女たちの番が巡ってこない。
 どうなってんだ、と訝し気にあたりを見遣ると、いつの間にか、当方が坐っていた円形の石のベンチの周囲にサダ・ブダヤのTシャツにジーンズ風の普段着のままの男女メンバーたちがどんどん集まって来た。つい先っきまで少女たちに手取り足取り教えていたグン・マニ嬢の姿すらあった。サダ・ブダヤ関係者ばかりのど真ん中に部外者の当方だけが一人居座ってるのも何か邪魔しているようで気が引け、そそくさと反対側にある楽器にカバーを被せたままの舞台の縁に移動した。そこからだと先っきの円形のベンチの方がよく見えた。
 すると、あのグン・マニが嬢が一人こっちへトボトボ近づいてきた。
 舞台の縁の前に立ち止まり、一人佇んだままじっとしている。
 如何したんだろうと暫し小柄な身体にTシャツとサロンまで纏って何かをじっと待っているような風のグン・マニ嬢を見遣っていたが、余りまじまじと見詰めているのも憚られ、前方の丸石のベンチ周辺に屯している男女メンバーの方に向き直った。
 と、その内、黒っぽいTシャツにサロンを腰に巻いたグン・マニ嬢、ツ、ツ、ツと前方に歩み出、おもむろに一人舞い始めた。後ろ姿しか観れなかったものの、舞台とは又一味違った薄化粧の彼女舞う姿は、妙にリアルで、舞台の上じゃ化粧で幾分ふっくらと見えてたけど、殆ど素の彼女は少しやつれた感じがするがチャーミングな三十代女性であった。
 その内、勝手に練習しているのだと思い込んでいたのが、実はリハーサルだと分った。
 奏でられるガムランとグン・マニの舞が渾然一体となって流れ出した。
 やがて、舞ながら少し乾いた声でセリフまで言い出した彼女に、指導員らしい小肥りしたパンタロン姿の中年女性が、付きっきりであれこれ指導をはじめた。ずっと当方の隣に坐っていたジーンズ姿の若い娘もサロンを纏ってその一団に加わっていった。
 観ていると、まだ出来上がったばかりの演目のプロトタイプって感じで、馬の頭を被って舞っていた青年なんかはまるで慣れていなかった。それでも中々の見物で、飽きもせず眺めていたら、とっくに3時間も過ぎていた。このハプニングに近いリアル感は、やっぱし本場でないと味わえない醍醐味。


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 乾期の割にゃ天候不順の8月はじめ、プリアタン王宮の先の集会所に、グンタ・ブアナ・サリを観に行く。
 ところが、集会所は電灯も消えガラーンとして公演が行われる雰囲気は微塵も感じられなかった。ふと、見ると、少し戻った向かいの歩道側に幕らしきものが張ってあって、ひょっとして、とそっちへ向かうと、果たして、その脇に“ グンタ・ブアナ・サリ ”の看板が立っていた。覗いてみると、露天のかなり狭い場所で、観る分には間近にユリアティ、ビダニーたちの姿が観れるのでそれは却って有難いことだったけど、まだ箒で掃除中で椅子も並べられてなかった。
 ところが、やがて空模様が悪くなってきて、ポツリ、ポツリと雨滴が落ち始め、いつもの屋根のある集会所に戻ることとなった。そこで小娘から2000ルピアで買ったコーラを手に、バケツを下げた売娘たちと一緒にトボトボと元来た道を戻ってゆくと、雨が止み、すると又先っきの狭い露天の一角で演るってことになり、すっかりぬるくなったコーラ瓶を片手に再び売娘たちと戻っていった。
 しかし、見上げると、上空は真っ暗。
 どうみてもまだ降って来そうで、ライトをセッティングしているこのグループのマネージャーらしき髭男に、いつもの屋根のついた場所の方がベターだと進言すると、彼も結局その案に乗り、再々度移動することとなった。小雨の中、缶コーラやボトルの入ったバケツを重そうに下げた売娘たちと辟易しながら歩いて戻っていった。
 それでも、楽器の運搬とセッティングに手間取ったものの、定刻より少し遅れたぐらいで開演。 ユリアティはペンディットを、ビダニーは機(はた)織り踊を舞い、レゴン・クラトンのチョンドンは例の小娘が舞った。
 プリアタンの舞姫たちの世界も少しづつ変化していくのだ。
 プログラムがすべて了って外へ出ると、雨はあがり、ほぼ満月が静かに夜空に輝いていた。

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2017年5月20日 (土)

プリアタン(バリ)の舞娘たち

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 かれこれ来年の5月14日で丁度20年になるという1998年5月14日にインドネシアの首都ジャカルタで発生し、インドネシア中を席巻した“ジャカルタ暴動”。
 主にそのターゲットに中国系の人々および商店・企業を狙い撃ちし、千人以上の死者まで出し、それも普通余り例を見ない小さな少女や老婆までレイプし殺害した暴動だったけど、悪名高いスハルト軍政権力とその眷属輩が背後で糸を引いていたってことのようだ。( 後、インドネシア全土に拡がるにつれて、宗教戦争の様相を呈しはじめた。)
 

 そんな禍々しい事件の余韻も醒めやらぬ7月、バンコク・ドンムアン国際空港から、40分遅れのガルーダ航空B747-400に乗り、両側にコバルト・ブルーに映えた海が拡がるングラ・ライ(デンパサール)国際空港に降り立った。
 インドネシア=イスラムと相違して、唯一例外的に殆どがヒンドゥー教徒の島・バリ故にか、そんな痕跡も燻(くすぶ)りも見えなかった。只、バンコクのパッカーたちに定番の如く聞かされた“若い日本人娘”で溢れかえっているはずの、クタはまだしも、芸能村ウブドの通りという通りは、閑散として静かにプリメリアと椰子の葉が風にそよいでいるばかり。店の前に屯している、本来は日本や欧米の若い娘だと先を争って駆け寄ってくるバリ・ジャン(?)たちも、こっちが冴えない風体のいわゆるバック・パッカー(=貧乏旅行者)野郎だと一瞥を呉れるだけで微動だにすることもなく、所在なさげに物憂い眼差しのまま雑談に余念がなかった。

 インドネシア・ルピアーの暴落で、それまで月10万ルピアーもあれば貯金すら出来ていたのが30万ルピアーは必要になってしまい、暴動の余波で観光客が激減し、閉める店やホテルが増えてしまって、必然的に失業の若者も増えてしまった。バリとは無関係のジャワはじめイスラム・エリアでの暴動・事件でしかないのにもかかわらずえらいとばっちり。尤も、バリでもスハルトおよびその眷属輩の評判は余り良くはなかった。( その辻褄を合わせるように、後になって、ヒンドゥーの島国バリにも、イスラム勢力がやってきてテロを起こし始めた。)
  インフレでどんどん物価が上昇し続け、ウブドで最初に観たバリ・ダンス、セマラ・ラティの“スピリッツ・オブ・バリ”が、最初チケット屋の青年から1万ルピアでチケットを買って、そのままそのチケット屋のバイクの背に乗って会場に到着すると、もう1万5千ルピアに値上がっていた。(当時APAでのレート : 1$=14450ルピア/現在 : 1$=13335ルピア)
 最初安いと思っていた郵便料金なんて、例えば葉書(エアメール)の送料が1000ルピアだったのが、ほんの一ヶ月の間に、6800ルピアに跳ね上がってしまった。こりゃ地元住民たちもたまったものじゃないだろう。

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 ( グンタ・ブアナ・サリは踊手もガムラン器楽奏者も皆若かった。チョンドンの衣裳を纏い微笑んでいる娘こそまだ幼い頃のユリアティ )
 

 これは今でも変わらないようだけど、木曜はセマラ・ラティ、金曜はティルタ・サリ、土曜はグヌン・サリそして月曜はウブド・パレスのサダ・ブダヤがバリ・ダンスを上演。
 当方の本命は、グヌン・サリ。
 土曜7時半開演。
 次から次へと畳みかけてくるように息もつかせぬ演奏と舞に惹き込まれ、終わった頃にはぐったりと神経が疲れてしまった。
 何よりも、レゴンクラトン(ラッサム)のチョンドン(侍女と鳥の二役)のユリアティ Gusti Ayu Sri Yuliathi が白眉。
 当時まだ14歳で、2歳違いの妹ビダニーもティルタ・サリで同じくチョンドンを演っていた。
 二人は舞台で化粧した顔は判別し難いくらい似てるけど、ユリアティが丸顔、ビダニーが瓜実顔なのでそれで判断できる。
 当時、制服姿の下校中の二人と間近で遭遇した時、素ッピンの二人の相貌は、正にその定形通りだった。小麦粉色の、エキゾチックな魅力的な顔立ちだけど、やっぱし、も一人一緒に並んで居た同級生と変わらぬ普通の中学生でもあった。この二人、当時日本人観光客の間でかなり人気があったようで、APA(ウブドの観光情報センター)じゃ彼女たちのプロマイドを売っていたぐらい。


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 当時、チケットは大体1万5千ルピア=約1ドル。
 現在はゼロが一つ増えて10万~7万5千ルピア、約7ドルぐらいってことは、当時と較べて7倍近く値上がったということか。昨今のバリの景気は必ずしも悪いわけじゃないようで、大手ホテルが次々と進出しているらしい。けど、それらがそのまま一般庶民にまで還元されるかといえば、日本(とくに地方)すら中々にそうはなってはいないのと同様ほど遠いのだろう。
 二ヶ月近くウブドに滞在した後半頃、ユリアティはチョンドンを卒業し、以前ウブド・パレスの公開練習で見かけた一人だけクソ真面目に稽古に余念のなかった十歳にも満たないのじゃないかと思われる小さな少女がその跡釜に坐った。
 グンタ・ブアナ・サリという少女・少年たち(日本語のチラシによると、10~17歳)のガムラン演奏と舞のグループの公演でも、ペンディット( 歓迎の舞 )にユリアティが出演し一人存在感を顕わにしてたり、妹のビダニーがチョンドンを舞っていたりしていた。尤も、このグンタ・ブアナ・サリ、現在じゃ、当時の若いメンバーも年を喰っていい歳になり演奏に円熟味も出てきてるらしい。


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 (クリック拡大)

 
 あれは忘れもしない8月1日。
 角にあるダラム・プリ寺院で、殆ど燃え尽きよう(=村落的祭祀)としている大きな張子の黒牛や他の牛の姿を横目に歩いていると、ふと見覚えのあるバケツを手にしたミドル・ティーンの美形の娘と出喰わせ娘の方からニッコリと笑い話しかけてきた。
 いつもプリアタンの公演会場でバケツに入れたドリンク類を売っている顔なじみの娘で、何しろ美人なので一応買うつもりで打診するのだけど、いっかな法外な言値を崩すことないので大抵一緒にいる小さな暴ることをまだ知らない小娘から買うことになったのだけど、祭があると公演は行われないことがあるらしいので、「 今夜グヌン・サリの公演はあるのか」、彼女に尋ねてみると、「ある!」と答えた。公演会場でいつも彼女と連れ立っている別の娘がユリアティの同級生だった。

 その夜、グヌン・サリの公演を観た。
 が、噂には聞いていたユリアティがチョンドンから卒業するかも知れないって事態が本当に起こってしまった。レゴン・クラトンの長い前奏の後、前門から姿を現したのは、見も知らぬチョンドン役の女・・・
 一瞬、両の眼が点になってしまった。
 ・・・・・ おばさん?!
 それも、絵に描いたような中年体形の・・・・
 それがバタバタと、ユリアティやビダニーの如く可憐な蝶が舞うように華麗に舞うのじゃなく、正にバタバタと。
 悪い夢でも見せられている様だった。
 と、暫くして、その背後から、シナリオ通り、緑の衣装に細っそりした身を包んだラッサムとランケサリ役の二人の娘が現れた。
 あっ!、当方、思わず声を洩らした。
 ・・・ ユリアティ。
 衣装の色こそ違え、正にあのユリアティだった。
 救われた思いだったものの、やはり、チョンドンにおばさんは・・・
 そして、その前夜、妹のビダニーがティルタ・サリでチョンドンを舞い、以降定位置となった。

 
 この数年、ユリアティは銀行に勤めながら、グヌン・サリだけじゃなくティルタ・サリでも、レゴン・クラトンを舞っているという話をネットで見たけど、一方のビダニーは、何年か前、ユリアティと同様結婚してしまい、小児科医として医業に専念することとなって舞台からは遠ざかっているという。

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2017年4月24日 (月)

《 青い衣の女 》 バチカン的面目 : コンキスタドール=CIA・MI6

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  「 深い霧に入った途端、気がついたら何百キロも離れた場所に着いていた・・・」


 作者ハビエル・シエラの分身と目されるスペインの神秘主義・超常現象専門雑誌《 ミステリオス 》の記者・カルロスと相棒のカメラマン・チェマが、以前追っていた不可思議な事件――いわゆるテレポーテーション(瞬間移動)。以前観たリチャード・ギア主演の《 プロフェシー 》(2002年)での同じ光景を想い出した。気づいたら、物理的に不可能な長距離を短時間で移動していたのだ。その着いた先が、ウエストバージニア州ポイント・プレザントだった。モスマンと地元で呼ばれる不吉な異生物が絡んできて、数十人の死者を出す橋梁崩壊事件にまで話が及んだ実話を元にしたミステリアスな佳作的小品ホラー映画のプロローグだったか。
 テレポーテーションを題材にした映画って結構ある。
 だけど、現代ばかりじゃなく、随分と昔からこの手の超常現象って人口に膾炙していたようだ。
 

 前回紹介したシエラの《 失われた天使 》(2011年)は、天使の末裔が故郷たる宇宙の果へ戻ってゆく帰還譚だったけど、今回の1998年(2008年改訂版)作品《 青い衣の女 》もやはり天使の末裔が登場する。シエラ、天使と異端審問官がよほど好きなようだ。彼にとって、キリスト教・カトリック世界の正に象徴的存在なのだろう。
 今回も、彼の十八番たるいわゆる“超常現象世界”的面目躍如ってところで、テレポーテーション(瞬間移動)=バイロケーション(同時複数的併存)を媒介にして、近世のバチカン・コンキスタドール(スペイン)、現代のバチカン・CIA(米国権力)の陰謀術数世界を紡ぎ出してゆく。
 

 「 昔の人々は和声を理解し、それを厳密に音楽に応用していただけでなく、それが意識の状態をも変化させ、聖職者や古の奥義を授けられた者たちを現実世界よりも高い領域に触れさせる術も知っていた。・・・・・・古代の賢人たちは、精神の波長を適切なレベルに合わせて“あの世”からのメッセージを受け取っていた。その状態なら、魔術師や神秘家たちはいかなる過去の瞬間をもよみがえらせることができる。言い換えれば、音楽によって脳波の振動数を調整することで、知覚の中枢部分を刺激し、時間を旅することが可能になる。」


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 教会音楽などの“先多声音楽”(プレ・ポリュフォニー)に始原を持ち、バチカンで極秘裏に開発されてきた“クオンタム・アクセス”技術、その結晶としての《 クロノバイザー 》。
 ネットじゃ、《 クロノバイザー 》=“タイム・マシーン”なんて派手なキャッチ・コピーが冠されているけど、実際はどうなんだろう。本当にCIAや英国のMI6やなんかと絡んでいたとなると、随分と焦臭くなってくる。
 そもそもCIAやMI6の連中が、それに不可欠と思われる矜持なんて持ち合わせているだろうか。
 素人でもすぐ既存の様々な陰謀・事件なんかが思い浮かぶはず。
 過去や未来のあるいは進行形の、そもそも彼等の関与が疑われていた事件や都合の悪い事件を、文章を校正し修正するように、自分たちの都合の良いように、修正・改変し、歴史の歪曲=偽造が、場合によっては実に簡単にできたりもするのだから。
 もし、この種の、例えばいわゆる“マインド・コントロール兵器=電磁波兵器”(ひょっとしてまさか同じもの?)なんかを含めて、実際に存在し使われていたとすると、もうとっくに歴史の改変・偽造は為されてきていたってことになりかねない。時代はとっくに、絵に描いたように《1984》世界の真っ直中って訳だ。

 
 そんな科学の粋、その実何とも胡散臭いバチカンの影の結晶=《 クロノバイザー 》的現代と、“先多声音楽”(プレ・ポリュフォニー)から発展したその源基形態=バイロケーション(=テレポーテーション)が頻用(?)されていた遙か近世のコンキスタドール世界(=メキシコ)を、同時進行的に物語は展開してゆく。複数の登場人物・事件の同時進行も含めての、小説・映画における流行の手法であり、シエラの得意の方法でもある。( まさか、シエラ、《 クロノバイザー 》=バイロケーションという主題に合わせて、この手法を採ったのじゃあるまい。) 
 
 コンキスタドールに滅ぼされた後のアステカ(メキシコ)では、当然にキリスト教ローマ・カトリックが権勢を揮うことになり、その宗教的版図を全土に及ばさんと精力的展開していたのだけど、驚いたことに、コンキスタドール的悪辣と暴虐によるのではない、むしろ自発的改宗によってキリスト教化された地域が存在したという。
 恐らくは歴史的事実ではあるのだろうが、それを《 青い衣の聖女 》、生涯スペインから出たこともないマリア・ヘスス・デ・アグレダ( 後に、彼女以外にも何人も存在していたという展開になる )の神秘的霊力(バイロケーション)的布教によるものとして仮構したのは、歴史の間隙を縫うというよりも、如何にも風に当を得たものかも知れない。
 集団帰依=改宗っ訳だけど、実際には、バチカン認定のアステカにおけるキリスト教宣教開始年代以前に、ひょっとしてコロンブス以前のもっと旧い時代にキリスト宣教やそれに類する活動・影響が存在していた可能性も、この物語の中でもちょっと触れられているけど、例えば日本における仏教伝播などと同様十分にあり得たろう。
 そして、現在じゃ、メキシコの9割以上の人々がキリスト教徒となっている押しも押されぬキリスト教(徒)国家となってしまって、これは、この物語のシナリオ的解釈からすると、霊能力修道女たちまでも駆使したバチカン=ローマ・カトリックの周到さの勝利と謂うべきなのだろうか。

 
  《 青い衣の女 》 ハビエル・シエラ 訳=八重樫克彦・由貴子(ナチュラル・スピリット)

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2016年12月31日 (土)

藍凧、青天に襤褸のごとく 『 青い凧 』(1993年)

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 甍と白煙、土埃舞う胡同の路上に子供達が遊び、驢馬車がポクポクと荷を引いてゆく。と、ある民家の門の中に、大八車で運んできた簡素な家具類を運び込む男達。新婚の樹娟と少竜の二人の新居に収めるためだ。その時、何処かから、ラジオのソ連の最高権力者スターリンの死を報じる声が流れてくる。1953年3月5日午後9時50分死亡・・・


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 1953年といえば、“第一次5カ年計画”の発布された新生(人民)中国発展の基礎となった年であり、日本では、京都・舞鶴港に、ようやく中国大陸からの引揚者一行を満載した帰国第一便が到着した年でもある。まだまだ戦争の残煙が色濃く烟(けぶ)っていた時代。
 親族や仲間、近所の親しい住民が集ってのいたって簡素な結婚式で、壁に掲げられた毛沢東の肖像に二人が一礼をし革命歌を唄うシーンって、四年前に中華人民共和国として独立し、ようやく建設の端緒についたという、まだまだ新生中国に夢と希望を抱いた溌剌の象徴なのだろう。
 小学校教師の樹娟(シューチュアン)と図書館司書の少竜(シャオロン)、そしてやがて生まれる鉄頭(大雨)の3人家族の、乾井という胡同を中心に物語が始まる。
 少竜はじめ、3人も伴侶が替わった女主人公、田壮壮監督の母親・于藍(ユイ・ラン)を模したといわれる樹娟の、揺れ動き続ける新中国=人民中国の時代の波に呑まれ、惨澹の憂き目憂き目が、その伴侶の変転の次第を語ってゆく。
 当然に文化大革命の大波にも呑まれ、3番目の党幹部の夫も紅衛兵らによる糾弾の最中凄惨に死を余儀なくされてしまう。因みに、最初の夫・少竜は、“百花斉放・百家争鳴”で有名な整風運動の波に足下を掬われ、強制労働キャンプ送りになってそこで事故死し、2番目の夫・李は、彼等の友人でもあったのが少竜を右派として密告した張本人で、良心の呵責に苛まれ、彼等に誠心誠意尽くし続けたあげく病死してしまう。第5世代監督たちの自家薬籠中的定番手法でもある。


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 以前紹介した《 盗馬賊 》(1985年)も結構面白かったけど、この《 青い凧 》(原題 : 藍風箏)も悪くはない。中国じゃ上映禁止のままという。今更言ってみてもはじまらないけど、社会主義的リアリズムって、社会主義国なら常道だったはずが、いずこのマルクス主義国家(権力)も目の敵にしてあれこれと弾圧に走ってしまう。狭隘なこと限りない。“革命”とは真逆。タイの諺で謂う“(一度)虎の背に乗ると(もう)降りられない”って奴なのだろうか。権力(主義)の慣性と論理だ。
 それでも、ブログ見ると、田壮壮、それなりに作品発表し続けているようだ。
 章子怡(チャン・ツィイー)が3世代・3役演じた《 ジャスミンの花開く 》原題:茉莉花開(2004年)に、彼も制作総指揮ってポジションで関わっていたとは知らなかった。
 この《 青い凧 》、基本、胡同を舞台に描いていて、土の路、土塀、黒瓦屋根、朦々と壁から烟る白煙、群れなし戯れる子供たちの姿や、土の路からアスファルトの道路への時代の変遷も情緒たっぷり。


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 田壮壮の両親は共に映画(俳優・制作)に携わってきた生粋の映画一家らしい。
 ところが驚いたことに、ここでもあの江青の影が禍々しくとぐろを巻いていた。
 母親の于藍が有名俳優・趙丹と共演した《 不屈の人々 》原題 ; 烈火中永生(1965年)に、自分も原作が気に入って撮りたかったのを横取りされたと怨んで、わざわざ撮影所までやってきて難癖をつけたという。2年後、文革の嵐が吹き荒れ始めると、早速、于藍と夫の田方ともどもに“反革命分子”のレッテルを貼られ追及され投獄されてしまう。詳細はつまびらかじゃないけど、そもそも江青の目の上のタンコブ=趙丹と共演したとばっちりもあったかも知れない。田方は獄死したが于藍は生き延びた。が、獄中の身体的トラブルで女優の路を断念し、制作の方に専念することになった。
 その時の体験がこの映画にも反映しているらしい。
 3番目の党幹部の義理の父親の邸まで押しかけてきた紅衛兵の一団に、義理の父親が指弾され持病の心臓病を発症してもそのまま追及集会場か何処かへ連れ去られようとするのを、見かねて止めに入った母親も紅衛兵たちに暴力を揮われ一緒に連れて行かれてしまう。まだ少年の鉄頭も何とか母親を取り返そうとするも多勢に無勢、思い余ってレンガを手に紅衛兵の一人に殴りかかりはするものの直ぐに袋叩きにされ、地面に臥(よこた)わったまま、ふと空を見上げると、木の枝に引っかかった藍い凧が風に小さくなびいていた。原題の《 藍風箏 》の藍って、母親・于藍の藍でもあるのだろう。
 しかし、遺憾なことに、江青の名も、名付けた者が、“青出於藍更勝於藍”から取ったらしい(別の説もある)。彼女の上海女優時代に使っていた“ 藍蘋(あおりんご) ”から発想したのだろうが・・・


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監督 田壮壮
編劇 肖矛
音楽 大友良英
樹娟 呂麗萍
少竜 濮存昕
李  李雪健
制作 北京電影製片廠(1993年)

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2016年12月23日 (金)

インド=ボリウッド 旅先のポストカード

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 旅先の見知らぬ街や路地裏で、ふと見つけた絵葉書(ポストカード)って、それが安っぽく通俗的なものであればあるほど、ポップでキッチュな味わいってものが醸し出されてて、つい手にしてまう。
 その典型がインドの神様絵葉書や映画俳優絵葉書だろう。
 かつてイラストレーター横尾忠則が彼の土俗的サイケデリック世界のモーメントとして好んで駆使してた世界でもある。
 部屋の戸棚の奥のぶ厚い封筒の中に20年近くの歳月( 一瞬ドキッとさせられてしまう言葉だ )を経た、まだまだ残っている何枚かを取り出してみた。


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 1930年生まれの1965年死亡(天然痘が死因)故って訳でもないんだろうけど白黒写真に着色した何ともレトロな仕様で、発行所がボンベイ(デリーの住所も)ってのが、如何にも時代を感じさせてくれる。
 大部以前、グル・ダットと共演した《 バーズ 》(1953年)を紹介したことがあった。男まさりに剣を振りまわす愛らしいお嬢様役を好演してて、表情豊かなこの時代を代表する女優の一人らしい。でも、35歳で病死とは早すぎる。
 グル・ダット監督作品にはこの《 バーズ 》も併せて3回出演してて、この作品だけダット本人と共演。他の2作は、売れっ子男優デヴ・アナンダとの共演。
 まだパキスタンがインドから分離独立する前のパンジャブで生まれ、その後アムリトサルに長く住んでいたようだ。アムリトサルといえば、ヒンドゥーとイスラムの中間的な宗教らしいシーク教の本拠地で、彼女の父親もシーク教の宗教音楽歌手でもあり哲学者でもあったという。
もし長生きしていれば、1984年のアムリトサルにあるシーク教本山にたてこもったシーク教徒過激派をインド軍が襲撃し多くの犠牲者を出した“黄金寺院事件”を経験することになったろう。


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 ラタ・マンゲシュカル

 インド映画の女性プレイバック・シンガーとして有名過ぎるぐらい。
 唄った曲が何万曲というギネス記録すら持っているらしい。
 1927年生まれで、現在も元気で活躍しているようだ。
 彼女の存在を初めて知ったのは、イラン→パキスタンで一緒になったカメラマン氏に教わった時で、イランから西パキスタンの要衝クエッタに入ると早速レコード屋に走り彼女のミュージック・テープを買い求めていた。
 若い頃の彼女を知る訳もない当方だけど、聴かしてもらって、当時60歳代の彼女の歌声って、インド独特の文化的産物だなと感心してしまった。大御所然として悪くはないのだけれど、やっぱしも少し若いアルカ・ヤグニクの方が声が艶やか。
 
 1960年代、彼女は男性歌手マダン・モハンとコンビを組んでヒットを飛ばしていたらしい。マダン・モハンは中東イラク・クルディスタンのエルビル生まれのインド人で、7歳ぐらいの時家族と一緒にパンジャブに戻ってきたという。ガザール(宗教音楽)歌手であり、作曲家、音楽監督でもあって、シャールーク・カーン&プリティー・ジンタ主演の《 ベール・ザーラ 》(2004年)でも、ラータ&マダンと同世代の監督・プロデューサーのヤシュ・チョプラの思い入れだったのか、30年前に亡くなったマダン・モハンの曲をラタ・マンゲシュカルと他の男性歌手とのコンビで唄わせていて、中々雰囲気があって良かった。その音楽だけのメイキング映像が別途一枚、映画のDVDに封入されている入れ込みよう。
因みに、モハン、クルド育ちといってもイスラムじゃなく、ヒンドゥーらしい。


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 シュリ・デヴィ
 
 本物のボンベイの路上生活少年少女たちを主人公にしたミーラー・ナイール《 サラーム・ボンベイ 》(1988年)の映画館の場面で、少年たちが画面に映し出された人気女優のダンス・シーンに合わせて客席で踊り出すシーンがあった。その銀幕上でインド中を席巻した彼女の代名詞ともなっていたらしい“ハワ、ハワイー”を踊っていた女優こそが、シュリ・デヴィだった。彼女の名と姿を日本国内でマイナー・ヒットしていたその映画で初めて知った。
 劇中での歌や踊りって、何もインド映画だけのものじゃなく、邦画界も嘗ては東映の時代劇なんかもやっていたのはレンタル屋で確認できるだろう。そういえば、相当昔、どこぞの名画座で、高倉健・三国連太郎・北大路欣也・小林稔侍なんかが、埃っぽいスラム街で、ハリウッド映画を標榜したらしい歌と踊りのシーンがはじまり、マジすか!と暗い客席で両の眼が点になったのを記憶している。深作欣二監督の《 狼と豚と人間 》(1964年)だった。 
 
 1963年、南インド・タルミナドゥー州生れ。
 小さな頃から映画界に入り、ローテイーンの頃にはタミルや他の南インド諸州の映画に出演し、ブロックバスター・ヒットした有名男優ジータンドラと共演した《 ヒマトワラー 》(1983年)で、本格的なボリウッド(ヒンディー映画)・デビューを果たしたってことらしい。
 彼女の名を不動のものにしたのは、やっぱり1989年の《 チャンドニィー 》のようだ。
 ヒット・メーカーのヤシュ・チョプラが監督し、得意のダンスも人気を博した、80年代を代表する映画の一つともいわれているらしい。
 パキスタンはペシャワールの、もうなくなったが90年代初頭まだ営業していた《カイバル・ホテル》に泊まっていた日本人娘が、シュリ・デヴィの大ファンで、わざわざレンタル屋でその《 チャンドニィー 》のビデオ(当時はカセット式)を借りて、旧市のバルーチだったかパシュトンだったか忘れてしまったがその部族専用宿に泊まっていた長期滞在の日本人の部屋でみんなで観たことがあった。“チャンドニィー、オ・メレ・チャンドニィー”と唄いながら画面のシュリ・デヴィと一緒に踊り出してのを覚えている。

 2012年に、《English Vinglish》(邦題 マダム・イン・ニューヨーク)で、15年ぶりにカンバック。


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